日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:伊藤博文

東京の玄関口・・・東京駅。
その丸の内南口券売機前の床面に、六角形の小さなタイルが埋め込まれています。
まさに、この場所で・・・1921年11月4日・・・

「この国賊・・・!!」

現職の総理大臣であった原敬が暗殺されました。
犯人は、鉄道職員の中岡艮一・・・18歳の青年でした。
中岡の凶行で命を落とした原敬は、憲政史上、初めて爵位を持たない平民宰相として総理大臣の地位に付き、初の本格的政党内閣を樹立した人物です。
明治維新から続く藩閥政治から、国民に基盤を置いた政党政治へと基盤を動かしました。
平民のために尽力した原敬がなぜ暗殺されなければならなかったのでしょうか??

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1856年2月9日、原敬は、陸奥国岩手郡本宮村(現:岩手県盛岡市本宮)に生れました。
生家は、盛岡藩の家老を輩出するほどの名門の武家でしたが、1868年、盛岡藩が戊辰戦争で旧幕府側に付き敗戦すると、朝敵として新政府軍に賠償金を支払うことに。
それをねん出するために、原家の家禄は1/10までに減少し、家や土地を売却しなければならなくなりました。
生活が苦しくなる中、1871年、原は、学問で身を立てるために15歳で上京。
英語の私塾に入ったものの、すぐに授業料が払えなくなり私塾を退学。
しかし、原は
「自分は餓死したとしても、人から金銭の援助は受けたくない!
 働いて自活しながら、学問を続ける方法があると思うから、それを考えようではないか!!」
苦境に立たされてもそれにくじけない強い心を持っていました。
選んだ学校は、神学校でした。
教会の運営で食費や宿泊費が無料だったからです。
原は、フランス人神父の家に身を寄せ、布教活動を手伝いながら、そこでフランス語を習得します。
7人兄弟の2男だった原敬が、実家から分家し、士族から平民となったのはこの頃です。
原は、ここからたゆまぬ努力を重ね、総理大臣にまで上り詰めていくのです。

その足掛かりとなったのが、23歳で郵便報知新聞社(元:報知新聞社)に入社したことです。
習得したフランス語を活かし、翻訳の仕事に従事します。
やがて記者として、自ら記事を書くようになった原は、ある人物の同行取材を任されます。
長州出身で明治維新の元勲のひとり・・・井上馨です。
井上は、原の語学力の高さを認め、外務省にヘッドハンティングします。
その後、原は、農商務省参事官などを務めるなど、官僚として評価を得ていきます。
そんな原に、大きな影響を与えたのが、初代内閣総理大臣となった伊藤博文です。
その政治手腕に感銘を受ける中で、伊藤が抱く政党政治への思いを知ります。

当時の伊藤の考えとは・・・??
伊藤博文は、長州出身で藩閥ですが、立憲政治を定着させる方法を考えていました。
1885年、44歳の時に初代内閣総理大臣に就任します。
総理大臣になってからは、政府ー議会ー国民がどうつながっていくか??考えていました。
まとまれるものとして、政党の必要性を考えていくのです。
政党政治を目指す伊藤は、1900年、立憲政友会を結党。
才能を買っていた原を、その中心メンバーに据えました。
政治家の道を進むことになった原は、44歳で立憲政友会の初代幹事長、第4次伊藤内閣では逓信大臣として初入閣を果たしました。
その後、内務大臣を歴任するなど、政界でもその高い能力を発揮していった原に、大命が下ったのは1918年のことでした。
米の価格が急騰したことで、米の取引所などが襲撃される米騒動が日本各地で発生しました。
その責任をとり、寺内正毅内閣が総辞職。
この難局に、立憲政友会総裁となっていた原が、次期総理大臣に指名されたのです。

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9月27日、第19代内閣総理大臣に就任。
憲政史上初の平民宰相の誕生でした。
この時、原敬62歳。
原は、政党政治を目指すべく、外務と陸海軍以外の閣僚全てを立憲政友会から選出し、藩閥組を一掃、本格的な政党内閣を組織しました。
公家でも、薩長出身でもない平民宰相を、世間は歓迎しました。

原は、賊軍の地・盛岡に生れながらも総理大臣にまでなった人物です。
戊辰戦争の敗者が、明治維新の勝者になった・・・そんな原の存在は、人々を勇気づけました。
藩閥政治側としても、徳川の世に変わる新しい政府を創るためには正当性を持たなければならないと思っていました。
その為、”五箇条の御誓文”には、「すべての人々が夢をもち、それを実現できる社会を創造する」と書かれています。
この明治維新の精神を体現して成功した一番最初の人物が原敬でした。
実際、「平民」という言葉が流行語になるほど国民は強い期待を原に寄せていました。
同じく岩手出身の新渡戸稲造も、
「階級的道徳の時代は終わりをつげ、国民的道徳を行う時代が到来した」とエールを送っています。

総理大臣となった原が最初に行ったのは、
①米騒動の発端となった米の価格の安定でした。
外国米の輸入を拡大することでこれを実現させます。
②教育改革
公立・私立大学の設置を容認し専門学校だった、慶応義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、同志社大学など・・・大学に昇格しました。
高等学校の創設を推進し、5万人以上の若者たちが進学します。
③衆議院議員選挙法の改正
1919年、選挙権の刺客を直接税の納税額10円から3円に引き下げました。
より多くの国民が政治に参加できるようにしました。

国民のために尽力する平民宰相・・・
1921年11月4日金曜日。
東京は気温10度を少し下回る肌寒い日でした。
午前8時ごろ・・・東京・芝公園にあった自宅で目を覚ました原敬は、寝室の布団に腹ばいになって各紙の朝刊を隅々まで読んだのち、応接間でお茶を飲みながら、妻・浅と何気ない会話をして過ごしていました。
普段と変わらない1日の始まりでした。

しかし、この日、原を暗殺することになる中岡艮一の朝は・・・??
東京巣鴨にあった自宅で、仕事が休みなのに早く起き、最期になるかもしれない家族との朝食を済ませました。
そして、カバンの中に刃渡り5寸の担当を忍ばせました。
中岡は、前日の新聞で原がこの日、東京駅から夜7時30分発の急行列車で京都に向かうことを知り、そこで原を襲うつもりでいました。
大塚駅の鉄道職員だった中岡は、家を出る際に母親に告げました。

「今日の休みは、友達と遊ぶ」by中岡

「今夜のおかずは鮭よ」by母

母から電車賃として14銭をもらった中岡・・・

午前10時ごろ、芝公園の自宅を出た原は、立憲政友会本部へ。
翌日京都で開かれる党の近畿大会に出席するためスピーチ原稿を確認します。
党本部にいたのもつかの間、原は皇居に向かいます。
大正天皇に拝謁し、毎月恒例の政務報告をすることになっていたからです。

一方、浅草にやってきた中岡は、街をブラブラ・・・昼食に肉飯を食べ、甘味処ではあんみつを味わいました。

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仕事を済ませた原は、京都に向かう支度をするため一旦自宅に戻ると、あわただしく夕食を済ませて支度をしました。
「今夜は冷えそうですのでこれを」by浅
「必要ない、京は随分と温かいからな」by原
この時、妻・浅の言うとおりに厚手のオーバーコートを着て行ったなら命を落とすことはなかったのでは??と言われています。

同じ頃、中岡はすでに東京駅の待合にいました。
原が乗るのは夜7時30分発の列車です。
中岡が2時間以上も前に東京駅に来たのには理由がありました。
中岡は、これまでに3度、原の暗殺を計画。
①10月2日上野駅
②10月9日立川駅
③10月24日東京駅

しかし、原の到着時刻が予定よりずれたりしたことで、失敗に終わっていました。

「これだけの余裕があれば大丈夫だろう」by中岡

午後7時ごろ・・・自宅を出た原が東京駅に到着します。
待合室から切符売り場の前を通過する原の姿を中岡は見ていました。

「原はきっと駅長室に行くはずだ
 そのあとを狙おう・・・」by中岡

中岡の予測通り、原は駅長室へ。
応接で列車の発車時刻まで待ちます。
その間、中岡は駅長室後方の太い柱の後ろに身を潜め、機を伺います。
そして・・・午後7時25分。
原は、駅長らと談笑しながら列車が出るホームに向かいました。

「東京駅には一日どれくらいの人が乗り降りするのですか?
 一日の収益はどのくらいでしょう?」by原

これが、原の最期の言葉となりました。

「この国賊!!」by中岡

一瞬の出来事でした。
中岡は、東京駅で原の警護に当たっていた日比谷警察署の警察官によって取り押さえられました。
警察が警護していたにもかかわらず、防げなかったのでしょうか??
要因①東京駅
当時の東京駅は、まだ開業したばかりで、通勤客だけでなく見物人もたくさんいました。
丸の内南口で、1日約2万人の乗降客がありました。
この日は金曜日の夜・・・人混みが多かったと考えられます。
東京駅の人ごみに紛れてしまい、警察が犯行に気付くのが遅れたのです。
要因②警護体制
総理大臣には多くの警察官が警護につくことが慣例となっていたため、原も警察官の警護がついたのですが・・・
「平民宰相なはずなのに、今までのように警察官を警護につけるのか!」
そう、新聞が批判!!
以来、原は警護嫌いとなり、警察もその意をくんだのか、事件当日の警護はわずか7人。
しかも、彼らは原から離れてついていました。
犯行現場となった東京駅が混雑していたうえに、警護の人数が少なく原から離れていたことで犯行を未然に防げなかったのです。
駅長室に担ぎ込まれた原は、テーブルの上に寝かされ応急手当てがなされました。
その際、着付けにと赤ワインを口に含ませますが、反応はありません。
刺し傷は右肺から心臓にまで達していました。
襲撃されていた際に着用していた衣服が、岩手県盛岡市にある原敬記念館に残されています。
ワイシャツについた血痕、衿には着付け具するの代わりに使われた赤ワインのシミが・・・
生々しく、事件の凄惨さが伝わってきます。

