古墳の古代史 ──東アジアのなかの日本【電子書籍】[ 森下章司 ]

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2017年7月・・・大阪平野にある二つの古墳群が世界文化遺産登録に向けて推薦されることが決まりました。
一つは堺市の百舌鳥古墳群・・・
全長486mの日本最大の大仙陵古墳・・・上石津ミサンザイ古墳、ニサンザイ古墳。
もう一つの古墳群は古市古墳群・・・日本第2位の誉田御廟山古墳があります。
藤井寺市と羽曳野市にまたがる古墳群・・・墓山古墳・岡ミサンザイ古墳・・・です。
これらの巨大古墳群は、5世紀を中心に作られました。
小さいものを含めると、この地方だけで200基作られたとか・・・。
しかし、これらの古墳に埋葬されているのが誰なのか、何のために作られたのか??わかっていません。

中国の歴史書に描かれた倭の王・・・讃・珍・濟・興・武・・・倭の五王・・・。
倭の五王は日本書紀の天皇の誰に当たるのか??
濟・・・允恭天皇、興・・・安康天皇、武・・・雄略天皇は専門家の意見も一致していますが・・・
讃・・・応神天皇・仁徳天皇・履中天皇、珍・・・仁徳天皇・反正天皇・・・と諸説あり、意見が分かれています。
その倭の五王の時代、大和を中心とする政権は、巨大な武力で日本を支配下に治め、海外にも関わっていきます。
おりしも中国大陸では、宋と北魏が対立し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が激しく争っていました。
そうした中で、倭の五王の最初・・・讃が、中国に使節を送ります。
その目的とは・・・??
五人目の王・武が宋王朝に送った書には、高句麗と戦う決意が示されていました。
巨大古墳を生んだ古代日本・・・倭の五王たちの東アジアの外交戦略と選択とは・・・??

4世紀・・・大和政権は現在の奈良盆地を中心に勢力を伸ばしていました。
そこには、五社神古墳・佐紀陵山古墳・・・全長200mを越える前方後円墳が政権のシンボルとしてたくさん並んでいます。
ところが、5世紀・・・倭の五王の時代、古墳の築造は西の大阪平野へと移ります。
それが百舌鳥・高市古墳群です。

巨大古墳はどうして作られたのでしょうか?
日本最大の規模を誇る大仙陵古墳・・・仁徳天皇陵として知られています。
全長486m堀を含めた面積は、およそ47万㎡あり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵をも上回ります。
今は木々に覆われていますが・・・当時は土を階段状に三段積み上げた墳丘で、高さ約36mでした。
表面には石が敷き詰められ、平面には3万もの埴輪が並べられていました。
表面に敷き詰められた白い石は、太陽の光を反射しました。
かつては全体が白く輝いていた大仙陵古墳は、強大な姿は遠くからでもよく見えたことでしょう。
百舌鳥古墳群は配置にも意味がありました。
当時の大阪湾の大地の上に海岸線沿いに作られていました。
どうして海沿いに・・・??
海から見ると、この古墳はとてつもなく大きな構造物として目に入ったでしょう。
古墳は、海からよく見えるように・・・海でやってくる人たちに見せるために・・・
つまり、中国などとの交渉を意識して、海沿いに大きな古墳を作ったのです。

大阪平野には、もう一つ巨大古墳群があります。
百舌鳥古墳群から内陸におよそ10キロ・・・古市古墳群です。
誉田御廟山古墳・・・全長425m、大仙陵古墳に次ぐ大きさです。
どうして内陸に・・・??
古市古墳群の傍には、大和川・・・そして奈良盆地に続く二つの街道・・・大津道・丹比道がありました。
ここは、大和政権の本拠地に向かう・・・水路、陸路の交通の要衝だったのです。
交通路という意味では、百舌鳥よりも古市の方が重要な場所だと言えます。

百舌鳥と古市・・・ここは、倭国を訪れる海外からの使者に対して大和政権がいかに巨大であるかを見せるための仕掛けでした。
そんな大和政権とは・・・??
古墳からは、鉄製の武器や武具が数多く出土しています。
ヤマト政権は鉄で作られた武器や武具を供え、強力な軍事力を見せることで勢力を拡大していきました。
まさに、鉄の王朝だったのです。

