日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:備中高松城

群雄割拠する戦国時代、城攻めの達人と呼ばれたのは、農民から天下人になったといわれる戦国三英傑の一人・・・豊臣秀吉です。
秀吉は、武力よりも知力を重視し、様々な策によって多くの城を攻略・・・中でも、奇策中の奇策といわれるのが、現在の岡山県・・・備中高松城を攻め落とした際の水攻めでした。

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備中高松城攻め~毛利攻略~

ひとつの城を丸ごと水没させたという秘策中の秘策・備中高松城の水攻め!!
まだ、羽柴と名乗っていた頃の秀吉は、どうしてそこまでしなければならなかったのでしょうか?
事の発端は、秀吉の主君・織田信長と中国地方をしはいする毛利輝元との激しい覇権争いでした。
当時の毛利氏は、中国地方を制圧した毛利元就の孫・輝元が当主、叔父である吉川元春・小早川隆景が支えて盤石の態勢を取っていました。
信長と輝元は、互いの出方を見ながらも・・・1575年までは、緩衝地帯である播磨と但馬を挟んで友好関係を保持していました。
しかし、1576年6月・・・信長と敵対していた石山本願寺に輝元が救いの手を差し伸べたことで、その関係は破たんします。
本願寺に兵糧を届けようとする毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍が激突!!
激戦の末、毛利水軍が勝利します。
どうして毛利輝元は、石山本願寺と結び、信長と敵対することにしたのでしょうか?

信長は、かつての中国地方の支配者・尼子氏を支援して、毛利軍の中国支配をかく乱させようとしていました。
また、信長と対立して京を追われた室町幕府の15代将軍足利義昭が、毛利氏の領国である備後国・鞆に居を構えたことで、織田・毛利の関係は緊張状態にありました。
その為輝元は、信長と争いになる要因があり、対立は避けられないと判断し、先手を打ったのです。

一方、輝元と敵対することになった信長は、毛利征圧の為の中国方面軍を新設。
その司令官に抜擢されたのが、それまで毛利との交渉役を務めていた羽柴秀吉でした。
そして、秀吉は勝つためには手段を択ばず、冷酷なまでの策を講じて毛利方の城を次々と攻略していきます。
同じ年の7月、居城である長浜城から京都に入った秀吉は、手始めに中国攻めの下工作を開始。
毛利氏との緩衝地帯だった播磨の武将を得意の調略で織田方に引き込もうとしました。
この時、秀吉が調略の相手として目をつけたのが、播磨の武士・姫路城城主だった黒田官兵衛でした。
後に、秀吉の軍師となり、天下取りに大きく貢献する官兵衛です。
官兵衛は、長篠・設楽原の戦いでの信長の戦略を高く評価していたため、秀吉に調略されるとすぐに信長方につき、以後は自分が説得役となって、近隣の武将たちを信長方につかせました。

そして翌年・・・1577年10月、秀吉が播磨国に出陣してくると、官兵衛は居城である姫路城を中国方面軍の司令本部として提供、自らは参謀として秀吉に付き従うことにしたのです。
黒田官兵衛の尽力もあり、平定されつつあった播磨でしたが、織田方につくことを頑なに拒み続けた武将もいました。
美作との国境に立つ上月城の城主・赤松政範でした。
赤松は、毛利方についていた備前・宇喜多直家と手を結んでいたのです。
すると秀吉は、大軍をもって上月城に攻め込み、救援に駆けつけた宇喜多軍もろとも完膚なきまでに打ちのめしました。
敗北を認めた赤松が首を差し出しても、秀吉は攻撃の手を緩めず、城兵たちも皆殺しに・・・そして、その子供や妻まで殺害し、亡骸をさらしました。

「刃向かえば上月城のようになる!!」

という毛利方への見せしめでした。

1578年2月、播磨を制圧した秀吉は、毛利氏の勢力圏に突入します。
先鋒を任せたのは、三木城の城主・別所長治でした。
別所は、20万石を誇る播磨最大の大名で、織田と毛利が敵対する以前から信長の従属していました。
ところが・・・出陣直前に反旗を翻し、毛利方に寝返ったのです。
別所長治は、自分こそが中国方面軍の司令官に相応しいと考えていました。
成りあがりものの秀吉を中国方面軍の司令官に抜擢した信長に不満を抱いていました。
また、上月城での虐殺など、秀吉の非情なやり方を快く思っていませんでした。
それらが重なって、毛利方に寝返ったと考えられます。
周辺の武将たちも、次々と信長から離反・・・!!

