日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:伊達政宗

今回の先生は、橋場日月先生です~~!!

今なお現代人を魅了してやまない戦国武将・・・。
血で血を洗う戦乱の世を勝ち抜くために、彼らが求めていたものは・・・お金でした。
戦国武将は、お金集めに必死でした。

織田信長・・・
当時、京都・大坂にまで勢力を伸ばしていた信長は、京都・大坂から多額の税金を徴収。
裕福な寺院、栄えていた堺・・・など。
この時集めていたお金は、ある金額と一致します。
それは、足利義昭を将軍に擁立する為に京都に攻め入った戦の費用でした。
戦をする・・・それは莫大な費用が掛かるという事。
優秀な武将や兵士を集める給料、費用、食費や刀、鎧、鉄砲・・・攻め落とした城の補修費・・・
何をするにもお金が必要でした。

戦国武将の力とは・・・すなわち資金力!!
腕っぷしの強さや大義だけでは勝てないのです。
天下を取る野望はあるが、お財布事情はギリギリ・・・
信長も資金繰りに悩む若手経営者だったのです。


豊臣秀吉が、信長の時代に大きな力を発揮したのが経費削減で下。
1581年、鳥取城を落とす際に・・・手っ取り早いのは兵糧攻め・・・
お金と時間がかかる・・・三木城の時は2年もかかってしまった・・・。
そこで・・・!!
秀吉は秘策で兵糧攻めを4か月に短縮しました。
その秘策とは・・・??
いつもの3倍の値段で米を買い占めたのです。
秀吉が潜り込ませた商人が、城の倉庫の米も買い占め・・・
この時の経費は2000万円。
しかし、米がない鳥取城はすぐに陥落。
これにより秀吉は、戦の時間を1年8か月短縮し、300億円もの経費削減をしました。

江戸幕府初代将軍・徳川家康・・・

戦国時代の家康は、250万石の大大名でありながら、戦国一のドケチでした。
食事は麦飯、服も質素で、下着も買い換えない・・・
そんな家康が天下人になれたのは・・・??

1595年秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹させられる事件がありました。
そんな中、細川忠興の家臣が家康の元へ・・・
「実は我が殿は、秀次様より黄金100枚を借りておりました。
 一刻も早く借金を返し、関係を絶たねば、殿は秀次様の仲間と見なされ、切腹となります。
 どうか・・・お助け下さりませ。
 殿を救うと思うて、金子数枚だけでも貸していただけませぬか?」

戦国一のドケチの行動は・・・??
「・・・では、これを持っていかれよ」

なんと黄金100枚!!
現在の二億円、さらには、「返済は無用じゃ」と・・・
「その代わり、わかっておられますな・・・」
この時の恩を忘れていなかった細川忠興は、関ケ原の戦いで先陣を切って徳川方につきました。
普段ケチケチしてためたお金を、恩を着せるために使った家康・・・この買収戦略があったからこそ天下をとれたのです。

1605年、天下を統一した後も、決して贅沢をすることのなかった家康・・・
しかし、息子に将軍職を譲って大御所となった家康が、不思議な行動に・・・??
家康が金に糸目をつけずに買い始めたものは・・・石でした。
ある日突然大名を招集した家康・・・
「これより江戸城の石垣工事を行う!!
 皆も、協力せい」
庭の石を指し・・・
「大石は一つ白銀20枚(400万円)、小石はひと箱小判3枚(60万円)じゃ」
と、ただの意思を買い占め、高値で売りさばきました。
自作自演の恐ろしいマネー術でした。
当時のスペイン商人の手記によると、城の床がきんぎんの重みで抜けたほど潤っていました。


もう一人の達人は・・・伊達政宗!!
独眼竜で知られ、最盛期には114万石の大大名でした。
そんな政宗は、剛腕なマネー術が目立ちます。
領地でとれる砂金のパワーで、東北を席巻していた政宗は、秀吉にも莫大な賄賂を贈り可愛がられていました。

「ところでお前、会津に攻め入ったようじゃの?
 わしの許しを得ず、勝手に戦を仕掛けるなど、言語道断じゃ。
 仕置に会津は蒲生氏郷に与える!!」by秀吉

会津には欧州に匹敵する金山がある・・・政宗はそれを奪おうと会津を責め取っていました。
しかし、その行動に目をつけられ、よりによって会津はライバル蒲生氏郷の手に・・・!!

「いまに見ておれ!!」

と、政宗は常識外れの行動に出ます。
会津を引き渡す前に、事故に見せかけて金鉱を水没させました。
会津ではその後一切金が採れなくなり、奥州の金が高騰したとか・・・。

さらに江戸時代、政宗は会津への執着を捨ててはいませんでした。

「どうか、会津をお返しいただけませんでしょうか?」by政宗

「お前は素行が悪いから駄目じゃ」by家康

政宗の夢は再び潰えた・・・しかし、そんな中、あるニュースが舞い込んできました。

「いま、江戸は人が急に増えて、米が足りていないそうです。」by家臣
「何・・・??という事は?
 農民たちから余った米を買い占めるのじゃ」by政宗

安く買い占めた米を江戸で高く売るビジネスを始めます。
これにより年間10万石、約45億円の収入を得ました。

江戸っ子の胃袋を掴んだ政宗は、後に天下の副将軍と呼ばれるほどお金の力で幕府の実権を握りました。
しかし、病魔にむしばまれ死を悟ると、お金の力を誰よりも知っていた政宗は、市の3か月前、幕府の閣僚に頼みごとをしました。

「すまぬが少々金を貸してもらえないだろうか」
「して・・・いかほどに・・・」
「銀子1000貫・・・!!」
その額およそ30億円!!
お金がたくさんあるのにどうしてそんな大金を・・・??

