日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:伏見城

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小早川秀秋・・・彼は、豊臣秀吉の正室・おねの甥で、幼い頃養子となりました。
10歳で丹波国亀山城10万石を与えられ・・・その後秀吉に実子・秀頼が生まれたので小早川隆景の養子に出され、その後継者となりました。

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出されたとはいえ、秀吉は秀秋をかわいがり、筑前国名島36万石の大名にしています。

慶長の役では、総大将として渡航。
しかし、この時戦略を巡って石田三成と対立し、軽挙に出てしまいました。
秀吉はこの事を怒り、秀秋を処罰しようとします。


が・・・家康がその場をとりなし秀秋を助けたのです。
そう・・・家康が恩を売ったのでした。

慶長5年7月、秀秋は西軍に属し、家康軍の武将・鳥居元忠らが守る山城国伏見城を攻撃します。
その一方で、秀秋は密使を送って家康側と通じ、伏見落城後は病気療養を理由にして、近江国高宮に陣を置いたのです。

9月14日、秀秋のもとに書状が届けられました。秀頼が15歳になるまで秀秋に関白職を委ねたい。。。
播磨国を加増するなどの条件を記した誓約書です。
三成と小西行長の連名で、秀秋に再度出馬を申し入れたのです。

拒否し続ければ、西軍に包囲されるかも???

秀秋はこの要請を承諾してしまいました。
再び家康と内通し、戦が始まれば東軍に寝返ると・・・内応していました。


9月15日、関ヶ原の決戦の火蓋が切られました。
東西両軍は攻防を重ねます。。。が・・・
正午近くになっても小早川軍は日和見を続け・・・行動を起こす気配が全くなし!!
そこで、西軍は狼煙をあげて秀秋に戦闘への参加を促します。

「あの小倅に謀られたか・・・??
 金吾の陣に向け、鉄砲を撃て!!」

と、命じました。
金吾???金吾とは、秀秋の通称で・・・「金吾中納言」から来た呼び名です。

その銃撃で秀秋は意を決し、正午過ぎ、小早川軍1万5000余りは東軍に寝返り、家康を勝利に導いたのです。

秀秋は戦功の恩賞として、備前岡山城主となったのです。
しかし、わずか1年でその生活も終わりを迎えることとなります。

諫言した家老・杉原紀伊守を殺すなどの乱行ぶりが伝えられ、さらに国政が乱れていきます。

家老の稲葉正成、平岡頼勝らも秀秋を見限って出て行ってしまいました。

若くして大封を与えられたプレッシャーから、関ケ原の合戦における自らの行動に対する悔恨からか、さまざまな要因も絡みノイローゼ気味に。。。

頼れるべき家臣もおらず、それも災いし。。。
関ケ原の合戦からわずか2年後、秀秋は21歳という若さで病死しました。

世間からは、裏切り者のレッテルを張られた哀れな最期でした。
なお・・・小早川家は子供が居なかったために断絶となっています。

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絶え間なく揺れ続ける日本列島・・・
その揺れは、時に私たちに牙をむいて襲ってきます。

