日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:信長

鉄砲伝来の日本史 火縄銃からライフル銃まで

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シリーズ日本のインパクト第1弾です。

戦国時代、強き者だけが残る下剋上の日本に・・・
衝撃の鉄砲伝来です。
1543年種子島にもたらされました。
しかし、新兵器は、1年後に複製、大量生産を行い、一大軍事大国となるのでした。
大量の鉄砲は、戦いを・・・武士の常識を変えていきます。

まず・・・鉄砲を使うと、死傷者の数が爆発的に増えます。
弓は修練が要りますが、鉄砲はそうではないので、民衆が鉄砲を手にして参加できるようになりました。
そしてお城も、鉄砲に対してどう戦うのか?というふうに造られるようになったのです。

1543年種子島に漂着したポルトガル人が伝えました。
と、思われてきました。
しかし、最近、鉄砲を伝えたのは・・・
ポルトガル人と一緒にいた中国人だとも言われています。

”鉄砲記”には、その名を”五峯”としています。
日本に鉄砲を伝えたのは、倭寇だというのです。
超大国の明、海禁政策を行っていて、国が貿易を独占していました。
しかし、15世紀後半に貿易が衰えてきます。
その中、密貿易を活発に行ってくるようになったのが、倭寇なのです。
彼等は武力で東アジアを支配するようになります。
莫大な利益を得ていきます。
そして、もっとも成功した倭寇のリーダーが”五峯=王直”でした。

この頃大航海時代となり、ポルトガルがアジアに侵攻。
1511年マラッカを占領。
陶磁器、生糸を求めて、明への進出を図りますが・・・
当時の明は、朝貢貿易・・・周辺国が、中国皇帝に貢物をして返礼を受けるという貿易でした。
威信は保ちたいけどお金は払いたくない明。。。
明との貿易交渉に失敗し、マラッカから先に進めなくなったので・・・倭寇を利用しようとなったのです。

王直の船にポルトガル人が乗って、密貿易で金を儲けようとしたのです。
そしてこのタイミング???
時はまさに戦国時代・・・激しい戦いが繰りひろげられていました。
種子島時尭は、鉄砲の利用価値に気付き、2丁を金・2000両で・・・現在の1億円で購入します。
この鉄砲が多きなインパクトとなっていくのでした。

日本人で初めて鉄砲を手に入れた種子島時尭。
時尭が戦国の世を変えていきます。

「これと同じものを作ってみよ!!」

銃身、カラクリ、ネジ・・・

命じられたのは種子島の刀鍛冶。。。

1年後・・・国産鉄砲が完成しました。

種子島には砂鉄がありました。
そこには製鉄のベースがあり・・・鉄砲を作るにはいい土地でした。
噂が広まり・・・戦国大名たちはこぞって手に入れようとします。
島津貴久、織田信長、上杉謙信・・・

そこにいち早く目を付けたのは、東洋のベニス・・・堺の商人たち・・・会合衆でした。
どうすれば鉄砲を大量生産できるのか???
それは、部品互換方式。
部品を同一規格で分業し・・・最後に組み立てて完成させることにしました。
当時世界では、ひとりの作り手が、一つ一つ作り上げていく時代でした。
世界に先駆けた分業大量生産だったのです。

その産業基盤は古くからあり・・・畿内では、産業革命が早くから起こっていたのです。
大量生産によって、鉄砲大国となっていく日本。
1550年代に30万丁・・・ヨーロッパの保有数を上回っていた。。。
ヨーロッパへ逆輸出されたともいいます。

まさにモノづくり日本だったのです。

30年がたち・・・戦国時代の戦を変える決定的な戦いが起こります。

1570年の石山合戦です。
天下布武の信長に立ちはだかったのは、本願寺・顕如。
天下統一を阻む一番の強敵でした。
石山本願寺を攻めた信長・・・苦戦して10年もかかります。
その原因は・・・大量の鉄砲の銃弾だったのです。

数千丁の鉄砲をもっていたと思われる石山本願寺。。。
信長も足を撃たれたとか・・・。
どうして本願寺が大量の鉄砲を扱うことができたのでしょうか?
そこには謎の傭兵集団が・・・
雑賀衆。。。
それまでの常識を覆し・・・個人の技量には頼らない鉄砲の連射。。。
鉄砲を取り換えて、取り換えて・・・チームワークで連射をしていました。
これを利用して弾幕を張っていたと思われます。
そして・・・徹底的なゲリラ戦法を使っていました。
隠れて狙撃し、撃ったら逃げる・・・名誉を重んじる武士には出来ない芸当でした。
雑賀衆は・・・武士ではなく、漁業や農業を行っている民衆でした。