午後7時40分・・・
事件発生からおよそ20分。
原のかかりつけ医が到着し、手当に当たりますが・・・当時はまだ救急車がなく、現場で出来ることは知れていました。
事件の報せを受け、妻・浅も駆け付けます。
気丈にも涙をこらえ、傷口を洗うなど看護に務めたといいます。
しかし・・・午後7時50分。
第19代内閣総理大臣・原敬・死去。

原敬・・・65歳でした。

突然命を奪われた平民宰相・原敬。
現職総理大臣の命を奪った犯人は、18歳の青年でした。
大塚駅に勤務していた中岡艮一・・・どうして凶行に及んだのでしょうか??
中岡艮一は、抵抗することなく東京駅前の派出所に連行されます。

「名前は??」
「土佐の士族・中岡だ!!」by中岡

1903年、中岡艮一は栃木県で生まれました。
父親は、旧土佐藩士。
土佐藩は、坂本龍馬を輩出するなど、大政奉還や明治維新で重要な働きをした藩です。
その誇りを父親から強く受け継いだ中岡は、学問を学び、優秀な成績を治めますが、父親が病気になったことで高等小学校を中退し、やむなく印刷会社で住み込みで働きます。
その後、父親が亡くなり、東京巣鴨の小さな家で、母親・妹・弟の4人暮らしでした。
レールのポイントを変える職人である転轍手となり、大塚駅で勤務することになったのは、事件を起こす年の春のことでした。
担当の日は、朝8時から翌朝8時までの24時間勤務でした。
この間、眠れるのは3時間だけという激務でした。
日給は、50銭の本給と徹夜手当を併せて95銭5厘・・・月収にして現在の15万円ほどでした。
楽しみと言えば、映画の脚本を書き、応募することぐらいでした。
そんな中岡が、どうして原を暗殺したのでしょうか??
事件現場となった東京駅の銘板には、こう書かれています。

”犯人は原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行に及んだと供述”

中岡が、原の政治に対して不満を抱いていたというのです。
実は原は、平民宰相として米価の安定・高等教育の推進・選挙権の拡大など、国民の側に立った政治を行ってきましたが・・・次第に国民から不信を買う用になっていました。
きっかけは、野党が人気取りのため25歳以上の男子なら誰でも選挙できる男子普通選挙の実現を訴えたことでした。
これを受け、男子普通選挙運動が過熱します。
日比谷公園で行われた国民大会の参加者は、1万人に上りました。
しかし原は・・・「男子普通選挙はまだ時期尚早だ、もう少し機が熟してからでいい」
選挙権の拡大には賛成だった原でしたが、政治について知識のない人たちが急に選挙権を持ってもかえって政治の混乱を招くと考えていたのです。
宗とは知らない民衆は、望んでいた男子普通選挙を認めない原に、
「平民宰相に裏切られた!!」
と、大きな反感を抱くようになります。
さらに、第1次世界大戦後の恐慌で株式市場が暴落。
経済不況は深刻さを増し、庶民は厳しい暮らしを強いられました。
そんな中、1920年2月5日、原は、警察と憲兵を出動させます。
官営の八幡製鉄所の職工1万3000人が職場の改善を求めストライキを挙行、数千の職工が溶鉱炉を襲撃しようと騒乱状態となったためでした。
騒動は、250人近い職工が解雇、労働組合が壊滅状態となったことで終息したのですが・・・原の強硬な姿勢に批判が高まりました。
マスコミからは「官僚以上の傍若無人の態度」と批判されます。
原はリアリストで、ストイックな性格でした。
それは、国民からすれば厳しいという印象がありました。
しかし、それは政治家としては非常に誠実な態度でした。
原の行動は理解されず、国の舵取りが出来ないのは総理大臣の責任だとして新聞や雑誌から叩かれたのです。
そうした偏った報道を、中岡も目にしていました。
そして、いつしか原を、民衆の敵、悪の権化、国賊と考えるようになったのです。
世間の原への不満も高まります。
男子普通選挙の実現を求める人々が、原の自宅へ押しかけ、抗議の声をあげます。
立憲政友会本部が放火によって全焼。
外相官邸で行われた夜会では爆発騒ぎが起きました。
原の身にも危険が及びます。
殺害予告などの脅迫文が次々と来るようになります。

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そんな中、原内閣への不信感を増幅させることが起きます。
立憲政友会に南満州鉄道からの不正な選挙資金提供疑惑がかけられたのです。
”満鉄疑獄事件”・・・これによる政治家の逮捕者は出ませんでしたが、格好のネタとして新聞などで連日取り上げられました。
さらに、禁止されていたアヘンの密売がよりによって日本の植民地行政を担当する拓殖局長官の指図で行われているという疑惑まで浮上します。
長官の古賀廉造は、原が重用してきた旧友でした。
古賀は無実を主張・・・辞職するも、様々な憶測が報じられました。
満鉄疑獄事件に、アヘン密売疑惑・・・政治腐敗に対する行き過ぎた報道が土佐士族の生まれという中岡の誇りに火をつけます。
中岡は、坂本龍馬などの維新の志士に憧れ、自分も世を正したいという思いを日頃から抱いていたのです。

「多くの国民が怒りを爆発させているのに、誰もが口だけで行動を起こさない!!
 ならば、この土佐の士族中岡が、国賊の原を討つ!!」

新聞などの報道の影響で、平民宰相・原への不満を募らせた中岡は、土佐の士族という誇りが使命感へと変わり、凶行に及んだと言われています。

原敬暗殺事件の黒幕・・・
中岡の動機は、平民宰相・原の政治に対する不満でした。
しかし、その背後には黒幕がいたのではないかという説もあります。
事件の黒幕の一人と言われたのが、中岡が務める大塚駅の助役・橋本栄五郎です。
橋本は、日頃から原政権に対する不満をあらわにしていました。
それを中岡は聞いていました。
暗殺に及んだきっかけとなったのが、事件の1か月前の会話でした。

「何が平民宰相だ!ちっとも俺たちのためになってねえじゃねえか!
 今の日本には、武士道精神が失われた!
 腹を切るというが、実際に腹を切った例なんかねえんだ!」by橋本

「橋本助役、私が原を斬って見せます!」by中岡

腹と原の間違い??
橋本は殺人をけしかけた容疑で逮捕され、裁判にかけられますが、証拠がなく早々に釈放されます。

事件の黒幕ではないかと言われた人物はもう1人・・・
国粋主義を掲げる「玄洋社」の総帥・頭山満です。
玄洋社は、1881年に旧福岡藩士を中心とする政治結社です。
アジア諸国の独立を支援し、それらの国と同盟を結ぶことで、西洋列強に対抗しようという大アジア主義を掲げていました。
どうして黒幕として頭山の名が挙がったのでしょうか?
ひとつには、頭山たちにとって原が邪魔な存在だったからです。
第1次世界大戦後、世界に軍縮の機運が高まります。
原もこれを受け、軍備予算の削減を決めるなど、軍部の力を弱める軍縮を進めて行きました。
さらに・・・日本は東アジア最大の軍事国家であり、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦後と、10年に一度大きな戦争をしていました。
そして、原以前の総理大臣の過半数は軍人でした。
日本は世界の国際協調からすると、最も警戒すべき相手でした。
そこに、平民宰相が出てきた・・・そこには大きな意味がありました。
そして、それに原も乗っていく形で国際協調をして世界と手を組み、中国やシベリアに対して領土的な野心がないということを明確に宣言します。
様々なメディアに対して日本の国際協調の方針を発信していました。
そうした原の政策が、日本の軍事力によって大アジア主義の実現を目指す頭山たちの考えとそぐわなかったと言われています。
もうひとつの理由は・・・頭山と中岡の関係です。
事件後に中岡が頭山を頼ったことから、2人は以前から関係があったのではないかと推測され、原の存在が邪魔だった頭山たちが中岡に事件を起こさせたのではないかという黒幕説が浮上したのです。
事件から1年後、検察側が中岡の死刑を求刑。
下された判決は・・・
「中岡艮一を無期懲役に処す」

黒幕説については、様々な憶測が当時からありました。
ただ、公判の結果は中岡の単独犯と結論が出ました。
この時の公判の資料が法務省大審院の火災によって現在まで残っていません。

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無期懲役が下された中岡でしたが、3度の恩赦によって11年3カ月に減刑。
刑期を終えた中岡は、陸軍に身を置くなどして太平洋戦争の終戦を迎え、77歳まで生きたのです。

原敬の死の波紋
原敬は、脅迫状が多く届いていたこともあって、遺言状を認めていました。
そこには・・・
「葬儀は生まれ故郷の盛岡で質素に行うこと」
遺言通り、事件から3日後の1921年11月7日、原の棺は上野発の急行列車に乗せられ、盛岡へと向かいます。
盛岡駅から原の別邸迄の沿道には、当時の盛岡市民の人口とほぼ同じ、およそ3万人が見送ろうと集まりました。
多くの人々が、平民宰相の死を悼む中、葬儀はしめやかに営まれました。
原の死後、立憲政友会が分裂するなど、政党政治の勢いも弱まっていきます。
そして、事件から15年・・・青年将校たちによる2.26事件が発生。
日本は、軍事色を強めていったのです。

原敬が生きていれば、軍事主義的な時代に進むことはなかったのではないかと当時から言われていました。
ただ実際には、国際政治の中で変わっていきます。
なにより原自身が、自分の後継者を育てずに命を失ったことは、日本の政党政治、近代の歴史にとって大きな悲劇でした。

