日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:伊賀越え

<徳川家康と本能寺の変>主従わずか数十人 苦難の伊賀越え【電子書籍】[ 桐野作人 ]

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明智光秀から信長暗殺を誘われ、戸惑う家康でしたが・・・
なんと、おとわの一言で、決心しました

安土城へ向かうことに・・・!!

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そのことを井伊谷に説明しに来た万千代です。
そんな暇、あんのか??と、突っ込みたいのをこらえて見ました。

でもって、その後、戦に巻き込まれずに三河に帰る道をつけてほしいというのです。
それも、茶屋四郎次郎と一緒に・・・。
って、だから、それなら・・・

iga

















こんな事にはなんないよね。
老い先短いBBAなおとわなのに、そんなこんなをする体力も時間もないでしょう。
第一、この頃の時間はゆっくりと流れているので、井伊谷に井伊に来る時間が勿体ないような気がします
先日も、六左が道をつけてたじゃん!!
って思うよね。
主人公を、どうにかこうにか、絡ませようとしているのが見て取れるわ・・・。


安土城で・・・饗応役は明智光秀!!

でもっておとわたちは、京へ向かいます。
ああ・・・どう若く見ても、すでに40歳は越えているであろう(46歳)老体に鞭打って、道をつけるためにやってきたおとわです。
茶屋四郎次郎と打ち合わせ・・・って、この頃は、地の利ってのがとっても重要で・・・地の利のないおとわに道はつけられないわよね・・・と思っていたら、堺へ・・・

naotora4















そこで、懐かしい面々も!!
船商いの与太夫の話から、堺から海路で・・・そして、船から港の下見に・・・!!
って、めっちゃ元気じゃん、直虎!!

港によらずに一気に行きたいとか・・・南蛮の船を借りる手はないか??と言い出しました。
頭登場!!

懐かしい再会・・・嬉しそうな龍雲丸。

naotora2
















のはずが、直虎は利用しに来ただけですよ??

「私に異人と添えと??」byおとわ

あ~、興ざめです


その頃家康たちは・・・信長の歓待を受けていました。
信長を殺す計画だったのに、急に中国に羽柴秀吉が援軍を欲しいと言ってきたので、出陣せざるを得なくなる光秀!!
って、ここでボサボサしているから足蹴にされるという設定でした。

信長暗殺計画が、頓挫してしまう!!

焦る光秀、焦る家康!!

そうして、この一年やってきたように、策を練るのではなくごちゃごちゃ話が始まりました。
ホント、わかりにくいのよね・・・。

でもって、光秀の代わりに信長が膳を運んできました。
演出が過ぎるだろ・・・が・・・不気味!!


「こんなに美しい人を見たのは初めてです。」by外国人

ということで、いきなり褥と外人とBBAな尼のシーンとなりました。
その言葉、25年前に言ってやれよ!!って感じです。
もう見てられない・・・ってところで、龍雲丸の吹き矢で助けてもらうのです。
あ~、ヤダヤダ、男に助けてもらうばっかりに主人公はっ!!

毎回書いていますが、おとわはすでに尼だったし、”女”を見せる必要ないと思うんですよね・・・。
私も、峰不二子が大好きで、カッコいいなあ~~って思います。
利用するならカッコいいんですけどね??
でも、今回も、最終的に龍雲丸に助けてもらうくせに、”女”を利用もできないのに”女”を出す必要ないと思うんですよね。
クレオパトラの魅力も、美人ではなくその言語力と明晰な頭脳だというし・・・
もっと、魅力的に書いてほしいと思うんですけどね・・・

ほんと、妙に”女性である”ことを出すことに興ざめしてしまいます。

そして、どうなるのかビクビクしている家康ですが・・・。
信長は、本能寺で家康のために茶器を選んでいました。

「三国を治める海道一の弓取りとなったというのに、あやつはかようなことにとんと無頓着じゃ・・・
 箔をつける・・・ということを、覚えさせぬとのう・・・」by信長

決行する光秀!!

「敵は、本能寺にあり!!」by光秀

船を用意して待っていた直虎でしたが・・・万千代は京へ向かうと行ってしまいました。

どうして・・・??それはこう!!