「これで仙台藩は安泰じゃ
 わしの死後、仙台藩が無くなれば貸し倒れとなる・・・
 借金があれば、取り潰しになることはない」by政宗

仙台藩は、政宗の死後15代にわたり栄えたのでした。

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日本各地の山々に、のこさえ不思議な建造物が残されています。
戦国時代に築かれた山城・・・
その数は、全国で5万にも及ぶと言われています。
この山城こそ、戦国乱世の象徴であり、天下統一を目指す秀吉を最後まで苦しめたものでした。

秀吉が関東の巨大国家に攻め込んだ小田原の陣とは・・・??
激戦の地となったのは、関東の雄・北条氏政が築いた山中城です。
戦国最強の山城と言われました。
城を守る北条軍、およそ4000。攻める豊臣軍6万8000!!
圧倒的な大兵力が山中城に攻め入りました。
しかし、戦いの記録には・・・
5、60も鉄砲手負負傷の者有之候・・・屍の山を築いたのは、なんと豊臣軍でした。
広い関東地方を戦国時代に治めるのは、相当な技術が必要でした。
後世語られるよりも、北条は秀吉にとって脅威だったのです。

山城を語らずして戦国、日本を語ることはできません。
日本にある城の数は5万!!2、300人に一つでした。
至る所に城があり、その8割が山城でした。
山城をめぐる競争の中で、日本社会の形が決まっていったのです。

神奈川県西部にある小田原城・・・五代、100年にわたって関東一円を治めた北条氏の本拠地です。
小田原城の本丸は、今の小田原城より北の山の上にありました。
戦国時代は、小田原城の本体は山城だったのです。
当時の小田原城は・・・??
山の傾斜を利用した巨大な堀・・・当時は、現代の見た目よりも高い20m級でした。
さらに、堀の傾斜は45度以上で、関東ローム層の粘土質の土でした。
関東ローム層は、10度の勾配でも、つるつるで登ることはできません。
石垣にも勝る土の城・・・土の城侮ることなかれ!!です。
当時は堀も水堀で、小田原城に入ることは出来そうにありません。
総構・・・城を待ち事囲んだ堀と土塁・・・全長およそ9㎞で、当時最大級の規模でした。
総構の中には、武士だけでなく、町人や農民の生活する場所が設けられていました。
城内では、農民が城の防衛に当たることがありました。
小田原城では、侍と民衆がともに国を守る・・・助け合うシステムが作られていたのです。
総構が完成したのは、4代当主北条氏政の頃で、息子に家督を譲り、後見人として政務を取り仕切っていました。
戦国時代の小田原の様子は・・・
小田原は、守護政道に私欲がなく、民を大切にしたので、津々浦々の町人や職人たちはその恩恵を感じ、西国や北国からも移住してくるほどであった。
民の生活も豊かで、生業は繁盛していました。
更に北条は、領国支配を確かなものにするため、領内に多くの山城を配置。
小田原城を中心とする城郭ネットワークを構築していました。
そのうちの一つが津久井城でした。
かつて、いろいろな仕掛けが施された山城でした。
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古い絵図には、本丸などの曲輪や斜面の堀の様子が描かれています。
曲輪通しが橋で繫がれている部分・・・
堀切に引橋という部分が残っており、味方が渡り終えたら橋を引いてしまう・・・。そんな形になっていました。
巨大な山城、小田原城との城郭ネットワーク・・・その数は、最盛期で90以上に上りました。
しかし、同じころ、さらなる巨大勢力が誕生していました。
信長の次に天下人となった、関白・豊臣秀吉です。

秀吉は、四国、九州を立て続けに平定・・・そして、次なる強敵・北条氏に豊臣家に対する従属を要求してきました。
しかし、氏政は、この要求に応えようとはしませんでした。
秀吉による天下統一というものを、北条は疑問視していました。
「自分たちの国が立派に機能しているのに・・・??
 領民たちも不満なく暮らしているのに・・・??
 どうして秀吉の天下に納まらなければいけないのか・・・??」
業を煮やした秀吉は、ついに北条討伐を決定!!
北条に宣戦布告城をたたきつけ、関東の狼藉者を討つと宣言します。

1590年3月、豊臣秀吉、関東へ出兵!!
兵数およそ22万!!小田原へ!!史上空前の大軍勢でした。

北条では、城のメンテナンスをする場所を、村ごとに割り当てていました。
直すことで、いざ、敵が攻め込んできたときに、その城に逃げ込む権利を有しているのです。
村人の安全保障をしてくれる城・・・他とは全然違う城郭ネットワークだったのです。

秀吉の襲来に備え、北条氏は各地の山城の整備を急ぎます。
鍬や簀子をもって、城の普請に努めよ・・・工事の主体となったのは、地元の民衆でした。
中でも力を入れたのは山中城・・・小田原城を防衛する最前線の城でした。
箱根の西に当時の東海道を遮る形で作られていました。
山中城は本丸を中心に作られた防御陣地や、曲輪によって豊臣軍の侵入を物理的に封鎖しています。
海道を通ってくる敵には岱先出丸で、山からの敵には西の丸で迎撃できるようになっていました。
敵がどこから来ようと守り切る形が出来上がっていたのです。

