日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:傾奇者

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戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

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江戸歌舞伎の歴史は、東京・京橋で・・・今から400年前に始まりました。
今に続く歌舞伎・・・その人気の中心には、江戸の大スター・市川團十郎がいました。

歌舞伎の始まりは・・・慶長年間に、出雲大社の巫女と言われる阿国が京都の北野天満宮の境内で行った歌舞伎踊りが発祥と言われています。
ちなみに、歌舞伎は傾奇者(かぶきもの)からきています。

この踊りをまねて登場したのが、「遊女歌舞伎」でした。
京都の遊女屋が客集めのために始めましたが・・・
1629年風紀が乱れるということで、女芸能禁止となりました。
舞台から女性が追われ・・・「若衆歌舞伎」という前髪を残した美少年による歌舞伎が流行るのです。

振袖を着て舞う艶やかな若衆・・・。
しかし、この若衆たちが、大名や旗本たちの男色の対象となっていたので・・・
1652年若衆歌舞伎も禁止となりました。
翌年・・・前髪のある若衆を出さないということを条件に再開された歌舞伎。
「野郎歌舞伎」と呼ばれ、これが主流となっていきます。

初代市川團十郎は、1660年侠客だったという堀越重蔵の子として生まれ・・・幼名を海老蔵といいました。
当時、江戸で人気が出始めていた歌舞伎に興味を持った海老蔵は、11歳で役者としての修業をはじめ、2年後には中村座で初舞台を踏みます。
演目は「四天王幼立」で、金太郎の役でした。
紅と墨で顔を隈取り、大柄で荒々しい立ち回りで好評を得・・・荒事の團十郎の完成です。

その卓越した演技に・・・
”お江戸に於いて、肩を並ぶる者あらじ
 おそらくは、末代の役者の鑑とも成るべき人なり”
と、絶賛されました。

團十郎にも悩みが・・・跡継ぎです。
故郷であり、深く信仰していた成田山新勝寺で子授け祈願をしたところ、1688年男の子を授かります。
久蔵・・・二代目團十郎です。
團十郎は、新勝寺に現代の価格に換算して1000万円と、大鏡を寄進しています。
これが縁となり、市川家は成田山にちなみ、屋号を”成田屋”としたのです。
さらに・・・「成田山分身不動」という演目を書き上げ成田不動尊の出開帳とタイアップし、3か月の公演をは大成功し、團十郎の人気と名声とは不動のものとなるのでした。

どうして初代團十郎が人々の人気を得たのか?
たくさんいた荒事師の中で、團十郎が確固たる地位を築いたのは・・・
それは、宗教的な権威、不動明王の役をやったりという寺とのタイアップが團十郎の地位を高くしたのです。
つまり・・・成田山の篤い信仰と同じように團十郎が神格化され、カリスマ化していったのです。
そして、團十郎はヒーローしか演じませんでした。

1704年2月19日市村座での芝居中・・・
演じていると・・・一人の男が飛び出してきて・・・團十郎を刺殺してしまいました。
襲ったのは、同じ一座の生島半六で、理由は團十郎に自分の息子を虐待されたとか、女性問題とか、借金を巡るトラブルと言われています。

突然の死によって・・・5か月後わずか17歳で、二代目市川團十郎誕生!!
しかし、その評判は今一つ・・・厳しいものでした。
二代目團十郎は、小柄で声も小さかったので、荒事に似合わなかったのです。
苦境に陥った二代目に手を差し伸べたのは・・・歌舞伎役者の生島新五郎です。
生島は、初代團十郎を殺した半六の師匠で、負い目を感じていたのです。
容姿端麗な生島は、和事の名人と言われていました。
和事とは、色男の恋愛を演じるもので・・・二代目團十郎は、この優雅な動きを取得しました。
荒事と和事を融合させていきます。
代表作となったのが、助六でした。
親の七光りではなく・・・実力を証明し、受け継いだ市川團十郎の名跡を守ったのです。

しかし・・・試練が・・・!!

生島新五郎と大奥御年寄・江島とのスキャンダル!!
関係者が処罰された江島生島事件!!
この時、生島と同じ舞台に出ていた二代目團十郎も窮地に・・・!!

