日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:保科正光

およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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およそ260年続いた江戸幕府・・・徳川の世。
世界でも類を見ない長期安定政権が誕生したのはこの二人・・・
三代将軍・徳川家光と将軍を支えた会津藩主・保科正之が礎を築いたからでした。
実は、二人は異母兄弟でした。
そしてそこには兄弟の強い絆がりました。

徳川家康が関ケ原に勝利し、江戸に幕府を開いた翌年・・・
1604年二代将軍秀忠とお江の間に世継ぎ・・・竹千代・・・後の家光が生まれました。
それから7年後の1611年、江戸神田の浪人の家で幸松・・・後の保科正之が生まれました。
父は竹千代と同じ秀忠でしたが・・・どうして浪人の家で・・・??
幸松母・静は、江戸城に奉公にあがっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠に見初められ、子供を身籠ります。
本来ならばめでたい事でしたが、喜べない理由が・・・
正室・お江です。
お江はとても気位が高く嫉妬深い女性で、秀忠が側室を持つことを許しませんでした。
そのため、子ができたとなると何をするかわからない・・・
実家に戻された静は、お江から恨まれないように子を堕ろします。
しかし、再び秀忠によって戻された静は、またもや身籠ってしまいました。
そんな静を家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
こうして静は、親類の浪人宅で幸松を産んだのです。
しかし、お江に気を遣って、秀忠は幸松を子として認めませんでした。
将軍の子であることを隠して育った幸松は、母・静の慕っていた武田信玄の次女・見性院に育てられることとなります。
そして、幸松7歳の時、しかるべき武家に幸松を預けようと・・・見性院はある大名に白羽の矢を立てました。
信州高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で旧知の間柄。
さらに、正光の父・正直の後妻は徳川の妹で保科家は、徳川と姻戚関係にあったからと言われています。
が・・・この養子縁組の裏には秀忠が関係しているかと言われています。
つまり、幸松の教育を見性院に依頼したのは、秀忠側だったのでは・・・??
また、幸松が高遠藩に行った折には、高遠藩に5000石の加増が行われています。
おそらく幸松の養育費では・・・??と言われています。
ということで、父・秀忠の計らいで保科家の養子となり大切に育てられることとなりました。
秀忠にはこの時3人の子供がありました。
兄・竹千代、弟・国松は、母が同じお江でした。
そして静を母に持ったために将軍の子と名乗れなかった幸松・・・保科正之でした。
徳川家光と保科正之・・・この時お互いの存在を知りませんでした。

家光は、家康が長子相続を説き、20歳で3代将軍となりました。
家康が理想とした幕府を実現していく家光。
1632年秀忠が死去・・・将軍となった家光は、大名たちを江戸城に呼びつけました。
居並ぶのは、歴戦の強者たち・・・彼らを前に宣言します。
「余は、生まれながらの将軍である。
 貴殿らに対して、遠慮するものはない。
 今後皆、家臣同然として扱う。そのように心得よ。
 もし、不承知者がいるならば、国元へ帰って戦の準備をいたせ!!」by家光
家光が挑発的な態度を取ったのは・・・??
家康、秀忠は、関ケ原、大坂の陣を戦っています。
戦争を知らない世代の家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
そして、家光は、徳川政権を盤石なものにするために、いろいろな政策を立てていきます。
大名達の謀反を防ぐために監察官として柳生宗矩ら4人を「総目付」に任命。
大老、老中の設置・・・将軍をトップとする幕府のシステムを確立し、政治の安定を図ります。
諸制度の確立・・・
1635年武家諸法度改定・・・参勤交代を制度化。
江戸での滞在期間や交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの費用が莫大にかかり、財力を削がれて戦を構えることができなくなり、幕府が優位に立つことになりました。
家光は、危険分子を改易、政治の安定を図ろうとします。
その改易の数は、歴代将軍最高の49家でした。
武力や厳しい刑罰で統治する武断政治を推し進めていきます。
その頃の幸松は・・・養父である保科正光の選んだ優秀な家臣たちから手厚い教育を受け、幕府に仕える心構えを徹底的に教え込まれていました。
保科正光は、将来幸松が将軍になる可能性があるかも??と考えていました。
なので、彼を育ててきた保科家の発展も期待して、幸松を教育しました。
幸松もまた、いつしか自分が将軍の子であると理解するようになりました。
1631年・・・幸松が養子となって14年・・・養父・正光が亡くなります。
家督をついだ幸松は、正之は21歳で、高遠藩2代藩主となるのです。