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中国攻めの中断を余儀なくされた信長は激しく怒り、秀吉に別所を討つように命じます。
そこで、秀吉のとった行動が・・・後に”三木の干殺し”といわれる兵糧攻めでした。
別所が立てこもった三木城の周囲に、40を超えるともいわれる付城を配置、その間に土塁まで設けて三木城の食料補給路を遮断したのです。
それでも、2年近くは耐えた別所勢ですが、1580年1月、兵糧が尽き、餓死者が出るようになると、別所長治はついに降伏・・・三木城を開城し、一族もろとも切腹して果てました。

秀吉が三木城を攻略し、再び播磨を平定したころ、もうひとつの緩衝地帯だった播磨を秀吉の弟だった秀長が平定。
喜んだ信長は、播磨と但馬を秀吉に与えました。

そして、1581年6月、中国征圧に燃える秀吉は、因幡に侵攻・・・鳥取城攻略に臨みます。
ここでも秀吉は、後に”飢殺し”と呼ばれる壮絶な兵糧攻めを行うのです。
その下工作は、実に周到でした。
兵糧攻めを行う前に因幡中の米を買い占めます。
さらに、鳥取周辺の村を焼き払い、領民たちを城内に逃げ込ませます。
その上で、大軍をもって城を取り囲んだのです。
籠城する人数が多ければ当然兵糧のヘリは大きく、しかも、補給する米がどこにもないため鳥取城の兵糧は2か月ほどで枯渇・・・飢餓状態に陥った城内の人々は、草木はおろか、馬まで殺して食べ、それも尽きると死人の肉を貪り食ったといいます。
開戦からおよそ3か月で、鳥取城の城主・吉川経家は降伏・・・
秀吉に、城兵たちの助命を嘆願したのち、切腹しました。

信長の期待に応えるべく、獅子奮迅の活躍を見せる羽柴秀吉・・・
次なる攻撃対象は、備中高松城でした。
1582年3月15日、織田信長から中国方面軍の司令官に抜擢されていた羽柴秀吉は、播磨・但馬・因幡の軍勢およそ2万を率いて姫路城を出陣!!
毛利方についていた備前・宇喜多直家がすでに織田方に寝返っていたため、次なる攻撃目標は備中でした。
対する毛利氏は、備前と備中の国境に立つ七つの城・境目七城(宮路山城・冠山城・高松城・賀茂城・日幡城・松島城・庭瀬城)を整備して、防衛ラインを強化。
その核となる城が、高松城でした。
城主は毛利輝元の叔父・小早川隆景に仕えた清水宗治!!
そして、4月4日、宇喜多氏の本拠である岡山城に立ち寄った秀吉は、清水宗治に降伏を促すよう黒田官兵衛らに命じます。

「戦わずして勝てるなら、それが一番良い」

これ以上、血を流さずに済むならば・・・と、秀吉は考えていました。
その為、官兵衛が宗治に送った密書には、織田方に味方すれば備中と備後を与えると好条件が書かれていました。
清水宗治は、毛利氏譜代の家臣ではありませんでした。
30を過ぎた頃から小早川隆景に臣従しました。
新参者だったのです。
与えられた領地は、備中の東半分・・・秀吉の条件は破格でした。
しかし、密書を読んだ宗治は・・・

「毛利を裏切ることはできぬ・・・!!」by宗治

その理由は・・・4年前の毛利軍による上月城奪還戦に宗治が参陣した時の事。
高松城の留守を預かっていた家老が、織田方に寝返り、まだ幼かった宗治の次男・景春を人質にとるという事件が起こりました。
家老の要求は、上月城攻めからの清水軍の撤退でした。
そんなことはできない・・・宗治は、息子の命を諦めようとしました。
事情を知った小早川隆景が、高松城への帰還を許しました。
宗治は、無事息子を救出することができました。
この一件以来、宗治は、毛利氏・・・特に小早川隆景に対し、ゆるぎない忠誠を誓っていました。
諦めた秀吉は、宇喜多隊1万を加えた3万の大軍と共に岡山城を出陣!!
備前備中の国境を越えると、すぐさま境目七城の攻略に・・・!!
毛利勢の必死の抵抗も、秀吉の強大な戦力には歯が立たず、次々と攻め落とされてしまいました。
4月27日、最後の高松城を秀吉軍が包囲・・・!!
この時、高松城には5000人が籠城していました。
城兵だけではなく、領民も多数いました。
秀吉は、城内にいた城兵や領民たちに、

「今降伏すれば罰することはない」

と、働きかけます。
しかし、誰一人、城を離れませんでした。
清水宗治は、人々から慕われる城主だったのです。
5000対3万!!時間の問題か??
しかし、苦戦を強いられたのは秀吉軍でした。