江島は團十郎の気を引くために、杏葉牡丹柄の小袖を送ったことがあったからです。
二代目團十郎はこれを拒否したために、江島とは無関係であるとして、連座は免れたのです。
この時、二代目團十郎が捕まっていれば・・・歌舞伎の歴史は変わっていたかもしれません。
二代目團十郎は、助六を精進させて・・・市川家のお家芸となっていきます。
千両役者は二代目團十郎に始まったと言われています。

そこに目を付けたのは、大店の商人たちでした。
商品を売るために歌舞伎を利用します。
初めて宣伝に利用されたのは、1715年の中村屋。
二代目團十郎演じる虚無僧が、寿の入った網笠を被って登場!!
さりげなく「寿の字越後屋」の宣伝をしたのです。

芝居のセリフにも・・・
1718年二代目團十郎が「外郎売」を初演。
外郎とは、小田原で売られている胃痛・腹痛・嘔吐に効く常備薬のことです。
台詞にその製造元、名前の由来、効能などが入っています。
それは、歌舞伎と商売の相乗効果でした。

その集大成が・・・「助六由縁江戸桜」。

この中で、遊郭の暖簾、白酒、朝顔煎餅、うどん屋・・・馴染みの店を随所に登場させ・・・
観客たちも引き込まれて・・・その商品も売れていきました。
役者絵、かつらつけ、着物の柄・・・
市松模様は、1741年初代佐野川市松がこの衣装を着て、女性に大人気となりました。
化粧や髪形によって役も違い、その分りやすさも、人気に拍車をかけました。

真夏にその客席の蒸し暑さから、客が激減し・・・
そこから知恵を絞って思案したのは、初代尾上松緑と狂言作者の鶴屋南北でした。
考えついたのは。。。「天竺徳兵衛韓噺」
化け物や水を使った奇想天外な演出で、客に暑さを忘れさせます。
四谷怪談では提灯抜け・・・そのほかにもたくさんの演出で客を飽きさせません。
二枚目、三枚目、十八番・・・みんな歌舞伎から出てきたことです。

しかし・・・危機が・・・1841年水野忠邦が天保の改革を断行します。
奢侈禁止令によって、衣食住全てにおいて、贅沢が取り締まられていきます。
江戸三座は、猿若町に強制移転されます。
1842年4月6日・・・七代目海老蔵は手鎖の上、家主預かり。。。江戸十里四方追放となってしまいました。

江戸を追放された海老蔵は、”成田屋七左衛門”と改名し、成田山新勝寺の延命院で過ごし、厳しい生活を余儀なくされました。
窮屈な生活に耐えられず・・・地方を旅しました。特赦となった後も。。。

江戸は・・・天保の改革で客足が減り危機的状況を迎える中・・・
八代目團十郎は・・・面長な美男子で、粋で上品で色気があると絶大な人気を得ます。
新しい役どころも開拓し、人気は不動のものになっていきます。

1854年8月6日・・・大坂で・・・八代目市川團十郎が32歳の時、まさに舞台初日の朝・・・自殺してしまいました。
それは・・・父・七代目が大坂の興行主から多額の借金をしたことで、その興行主が肩代わりとして大坂で芝居をするように迫りました。
親思いの八代目は大坂に来たのですが・・・贔屓にしてくれていた江戸の人に挨拶もなしに出てきたことを苦にして自らの命を絶ったと言われています。
真面目さ、律義さが仇となったのですが・・・それは人々にとって衝撃でした。
八代目團十郎の人気は死してなおとどまることを知らず・・・絵だけで300種類もだされたと言います。

江戸三座は・・・猿若町に集められたことで、活性化されていきます。
人々は贔屓の常連となり・・・追っかけとなっていったのでした。

スターの活躍・演出の面白さ・役者と観客の一体感・・・それが、歌舞伎人気の秘密なのです。


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THE ナンバー2、ヒストリーチャンネルでなんか再放送?をやってくれています。
私が見だす前の人たちをやってくれています。
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初めにやってくれる人の方が、有名どころです。黒ハート
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1598年5月病に伏した豊臣秀吉が、一人の男を枕元に呼びました。
前田利家、加賀100万石の領主です。

tosi.png

秀吉は苦しい息の中・・・
「私が万一の時は、秀頼をお頼み申す。
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ。
 お頼み申す・・・」
そういうと、利家が頷くのを確かめるように8月その生涯の幕を閉じました。

1599年元旦新年のあいさつの為に伏見城に集まりました。
大広間に集められた大名の筆頭は徳川家康、ようやく自分に回ってきたかもしれない順番・・・

秀頼がやってきましたが・・・その秀頼を抱いていたのは利家でした。
大名たちがひれ伏しているのは秀頼ですが、どこをどう見ても利家にひれ伏しているようです。
しかし、前田利家は、天下に律義者として知られていました。天下を取る野望があるなどとは思われなかったのです。

家康は苦虫をかみつぶしていたようです。この男がNo,2にいる限り自分の天下はない!!
この律義者が最も恐るべき男だったのです。


戦国時代の利家の立ち位置は・・・
準主役、豊臣政権のNo,2が利家でした。

利家と秀吉・・・
秀吉はフリーターからアルバイト・・・契約社員から正社員となった人で、利家は子会社の社長の息子・・・そして、若社長(信長)にも気に入られていた。それくらい立場が違いました。