しかし・・・倭国には鉄の産地がありませんでした。
どこから手に入れたのでしょうか?
三世紀末に編纂された中国の「三国志」・・・魏書東夷伝・弁辰の条に・・・「国 鉄を出す 韓 濊 倭 皆従いて之を取る」とあります。
弁辰は、朝鮮半島南部にあり、鉄の生産を盛んに行っていました。
倭国は朝鮮半島南部から鉄鋌を輸入して、それを加工して武器、武具を製造していました。
五世紀・・・倭国は、鉄を手に入れるために、朝鮮半島と深いかかわりを持っていたと考えられます。

日本の場合、青銅器時代がなく石器時代からいきなり鉄器時代になっています。
鉄の武器・・・が日本では生産できない・・・どうやって持ってくるのか??
理想的なのは、一つの権力が独占的に持ってきて、倭国内で各勢力に分配する・・・。
そうやって支配を強めていくことが理想の権力構造でした。
圧倒的に軍事技術に差がついてしまった場合、戦争すら起きない・・・。
その武器や武具をどうしてそんなにも沢山埋めてしまう必要性があったのか??
それは、まだまだあるという鉄のプロバイダーとしての力を誇示するためだったのかもしれません。
鉄の王朝であるにもかかわらず、それ・・・鉄を他国に依存している・・・そして、発展してきている・・・
国力の基幹部分が外国に依存しているという点では、現在も石油を依存しているので、古代も今も同じなのかもしれません。
しかし・・・当時は、鉄の取れる場所は日本列島の近くでした。
なので、軍事的進出もあり得るのです。
しかし、国内では武器、武具で傷つけられた骨が出土していません。
武装にコストをかける目的が、体内的なものから対外的なものへと変わっていたのです。

4世紀中ごろ、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が激しい闘争を繰り返していました。
北方の強国・高句麗は、勢力拡大のために南下をしようとしていました。
その矢面に立たされたのが百済でした。
高句麗の圧力にどう対抗するのか・・・??
奈良にある石神神社には国宝・七支刀が。。。
この七支刀は、百済で369年に作られて、倭国に送られたと記されています。
一国では高句麗に対抗できないと、倭国に軍事支援を求め、その証としてこの七支刀を送ったのです。
一方、倭国にとっても百済に応える理由がりました。
当時、倭国は朝鮮半島南部の加耶と密接な関係にあり、鉄資源を確保していました。
そこに、高句麗の支配の及ぶことを何としても阻止したかったのです。
百済と同盟を結んだ倭国は、4世紀末から5世紀初頭にかけて朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦います。
しかし・・・「好太王碑」によると、高句麗と倭国・百済の連合軍との戦いの様子を・・・
”399年、百済は高句麗との誓いを破り、倭と同盟した
 400年、新羅の都にいた多くの倭国兵が退却したので、これを追った
 404年、倭が侵入してきたので、これを討って大いに破った
 切り殺した倭国兵は、数えきれない”
高句麗の古墳の壁画に、当時の高句麗軍の姿が書かれていました。
騎兵で、馬にも鎧を着せ、長い矛を手にした強力な騎馬兵で、歩兵の倭国軍は洗車のような馬と、刀の届かない矛からの高句麗軍に手も足も出ず蹂躙されました。
それから17年後、倭の五王最初の王の讃が、中国の宋に使節を送りました。
讃の使節派遣は・・・宋にある権限を求めるものでした。
高句麗に大敗した後、百済はずっと戦争状態で、非常に押され気味でした。
それを助けるためには対高句麗戦を考えて、朝鮮半島南部での活動を確保するための軍事権を粗油から認めてもらおうとしたのです。
珍も宋に使節を送ります。
珍は宋に送った文章の中で要求しています。
倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・・・六か国の軍事指揮権です。
任那・秦韓・慕韓は、百済・新羅の力の及んでいない小国でした。
珍は中国の王朝に使節を送ることで、鉄の産地である朝鮮半島南部での軍事指揮権を目論んだのです。
しかし・・・与えられたのは、倭国王の称号と、中国王朝の官職である安東将軍の称号だけでした。
半島南部の軍事指揮権は認められなかったのです。

それでもその後の倭王たちは、朝鮮南部での軍事指揮権を求め続けます。
倭王たちの使節派遣にはもう一つの目的がありました。
倭王・珍は、自分の家臣たちにも称号をと、宋王朝に求めていたのです。
その結果、安東将軍よりも位の低い・・・
「倭隋等十三人を 平西 征虜 冠軍 輔国将軍の号に除正せんことを求む」
そこからは、倭国の国内事情が伺えます。
倭国の場合、倭王と拮抗する様々な勢力がいたので、彼らに対して中国の官職をもらう・・・
倭王の下だというランク付けを明確化し、臣下、官僚として組織する必要があったのです。
当時の倭国は、中央、地方の豪族の連合政権でした。
中央では大和盆地南西部を支配する葛城、地方では中国地方に巨大な勢力を持つ吉備・・・
巨大な勢力が各地に存在していました。
宋への使節派遣には、朝鮮半島での軍事活動の正当化という以外にも、国内の王と豪族との序列を明らかにする・・・国外、国内での意味があったのです。
宋王朝の記録での倭の五王の派遣は、実に9回に及んでいます。

