およそ100年前・・・第1次世界大戦終結に湧く世界の足元で、未知の感染症が猛威を振るっていました。
スペイン・インフルエンザ・・・世界で5億人が感染し、5000万人もの命を奪ったと言われる史上最悪のパンデミックです。
日本では、スペイン風邪と呼ばれ、国民のおよそ半数が感染・・・50万人が亡くなったとされます。
この恐るべき感染症に、日本人はどう戦い、どう生き抜いたのか・・・??

第1次世界大戦末期の1918年春・・・
ヨーロッパ戦線に集結した各国の軍隊の間で、謎の感染症が流行していました。
発端は、アメリカのファンストン軍事基地で死亡した48人の肺炎患者だと言われ、感染は4か月で世界に広がりました。
しかし、戦時かにあった各国は、感染情報を隠蔽・・・
中立国スペインの発表だけが知れ渡り、いつの間にかスペイン・インフルエンザと呼ばれるようになりました。
第1次世界大戦による人の移動がパンデミックを引き起こしたのです。

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いまだと毎年のようにインフルエンザが流行りますが、当時、田舎で生まれ育った人たちは一生で一度もインフルエンザに罹ったことのない人がいたと思われます。
そんな人たちが、ヨーロッパに一堂に会して兵舎で暮らしたりすると、3密状態・・・
免疫がない状態に、一気に感染が広まってしまう・・・。
戦争が終わり、母国に帰り、水際を通り越して市中感染に繋がったのです。
グローバル化の象徴的な出来事でした。

1918年9月・・・日本にも上陸、スペイン風邪と呼ばれるようになりました。
病原体は、神戸や門司、大阪などの湾港から貨物や乗客と共に上陸。
その後、鉄道に乗って地方都市へと運ばれていきました。

おりしも、第1次世界大戦の軍需景気の真っただ中・・・農村から来た労働者らが、炭坑や製糸工場のような過密空間で働くことで、次々とクラスターが発生しました。
都市部の病院には、患者たちが殺到し、医師や看護婦にも感染・・・医療崩壊が起こっていました。
一方、当時農村地帯だった栃木県矢板市では、一人の医師が厳しい医療の現実を克明に記録していました。
それが、「世界的流行性感冒の見聞録」・・・開業医・五味淵伊次郎の手記です。
医師自身が記したスペイン風邪の記録としては、現存する唯一の物です。

10月下旬、地元の農林学校の生徒が、東京への遠足から帰ってくると続々と発病者が現れます。
体温は、38度から39度
頭痛やのどの痛みを訴え、患者たちの顔は、みな赤黒い色をしている

2日後には、矢板駅の駅員も倒れ、駅の利用者や、その家族から村全体に瞬く間に感染が広がっていきました。
自転車で十数キロ離れた村々を往診しますが・・・間に合わずに遺体と対面することもしばしばでした。
医師の欠乏・・・
大正期から昭和の初期は、農村と都市部の医療格差が大きくなった時代でした。
農村では、現金収入がないから医療費を払えない・・・
医者は、「農村では食えない」と、都市部に流れるのです。
当時は、国民皆保険ではないので、悪くなるまで医者を呼ばない・・・そうなると、家族が看病し、その家族が倒れたときは親戚が応援に来るので、親戚にまで広がってしまうという悪循環を起こします。

そして、五味淵の家で働いていた15歳の少女も感染し、危篤状態に陥ってしまいます。
五味淵は、当時はやっていたジフテリアと、スペイン風邪の症状が似ていることに気付き、一か八かジフテリアの血清療法を試そうとしました。

「しかし・・・動物試験のような注射を、人の子供に打つことなど、どうしてもできなかった・・・
 しかし、今は、試みなかったことを憾む・・・」

結成の投与をためらう五味淵を前に、少女は翌朝息を引き取りました。
その4日後には、五味淵の妹もスペイン風邪に侵され、血痰を吐き、呼吸困難に陥ります。
五味淵は、妹を救いたいという一心で、ジフテリア血清の注射を決意します。
手記には、注射後に、妹の呼吸や脈拍、体温が落ち着いて行く様子がつぶさに記録されています。
妹の命がかかった治療の記録を、全国の医師たちにも役立ててほしいと書き留めたのです。
五味淵は、自分自身にも血清を試したうえで、効果を確信し、村人たち99人に241回ジフテリア血清を注射しました。
しかし、現在の価値で数万円にもなる高価な費用を貧しかった農民たちを払うことが出来たのでしょうか?
五味淵の生活・・・
請求したものが全て医療費としてもらえる方が少なくて、お野菜、お米と交換したり、質素に暮らしていたのではないのかと思われます。
1919年3月・・・スペイン風邪第一波終息・・・死者25万人!!
つかの間の平穏が訪れていました。

1919年秋・・・スペイン風邪第二派到来!!
死亡率は、第一波の五倍に相当していました。
社会全体に不安が立ち込める中、医学界を代表する二つの権威がワクチン開発を巡ってしのぎを削りました。
一早く動いたのは、北里柴三郎率いる民間の北里研究所・・・
細菌の研究で、世界にその名をとどろかせていました。
北里研究所は、スペイン風邪の病原体は、インフルエンザ菌という細菌だと断定。
これを用いたワクチンの開発に乗り出そうとしていました。
それを真っ向から否定したのが、東京帝国大学医学部教授・長与又郎が率いる国立伝染病研究所です。
長与たちは、インフルエンザ菌以外の未知の病原体が作用しているのではないかと考えました。
しかし、その存在を説明するすべがなく、病原体は不明という立場をとりました。

