日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:伊達政宗

1615年5月、大坂城落城。関ケ原の戦いから15年、徳川家康は大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を確かなものにしました。
そして12か月後、75歳で生涯を終えます。
しかし、それはただの12カ月ではありませんでした。
家康の終活・・・それは武力で勝ち取った徳川の天下を戦のない時代に永続させる仕組みづくりでした。
しかし、死を間近にした家康を、最後まで悩ませることがありました。
それは、徳川一門を揺るがしかねないある人物の存在でした。
徳川260年の天下を確かなものにした家康最後の選択とは・・・??



1615年5月8日、大坂夏の陣。
燃え盛る大坂城で豊友秀頼が自刃したことを知った家康は、直ちに京都に向かいました。
夜遅く二条城に入った家康は、すぐさま戦後処理をはじめます。
徳川実記によれば、京都入り2日後の5月10日には諸大名を引見。
真田信繁を討ち取った孫・松平忠直らを褒めたといいます。
大坂夏の陣での諸大名への論功行賞です。
6日後の5月16日には、公家衆、仏教各宗派と僧侶と会見。
6月2日、豊臣家から没収した金銀が届くと、すぐに御所に参内し献上しています。
都に凱旋した天下人・家康。
多忙を極める日々の中、着々と新たな時代を進めていました。
それが法度の作成です。

1614年4月、駿府城・・・
禅僧の金地院崇伝に武家、公家、諸門跡の膨大な資料を集めさせていました。
大坂の陣の2か月は、それらの資料を基にした法案を吟味する時期でした。
崇伝は、法案を家康に文面にして見せるのではなく読み聞かせていました。
崇伝の説明を受け、家康が疑問を投げかける・・・
禅問答のようなやり取りを何度も行っていました。
そして、大坂夏の陣からおよそ3か月、将軍・秀忠の名で次々と新たな法令が矢継ぎ早に発布されていきます。

1615年閏6月13日、一国一城令
大名は領国に城を一つしか持ってはならないとされました。
この法令は、西国の外様大名の軍事力を大幅に削減することを狙ったものとされています。
豊前・小倉の細川忠興の場合、領国内の城の破却に直ちに取り掛かったことを、家康の側近に伝える用伏見城の息子に伝えています。
細川が破却し田代の数は7つ。
門司城などことごとく破却し、小倉城と中津城のみを残すこととなりました。
わずか数日で、400以上の城を破却。

7月7日、大名を統制する13箇条の法令「武家諸法度」が申し渡されました。
”文武弓馬の道 専ら相嗜むべき事”で始まるこの条文、第6条では城を修復する際は、幕府に届け出をすること、新たな城を築くことは禁止とされています。
これは、大名たちの武力を徹底的に削減するとともに、法令を守らない大名を処罰することで幕府の権威を高める仕組みになっていました。
この家康の狙いにまんまとはまってしまった大名がいました。
安芸広島藩藩主・福島正則です。
福島は、洪水で破損してしまった石垣を修理しただけでしたが、届け出がなかったため、許可なく城の改築をしたとして改易、おとり潰しとなってしまいました。
家康の死から3年後のことでした。
武家諸法度の発布後、家光までの間に改易された大名・・・外様51家、親藩・譜代34家。
徳川幕府は法の権威を高めることで、支配を確立したのでした。
さらに7月17日、朝廷と幕府の連絡役の公家が呼ばれ、17条に及ぶ朝廷を統制する法令「禁中並公家諸法度」が申し渡されました。
1条から12条までが皇室と公家が守るべき規定、”1条の天子が治めるべきものは第一に学問である”・・・これは、天皇の政治関与を禁じた規定として知られています。
また、7条の武家の官職は公家の官職とは別のものとするという規定・・・これは、武家の序列の証である朝廷の官職を将軍が自由に任免できることを意味していました。
元禄時代に書かれた”日本海山潮陸図”。
石高と領主の官職が記されていますが、本来一人のはずの出羽守が各地に9人もいます。
ここに、朝廷官位を利用した巧みな武家の統制術がありました。
諸大名の序列は石高ではなく、官位でした。
石高が高くても、官位が低いと下座に置かれました。
だからどうあっても高い官位が欲しい!!
武家諸法度で厳しく行動を規制するのがムチなら、官職はアメ。
その利用価値を家康は見抜いていました。
7月24日には、仏教の各宗派ごとに法令「諸宗寺院法度」が発布されます。
各派ごとに本寺末寺と言う制度を設け、本山である寺が末寺を統制する仕組みを作り上げ、その本山を幕府が管理する・・・
家康は、戦国時代に大名をも脅かした宗教勢力を徹底的に封じ込めようとしたのです。
こうして、大名、朝廷、宗教を統制するルールを作り終えた家康は、8月4日、京都を発ち、23日に駿府に帰りつきます。
そして、この地で大好きな鷹狩りを楽しむこととなります。



京都での法令づくりを終えてから2か月を経た10月、家康は江戸城にいました。
徳川実記によれば、この時家康は関東各地を巡り狩りを楽しんでいるように思われます。
しかし、その目的は違うところにありました。
9月、駿府滞在中、江戸から訪ねてきたある女性によって徳川家の将来にかかわる重大な報告を受けていたのです。
その女性とは、将軍・秀忠の長男で跡継ぎである竹千代の乳母・春日局でした。
春日局は、秀忠と正室の江が、病弱な竹千代を跡継ぎの座から外し、快活で両親の寵愛を受けている弟の国松に変えようとしていると訴えたのです。
春日局の報告を受けた家康は、すぐさま江戸に赴きます。

江戸城で竹千代と国松に面会した家康は、ある行動で竹千代が次期将軍であると秀忠と江に示します。
竹千代と国松を呼び寄せた家康は、身近に竹千代を呼び座らせます。
国松が並ぼうとすると、それはダメだと下がるように支持。
あくまで年長の竹千代が将軍跡継ぎで、国松は将軍を支える立場であることをわからせようとしたのです。
長幼の序という秩序を乱す危険性・・・
能力主義で兄弟の優秀なものを選ぶのは一つの考えです。
しかし、能力主義がもとで権力闘争、内紛から政治体制が自壊することを危惧していました。

1616年元旦・・・江戸城黒書院。
秀忠は将軍への最初の挨拶をまず竹千代に行わせました。
家康の意を察した秀忠は、家臣たちの前で跡継ぎは竹千代であることを示したのです。
将軍後継者と徳川一門をめぐる新たなルール作りに心を砕いていた家康・・・
実は、頭を悩ませる問題がもう一つありました。

9月、京都での法令発布を終え、駿府で休息をしていたとされる家康。
しかし、徳川実記には大事件があったと書かれています。
この日、家康は息子・上総之介忠輝を勘当していたのです。
松平忠輝は、家康の六男です。
将軍秀忠と13歳違いの23歳。
存命している家康の息子のうち2番目の年長者で、越後高田75万石を領する大大名でした。
当時、徳川一門では、2代将軍秀忠に次ぐ存在でした。
どうして勘当??
原因は、大坂夏の陣での出来事でした。
忠輝は、大坂に向かう自分の軍を抜こうとした将軍・秀忠の家臣2人を討ち取り、報告もしていなかったのです。
さらには、肝心の夏の陣では戦場に到着が遅れ、陣の最後尾で高みの見物をしていたと、様々な記録に残されています。
将軍を蔑ろにし、戦では何の成果もあげない・・・
報告を受けた家康は激怒、それが、感動という処分につながったのです。
しかし、当時、行軍中の追い抜きは無礼にあたるということで切り捨てが認められていました。
本当に家康は切り捨てが原因で勘当処分にしたのでしょうか?