4月27日、羽柴秀吉は、備中高松城を見下ろす小山の上に本陣を置き、3万の軍勢で城を包囲!!
対する清水宗治は、高松城に籠城・・・!!
毛利氏の援軍が到着するまで城を守り抜き、援軍と共に秀吉軍を討つ!!もしくは撤退させる!!
のが狙いでした。
しかし、清水軍の兵力は5000・・・戦力の差は明らかでした。
午前8時に戦いが始まりました。
劣勢に立たされたのは秀吉軍でした。
小山を駆け下り高松城に突撃したものの、城の周りに広がる沼地に足を取られて思うように動けなかったのです。
高松城は、水に守られた城でした。
すり鉢状の沼地の中に、2mほどの土台を作り、その上に本丸・二の丸・三の丸を並べて建てた難攻不落の沼城・・・
沼地が外堀の役割をはたして、敵の侵入を防いでいました。
ぬかるみにはまって動けない秀吉軍は、籠城する清水軍の格好の的でした。
鉄砲隊が一斉に打ちかけられ、多くの兵が命を失ったのです。
思わぬ惨敗を喫した秀吉は、翌日も果敢に高松城に攻め込みましたが、結果は同じ・・・。
どうしても沼地を攻略できません。
秀吉おそるるに足らずと清水軍の士気を高めてしまうだけでした。
窮地に追い込まれた秀吉は、軍議を開き、そこで黒田官兵衛からこう進言されたといいます。

「水攻めというのはいかがでしょう」

こうして秀吉は、武力による攻略を諦め、沼地に立つという高松城の地の利を逆手に取り、沼に水を注いで水没させるという作戦に出たといわれています。
しかし・・・確かな資料はありません。
黒田官兵衛ではなく、蜂須賀小六が発案者かもしれません。
攻め手を欠いていた秀吉は、この作戦に勝機を見ました。



どうやって水没させるのか??
高松城は、すり鉢状の沼地にあり、三方を山に囲まれていました。
唯一開けている部分に堤防を築けば完全に城を包囲することができるのです。
そして、近くを流れている足守川の水を流しこもうとしたのです。
堤防の築造工事が始まったのは、5月8日でした。
その全長は、3キロに及んだといわれています。
秀吉は、わずか12日間で堤防を完成させました。

岡山県岡山市にある秀吉が築いた水攻めの築堤跡・・・
現在は2mほどの高さですが、完成当時は7mほどもありました。地面に杭を打ち、土嚢を積んで堤防を築く・・・
しかし、重機などない時代、全て手作業で大堤防を築くのには12日間では短すぎる・・・??
毛利の援軍が高松城に迫る中、一刻も早く堤防を完成させたい秀吉は、驚きの方法を取ります。
土嚢を運ぶ農民たちに、やる気を出させるために、土嚢を一つ運ぶごとに米一升と銭百文を支払いました。
これは、当時の農作業の労賃の1日分以上でした。
破格の報酬に喜んだ農民たちが、我先にと土嚢を運んだのは言うまでもありません。
その数はおよそ635万個に及んだといわれています。
さらに・・・もともとあった自然堤防も利用したと考えられます。

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この時、堤防づくりと並行して行われたのが、堤防の内側に足守川の水を入れるための堰の築造です。
大量の石を積んだ船を足守川に並べて浮かべ、その船ごと川底に沈めて川を堰き止めたのです。
そして、5月19日、秀吉は堰を切って足守川の水を一気に堤防の内側に流し込みました。
すると・・・高松城の周囲は見る見るうちに水没・・・
湖面に浮城のようになってしまったのです。
5月19日は、梅雨時でした。
毎日雨が続いて、足守川の水流も増していたのです。

川の水は、高松城内にまで入り、満足に体を休めることもできなくなってしまいました。
しかも、梅雨時・・・水につかった食糧はすぐに腐り、食べられなくなってしまいました。
援軍が来てもなすすべ無し・・・秀吉の勝利は決定的・・・??
しかし、堤防が完成する前に、秀吉は信長に援軍を要請する書状を送っています。
秀吉が水攻めを行ったのは、この時が初めてでした。
今後の戦の展開が読めなかった事・・・
さらに、毛利方の援軍の数がわからなかった事もあって、信長を頼りました。

もうひとつは、信長の性格をよく知っている秀吉は、信長に気を遣った・・・。
信長は、自分以外の功績を妬むところがありました。
秀吉は水攻めの手筈が整ったところで最終的な功績を信長に立てさせようとしたのです。
安土城で、秀吉からの手紙を受け取った信長は、これを了承。
6月上旬に出陣することを決め、その先発隊に選んだのは、重臣の一人であるあの明智光秀でした。

5月19日、羽柴秀吉軍の水攻めによって備中高松城は水没し、完全に孤立しました。
兵糧が尽きて落城するのは時間の問題でしたが、手を焼いた沼地が無くなったことで、秀吉は高松城の周りに船を受かべ更なる攻撃を仕掛けます。
高松城の城主・清水宗治は、屋根の上から応戦するも、全く太刀打ちできません。
そんな中、5月21日、毛利の援軍4万が高松城近くに到着。
高松城を挟んで、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らは陣を敷きます。
しかし、思いもよらない高松城の惨状を目の当たりにして言葉を失いました。
さらに、信長が援軍として備中にやってくることを知った輝元は、もはや打つ手はないと判断・・・
高松城で籠城する清水宗治らを救うため、和睦を求めて僧侶の安国寺恵瓊を秀吉の元に送りました。
多くの戦国大名が、外交役として僧侶を抱えていました。
恵瓊を迎えた秀吉は、和睦を承諾。
しかし・・・その条件として提示したのは、毛利氏にとって厳しいものでした。