紀州は・・・守護大名の力の弱い惣国でした。
小さな独立国家が多かったのです。
雑賀衆はその、自衛組織だったのです。

雑賀衆に煮え湯を飲まされた信長・・・
石山本願寺を落とすことは出来ずに・・・和平を結ぶこととなります。
雑賀衆の戦法は、信長に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
これ以後・・・鉄砲足軽隊の比率が大きくなっていきます。
信長は・・・天下統一へと突き進んでいったのでした。
兵農分離も進んでいきます。

鉄砲に対抗するために、城の造りも変化していきます。
今のお城の形となったのです。
難攻不落と言われたのが大坂城。
大坂の陣はこの城が舞台となりました。城VS鉄砲の究極の戦いとなったのです。
堀の幅が10mから20mへ。。。
3重の堀となります。
石垣には、屏風折れ。
櫓や壁には狭間が作られ・・・城壁や門も鉄板で覆います。
秀吉の大坂城は、鉄砲を想定して作られており、世界的にも屈指の要塞でした。

徳川家康は・・・
大筒鉄砲を近江で作ります。射程距離は1㎞以上。
2㎞まで届く鉄砲さえ製造させています。
生きているうちに豊臣を倒す!!
でも、大筒の玉をどのようにして命中させる???
鉄砲を改良します。
弾道計算を重ね、鉄砲を作り上げていきます。

冬の陣の火蓋が!!!
徳川側は、城から800m離れた備前島から大筒鉄砲で攻撃!!
城の中枢部に着弾させ。。。
さらに大砲を・・・!!!昼夜構わず撃ち込まれます。

豊臣方は、怖れをなし講和に・・・夏の陣でなすすべなく徳川の勝利となるのでした。
鉄砲伝来から70年・・・戦乱の世は終焉を迎えたのでした。
鉄砲が戦国を終焉させ・・・新しい徳川的な秩序を作りだしたのです。

太平の世となって・・・
しかし、鉄砲保有数は世界トップレベルでした。
どうして戦乱のタネとならなかったのでしょうか?
3代将軍家光は・・・軍役を細かく定めています。
5万石では150丁、10万石では350丁。。。
既定に満たないものは処罰されます。

民衆も鉄砲所持を認められ・・・鑑札が発行されます。
世界初の銃規制でした。
狩り・害虫駆除に使われ・・・戦いに使われることはありませんでした。
平和を求める気持ちが強かったのです。
喧嘩両成敗・・・つまり紛争を武力で解決してはならない・・・
圧倒的な武力を誇示する江戸幕府の中。。。武器がシンボル化していきます。

戦国のすさまじい時代を潜り抜けてきたからこそ!!という英知だったのかも知れません。

今回は雑賀衆が出てくることもあって、和歌山市出身の津本陽さんが出ていました。
84歳でもとってもお元気そうでした。

和歌浦出身の津本陽さんも雑賀衆???
その近くで生まれた私も雑賀衆の末裔かもしれません。
が・・・一番速かった時でさえ・・・50mを10秒以上かかる私は、すぐに死んじゃうんだろうな。。。

いつも3月の末には(雑賀)孫一まつりがおこなわれ。。。
コスプレ・・・甲冑をつけた人たちが、町中を練り歩いてくれます。

ホント、この頃が一番和歌山に活気があったかも???


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娘がKis-My-Ft2のファンなので、第1話を一緒に見ました。

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ストーリーは・・・
主役はKis-My-Ft2の玉森裕太くんです。
現代でフレンチのシェフとして働くケンがふと目を覚ますと・・・
そこは戦国の世の京都だった。。。

と、始まります。

tama2.png

間者に間違われ、目の前で仲間を斬り殺されたケンは、刀鍛冶の夏に助けられました。

「自分は誰なのか」
「何故、戦国時代にいるのか」

記憶を失ってしまったケンでしたが、“料理の技術”だけは体が覚えていた。。。

第1回では、信長・秀吉・光秀が登場しました。
キャスティングも良い感じで、歴史オタクの私にも許せる感じで。
やっぱりミッチーは王子様なので、信長似合っていました黒ハート