1590年3月29日、豊臣軍山中城に到着
その数およそ6万8000!!秀吉の直轄部隊を含む、主力部隊です。
対する北条方は僅か4000。兵力には圧倒的な差がありました。
当時の戦況を記した資料(豊臣方に従軍した侍)には・・・
城内から鉄砲がつるべ撃ちにされ、鬨の声がどっと上がりました。
岱崎出丸から北条の鉄砲隊が構えていたのです。
山中城は、空堀や土塁、やぐら台で接近を防ぎました。
城跡からはたくさんの鉄砲玉が発掘されています。
北条軍は、善戦した戦いで・・・強行突破をしようとする秀吉軍!!
秀吉の指揮所からほら貝が・・・!!
全軍に総攻撃の命令が!!
しかし、それを待っていたのは、北条の一斉射撃でした。
豊臣方先鋒・・・一柳隊の大将・一柳直末は、この戦いで討ち死にしています。
城攻めで大将格が討たれることは、戦国の世でも稀でした。
射撃から身を隠した隊は、2時間も足止めを喰らいます。
そして目にしたのは・・・突入した豊臣兵たちの屍でした。

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豊臣勢を恐怖させたのは・・・障子堀という独特の作りです。


空堀を障子のように区切る畝が、敵の動きを封じると言います。
城内の殆どの曲輪にこの堀がありました。
その効果は絶大!!


本来は、滑りやすい赤土で、狭い畝・・・
その上を通ることは不可能でした。
普通、空堀に降りた兵あっちは、堀底を通路のように歩き、守備の弱い場所から突破していきます。が・・・この障子堀ではそうはいきません。
袋のネズミです。
堀底からの移動は困難でした。
とにかく、北条の銃撃を耐えに耐えて隙を見て登っていく・・・その方法しかありませんでした。
多くの犠牲を払った山城攻め!!
北条軍は、豊臣軍を多大いに苦しめました。
甚大な被害を被った豊臣軍は、しかし、兵を投入し続けます。
豊臣方の侍は、三の丸に侵入・・・見方が銃弾に倒されていく中、どん欲に本丸を目指していました。
時間が経つうちに、鉄砲の煙も薄くなってきました。
あとからあとから出てくる豊臣軍に、鉄砲の弾が尽きたのか、北条の動きに衰えが・・・!!
この僅かの隙に付け入って・・・怯む北条方を追いかける体で、二の丸へ強行突入!!
そして、日も暮れようとする頃・・・
敵味方の兵たちが。重なり合いもみ合い、堀に落ち・・・ついに本丸陥落!!
序盤で善戦した山中城は、結果的には僅か半日で落城してしまいました。
この戦いで、北条4000人のうち死者1000人。
豊臣方は、その数倍の犠牲者を出したと言われています。
撃っても撃っても屍を堀越える形でやってくる豊臣軍・・・
そんな戦いの中で山中城は落城しました。
中性的世界と近世的世界・・・非人道的、非人格的な世界、近代に繋がる戦いでした。
山中城を突破した3日後、4月3日に秀吉はついに小田原に到着。
豊臣方の軍勢には、各地からそうそうたるメンバーが!!
小田原城を陸と海から完全に包囲!!
さらに秀吉は、自らの陣に城を築き始めました。
石垣山一夜城・・・北条に先端技術を見せつけるような、総石垣づくりの城でした。
秀吉はそこで、茶会や能を催す余裕でした。
一方では、北条領内の山城群にも攻撃をかけます。
絶体絶命の北条・・・応戦か降伏か・・・決断をするのは、四代当主氏政!!

小田原城は、これまで上杉謙信も、武田信玄も跳ね返して来た・・・
籠城戦を貫いて応戦する??
1561年には上杉謙信が11万3000の兵で小田原城を包囲、1569年には武田信玄が小田原攻めを企てていました。
北条はこれらの侵攻に籠城で応戦し、敵を兵糧不足にしたと言われています。
豊臣軍に囲まれた今回も、それを狙っていました。
籠城戦ならば、あとは後詰さえいれば勝てる!!
我が方には奥州の雄・伊達政宗がいるではないか!!
小田原城に秀吉軍を引き付けて、その隙に背後をつかせれば、勝敗の行方はまだわからない・・・。
伊達政宗は、北条とは良好な関係にありました。
石田三成の書状には・・・
「北条を討伐の後、直ちに黒川に乱入し、政宗の首を刎ねる!!」とあります。
秀吉が滅ぼそうとしていた政宗が北条と結託していても、なんら不思議はありません。
援軍の可能性も・・・!!
しかし、一筋縄ではいかない伊達・・・信じられるのか・・・??

それとも降伏・・・??
九州の島津や、四国の長宗我部は降伏しても、本領安堵されている・・・
我等にも交渉の余地があるのでは・・・??
戦になれば、秀吉は総力戦を仕掛けてくるかもしれない!!
北条にとって想定外だったのは、山中城の戦いで秀吉が見せた犠牲をいとわない人海戦術です。
戦いになれば、小田原城内の民衆たちにも甚大な被害が及ぶかも・・・??

籠城か、降伏か・・・??
北条の存亡をかけた決断が・・・!!