そこにはもう一つの理由がありました。
伊達政宗の存在です。
政宗は、忠輝の舅で、忠輝を非常にかわいがっていました。
高田城普請の際にも、自ら駆けつけ世話を焼くほどの入れ込みようでした。
忠輝と政宗が連携することになれば、大きな力になりかねない・・・と考えていました。
忠輝は、仙台62万石の伊達政宗の娘・五郎八姫を娶っていました。
関ケ原の戦いの前年、伊達政宗との関係を深めようと家康が画策した政略結婚でしたが、それによって徳川家の中では秀忠を脅かす存在となっていたのです。

1613年、政宗は、大坂の陣の前年、家康の許しを得てスペインやメキシコとの貿易交渉に支倉常長を派遣していました。
ところが、スペインは貿易の条件としてキリスト教の布教許可を要求。
政宗は、領内の布教を容認する姿勢を示したと考えられます。
しかし、キリシタン禁教を進める幕府からすれば、そんな政宗のふるまいは徳川の方針に沿わない危険な人物でした。
しかも、使節を案内したソテロ神父は、ヨーロッパ各地で家康亡き後は政宗が日本の皇帝になると言いふらしていました。
徳川を脅かしかねない伊達政宗・・・
その伊達政宗に支えられ、将軍・秀忠を蔑ろにする忠輝・・
忠輝は徳川家一門最大のリスクとなっていたのです。

1616年正月、江戸では謀反の噂が・・・
江戸にいた大名・細川忠興が、国元の息子に送った手紙には・・・
「政宗のこと、色々と噂がある
 根も葉もない話とも、まこととも知れないが、内々に陣の用意をしておくように」
平戸のイギリス商館長コックスの日記・・・
「皇帝と政宗の後押しを受ける上総(忠輝)の間で戦争が起きるという噂がある」

勘当された忠輝が、政宗と兵を挙げるという噂が全国に広がっていました。
忠輝と政宗の婿と州との関係、キリスト教と政宗の親密な関係・・・
何かしでかすかもしれないと思わせるような政治状況は残っていました。

一方、家康には死期が迫っていました。
静岡県藤枝市田中城・・・家康が鷹狩りで訪れていました。
1616年1月21日、家康発病。
夕食二体の天ぷらを食べた後のことでした。
現在は胃がん説が有力視されています。
すぐさま駿府に戻ったものの、病状は一進一退を繰り返します。
秀忠をはじめとする一門が駆けつける中、謀反の噂が立っていた忠輝も駿府に向かっていました。
忠輝は、なんとか面会したいと願い、何度も嘆願を繰り返しましたが、家康は面会を許しませんでした。

忠輝と政宗を攻め滅ぼすか??それとも2人を徹底的に引き離すのか??

伊達政宗が、晩年に側近に語った懐旧談があります。
そこに、家康の選択が記されていました。
家康の死から16年後、秀忠が死の床で政宗に語った言葉です。

「権現様が駿河で病気になったとき、政宗をひどく悪く言って、私に江戸に戻って仙台攻めの支度をせよと命じられた」

政宗自身も語っています。

「家康公が病気と聞いて、駿府に向かおうとしていたら、将軍秀忠公が江戸で仙台攻めの用意をしているという知らせが次々と入ってきた
 身に覚えがないことなので、驚いた
 もし戦となれば幕府軍相手に勝ち目はない・・・!!」by政宗

家康は、政宗討伐を選んだように見えます。
しかし、そこにお勝の方から政宗に手紙が届きます。

「一刻も早く家康公と対面しないと為にならない」

駿府に行けば殺される!!という家臣たちの手を振り切り、政宗は駿府に向かいました。
2月22日到着。
病床の家康に会って聞かされた仙台攻めの理由とは・・・謀反の疑いでした。
政宗が、家康の病に乗じて大坂の豊臣方の残党と手を組んで謀反を起こすかもしれない・・・
そんな密告をした人物・・・その人物とは誰なのか・・・??
 


上総守・・・松平忠輝!!

忠輝は、「政宗は謀反の意思を持っているということを言ってきた」と話したのです。
それを家康は本当か心配になって仙台陣とか、お勝の文という形に動いていったのです。

もし、謀反する気ならば決して来ないだろう・・・

だが、駆けつけたことで、家康は政宗への疑いを説きました。
政宗自身の証言によると、毎日のように見舞いに訪れる政宗に、家康は将軍・秀忠の後見さえも命じたといいます。
忠輝が本当に政宗謀反を密告したのか、証拠はありません。
確かなのは、家康の言葉を聞いた政宗が、忠輝と縁を切り、二度と支えようとしなかった事です。
家康は、政宗と忠輝を殺すことなく2人の間を裂き、政宗を秀忠を支える側に回らせたのです。

1616年3月19日、家康は金銀を末の息子3人に分け与えます。
遺産の総額は、194万1600両・・・今の金額でおよそ1940億円となります。
4月2日、金地院崇伝らのブレーンを呼び、亡くなった後の埋葬、位牌などを支持します。

「一周忌が過ぎたら下野日光に小堂を建て、勧請せよ
 関八州の鎮守になろう」

この言葉が、家康の遺言となりました。

そして、4月17日、息を引き取ります。
享年75歳。
家康の死から3か月後、忠輝は、将軍・秀忠の命で改易、伊勢朝熊に蟄居させられました。
長野県諏訪市貞松院・・・伊勢に流されてから10年後、忠輝は諏訪にうつされ92歳で亡くなるまでこの寺で暮らしました。
25歳で流されてから67年・・・その頃、幕府は5代将軍・綱吉の時代になっていました。
家康が忠輝に残した遺品・・・笛・乃可勢。
信長、秀吉が秘蔵し、天下人の笛と呼ばれたものです。
死の床にあった家康は、忠輝の生母・おちゃあの局にこの笛を遺品として託したと言われています。

幕府のためには我が子であるけど廃嫡にしなければいけないかった
親として非常に忍びない・・・その愛情の証として送ったのではないかと思われます。

幼少の頃から笛の名手だったといわれる忠輝・・・
父・家康が死の前に思い起こしていたのは、その幼き日の息子の姿だったのかもしれません。

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戦国の常識を変えると熱い注目を集める巨大山城があります。
それが、福島県の桑折西山城です。
近年の発掘調査で、先取りした革新的な山城であることが明らかになってきました。
戦国後期に多用された畝堀が時代に先駆けて施されていました。
さらに、この山城の先進性を伺えるのが、城下の家臣を集めて住まわせたことです。
後の城下町のようにしていました。
あの織田信長が始めたと言われてきたことが、その30年も前に東北の地で行われていたのです。
戦国史を揺るがす巨大山城・桑折西山城!!
この革新的な城を築いたのは、伊達氏14代当主・伊達稙宗です。
後に東北を席巻する独眼竜・・・伊達政宗の曽祖父です。
都から遠く離れた東北の地で、画期的な巨大山城を築いた稙宗。
この城に、いかなる野望を秘めていたのでしょうか?