しかし、美濃併合し、信長が天下布武に乗り出した頃、屋敷が近所になります。
普通は、成り上がりの秀吉と付き合うのを嫌がったようですが、利家は傾奇者。異風を好み、派手な身なりをするなどの常識を逸脱していたので、お構いなしでした。
槍の又左と呼ばれ、派手好み、男伊達でした。


石川県金沢市に居城・金沢城があります。
此処には戦国を生き抜いてきた利家の様々な工夫があります。

なまこ壁・・・これは、装飾性や耐湿性優れているだけではなく、鉄砲狭間があり、壁の内側から瓦を外すことが出来ました。

屋根にも工夫が・・・鉛瓦。普通の瓦に見えますが、積雪に耐えるように木で作り、周りを鉛で覆っているのです。
そして・・・籠城の際には、この鉛を溶かして鉄砲の弾にすることが出来ました。

もともとは、尾張の国に生まれた前田利家。
14歳で織田信長の小姓となって侍人生が始まります。
この利家、信長と男色の関係にあったと言われています。
当時は合戦に女性は連れていけない・・・とか、寝所を襲われたときにボディーガード・・・楯になってくれるとか・・・もっとも頼りになる男の1人だったようです。
おまけに長身で美男子。

背中に母衣を纏った利家。

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若いころの利家は・・・傾奇者でした。
かなり仰々しい姿で町を歩いていたようです。
普通を飛び越えたことをしよう・・・という気持ちが異形を好んだようです。
信長も、「肝に毛が生えた男」と褒めています。

21歳の利家は、結婚をしました。
相手は9歳年下の松。
松は腹の座った女性で、教養も、優しさもあったようです。

そんな利家を奈落の底に落としたのが・・・笄(こうがい)。
おしゃれな武士が刀に差していた櫛のことですが・・・
拾阿弥手打ち事件勃発・・・
信長の茶坊主・拾阿弥が利家の笄を盗んで咎められたのです。
拾阿弥は、表向きは誤ったものの裏では。。。
「盗られるのは、本人にも隙のある証拠・・・」と、陰口をたたきます。
怒った利家は、拾阿弥を斬ると息巻いているのを聞きつけた信長が間に入り、今回だけは許してやれと言われ一度は矛を納めます。が、

周りの者から、武士が一度言い出したことをやめるのか?と、嘲笑されたため、信長の見ているまでで手打ちにしてしまいました。

激怒した信長は、利家を手打ちにしようとしますが、柴田勝家が間に入りことは治まりますが、織田家を追放されてしまいます。
この事件以来、柴田勝家を親父様と呼ぶようになり、織田家に戻るチャンスを伺います。
柴田勝家は男気があり、織田を支え、義を持って最後まで守ろうとした人物です。
そんな勝家が、利家を支えます。

そしてチャンスが到来・・・
1560年桶狭間の戦いです。
織田軍3000、今川義元2万・・・織田軍は、奇襲をかける為、桶狭間に向かいます。
その知らせを聞いた利家は、自ら参陣します。
陣借りです。陣借りとは、戦の際に正規軍でない勢力が自分の意志で駆けつけて参加すること。。。
桶狭間では、命を惜しまず・・・3人の首を取りました。
信長にとっては律儀な家臣と映り・・・許されたのです。
この間2年、この時の苦労が、利家をまともな人間に引き戻しました。


戻ってきた利家に運命の出会いが・・・
その男が、利家がNo,2として仕えることとなる豊臣秀吉です。
垣根越しに秀吉の家が見えました。

天下統一に向けて、八面六臂の活躍をする織田軍団。
秀吉、利家も各地を転戦します。
そして天正十年・・・二人の運命を揺るがす事件が・・・!!

天正十年(1582年)本能寺の変。
その時秀吉は、備中高松で毛利輝元と戦、利家は勝家の下で北陸を平定する為魚津城を攻めていました。
秀吉は本能寺の変を知ると、すぐに毛利と和睦を結び京都に帰ってきました。
そして・・・山崎の合戦で光秀を打ち破ると、信長の後継者として名乗りを上げました。

これを快く思っていなかったのが柴田勝家。
1583年この勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
前田利家は、勝家の部隊として賤ヶ岳に来ていました。
悩んでいました。どちらにつこうかと・・・
この時の利家の立ち位置は、府中三人衆。勝家の配下として付けられた三人(利家・佐々成政・不破光治)の与力の1人でした。

恩人の柴田勝家・・・
三女は勝家のところに人質に。

友人の秀吉・・・
秀吉のところには自分の四女が養女に行っていました。

利家の心は激しく揺れ動き。。。
いよいよ決戦のときが近付きます。
まだ迷っている利家。
家臣団の生活も背負っています。
義だけでは動けない状況にありました。

そんなときに秀吉から手紙が・・・
「明日の合戦では勝家を裏切ってもらいたいが、
 おぬしの性格ではそれは出来まい。
 せめて明日の戦には加わらず
 中立を守ってもらいたい」