小田原城包囲から2か月・・・
ついに戦況が動きます。
6月9日、奥州の雄・伊達政宗が秀吉の軍門に下ります。
北条に援軍の可能性は無くなりました。
小田原城中では重臣たちによる大評定が行われていましたが、明確な答えの出ないまま・・・
そのうちに、重要拠点だった鉢形城、八王子城などが落城し、忍城を除く全ての拠点が攻略されました。
そして、7月5日、ついに小田原城はついに門を開き降伏・・・北条氏は降伏するのです。
主戦派と見なされた四代当主氏政は、数人の家臣と共に切腹。
息子・氏直は高野山に追放され領土はすべて没収となりました。
関東を新しく統治したのは、後の天下人徳川家康でした。
領国の中心は、小田原から江戸へ移され、山城は次々と廃城。
名残は消えていきました。

2015年小田原市内の発掘調査で興味深い遺構が発見されました。
総構の内側から障子堀跡が見つかったのです。
そこは古くから百姓曲輪と珍しい名前で呼ばれていた一角で、研究者の間では、北条の時代民衆のための避難場所だと推測されていました。
総構の中で大切にされていた百姓曲輪・・・秀吉とは違う民との向き合い方が見て取れます。
民を慈しんだ北条氏・・・もし、小田原城が落とされなければ、日本の歴史は北条氏が目指していた身分の・・・
身分を厳しく分けてゆく社会ではなく、みんなで共同して世の中を作っていったのでは・・・??
五代100年もの間、山城によって守られてきた北条王国・・・その滅亡は、日本の歩む道を大きく変えたのかもしれません。

一人の命令で何千、何万人が死んでしまうような戦い方・・・を平気でする秀吉のような戦い方は、近世にならないとできないものでした。
その近世への決定的な転換点が、小田原の陣だったのです。

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仙台藩初代藩主・伊達政宗

1636年・・・江戸幕府開府から33年・・・。
戦国大名として名を馳せた伊達政宗は死の床で・・・
「少年の頃から、旅田に死地を逃れてきたが、今のように畳の上で死ねるとは思わなかった」といったといいます。
政宗70歳・・・人生50年というには長寿でした。
長生きには工夫がありました。
1567年政宗は、出羽国米沢城で戦国大名・伊達輝宗の嫡男として生まれました。
幼い頃、重度の天然痘を患い・・・一命はとりとめたもののあばた顔・・・右目の視力を失います。
戦乱の世を左目のみで生き抜くというハンデを背負った政宗。。。
独眼竜の裏には、病に負けたという忸怩たる思いがありました。

政宗は18歳で家督を相続すると奥州を制圧し、その名を轟かせます。
1600年関ケ原の戦いでは徳川方につき勝利。
62万石を拝領し、仙台藩の礎を築きました。
そうして迎えた太平の世・・・政宗は考えていました。
この国を守り、維持していくために必要なのは、武力ではなく健康で長生きすることだ・・・と。

そして健康オタクへとなっていきます。
そんな政宗の健康法とは・・・??

健康法①運動
剣術、馬術はもちろん、川狩りが大好きでした。

健康法②清潔好き
大の潔癖症で、運動後汗をかくと身体を拭くという習慣がありました。
家臣たちにも身を清める心がけを・・・と、行水を奨励していました。
風邪や食中毒の予防対策が取れていたと思われます。

塩分に気を付けた食事をし、ゴマ、大豆をとることを心がけていました。
グルメでもあり、自分で料理を作って研究もしていました。
すんだ餅もその一つで、伊勢の赤福をまねて作らせたともいわれています。
日ごろから大量に水を取り・・・デトックス効果が期待されていました。

健康法③睡眠
昼寝をしていたようで、座ってではなく必ず布団を敷いて横になっていました。

健康法④推脈
極めつけが・・・独眼竜推脈・・・推脈は、現代の心電図を取り血圧を測る行為と同じで、政宗の診断は的確だったようです。
普段と違う脈が現れるとすぐに主治医たちを集め、カンファレンス・・・治療方針を立て、病気に備えていました。
病を未然に防いでいたようです。

しかし、そんな政宗にも死が・・・
1636年5月・・・仙台藩主として参勤交代で江戸へ・・・
その途中で立ち寄った日光東照宮で倒れてしまいました。
それでも病を押して江戸まで行き、ときの将軍・家光に拝謁します。
しかし、家光は・・・様子のおかしかった政宗の・・・仙台藩江戸屋敷へ奥医師を派遣。
すると、
「腹の張りがひどく、疲労していて食欲もなく、病状は大変悪いようでございます。」
5月24日政宗は、静かにその波乱に満ちた生涯を終えたのでした。
健康オタク政宗の死の原因は、喫煙でした。
タバコが日本に入ってきたのは戦国時代。
南蛮貿易の際に、万能薬という触れ込みでヨーロッパから伝わりました。
身体にいいと、大名からあっという間に庶民にまで流行します。
当然健康に気を遣う政宗も、1日3回、3服から5服・・・
タバコは吸い続けると、肺がん、食道がん、胃がん・・・政宗はタバコと共に、酒も。。。
喫煙と酒を同時に取ることで、食道がんや胃がんの発病率を高めていたのです。

みぞおちの痛みや吐き気に襲われていたという政宗・・・死の予兆があったのです。
政宗は、腹部の腫脹によって胸の下が117センチも腫れあがっていたといいます。
原因はタバコによる胃がんだったのです。
健康のためにと思っていたタバコによる大誤算でした。