家光が弟・保科正之の存在を知ったのは・・・
家光が目黒に鷹狩りに行った際、家光が身分を隠して休んだ寺が・・・成就院・・・。
この成就院は、正之の母・静が参っていた寺でした。
住職が話を始めました。
「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は将軍様の弟君であるのに・・・。
 それに相応しい扱いを受けていないんですよ。
 それが、不憫でしてね・・・」by住職
家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩藩主になっていることを知ったのです。

「余に、顔も知らぬ弟・・・それは一体、どんな男なのだ・・・。」by家光

2代将軍秀忠を同じ父に持ちながら、母が違うというだけで、互いの存在を知らずにいた二人・・・
家光は、ある儀式のために江戸城にやっている正之を一目見ようとふすまの陰に潜みます。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のために、末席だったのです。

「自分は将軍の弟だ!!という横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは、なんと殊勝な男よ」by家光

家光は、正之を取り立てるようになります。
しかし、そこには、家光の思惑がありました。
家光は、異母兄弟と知った保科正之を高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に。
片腕と重用するようになった正之に・・・
「忌諱を憚ること勿れ」と言ったと言います。
先輩の幕閣たちに遠慮しなくていい・・・ということでした。

更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は
「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」
保科家への恩義から辞退したと言われています。
感心した家光は、その信頼を厚くしていきます。
しかし、家光が正之を取り上げたもう一つの理由は・・・??
もう一人の弟・忠長の存在です。
家光にとって、同じ母・お江から生まれた弟・忠長は、兄弟というより将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉も不自由なところがあったので、両親の愛情は聡明な忠長へ・・・。
すると家臣たちも、「次期将軍は兄君ではなく弟君が相応しい」となっていきます。
両親の愛情を受けず、将軍の器でなしと噂された家光は、12歳の時、悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けてこなかった家光にとって、同じ思いをしてきた正之に共感を覚えていたのです。
一方、弟の忠長は・・・将軍の弟として駿府藩55万石の大大名となりました。
それでも相応しくないと思っていたようで・・・加増や大坂城城主を望んだりしていました。
謙虚で信頼できる身内・正之と思っていたようです。 
そして、忠長をけん制するという意味もありました。
将軍への夢を忘れられず、家光に対し憎悪の念を抱いていた忠長なのです。

家光にけん制された忠長は・・・精神的に追い詰められ、家臣たちを手打ちにするなど危行が目立つようになります。
この行動に怒った家光は、領地を取り上げて幽閉し、最終的には自害に追い込んでいます。
二人の溝は、最後まで埋まらなかったのです。

正之は兄・家光をどう思っていたのでしょうか?
支えなければ!!と思っていましたが、それは弟としてではなく、自らをわきまえ、家臣としてという思いが強かったようです。

保科正之が山形藩主となった翌年・・・1637年に九州で大事件が!!
島原の乱です!!
キリスト教勢力の拡大を畏れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の事件の鎮圧には、家光が最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役を任されたのは松平信綱でした。
正之は、家光から領地である山形に帰るように命じられます。
家臣たちは首をかしげましたが、正之には家光の意図が分かっていました。
「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」by正之
家康の遺訓に従った事でした。
東国の反乱に備え、保科正之を監視役としたのです。
1638年・・・島原の乱の終結直後、山形の隣にあった幕府直轄地・白岩郷で百姓一揆が起こりました。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人をすべて処刑します。
控えめで優しい性格の正之が下した判断にしては、非常に厳しいものでした。

各地で飢饉、一揆がおきていた時代でした。
なので、無秩序状態にさせないために、厳しい処分を下したのです。
しかも、幕府の直轄地であったので、家光の遺構が低下する可能性もはらんでいました。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さぬように鬼となったのです。
兄・家光は弟・正之を心から信用し、大事な役目を与え、正之はその期待に応えたのです。
島原の乱、白岩郷の一揆の鎮圧後、大きな乱や一揆は無くなり、徳川の世に繋がっていきます。
しかし、首謀者を処刑したことは、正之にとって、生涯の心の傷となりました。