福島県伊達郡桑折町・・・ここに、東北地方屈指の巨大山城・桑折西山城があります。
標高190メートルの山全体に築かれた桑折西山城・・・
山の上に、曲輪と呼ばれる平地の区画をいくつも備える巨大城郭でした。
戦国時代の姿が残る全国でも貴重な山城です。

この城が築かれたのは、鉄砲が伝来する前の1532年頃・・・。
当時としては極めて高度な防御施設が、各所に設けられていました。
本丸と二の丸の間に空堀が・・・!!
人工的に掘られた空堀と、掘った土を積み上げた土塁、さらにここにはある仕掛けが・・・堀底に土塁を作って畝堀という形式の空堀となっています。
この畝堀は、戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するために北条氏が築いた山中城で知られています。
しかし、桑折西山城では、その50年以上も前に畝堀が城の守りに使われていました。
桑折西山城の本丸は・・・??
伊達郡一帯が一望できます。
桑折西山城がある場所は、奥州街道と羽刕街道の分岐点・・・まさに交通の要衝でした。
そこにあった山を利用して城を築いたのが、伊達氏14代当主・伊達稙宗です。
山頂には、本丸、二の丸、中館、西館と、4つの大きな曲輪があり、それぞれが一つの山城の大きさを持っていました。
本丸には、城主・伊達稙宗の館があり、そこで生活すると同時に政治運営も行われていました。
それは、当時の山城の機能としては、画期的な使われ方でした。
これまでは戦いのための山城・・・日頃は平地の館にいました。
それが、鎌倉以来・・・室町時代の武士の館とお城の使い方でした。
しかし、軍事を基本にして、生活と政治、3つの機能をすべて山城が果たしていきます。
戦国期の拠点城郭に大きく変わっていった新しい時代のお城に踏み出したものでした。
実際、発掘された遺物からは、山城で政治や生活が行われていたことがわかります。
京都などとの交易によってもたらされた高級品の数々・・・伊達氏が、中央と密接なつながりを持っていたことがわかります。
すり鉢や、石臼なども多く出土しています。
文化的な山城でした。

さらに、桑折西山城の特色は、伊達の一族や有力家臣が暮していた中館、西館といった曲輪・・・。
そこにも、本丸に劣らない防御が施されていました。
高さ5メートルほどの大きな空堀です。
この強力な防御を施した曲輪に、一族や有力家臣を住まわせていた伊達稙宗・・・
もともと、それぞれの領地に館を構えていた彼等を、自らの城に集めることで、権力を一元化させる狙いがあったと考えられます。
桑折西山城の城下にも、それを推し進めようとしていました。
有力な家臣が稙宗の本拠地に常駐して、武士としての権力を作っていく・・・!!
こうした城下に家臣を集める城づくりは、織田信長が、1563年に居城とした小牧山城で家臣を城下に集めるようになったことといわれてきました。
しかし、それより30年も前に、信長と同じ城づくりを行っていたのです。

伊達稙宗は、1488年に生まれ、20代前半で伊達氏の家督を継ぎました。
もともと、伊達郡を治める一領主に過ぎなかった伊達氏・・・稙宗の時代には、現在の福島県北部から宮城県南部、山形県南部にまで領土を広げていました。
稙宗の勢力拡大を支えたのは、政略結婚でした。
彼には男女合わせて21人の子供がいました。
その子供たちを、次から次へと周辺と縁組させていきます。
縁組を拒んだ、最上氏や岩城氏は、軍事行動で制圧。
硬軟を織り交ぜた手段で、版図を拡大させたのです。
その結果、周辺のほとんどの大名と縁戚関係が結ばれ、伊達氏は奥羽地方屈指の勢力と成長しました。
さらに、稙宗が重視したのが室町幕府とのつながりでした。
伊達氏は、代々室町幕府と密接な関係にありました。
将軍から名前の一字を与えられることも多かったのです。
稙宗の名も、十代将軍・足利義稙から一字を拝領したものです。
そして、稙宗は、1522年、35歳の時、幕府からある役職に任命されます。
それが、陸奥国守護職でした。
それまで守護が置かれていなかった奥羽において、異例の地位を得たのです。
名実ともに奥羽の盟主となった稙宗は、次なる行動に出ます。
それが、桑折西山城の築城でした。
1532年、稙宗は45歳にしてこの城に拠点を移します。
独自の支配体制を構築していきます。
その象徴となったのが、矢継ぎ早に制定した新しい法制度です。
居城を移した翌年からわずか6年で、4つもの法令集を発布。
伊達氏による新たな支配体制を世に示しました。
稙宗が政治を行った場所が、桑折西山城の本丸です。

伊達一族の中世: 「独眼龍」以前 (515) (歴史文化ライブラリー)

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1536年制定の「塵芥集」
訴訟に関わる法令で、なんと171の条文があります。
その内容は、殺人や窃盗といった刑事犯罪をはじめ、土地の売買、質入れでの揉め事など、多岐にわたりました。
なかには離婚、犬、落とし物にあたる条文まであります。
塵芥集の特徴は・・・その制定の必要性は??
道理にかなった納得してもらえる判決を下すためです。
第一義的には、家臣たちのために出した条文です。
家臣たちが支配している領地の領民たちの問題にも対応しています。
実際、塵芥集の中には、稙宗が家臣だけでなく、全ての領民に目を向けていたことをうかがわせる条文があります。

”万民を育むために、用水路を通すようにせよ
 農業用水は、万民の助けである
 誰か一人の損得で用水路をつぶすことは民を育む道理に反するものである”

民が生きていくうえで必要なものなので、用水路は引くべきだ
民衆たちを養うこと、民衆たちの生活を維持することが、領主としての役割だという認識が伺えます。
家臣だけでなく、領民のための政治を掲げることで、稙宗は新しい国づくりをしようとしたのです。

奥羽地方、現在の東北で勢力を拡大させ、法による支配体制を強化していった伊達稙宗・・・
しかし、その理想を追った急進的な改革は、次第に家臣たちとの間で軋轢を生んでいきます。
桑折西山城の城下に集められたことで、家臣たちはもともと持っていた所領から離れざるを得なくなります。
さらに、稙宗が行う民衆の政治は、家臣の既得権益を奪う者でもありました。
後に伊達政宗は、曽祖父である稙宗についてこう評しています。