関西では大地震は起きない・・・
根拠のない自信を突き崩した阪神大震災・・・
それ以降、幾度となく直下型地震に見舞われています。

阪神大震災以降、活動期にないっているとのことですが、これとよく似た時代・・・それが、豊臣秀吉の時代でした。

この世にもはや怖いものがなかった太閤秀吉。
しかし、想定外の大地震が秀吉を脅かします。

東日本大震災以来、巨大地震や津波に対する不安が高まっています。
特に注目されているのが、90年~100年に1回引き起こす南海トラフ地震です。

国の最新の想定では、最大で死者32万人と言われています。
おまけに、直下型地震はなかなかいつ起こるのかもわかりません。

歴史的に見ても、南海トラフのような地震の前には、何回も直下型地震が起こっていることがわかっています。


豊臣秀吉もそんな時代の人でした。
秀吉がどんなふうにして城を築いて壊されたのか・・・


img_594181_18681825_0[1].jpg

京都・伏見には・・・1964年に建造された伏見城があります。
秀吉の晩年から、時代に翻弄されてきた伏見城。

初代伏見城は、1596年地震で破壊されました。
二代目伏見城は、現在では明治天皇陵となっています。
つまり、伏見城は3か所あるのです。

地震で壊れた初代お城は、絵にすら残っていません。

最初の天守は、今のお城の1キロ南、小高い丘にあります。
今は、古い団地となっています。
団地周辺に、お城であった痕跡すらありません。


伏見=不死身であるということで、「縁起がいい」と、瓦や金具は持って帰られ・・・
発掘しても出てこないのだそうです。

再利用される伏見城。
ところどころに移築された・・・とか、伏見城から持ってきたという言い伝えがあります。

2007年には、宇治市で太閤堤が発見されました。
城とともに秀吉が作らせたかも??と言われています。


直江兼続が4000人で掘り上げたといわれる船入跡。
大坂から船でやってきた外国人に見えるように・・・
この城を整備した目的は・・・第1次朝鮮出兵の講和会議のためでした。
多くのお客を迎える千畳敷も。
秀吉の威信をかけた迎賓館でした。

が・・・
1596年伏見地震、上方大地震が起こりました。
400年前の大地震です。
明からの使者を迎え入れる準備をしていたさなかに・・・

1596年7月13日未明に起こった地震。
5層の天守は大破、城中で亡くなったものは、300人とも500人とも言われています。
秀吉は庭の一角に避難しました。


戦国時代・・・いつ暗殺されるかわからない・・・
秀吉は、女の衣装を着て、自分の身を隠す必要のある程、緊迫した状況。。。
クーデターをおそれ、女官に紛れていたそうです。

地震で心配して登城をするという、加藤清正の有名なシーン・・・。
これはないかもしれません。

家康も、地震の後にすぐに家来を連れて登城をするということは、謀反・クーデターと勘違いされかねないと思っていたからです。


秀吉は、辛くも難を逃れたものの・・・
天守は・・・
当時は、下三層に上二層が乗っかっている形だったので、上二層がずり落ちたとなっています。


現存最古の丸岡城。
この建物は、1階と2階の間に通し柱がありません。上は乗せているだけ・・・
これが、昔ながらの作りです。

しかし織田信長は、突然5階建ての安土城を建てました。
しかし、構造はそのままでした。

伏見城の被害の後は・・・
1,611年に建てられた松江城は・・・
2層ごとに通し柱をしています。
地震の揺れに強い構造となり、それが、地方に伝わっていったようです。


地震が来て、耐震基準が変わるのは、今も昔も変わりありません。


向島にある石垣は、地震によって地面の揺り込む・・・
3.6mも沈下したという記述もあります。

同じ場所で下水工事中に、地上から4m下で巨大な石が発見されました。
液状化現象が起きていたことがわかります。
出城はまさに“砂上の楼閣”だったのです。
被害は、巨大な土木工事が起こした人災でした。


この地震の正体は・・・

“活断層”

地震から400年後に見つかりました。
有馬・高槻断層帯・・・
伏見から反対方向は淡路島までありました。
マグニチュードは8に近かったようです。

その痕跡は、今もたくさん残っています。
田んぼに・・・古墳に・・・
伏見地震の被害は、神戸まであったことがわかっています。

そして、割れ残った野島断層が阪神淡路大震災を巻き起こしたのです。

断層から離れたところにもたらす“ディレクティビテイー”(指向性効果)。
断層の破壊によってできる地震。伝わり方にも違いがありました。
その揺れが、伏見城を崩した力となったのです。


今も昔も・・・秀吉の中に、人間の弱さ、浅はかさを感じずにはいられません。

その2年後、秀吉は激動の生涯を終えました。


秀吉の時代から400年・・・
地震と人間との関係は変わりません。
過去のことを勉強して、現代に生かさなければなりません。


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