原作は漫画なのですね。黒ハート

記憶喪失なのに、歴史のことよく覚えてるじゃん!!
と、娘と突っ込みを入れながら、見てしまいました。あせあせ(飛び散る汗)

tama.png


けっこう解りやすく時代の流れを解説してくれているように思いました。
おまけに若い子にもくどくなさそうです。黒ハート
よみがえれ!!時代劇黒ハート
あーこも歴史好きになってくれないかなあ揺れるハート


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農民から身をお越し、天下人へと上り詰めた男・豊臣秀吉。
その人生最大のターニングポイントと言えば・・・戦国最大の軌跡・中国大返し。

羽柴秀吉だった天正10年、本能寺の変が勃発。
明智光秀の謀反で信長が討たれます。
この時、遥か遠く中国で戦っていた秀吉は、主君の仇討を決意。
京都に全軍を取って返します。

秀吉軍は、昼も夜も行軍を続け、200キロを7日間という驚異的な速さで戻ってきました。
決戦の地山崎では、わずか4時間で光秀を死に追いやります。

この大手柄をきっかけに、天下人に駆け上がるのです。

どうしてこんなに早く、上手く、出来たのでしょうか?
京都から遠く離れた備中にいながら、2日もしないうちに“信長の死”という正確な情報を掴んでいます。
恐るべき情報網と言えるでしょう。

そして、異常ともいえる速さで行軍します。
行軍しながら味方を増やし、4万の大軍を作り上げました。

その巧みな情報戦術は、残っている手紙からうかがい知ることが出来ます。

ふつう、行軍は1日40キロぐらいです。
しかし、秀吉はその1.5~2倍のスピードで行軍しています。

どうして鮮やかな成功を収めたのでしょうか?
①早く出発できたこと
②行軍スピードが速かったこと
が挙げられます。

本能寺の変が6月2日未明。
その2日後の6月4日の午前には、毛利輝元との講和を結び、打倒光秀に向かい体制を整えます。
6月6日午後全軍を率いて出発。
つまり、わずか4日で大返しをしています。

当時、有力な家臣はすべて遠征中。
そんな中起こった本能寺の変でしたが・・・

「信長様死す」

四国攻めの準備中だった丹羽長秀・織田信孝はパニックに陥り兵たちは離散、
越後の上杉軍を攻めていた柴田勝家が知ったのは6月7日ごろ、すぐには動けません。
滝川一益は6月9日に知ります。

秀吉はとても早くに情報を入手したのです。

光秀が毛利へ遣わした密使が、陣を間違えて秀吉軍に捕らえられたとも言われていますが・・・
そんな偶然を鵜呑みにして全軍撤退をするでしょうか???
独自の情報ルートがあったようです。

京都にある夜久野。この地の地侍に秀吉の送った書状がありました。
夜久野の地侍・中川清秀の協力のおかげで無事に行き返りが出来たというお礼状でした。

光秀は、本能寺の変の後、西国街道に目を光らせていたようです。
備中高松城―姫路―夜久野―京都のルートは、街道を避けて通る裏ルートでした。

この令状は二枚組で、一つは秀長の家臣から、もう一つは秀長本人からのものでした。
秀長からの直々の令状・・・その日付は6月6日・・・大返し出発の前日です。

忙しいときに、わざわざ令状を認める・・・。それは、もたらされた情報の大きさを見てとれます。本能寺の変の事と思われ・・・このルートで情報を手に入れたと思われます。

そして、その情報がガセネタかどうか??他の家臣たちはそれに悩みます。
しかし、秀吉だけが、情報に確信を持っていたのです。
裏ルートがあったかどうか?それは解りませんが、秀吉は、多角的に情報を得られるように工夫していたというのは間違いありません。

そんな用意周到な秀吉でも、本能寺の変は予測できなかったのでしょうか?
「信長が狙われやすい」ということには、気づいていたようです。

信長政権は、盤石ではなかったというほうが、正しいのかもしれません。
例えば・・・天正6年の荒木村重の謀反です。
自分の政権の弱さを直せなかった・・・
秀吉は、何が起こっても・・・と、想定していたと言えるでしょう。


では・・・驚異的な行軍スピードは・・・どうでしょう。
特に初めのころは凄まじく、2日目には台風の中を70㎞も進んでいます。
こんなことが本当に可能なのでしょうか???