宋は皇帝を持っています。
皇帝は、天下・・・つまり、世界中の支配者です。
その人から朝鮮半島南部の軍事指揮権を認定されるということは、倭国にとっては、世界中で認められたと主張できるものでした。
中国よりは下だけど、朝鮮よりは上という位置づけを・・・
本当に有事があった場合は、指揮する権利があると主張できる!!

朝鮮半島は山城がたくさんあります。
防衛にコストを使っていないと立ちいかない・・・。
百済は、鉄や先進的な文物をバーターとして日本に与え、倭を兵力の一部としてうまく利用する・・・。
同盟関係の裏にはそんな思惑があったのかもしれません。

475年、朝鮮半島に激震が起こります。
高句麗が百済の都・漢城を陥落させます。
国王までも殺してしまいました。
国の滅亡に瀕して、南に逃げた百済の王族は国の復興を願うこととなります。
この時、五王は武でした。
武は、478年宋に上表文を奉呈します。
そこで、高句麗の非道ぶりをひどく訴えています。

これによって宋は、武に朝鮮半島南部の指揮権とこれまでより上位の安東代将軍倭王を与えます。
高句麗に大敗してからおよそ70年・・・倭王部の時代になって、ようやく高句麗を討つ条件が整ったのです。
そして武は選択を・・・!!
朝鮮に出兵する??
このまま南の鉄の産地まで高句麗のものとなってしまえば、鉄が手に入らなくなってせっかく手に入れた倭王の権威を失ってしまう!!
出兵して高句麗を討ち、半島南部における倭国の権益を確実なものにしておくべきか??
高句麗の騎馬隊のために軍事改革をしてきたではないか!!
百済、新羅、加耶諸国を集結すれば、強敵・高句麗に勝てるのではないか??

高句麗を侮ってはいけない??
もし、再び高句麗に負けることがあれば、倭国内統制も利かなくなるのでは・・・??
高句麗の勢いを止め、半島南部の鉄資源の入手を確かなものとするために出兵すべきか?見極めるべきか??

武の使節派遣の翌年・・・日本書紀によると、九州の軍勢が海を渡って高句麗と戦ったとあります。
しかし・・・朝鮮半島の歴史書「三国史記」には、一切書かれていません。
二つの歴史書の違いはどうして生まれたのでしょうか?
日本書紀の出兵記事も、倭本体が派遣したのか??派兵した人は、九州が主体で、畿内の倭王権から直接派遣されたものかどうか・・・。
日本書紀の記載では・・・九州の豪族が、百済に最低限の軍事支援をする程度で、高句麗と全面対決をしたようには思えません。
倭王・武は、高句麗との対決を避けたのです。
それ以外に力を入れたのが・・・各地から出土しています。
稲荷山古墳からは・・・鉄剣が・・・そこに刻まれた115文字の銘文に・・・”獲加多支鹵(ワカタケル)大王”と書かれています。
ワカタケルとは・・・雄略天皇のことだと思われます。
そして、この倭王・武こそが、雄略天皇だとされています。
熊本県にある江田船山古墳にも・・・同じく銘文のある鉄剣が出土しています。
日本書紀によると、雄略は、葛城、吉備といった有力豪族を次々と粛正し、大和政権内で絶対的な権力を持ち、大王を名乗りました。
しかし、雄略の死後、国内が混乱しました。
そして、倭王の中国への使節派遣も途絶えてしまいました。
6世紀・・・念願だった鉄の生産が倭国でも行われるようになります。
朝鮮からの渡来人が、砂鉄から鉄を作る”たたら製鉄”の技術をもたらしたのです。
これによって、強国・高句麗と戦う必要が無くなりました。

倭国における王の権威の確立・・・。
鉄資源の確保・・・これらの目的を果たすことができたとき、倭王にとって中国王朝のお墨付きの必要性も無くなっていました。
大阪平野に異様を誇る巨大古墳・・・古代日本の王の、鉄を確保するための外交戦略を今に伝えています。

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