「一揆が起きてからでは遅い。
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ。」by正之

1643年、保科正之33歳の時に、将軍家光から会津藩23万石への転封が命じられます。
これは、徳川御三家の一つ水戸藩(23万石)と肩を並べるほどの厚遇でした。
その会津藩は、大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で、領民は疲弊・・・
余所の藩へ逃げ出す者も出ていました。
正之はすぐさま領民のための改革を行っていきます。

藩政改革①社倉制
社倉制とは、藩のお金でコメを買い上げ備蓄しておき、凶作の際には領民に貸し出すという救済制度です。
領民は2割という当時としては低い利息で借りることができました。
しかし、正之は、この利息の利益を藩の蓄えにはせずに新しく米を買って、社倉の備蓄としました。
そのため、これ以降、会津藩では飢饉で一人の餓死者も出なかったといいます。

藩政改革②人命尊重
正之の母・静は、将軍秀忠の子を、一人目は堕胎させられ、二人目も堕胎させられるところでした。
そんな経緯で生まれてきた正之は・・・
「宿った命は、生きることをやめさせるべきではない」
とし、間引きを禁止しました。
さらに、領内で行き倒れになった人がいれば、医者に連れて行くように命令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

藩政改革③老養扶持
正之は、高齢者保護を行っています。
90歳以上全員に、一日5合分の米を毎年支給しました。
該当者が150人以上になりましたが、分け隔てなく与え、大いに喜ばれたといいます。
正之は、今の老齢年金のようなこともしていたのです。
領民の安定は政治の安定、政治の安定は領民の安定とし、勧農意識・・・主として農業を侵攻奨励し、実行しようとする考えを持っていました。
一揆の予防策として、実行したのです。
兄・家光に与えられた会津を豊かにするために邁進していく正之・・・家光が病に倒れてしまいます。
死を悟った家光は・・・??

1651年、3代将軍家光は、病に倒れます。
見まいに来た弟・保科正之に対し、愛用の萌黄色直垂と烏帽子を与え・・・
「今後、保科家は代々萌黄色の直垂を使ってよい。」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・この時、家光の子・家綱はまだ11歳でした。
正之に、家綱が将軍となった場合の後見人を任せるつもりだったのです。
老中などの幕閣から一段上げて・・・正之の格上げを図ったのです。
その後、家光の病状が悪化・・・
見舞いの最後は最も信頼の置く弟・保科正之でした。

起きることもままならない家光は・・・

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・汝に家綱の補佐を託す。」by家光
「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」by正之

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
保科正之は、兄との約束を守り、ほとんど会津に帰ることなく身命を投げ打って幕府の政治に専心します。
しかし・・・この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

4代将軍家綱の後見人となった正之・・・
しかし、正之は兄が推し進めてきた武断政治を否定するかのような政策を次々と打ち立てていきます。

武断政治からの脱却①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代からの裏切りに対する人質ということを踏襲したものでした。
しかし、幕藩体制が整った徳川政権においては無用と廃止します。

武断政治からの脱却②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際にも、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまう!!と、殉死を禁止しました。

武断政治からの脱却③末期養子の禁 緩和
大名は、生前に跡取りを決めて幕府に届ける必要性がありました。
そして、死の間際に養子をもらって跡取りにすること・・・末期養子は禁止されていました。
つまり、跡取りのいない藩主が急死するとその藩はおとり潰しとなっていました。
正之はこの禁を緩和し、50歳以下の大名の末期養子を認めます。
藩の取り潰しを減らしたのです。
正之は、家光の行った武断政治を否定するかのように次々と廃止していきます。
しかし、そこには理由がありました。
家光時代の幕府は、徳川と対立しそうな大名を次々と改易していました。
巷には浪人が溢れ、幕府に不満を抱く者たちが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人が増えないように政策を・・・文治政治へと変換していったのです。
家光の政治を否定したわけではなく、展開していく・・・戦の途絶えた時代を生き抜くための政治でした。
大名を上手に取り込むことは、国家統合に繋がり、徳川の平和につながる。。。
徳川ファーストを考えていたのです。
1657年1月18日江戸を、未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人ともいわれています。
火の手は風にあおられて、将軍のいる江戸城まで・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ちていきます。
この時、正之は、将軍を守るために西の丸に逃げるも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは、「上様を城の外へと避難させましょう!!」と言い出しました。