中国大返しは、只の移動ではなく、闘いに向かう行軍です。
武将の装備一式を身に着けると・・・31kg
足軽は、自炊道具や食料、弾薬や弓矢を持って・・・30kg・・・
この格好では、山道を走るのはなかなかしんどいものがあります。
10分も持ちません・・・
きっと寝る暇もなく・・・過酷な行軍だったのでしょう。


でも・・・常識的に考えると、この重装備は無理なので・・・
荷物なしで・・・そうなると、食料がありません。丸腰で光秀軍に対抗できません。


翌年に行われた賤ヶ岳の合戦では・・・
もう一つの大返しをしています。
54キロを5時間で走破した“美濃大返し”です。

道に松明を持った人を立たせ、酒・飯・・・道筋に炊き出しを用意しました。
そして、もう一つの秘策は・・・長浜城から武器を集めておいて運んだというのです。


だから、この中国大返しの時も、武器をどこかに集めておいて戦いに向かったと思われます。
戦場近くに武器、道沿いに炊き出し、兵は軽装で・・・
さらに確実に成功させるために・・・姫路城にあった金銀や食料を皆に配りました。
御賞の先払いによって、士気を高めたのです。
信長様の後を継ぐのは秀吉!!ということと、自分が農民出身であったため兵の気持ちがわかったということが言えるでしょう。


合理的な進軍方法と、モチベーションを高める工夫・・・そんな軍略が、中国大返しを達成させたと言えるでしょう。

では・・・ここまで急いだ理由は???
信長が亡くなった今、自分の首が危ない・・・
織田家臣団の序列で秀吉は、5番目でした。
柴田勝家や丹羽長秀らに比べると、決定権は低かったのです。
早く結果を出さなければ・・・後の評定でのことを考えると、ここががんばりどころだったのです。

一直線に京都に向かった秀吉軍、ハードな道中には落伍者が続出します。
出発時に2万あった軍勢は、1万余りに半減・・・
ところが・・・山崎についてみると・・・秀吉軍は4万にもなっていました。
光秀軍をはるかに凌駕していました。

ここでも秀吉の情報戦略が・・・
毛利軍と講和を結んだ際に、毛利軍から旗と指物を手に入れていました。
大返しの途中、掲げたのです。
強国毛利が秀吉軍に加勢したと思った人々。

他にも有力大名を引き入れました。
摂津衆と呼ばれる3大名をどのようにして味方に付けるか?
中川清秀・池田恒興・高山右近・・・この3人は、秀吉につくか光秀につくか・・・悩んでいました。
彼らを説得したのが、秀吉の手紙作戦でした。

秀吉から中川清秀に送った手紙には・・・
「信長様は、難もなく切り抜けて、生きていらっしゃる」
とありました。

そう、本能寺の変は起こったものの、信長の首は見つかっていませんでした。
つまり、信長の死が確定していなかったのです。
この偽情報には・・・光秀の方に加担したら、あとで親方様に大目玉をくらうと、思わせようという意味がありました。
おまけに光秀軍に不利なこと、具体的なことを述べ、手紙の信憑性をわからせようとします。

また他の手紙では、柴田勝家も京都に来て参戦する予定とか、全体的に光秀討伐に向かっていると思わせています。
高圧的ではなく、丁寧に理詰めで、いかに自分が優勢かということを知らせているのです。
他に選ぶ道はありませんでした。

摂津衆三人は、秀吉に協力すると約束します。
こうして、兵力の増強が完成したのです。

秀吉の情報収集能力は周りの武将は知っていたでしょう。
だからこそ、大きな嘘にも乗ったのかもしれません。

秀吉にとっては、情報は“命”であり“金”でした。
その武器を手に、のし上がってきたのです。
そして、あらゆる階層に対しての理解力・・・周囲が自分をどう見ているのか?その情報こそが秀吉最大の武器だったのです。


大返しの行軍は、後半はスピードは落ち着いてきていました。
秀吉は慎重に軍議を開きながら進んでいました。
信長の三男・信孝と合流。打倒光秀に向かって進みます。

光秀が頼りとしたのが、細川忠興と筒井順慶。
細川忠興は、光秀が最も信頼していた人物です。
筒井順慶は、光秀に取り立ててもらっていたので大恩がありました。

この二人が、自分の元へ馳せ参じてくれる・・・そう信じて疑っていませんでした。
が、この二人にも、秀吉の手が回っていたとも思われます。
大返しの最中、秀吉の側近から細川藤孝の重臣に宛てられた手紙には・・・
毛利と講和を結んだことや、姫路に到着したことなどが書かれています。
秀吉と細川が内通していたかも???