「稙宗は、家臣の扱いが悪く、家中では皆恐怖心を持ち、恨みを抱くものが多かった」

そんな中、拡大路線を推し進める稙宗は、新たな外交政策に打って出ます。
越後の守護である上杉氏に跡継ぎの男子がいないため、我が子を養子に送り込もうと目論んだのです。
もし、上杉と関係を結ぶことができれば、伊達の影響力は日本海まで及ぶことになります。
これに対し、越後では賛否両論が起こり、反対派の上杉家臣が、反乱を起こすに至りました。
この時、稙宗が周辺大名に送った書状にはこう書かれています。

「越後では意見が分かれ、内乱が起こっているが、反対するものは退治する」

武力を行使しても、あくまで上杉との関係を結ぼうとしていた稙宗・・・
1542年、事態は思わぬ展開に・・・
鷹狩りに出かけた稙宗が、帰り道につら得られ、桑折西山城に幽閉されたのです。
謀反を起こしたのは、稙宗の嫡男・当時24歳の伊達晴宗でした。
稙宗の支配体制に不満を抱いた家臣たちが、晴宗を担いで稙宗を失脚させたのです。
まもなく、稙宗は腹心の家臣に救出され、桑折西山城を脱出。
これからいかに行動すべきか、選択の時が・・・!!
戦ってでも当主の座を守る??
それとも、当主の座を譲っておとなしく隠居??

桑折西山城から家臣の城に逃げ延びた稙宗は、姻戚関係を結んでいた大名たちに書状を送り、出兵を求めました。
息子の晴宗と戦ってでも当主の座を守ることを決断したのです。
これによって、伊達の家臣だけでなく、奥羽一帯の大名が稙宗派と晴宗派に二分!!
6年も続く戦乱が幕を開けました。
天文の乱です。
乱の勃発当初は、近隣の大名の多くを味方につけた稙宗が優勢に戦いを進めます。
晴宗から桑折西山城を奪い返すことに成功。
城に戻った稙宗はこう語りました。

「東西南北、ようやく静謐となるであろう」

しかし、予想に反し、戦いがおさまることはありませんでした。
伊達家の対立が飛び火し、周辺大名の家中でも稙宗派と晴宗派に分かれた戦いが始まったのです。
援軍の減った稙宗は、劣勢になっていきます。
さらに、娘を嫁がせていた有力大名・会津の芦名氏が、晴宗派に寝返ったことで、稙宗は窮地に陥ります。
そして、この奥羽一円を巻き込んだ戦乱は、将軍・足利義輝の停戦命令によって、1548年に幕を下ろす・・・稙宗は晴宗に破れたのです。
戦乱が終わると、稙宗は現在の宮城県にある丸森城に隠居。
以後、伊達の政治運営に関わることなく1565年この世を去ります。
享年78歳でした。

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一方、伊達氏15代当主となった晴宗は、居城を米沢城にうつします。
稙宗が新たな国づくりを行わんとした桑折西山城は、築城からわずか16年で廃城となりました。
しかし、この城には、稙宗の死後、再び使われた痕跡があります。
敵の侵入を阻むために、門の西側の道をL字型にする外枡形・・・
さらに、西館では門の内側にも桝形が築かれ、二重に守りを固めていたのです。
こうした出入り口が作られるようになったのは、戦国末期の頃です。
伊達家でいうと、ひ孫の政宗の時代・・・!!
もう一度、臨時の軍事拠点として、桑折西山城が瞬時的に使われていたことを証明しています。

実際に誰がこの城に桝形を築いたかは解明されていません。
しかし、一説にはひ孫の伊達政宗だったのではないかと考えられています。
稙宗の死から2年後に生まれ、奥羽の覇者へと上り詰めて行った政宗・・・
稙宗が、この桑折西山城で抱いた野望は、政宗へと引き継がれていったのかもしれません。

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伊達の国の物語 政宗からはじまる仙台藩二七〇年

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1615年5月・・・大坂城落城・・・
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5月10日、諸大名引見
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6日後の5月16日には公家衆や、仏教各宗派の僧侶と会見。
6月2日豊臣家の金銀が到着
6月15日、すぐに御所に参内し、その銀を進上します。

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大坂の陣が始まる前・・・
1614年4月に、金地院崇伝に膨大な書物を集めさせていました。
大坂の陣の後の2か月は、その資料を基に作られた法案を吟味する時期だったのです。
崇伝は法案を家康に読み聞かせていました。
崇伝の説明を受け、家康が疑問を投げかけます。
禅問答のようなやり取りを、何度も行っていたといいます。
そして、大坂夏の陣からおよそ3か月・・・将軍秀忠の名で、新たな法令が矢継ぎ早に発布されていきます。

1615年6月13日・・・一国一城令
大名は、領国に城を一つしか持ってはならないとされました。
この法令は、西国の外様大名の軍事力を大幅に削減することを狙ったものと考えられます。
ちなみに、豊前小倉藩城主・細川忠興が破却した城は7つ・・・
悉く破却し、小倉城と中津城を残すのみとなりました。
わずか数日のうちに全国で400以上の城を破却したと言われています。

1615年7月7日・・・武家諸法度が申し渡されます。
”文武弓馬の道 もっぱら相嗜むべき事”
で始まるこの条文、第6条では城を修復する際には幕府に届け出をすること、新たな城を造ることは禁止されています。
これは、大名たちの武力を徹底的に削減するとともに、法令を守らない大名を処罰することで幕府の権威を高める仕組みになっていました。
この家康の狙いにまんまとはまってしまった大名は??
安芸広島藩50万石の藩主・福島正則です。
副島は、洪水で破損した石垣を修理しただけでしたが、届け出がなかったため許可なく城の改築をしたとして改易・・・取り潰しとなってしまいました。
家康の死から3年後のことでした。
武家諸法度発布後に改易された大名は、外様51家、親藩・譜代34家・・・徳川幕府は、法の権威を高めることで支配を確立しました。

7月17日・・・朝廷と幕府の連絡役の公家が呼ばれ、17条に及ぶ朝廷を統制する法令・・・禁中並公家諸法度が申し渡されました。
1条から12条までが皇室と公家が守るべき規定・・・
1条の”天子が修めるべきものは第一に学問である”・・・これは、天皇の政治関与を禁じた規定として知られています。
また、7条の”武家の官職は、公家の官職とは別のものとする”という規定・・・これは、武家の序列の証である朝廷の官職を将軍が自由に任免できることを意味していました。
諸大名の序列は、石高でなく官位でした。
石高が高くても、官位が低いと下座に置かれました。
だから・・・どうしても高い官位が欲しい・・・!!
武家諸法度で厳しく行動を規制するのがムチなら、アメに相当するのが官職・・・その利用価値を家康は見抜いていました。