①毛利氏が有する8か国のうち備中・備後・美作・伯耆・出雲の譲渡。
②高松城城主・清水宗治の切腹

でした。

恵瓊からこれを伝え聞いた輝元たちは絶句・・・
中でも宗治の主君である小早川隆景は、
「毛利に忠誠を尽くす宗治を見殺しにしては面目が立たぬ」と、宗治の切腹を拒否したため、和睦交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。

5月29日、信長は僅かな手勢と共に京都・本能寺に入りました。
ここで数日すごしたのち、中国地方に向かうはずでした。
一方、先発隊を任されていた明智光秀は、6月1日の夕方、丹波亀山城から備中に向けて出陣したのですが・・・

「敵は本能寺にあり」

突如、進路を変えて本能寺に向かったのです。
6月2日、明智光秀・謀反!!
本能寺を襲ったのが、光秀だと知った信長は、「是非に及ばず」といって応戦!!
深手を追うと、燃え盛る炎の中で自害しました。

備中にいた秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜。
毛利輝元に信長の死を知らせようとした光秀の密使が、誤って秀吉の本陣に迷い込み、秀吉の知ることとなったといわれていますが・・・
密使は、信長の家臣が秀吉に送った飛脚ではないか??と思われます。
信長の突然の死に秀吉は激しく動揺し、しばらくは何も手につかなかったといいます。
そんな秀吉を我に返らせたのが・・・軍師として常に傍らにいた官兵衛でした。

「今こそ好機ですぞ!!」by官兵衛

官兵衛の言葉の意味を理解した秀吉は、すぐに動き出しました。
信長の死が毛利方に知られないように箝口令を敷き、高松城の戦いを終わらせるべく安国寺恵瓊を呼びます。
そして、信長の死をおくびにも出さずに

「信長様の着陣後では和睦は難しく、毛利の存続も危うい」と脅し、その上で

・領地の譲渡は備中・伯耆の折半のみでよい
・清水宗治が切腹すれば城内5000人の命は助ける

という譲歩案を提案しました。
すると恵瓊は、独断で小舟を仕立てて高松城に渡り、秀吉から提示された譲歩案を清水宗治に伝えました。
自らの切腹が求められていると聞いても、宗治は少しも動揺せず、

「毛利の安泰と、家臣や領民の命がこの首ひとつで贖えるのであれば容易いこと」

と、すぐにこれを受諾したといいます。

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秀吉は、安国寺恵瓊に前から金品を送り、意のままに動かしていたといわれています。
その為に、小早川隆景にも知らせずに、独断で清水宗治に会いに行って切腹を決意させたのかもしれません。
この決意を聞いた小早川は困惑したものの、清水宗治の意を尊重し、秀吉の出した和睦条件をのんで血判の誓詞をかわしました。
秀吉の清水宗治の切腹にこだわった理由とは・・・??

当時は切腹が武士にとって名誉の死という認識はなく、制裁という意味合いが強くありました。
自分に逆らったらこうなる・・・ということを、秀吉は知らしめたかったのではないか??と思われます。
秀吉は、清水宗治の切腹で、毛利との和睦を強固なものにしたかったのです。
和睦後、もし、毛利輝元が信長の死を知れば、和睦を放棄して秀吉に牙をむく可能性が高かったのです。
しかし、宗治の命によって結ばれた和睦ならば、毛利方も簡単には破棄できない・・・!!
と、秀吉は考えたのです。
毛利方の追撃を受けることなく畿内まで戻るための布石だったのです。

6月3日夜半・・・
5000人の命を救うため、切腹を決意した清水宗治は、羽柴秀吉に使者を送りこう申し入れます。

「あくる日に切腹いたす故、小舟を一艘いただきたい」

すると秀吉は、

「無二の忠士で比類なき者の願い 何事でも叶える」

そう言って、小舟一艘に加え、酒・肴を宗治に送りました。
その夜、宗治は、浸水していない本丸の上階に家臣たちを集め、秀吉から贈られた酒と肴で宴を開きます。
この時、宗治は、ひげを綺麗に整えていました。
その理由を家臣が訪ねると・・・

「届けられたわしの首を信長が見たとき、無精な男と侮られるのは口惜しいからのう」

そう笑って別れの酒を酌み交わしました。

6月4日、午前10時ごろ・・・
小雨が降る中、宗治は秀吉から贈られた小舟に乗って水面に漕ぎ出でました。
そして、秀吉の本陣近くまで進むと、船上で一さし舞を披露し、辞世の句を読んだといいます。

