世界最大級の木造建築、奈良の東大寺大仏殿・・・ここに鎮座するのは、銅製の仏像で世界トップクラスを誇る廬舎那仏です。
どちらも国宝です。
国宝とは、重要文化財のうち、歴史的文化史的価値が高く、世界的にも保護すべき国の宝として国が指定したものです。
現在国宝に指定されているのは、建造物、美術品を含め、1116です。
人気の国宝の謎に迫ります。

Ⅰ.日本の仏像史上最高のイケメンと称される「阿修羅像」。

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猛々しい戦いの神が、どうして憂いを帯びた少年の顔なのでしょうか?

奈良興福寺、大化の改新の中心人物中臣鎌足の妻によって創建された藤原氏ゆかりのお寺です。。
その境内に、かつてあった西金堂の安置されていたのが、国宝・阿修羅像です。
釈迦の教えによって帰依した仏法を守る神です。
3つの顔と6本の腕を持つ三面六臂、八頭身という抜群のプロポーションが特徴です。
平安時代以降に衰退し、幻の製作方法とされる”脱活乾漆”と呼ばれる方法で作られています。
その方法は・・・??

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①原型づくり・・・骨組みとなる木の芯に粘土を盛っていき、ヘラで大まかな形を作ります。
②麻布貼り・・・麻布を何枚も重ね、木くずや漆を混ぜた木屎漆を塗りつけて乾燥させます。
③粘土の掻き出し・・・乾燥したのち、背中や腰の部分に穴をあけ、中の粘土を掻き出して空洞に・・・
④縫い合わせ・・・麻布で、穴を閉じ、色を塗って完成です。

この方法で作られた阿修羅像は、軽くて丈夫なのが特徴で、そのおかげか戦火で焼失するピンチを幾度となく逃れてきました。
柔らかな表現を出すことができたのも、この技法のおかげです。
仏像全体に色が施されてきましたが、ほとんどはげ落ちてしまいました。
長い間謎とされてきたその色彩・・・赤い色で塗られていたことがわかります。
その赤は、辰砂と呼ばれる水銀と偉央を含む鉱物からできたものであることもわかりました。
辰砂は、作り方によって数種類の赤が生れます。
ろうそくの光でも・・・暗い環境でもはっきりと見えるように、明るい色で塗られていました。

もう一つ、阿修羅像に魅入られる理由は・・・??
愁いを帯びた表情で人々を魅了してきた興福寺の阿修羅像・・・
ぷっくりと膨らんだ下唇、つぶらな瞳はうるんでいるようにも見えます。
まだあどけない少年の顔をした阿修羅・・・
しかし、元々阿修羅とは、古代インド神話に登場する怒りに満ちた戦いの神です。
娘を強奪した最高神インドラに挑み続ける間に、荒ぶる神になってしまったといわれています。
なので、通常は怒りの表情らしいのですが・・・
興福寺の阿修羅像は、どうして少年の表情を称えているのでしょうか?
近年大発見がありました。
それは、九州国立博物館と奈良大学が共同で研究を進めていた時の事・・・
CTスキャンで撮影し、画像を分析すると・・・顔の下にもう一つの顔があることがわかりました。
製作の途中で、顔が作り替えられたのでは・・・??
権力者・・・仏像を作らせた光明皇后が変更を命令したのでは・・・??
夫である聖武天皇が即位してから続いた天変地異・・・。
日照り、台風が相次ぎ、各地で飢饉による餓死者が続出します。
734年には畿内で山崩れや地割れの起こる大地震が・・・。
その3年後には、死の病・・・天然痘が大流行・・・夥しい死者が出ました。
聖武天皇は考えます。

「異変や災害がなおとまらず、我の不徳を責めている
 責任は我ひとりにある」

そして、民のため、国家安泰のために祈り、深く仏教に帰依していきます。
東大寺の大仏建立もその一つです。
その建立を働きかけたのは、妻の光明皇后だったともいわれています。
皇后もまた、仏教の教えに従って国民を救うべく尽力します。
興福寺の中に、貧しい人々に施しを与える悲田院や医療施設である施薬院を作ります。
みずからが建立した法華寺には、浴室(からふろ)を作ります。
病人などを癒す施設・・・サウナでした。
日本最古の風呂とされています。
そこには日本の社会福祉の原点ともいわれる逸話が・・・
光明皇后自らが千人の垢を流したという伝説が残っています。
不安な世相に怯える貧しい民に、救いの手を差し伸べた光明皇后・・・興福寺の阿修羅像もその一つでした。
仏教で国を守ろうと考えます。
しかし、阿修羅像に込めた思いは他にも・・・
727年、聖武天皇は光明皇后との間に男の子を設けます。
ようやく授かった跡継ぎ・・・二人の喜びは大きく、生後32日という異例の早さで皇太子に・・・。
しかし、その翌年、皇子は亡くなってしまいました。
愛する皇子を失った光明皇后は深い悲しみに・・・
それから6年後の734年、光明皇后は母の一周忌のため、興福寺に西金堂を建立。
その中に安置する為に作った仏像の一つが阿修羅像でした。
皇后はそこに幼くして亡くなった我が子を投影・・・そのため、物資が作った怒りの表情を、少年の表情に変えさせたのでは??と考えられています。
阿修羅像の3つの顔は、少年の成長の過程を現したものといわれています。
そこには、見ることが叶わなかった我が子の成長を思い描く、母・光明皇后の深い愛と悲しみが込められていたのです。