「そもそも、織田様がわれらを殺すという策などないのではないか」by家康

「織田様は、ただわれらを招いただけ。
 その機を利用し、織田様を殺せると思うた明智が、我等に「殺すつもりだ」とささやいたということにございますか。」by榊原

「うむ・・・」by家康

「殿はなぜそのようなお考えに・・・」by万千代

「確たる理由はない。
 ただ長い付き合いじゃ・・・
 なにをするかわからぬお方じゃが、此度の織田様がわれらに殺気を抱いているようにはどうも思えぬ・・・
 このまま京にて、茶を飲めば、話しは済むのではないか?」by家康

と、京に向かったというのです。

手持ちの銭を・・・と、からお金を取り上げる直虎

「何をおっぱじめるつもりでごぜえますか?」by龍雲丸

これで一芝居打つ・・・
ということで、

「頭、この銭で、人を頼み、一芝居打ってほしいのじゃ。
 徳川が招きに応じようとするのは誘いを断れば、後々咎め立てされるされるからじゃ。
ならば、徳川が戻らざるを得ぬようにしてしまえばよい!!」byおとわ

・・・何言ってんのか・・・わかりにく~~~!!
っていうか、そんなこんなをして歴史がそうなるとそんな方向に行くのか??
と思っていたら、常慶がやってきて、「明智に急襲されましてございまする!!」と、そんなこんながまことになりました。
う~ん・・・必死に主人公を絡めようとしているように見えて仕方がない・・・。
穴山梅雪も勿体ない・・・

そして、そこを立ち去るために、猿芝居を打つ龍雲丸と万千代&みんな!!

三河に帰って参陣する!!と、茶屋四郎次郎の案内のもと・・・伊賀越えへ!!
穴山梅雪は・・・本多正信によって命を落としたみたい・・・。

岡崎城に帰り着いた一行ですが・・・。
伊賀越え全くなし!!
ほんと、寂しい限りですが・・・
去年のこともあって、

iga

















これを思い出すだろうから、無い方が良かったかもしれない・・・。
おとわは骨折り損・・・でしたね。
ていうか、史実に絡められたからいいのか??

ああ・・・何の盛り上がりもない伊賀越えでした。
万千代も参加の少しの家臣と一緒に越えた伊賀越えは、「神君伊賀越え」と言われる伝説となるエピソードです。
それなのに、こんな感じは嫌だなあ・・・って思うんです。

それに光秀に対しても・・・光秀の暗殺に乗る体だったのなら、謀反を起こしてくれたのに賛同しないのはどうしてよ??と、矛盾に思えるんですが・・・どうなのかな??

光秀と家康が組んでいたという説は、光秀の重臣の娘である春日局を家光の乳母にしたことからも考えられ知ている説でもあります。
だから、いいんですけど、家康がいい人過ぎるというか・・・
光秀をも家康は裏切ったという方が、しっくりくるし、命を懸けて服部半蔵と伊賀越えをすることで、伊賀同心が出来るんだよ~~~!!
私の好きな、頭を出してほしかったわ~~~!!

kage













そういえば・・・最近活躍の息子の目が、若い頃のお父さんにそっくりだと懐かしく思うBBAな私です。
なので・・・

makkennyuu











真剣佑君が演じてくれたら話題性もあったろうに!!
最後の盛り上がりになったかもよ??

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<徳川家康と戦国時代>家康のエージェント 服部半蔵正成【電子書籍】[ 工藤章興 ]

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主君 井伊の赤鬼・直政伝

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1600年9月15日関ケ原・・・この時、西軍に相対する東軍は、内部崩壊の危機に面していました。
その危機に立ち向かったのが、徳川四天王のひとり・・・井伊直政・・・おんな城主・次郎法師に育てられた虎松です。

徳川家康に仕え、外交交渉人としての才能を発揮し、戦場では赤鬼と呼ばれた勇ましさ・・・
その直政に徳川の命運が・・・??
徳川主力の遅参、先鋒は豊臣恩顧の福島正則・・・
前線で戦える徳川勢は井伊直政のみ!!
もしここで福島正則が先陣を切れば・・・戦は豊臣のものとなってしまう・・・
徳川のために・・・抜け駆けをして先陣を切るか??
それは同士打ちの危機でもありました。