大きな波紋を呼んだ現職総理大臣の暗殺事件・・・平民宰相と呼ばれた原敬は、遺言状にこうも書いていました。

「死後、位階勲等の陞叙を受けないようにしてほしい」

最期まで平民でいたいのだと・・・。

岩手県盛岡市にある大慈寺・・・原敬は、今、妻の浅と共にここに眠っています。
墓碑に刻まれたのは名前だけ・・・これもまた原敬の遺言でした。

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感想(1件)

外務省・・・その中庭に、歴代外務大臣の中でただひとり・・・後進達の仕事を見守っている銅像があります。
陸奥宗光・・・日本外交の礎を築いた人物です。
明治時代、日本には大きな課題がありました。
幕末に、欧米列強と結んだ不平等条約を改正し、文明国の一員として認められること・・・
しかし、歴代外相の交渉は思うように進展しませんでした。

明治25年に外務大臣となった陸奥は、列強の中心だったイギリスとの条約改正に挑みます。

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1844年、陸奥宗光は、徳川御三家・紀州藩の勘定奉行の子として生まれました。
学色豊かな父のもとでの何不自由ない生活・・・。
しかし、それは9歳の時に突如終わりを告げました。
1852年、父がお家騒動に巻き込まれ失脚!!
同じ頃、日本の大きな転換期を迎えていました。
1853年、黒船来航。
アメリカの圧力を前に、幕府は開国へと舵を切り、欧米列強との間で不平等条約の締結を余儀なくされました。
幕府の弱腰外交に国論は沸騰!!
天皇を尊び、外国人を排斥せよとの尊王攘夷運動のうねりが日本中を席巻しました。
そんな中、陸奥は、自らの才覚だけを武器に、動乱の世を起きていくことを決意します。
和歌山を離れ、志士活動に身を投じます。
そして20歳の頃、生涯にわたり影響を受ける人物と出会います。
土佐脱藩浪士・坂本龍馬です。
弁舌が立ち、才気あふれる陸奥を、龍馬は大いに気に入ります。
陸奥にとって、藩や身分から自由に振る舞う龍馬の存在は、目指すべき目標となりました。

1867年、陸奥は龍馬の創設した海援隊に参加。
この年、陸奥は龍馬に1通の意見書「商方之愚案」を提出しました。

”海援隊に西洋の同盟商方、コンペニー、コンメンスを導入する”

集団が商取引を行うこと・・・商社です。
当時翻訳されていた西洋の経済書を参考に書き上げたこの意見書を、龍馬は大いに評価し、海援隊の商事部門を任されます。
陸奥は、長崎でオランダ商人との交渉に当たり、エンフィールド銃・・・1300丁もの調達に成功しています。
陸奥は、龍馬の懐刀という存在に成長し、共に未来を語ら得る同志と目されるようになります。
龍馬が陸奥に宛てた書簡が残されています。

”また世界の話もできるでしょうか
 この頃、面白い話もおかしい話も実に山をなしております”

しかし、この書簡を記したわずか8日後・・・1867年11月15日、坂本龍馬、京で暗殺!!
わずか4年にすぎませんでしたが、龍馬との交流は陸奥を次のステージに導きます。

龍馬の死から1年後の1868年、薩摩や長州を中心とする明治政府が成立します。
陸奥は、新政府で大阪府権判事、摂津県知事などを歴任。
海援隊で身につけた商才や交渉力を武器に、治水や税制の近代化に腕を振るいました。
この頃、陸奥が親交を深めた人物が・・・兵庫県知事を務めていた長州出身の伊藤俊輔・・・後の伊藤博文です。
二人は、すっかり意気投合!!
伊藤の家に泊り、国家の将来について夜通し語ることもありました。
しかし、伊藤と身近に接するうちに、陸奥は藩閥の後ろ盾を持たない自らの限界に直面しました。

1871年、伊藤は岩倉使節団の一員に抜擢され、欧米列強を歴訪。
実力者岩倉具視や大久保利通らの信頼を得て、着実に政府中枢の道へと登っていきました。
一方、陸奥に与えられたのは、大蔵省の一役人の地位。
中央政府に職を得たものの、藩閥出身者より一段低い待遇に不満をため込んでいきました。

陸奥の意見書「日本人」(明治7年)
「西は薩摩から、東は蝦夷まですべての日本人に国への権利と義務がある
  
 独りこれを政府、すなわち薩長等の人に任せるべきではない」

藩閥出身者に才能面では引けを取らない自分は、もっと重く用いられるべきだ・・・!!
強烈な自己主張を政府にたたきつけ、陸奥は大蔵省辞職に踏み切りました。
将来への展望が開けず、焦りを募らせる中、陸奥はある事件にかかわってしまいます。
1877年、西南戦争・・・西郷隆盛をいただく薩摩の不平士族が決起しました。
これに呼応し、反政府グループによるクーデター計画が動き出しました。
陸奥は当時、元老院に務めていましたが、知人から聞いたその計画を政府に知らせず、かえってそそのかしていきます。
積極的に反乱に加わる気はなかったものの、万が一、クーデターが成功した場合、乗り遅れないという思いもありました。
しかし、西南戦争は西郷の敗北に終わり、クーデターは失敗に終わりました。
陸奥も逮捕され、1878年、山形監獄に収監されました。
時に35歳・・・陸奥にとって大きな挫折でした。

陸奥が獄中で着た囚人服が残されています。
びっしりと描きつけられているのは、自ら作った漢詩。

”人生の行路は 幾重にも連なる山のように険しい
 
 旅の宿で過ごす一夜 恨めしい気持ちには限りがない”

しかし、与えられた獄中の時間を、陸奥は無駄にはしませんでした。
西洋の政治思想書や法律書、歴史書などを大量に送ってもらい、1日12時間以上読みふけりました。
この先の日本で、いかなる役割を果たすべきか??
獄中での施策の時は、4年半に及びました。

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1883年、陸奥は5年の刑期を半年短縮され出獄しました。
背景には、参議として政府の中枢にいた伊藤の働きかけがありました。
伊藤は、陸奥の才能を認め、共に政府で働いてほしいと考えていました。
伊藤が陸奥に期待した役割は、持ち前の交渉力を国益に活かせる外交でした。

陸奥は、特命全権公使としてアメリカに派遣されました。
この時、生涯のテーマとなり条約改正問題に直面します。
当時、日本が諸外国と結んでいたのが不平等条約でした。
そこには3つの問題点がありました。

①領事裁判権
外国人は、居留地に限って居住や商業活動を認められます。
日本で外国人が犯した罪は、領事が自国の法律で裁きました。
領事は法律の専門家ではないため、不当に外国人に有利な判決が下ることもありました。

②関税自主権がないこと
日本には、輸入品の関税を決める権利がなく、外国の主張する低い税率を飲まされていました。
安い輸入品が大量に入ってくることは、日本の近代産業育成に大きな障害となっていました。
ひとつの国が結んだ条約の有利な条件は、他国も日本に要求出来ました(最恵国待遇)。
近代国家として自立するためには、不平等条約は何としても改正しなければならない・・・!!
歴代の外務大臣は、改正に力を注いできました。
しかし、欧米列強は、議会や法律が整っていない日本は、まだその段階にないと判断。
日本は幕末以来の不平等条約を改正できないでいました。

ワシントンへの着任早々、陸奥は条約改正への足掛かりとなる交渉に取り組むことになります。
メキシコ公使・ロメロが接触してきました。

「メキシコには日本と条約を結ぶ意思がある
 そちらの意向はどうか?」byロメロ

条約締結に積極的なロメロに対し、陸奥はこう告げました。

「日本は、対等条約でなければ締結しないつもりである」by陸奥

陸奥は交渉に当たって、対等条約を前提としました。
引き換えに提示したのは、内地開放でした。
日本国内を自由に通行し、商売ができる内地開放は、諸外国に大きなメリットがありました。
この条件で、メキシコと条約を結ぶことで、欧米列強が追随してくることを狙っていました。

「列強に先んじて領事裁判権撤廃に踏み切るのは心配だ」byロメロ

「それは杞憂に過ぎない
 日本に好意的なアメリカなどは称賛するに違いない」by陸奥

と、巧みに説得します。
日墨修好通商条約締結!!

メキシコ人は、日本で居留地以外に住むことが許されるが、そこでは日本の法律に服することが求められる!!
領事裁判権がなく、一方的な最恵国待遇もない・・・関税についても、メキシコと対等な内容で税率が設定されました。
初の対等条約の締結という輝かしい栄光を手に、陸奥は次なるステージに踏み出していきます。

1892年、伊藤博文を首班とする第2次伊藤博文内閣成立!!
陸奥は外務大臣に抜擢されました。
就任早々、陸奥はヨーロッパに派遣していた外交官から報告を受けました。
”ポルトガル政府は、新たな条約について談判を開くため、日本公使が来訪するのを待っているそうです”
もし、ポルトガルに、今までの条約を破棄し、新たな条約を結ぶ意思があるならば、メキシコ同様対等な条約にできるかもしれない・・・
ポルトガルは、ヨーロッパの一員・・・これは大きな一歩となる!!
陸奥は、早速公使をリスボンに派遣して交渉に当たらせます。
ところが・・・現地からもたらされたのは、ポルトガルに新条約締結の意思はないという、全く正反対の報告でした。
一体何があったのでしょうか?
在日イギリス公使が本国に送った報告書からは、交渉の背後で列強が様々な思惑で動いていたことが分かります。
”ポルトガルが新条約で内地開放の特権を独占することは、列強の足並みを乱す
 現にイタリア公使は、本国に要請して、これ以上のポルトガルの行動を思いとどまらせると示唆している”

その後、イタリアだけでなく、フランスも介入したことで、ポルトガルとの交渉は暗礁に乗り上げました。
陸奥は、改めて条約改正の難しさを知ることになります。

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陸奥のもとに予期せぬ知らせが入ります。
ポルトガルと日本の交渉を受けて、イギリスが条約改正に前向きな姿勢を見せ始めたのです。
イギリスとの交渉は、これまでも進展を見せていました。
1889年に大日本帝国憲法発布。
日本の司法制度や法律が整備され始めたことは、イギリスでも条約改正の機運を高めていました。
憲法発布の翌年、当時の青木周蔵外務大臣は、関税には手をつけず、内地解放と引き換えに領事裁判権を撤廃と、イギリスからもいい感触を得ていました。
ところが、正式な交渉に臨む前、来日していたロシア皇太子が警備の警官に襲われるという大津事件が発生!!
青木が責任を取って外相を辞任したことで、交渉は打ち切りとなっていました。

そのイギリスが、再び条約改正に前向きになった!!
どのような戦術で交渉に臨むべきか??
段階的改正??それとも??対等条約??