そして、筒井順慶の元にも手紙が・・・
秀吉が信孝を総大将にして支えていること、信孝が高槻に着陣したことを伝えています。

当時の御公儀である信孝が秀吉の味方になったこと・・・もう一度寝返らないように根回しを・・・。

そして・・・出陣しない、籠城してしまった二人・・・

山崎で両軍会い見えます。
その時秀吉軍に味方したのは中川秀勝。4時間後には決着がつきました。
明智光秀は、逃走中に殺害されてしまいました。

其の2週間後、清州会議が行われます。
信長の後継者を決める会議です。次男・信雄と三男・信孝・・・
どちらでしょうか???

やはり、山崎の合戦で武功を上げた信孝が有力でした。
勝家は、迷いもなく信孝を推薦。
しかし、秀吉はともに戦った信孝ではなく、亡き信忠の長男・三法師、まだ3歳でした。
その時丹羽長秀が・・・

「信長様の無念を晴らしたのは秀吉
 その顔を立てるべきではあるまいか」

総大将こそ信孝でしたが、全軍を指揮して勝利した功労者は秀吉でした。
そして、三法師に決まりました。
その目的は、織田家の簒奪だったのです。

中国大返しを成功し、信長の敵を討った時から、天下人への道は決まっていたのです。


ああ、何だか今回は、すっきりと理解できる内容で、さっぱりしました。るんるん


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1560年5月19日 桶狭間の戦い
この戦いの主人公は・・・
東海一の弓取りとうたわれた戦国武将であり大大名・今川義元。
もう一人は織田信長、尾張一国もまとめられない小大名にすぎませんでした。

今川軍4万5千に対し、信長軍2千・・・。
しかし、圧倒的な奇跡の完全勝利で信長が勝利します。
どうして勝利できたのでしょうか???


桶狭間には二人の像が立っています。


1560年5月13日、今川軍は、4万5千を尾張に向けて進軍していました。
対する信長軍は2千・・・。
そこには、伝説のう回奇襲作戦がありました。


桶狭間の戦いは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」で知られていました。
これをもとに、明治時代陸軍参謀本部によって編纂されました。
これによると・・・
今川義元が天下統一のために・・・将軍謁見のために進軍していたとあります。
主戦場となった場所は、田楽狭間。
激しい風雨の中、う回奇襲作戦で信長が勝利したとされていますが・・・


信長の家臣、太田牛一の「信長公記」によると・・・
う回奇襲作戦とは矛盾する点がいくつかあります。

①今川本陣の場所
御敵今川義元は、4万5千引率し、おけはざま山に人馬の息をひそめてこれあり
田楽狭間という低地ではなく、「おけはざま」という山の上だというのです。
つまり、“桶狭間”という谷底に攻め入ることは出来ないのです。

②信長の進軍方法
脇は深田の足入れ 一騎打ちの道なり
無勢の様体 敵方より定かに相見え候
勿体無きの由
つまり、狭い一本道を進軍する信長軍は、敵から丸見えだったというのです。

新しい定説によると、う回奇襲説が成り立たなくなっています。


「信長記」は、歴史小説のようなもので、「信長公記」を脚色したものだということ・・・
陸軍がこの勝利が信じられなかったということと、「小さい日本が敵に勝つには奇襲」だということ・・・
それが、重なって、学校で教えられるようになってしまったというのです。
では“う回奇襲でないなら・・・何?”なんでしょうか?

“桶狭間”は誤解の多い合戦で・・・
どうして今川義元が出てきたのか?
戦国大名は、上洛して天下を取るというのが当たり前のように思われていますが・・・
上洛ではないとすれば・・・?

今川が出てきたのではなく・・・信長の領土回復戦争であるということ。
信長が仕掛けたのです。

遡ること7年前、大高城などが、今川のモノになります。それは、信長の家臣が寝返ったためでした。
それに対抗するために砦を作ります。
1560年5月17日、義元が大軍を率いて進軍してきました。
それは大高城の砦×2を武装解除するためでした。


5月18日信長方で軍議が開かれました。
清州城に情報が集められます。
今川軍が攻めてくる・・・
なのに、信長は何もせず。

翌日、今川軍の攻撃が始まりました。
信長は、「敦盛」を踊っています。

午前8時には、砦は陥落。
ようやく信長は前線の善照寺砦に到着。

その時・・・

「御敵今川義元は4万5千引率し おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」

という情報が入ります。

これを聞いた信長は、一本道を丸見え・・・命を捨てに行くかの行軍を開始します。
おけはざまに必死に行軍する信長を、家臣たちは必死に止めます。
それも聞かずに行軍!!