Ⅱ.江戸時代初期に現れた稀代の絵師・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」。
風神、雷神は、風と雷を神格化したもので、仏教美術に登場する一対の鬼神でした。
それを堂々たる主役としたのが、宗達の風神雷神図屏風です。

俵屋宗達は、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した町絵師です。
詳しいことはわかっていない、謎の多い絵師です。
宗達が活躍していた頃、画壇の頂点に君臨していたのは、狩野探幽ら・・・狩野派の御用絵師でした。
江戸時代になると、活動拠点を京都から江戸に移し、徳川家に仕えるようになります。
一方宗達は・・・京都で暮らし、扇に絵を描くことを生業としていました。
すると・・・その絵が、京都の豪商や寺社から気に入られ、やがて狩野派の絵師とは一線を画し、町絵師として人気を博すようになります。
京都・建仁寺には、宗達の最高傑作が残されています。

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国宝「風神雷神図屏風」です。

一節には、京都の豪商・打它公軌(うつだきんのり)が、制作を依頼したといわれています。
それを受けた宗達は、これまで誰も見たことのない屏風を作ってやろうと持てるわざと、アイデアをつぎ込んでいきます。
そこには、見る者を引き付けるマジックがしかけられていました。

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①色彩・・・宗達はド派手でした。
風神は鮮やかな緑、雷神は白にしましたが・・・雷神は赤い色で書かれることが殆どでした。
どうして白に・・・??
ユーモラスで親しみやすい雷様になっています。
風神と雷神の乗る雲は・・・銀色。派手で軽妙洒脱なキャラクターに・・・。
これが長く愛される由縁です。
デジタル復元で、もとの色の屏風にしてみると・・・暗い部屋でもはっきりとわかるようになっていました。

②マジックアート
夜見ると・・・江戸時代の人々とおなじように、和ろうそくで鑑賞して見ると・・・
風神と雷神が浮き出てきて絵から飛び出して来たようです。
まるで3Dアートです。
その原因は、背景の金にあります。
揺らめく炎が金箔に反射し、浮き出るような効果を発揮しているのです。

③目
通常ならば、互いを見つめ合っているはずの風神、雷神の目・・・ところが宗達の風神あり人は、風神は雷神を見ていますが、雷神は前方下を見ています。
何を見ているのか??それは、屏風の前に座る鑑賞者です。
風神の視線は雷神に、雷神の視線は鑑賞者に、そして鑑賞者は風神を・・・視線がループするようにしかけられていました。
これらの仕掛けによって、鑑賞者もまた作品の一部となって引き込まれていきます。
まさに、前代未聞の屏風なのです。


Ⅲ.今も実在していたら国宝間違いなしの幻の絵の模写を発見!!「平治物語絵巻」!!

平安時代末期の1159年、京の都で大規模な内乱が勃発します。平治の乱です。
後白河上皇の近臣であった信西と藤原信頼の対立が原因のこの内乱は、平清盛や源義朝などを巻き込み、血で血を洗う惨劇が起こされました。
最終的には、信西側についていた平清盛が内乱を治め、それ以後平家一門が台頭し、政治の実権を握ります。
そんな平治の乱を描いたのが、「平治物語絵巻」です。
平家のライバル源氏が幕府を開いた鎌倉時代に書かれた絵巻です。
元々は、15巻に及ぶ超大作ですが、現存するのはわずか3巻のみ・・・

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「三条殿焼討巻」
藤原信頼の軍勢が、後白河上皇のいる三条殿を襲撃し、上皇を拉致する場面。

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信頼が信西を追いつめ、自害に追い込む「信西巻」

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そして清盛が監禁されていた二条天皇を助け出し平家一門の邸宅のある六波羅に匿う「六波羅行幸巻」

このうち、「六波羅行幸巻」のみが国宝です。

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しかし、もし現存していたならば、国宝間違いなしというものが出てきました。
「六波羅合戦巻」です。
何が描かれていたのでしょうか?
東京国立博物館に、模写が残っています。
原画が失われる前に書かれたものだとされています。

見どころは、三条河原の決戦です。
大将である平清盛の軍勢が、京都の三条河原で敵方を追い込み決着をつける・・・というクライマックスシーンです。
模写を元に復元してみると・・・様々な歴史の真実がわかってきました。
鎌倉時代に平清盛の活躍がどうして描かれたのか??
その象徴シーンが書かれています。
襲った勝者が後ろから狙われているシーンが書かれています。
勝者が敗者となる諸行無常のシーンです。

平治の乱に勝利した清盛ら平家一門は、その武力を背景に朝廷での地位を確立していきます。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、栄華を極めました。
しかし、それから26年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、あっけなく滅亡してしまいます。
それからおよそ100年後の鎌倉時代にこの絵巻は書かれました。

おごれる者は久しからず・・・

ぞの平家の運命を教訓として逸話が身に起きるかもしれないと心に刻むために・・・!!

国宝の数々・・・そこには、人々の思いや知られざる歴史の真実が隠されていました。

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