浮世をば 今こそ渡れ 武士の
         名を高松の  苔に残して
 
武士としてその名を高松の苔のようにしっかりと残してあの世に行こう・・・

介錯人によって落とされた宗治の首は、桶に納められ、同乗していた宗治の兄と弟・介錯人も後を追って自害します。
一部始終を見届けた秀吉は、宗治を
”古今武士の明鑑なり”・・・これ以上ない武士の手本・・・と称賛し、最大限の礼を尽くして埋葬しました。

切腹が、武士の名誉の死になったのは、清水宗治の切腹がきっかけといわれています。
宗治の切腹は、秀吉の心にも強く残り、天下人となった後に宗治の嫡男である景治を1万石で譲ってほしいと小早川隆景に頼んでいます。
景治の方がこれを拒んだため、実現しませんでした。

峯治の切腹を見届けた秀吉は、腹心の武将に高松城を任せ、即座に2万の大軍を率いて京への進軍を開始!!
中国大返しです。

毛利軍が織田信長の死を知ったのは、それから間もなくだったといいます。
秀吉に騙されたことに気付いた毛利軍は、和睦の誓詞を破り捨て、
「秀吉を追撃せよ!!」と、いきりたちました。
しかし、小早川隆景が、「誓詞の血判が乾かないうちにこれを破るのは武士の恥」と、諌め、追撃が見送られたといいます。
清水宗治の切腹にこだわった秀吉の狙い通りだったのです。

こうして秀吉は、毛利軍の追撃に遭うこともなく、岡山=京都間200キロを驚異的な速さで駆け抜け、山崎の戦で明智光秀に勝利。
戦国史に残る奇策・備中高松城の水攻め・・・それは、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人が入れ替わる歴史のターニングポイントでもあったのです。

岡山県岡山市にある備中高松城址公園・・・
園内には、広々とした蓮沼があり、毎年7月ごろになると可憐な蓮の花が咲き誇ります。
1982年に、干上がっていた沼を復元しようと水を注いだところ、地下で眠っていた400年前の蓮の種が一斉に芽吹いたといいます。
地元では、それを宗治蓮と名付け、かつての主君を今も忍んでいます。

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天下分け目、関ケ原の合戦・・・わずか半日で決着がついたといわれていますが、戦いが行われていたのは関ケ原だけではありませんでした。
この時、遠く九州を舞台にもう一つの関ケ原の戦いが繰り広げられていました。
その主人公が黒田官兵衛・・・秀吉の天下統一を軍師として支えた人物です。
秀吉の死後、全国の武将が東軍と西軍に分かれ、決戦の時が近づいていました。
この時、九州の領主だった官兵衛は、大胆な行動に打って出ます。
蓄えていた金銀によって、9000もの兵を集め、九州各地への侵攻を開始したのです。
領主も兵も関ケ原に赴き、守りが手薄になっていた城を次々と落としていきます。
その勢いはすさまじく、九州に残る敵は、薩摩の雄・島津氏のみとなりました。

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江戸時代の逸話集に、官兵衛がこういったと書かれています。

「家康を攻め滅ぼし 天下を取らんと思わんには いと易きことなり」

果たして官兵衛には、天下取りの野心はあったのでしょうか?
大分県中津市にある中津城・・・豊臣秀吉の九州平定後、この地の領主となった黒田官兵衛が築いた城です。
中津城は、山城ではなく平地に城を築いています。
側には川が流れており、船を通じて色んな物資をそして情報をダイレクトで把握することができます。
物流の大動脈を、城が直接おさえていました。

川と海に面して築かれた中津城。
官兵衛は、大坂との間に早船のルートを作り、上方の情報をわずか3日ほどで手に入れていました。
秀吉死後の権力争いや、石田三成の挙兵についてもいち早く情報を掴んでいたといわれています。
今も残る官兵衛時代の石垣からは、海のそばに強固な城を作るため、官兵衛が施した工夫がみられます。
官兵衛は、長細い石を横に使うのではなく奥に縦に使う・・・川のそばで地盤としては強力でないということに配慮していました。
400年の時を越えて、石垣が今も立派に残っているのです。

もともと播磨国の小領主に過ぎなかった黒田官兵衛。
しかし、豊臣秀吉に仕えて以降、天下統一の参謀役としてその才能を如何なく発揮します。
中国地方の雄・毛利氏との戦いでは、川を堰き止める大胆な作戦で、備中高松城を水没させます。
さらに、本能寺の変が起こるや驚異的な速度での行軍で、中国を大返しを成功させました。
近年発見された賤ケ岳の戦いで秀吉が送った書状・・・
ここでも、官兵衛が戦に加わっていたことが見て取れます。
その後も、四国平定や、九州平定で功をあげ、1587年、豊前6郡(12万石)を与えられます。
しかし、それは、官兵衛の功績からすると少なすぎるとの見方もあります。
その理由については、黒田家が編纂した「黒田家譜」にはこう記されています。