「勝も負けるも天が決める!!」

信長は、進軍を続け・・・
敵から丸見えの中、正面突破を図りました。

もし、正面突破だとしても、そこに義元がいるとどうして知りえたのでしょう???
そこにはまだまだ謎がたくさんあります。

では、信長は何を考えていたのでしょう?
いわゆるカウンター攻撃だったようです。
今川軍が攻撃してくるのを待っていたのです。
鷲津砦・丸根砦は捨て石にする!!

そのあと疲れている義元軍を叩く!!というのが作戦でした。

信長は、義元の首を取るつもりだったのかは不明ですが・・・
結果的にそうなったということは確かでした。

27歳信長の、型破りな発想は・・・
故郷・尾張の莫大な経済力にありました。

1534年勝幡城で生まれました。
津島湊は東国と西国の中間に位置し、物流の拠点でした。
当時は関所がたくさんあって、物流を阻んでいました。
そこで、信長の父・信秀は、港・・・海運ルートに目をつけます。

戦国時代といえば、殺伐とした時代と思いがちですが・・・
戦国時代は高度成長期で、お金があれば何でもできる時代だったようです。


関税などで莫大な利益を得。。。
伊勢外宮 仮設造営費・700貫文、皇居修理費・4000貫文、寄付しています。

のちの楽市楽座につながります。
そして信長は、人々の安全・自由、利益を保護する代わりに、莫大な献金を受けていたといわれています。

その一方で・・・「大うつけ」と言われていました。
しかし、その非凡さを斉藤道三も認めています。

信長軍は・・・三間半(6.3m)の槍を持ち、訓練された兵を指揮できる・・・近代的な軍隊でした。きわめて統率のとれた軍・・・それが、最強の証でした。

今川軍は土地に縛られた農民兵、しかし、信長軍は土豪の次男・三男を集め、お金で雇い常備軍としていたのです。のちの兵農分離を始めていたのです。

まだまだ城下町が形成されていなかった時代・・・
清州城下には、多くの武家屋敷が並んでいたようです。
その人々が、桶狭間の戦いで活躍したのです。

侍が侍として生き、侍が主人となる世界・・・信長は、そのトップは自分であるという武士の考え方を・・・侍の時代を作った人だったのです。

信長は、血縁・地縁・宗教縁を断ち切ったので、日本では宗教戦争がない世の中になっていくのです。

天才とは時代の通念にとらわれないこと・・・その天才が信長だったのです。


桶狭間の戦いにはもう一つ、秘密がありました。
今川軍は、鷲津砦・丸根砦を落としたことに大変満足したと言います。
そこには、旧体制・・・義元の“戦争目的”である少ずづつ国を広げていく・・・そして恩賞を与える。。。
当時の武士たちの恩賞は土地でした。
地点の占領奪取です。
家来たちも首の奪取。
その恩賞の証としての“首”は、取って、持って次の戦いに参加していました。

しかし、信長の戦争目的は・・・

「分捕をなすべからず
    打捨たるべし!!」

首を取らずにすぐまた次の敵と戦えということでした。


少ない軍勢で、効率よく攻撃する!!
義元ひとりの首を狙うために!!

敵戦力の無力化奪取です。

そして・・・
「軍に勝ちぬれば 此場へ乗ったる者は家の面目
  末代の高名たるべし  只励むべし」

この戦は、全ての兵の名誉であり、語り継がれることだろうと鼓舞したのです。

義元に一番槍を突きつけたのは、服部小平太、首を取った毛利新介も、地侍の次男坊。

IY_HK[1].jpg

若者たちは“名誉”のために戦ったのが・・・桶狭間の戦いでした。

戦争はアートに似ている。。。
人には解らない・・・信長にしか解らない戦いでした。

信長の“求心力”・・・
戦争を起こして自分が勝つ、自分が頂点に立った国を作る!!
というのがはっきり見えていました。


この“桶狭間”と同じ物語・・・
それが明智光秀・・・。


「天下布武」を掲げて走り出した信長。
しかし、“天下統一”は、結果論でしかありません。
朝廷や幕府が弱体化し・・・
地方分権の進んだ時代でした。
農民たちが力を持ち、“加賀の一向一揆”などがありました。
武士は、自治的な民衆の動きとタイアップし、うまく国を治めようとしていました。