仙台藩初代藩主・伊達政宗
病歴:なし
死因:胃がん
没年齢:70歳

でした。


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ああ・・・ついに「滅亡」です・・・。

小田原城を、豊臣の大軍が取り囲んだ。
北条軍は、なおも徹底抗戦の構えを見せる。
北条氏説得のため、信繁は小田原城に潜入した。

そうそう、説得したのは黒田官兵衛かもしれませんが、色々あって、信繁も裏でやっていたのかもしれません。
ま、名胡桃城を巡っての当事者ですしね・・・。

「真田源次郎信繁、お久しゅうござる!!」と言ったのは、義兄・小山田茂誠。

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信繁を助けてくれたのは義兄・小山田茂誠でした。


義兄・小山田茂誠は、松が行方不明になった後、所縁のある北条に仕官していました。

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いろいろと話したいことはあるんだけれども、もっと早急のやっつけ仕事が信繁にはありました。

江雪斎がやってきました。
信繁は、氏政の説得に・・・!!

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ああ・・・まさに異形・・・
私の中での異形と言えば・・・

「平清盛」の鳥羽上皇か

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崇徳天皇か・・・

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一応、人間の崇徳にしてみました。
その中に、割って入るほどの形相です。

「殺せ・・・!!」by氏政

真田の息子として殺したいようですが・・・今回は、豊臣の使者として着たことを告げるのでした。
徳川の書状を持ってきたというと・・・殺すのはちょっと待ってくれたようです。

徳川家康が、氏政の命を助けるために奔走していることを告げる信繁。
しかし、絶対に降伏はしないという・・・。

「関東の大名や国衆で、北条に従うものは誰もおりませぬ。
 頼みの伊達政宗も、豊臣に下りました。」by信繁。

伊達政宗に・・・ガーン!!ショック!!な、氏政!!

味方のほとんどの城が落ちたと聞かされた氏政・・・呆然・・・あの因縁の沼田も・・・!!

「引き際をどうか、お考えください。」by信繁

「ついに東国の覇者にはなれなんだ・・・
 返す返すも心残りは・・・

 どうせ秀吉と一戦交えるなら、伊達や徳川と組んで、日の本を分ける大戦をやってみたかったわ・・・!!
 華々しく・・・戦国の世に幕を引きたかった・・・。
 
 秀吉が恨めしいぞ・・・」by氏政

そうね・・・日本人特有の滅びの美学ってとこかしら・・・??
そんな風に思っている男がもう一人・・・真田昌幸って男もいるんだけどね。。。
 
秀吉に頭を下げれば、氏政と氏直の命は助けてくれるという信繁に・・・

「命など、おしゅうない。。。」

と、あくまでも戦いたかった・・・未練な・・・しかし、潔い氏政なのです。


再び義兄・小山田茂誠の元へ・・・
松が生きていたことを知らせます。
上田城にいるとの事・・・大喜びの義兄です。

その蔵で信繁の見たものは・・・

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鉛・・・そこには魚の印が・・・!!


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忍城を任された石田三成!!
殿下のご期待に副ういい仕事ができるんでしょうか・・・??
昌幸・信幸たちは、鉢形城を落とし、八王子城へ・・・!!

しかし、八王子は上杉に任せ、忍城に戻れと殿下のお達しが・・・。
忍城はまだ落ちていなかったのです。

小田原城が落ちていないと聞くと、昌幸は・・・

「氏政も粘るのう・・・
 アヤツは己のための戦をしておる・・・。」by昌幸

と、ちょっと羨ましそうなのです。
そう、こちらもまた戦国時代の古い男なのです。


1590年7月5日・・・ついに氏直が城を出て、秀吉に降伏しました。

が・・・
「氏政は死んでもらおうか。」by秀吉
と、簡単に約束を違える秀吉!!
諫める家康・吉継の話に耳も傾けない秀吉です。

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「五月蠅い!!
 城の明け渡しが済んだら、氏政は切腹!!
 それを見届けて、われらも京へ帰る!!」by秀吉

7月10日髷を落とした氏政は、秀吉の軍門に下りました。

「お命・・・必ずお救い致す・・・」by家康
「生き恥は晒しとうない。」by氏政
「恥は一時でござる・・・生き延びることこそが肝心・・・」by家康
「これ以上関わると・・・貴殿に災難が降りかかる。。。」by氏政
 
ここに・・・戦国最後にして滅びるものと、生き残るもの・・・その考え方の違いがはっきりと見て取れます。

家康以外にも、説得に、景勝、昌幸もやってきました。
説得するにあたり、氏政同様、髻を切り落とすという景勝!!その決意が伺えますが・・・
説得するも、反対に問いかけられてしまいました。

「上杉殿・・・
 むしろあなたに伺いたい。
 秀吉のために生きるのでござるか?
 それでよろしいのか・・・??」by氏政

そう。。。自分のために戦い、自分のために死にたい・・・それこそが自分の人生・・・。

同じことを考えている男がこう言いました。

「死にたければ死になされ。
 されど、生きておれば、まだまだ楽しいものが見られますぞ。
 このまま秀吉の天下が来るとは到底思えぬ。
 ここにいる誰もがそう思っておるはず。
 
 そうではござらんか!!
 もうひと暴れ・・・したいとは思いませんか??」by昌幸

そこにはこの後訪れる関ケ原の戦い・・・そして自分は参加できない大坂の陣・・・それもまた切ない。。。

「お主らの働きぶり・・・あの世でしかと見物させていただこう・・・」by氏政

「ここまで・・・でござるか・・・??」by家康

「ここまで・・・でござる。」by氏政

おお!!一昔前の少年漫画のようです。
まさに、”とも”!!強敵と書いて”とも”!!信頼しているお互いの尊敬を込めた強敵(とも)です。

ちょっと羨ましいと思う昌幸がそこにはいました。

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待っている間の家臣たちはいろいろやきもきです。
が・・・やはり頑固な男・・・氏政でした。

走り去った江雪斎・・・その行方は・・・??
もちろん、生き延びますよ!!