そもそも、インフルエンザの真の病原体が、最近よりもさらに1/100ほど小さなウィルスと判明するのは、この時から14年後のこと。
当時使われていた光学顕微鏡では細菌は観察できても、ウィルスの姿を見ることは不可能でした。
しかし、北里たちは、ペスト菌や赤痢菌など細菌の発見によって医学を進歩させてきたという自負がありました。
その使命感から、1919年11月、インフルエンザワクチンを用いたワクチン製造に踏み切りました。
北里側にすれば、自分たちは細菌学の最先端の技術、最先端の知識でやっている・・・
北里研究所の人たちは、成功の連続でした。
成功体験を、人間は変更することは難しかったのです。
自分達の最近の発見のその先に、インフルエンザ菌が存在するように考えていました。
北里研究所のワクチンが、世間で熱狂的に受け入れられる中、国の威信がかかる伝染病研究所の長与たちも苦渋の決断をします。
北里たちから遅れること1か月・・・病原は依然として不明としながらも、北里研究所が主張したインフルエンザワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた混合ワクチンの製造を始めたのです。
伝染病研究所は、「よくわからない」と言いながら、北里側がワクチンブランドとして高名になっていく・・・
伝染病研究所は、完全に後れをとって、「国は何をやってるんだ」と言われながら、追いつくためにインフルエンザ菌や他の肺炎球菌を使いながら作っていく・・・どうしても対抗上、そうせざるを得ませんでした。

二つの研究所が、成分の異なるワクチンを製造した問題は、やがて国会へと波及・・・
専門知識がない政治家たちも、ワクチンに口を挟みだしました。

「北里研究所では、病原を確定してワクチン製造を行っているが、政府の伝染病研究所では、病原を不明としたまま混合ワクチンを出した
 政府はどちらの予防ワクチンを認めるのか、明らかにしてほしい!!」by土屋清三郎議員

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世論に押された政治家たちは、医学者への要求を日に日に高めていきました。
そもそも、現代医学の知見からは、二つの研究所のワクチンは細菌をもとに作られたもので、インフルエンザの予防効果は疑わしいとされています。
しかし、当時の人々は、ワクチンに大きな期待を寄せました。
民間の製薬会社も開発に乗り出し、全国およそ20カ所でワクチンが量産される一大ブームが巻き起こります。

とにかく薬を作らなければいけない、是非とも薬を作ってほしいという要請にこたえるために、一生懸命してしまったのです。
北里研究所がワクチンを作った時に、伝染病研究所も「何をしているのか?」と言われないように、ワクチンwの作る方向に流れてしまったのです。
世の中の流れの強さ、流行のようなものを誰も止めることが出来なかったのです。
当時からワクチンの効果を疑問視する声も上がっていました。
しかし、最終的には500万人以上がワクチンの接種を受けたと言われています。
1921年夏を最後に、スペイン風邪の流行は終息します。
それと共に、世論や政治にあおられたワクチン開発競争は次第に忘れられていきました。

スペイン風邪が日本を襲った当時、政治の民主化を求める国民の声が高まり、全国で労働運動や普通選挙運動が盛り上がりを見せました。
大正デモクラシーです。
平民宰相と呼ばれた原敬が率いる政府は、スペイン風邪の対応に当たります。
しかし、国民への強制的な介入は避け、各自の予防自覚を促すことを優先しました。
明治時代のコレラやチフスのように、警察が強引に感染者の隔離や、商店の閉鎖を行えば、国民の激しい反発は避けられない・・・!!
政府は、衛生行政の転換を迫られていました。

当時の政府の取り組みを記した資料が残されています。
「流行性感冒」・・・内務省衛生局がまとめたスペイン風邪の報告書です。
行政の対応や、全国の感染データなどが、500ページにわたって克明に書かれています。
中でも政府の方針を端的に示すのが、スペイン風邪予防のポスターです。

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病原体をユニークな姿で書いたもの・・・
見えないはずのウィルスの感染経路を赤い点線で記し、咳エチケットを促すポスターも・・・!!

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帰宅後のうがいやマスクの着用など、衛生習慣はスペイン風邪をきっかけに、日本に定借したと言われています。

日本では、イラストやキャッチコピーを多用することで、高圧的な印象を与えないように工夫をしていました。

それまでは、国民・住民というのは、命令する対象・取締りの対象と考えていましたが、住民が理解して、行動しなければ問題の対策にならない・・・ということ・・・行動の変容を訴える形に変わっていきました。


さらに、注目すべきは、全国の自治体独自の対策です。
報告書の1/5を占めていました。
埼玉県では、陸軍飛行場から飛行機を飛ばし、飛行機から感染対策のビラを撒きました。
北海道では、女学生たちにマスクづくりの協力を要請・・・出来上がったマスクを劇場や寄席の入り口で無料配布しました。

東京では、ワクチンの接所を受けられない低所得者のためや缶無料注射所を作り、医療格差の是正に取り組んでいました。
紂王の人でも気づかなかったような地方独自の政策を、拾い上げ、記録していくことで新しい公衆衛生の糧にしていこうという意識が、内務省衛生局の人にもあったのではないのか??

国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染対策に取り組む動きが、昭和の保健所の誕生にもつながっていきます。
全国に設置された保健所は、地域の住民を守る公衆衛生の最前線となったのです。

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