「西の丸も焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ぐらいで城を捨てては面目が立たない!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと、といたのです。
火事発生から2日後・・・ようやく鎮火。
正之は民のために動き出しました。
まず、被災者のためのおかゆの炊き出し。2種類のおかゆを用意し、老人や弱ったものには塩分の控えたものを、それ以外の人たちには濃いおかゆを配りました。
さらに、16万両という幕府の貯蔵金を町の復興に充てようとします。
これに対し、幕閣たちは金蔵が空になると反対します。

「このような時のために、金を蓄えておるのに・・・!!
 今使わずしていつ使うのだ!!」by正之

この判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は、復興をして行ったのです。
現場の最前線で、見事な陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男の正頼が避難先で病に侵されなくなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあっての私情を排し、町の復興を優先させたのです。
江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が反対したからです。
戦乱の終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。。。無用の長物をこのような時に、お金をかけてまで再建するべきではない。
保科正之は、民を思って町の再建を最優先にしました。

兄・家光に誓った徳川への忠誠を守り続ける保科正之・・・
その正之が、徳川のために最後に下した決断は・・・
保科正之が、常に大事にしていたのが、仁の心・・・すべてのものを、慈しみ思いやる心です。
そんな正之が、自らの政治理念を後世に伝えるために残したのが・・・
「会津家訓十五ヵ条」です。
兄を敬い弟を愛すべし・・・面々依怙贔屓すべからず・・・人としての心得をを解く中で、正之が最初に伝えたかったのが・・・
”大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
 若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず
 面々決して従うべからず”
兄・家光に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之でしたが、晩年病に伏し病状が悪化すると、幕府に隠居を申し出ます。
そして、4男正経に家督を譲ると・・・屋敷の裏で、おびただしい量の書類を焼きだしました。
それは、幕府の重要書類でした。
正之の功績が後世までに残ってしまうと、家綱時代の政策は保科正之がやったとわかってしまいます。
あくまでも政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのです。
正之は、最後まで、幕府と将軍のために動いた私利私欲のない男でした。

もし、二人が居なければ・・・武断政治が続いていたならば・・・江戸幕府はもっと早く終わったかもしれません。
1672年12月18日、保科正之は会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山の望む福島県猪苗代市・・・将軍の子として生まれながら、家臣として生きる道を選んだ男は、静かに眠っています。

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会津と言えば、幕末のイメージが強いです。
白虎隊、頑固、不言実行、謹厳実直、悲劇のイメージですが、江戸時代は日本一安心な国でした。

会津を一代で築いたのが、保科正之です。

会津藩主でありながら、三代将軍・家光の閣僚、四代将軍家綱の後見人でもありました。
三大美事を行い、武断政治から文治政治へ導きました。

その保科正之、将軍の子でありながら人目を忍んで生きた数奇な運命を持っていました。
晩年は自分の記録を焼却し、陰に徹しました。


江戸時代の副将軍格で活躍したのは、この人ぐらいです。
立場は、内閣総理大臣でありながら福島県知事。最も尊敬できる日本人の一人です。
もし、保科正之がいなければ、徳川家は存続しなかったかもしれません。

首都の中心の皇居、その前は江戸城でした。

そこには城の象徴・天守閣がありません。
今から350年前の火事で天守閣が焼失しました。
再建中止を決めたのは、保科正之。
その秘密は史上空前の大火災、明暦の大火にありました。

①災害時のリーダーシップ。
将軍・家綱非難問題

明暦3年1月18日、火の手は江戸城にも迫って来ていました。
将軍をどこに避難させるのか?
老中・松平信綱は火事の風上にあった上野の寛永寺。
大老・酒井忠勝や井伊直孝は、それぞれの別荘へ。そうなると、大名たちの門閥闘争が起こるかもしれません。。。

そこで

保科正之は・・・
「本丸に日がうつったら西の丸に、さらに西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てればよい。
 場外へ将軍を動かすのはもってのほかだ。」

リーダーが軽々しく動くものではない。。。災害本部を明確にしました。
そこには、徳川家の存在意義を示す結果にも一役買いました。

災害時のリーダーシップ②
浅草米蔵消火問題

その火の手は、幕府財政の要、浅草の米蔵へ・・・
当時はまだ町火消しはいません。大名火消しなので出払ってしまっています。
そこで、「米蔵の米取り放題!!」という御触れを出したのです。