大きなきっかけとなったのは、1886年のノルマントン号事件でした。
難破したイギリス船からイギリス船員だけ非難し、日本人乗客が全員水死した事件・・・
領事裁判で船長に無罪判決が下されたことで、不平等条約撤廃の世論が高まります。
1889年には、外国に大幅に譲歩をしようとした大隈重信に対する爆弾テロ事件が発生!!
交渉自体が中止に追い込まれていました。

1893年7月5日、陸奥、内閣に条約改正草案を提出
そこには、”両国が互いに同一の基礎をもって成り立つ対等条約である”と記されていました。
陸奥の選択は、対等条約を掲げることでした。
しかし、この大胆な路線変更は、政府の中で論議を呼びます。
文部大臣の井上毅は、3日後の閣議で陸奥にかみつきます。

「対等と言っても、税の部分については日英同一にはならないはずだ
 それを対等条約を称するのは、実態にそぐわない
 誇大な表現は有害無益ではないか」by井上毅

陸奥も即座に反論します。

「西洋諸国の条約でも、特定の物品について交渉で税率を決める例はあるが、それは対等でないことを意味しない
 数年後に発行する対等条約と、過渡時代のための条約、諸君はどちらを欲するのか?」by陸奥

一時的な過渡的な不十分な案で行くのか?
それとも対等な条約を目指すのか??
対等をプラスのシンボルにしました。

こうして陸奥は、政府内を説得した上で、元外相・青木周蔵を交渉役に任命し、イギリスでの事前交渉に臨ませました。
ところが、思わぬ壁が立ちはだかります。
国内では当時、外国人への暴行や侮辱が多発し!!
内地開放によって、外国人が自由に往来することへの国民の恐怖は、陸奥の予想をはるかに超えていました。

こうした国民感情に応じて、議会では外国への強硬政策を唱える対外硬派が勢力を拡大。
条約改正について独自の強硬案を提出するに及びました。
日本の排外感情の高まりに、イギリスは強く反発・・・交渉の中断を表明し始めました。
このままでは、悲願の条約改正が頓挫しかねない・・・陸奥は、議会や国民に強く訴えかけます。

1893年12月29日、自ら演壇に立ち、対外硬派を批判する大演説を行いました。

「外交政策というのは、多くの場合、国民の気性を反映するものであります
 幕府は、鎖国攘夷の気風に影響されて、外国人との接触を制限する方針を執りました。
近年の対外硬派の動きは、維新以来我が国が目指す開国の国是に反するもので、政府には断固としてこれを排斥する責任があるのです!!」

12月30日、これに応じ、首相の伊藤が議会を解散
日本政府として断固立つ決意を示した陸奥と伊藤の姿勢は、イギリスに大きな影響を与えます。

「現在の日本で最も有力な人材はことごとく政府に集中している」

このような強力な政府に対し、

「我々は対等な権利を得、かつ与える様な構成な提案を行ったが、一顧だにしてもらえなかったと言わせるようなことがあれば、日本は完全に排外主義へと統一されてしまうだろう」

1894年4月、イギリスは日本との正式な交渉のテーブルに着きました。
交渉が始まると、陸奥は条件面での交渉はほぼ青木に任せ、その忠告に積的体に従いました。
そして、1894年7月16日、「日米通商修好条約」調印。
この条約で、領事裁判県は撤廃、関税自主権は持ち越しとなりました。
対等を掲げたものの、結果的には段階的改正にとどまりました。
しかし、陸奥の結んだ新条約は、条約改正の歴史に大きな風穴を開けました。
その後、他の欧米諸国とも改正条約を調印。
そして、1911年には関税自主権を回復!!
日本は、条約の上で列強と対等の地位を獲得しました。
幕末の不平等条約から、実に半世紀の道のりでした。

神奈川県大磯・・・晩年の大隈が過ごした別邸が残されています。
国民や議会の強硬意見に外務大臣として対峙し続けた陸奥・・・
その激務は、もともと肺に持病のあった体を確実にむしばんでいました。
晩年、陸奥は、療養生活を送る傍ら、外交の在り方を国民に啓蒙すべく最期の力を振り絞りました。
死の1年前・・・陸奥は、1冊の雑誌を創刊させました。
題して「世界之日本」・・・その第1号の巻頭論説で、陸奥はこう記しています。

「外交を支えるのは武力ではない
 国民外交上の知識である」

国民が、外交に関する知識を持つことこそ重要である・・・
この言葉に、陸奥はどのような思いを込めたのでしょうか??

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2019年4月・・・東京港区で歴史的建造物が出土し、注目を集めました。
高輪築堤・・・これは、日本初の鉄道レールの土台です。
鉄道開通は、明治日本が近代化に向け大きな一歩のたーぬんぐポイントとなります。
この一大事業を実現させたのは、当時新政府の少壮官僚だった伊藤博文と大隈重信です。

東京・築地・・・現在は料亭となっている場所に、明治初頭若き政治家、実業家たちがこぞって集まりました。
人呼んで「築地梁山泊」・・・日本資本主義の父とされる渋沢栄一や、政商・五大友厚らが日夜新政府の改革について議論を戦わせていました。
長州出身の伊藤は、藩士時代にイギリスに留学、藩の通訳として海外と折衝を行うなど卓越な交渉術を身につけていました。
一方大隈は、幕末の日本で最も開明的な肥前出身。
アメリカ人宣教師から英学を学び、優れた財政手腕を発揮していました。
共に、西洋の先進的な文明に触れていた二人は、すぐさま意気投合・・・
新政府の少壮官僚として日本の近代化を目指す盟友となっていました。



明治5年、2人は周囲の反対を押し切って、日本初の鉄道を開通させます。
新政府の実質的指導者・大久保利通は、当初鉄道反対派の筆頭でした。
しかし、開通した鉄道に試乗し、日記にこう記しています。

「実に百聞は一見にしかず
 鉄道の発展なくして 国家の発展はありえない」

大久保からの信頼を得た二人は、富岡製糸場設立など、近代化の施策などを次々と実現。
実質的な政府首脳である参議として国を動かすようになります。

明治11年5月14日・・・政界を大きく揺るがす事件が・・・!!
2人の後ろ盾だった大久保利通が暗殺されたのです。
当時、参議6人のうち、強い影響力を持っていたのが討幕の中心となっていた薩摩、長州出身者・・・薩長藩閥でした。
大久保の後継者となったのは、長州出身の伊藤でした。
時あたかも西洋思想の流入と共に、国民の政治参加という機運が高まりを見せていました。
土佐出身の士族・板垣退助らを中心にした自由民権運動です。
彼等は、新政府に対して建白書を提出、憲法を制定し、国会を開設することで、選挙で選ばれた国民による政治を実現しようとしていました。つまり、立憲政治への道です。

各地で暴動が起きていたうえ、明治12年には運動は、士族から地主、商人へと広がり、政府にとって無視できない状況になっていました。
対応を迫られた政府は、参議たちに各自の意見を提出させ、国の在り方を決める議論を政府主導で行おうとしました。
薩摩出身の参議・黒田清隆は、国会開設は時期尚早だと主張、長州出身の井上馨は、すぐに国会を開けば秩序が乱れ、明治政府の安保を保つことができないとしています。
国会開設はまだ早いという意見が多数を占めました。

伊藤の意見は・・・??
他の参議と同様まだ早いとしながらも、ある特筆すべき特徴がありました。
”今日の政府の役目は過激になる民衆を、順を追って適切に教育し、時間をかけて国民の意識を標準に成長させることだ”

当時の自由民権運動は、知識人はもちろん、多くは食を失った士族など・・・学問のない人たちがいたのは事実でした。
なので、深い考えもなく、今、生活に不満があるから政府を攻撃するという人たちが多かったのです。
そんな人たちが政権を取るようなことになったら、国の政策はめちゃくちゃになると危惧していました。

伊藤は、国民の意識を向上させたうえで、日本に適した憲法と国会を作るべきだと考えていたのです。
この意見に、盟友・大隈も賛同。
2人は国民を啓蒙するための政府機関紙の発行を計画するなど準備を進めていました。
ところが、伊藤の意見書提出から3か月後の明治14年3月・・・
大隈が思いもよらない行動に出ます。
自らの意見書を伊藤に相談なく提出、しかも他の大臣・参議らに見せることないように言い添えていました。
つまり、密奏です。
しかし、これが政府高官の間に漏洩・・・意見書を手にした伊藤は、驚愕し、一言一句を詳細に書き写しました。