7月24日には、諸宗寺院法度発布
各派ごとに本山(本寺)→末寺という制度を設け、本山である寺が末寺を統制するしくみを作りその本山を幕府が管理する・・・!!
家康は、戦国時代に大名をも脅かした宗教勢力を徹底的に封じ込めようとしたのです。

8月4日・・・京都を立ち、駿府に帰りつきます。
そして、この地で大好きな鷹狩りを楽しむこととなります。

10月・・・京都での法令づくりを終え家康は江戸城にいました。
徳川実記によれば、この時家康は、関東各地を巡り狩りを楽しんでいるように思えました。
しかし、その目的は違うところにありました。
9月・・・駿府滞在中、江戸から訪ねてきた春日局より重要な報告を受けていました。
春日局は、秀忠と正室のお江が、病弱な竹千代を跡継ぎから外し、快活で夫婦からの寵愛を受けている国松に
代えようとしていると訴えたのです。
春日局の報告を受けた家康は、すぐさま江戸に赴きました。
徳川将軍の行動を記録した”武野燭談”によると・・・
江戸城で竹千代と国松に面会した家康は・・・
竹千代と国松を呼び寄せた家康は、身近に竹千代を座らせました。
国松が寄っていくと・・・「それはダメだ!!」と、下がるように指示をしました。
あくまで年長の竹千代が将軍跡継ぎで、国松は将軍を支える立場であることをわからせようとしたのです。

長幼の序という秩序を乱す危険性が大きい・・・
能力主義で、兄弟の優秀なものを選ぶのは一つの考えですが、それをもとに権力闘争、内紛から政治体制が自壊することがあります。

1616年元旦・・・江戸城黒書院・・・
秀忠は、将軍への始めの挨拶を竹千代に行わせました。
家康の意を察した秀忠は、家臣たちの前で将軍の跡継ぎが竹千代であることを明らかに示したのです。
将軍後継者と徳川一門をめぐる新たなルール作りに心を砕いていた家康・・・
実は、頭を悩ませる問題がもう一つありました。


1615年9月・・・京都での法令発布を終え、駿府で休息していたとされる家康・・・
しかし、徳川実記には大事件があったと記されています。
家康は、息子・上総介忠輝を感動していたのです。
松平忠輝は、家康の6男・・・将軍秀忠と13歳違いの24歳。
存命している家康の息子のうち2番目の年長者で、越後高田75万石を擁する大大名でした。
当時、徳川一門では、2代将軍・秀忠に次ぐ存在でした。
どうして忠輝を勘当したのでしょうか?

原因は、大坂夏の陣!!
忠輝は、大坂に向かう自分の軍を、追い抜こうとした将軍秀忠の家臣2人を討ち取り、報告もしていませんでした。
さらに、肝心の夏の陣では、戦場に到着が遅れ、陣の最後尾で高みの見物をしていたと様々な記録に残されています。
将軍を蔑ろにし、戦で何の成果もあげない・・・報告を受けた家康は激怒・・・忠輝の勘当という処分に繋がったと考えられています。
しかし、当時、行軍中の追い抜きは無礼に当たるということで、斬り捨てが許されていました。
本当に家康は、斬り捨てが原因で息子を処分したのでしょうか?

伊達政宗の存在・・・??
政宗は、忠輝の舅という関係にあります。
政宗は、忠輝をかわいがっていました。
高田城を普請する時には、自ら駆けつけ世話を焼くほどの入れ込みようだったのです。
その忠輝と政宗が連携することになれば、大きな力になりかねないという心配がありました。
忠輝は、仙台62万石の大名・伊達政宗の娘・五郎八姫を娶っていました。
関ケ原の戦いの前年、伊達政宗との関係を深めようと、家康が画策した政略結婚でしたが、そのおかげで徳川の中では忠輝が将軍秀忠を脅かしかねない大きな存在となっていたのです。

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1613年・・・政宗は、家康の許しを得てスペインやメキシコとの貿易交渉に支倉常長を派遣しています。
ところが、スペインは貿易の条件としてキリスト教の布教許可を要求・・・
政宗は、領内の布教を容認する姿勢を示したと考えられます。
しかし、キリシタン禁教を進める幕府から見れば、政宗の振る舞いは徳川の方針に従わない危険なものでした。
家康亡き後、政宗が日本の皇帝になると、ソテロ神父は言いふらしていました。
徳川を脅かしかねない伊達政宗・・・
その伊達政宗に支えられ、将軍秀忠を蔑ろにする忠輝・・・
忠輝は、徳川一門最大のリスクになっていたのです。

大坂夏の陣の翌年・・・1616年正月。
江戸では謀反の噂がしきりと流れていました。
江戸にいた大名・・・細川忠興が、国元の息子に送った手紙には・・・
”正宗の事、色々噂がある 根も葉もないうわさとも、真とも知れないが、内々に陣の用意をしておくように・・・”
平戸のイギリス商官庁のリチャード・コックスは、
”皇帝と政宗の後押しを受ける上総(忠輝)との間で戦争が起きるという噂がある”
勘当された忠輝が、政宗と兵をあげる噂が全国に広まっていたのです。

忠輝と、政宗との婿・舅の関係、キリスト教徒と政宗の親密な関係・・・
何かしでかすかもしれないと思わせるような政治状況はまだ残っていました。

一方、家康には死期が迫っていました。
静岡県藤枝市・・・田中城・・・家康が鷹狩りで訪れていた場所です。
1616年1月21日、家康発病・・・
夕食にタイの天ぷらを食べた後、発病します。
現在では胃がん説が有力視されています。
すぐさま駿府に戻ったものの、病状は一進一退・・・秀忠をはじめとする一門が、駿府に駆けつける中、謀反の噂が立っていた忠輝も駿府に向かっていました。
忠輝は、なんとか面会したいと願い、何度も嘆願を繰り返しました。
しかし、家康は面会を許しませんでした。

この時の家康の心は・・・??
忠輝と政宗が兵をあげるという噂は本当か??
真偽を確かめるより攻め滅ぼすべきか・・・??
将軍を蔑ろにする弟は、邪魔者でしかない・・・??
キリシタン禁制を守らないだけでも、幕府に従わない異物・・・??
この際、忠輝と政宗を攻め滅ぼす・・・??

そうすれば、徳川の天下を脅かす者はいなくなる!!
秀忠も、安心して将軍を治められる!!

しかし・・・謀反が根も葉もない噂だったら・・・??
折角戦のない世を作ろうとしているのに、誰も徳川の世を信じなくなる・・・
しかも、忠輝は息子・・・確かの証拠もなく殺したくはない・・・!!

問題は、忠輝と政宗・・・2人が結びついていることだ!!
2人を徹底的に引き離すか・・・??
そんなことが出来るのか・・・??
秀忠の天下は脅かされ続けるのか・・・??