国家の金庫を開放したのです。
飲まず食わずの町人たちは、米欲しさに必死に消火活動をしました。

鎮火・・・

被災者が火消しとなり、その米が救済米となります。一石二鳥でした。
そこには、正之の人間に対する鋭い観察眼がありました。

人の気持ち、動機づけの要因がわかっている人でした。

10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町。。。
正之は火事に強い不燃都市を目指します。

幹線道路の拡張、上野広小路はこの時に作られました。

被害状況を調べた結果、逃げ惑う場所が無くなり、隅田川に飛び込んで溺死していたことが解りました。
当時は、防犯上、川にはあまり橋が架かっていませんでした。
そこで、「両国橋」を建設、軍事より市民の安全を優先しました。

今までの武家政権では幕府の安定を無条件に優先していましたが、ここにきて初めて、庶民の利便性を優先させたのです。


災害時のリーダーシップ③
江戸城天守閣再建問題

最大の議論となったのが、焼け落ちた天守閣の再建。。。
天守閣は武家政権の象徴です。
土台の石垣が完成しましたが・・・
正之は、

「天守閣は、ただ遠くを見渡すための物見櫓にすぎない。
 今は、江戸の町の復興を優先すべきである。」

と、反対し、その費用は、復興資金に回されました。
そして、そこに市民の政権への信頼が誕生しました。

保科正之の江戸復興計画とは・・・

計画には、16万両のお金を出しました。
「それではご金蔵が空になってしまいます!!」
という反対意見に、
「ご金蔵のお金は、非常時に使うために貯めてある。
 こういう時に使わないのであれば、貯めなければよかった。」と言ったとか。


大災害を逆手に取り、民の安全を第一とした新しい街づくり、100万都市へと発展していきます。


福島県会津若松市、戦国の世から江戸時代にかけて、伊達、上杉と言った有力大名が治めた要の地です。
1643年、保科正之が会津藩へお国入り。

前藩主の厳しい年貢の取り立てや寛永の大飢饉で国土は荒廃。
正之は、領民の生活の安定を考えます。

検地をし直しました。
その結果、前藩主が2万石多く取り立てていた不正が発覚しました。
年貢を低く修正。
そうしたことで、農民側も「隠田」を申告、その石高は2万3000石となり、プラスとなりました。


明暦2年に、会津藩正史「家世實紀」に書かれている・・・
「社倉制度」を飢饉に備えて作ります。
社倉とは、米蔵のことで、藩が米を備蓄して、凶作や飢饉のときに被災者に貸し出しました。
貸し出された米は、利息2割で豊作の時に返せばよいというものでした。

会津藩ではこの結果、度重なる東北の飢饉でも、餓死者を出すことなく、安定した生活ができるようになりました。

餓死者が出るのは、国の責任。

福祉政策も始めます。
誰でも無料で医者に診てもらえる制度。それは、領民だけでなく、旅人を含みました。
その結果、多くの旅人や商人が訪れるようになりました。

もっともユニークな福祉制度が養老扶持。
働けなくなった老人がお荷物とされた時代、大事にせよと90歳以上は老人年金をもらえたというものです。
おかげで会津の人口は、1648年に11万人だったものが1718年には17万人と、安心の国になりました。

年金保険を初めてやったのはビスマルク、1989年ドイツ帝国が先駆けとなっていますが、それを遡ること200年、しかも掛け金なしで行っていました。

会津政権を刷新し、幕政も取り仕切るスーパー名君、保科正之。
その才能の裏には、複雑な出生がありました。

1611年神田白銀町に生まれました。幼名幸松。
母お静は、浪人の娘。父親とは生涯対面することはありませんでした。
その父親とは、二代将軍徳川秀忠。
将軍の御落胤でした。

本来なら大奥で育てられるはずだった正之。
その理由はお江。
嫉妬深いお江に見つかれば、命はなかったかもしれません。
そんな二人を支えたのが、武田信玄の娘・見性院。
お江に渡すことをきっぱり断ります。
そんな正之を形成したのは、武田家の雰囲気でした。
見性院と実母の欲のない生活。。。

1617年、見性院は武士の教養を身に着けさせるため、元武田の家臣、高遠藩藩主・保科正光に預けます。
石高わずか3万。
裕福ではないまでも、武田の土木技術がふんだんに使われています。