そこには、次のように記されていました。
”本年を以て憲法を制定れられ、十六年首を以て初めて開立の期と定められん”
年内の憲法制定と、2年後の国会開設を求めるあまりにも性急な意見でした。
さらに、目指す政治形態も、伊藤が予想だにしないものでした。
”立憲政治とは政党政治の事である
 政党は主義によって争うべきである
 その主義が選挙によって国民過半数の支持を得れば、その政党は政権を獲得する”
大隈が目指していたのは、イギリス流の政党政治でした。
出身地ではなく、政策の内容によって政党を作り、国民に選ばれた政党が内閣を運営する・・・これは、藩閥政治の否定につながるものでした。
大隈の意見書を読んだ伊藤は、以外の急進論についていけないと怒りをあらわにしました。
2日後・・・大隈が伊藤のもとを謝罪に訪れました。
「自分一人の意見を天下に施行する考えはない」
と、抜け駆けの意思を否定したのです。 
立憲政治の実現に向け、政府の団結が求められる今、これ以上事を荒立てるわけにはいかない・・・
伊藤は、大隈の謝罪を受け入れました。
この時点で、伊藤と大隈の信頼関係は修復したかに見えました。

明治14年7月26日・・・伊藤と大隈の運命を一変させる出来事が起きます。
政府高官による汚職が新聞に報じられました。
いわゆる開拓使官有物払い下げ事件です。
事件の中心人物は、薩摩閥のリーダーで、当時北海道開拓使長官の黒田清隆でした。
1000万円以上の税金をかけて建設した工場や倉庫をわずか38万円という安値で部下の役人に作らせた商社に払い下げようとしていました。
各新聞は、黒田をはじめとした薩長藩閥の政治の私物化であると激しく非難!!
藩閥政治を打破するために、一刻も早く国会を開設するべきだという意見が噴出しました。
この事件の収拾を巡って、政局は思わぬ方法へと動き出します。



危機に立たされた黒田が、新聞に情報をリークした人物がいることを問題視し、犯人の名を喧伝し始めました。

「今回の事態は、大隈が板垣退助をはじめとした民権不平派と内通し仕組んだことである」

政府の人間が、あろうことか民間の不平分子と結託し、藩閥打倒の陰謀を企てていると大隈を非難したのです。
政府内では、黒田に同調する意見が拡大・・・情勢は一気に大隈排斥へと傾きます。
さらに、ある人物の行動が、事態をより複雑にしました。
行政官僚の井上毅・・・井上は、薩長藩閥の反大隈官僚を利用して、自らが理想とする憲法を彼等に広めていきます。
それは、プロイセン憲法です。
井上は、ヨーロッパの司法制度を調査する中で、君主権の強いこの憲法こそが天皇をいただく日本に最もふさわしいと考えていました。
その上、憲法制定は、1,2年のうちにするべきだと性急な意見を主張。
藩閥内では、これに賛同する者が続出していました。
藩閥と大隈の対立に、憲法論争が重なってしまったのです。
これは、憲法を重視し、時間をかけて日本流のものを作ろうとする伊藤にとって看過できない問題でした。
しかし、当事者である大隈、黒田から直接話を聞くことはできませんでした。
時あたかも事件直後の7月30日から明治天皇が、北海道・東北巡幸に出発。
これに、大隈と黒田の二人が同行していました。

大隈と藩閥の溝が深まる中、伊藤はどちらを支持するべきか・・・??
大隈を支持する・・・??それとも薩長藩閥に与する・・・??
悩む伊藤に選択の時が迫っていました。

伊藤は決断します。
在京の大臣、参事らを集め、会議を開きました。
会議に列席していた太政大臣・三条実美は、その様子をこう記しています。

”伊藤は他の参議と同様、大隈に憤激している”

会議は、天皇と大隈が東京へ戻り、混乱が起きる前に大隈追放で意見を統一すべきとの結論に至りました。
伊藤の結論は、薩長藩閥に与することでした。

大隈の追放が避けられないと判断した伊藤は、むしろ積極的に加担し、政変を収拾しようと動き出します。
まず、払い下げ問題の処理・・・
黒田ら薩摩閥に対しては、民間だけでなく、政府内からの次第に批判の声が上がり始めていました。
伊藤は、天皇の行幸に同行する黒田を急ぎ帰京させ、払い下げを中止するように説得。
1週間かけて同意を取り付けました。
この結果、黒田の政治力は大きく後退します。

10月11日、いよいよ大隈の処分を行う攻防が始まります。
天皇と大久保が帰還したのです。
当日夜・・・大隈を除く参議、大臣が並び、明治天皇出席のもと御前会議が開かれました。
会議の様子が天皇の側近の書いた日記に克明に残されています。
それによれば・・・

大臣、参議一同は、大隈の罷免を天皇に上奏した
大隈が民間と通じた陰謀を企てているというのだ
ところが天皇は、これに応じなかった

「もしや、薩長参議にて結合して大隈を退けるの儀ならんや
 大隈の儀、確証ありや」by明治天皇

薩長による謀略を疑い、大隈陰謀論の証拠を求めたのです。

大臣をはじめ、伊藤ら参議はこう答えます。

「確たる証拠をそろえることは容易ではございません
 ですが、これまでの大隈の行いから、もう十分わかっていることなのです
 薩長の参議だけでなく、皆、大隈に憤激しております
 薩長のことをお疑いあそばされるようでしたら、内閣が破裂してしまうでしょう」

深夜にまで及ぶ議論の末、天皇は大隈が同意するなら辞任を認めると決断を下しました。
会議の直後、使者が大隈邸を訪れました。
それは他ならない伊藤でした。
大隈はこの時の伊藤の言葉をこう回想しています。

”ただ単純な言葉で、容易ならざることだからとだけ言って、堂梶兵衛男出してくれという”

伊藤は、大隈に辞任の理由をつまびらかにしませんでした。
ただ、大隈にとって、盟友・伊藤からの勧告は、もはや政府の意見が覆ることの見込みがないことを意味していました。
翌日・・・明治14年10月12日、大隈は明治天皇に辞表を提出します。

大隈の辞任とまさに同じ日に、政府から国民へ一つの訓示が出されました。
”国会開設の勅諭”です。
明治23年を期し、議員を召し、国会を開く・・・
9年という準備期間を経て、国会を開設するという。
その理由はこう記されています。

”国の成り立ちは、それぞれの国ごとに異なっている
 憲法は、軽々しく制定していいものではない
 時間をかけて、調査にあたらせる”

これは、ほかならぬ伊藤が草案をまとめたものでした。
日本に適した憲法を、時間をかけて制定するという従来からの伊藤の主張が強く反映されていました。
官有物払い下げに端を発した政治の混乱・・・
終わってみれば、あたかも伊藤が全てのあらすじを書いたように見えました。
後に、人はこれを明治十四年の政変と呼びます。



明治22年2月11日・・・東アジアで初めての憲法・大日本帝国憲法が発布されました。
憲法制定にあたって中心的役割を果たしたのは、伊藤でした。
自らヨーロッパ各国に趣き、1年半にわたる調査を実施。
伊藤が日本に適していると考えたのは、君主権の強いプロイセン憲法でした。
しかし、伊藤はこれを単に模倣するのではなく、日本独自の憲法へと作り変えていきます。
憲法55条・・・ここに伊藤はプロイセン憲法にはない文言を盛り込んでいます。
”国務各大臣は、天皇を輔弼する”
輔弼とは、大臣の天皇への助言を意味します。
これにより天皇は、内閣の意見を聞かずに独断で権限を振るうことはできないとされました。

ところが、その内閣を構成する大臣の規定はどこにも明記されていません。
ここには伊藤のある狙いがありました。
内閣に関する規定を明言しない形の憲法になっているので、将来運用によっては、政党内閣が実現することもあり得る憲法になっています。
現状を見ながら、運用によってイギリス的なものに近づけていこうということがあったのです。
伊藤は、最終的には議会を作ってそこで民意を入れていくと、それが国全体を強くするためには必要だろ考えていました。

伊藤が憲法に込めた願い・・・それは、国民が成熟した上で成り立つ政党政治の実現でした。
憲法発布から9年後の明治31年6月30日・・・伊藤の悲願が成就します。
日本初の政党内閣の誕生です。
内閣は、陸海軍を除くすべての大臣が政党員からなり、首相に任命されたのは、大隈でした。
大隈は、政変後、自ら政党を結成。
議会の過半数を占めるまでに成長させていました。
そんなかつての盟友を首相候補に推挙したのは、ほかならぬ伊藤でした。
大隈内閣成立直前に、伊藤の別荘で撮影された一枚の写真が残されています。
共に、政治の第一線に身を置くようになった二人が目指した国家の形は、奇しくも同じものでした。

2人の歩んだ道が再び交差した時、明治日本は政党政治という新たな段階へと一歩踏み出しました。
共に過ごした築地梁山泊の日々から29年後のことでした。

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明治24年・・・ロシア皇太子ニコライ・・・後の皇帝ニコライ2世の訪日。
奈良訪問は、5月12日、13日の2日間でした。
昼は東大寺、興福寺、法隆寺など、有名寺院を観光。
夜は宿泊する旅館の庭で、仕掛け花火を披露するなど手厚いもてなしが予定されていました。
しかし、この歓迎は実現することなく終わります。
奈良訪問の前日・・・ニコライの身に重大な事件が起きてしまいました。
滋賀県大津で・・・ニコライは、沿道警備に当たっていた警察官に突如襲われ負傷。
世にいう大津事件です。
事件は即座に国際社会が注目する処となりました。
当時のロシアは、ローロッパの大国・・・その陸軍は、世界最強と謳われていました。
日本が対応を誤れば、巨額の賠償金や領土割譲を要求される恐れがありました。
この時、明治政府の中心人物として事態の収拾に当たったのが伊藤博文でした。
伊藤に突き付けられたのは・・・
刑法を曲げて犯人を死刑にすべきか??
しかし、大日本帝国憲法を制定したばかりの日本にとって、これは近代国家としての看板を自ら汚しかねない選択でもありました。

近代日本が初めて直面した外交危機・・・大津事件の実像と伊藤博文の苦渋の決断とは・・・??