伊達政宗が、晩年に側近に語った懐旧談があります。
”木村宇右衛門覚書”・・・そこに、家康の選択が記されていました。
家康の死から16年後の1632年3月・・・
秀忠が死の床で、政宗に語った言葉です。

「権現様が、駿河で病気になった時、政宗をひどく悪く言って私に江戸に戻って仙台攻めの支度をせよと命じられた」

政宗自身も、こう語っています。

「家康公が病気と聞いて、駿府に向かおうとしていたら、将軍秀忠公が江戸で仙台攻めの用意をしているという知らせが次々に入ってきた
 身に覚えのないことなので、驚いた
 もし、戦となれば、幕府軍相手に勝ち目はない・・・!!」

家康は、政宗討伐を選んだように見えます。
しかし、そこに、家康公の側室・お勝の方から早馬で文が届けられた!!
”一刻も早く家康公と対面しないとためにならない”と。

駿府に行けば殺される・・・そう止める家臣たちの手を振り切り、政宗は駿府に向かいました。
2月22日・・・政宗は駿府に到着。
病床の家康に会って聞かされた仙台攻めの理由とは・・・謀反の疑いでした。
政宗が、家康の病に乗じて大坂の豊臣方の残党と組んで謀反をするかもしれない・・・
そんな密告がされていたのです。
その人物とは・・・??
”かつさの守”・・・松平忠輝でした。
実は忠輝は、「政宗が謀反の意思を持っているということを言ってきた」ということを話しました。
それを家康が心配し、仙台陣やお勝の文という形で動いたのです。
もし、謀反する気なら絶対に来ないだろう・・・
しかし、駆けつけたことで、家康は政宗への疑いをときました。

政宗自身の証言によると、毎日のように見舞う政宗に、家康は将軍秀忠の後見さえも命じたといいます。
忠輝が、本当に政宗謀反を密告したのか・・・??
証拠はありません。
確かなのは、家康の言葉を聞いた政宗が、忠輝と縁を切り二度と支えようとしなかったことです。
家康は、政宗と忠輝を殺すことなく二人の間を裂き、政宗を秀忠を支える側にしたのです。

1616年3月19日、家康は、金銀を末の息子3人に分け与えます。
遺産の総額は、194万1600両・・・およそ1940億円でした。

4月2日、金地院崇伝らのブレーンを呼び、亡くなったのちの埋葬、位牌などを指示します。

”一周忌が過ぎたら、下野・日光に小堂を建て、勧請せよ
 関八州の鎮守になろう”

この言葉が、家康の遺言となりました。
そして4月17日、息を引き取ります。
享年75・・・
家康の死から3か月後、忠輝は将軍秀忠の命で改易され伊勢朝熊に蟄居となります。

長野県諏訪市・・・貞正院・・・
伊勢に流されてから10年後、忠輝は諏訪に移され92歳で亡くなるまでこの寺で過ごしました。
25歳で流されてから67年、その頃、幕府は5代将軍・綱吉の時代になっていました。

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今回の先生は、橋場日月先生です~~!!

今なお現代人を魅了してやまない戦国武将・・・。
血で血を洗う戦乱の世を勝ち抜くために、彼らが求めていたものは・・・お金でした。
戦国武将は、お金集めに必死でした。

織田信長・・・
当時、京都・大坂にまで勢力を伸ばしていた信長は、京都・大坂から多額の税金を徴収。
裕福な寺院、栄えていた堺・・・など。
この時集めていたお金は、ある金額と一致します。
それは、足利義昭を将軍に擁立する為に京都に攻め入った戦の費用でした。
戦をする・・・それは莫大な費用が掛かるという事。
優秀な武将や兵士を集める給料、費用、食費や刀、鎧、鉄砲・・・攻め落とした城の補修費・・・
何をするにもお金が必要でした。

戦国武将の力とは・・・すなわち資金力!!
腕っぷしの強さや大義だけでは勝てないのです。
天下を取る野望はあるが、お財布事情はギリギリ・・・
信長も資金繰りに悩む若手経営者だったのです。


豊臣秀吉が、信長の時代に大きな力を発揮したのが経費削減で下。
1581年、鳥取城を落とす際に・・・手っ取り早いのは兵糧攻め・・・
お金と時間がかかる・・・三木城の時は2年もかかってしまった・・・。
そこで・・・!!
秀吉は秘策で兵糧攻めを4か月に短縮しました。
その秘策とは・・・??
いつもの3倍の値段で米を買い占めたのです。
秀吉が潜り込ませた商人が、城の倉庫の米も買い占め・・・
この時の経費は2000万円。
しかし、米がない鳥取城はすぐに陥落。
これにより秀吉は、戦の時間を1年8か月短縮し、300億円もの経費削減をしました。

江戸幕府初代将軍・徳川家康・・・

戦国時代の家康は、250万石の大大名でありながら、戦国一のドケチでした。
食事は麦飯、服も質素で、下着も買い換えない・・・
そんな家康が天下人になれたのは・・・??

1595年秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹させられる事件がありました。
そんな中、細川忠興の家臣が家康の元へ・・・
「実は我が殿は、秀次様より黄金100枚を借りておりました。
 一刻も早く借金を返し、関係を絶たねば、殿は秀次様の仲間と見なされ、切腹となります。
 どうか・・・お助け下さりませ。
 殿を救うと思うて、金子数枚だけでも貸していただけませぬか?」

戦国一のドケチの行動は・・・??
「・・・では、これを持っていかれよ」

なんと黄金100枚!!
現在の二億円、さらには、「返済は無用じゃ」と・・・
「その代わり、わかっておられますな・・・」
この時の恩を忘れていなかった細川忠興は、関ケ原の戦いで先陣を切って徳川方につきました。
普段ケチケチしてためたお金を、恩を着せるために使った家康・・・この買収戦略があったからこそ天下をとれたのです。

1605年、天下を統一した後も、決して贅沢をすることのなかった家康・・・
しかし、息子に将軍職を譲って大御所となった家康が、不思議な行動に・・・??
家康が金に糸目をつけずに買い始めたものは・・・石でした。
ある日突然大名を招集した家康・・・
「これより江戸城の石垣工事を行う!!
 皆も、協力せい」
庭の石を指し・・・
「大石は一つ白銀20枚(400万円)、小石はひと箱小判3枚(60万円)じゃ」
と、ただの意思を買い占め、高値で売りさばきました。
自作自演の恐ろしいマネー術でした。
当時のスペイン商人の手記によると、城の床がきんぎんの重みで抜けたほど潤っていました。


もう一人の達人は・・・伊達政宗!!
独眼竜で知られ、最盛期には114万石の大大名でした。
そんな政宗は、剛腕なマネー術が目立ちます。
領地でとれる砂金のパワーで、東北を席巻していた政宗は、秀吉にも莫大な賄賂を贈り可愛がられていました。

「ところでお前、会津に攻め入ったようじゃの?
 わしの許しを得ず、勝手に戦を仕掛けるなど、言語道断じゃ。
 仕置に会津は蒲生氏郷に与える!!」by秀吉

会津には欧州に匹敵する金山がある・・・政宗はそれを奪おうと会津を責め取っていました。
しかし、その行動に目をつけられ、よりによって会津はライバル蒲生氏郷の手に・・・!!