そこには利家の性格をよく知る秀吉らしい文面がありました。

1583年4月20日賤ヶ岳の戦い。
戦いは、勝家軍が勢いがありましたが、秀吉軍が盛り返し・・・
翌日未明、戦いは突然終わります。
それが・・・利家の陣地を引き払ったことでした。
このことが、勝家軍にパニックを起こし、戦場を逃げ出すものが続出・・・負けてしまったのです。

それは、やむに已まれぬ行動だったのかもしれません。

その後、数人の共を連れて利家の城にやってきた勝家。

それを見た利家の家臣が・・・
「柴田殿を討ち取り、秀吉殿に差し出せば手柄になります」
と言ったところ・・・
「「武士の作法を知らぬのか!!」
と叱りつけ、勝家を城に招き入れました。

「私はここで秀吉軍を防ぎますから
 貴方は自分の城に戻り、再起を図ってください。」
と言って、新しい馬を差し出しました。

すると勝家は・・・
「貴方は秀吉と昵懇であるから 
 今後は私に対する義理を棄て家の安泰を図りなさい。」
と言い残し、去っていったとか・・・。

翌日、秀吉が一人でやってきます。
利家は・・・門を開けて招き入れます。

勝家に義理を立てた利家は・・・
「腹を切るので暫く待ってくれ」
秀吉は、
「私はおぬしを殺すつもりでここに来たのではない。
 敵味方に分かれるのは武士の習い
 おぬしに恨みはない」
そして松に・・・
「腹が減ったので、冷や飯を一膳もらいたい」
と、頼みました。

この瞬間、利家は秀吉につくことに決めたのでした。

計算づくで行動するのではない心意気で生きる利家。
秀吉の為に労を惜しまず働きます。
北条氏政を倒した秀吉は、ついに天下を統一。
これらの戦いが終わったとき、信長の家来で秀吉のライバルとなるべき有力大名はほとんどいなくなっていました。
が・・・利家は、加賀100万石の大名となっていました。

その利家が、秀吉のNo,2となります。
加賀100万石には数々の伝統工芸がありますが、この芸術を受け入れ保護したのが利家です。単なる武人ではなく、多くの人から尊敬される教養を身につ行けていたのです。

利家は、人生のうち30以上の戦いに参加していますが、自ら仕掛けた戦いは殆どなく、天下統一で平和の来たことを喜んでいました。


が・・・秀吉が朝鮮出兵に乗り出します。
この無益な戦いが長引くにつれて、朝鮮に出兵した大名と国内の大名との間に亀裂が入ります。不穏な気配が・・・

1598年5月秀吉が病に倒れます。
死期を悟った秀吉は五大老を呼びます。
幼い秀頼の行く末を案じてのことです。
五大老の中でも一番信頼していたのが利家。。。

「利家殿 人は大勢いるが、真の友人はお主だけだ
 私が万一の時には 秀頼をお頼み申す
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ
 お頼み申す」

この瞬間、利家は秀吉に最も信頼されるNo,2となったのです。

8月18日62歳で秀吉はこの世を去ります。

秀吉が亡くなると、家康はそんな約束はなかったかのように裏工作をします。
そして、天下をその手中に納めようとします。
怒った利家は、家康のもとに乗り込みます。
すでに利家は、病に侵されていました。。。
家康と刺し違えよう・・・???
自分が殺された場合、家康に大義はなくなり、豊臣の大名たちが立ち上がるだろうと思ってのことでした。

秀吉との約束を守ろうとしたのです。
まさにNo,2だったのです。
利家が生きている間・・・家康は動けませんでした。
合戦では勝てても、利家の人望には勝てなかったのです。

病床に伏した利家に松は、魔よけの守・鍾馗(しょうき)の陣羽織を縫います。
「若いころから多くの人を殺した罪で地獄に行かぬようにこれを着てください。」

と言ったところ、利家は、

「多くの人を殺したが、訳なく殺したことはない。
 だから、地獄にはいかない」
と、着るのを断ったそうです。

「私の行く先より気になるのは、
秀頼公の行く末だ・・・ 
あと7年・・・せめて5年あれば
秀頼公が天下を治める姿を見ることが出来るのだが・・・」

慶長4年閏3月3日、前田利家は、62歳の生涯を閉じました。
それを待っていたかのように、家康は翌年に関ヶ原の戦いを起こします。
念願の天下を掌中に納めるのです。

前田利家・・・大きなNo,2を失った豊臣政権は、大坂の陣で滅亡するのです。

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