”官兵衛の大志あるを忌給ひ
 其功は大なるといえども
 終に大国を賜わらず”

官兵衛に野心があると秀吉が考えたため、領地を多く与えなかったというのです。
秀吉の官兵衛に対する警戒・・・
それを示す事実がもう一つあります。
領地を与えられた九州は、治めるのが非常に難しい土地でもありました。
秀吉は、九州平定に当たって、国衆や地侍に領地の安堵を約束。
しかし、実際には、検地を強行して隠していた田畑を明らかにし、領地替えを命じるなど、それまでの権益を奪い、支配を強めていきました。
その為、秀吉が送り込んだ領主への反感が高まり、九州各地で大規模な反乱が勃発!!
肥後を与えられた佐々成政は、度重なる反乱によって領地支配に失敗し、秀吉から切腹を命じられます。
官兵衛が領主となった豊前でも、各地で国衆の反乱が起きていました。

中津城の東・20キロの場所にある高森城・・・官兵衛が、豊前を統治するために築いた城です。
城の本丸は、二重の堀によって守られ、迫りくる敵に矢や鉄砲を撃つ櫓台まで設置されていました。
官兵衛は、この高森城のような軍事要塞を各地に設置、それを拠点に反抗する国衆たちを次々と打ち破っていきました。
官兵衛の居城・中津城にある城井神社・・・これは、官兵衛に滅ぼされた武将を祭ったものです。
祭られている祭神は、宇都宮鎮房という戦国武将です。
宇都宮氏は、鎌倉時代から約400年間豊前の地を拠点にして支配をしていました。
新たにやってきた黒田家・・・黒田官兵衛に対して反抗します。
秀吉は、豊臣政権に反抗する国衆への厳しい処分を命令。
官兵衛の、宇都宮鎮房への対応も凄惨なものとなりました。
鎮房と一旦和睦し、中津城に招き入れて、家臣もろとも暗殺したのです。
さらに家族も捕縛し、磔にしてしまいます。

官兵衛は調略を得意として、だまし討ちを好むタイプの武将ではありませんでした。
自分としてはやりたくはなかった・・・
しかし、秀吉の命令で、ジレンマに陥り、その犠牲になったのが鎮房
でした。
秀吉の命令を実行するときには、それに抵抗する者は討たざるを得ない・・・!!
苦しい立場に置かれていました。
秀吉の命令に納得できない思いを持ちつつも、従わざるを得なかった官兵衛・・・
豊前入国から2年後の1589年、領内の抵抗勢力を一掃します。
しかし、この豊前支配での苦悩は、官兵衛にある思いを抱かせました。
九州は、島津氏をはじめとして、古くからの大名と新たにやってきた大名が入り混じった土地でした。
秀吉が、しっかりしていれば統治体制は揺るがないものになる!!
しかし、秀吉に何かあったら・・・豊臣政権の権威が揺らぐようなことがあれば、九州は一波乱ある!!
そのチャンスは絶対来ると、準備をしていたのが官兵衛でした。
稀代の軍師・黒田官兵衛・・・彼は、この九州・豊前の地で、関ケ原の戦いへと向かう時代を眺めていました。

1598年、天下人・豊臣秀吉が死去。
その後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣体制を守ろうとする石田三成の間で激しい権力闘争が起こります。
全国の大名は、家康につくか三成につくか、選択を迫られました。
官兵衛が領地を持つ九州では、薩摩の島津、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長といった有力大名が西軍につきました。
東軍に与したのは、肥後の加藤清正など少数でした。
そんな中、官兵衛の動きは奇妙でした。
嫡男・黒田長政が正妻を離縁して家康の養女と結婚。
家康につく立場を鮮明にします。
その一方で、西軍の総大将となった毛利輝元の家老に官兵衛は書状を送っています。

”輝元様が大坂城に移ったことは、めでたく存じます
 豊臣秀頼様に別心(二心)ある者は存在すべきではなく、やがてめでたく鎮まることでしょう”

毛利輝元の大阪城入城を讃え、西軍に心を寄せているような言葉を伝えているのです。
歴史の結果を知っている立場からすると、東軍・家康方が勝って当然と思いますが、この時点で現場に置かれていた武将たちにしてみれば、まだ西軍の勝つ見込みがあったのです。
官兵衛にしても、どちらが勝つか見えていない時点では、西軍にもすり寄る必要があったのです。