山深く急峻な岩肌に囲まれた奥三河の地・・・
ここに、1300年の歴史を誇る鳳来寺があります。
井伊直政は、7歳から13歳までの7年間、命を狙われ・・・ここで過ごしていました。
直政は1561年、井伊谷の領主の子に生まれました。
当時の井伊家は、大国今川家に従っていましたが、直政が1歳の時に、父・井伊直親が敵対する徳川家康に内通したとして殺されてしまいます。
直政の後見となったおんな城主・次郎法師は、今川家によって領主の座を追われ、直政は殺生禁断の地である鳳来寺に匿われたのです。
耐えること・・・我慢することを学んだ直政・・・行く末の見えない中、自らの力と才覚で、運命を切り開いていきます。
1574年、今川家の勢力が衰え始めると、直政は、鳳来寺を出て母親の再婚先である浜松家の豪族・松下家に身を寄せます。
この時、浜松を支配していたのが・・・新興勢力の徳川家康でした。
1575年、直政は、鷹狩りに出た家康を路上で待ちます。
若者の面構えの立派さに目を止めた家康、自分のために殺された井伊当主の遺児と不憫に思い、召し抱えます。
急速に勢力を広げ始めた徳川家に仕えたことから、新しい人生が始まります。

この時、家康の軍団を支えていたのは、古くからの三河の武将たち・・・
後に徳川四天王と呼ばれる直政以外の人物(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政)は皆、徳川家と縁の深い、三河武士でした。
結束の固さを誇る家臣団に突然ほうり込まれた異質な存在の直政。
常に家康のために、命を顧みない行動に出ます。
如何なるときも、家康の近くに控え、身を挺して主君を守る・・・最大の危機、伊賀越えでも、大きな働きをしたといいます。
そんな直政を、家康は寵愛しました。
しかし、直政は、武勇だけの若者ではなく・・・
1582年甲斐国若神子の戦いで、3か月に及ぶ戦いの徳川軍と北条軍。
和睦の使者として、21歳の直政が抜擢されます。
交渉にあたって直政の覚書には・・・
北条氏政の誓紙を差し出すこと。
徳川方家臣の妻子を返すこと。

若い直政の和睦締結の条書を見ると、細心なところに注意書きがいっています。
相手にいちいち了解をとる・・・
一を聞いて十がわからないと、使者は務まりません。
そんな能力を持っていることを家康は見抜いていたのです。

難しい和平交渉をまとめ上げた直政は、更なる重要任務・武田家の旧臣を徳川の家臣にという役を任されます。
直政は、主を失ったものたちの領土を安堵する取次を務め、たくさんの書状を送ります。
まさに文武両道・・・単なる武闘派ではなく、いかに戦わないで相手を屈服させるか??
その技術、能力・・・交渉役の資質があったようです。
家康は、忠誠を誓った武田旧臣数百人を直政に付け、”赤備え”を井伊が身に着けるようにいいます。
井伊の赤備えの誕生でした。

戦国時代の軍隊の力は、上杉武田がNo,1!!
その中でも、赤備えはとくに有名で、格好のいいブランド・・・責任の重い甲冑でした。
他の家臣たちは、直政に嫉妬します。
徳川四天王のひとり榊原康政は、武田の勇猛な家臣たちが直政に付けられたことを激怒、直政と刺し違えるとまで言ったといいます。
直政は、赤備えに相応しい結果を残さなければなりませんでした。
新しい直政の軍団の活躍の場は・・・1584年小牧長久手の戦いです。
信長亡き後の天下の覇権を家康と秀吉が争った大事な戦いで、23歳の直政は、自ら敵武者と組み合い、首をとるという危険を冒しています。
味方は直政をたしなめます。
「軍に将たるもの みづから手を下すべきにあらず」と。
それでも直政の激しい戦いぶりは収まりませんでした。その武勇は、赤鬼と恐れられたのです。
並みいる徳川家臣の中、際立った存在となっていく直政。。。
1590年天下人となった秀吉に家康が関東に国替えになった時、上野国に与えられた直政の所領は12万石。
四天王の本多忠勝・榊原康政が10万石、酒井忠次は隠居・・・まぎれもなく、徳川家の家臣筆頭となるのです。
時に29歳の若さでした。
やがて直政は、関ケ原の戦いで重大な決断をすることになります。

1600年9月15日早朝・・・
美濃国・関ケ原に東西両陣営15万を越える軍勢が集結しました。
笹尾山の石田三成から天満山の宇喜多秀家、松尾山の小早川秀秋、更に離れた南宮山の毛利勢まで鶴翼の陣の西軍・・・
東軍は桃配山に総大将の徳川家康、その前に軍勢の多い福島正則、藤堂、細川、黒田の陣が並んでいました。
井伊直政はその一角に布陣、近くには、直政の娘婿の松平忠吉がいました。
直政は初陣の忠吉の後見も兼ねていました。
しかし、この時家康は大きな誤算に・・・家康の焦りと怒り・・・それが、直政の選択に決定的な影響を与えます。