しかし、信長は・・・
その流れに抗うように、天下統一を進めます。
楽市楽座・関所の撤廃・街道整備・・・中央集権的な政策を推し進めます。

しかし・・・それは、多くの犠牲を払いました。
延暦寺の焼き討ち・長島一向一揆制圧・・・

天下統一に命を懸ける・・・
“桶狭間”で独裁者・信長が幕を開け、独裁者らしく暗殺されて終わるのです。

天下統一の道半ばで命を失ってしまう信長・・・

権威の世界を武威の世界に変えた信長でした。

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今回のTHEナンバー2は、豊臣秀次です。

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秀吉によって後継者とされながら、死へと追いやられた人物です。

京都・三条河原に立つ瑞泉寺に、関白になりながら汚名を着せられて切腹した男、豊臣秀次が眠っています。

豊臣方の書物には、悪逆非道な摂政じゃなくて、殺生関白として書かれています。

その首塚も、「悪逆塚」とされていました。

武功夜話によると、
「殺生関白として汚名、天下に、後の世に伝う」とあります。
後世では、殺生関白で、女好きとされている秀次、これは、秀吉の腹心があげつらったものです。

しかし、近年の研究によって、それは捏造であることが解りました。追い落とした秀吉が、大げさに書かせた悪人像だったのです。

かつて治めた、滋賀県近江八幡市では、町おこしの英雄とされ、地元有志によって結成された「秀次倶楽部」なるものがあり、愛されています。


秀次は、No,2になるべくして生まれてきました。
生まれたのは、1578年、秀吉の姉「とも」と、「やすけ」の子でした。この年、信長は上洛し、秀吉は京都奉行に抜擢された年でした。

この秀次、子供のいなかった秀吉が政略の道具として使います。

2歳の時に、浅井家の重心・宮部継潤を寝返らせるために養子に・・・2回目は阿波に勢力を誇っていた三好康長に・・・。将棋の駒のように生きてきました。

自らの存在を主張したのが16歳の時。
1584年小牧・長久手の戦いでした。池田恒興が三河への奇襲攻撃を提案します。乗り気でない秀吉に、

「それがしが、大将として参ります。奇襲の件、是非ともお許しくださりませ。」と願い出ます。

が、これが失敗し、裏目に。。。見るも無残な大敗北でした。
この結果、秀吉は家康と講和せざるを得なくなります。

秀吉が、秀次に宛てた手紙には・・・。
「秀吉の甥であることを鼻にかけ、傲慢な振る舞いが目立つ。ただ今のように、無分別で、うつけであるならば、人に恥であるからお前を斬らなければならない。」

と、書かれています。
少ない身内なので、他人の目もあることだし、叱責することで、やる気を引き出させたかった、愛情の裏返しでした。

後のない秀次、
1585年根来・雑賀衆攻略。
    四国・長宗我部氏攻略。
豊臣家の勝利に大きく貢献します。

これを機に、秀吉は関白に就任、天下取りに大手をかけます。
本当は、将軍になりたかった秀吉、しかし、将軍になれるのは源平藤橘の四氏のみ・・・。
そこで、秀吉は、近衛前久の猶子となって、関白に就任したのでした。この関白とは、天皇に次ぐ地位で、摂関家の一員となったのです。

当時の公家は貧乏で、沢山の賄賂を使って養子にしてもらったのです。


秀次は、武勲を認められ、近江八幡市 43万石の八幡山城主となります。18歳の時でした。

この近江八幡で才能が開花、政治家としての手腕が発揮されることになります。

安土のような商業都市として発展するように・・・。
綿密な都市計画を立てます。
町を碁盤の目のようにします。これは、豪胆な平和宣言です。というのも、戦国時代は城までの道は、攻めにくいようにカギ状になっていたり、蛇行していたりしていたからです。

人々を職業別に住まわせ、安土の商人を積極的に誘致します。

琵琶湖と小海八幡を繋ぐ運河、八幡掘を開発。琵琶湖を通る商業船は、必ず近江八幡を通るように条例を作りました。これは、信長の影響が強く、楽市楽座や、平和になった時の城下町作りと言えるでしょう。
これが、近江商人の発展を促します。

背割水路を作り、人々の上水道・下水道として活用。これは、当時としては例がなく、画期的なことでした。
近隣の村人の水争いを調停
町人の納税を免除
労働奉仕の義務を廃止