「いまに見ておれ!!」

と、政宗は常識外れの行動に出ます。
会津を引き渡す前に、事故に見せかけて金鉱を水没させました。
会津ではその後一切金が採れなくなり、奥州の金が高騰したとか・・・。

さらに江戸時代、政宗は会津への執着を捨ててはいませんでした。

「どうか、会津をお返しいただけませんでしょうか?」by政宗

「お前は素行が悪いから駄目じゃ」by家康

政宗の夢は再び潰えた・・・しかし、そんな中、あるニュースが舞い込んできました。

「いま、江戸は人が急に増えて、米が足りていないそうです。」by家臣
「何・・・??という事は?
 農民たちから余った米を買い占めるのじゃ」by政宗

安く買い占めた米を江戸で高く売るビジネスを始めます。
これにより年間10万石、約45億円の収入を得ました。

江戸っ子の胃袋を掴んだ政宗は、後に天下の副将軍と呼ばれるほどお金の力で幕府の実権を握りました。
しかし、病魔にむしばまれ死を悟ると、お金の力を誰よりも知っていた政宗は、市の3か月前、幕府の閣僚に頼みごとをしました。

「すまぬが少々金を貸してもらえないだろうか」
「して・・・いかほどに・・・」
「銀子1000貫・・・!!」
その額およそ30億円!!
お金がたくさんあるのにどうしてそんな大金を・・・??

「これで仙台藩は安泰じゃ
 わしの死後、仙台藩が無くなれば貸し倒れとなる・・・
 借金があれば、取り潰しになることはない」by政宗

仙台藩は、政宗の死後15代にわたり栄えたのでした。

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日本各地の山々に、のこさえ不思議な建造物が残されています。
戦国時代に築かれた山城・・・
その数は、全国で5万にも及ぶと言われています。
この山城こそ、戦国乱世の象徴であり、天下統一を目指す秀吉を最後まで苦しめたものでした。

秀吉が関東の巨大国家に攻め込んだ小田原の陣とは・・・??
激戦の地となったのは、関東の雄・北条氏政が築いた山中城です。
戦国最強の山城と言われました。
城を守る北条軍、およそ4000。攻める豊臣軍6万8000!!
圧倒的な大兵力が山中城に攻め入りました。
しかし、戦いの記録には・・・
5、60も鉄砲手負負傷の者有之候・・・屍の山を築いたのは、なんと豊臣軍でした。
広い関東地方を戦国時代に治めるのは、相当な技術が必要でした。
後世語られるよりも、北条は秀吉にとって脅威だったのです。

山城を語らずして戦国、日本を語ることはできません。
日本にある城の数は5万!!2、300人に一つでした。
至る所に城があり、その8割が山城でした。
山城をめぐる競争の中で、日本社会の形が決まっていったのです。

神奈川県西部にある小田原城・・・五代、100年にわたって関東一円を治めた北条氏の本拠地です。
小田原城の本丸は、今の小田原城より北の山の上にありました。
戦国時代は、小田原城の本体は山城だったのです。
当時の小田原城は・・・??
山の傾斜を利用した巨大な堀・・・当時は、現代の見た目よりも高い20m級でした。
さらに、堀の傾斜は45度以上で、関東ローム層の粘土質の土でした。
関東ローム層は、10度の勾配でも、つるつるで登ることはできません。
石垣にも勝る土の城・・・土の城侮ることなかれ!!です。
当時は堀も水堀で、小田原城に入ることは出来そうにありません。
総構・・・城を待ち事囲んだ堀と土塁・・・全長およそ9㎞で、当時最大級の規模でした。
総構の中には、武士だけでなく、町人や農民の生活する場所が設けられていました。
城内では、農民が城の防衛に当たることがありました。
小田原城では、侍と民衆がともに国を守る・・・助け合うシステムが作られていたのです。
総構が完成したのは、4代当主北条氏政の頃で、息子に家督を譲り、後見人として政務を取り仕切っていました。
戦国時代の小田原の様子は・・・
小田原は、守護政道に私欲がなく、民を大切にしたので、津々浦々の町人や職人たちはその恩恵を感じ、西国や北国からも移住してくるほどであった。
民の生活も豊かで、生業は繁盛していました。
更に北条は、領国支配を確かなものにするため、領内に多くの山城を配置。
小田原城を中心とする城郭ネットワークを構築していました。
そのうちの一つが津久井城でした。
かつて、いろいろな仕掛けが施された山城でした。
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古い絵図には、本丸などの曲輪や斜面の堀の様子が描かれています。
曲輪通しが橋で繫がれている部分・・・
堀切に引橋という部分が残っており、味方が渡り終えたら橋を引いてしまう・・・。そんな形になっていました。
巨大な山城、小田原城との城郭ネットワーク・・・その数は、最盛期で90以上に上りました。
しかし、同じころ、さらなる巨大勢力が誕生していました。
信長の次に天下人となった、関白・豊臣秀吉です。

秀吉は、四国、九州を立て続けに平定・・・そして、次なる強敵・北条氏に豊臣家に対する従属を要求してきました。
しかし、氏政は、この要求に応えようとはしませんでした。
秀吉による天下統一というものを、北条は疑問視していました。
「自分たちの国が立派に機能しているのに・・・??
 領民たちも不満なく暮らしているのに・・・??
 どうして秀吉の天下に納まらなければいけないのか・・・??」
業を煮やした秀吉は、ついに北条討伐を決定!!
北条に宣戦布告城をたたきつけ、関東の狼藉者を討つと宣言します。

1590年3月、豊臣秀吉、関東へ出兵!!
兵数およそ22万!!小田原へ!!史上空前の大軍勢でした。

北条では、城のメンテナンスをする場所を、村ごとに割り当てていました。
直すことで、いざ、敵が攻め込んできたときに、その城に逃げ込む権利を有しているのです。
村人の安全保障をしてくれる城・・・他とは全然違う城郭ネットワークだったのです。

秀吉の襲来に備え、北条氏は各地の山城の整備を急ぎます。
鍬や簀子をもって、城の普請に努めよ・・・工事の主体となったのは、地元の民衆でした。
中でも力を入れたのは山中城・・・小田原城を防衛する最前線の城でした。
箱根の西に当時の東海道を遮る形で作られていました。
山中城は本丸を中心に作られた防御陣地や、曲輪によって豊臣軍の侵入を物理的に封鎖しています。
海道を通ってくる敵には岱先出丸で、山からの敵には西の丸で迎撃できるようになっていました。
敵がどこから来ようと守り切る形が出来上がっていたのです。