この高遠藩・保科家で、民のための政治を学んだと言われています。
領民の協力があって、藩が成り立っている。と。
高遠で地方政治の基本を身に着けて、1631年高遠藩の藩主となります。


高藤藩主として江戸城に登城。
一番下座に座ります。
家光は、その謙虚な態度に好感を持ちました。

あくまでも臣下に下って貫いた・・・それこそが、正之の人間性です。
政治手腕を発揮し、抜擢されていく正之、26歳で山形20万石に転封。
石高7倍増の異例の出世です。

1637年島原の乱勃発。
迫害を受けたキリシタンや農民が武装して蜂起しました。
幕府は12万の軍勢で一揆軍3万を鎮圧。

この反乱の大きな原因の一つに藩主の圧政、厳しい年貢の取り立てがありました。
島原藩主・松倉勝家、唐津藩主・寺沢堅高はお家断絶となります。
これが、地方行政に計り知れない衝撃をを与えました。

「圧政が原因で反乱が起きれば、領主も民も傷つく・・・」と。

ここが、日本史の転換点でした。

民のための政治を!!

高遠藩主・山形藩主・会津藩主、わずか12年で3つの国を渡り歩いた正之、その家臣団も、現地採用された寄せ集め集団でした。

家臣団をどうまとめて機能させるか。。。
正之は、卓越したマネジメント術を生み出します。

①能力主義。
この時代、譜代を重要視しないのは違法行為のようなもの。
しかし、知行制を蔵米制に変更、能力に応じたサラリー制にしました。

②家臣団の人事配置
ピラミッド状の家臣団を、禄高を平等にしてたくさんの人を雇いました。

1651年三代将軍家光病没。
家光は臨終に際し、
「家綱をたのむ・・・」

この遺言によって、四代将軍家綱の後見人となった正之。
家光の恩に報いるために身命をうって幕府の為につくします。

家光の死から3か月後・・・
慶安の変。
幕府転覆を図ったもので、由井正雪を首謀者とし、1500人の浪人が関わっていたのではないか?と言われている反乱。。。

直前に発覚し、事なきを得ます。

三代家光までは武断政治でした。大名改易などで、131の大名がおとり潰しとなりました。
その為、職にあぶれた牢人が溢れていたのです。将軍家を恨む反乱分子がたくさんいました。

そこで、、、
三大平和政策を行います。

①1651年末期養子の禁の緩和。
末期養子を認めることで、諸藩との共存共栄を図りました。

②1665年大名証人制の廃止。
大名の家族や家臣を人質としてとる制度を廃止。
これで、幕府の平和路線を図りました。

③殉死の禁止。
実際に家光の死後、老中・堀田正盛、阿部重次が殉死しています。
殉死は人に対する忠義。これからは、藩に対して、社会システムに対して忠誠心を持ってほしい。。。


これらが文治政治へと導いたのです。
正之は、武士の生き方を根底から覆しました。
戦う集団・兵を、人間の生きる規範としたのです。

武士のあり方、幕府のあり方をかえ、その後に続く200年の平和の礎を築きました。


1669年家光の遺言を守って幕府のかじ取りをしてきた正之、59歳で隠居をします。
その時、自らの記録文書を焼却、正之の手柄は、家綱の功績として語り継がれます。

会津に帰った正之は、すでに病で目が見えなくなっていました。
後年は、人材育成に力を入れます。
身分の隔てなく教育を施す「稽古堂」これは、後に藩校「日新館」へと発展します。

一身をなげうって尽くした保科正之、1672年死去、享年62歳でした。

地元の学校では、10年前からある取り組みが・・・。
「あいづっこ宣言」

poster[1].jpg

これは、保科正之の教えに基づいています。

会津藩家訓十五か条。
この第一条には・・・
「将軍家を大切にして、何があっても絶対に忠誠を尽くすべし。」
と記されています。

しかし、強固に根付いてしまった家訓が悲劇を招きます・・・

幕末に京都守護職に選ばれたのは、松平容保。
迷っていた容保に・・・
「藩祖 正之公の教えをお忘れか・・・」

最後まで明治新政府に抵抗し、江戸幕府と一緒に滅亡の道へと進んでいくのです。

薩長の最大の敵は会津藩、だから、今まで評価されなかった名君なのです。

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