東軍は、もともと会津の上杉景勝を成敗する豊臣家による討伐軍だったので、豊臣家臣の大名が大半を占めていました。
その軍勢が下野の小山に向かった頃・・・三成らが挙兵!!
直政は軍をすぐに西に向けるべきだと強く進言!!
「時は既に至れり!!」
直政の固い決意を聞き入れた家康は西に向かう軍勢を二つに分けます。
東海道を進むのは、福島正則ら豊臣恩顧の大名が中心で・・・
秀忠が中心の徳川本隊は中山道を進みます。
家康は一旦、江戸に留まり、直政は家康の名代として東海軍を率います。
家康も江戸を出発しますが・・・上田で真田と戦っていた徳川本隊3万8000は、戦いに間に合いません。
家康の誤算・・・それは、徳川の主力本隊のないまま豊臣恩顧の大名の手を借りて決戦に臨まなければならなかったのです。

本隊は来ないけれど、機は熟している・・・
豊臣の大名たちが暴走してしまう・・・戦うしかない・・・!!
徳川主力軍がないまま戦うことになった徳川軍・・・
先鋒は、豊臣大名の中でも有力な福島正則となります。
もしこのまま福島正則が先陣まで果たせば・・・戦の全ては豊臣の手によってなされたものとなってしまう・・・!!
例え東軍が勝ったとしても、本当の徳川の勝利にはならない・・・
東軍で最前線にいる徳川勢は、井伊直政と松平忠吉の6000の兵のみ・・・
直政と忠吉が福島正則を出し抜いて先陣を切らなければ、徳川のメンツが立たない・・・。
しかし、戦場で先陣を横取りする抜け駆けは、軍法によって厳しく戒められていました。
家康が会津征伐の時の軍令には・・・
”先手を差し越し、軍法を背くの上は成敗すべき事”とあります。

先鋒は福島正則・・・
当時の武将たちは一番槍の高名や、誰が最初に乗り込むのか?大事な評価でした。
先陣争いで、味方同士が戦うケースも沢山ありました。
なので、先陣争いをして意思疎通が乱れてしまえば西軍に乗ぜる隙を与えてしまう・・・。

直政の選択は・・・抜け駆け??軍法を守る・・・??

直政は抜け駆けを決意!!
その日関ケ原は、朝から深い霧に包まれその霧が薄まっても両軍が様子見を続けて膠着状態でした。
直政は家臣に自らの陣を任せ・・・少数の兵を連れて動く!!
娘婿の忠吉の供をし、先陣・福島正則の陣の脇を抜けようとします。
これを福島正則の軍の可児才蔵が見咎めます。

「これは抜け駆けではない!!
 初陣の忠吉殿にお供をしての物見である!!」by直政

才蔵は道をあけます。
直政は忠吉と共に前進!!
偶然西軍に遭遇したという形で、敵陣に一番槍を仕掛けたのです。
1600年9月15日午前8時・・・関ケ原の激戦は、徳川勢の先陣のもと、開始されたのでした。

戦を仕掛けたのは徳川家の者がやったという証拠が残りました。
しかし、徳川氏の公子を一人無駄に殺してしまう可能性もあったのです。

直政たちの抜け駆けを知ると悔しがる福島勢は一斉射撃!!
東西両軍は激しくぶつかり合いました。
そして数時間後・・・西軍・小早川勢の裏切り、毛利勢の戦闘不参加によって東軍勝利の体制が決します。
石田三成ら主だった西軍の武将は退却・・・直政は忠吉と疲れた人馬を休ませていました。
そこへ・・・突如500騎ほどの軍勢が・・・!!
あれは味方か・・・??
敵と見るや、馬を駆り、軍勢を追撃にかかります。
忠吉も後を追います。
敵軍は、正面突破して戦場を離脱しようとする薩摩・島津義弘勢でした。
島津勢は必死の抵抗!!
多くの死傷者を出す井伊!!
敵と与して傷を負ってしまった忠吉。
直政は敵にわき腹と右腕を撃たれ馬から落ちます。
島津勢もほとんどの兵を失って薩摩に帰っていきました。