1590年3月29日、豊臣軍山中城に到着
その数およそ6万8000!!秀吉の直轄部隊を含む、主力部隊です。
対する北条方は僅か4000。兵力には圧倒的な差がありました。
当時の戦況を記した資料(豊臣方に従軍した侍)には・・・
城内から鉄砲がつるべ撃ちにされ、鬨の声がどっと上がりました。
岱崎出丸から北条の鉄砲隊が構えていたのです。
山中城は、空堀や土塁、やぐら台で接近を防ぎました。
城跡からはたくさんの鉄砲玉が発掘されています。
北条軍は、善戦した戦いで・・・強行突破をしようとする秀吉軍!!
秀吉の指揮所からほら貝が・・・!!
全軍に総攻撃の命令が!!
しかし、それを待っていたのは、北条の一斉射撃でした。
豊臣方先鋒・・・一柳隊の大将・一柳直末は、この戦いで討ち死にしています。
城攻めで大将格が討たれることは、戦国の世でも稀でした。
射撃から身を隠した隊は、2時間も足止めを喰らいます。
そして目にしたのは・・・突入した豊臣兵たちの屍でした。

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豊臣勢を恐怖させたのは・・・障子堀という独特の作りです。


空堀を障子のように区切る畝が、敵の動きを封じると言います。
城内の殆どの曲輪にこの堀がありました。
その効果は絶大!!


本来は、滑りやすい赤土で、狭い畝・・・
その上を通ることは不可能でした。
普通、空堀に降りた兵あっちは、堀底を通路のように歩き、守備の弱い場所から突破していきます。が・・・この障子堀ではそうはいきません。
袋のネズミです。
堀底からの移動は困難でした。
とにかく、北条の銃撃を耐えに耐えて隙を見て登っていく・・・その方法しかありませんでした。
多くの犠牲を払った山城攻め!!
北条軍は、豊臣軍を多大いに苦しめました。
甚大な被害を被った豊臣軍は、しかし、兵を投入し続けます。
豊臣方の侍は、三の丸に侵入・・・見方が銃弾に倒されていく中、どん欲に本丸を目指していました。
時間が経つうちに、鉄砲の煙も薄くなってきました。
あとからあとから出てくる豊臣軍に、鉄砲の弾が尽きたのか、北条の動きに衰えが・・・!!
この僅かの隙に付け入って・・・怯む北条方を追いかける体で、二の丸へ強行突入!!
そして、日も暮れようとする頃・・・
敵味方の兵たちが。重なり合いもみ合い、堀に落ち・・・ついに本丸陥落!!
序盤で善戦した山中城は、結果的には僅か半日で落城してしまいました。
この戦いで、北条4000人のうち死者1000人。
豊臣方は、その数倍の犠牲者を出したと言われています。
撃っても撃っても屍を堀越える形でやってくる豊臣軍・・・
そんな戦いの中で山中城は落城しました。
中性的世界と近世的世界・・・非人道的、非人格的な世界、近代に繋がる戦いでした。
山中城を突破した3日後、4月3日に秀吉はついに小田原に到着。
豊臣方の軍勢には、各地からそうそうたるメンバーが!!
小田原城を陸と海から完全に包囲!!
さらに秀吉は、自らの陣に城を築き始めました。
石垣山一夜城・・・北条に先端技術を見せつけるような、総石垣づくりの城でした。
秀吉はそこで、茶会や能を催す余裕でした。
一方では、北条領内の山城群にも攻撃をかけます。
絶体絶命の北条・・・応戦か降伏か・・・決断をするのは、四代当主氏政!!

小田原城は、これまで上杉謙信も、武田信玄も跳ね返して来た・・・
籠城戦を貫いて応戦する??
1561年には上杉謙信が11万3000の兵で小田原城を包囲、1569年には武田信玄が小田原攻めを企てていました。
北条はこれらの侵攻に籠城で応戦し、敵を兵糧不足にしたと言われています。
豊臣軍に囲まれた今回も、それを狙っていました。
籠城戦ならば、あとは後詰さえいれば勝てる!!
我が方には奥州の雄・伊達政宗がいるではないか!!
小田原城に秀吉軍を引き付けて、その隙に背後をつかせれば、勝敗の行方はまだわからない・・・。
伊達政宗は、北条とは良好な関係にありました。
石田三成の書状には・・・
「北条を討伐の後、直ちに黒川に乱入し、政宗の首を刎ねる!!」とあります。
秀吉が滅ぼそうとしていた政宗が北条と結託していても、なんら不思議はありません。
援軍の可能性も・・・!!
しかし、一筋縄ではいかない伊達・・・信じられるのか・・・??

それとも降伏・・・??
九州の島津や、四国の長宗我部は降伏しても、本領安堵されている・・・
我等にも交渉の余地があるのでは・・・??
戦になれば、秀吉は総力戦を仕掛けてくるかもしれない!!
北条にとって想定外だったのは、山中城の戦いで秀吉が見せた犠牲をいとわない人海戦術です。
戦いになれば、小田原城内の民衆たちにも甚大な被害が及ぶかも・・・??

籠城か、降伏か・・・??
北条の存亡をかけた決断が・・・!!

小田原城包囲から2か月・・・
ついに戦況が動きます。
6月9日、奥州の雄・伊達政宗が秀吉の軍門に下ります。
北条に援軍の可能性は無くなりました。
小田原城中では重臣たちによる大評定が行われていましたが、明確な答えの出ないまま・・・
そのうちに、重要拠点だった鉢形城、八王子城などが落城し、忍城を除く全ての拠点が攻略されました。
そして、7月5日、ついに小田原城はついに門を開き降伏・・・北条氏は降伏するのです。
主戦派と見なされた四代当主氏政は、数人の家臣と共に切腹。
息子・氏直は高野山に追放され領土はすべて没収となりました。
関東を新しく統治したのは、後の天下人徳川家康でした。
領国の中心は、小田原から江戸へ移され、山城は次々と廃城。
名残は消えていきました。

2015年小田原市内の発掘調査で興味深い遺構が発見されました。
総構の内側から障子堀跡が見つかったのです。
そこは古くから百姓曲輪と珍しい名前で呼ばれていた一角で、研究者の間では、北条の時代民衆のための避難場所だと推測されていました。
総構の中で大切にされていた百姓曲輪・・・秀吉とは違う民との向き合い方が見て取れます。
民を慈しんだ北条氏・・・もし、小田原城が落とされなければ、日本の歴史は北条氏が目指していた身分の・・・
身分を厳しく分けてゆく社会ではなく、みんなで共同して世の中を作っていったのでは・・・??
五代100年もの間、山城によって守られてきた北条王国・・・その滅亡は、日本の歩む道を大きく変えたのかもしれません。

一人の命令で何千、何万人が死んでしまうような戦い方・・・を平気でする秀吉のような戦い方は、近世にならないとできないものでした。
その近世への決定的な転換点が、小田原の陣だったのです。

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