大津事件?ロシア皇太子大津遭難 (岩波文庫)

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1891年、日本は空前絶後の大歓迎に沸いていました。
ロシア皇帝ニコライの訪日・・・それは、シベリア鉄道の起工式が行われるウラジオストクに向かう旅の途上で実現したものでした。
明治政府がニコライを国賓として招待し、1年ほど前から準備が進められました。
京都・安養寺・・・ニコライが滞在したホテルの客室が、この寺に移され今も大切に保存されています。
ニコライには、当時京都で評判を呼んだ常盤ホテルの最高級の和室が用意されました。
鶴やクジャクなどが描かれた緊迫の襖絵・・・初めて訪れる日本をニコライは心から楽しみました。
はじめは洋館に泊まる予定でしたが、ニコライのたっての希望で、日本の情緒を味わいたいということで、日本間の方に泊まることとなりました。

ロシアは、東ヨーロッパから極東に至る大国で、当時軍隊の規模は世界最大でした。
さらにこの年、首都サンクトペテルブルクから極東のウラジオストクまでを結ぶシベリア横断鉄道の建設が決定。
ロシアのアジア進出が懸念されていました。
明治政府は、ニコライを歓待することで、ロシアと友好関係を築こうとしていました。
ニコライは、長崎→鹿児島→神戸→京都の各地を訪れ、名勝を楽しみます。
5月11日、滋賀県大津に到着しました。
琵琶湖見学を終えたニコライ一行は京都に向かいました。
そして・・・午後1時50分ごろ旧東海道である大津市京町2丁目にかかったところで事件は起きました。
この時の顛末を、ニコライは日記に記しています。

”私を乗せた人力車は、狭い道路を左へと曲がった
 その時、右のこめかみに強烈な衝撃を覚えた
 振り返ると、醜く顔をしかめた巡査が、両手でサーベルを握って、私に再び襲い掛かろうとしていた
 咄嗟に「貴様、何をするのか!!」と怒鳴り、人力車から舗装道路に飛び降りた
 この変質的な犯人は、尚も私を追いかけ、傷口から流れる血を手で押さえながら、私は一目散に逃げだした”

事件の凄惨さを物語る貴重な資料が今も保管されています。
事件直後、ニコライが応急処置を受けた民家に残されていたもの・・・
ニコライ皇太子が斬られた後、自ら血をぬぐったハンカチです。
ニコライの血の跡がはっきりと残っています。
一命はとりとめたものの、ニコライは頭部に二カ所深い傷を負いました。
そしてもうひとつ・・・犯行に使われたサーベル・・・中身は日本刀の脇差です。
犯行に使われたサーベル・・・刃渡りおよそ58㎝、所々にある刃こぼれは、凶行の際に出来たものと思われます。
目釘には桜の紋章が・・・警察から官給された物品ということを表しています。

ニコライを襲ったのは、よりによって警備に当たっていた滋賀県の巡査・津田三蔵でした。
動機については、ニコライは日本侵略を意図するロシアのスパイだと信じたことや、精神錯乱も疑われましたが、真相は不明です。
すぐさま、大津から東京に電報がもたらされます。
明治政府は大混乱に陥ります。
急遽、閣僚会議が行われ、松方正義総理大臣をはじめ、主だった閣僚が対応策を協議しました。
ロシアから賠償金の請求や、領土の割譲が求められるのではないか??
明治政府始まって以来の外交危機に、誰もが不安を口にしました。
事件当日、政界の実力者・伊藤博文は箱根に逗留していました。
松方は、すぐさま電報を送り、ロシア通でも知られる伊藤の助力を仰ぎます。
自らロシアを視察し、目にした首都サンクトペテルブルクの巨大で壮麗な建築物・・・
さらに、当時世界最強と謳われた陸軍。
伊藤は、ロシアの国力と軍事力を身をもって知っていました。
知らせを聞いた伊藤は、東京へと急ぎました。
深夜1時過ぎに到着すると、皇居に参内・・・明治天皇に謁見しました。
深夜に異例のことでした。
明治天皇は、ニコライを見舞うため、自ら京都に赴く考えでした。
伊藤には、ロシアとの関係が破綻せぬよう、万全の手を打つように命じます。
その後、伊藤は夜通しで閣僚たちと協議をかさねます。
そのまま朝を迎えた5月12日早朝・・・
ニコライが療養している京都に向かう明治天皇を、新橋駅で見送りました。
明治天皇と政府は、異例の皇室外交で事態の収拾を図ろうとしたのです。
明治天皇が、ニコライと面会できたのは、13日でした。
場所は、京都・常盤ホテル!!
この時の明治天皇の様子を、ニコライは記しています。

”午前11時に天皇にお目にかかった
 ご心労のあまり、顔色が悪く、醜く見えるほどやつれていた”

ニコライは、この事件で日本を恨むようなことはないと明治天皇に告げました。

”日本に来てから、いたるところで予想以上の丁寧な歓待を受け、日本国民の温かいもてなしに感謝の意を持っていることは、負傷以前と何ら異なることはありません”

これを知った伊藤と明治政府は、事件発生以来初めてひとまず一安心したといいます。
しかし、ロシア本国の正式な見解はまだ発表されておらず、伊藤博文は更なる対応を迫られることになります。

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ロシア皇太子が極東の島国で襲われたという衝撃的なニュースは、事件翌日の夕方にはヨーロッパ中を駆け巡りました。
第一報がもたらされたロシアでは、大きな混乱が生じていました。

”1万人以上の市民が心配し、王宮を取り囲んだ”
”皇后陛下は気絶”
”犯人は排外主義のサムライか?”

事件を起こした津田三蔵への非難の声は、日本でも異様な高まりを見せました。
山形県のある村では・・・犯人・津田三蔵の姓名を名乗ることを禁じた条例が出来ました。
こうした条例が、遠く離れた東北の一農村で作られているということに、ロシアへの恐怖が国民感情の奥深いところにあったと伺えます。

総理官邸では緊急会議が開かれ、松方正義や伊藤博文らが集まります。
議題の中心は、犯人・津田三蔵の処罰についてです。
当時の法律では、被害者が死亡していなければ”謀殺未遂罪”による”無期徒刑”までが限度でした。
そこで、刑法第116条・・・すなわち、天皇三后皇太子に対して危害を加え、また加えんとしたものは死刑に処す・・・という大逆罪の適用が議題に上ります。
ロシアとの関係悪化を恐れた伊藤をはじめ、出席者全員がこれに賛同し、犯人・津田三蔵は死刑と意見がまとまりました。
会議後、松方総理は現在の最高裁判所に当たる大審院の院長・児島惟謙と面会し、大逆罪適用の方針を伝えました。
すると・・・児島院長は大反発!!

「第116条にある”天皇三后皇太子”なる称号は、我陛下を尊称し、奉る言辞なれば、法律の精神に反する解釈には断じて応ずるを得ず」

法律の精神に反して、第116条を拡大解釈し、津田を死刑にすることはできないと主張したのです。
松方総理は声を荒らげ、本意を迫ります。

「国家存在して初めて法律存在し、国家存続せずんば法律も生命なし
 国家の大事に臨みては 区々の文字論に拘泥せずして国家生存の維持を計るべし」

国家会っての法律だと主張する松方と、司法の正義を守ろうとする児島の会談は、平行線をたどりました。
実はこの時、政府には津田の死刑に固執せざる事情があったことが、後の外務大臣・林董の回顧録に記されています。

”外国皇族に対し、危害を加えんとする者に、刑法116条の制裁を加ふる法律を定むるとを約したる”

公的な記録は残されていませんが、林によれば青木外務大臣と在日ロシア公使ドミトリー・シェービチの間でニコライ皇太子の身に何かあった場合は、刑法116条の大逆罪を適用するという密約があったというのです。
その頃、伊藤はニコライを見舞う明治天皇と合流するべく京都に向かっていました。
この時、伊藤はジレンマに陥っていました。
1889年大日本帝国憲法発布され、明治日本は近代国家として第一歩を踏み出しました。
最大の課題は、列強各国と結んだ不平等条約の改正でした。
井上毅が伊藤に送った書簡には・・・

”日本刑法116条は、外国の君主及び皇族に援引すべからず
 刑法を曲げることあらば、将来永久に刑法を以て外国人を統御する特権を失う”

法律を拡大解釈して津田を死刑にすれば、欧米諸国は日本を近代国家ではないとみなし、条約改正に悪影響を及ぼすというのです。
日本の動向に世界が注目が集まる中、大津事件をどのように使うのか??
伊藤に選択が迫られました。

世界有数の強国ロシア・・・
ここで対応を誤れば、賠償金や領土の割譲を要求されるだろう・・・
最悪の場合、戦争になる可能性も・・・それだけは何としても避けなければ・・・!!
それにロシア公使とは、密約を交わしてしまっている・・・
今更約束は守れないなどと、ロシアにいえようか・・・??
政府の誰もが、死刑しかないという意見・・・中には、過激な意見を言い出す者までいる!!

伊藤の手記によれば、事件の翌日、閣僚の後藤象二郎と陸奥宗光が伊藤にこう進言しています。

「裁判で死刑にするのが難しければ一作ある
 金を当時、刺客を使って犯人を殺し、病死だと発表すれば簡単に済む!!」

これに対し伊藤は答えています。

「そのような無法は許さん!!
 人に語るだけでも恥ずかしいと思え!!」

流石に獄中で暗殺するなどもってのほかだが、やはり津田は死刑にする以外に道はない!!
それには、大逆罪を適用するしかないのか・・・??
 
しかし、児島の主張が正しいことは明白!!
大逆罪の適用は、法律を曲げなくてはできない!!
大日本帝国憲法を発布してまだ二年・・・
あれほど心血注いだ立憲国家への道を、私自身が曲げることになるまいか??
なんとか法律の範囲内で、処理できないものか???