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翌日・・・北条氏政は切腹。
首は京に送られ、聚楽第の橋に晒されたという。。。

最後の汁かけ飯は、一気にいきましたね。
氏政の覚悟が伺えます。

息子の氏直は、出家ののち・・・
この頃の御多分に漏れず高野山へ・・・。

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これによって関東に一代王国を築いた北条は滅びたのでした。
が・・・最後の最後までお家の再興を望んでいた氏直。。。
お家再興を許してもらった時には死がそこまでやってきていました。
氏直が命を救ってもらえたのは、正室が家康の娘であったことが大きい要因となっています。
そういえば、関ケ原の戦いで真田が二つに分かれたとき、昌幸と信幸の助命嘆願をしてくれたのも家康でしたね。
正信の言う通り、結構情に厚い男なのかもしれません。
でなければ、天下人にはなれないというか・・・家臣がついてこないかっ・・・!!


で・・・小田原城で見つけた例のものを吉継に!!

maru4













しかし・・・蔵はもぬけの殻となっていました。
「あぶないところやった・・・」by利休

逃げ出したのは千利休でした。
そう・・・利休はどちらにも武器を・・・まさに、死の商人だったのです。


未だ忍城を落とせない三成!!
夜な夜な堤を崩すので、水攻めにならない・・・
そこに戻ってきたのは昌幸。
全面攻撃をしようという昌幸&三成に・・・
「速やかに開城させて御覧に入れましょう。」by昌幸
使うのは・・・三成の嫌いな卑怯な手・・・
「戦に勝つとは、人の心を制することでござる。
 忠義が邪魔ならそこに付け入るがよろしい。。。
 小田原から土産を持ち帰り申した。」by昌幸

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それは、氏政の兜でした。

城内に持ち込んで・・・血の一滴もついていない兜は、家臣たちを見捨てた証拠・・・と、噂を流します。
卑怯な・・・!!

城は二日で落ちるという・・・。
7月14日、城を明け渡すと連絡があり、最後の城・忍城も開城されました。

目から鱗の三成・・・
昌幸の策を「好かぬ」というも、
「貴殿のおかげで無駄な犠牲を払わずに済んだ。
 それがしに戦の何たるかをもっと教えていただけるか。。。」by三成

そこはさすが、合理主義者なのね、三成。。。
そうそう、きれいごとばっかりじゃ、戦いに勝ってはいけないのよ。
それは、三成を引き上げてくれた殿下を見てもわかるでしょう??
ほんと、殿下は人好きされるかもしれないけど、怖いお人なんだから。


奥州の覇者・伊達政宗は、すべての所領を差し出しました。
で・・・そこでも昌幸、なんだか一つ考えているようです。
やっぱり伊達、徳川と一緒になって大坂城を攻めたいみたい。
だって・・・あの徳川でさえ、先祖伝来の地を召し上げられ、江戸へと飛ばされたんだから・・・。

「わしは伊達に賭ける・・・!!」by昌幸


が・・・とうの政宗は・・・

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ずんだ餅を作っておりました。
あ・・・ずんだ餅を考案したのは政宗って説もあるんですよ・・・??
料理を作るのが大好きで、家臣たちにも料理を振る舞っていた伊達らしいお話と・・・
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」をかけているのかしら・・・??
この場面ではついて食べてましたけどね。

そんな秀吉を持ち上げるホスト政宗に、「だめだこりゃ・・・」と、思う昌幸。。。

maru13













で・・・みんなに振る舞うのは片倉小十郎・・・。
昌幸、伊達を取り込むのを諦めたみたいですよ。。。
って、秀吉に頭を下げて上洛するように進言したのは何を隠そうこの片倉景綱!!
なので、取り込もうとしても無駄でしたけどね。。。
ま、伊達も生き残るわけですから、それなりに秀吉に好かれる男でないとダメでしょう。。。

ちなみに私の小十郎はもちろんこちら。
西郷輝彦さんです。

kojyuurou












まさに、伊達家のNo,2・・・直江兼次ポジションね・・・でした。


江戸へと移された家康・・・
しかし、昌幸は、小県は安堵、沼田ももらえるらしいわ。。。
それは・・・それだけ家康が恐ろしかったってことなのよね。。。
小物はガタガタ騒ぐ前に安心させておこうというところでしょうかね・・・??
そして、徳川の与力を離れ・・・徳川を見張れという秀吉なのでした。


ホストな政宗と信繁・・・若い二人の話。。。

「お主の親父、わしが餅をついているのを見てぽかんと口を開けておったわ。。。」
と、ちょっと自虐的・・・
もし・・・北条が先に降参していたら・・・自分の命はなかったかも・・・。
わしの人生綱渡り・・・。
しかし・・・生き残るため!!