東軍か、西軍か、立場をはっきりさせない官兵衛・・・

しかし、関ケ原の戦いに向け、着々と準備を整えていました。
家康の元に送った長政率いる黒田軍本隊とは別に、兵を集めました。
蓄えていた金銀によって、新たに召し抱えた浪人は、およそ3600人!!
さらに、領内の百姓からも希望者を募り、総勢9000もの軍を組織しました。
そこに、九州の情勢を変化させる新たな動きが生じます。
かつて豊後国を治めていたながら秀吉に領地を没収されていた大友義統が、毛利輝元の後押しで西軍として九州に戻ってきたのです。
官兵衛は、即座に東軍として動き始めます。
新たに組織した黒田軍を率いて、大友軍に向けて出陣!!
1600年9月13日、現在の大分県別府市で、大友軍と石垣原の戦いと呼ばれる激闘を繰り広げます。
官兵衛は、寄せ集めの兵を指揮しながら、大友の名だたる武将を討ち取っていきます。
9月15日、大友義統降伏・・・
奇しくも関ケ原の戦いと同じ日でした。
その後、官兵衛は、領主と兵が上方の戦いに赴いて守りが手薄になっていた西軍の城を立て続けに攻略。
毛利氏の香春岳城と小倉城も攻め落とし、豊前と豊後、二か国を占領しました。
西軍の多い九州で、東軍となったからこその離れ業でした。

官兵衛は、戦の直前に家康の右腕だった井伊直政から書状を送られていました。

””家康はどこに出兵しても構わないとのこと
 また手に入れた国は与えると仰せになっています”

あらかじめ、家康から手に入れた領地を自分のものにする約束を得ていたのです。
この時の官兵衛は、戦国の論理そのものでした。
戦いに買って、敵地を奪っていく・・・自分の領地を増やしていく・・・
九州各地を荒らしまわって、自分の土地を増やしていこうというものでした。

次に官兵衛の標的となったのは、筑後・柳川の立花宗茂でした。
西軍についていましたが、関ケ原の戦いののち、領地に逃げ帰っていました。
猛将と名高い宗茂が相手でしたが、この頃には、2人の大名が官兵衛に加担するようになっていました。
関ケ原の戦いの前から官兵衛と連絡を取り合っていた肥後・熊本の加藤清正、西軍につきながら関ケ原のたあ他界に参戦せず東軍に寝返った肥前の鍋島直茂です。
三方から責め立てられた立花宗茂は、降伏せざるを得ませんでした。

立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]
立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]

関ケ原の戦いからおよそ1か月・・・
九州の大半を傘下に治めた官兵衛・・・残る西軍勢力は、薩摩・大隅を治める島津氏のみとなりました。
関ケ原の戦いに乗じて九州の西軍勢力を次々と撃破していった官兵衛・・・
最後まで残った西軍・島津氏を攻めるため、薩摩へと軍を進めました。
先鋒に選んだのは、降伏させたばかりの名将・立花宗茂でした。
さらに、加藤清正と鍋島直茂、九州の雄の二人の兵も加わり、軍勢は4万を越えました。
しかし、薩摩との国境・水俣まで進軍したところ、家康から思わぬ書状が届きます。

”立花宗茂を召し連れて薩摩へ出陣し、加藤清正・鍋島直茂と相談して戦うとのこと、まず年内は中止することがもっともなことです”

家康は、島津への攻撃中止を求めてきたのです。
島津攻めを前に、大きな選択を迫られた官兵衛・・・どうする??
家康に従う??それとも従わない・・・??

加藤清正と自分が力をあわせれば、島津を押さえ込める自身は持っていました。
どうしてここで停戦をしなければならないのか・・・??
官兵衛が、薩摩侵攻の先鋒にしたのは、立花宗茂でした。
この立花宗茂は、薩摩とも懇意でした。
官兵衛自身も、島津義弘と親しくしていたことが分かっています。
島津と敢えて戦わず、和睦して傘下におさめることもできる状況でした。
もし、島津を引き入れることができれば、九州一円が官兵衛の配下となり、家康と対等に向き合える可能性もありました。
どうする・・・官兵衛・・・??

家康から薩摩攻め中止命令が出てから10日後、官兵衛は、島津の元へ使者を出します。
薩摩への攻撃中止を正式に伝えたのです。
こうして官兵衛の九州での戦いは終わりを告げました。
黒田家は、関ケ原の戦いでの黒田長政の功績により、筑前52万石に加増。
しかし、戦で切り取った土地は与えるという家康の約束が果たされることはありませんでした。

筑前国を与えられた黒田家が築いた福岡城・・・
黒田官兵衛集大成の城です。
その城づくりからは、徳川の世になってなお、官兵衛が実践を強く意識していたかが伺えます。
さらに、福岡城の守りを堅固なものにしていたのが、今も官兵衛の時代から同じ位置に立つ多門櫓です。
櫓の内部には、16もの部屋が作られ、守りの兵を多数配置できるようになっています。
そして国境には、筑前六端城と呼ばれる6つの城が置かれ、強固なネットワークが築かれました。
福岡城の三の丸に置かれた御鷹屋敷で晩年を過ごした官兵衛・・・
関ケ原の戦いから4年後の1604年、59歳にしてその人生を終えました。

官兵衛は、島津攻め中止という家康の命令に従うことを選びました。
しかし、黒田家の記録の中に、彼の本心が隠されていました。
官兵衛の嫡男・黒田長政の遺言状・・・
そこには、長政が聞いた父・官兵衛の壮大な計画が書かれていました。