戒厳令を出して軍法会議で裁く、あるいは天皇陛下の緊急勅令による処分という手もあるかもしれない・・・!!
もし、ここで大逆罪を強引に適用すれば、欧米諸国はどう思うのか・・・??
日本は、自ら決めた法律すら守らない、見せかけだけの近代国家だと信頼を失い条約改正にも悪影響を及ぼすかもしれない・・・
別の道を探るべきなのか・・・??

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1891年5月16日、ロシア本国からの情報が伊藤にもたらされました。
ロシア皇帝アレクサンドル3世は、今回の事件に関して日本政府に一切賠償請求を要求しないというのです。
伊藤はすぐさま、駐日ロシア公使シェービチに使いを送ります。
そこで、犯人の処遇についてロシア公使としての意見を求めると、シェービチは・・・

「無期徒刑を以て処するならば、私はロシアと日本の間にどんな重大なことが起きても保証できない」

シェービチの返事を聞いた伊藤は、こう書き残しています。

”死刑にあらざれば、到底この事変の結局を、満足に了すること難かるべしとの意なりしなり”

伊藤が選んだのは、大逆罪の適用でした。
京都御所の重臣会議で大逆罪適用の方針が決定します。
大津地方裁判所から審理が取り上げられ、大逆罪を裁くことのできる大審院で裁ける手続きを薦められました。
伊藤は、松方総理を通じて児島惟謙に、大逆罪を適用し津田を死刑にすると通告しました。
同時に、政府により担当裁判官たちを司法省に呼び出し、大逆罪の適用を説得します。
遂に、裁判官たちは政府の要求い従うことを決めます。
5月19日、場所は、大津地方裁判所のまま、異例の大審院法廷が開かれることとなりました。

ところがこの時、児島惟謙が密かに巻き返しに出ます。
大津へと乗り込み、政府に屈しないよう担当裁判官たちを直に説得して回りました。
児島は、裁判長の堤正己を宿泊先に呼び出しこう語ります。

「今回の裁判は、我が国の法率の威信を決めるものだ
 政府の圧力に屈するのか、司法の独立を守るのか、君たちの判断にかかっている
 熟慮を願いたい」

児島の熱意に圧され、担当裁判官たちは次々と同意しました。
児島の介入を知った明治政府は、慌てて内務大臣・西郷従道を派遣します。
西郷は声を荒らげました。

「ロシアの艦隊が品川沖に現れ、砲撃すれば、日本は壊滅する
 これでは、法律は国家の平和を保つものではなく、国家を破壊するものとなってしまう」

しかし、児島は頑として聞き入れませんでした。

5月27日、午後0時30分・・・
ロシア皇太子ニコライの襲撃犯人・津田三蔵の裁判が始まりました。
争点は、刑法116条・・・すなわち大逆罪を適用し、死刑にするか否かです。

午後6時40分・・・注目の判決が下されました。

”判決 その所為は謀殺未遂の犯罪にして被告三蔵を無期徒刑に処するものなり”

東京で判決を知らされた伊藤らには、もはやなす術はありませんでした。
止む無く結果をロシアに伝えます。
6月3日、ロシアからの返答が届きます。

”判決は、ロシア皇帝陛下はもちろん、一般人民 十分に満足ありたり”

どうしてロシアは判決をすんなり受け入れたのでしょうか?
おそらくニコライの心証が、日本に対してよかったこと・・・日本側のもてなしが効いたようです。
明治天皇のお見舞いも含めて、日本の皇族が事件の解決に奔走、こうした皇族外交が、通常の外交ルートとは違う効果を発揮したのです。
大津事件の直前に、ドイツとロシアの独露再保障条約が切れました。
フランスに同盟相手を乗り換えるのですが、大津事件はその端境期・・・
ヨーロッパで同盟国がないときに、アジアでロシアは戦争を起こしたくなかったのです。

判決から3日後、大逆罪が適用されなかったことを支持する記事が、横浜居留地のイギリス英字新聞・ジャパンウィークリーメールに掲載されました。

”もし、刑法の明文を曲げて無理な解釈を下していれば、日本は世界の信用をさらに大きく失うところだった
 そうならなかったのは幸いである”
  
奇しくも、大津事件の判決は、日本が立憲体制を運用する近代国家であることを示す結果となりました。
判決の2週間後・・・6月11日、児島と偶然顔を合わせた伊藤は冗談交じりにこう語りました。

「裁判官は随分無鉄砲をやるものだ
 しかし、今度は僥倖にも大当たりだ」

僥倖・・・思いがけない幸運だったと伝え、児島と別れた伊藤。。。
大津事件から3年後の1894年7月16日、日英通商航海条約調印。
念願の不平等条約改正への糸口をつかみます。

一等国として世界の仲間入りを目指し、漕ぎ出していくのでした。

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「明治日本を襲った試練 ~伊藤博文とロシア皇太子襲撃事件~」

 

昭和の選択です~~!!
昭和7年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。
世にいう五・一五事件です。
殺害されたのは、首相・犬養毅。
憲政の神様と称された政治家の死によって、戦前の政党政治は終わりをつげ、日本は軍国主義を突き進んでいきます。
どうして犬養は、軍によって殺害されなければならなかったのか・・・??

「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい」by犬養毅

満州事変を起こし、大陸侵略を謀る軍を真っ向から批判した犬養・・・
軍の暴走に歯止めをかけること・・・それは、政治家犬養の生涯の課題でした。
大正元年には憲政擁護運動を掲げ、政党勢力を結集して立ち向かいます。
軍の目論見を打ち砕いたその秘策とは・・・??

そして、首相として直面した満州事変。
犬養は密かに中国に使者を送り、和平交渉を行わせて事態を打開しようとしました。
和平まであと一歩だったと言われる密使外交・・・その真相とは・・・??

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東京・・・慶應義塾大学・・・政治家・犬養毅の原点ともいうべき場所が残されています。
日本初の演説会堂・三田演説館です。
郷里・岡山から上京した犬養は、明治9年慶応義塾に入学しました。
ここで、明治の言論界のリーダー・福沢諭吉と出会い、生涯をかける目標を見出しました。
言論で国を動かす政治家への道・・・!!
福沢は、日本にも西洋流の議会政治が必要だと考え、明治13年慶応義塾で模擬国会を開いています。
26歳の犬養も、弁士としてその演壇に立ちました。
反対論者の発言をことごとく論破していく犬養の姿を同級生は・・・

”颯爽たる風貌は満場を圧し、警句は口をついて出る有様で、既に将来の大宰相となる貫禄があった”

当時、日本はまさに言論の時代へと舵を切ろうとしていました。
自由民権運動の勃興です。
明治14年には板垣退助が自由党を、翌年には、大隈重信が立憲改進党を結成。
議会政治を求める機運が高まっていました。
明治22年・大日本帝国憲法が発布、明治23年・帝国議会開設されました。
選挙権を持つ者は、全人口の1%強と限られていましたが、立憲政治はようやくその端緒につきました。

この頃、犬養は福沢のつてで大隈重信の立憲改進党に参加、政治家として歩み始めていました。
議会開設に先立つ第1かい衆議院議員選挙で犬養は36歳で初当選を果たします。
待ちに待った議会政治の始まり・・・しかし、その前に立ちはだかったのが藩閥政治でした。

当時の政府は、明治維新を主導した長州藩や薩摩藩出身のものが要職を占め、議会の意向に左右されない独断的な政治を行っていました。
政党側が、政費節減・地租軽減を主張する民間政党を政府が弾圧!!
暴力や買収、選挙妨害が横行します。
こうした圧力に、自由党・改進党の二大政党の中にも次第に藩閥政府との接近を図る勢力が表れます。
それに、政党間の対立も加わり、議会政治は混迷を深めるばかりでした。
このままでは理想の政治は実現できない・・・やがて、犬養と藩閥との対立は、ある問題で決定的となります。

発端は、明治37年の日露戦争勃発です。
ロシアに勝利した日本は、満州南部に鉄道敷設などの権益を獲得しました。
当時、陸軍を掌握していた長州閥の山県有朋・・・。
山県は、ロシアとの再戦を見据え、戦時兵力を従来の2倍以上に増強することや、大陸利権の更なる拡大を主張しました。
犬養は、これを真っ向から批判しました。

”日露戦争後の戦後経営は大失敗だ
 原因は、国力に見合わぬ国防計画と、軍事計画にある”

犬養は、国家は経済を主として、軍備は従にしなければならないと思っていました。
日露戦争後、ロシアを敵とすべきではないと考えていました。
満州はマーケット・・・経済的に結合して、外交で平和的にやっていこうと考えていたのです。
しかし、その主張は、長州閥の認めるところではありませんでした。

大正元年、陸軍は政府に2個師団増設を要求。
時の首相は、西園寺公望・・・立憲政友会の総裁でした。
政友会は、明治33年に伊藤博文によって創設されました。
それを引き継いだ西園寺は、藩閥勢力となれ合い、長州閥の桂太郎と交互に政権を担当してきました。
しかし、財政難の中、軍への更なる支出はあまりにも負担が大きかったのです。
西園寺が要求を拒むと、犬養は陸軍大臣を辞職させ・・・
大正元年、西園寺内閣総辞職に追い込むという策に出ました。
後任の首相には、桂太郎が就任。
軍の要求は実現するかに見えました。
この時、犬養は58歳・・・立憲主義を掲げ、自らの政党立憲国民党を旗揚げしていました。
藩閥の横暴に対し、犬養は決然と立ち上がります。

”この度の一戦は、小生の最後の一戦になるかもしれない
 万一敗れれば、全く政界を去る覚悟だ”

大正元年12月19日、歌舞伎座・・・犬養は、演壇に立ちました。
大正政変の幕開けです。

”今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!”