「わしだって、どうせ戦国の世に生まれたからには天下を賭けた大戦に望み、何万という大軍を率いて敵を蹴散らしたい・・・お主だってそう思うだろ。。。」と、話し始めました。
「もしわしが、もう20年早く生まれておれば、もうしわしが、もう少し今日の近くで生まれておれば、大広間の首座に座っているのは秀吉ではなくわしであった・・・
 真田の子倅・・・またどこかで会おう・・・!!」by政宗

そうね・・・武田信玄がもう少し後で生まれていたら・・・
伊達政宗がもう少し早く生まれていれば・・・
そうして、二人とももう少し京に近かったなら・・・
それは、歴史において誰もがいう事ですね。

まさに無念!!以外の何物でもないでしょう。


北条の滅亡によって名実ともに戦国の覇者となった秀吉・・・。
時代は、破壊から建設の時代となりました。
関ケ原の戦いまであと10年!!


領民想いの北条が、遂に敗れてしまいました。
この「滅亡」・・・本当に、深いですね。
みんな滅亡しないように、命を懸けて・・・生き残りを懸けて戦っている戦国時代・・・
「滅亡」なんてとんでもない選択のようですが、それも一つの戦国武将の生き方だと思います。
実際、「真田丸」でも北条のことをちょっと羨ましいと思っている昌幸がいるわけですし・・・

ただ、なんとかして生き残るホスト政宗・・・同じような生き残り方を前田もするわけです。
前田の場合は、利長や利常が頑張るわけで、そのおかげで伊達の場合は伊達男とか前田は加賀友禅やお菓子・・・いろいろ文化が発達するのは・・・徳川のホストとして頑張っていたからです。

しかし、時代の流れに乗れなかった・・・そんな北条の滅びの美学は、後の幕末の滅びの美学「新選組」を考えると・・・人気があってもいいのになあ・・・って思うんですけど・・・??


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1600年9月15日、天下分け目の関ケ原・・・西軍を率いる石田三成と東軍率いる徳川家康が激突!!
時を同じくして、北の地でもう一つの関ケ原が繰り広げられていました。
その名も慶長出羽合戦。
きっかけは上杉家参謀・直江兼次の書いた16か条からなる直江状です。

1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉が亡くなると・・・世の中に暗雲が立ち込めだしました。
豊臣政権を支えていた五大老筆頭・徳川家康が暴走し始めたのです。
自分以外を帰国させ、合議による政治を有名無実化し、全権を掌握していきます。
反家康派の石田三成を追放!!邪魔者を排除していきました。
前田利家亡き後、五大老の中で目障りだったのは上杉景勝でした。
先代・上杉謙信の跡を継いだ景勝は、会津120万石の大大名。。。豊臣政権を支える東日本のかなめでした。

家康は、景勝をつぶしにかかります。
真っ向から立ち向かったのが、名参謀・直江兼次でした。
1560年越後国に生まれた直江兼次・・・父が上杉家に仕えていたものの身分は低く、恵まれてはいませんでした。
兼次の運命が大きく変わったのは・・・景勝の近習として取り立てられたからです。
幼いころから聡明だったと言われる兼次・・・。
上杉謙信の”義の心”を当主・景勝とともに学びます。

kanetugu

兼次の才能が開花するのが跡目争い・・・景勝と景虎の・・・1578年御館の乱です。
直江兼次は迅速に・・・春日山城内の金蔵を押さえ、勝利します。
軍功を上げ上杉家のNo,2となっていく兼次。

「愛」・・・は、人間愛ではなく・・・
軍神・・・愛宕勝軍地蔵・・・愛染明王・・・神様の意味だと思われます。
軍略に長け、主君のために忠義を尽くした兼次らしいカブトなのです。


1600年4月13日、上杉家のNo,2となっていた兼次のもとに、衝撃な一通の書状が届きます。
上杉討伐を狙っていた家康の弾劾状です。

「越後の堀秀治が、景勝のことについて家康様に訴えているので、景勝の陳謝が必要である。」

当時上杉は、越後から会津へ国替えになったばかりでした。
越後国の年貢の半分を上杉が徴収したので・・・堀が家康に直訴したのです。
弾劾状には、景勝に対する不信感が書かれていました。
家康への挨拶が遅い、道路や橋を整備し武具を集めているという噂・・・
不穏な動き・・・謀反の疑いをかけられたのです。
兼次は、返事をしたためます。この返事が関ケ原の発端になったと言われる直江状なのです。
長さ4m、16か条に及ぶ長い書状で、家康はその書状に激怒したと言われています。

上杉家が武具を収集しているのではないか?ということに対しては・・・
”上方では茶道具を集めるようですが、こちらは田舎なので武具を集めます。”
道路や橋の整備に関しては・・・
”道を作り橋の整備をするのは、国をあずかるものとして当然のことです”
主君・景勝の上洛問題については・・・言いがかりであると真っ向から反論しました。
”国替えがあってほどなく上洛し、昨年ようやく国に戻ったにも関わらず、また上洛せよとは・・・
 それではいつ領国の政務を執ったらよいのでしょうか。
 ことに、こちらは雪国なので、10月から3月まではどうすることもできません。”
堀秀治への陳謝については・・・堀を讒人とし・・・
”讒人が言っていることを厳しく究明してこそ御懇切の証拠であるのに、理由もなく逆臣と言われ上洛を命じるのは乳飲み子のような扱いです。
讒人の糾明がないうちは上洛はできません。”

きっぱりと上洛を拒否!!
主君景勝が間違っているのか・・・内府様に表裏があるのか・・・
上杉家の家名にかけ、間違ったことはできない!!