殆どの東軍の武将たちは、島津に抵抗して命をとられたら無駄死にだと思って道をあける中・・・
それも承知の島津が正面突破の中、徳川の意地を・・・!!という直政の思いが命知らずの行動に出させたのです。
その命知らずの行動が、家康からも認められ、三河武士達からも認めてもらう。。。
関ケ原の時にも、自分が島津を追いかけなければ・・・!!と、追撃したのです。
戦いは終わり、直政は傷を負ったまま家康のもとに参上・・・
家康は自らの作った薬で労い、直政の抜け駆けの罪を問うことはありませんでした。
先陣を奪われた福島正則も、あえてことを荒立てようとはしませんでした。
関ヶ原の戦後、直政は傷がいえる間もなく仕事に忙殺されます。
生き残った西軍大名との外交交渉・・・戦後処理を任されました。
島津、毛利に対しても穏便に処理するように・・・
戦場を離れれば、敵味方共に直政は信頼されていました。
毛利家当主・輝元は、直政の取りなしに深い感謝の状を送っています。
直政は関ケ原の功績で、近江・佐和山城を与えられ、18万石の領主となりました。
しかし、翌年、佐和山で没します。
関ケ原の傷の悪化が原因とされています。
まだ、40歳の若さでした。
家康は、直政を開国の元勲と称え、その後、井伊家は近くの彦根城へと移ります。
譜代一の家格となり、江戸時代の大老10人のうちの5人を輩出。。。
260年にわたる徳川政権を支え続けるのです。

死の2週間前、子供に宛てたものには・・・

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め睹るに非ざるなり」

とあります。

成功と失敗、賢いか愚かかはあらかじめわかることはない。
だからこそ、ひたすら行動するしかないのだ。。。



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戦国の覇者・徳川家康・・・

「われむかし 信長の変ありて 信楽越せしに大和口の様 見置たり」

それは、家康の生涯の艱難の第一・伊賀越えでした。
そして・・・それは家康が天下取りに覚醒した瞬間でもありました。

きっかけは本能寺の変・・・天下を手に入れようとしていた織田信長の死でした。
この時、信長の家臣のほとんど・・・羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・・・が、京から遠く離れたところにいました。
そんな中・・・家康は京に最も近い場所にいました。
明智光秀を討つのは誰・・・??
しかし、家康の供周りはわずか30人ほど・・・
家康は、本国・三河に帰還して挙兵しなければならなかったのです。

家康の逃走経路は三つ・・・

①堺から海路
②光秀に合流し、味方に見せかけ帰還する
③伊賀越え

”神君伊賀越え”と呼ばれているこの事件です。
伊賀越えがあったことで、家康と伊賀・甲賀の忍びたちが切っても切れない関係へとなっていきます。

本能寺の変の3か月前・・・
家康にとって最大のライバルであった武田氏が滅亡しました。
信長と家康が足かけ10年に及ぶ戦いで遂に勝利したのです。
この功績によって、家康は信長から駿河一国を与えられます。

本能寺の変の半月前・・・
家康は、わずかな供周りと共に安土城へと向かいます。
信長に恩賞の礼を述べるため。
ふたりが同盟を結んだのは、桶狭間の戦いの翌年でした。
この2人の同盟関係は、奇妙なほど長く21年にも及んでいます。

信玄はこう言っています。
「家康は、もっぱら信長の意見に従う人物である。」と。
この2人の関係は、主従関係に近いものがあったようで・・・
つまり、対等ではなかったのです。
もともと大国に挟まれた小国の大名だった家康は、信長との同盟が唯一、生き残る道だったのです。
1560年、家康の嫡男・信康の妻が、父・信長に書状を送りました。
その書状・・・信康が武田氏と内通していることが詳細に描かれていました。
信康の処分は・・・??家康は、嫡男・信康に切腹を命じました。
家康にとって信長は天下だったのです。

安土城で信長に礼を述べた家康は、信長の勧めで各地で接待を受けます。
本能寺の変の前日。。。
家康は、堺の商人たちの優雅な接待を受け、優雅なひとときを過ごしていました。
そして・・・1582年6月2日未明・・・
京に上洛し本能寺に宿泊していた織田信長は・・・明智光秀1万の兵に吸収され。。。
信長の不慮の死は、治まりかけていた世をわずか1日で乱世へと引き戻したのでした。
家康は激しく動揺し、信長の後を追うように、本能寺の焼け跡で切腹しようとします。

狼狽する家康に、戦乱の足音が近づいていました。

本能寺の変が勃発した頃・・・家康は、信長に会うために堺を出立、京を目指していました。
この情報を聞いたのは・・・お昼頃飯盛山付近でした。

当時、家臣を5つに分けていた信長・・・。
本能寺の変の知らせは、この家臣たちにも届きますが、そこには時差がありました。
信孝には6月2日、羽柴秀吉には6月4日未明、柴田勝家には6月7日、滝川一益には6月9日ごろだと思われます。

いずれにせよ、家康が最も早くに行けるのですが・・・??
織田家の武将たちに先ん出て明智光秀を討てば、天下の覇権を握ることもできる・・・。
しかし、この時の供周りはわずか30人・・・。
岡崎に戻る??