犬養には秘策がありました。
これまで藩閥との妥協を繰り返してきた政友会を倒閣運動に引き入れることです。
政友会もこれに応じ、党の論客・尾崎幸雄は犬養と共に憲政擁護運動を推進しました。
新聞には、連日2人の主張が掲載され、日露戦争後の重税に苦しむ民衆に藩閥の横暴をアピールしました。
そして迎えた大正2年2月5日・・・熱狂した民衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣不信任案を提出!!
ところが、桂も反撃!!
宮中に働きかけ、政友会総裁・西園寺への勅語を引き出したのです。

「朕の意を体して争いは無事に収めよ!」

天皇の言葉を前に妥協に転じようとした西園寺・・・
しかし、犬養は、あくまで徹底抗戦を主張・・・政友会幹部にこう進言しました。

「西園寺公は、大命を奉ぜられるとともに、総裁を辞職なさるが良い
 政友会としては、最後まで憲政のために戦うべきが本筋である」by犬養毅

再開した議会で政友会は、不信任案を撤回せずと宣言、その断固たる態度と民衆の怒号を前に桂はついに内閣総辞職に追い込まれました。
藩閥の政治介入から、立憲政治を守り抜いた犬養は、尾崎と共に憲政の神様とたたえられました。
しかし、藩閥や軍との戦いは、まだ始まったばかりでした。

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大正3年、ヨーロッパを主な舞台に第1次世界大戦勃発。
直接戦場とならなかった日本では、軍需物資などの輸出が大幅に伸び、空前の好景気となりました。
資本家や財閥が潤う一方で、民衆は物価の高騰により厳しい生活を強いられました。
大正7年、富山を起点に米騒動が始まると、炭坑や都市の労働者の間でも社会的不満が爆発します。
各地で相次いで暴動が起こりました。
この状況を打開するために、犬養は政治をもっと民衆に開かれたものにすることが急務だと考えました。

”政治は、一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし”

特権階級が政治をすると、それ以外の人の意見は反映されません。
社会的不満、社会的格差・・・第1次大戦後は、危機の時代でした。
国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない・・・!!

大正8年、選挙権拡大案を提出。
有権者の納税額と年齢を引き下げ、来るべき普通選挙への布石を打ったのです。
ところが、この案は時の首相だった政友会の原敬によって棚上げにされてしまいます。
政友会の支持基盤は、既に選挙権を持つ地方の財産家が多く、普通選挙の実現には後ろ向きだったのです。
その原が、大正10年、政治腐敗に憤る一青年にちょって暗殺されました。
その死は普通選挙ばかりか政党政治の流れをも停滞させてしまいます。
続く政権の座には・・・
大正11年加藤友三郎(海軍大将)、大正12年山本権兵衛(退役海軍大将)、大正13年清浦奎吾(枢密院議長)・・・軍人や、藩閥政治の息のかかった官僚の政治家が就き、やがて政党人はすべて閣僚から排除されるようになったのです。

犬養自身も逆境にありました。
大正11年、立憲国民党を内部分裂で解党し、革新俱楽部を結成。
そんな中、犬養は驚くべき一手を打ちます。
普通選挙をめぐって対立していた政友会・・・国民党から離脱した幹部の要る憲政会と敢えて手を結んだのです。
護憲三派の結成でした。
迎えた大正13年の総選挙・・・犬養たちは普通選挙を争点に戦い、民衆の支持を得ました。
284議席獲得という大勝の結果、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立。
そして、大正14年、犬養悲願の普通選挙法成立。
納税額の制限は撤廃され、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられることになりました。
法案の成立を見届けた犬養は、政界からの引退を宣言します。
残された革新倶楽部の党員は、政友会に合流させました。
犬養も71歳となっていました。

長野県富士見町・・・白林荘・・・政界を退くにあたり、犬養が終の棲家として建てた別荘です。
犬養は、夜な夜な青年たちと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わし、彼等に普通選挙の意義を説いたといいます。
モンペに身を包み、気さくに村の人々と接した犬養・・・
その思い出は今もこの地に語り継がれています。
激しい政治闘争から離れ、犬養はこれまでにない穏やかな日々を送っていました。

昭和3年6月、中国東北部の満州で、一大事件が起きました。
現地の部隊・関東軍が独断で、満州の実力者・張作霖が乗った電車を爆破、殺害したのです。
大陸における軍の暴走は、日本の政局を大きく揺るがしました。
昭和4年7月、政友会・田中義一内閣が事件の処理を巡って天皇の不興を買い総辞職に追い込まれました。
当時の議会は、政友会・民政党の二大政党制が交互に政権を担いました。
失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党の当主に組閣命令が下るのが慣例でした。
7月・・・民政党内閣成立・・・
そこに、アメリカに端を発する世界恐慌の嵐が襲い掛かります。
民政党内閣の緊縮財政が民衆の暮らしを直撃・・・米や繭の暴落を引き起こしてしまいます。
農村の生活は窮乏を極めました。
一方、野党の政友会が新たな総裁として迎えたのは、既に政界を引退していた犬養でした。
この時、75歳・・・少数政党出身で、党内基盤は弱い・・・しかも、政友会には軍に同調して大陸権益の拡張を図り勢力も多かったのです。
しかし・・・昭和4年、犬養、75歳で政界に復帰。

”惨烈深刻の不景気に対する救済に、余命を捧げたい”

犬養が直面したのは、止まらない軍の暴走でした。
昭和6年9月、満州事変が勃発・・・政府の不拡大方針にも関わらず、現地・関東軍は矢継ぎ早に戦線を拡大します。
これに呼応して、10月・・・国内で陸軍のクーデター計画が発覚(十月事件)・・・首相を暗殺し、軍事政権を樹立するという目論見は未遂に終わりました。
この危機に、犬養はいち早く反応しました。
事件発覚直後、当時天皇の重臣・元老となっていた西園寺公望に使者を送ってこう告げます。

”陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない
 どうしても、連立していかなければ駄目だ”

議会で多数を占める民政党の若槻内閣と連立を組み、軍を押さえる・・・協力内閣案です。

しかし、経済政策をはじめ、両者の隔たりはあまりにも大きかったのです。
11月に入ると犬養は、協力内閣案を撤回。
一方、与党・民政党でも、独自に協力内閣案が議論されていました。
しかし、推進派と慎重派の間で内紛が勃発・・・閣内不一致の末に、総辞職してしまいました。
慣例に従えば、次の首相は野党第一党政友会の犬養でした。
12月12日、首相指名の権限を持つ元老の西園寺から呼び出しが・・・
西園寺はこう切り出します。

”先ほど次の首相は犬養しかないと陛下にお伝えした
 陛下は軍が国政や外交に立ち入ることを深く憂いておられ、強力な内閣を作ってほしいと切望しておられる”

しかし、ここで西園寺は犬養に選択を突き付けます。

”協力内閣の事が話題となっているようだが、どうお考えか?”

すでに、与野党ともに手を引いた協力内閣案が、再度蒸し返されたのです。

単独内閣か?それとも協力内閣か??

犬養毅・・・第29代内閣総理大臣に就任。
選んだのは政友会単独内閣でした。

その頃、大陸では関東軍は更なる戦線拡大を目指し、各地で中国軍との衝突を繰り返していました。
難局のさ中、首相の大役を引き受けた犬養・・・しかし、そこには確かな成算がありました。
犬養の別荘に一本の白松が・・・中国の革命家・孫文から贈られたものです。
かつて犬養は、孫文の革命運動を援助したことがありました。
当時の中国国民政府のTOPは、その息子・孫科でした。
この人脈で、事変を収拾し様としたのです。
組閣の3日後、犬養は共に孫文を支援した萱野長知を呼び出しこう告げます。

”君ひとつご苦労だが現在の中国内情を探り、深刻な状態にある時局打開の方途を見出してくれないだろうか?”

現地に親日的、日本と交渉できるような政権を仕立てる・・・あくまでも、中国という枠組みを崩さない形で解決するのが犬養の意図でした。
同じような考え方で中国側も最低gんギリギリ譲歩できるラインとして持っていたのです。
犬養との間で、うまく日中関係を持っていきたい・・・

12月下旬、中国に渡った萱野は、早速交渉を開始・・・
事態の進展を電報で伝えます。

”中国政府は、満州問題解決のため、東北政務委員会を組織
 日本と直接交渉に入り、撤兵について話し合う準備がある”

ところが、犬養からの返答は一向に届きませんでした。
ある人物が萱野からの電報を握りつぶしていたのです。
内閣書記官長の森恪・・・軍と同様、満州の直接支配を考えていた森が動いていたのです。

昭和7年1月28日、上海事変勃発
海軍陸戦隊と中国軍が交戦状態に入ると、中国側の態度が一気に硬化・・・交渉による解決の道は、閉ざされました。
しかし、78歳の老宰相は不屈でした。
5月1日、犬養はNHKのマイクの前に立ち、国民に語り掛けます。

”侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせの事であるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい
 政友会の内閣である以上は、決して外国に向かってことを起こして侵略しようというような考えは、毛頭持っていないのである”

軍の侵略主義を、断固として否定した犬養・・・
それから2週間後、事件は起きました。
昭和7年5月15日午後5時・・・海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃しました。

”まてまて、騒がぬでも話をすればわかる”

”撃て撃て、問答はいらぬ!!”

即死は免れましたが、弾丸は脳にまで届いていました。その日の午後11時26分・・・犬養毅死去。

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犬養の死は、時代の大きな転換点となりました。
政友会は、後継内閣の樹立に動きましたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に下りました。
以後、政党内閣は生まれることなく、日本は軍主導のもと、戦争への道を突き進んでいきます。
青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのです。

近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開されました。
まるで眠っているかのような静謐な表情・・・
犬養ならその後の日本が歩んだ道をどのように思い、どんな言葉を投げかけただろうか??

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