家康は、断ってくるであろうなとは思っていたようです。
家康の言いがかりに屈することは、武勇の誉れ高い上杉家にはあってはならないことでしたが。。。

1600年5月、直江状に激怒した家康は、上洛拒否を明言した上杉家の討伐を直ちに!!と、諸大名へと出陣命令を出しました。
家康自ら
6月18日、家康自ら総大将となり、秀忠とともに会津に進軍!!
さらに、陸奥・伊達政宗、出羽・最上義光にも兵を出させ15万の大軍で上杉包囲網を作ります。
強大な敵を迎え撃つことになった上杉景勝・直江兼次は、周到な作戦を立てていきます。

革籠原防塁を作り、水を引き込んでぬかるみを作り・・・秀忠軍を壊滅し、家康本体を別動隊がたたくというものでした。
この作戦・・・6万人3か月の完ぺきな作戦でした。
防塁に追い込み殲滅させる!!
この戦略以外にも、石田三成と密接な関係があったと思われています。
反家康の盟友でした。打倒!!徳川家康!!

家康を上杉討伐させることで上方を手薄にし、光成が挙兵!!
佐竹氏とも結託し、会津と上方から挟み撃ちにしようとしていたのです。
豊臣家のために家康の暴走を止める・・・!!

7月24日、上杉討伐に向かった家康は、小山に到着!!
そこで先陣を切ったのは家康から上杉討伐の命を受けていた伊達政宗!!
政宗は白石城を襲い、上杉軍を追い詰めますが・・・家康はこの先走った政宗の行動に激怒!!
そこへ石田三成挙兵の一報が・・・家康は緊急会議を開きます。小山評定です。
上方へ戻ることを決断!!
そこには目論見が・・・上杉討伐は、三成挙兵の誘い水だったからです。
すべて、家康の計算通りのことでした。

8月5日・・・上杉討伐を中止し、三成を討つために江戸にもどった家康。
しかし、なかなか動けません・・・。
家康は諸大名たちに122通の書状を出し、地盤固めに1か月を費やしました。
そのうえ、江戸城を離れ西に出陣したら、背後(東)から上杉や佐竹が・・・石田(西)からとで挟み撃ちにされる危険性がありました。
これこそが、兼次と三成が考えた作戦だったのです。

兼次は景勝に・・・徳川を討つこと・・・石田と挟み撃ちにすることを進言します。
しかし、どんなに説得しても、景勝は首を縦には振りませんでした。
「謙信公は、敵の背後を襲うことはなかった・・・」
と、追撃を許さなかったのです。

おまけに・・・このとき、上杉軍は、西に堀、北に最上・伊達、南には徳川・・・と、完全に包囲されており、追撃する場合ではありませんでした。
それを打破するため、越後での一揆を画策し、堀をくぎ付けにします。
問題は、伊達と最上・・・!!
しかし、伊達と最上は、家康が引き上げたことに焦っていました。
政宗は、上杉軍に停戦を申し入れます。

最上軍と戦うことになった上杉軍!!
1600年9月9日、直江兼次を総大将とした2万4000の上杉軍が最上領に侵入・・・
もう一つの関ケ原、慶長出羽合戦の火ぶたが切って落とされました。
120万石の上杉軍に対し、最上軍は20万石。。。
城攻めを得意としていた上杉軍は、最上の城を次々と落としていきます。
そこには、最上によって分断された領地を一つにまとめることと・・・徳川と対戦するときに背後を取られないため・・・という兼次の狙いがありました。

9月15日、戦を有利に進める兼次は、最上・最後の砦・長谷堂城に・・・!!
そしてまさにその日・・・関ケ原の戦いが行われていたのです。
家康率いる7万4000VS石田三成率いる8万4000。。。
一進一退・・・

東北では、西軍・上杉2万4000VS東軍・最上3000と、圧倒の上杉軍でしたが・・・。
何日たっても城を落とすことができません。
長谷堂城は、小さな山城でしたが、無数の防御陣地を備え、山全体が水堀で囲まれた鉄壁の城でした。
城の周囲は田園地帯で、ぬかるみに足を取られた上杉軍を苦しめます。
外堀まで進攻するものの・・・山の上からの攻撃で、たくさんの兵を失ってしまいました。
思わぬ持久戦だったのです。
さらに追い詰めたのは・・・伊達政宗の援軍が到着したこと。
敵の士気は一気に上がります。
9月30日・・・関ケ原で、西軍・石田三成が敗れるという一報が・・・!!
このままでは、帰ってきた徳川軍に挟み討ちにされてしまう!!
上杉景勝からは、即時撤退命令が・・・!!

直江兼次・・・無念の撤退!!

10月1日、兼次は撤退を開始しますが・・・攻撃を受けながらの2万の撤退は至難の業で・・・
自ら囮・・・しんがりとなって追撃させ、そのすきに別の道を通って本隊を本国へ戻そうと計画します。

兼次の活躍もあって、3日後には本隊は米沢に到着します。
もう一つの関ケ原もまた、西軍の敗退という結果に終わったのでした。

兼次は、上杉景勝とともに家康に謝罪・・・会津120万石から会津30万石へと減封されます。
大坂冬の陣では大活躍し兼次は・・・
「慶長出羽合戦に比べれば大坂の陣などは簡単で、子供のケンカのようでした。」by直江兼次

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