”官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ
 その外の九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して京へ向かえば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が家康一人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げ入れるようなものだ”

壮大な野望を胸に秘めていた黒田官兵衛・・・彼がもし、違った選択をしていれば、再び天下分け目の決戦が起こっていたかもしれません。

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元服した官兵衛の嫡男・松寿丸改め長政・・・毛利攻めに加わることになります。

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長政の側について指南するのはあの太兵衛。
そう、何を指南するの???
お酒と槍が大好きで、脳みそまで筋肉な・・・いえいえ、豪放磊落な太兵衛さんです。

「命に代えて、若をお守りいたします!!」

秀吉は、毛利との国境をめざし、西へ兵を進めます。

kan2












「秀吉さまの本軍が出陣しました。
 何故我らは城に止まり動かんのです!!」by長政

若殿、カッカしております。

こちらの殿を思い出します。

touri














おっ!!老獪っぽくなってきた官兵衛。
今回の戦は形ばかり。。。
秀吉の養子・秀勝(信長・四男)が初陣を飾るための戦だったからです。
それじゃあ、邪魔は出来ないわね。。。

血気盛んな長政に、ちょっと心配な官兵衛ですが・・・
それは、若い頃の自分を見ているからなのでしょう。

官兵衛は、蜂須賀小六と共に高松城へ・・・清水宗治の調略に臨みます。
しかし・・・武士の鑑。。。宗治は、城を枕に討ち死にする覚悟のようです。

kan3












「死ぬことが某の役目・・・。」

その意思は固いようです。

織田は6万の大軍で東へ進軍し甲斐を滅ぼしました。
お・・・名前だけですが、家康が出て来ましたよ。

おまけに信長の命令で、恵林寺を寺ごと焼き払うことに・・・!!
理由は、和尚のもとに匿われている六角氏の首のため!!

自らの恩師であり帝に仏法を教える国師である恵林寺の快川和尚の説得に向かう光秀。。。
なんだかきな臭くなってきました。

しかし・・・
1582年4月3日・・・説得もむなしく。。。
山門の二階に閉じ込められた和尚や僧たち・・・150名が焼き殺されたのでした。

呆然とする光秀。。。

「なぜだ・・・なぜここまで・・・和尚・・・」by光秀

国師を焼き殺したということで朝廷も大パニック!!
九条兼孝、吉田兼和(吉田兼好の血を引いてるのかしら???)なにか目論んでます。

長政は秀吉に従い岡山城に・・・。
いつになったら初陣が叶うのか???と、ちょっとイラつき気味。

高松城ではまたもや説得の官兵衛。

「命を無駄に使ってはなりませぬ・・・。」by官兵衛。

「ただ・・・死あるのみ・・・
 官兵衛殿・・・次は戦場でお会いいたそう。」by宗治

毛利も軍議を開いていますが・・・
今までとは違って、清水宗治だけは助けたいようです。
そう思えるほどのいい男だったのでしょう。

冠山城の戦いで、長政はようやくの初陣を果たします。
本当の戦いを知って・・・本当の恐ろしさを知る長政。
秀吉に褒められたっことを喜んでいる長政でしたが、父・官兵衛に諌められるのでした。
お・・・父子のすれ違いフラグが立ってきました。
黒田を守るために・・・!!

安国寺恵瓊から、手を組もうと話が舞い込んできました。
羽柴と毛利の。。。
織田を裏切る???

お・・・官兵衛、カッコいいですよ。
あの安国寺恵瓊と対等に渡り合っていますよ。

そして・・・いよいよの水攻めです。
雨が降ると一面水浸し!!
土地の者にそう聞いた官兵衛は、水攻めを決行!!

kan4













時期は梅雨時・・・雨も手伝っての水攻めです。
戦わずして勝つ!!最たるものです。

黒田家には14年ぶりに男子が誕生します。
名を「熊之助」。。。

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その頃官兵衛は・・・
「土が金になる!!」
と、地元民に土を運ばせます。
もちろん食料も・・・!!

そして・・・天も味方か???
雨が降り始めたのでした。


今回はとっても見応えがありました。
やっぱり戦国時代だもの。。。

で・・・毛利は清水宗治だけは守りたいようです。
ま、播磨に軍勢を送れなかったのは、宇喜多直家の動向が今一つ信用できなかったからなんだけど、この時は既に宇喜多は織田だしね。。。
動きたくても動けない状況が続いていたんでしょうね。。。
今回の毛利の軍議みたいに、今までもわかりやすくしてくれたら良かったのに。。。

やっぱり命を賭ける男はカッコよく書いてくれないとね。
となると、清水宗治の死に方がポイントですね。
切腹の見本を作った清水宗治、どうなるのやら???
って、書いたから、切腹ってわかっちゃった。。。

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