①堺から海路
安全だが小さな船では無理・・・。

②光秀に合流し、味方に見せかけ帰還する

③伊賀越え
三河まで一番近い道・・・。
東へ間道の山道を進み、伊賀を越え、船で三河・岡崎城へ・・・??
距離を優先させたルートです。
家康の供周りはおよそ30名。。。
しかし、武勇すぐれた酒井忠次・本田忠勝・榊原康政・井伊直政・・・徳川四天王をはじめ、後の幕府の中核をなる強者が集まっていました。
そして、京の豪商・茶屋四郎次郎がつきしたがっていました。

が・・・この道には多くの困難が待っていました。
伊賀の忍びです。
道中一番の難敵でした。
伊賀国は、本能寺の変の1年前、天正伊賀の乱として信長が制圧していましたが。。。
老いも若きも女子供も徹底的にやられました。
家康は参陣していなかったものの家康の同盟者・・・。

伊賀の忍びの中には・・・鉄砲に長けた者もおり、家康を有能な家臣が取り囲んでも、逃げ切るのはかなり難しかったのです。
農民たちの武者狩りも・・・!!
家康の目的は、無事に三河に帰還すること。。。

伊賀越えを決断した家康・・・全行程200キロ以上の道のりでした。

6月2日・・・供周りと共に出発!!
一行は木津川に阻まれ・・・地侍数百人による襲撃も・・・本田忠勝が奮戦!!撃退します。
家康一向に手を貸したのは、多羅尾一族。。。小川城という山城を拠点にしている豪族でした。
多羅尾一族は、行く先々の有力者を味方に引き入れていきます。
この多羅尾氏は、代官として明治維新まで続くのです。

伊賀越えのルートは諸説あって・・・謎に包まれています。
6月4日早朝・・・一番危険な地域に入ることとなります。
長い間、独立を守ってきた伊賀。。。そこは、忍びという独自の文化を築き上げてきていました。
普段は農民として田畑を耕作する伊賀の人々・・・。
しかし、農閑期には、忍びとして畿内の戦国大名たちに雇われていました。
最も油断のならない相手でした。

この時・・・重要な役割を果たしたのが・・・服部半蔵正成です。
半蔵は、早くから家康につき従ってきた三河武士ですが、父は伊賀出身で、親族もたくさんいました。
半蔵を通じて、伊賀者との結びつきを強めたのです。
半蔵は、伊賀衆200名を集め、家康の警護に当たらせました。
この功績により、伊賀をまとめる旗本に取り立てられることになります。

当初30の供周りは・・・数百名に膨れ上がっていました。この警固のおかげで、難所は安全な道となっていました。
船で伊勢湾を渡り・・・6月5日、遂に岡崎城についたといわれています。
丸3日で200キロの道のりでした。
この時点で、織田の武将たちは身動きがとれていません。
天下に名乗りを上げる・・・??

直ちに出陣を・・・と思っていたものの、本当に出陣したのは6月14日でした。
出陣した家康を待っていたのは、

”明智を京都にて、筑前(秀吉)うちとり候よし”

なんと、前日に秀吉が光秀を討ち取っていたのです。
中国大返しに山崎の戦い・・・

どうして家康は出遅れてしまったのでしょうか??
未だ、兵農分離が完全ではなかったので、みんなちりじりだったからです。
東へ取って返し、武田領へ・・・信濃と甲斐を手に入れることに成功します。
秀吉との天下のレースに突入です。

秀吉の世となった後でも、虎視眈々と狙う家康。
1600年9月15日関ヶ原の戦いで、家康は勝利します。
家康が天下人となるのは・・・伊賀越えから21年後のことでした。


ちなみにパパは・・・大河「江」を皮肉って、
「ちゃんと史実にのっとって江も連れて行くんやろうなあ・・・」でしたが・・・
連れて行っていなかったですね。


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