など、町人の働きやすい、暮らしやすい町として発展しました。

1589年北条・小田原攻めに参加、敵の前線を叩きます。
秀吉の天下統一の実現でした。

1591年秀吉長男鶴松が2歳で病死。
秀吉は、秀次を養子として跡取りにします。この時は、本気で後継者として指名したのです。

秀吉は55歳で大公となり、秀次は24歳で関白となりました。
しかし、実際は、秀吉の傀儡政権・・・。

この、正式な後継者に任命されたことが、秀次の人生を一変させるのです。
小田原攻めで弟・秀長を失った秀吉、後継者の秀次は、世間的にも遜色ないほどに育っていました。

若くして関白となってしまった秀次。秀吉から聚楽第と黄金1万両を引き継ぎます。
古典文学や芸能に精通していた秀次は、朝廷との関係を円滑化、連歌の会や茶会を開きます。
後陽成天皇には、六国史を献上して、朝廷との関係が深まります。

それは、武官ではない文官としての天性の素質でした。
他にも、五山文学の復活、勉強をする僧侶への援助など、本来の関白として文化人や教養人を重視します。

が、秀吉にとっては・・・。朝廷とつるまれるのは困る・・・。と、だんだんと距離が開いていきます。

1592年朝鮮・明国の侵略に乗り出す秀吉。秀次は、そのことに批判的だったが、表には出しませんでした。

1593年秀頼が誕生。
秀吉は、秀次を関白に任命したことを後悔します。「自分の血を分けた子に・・・。」

はじめは秀次をたてて、秀頼と秀次の娘との婚約話を持ってきました。次は、日本の4/5は秀次が、残りの1を秀頼が治めるという提案をし、懐柔しようとします。

もちろん、「ノー」はないと思っていました。
が、秀次は態度を保留。「関白の任命権は天皇=秀吉では取り上げられない」

苛立つ秀吉。

しかし、思いもよらない事態が起こります。

1595年7月3日  石田三成が秀次の元を訪ねます。
「御謀反の子細御せんたくしたき・・・」
秀次は、身の潔白を訴えるも晴らせず・・・。
これは、関白から引きずりおろす口実だったとされていますが、三成が本気で疑っていた可能性もあります。

それは、秀次は、朝鮮出兵で財政難となっていた毛利輝元・細川忠興の借金の願いを受けたので、聚楽第の金蔵から諸侯に金を貸し付けていました。これが、秀吉の猜疑心に火を付けたのです。
「何か、企んでいるのでは?」

当時の秀吉は、猜疑心の塊でした。それは、朝鮮出兵には反対する武将もたくさんいたのです。その急先鋒が、徳川家康。家康は、北条を抑えるという大義名分のもと、一人も兵を出していません。そして、この武将たちも、平和志向の人が増えてきていたのです。


7月8日釈明させるため、伏見城に呼び出すも、会わずに石田三成から「豊臣家からの追放」を伝えられます。領地、聚楽第、官位の剥奪・・・。

高野山に出家させるも、
7月15日切腹を命じます。
高野山の僧侶は怒り、抗議を検討します。当時は、仏門に入ることで俗世から切り離されます。仏門に入った限りは、切腹を命じられることなどなかったのです。

しかし秀次は、切腹を受け入れました。自分の身の潔白のために。

「月花を 心のままに 見つくしぬ
       何か浮世に  思い残さむ」

切腹は、武士の名誉の死、切腹をすると家族の命は守られるというのが通例でした。
しかし、正室、側室、5人の子供を含む39人が三条河原で処刑されました。
血筋はすべて断つ!!

ここまで、10日、秀次を陥れるための先頭は三成でしたが。。。必要以上に追いやります。

巷では、秀頼は、大野治長の子とか、三成の子とか・・・。
あれよあれよと秀次は切腹へ、とことん残虐に、陰惨に、根絶やしにされてしまいました。

秀吉の異常な憎しみを感じさせる蛮行です。これで、秀吉の血を引くのは秀頼のみとなりました。秀頼かわいさのあまり、血筋を弱めてしまいました。

秀次を殺してしまった時点で、豊臣家滅亡のシナリオは始まっていたのです。


もしかすると、秀次が尊敬していたのは秀吉ではなく、信長ではなかったでしょうか?

平和な都市づくり、日本国の経営、安土城には楽市楽座、学校、セミナリオ、病院が整っていました。
日本国民のための日本国。

もし、秀次が生きていたら、関ヶ原はなかったのかもしれません。

勝者の歴史によって、秀次は数々の汚名を着せられ、貶められます。

しかし、
1611年豪商・角倉了以が、一族を弔うために瑞泉寺を建立。秀次の母日秀が弔いのために瑞龍時を創建、現在は近江八幡に移築されています。

秀吉は、次世代のNo,1を自らの手で葬ってしまったのかもしれません。

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