足利尊氏 激動の生涯とゆかりの人々 (戎光祥中世史論集)

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朝廷に弓を引いた・・・逆賊と言われた男・足利尊氏!!
室町幕府初代将軍です。
二度の裏切りによって大悪人のレッテルを張られてしまいました。

鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺された後・・・幕府は実権を握った北条氏を中心として有力御家人たちが動かしていくようになりました。
開府から100年余り・・・足利尊氏は源氏直系の家柄・・・幕府筆頭の御家人・足利貞氏の子として生まれました。
15歳で元服し・・・当時の執権・北条高時から”高”の一文字をもらい高氏としました。
北条氏と足利氏は代々婚姻による深いつながりがありました。
足利氏の当主は、北条氏から正室を迎えていたのです。
つまり・・・足利家の代々の当主も北条の血が流れていました。

そして高氏もまた北条久時の娘・登子と結婚。
1330年には嫡男・義詮が誕生します。
翌年、父・貞氏の死によって当主となった高氏。。。27歳でした。

太平記によると・・・この時代は、天下国家は乱れに乱れ一日として安穏な日はなく、民の多くが天寿を全うすることが出来なかった。。。とあります。
富と権力をほしいままにした北条高時によって、政治は乱れていたのです。
幕府に対する不安が高まる中事件が・・・!!
京都の後醍醐天皇が、討幕をかかげて挙兵します。
幕府は朝廷軍討伐のために近畿に大軍勢を・・・!!
高氏も、幕府軍対象の一人として出陣することになりました。

天皇家の復権を目指した後醍醐天皇の軍勢は、山城国・笠置山に立てこもりました。
高氏たちは大軍勢で臨みますが・・・大将・楠木正成が立ちはだかります。
正成は、地方で一党を構える新興の武士の棟梁で、鎌倉幕府への不満から後醍醐天皇の呼びかけに応じ参戦していました。
正成の戦術は・・・敵に岩や大木を落としたり、熱湯をかけたり・・・奇想天外なもので、高氏率いる幕府軍は一時苦戦を強いられますが・・・圧倒的な数で反撃し、乱を鎮圧しました。
追いつめられた楠木正成は、城に火を放って姿を消し、後醍醐天皇は幕府軍に捕らえられ、隠岐に流されて幽閉の身となりました。

ところが・・・1333年後醍醐天皇、隠岐を脱出!!
再び兵を挙げます!!
北条氏はこれを討つべく高氏に出陣を命じます。
天皇討伐に西へと向かう高氏・・・心は揺れ動いていました。
高氏、一度目の裏切り・・・
所領であった丹波国で神社に立ち寄り、家臣たちに尋ねます。
「朝廷ではなく、幕府を討つべきなのだろうか・・・??」
「一同、高氏さまのそのご決断を、今か今かとお待ちしていました!!」
「今こそ、北条を討つべし!!」
高氏は、幕府を裏切って朝廷につくことを決断したのでした。
どうして幕府に反旗を翻したのでしょうか??
一度目の出陣の際、父・貞氏の喪中で出陣を控えたいと申し出たのですが、認められませんでした。
そのうえ、今回の出陣では、妻と子を人質として残すように命じられました。
”梅松論”には、これを恨みに思って裏切ったと書かれています。

高氏は源氏の代表・・・北条は一目置いていて、かなりの干渉をされていました。
しかし、人質に取ることは当たり前の時代・・・鎌倉幕府が倒れそうなこと・・・後醍醐天皇の隠岐脱出や楠木正成を簡単に治められない・・・幕府の弱体化で北条氏打倒が可能だと判断したようです。
幕府側につく武士は少なかったのか・・・??
表立って反旗を翻す人はないにしても、命を懸けて楠木正成を討つものなどいなかったのです。
そんな武士が全国に広がっていたことを高氏は感じていたのです。
幕府のエリート化が進み、一般の武士は、幕府に軽んじられていました。
そんな時代だったのです。
北条氏を倒し、足利氏が支配する鎌倉幕府を造る・・・そんな感じに思っていました。
打倒北条!!
後醍醐天皇のもとへ使者を送り、鎌倉幕府討幕の許しをえます。
そして、全国の武士に密書を送ります。

この呼びかけに幕府に対し不満を抱いていた御家人たちが集結!!
3000騎だった高氏の軍勢は、5万騎に!!
1333年5月7日、今日に入った高氏は、六波羅探題を攻略!!その翌日には、高氏に呼応した関東の武士・新田義貞が鎌倉に攻め込み、追い詰められた北条高時以下一族郎党は、鎌倉の山奥で集団自決しました。
高氏が謀反の意を表明してからわずか1か月のことでした。
ここに、150年近く続いた鎌倉幕府は滅亡!!
この時、天皇や上皇は洛外に避難しており、京都は無政府状態に!!
高氏は幕府軍が去った六波羅に独自の奉行所を儲け、混乱回避に努めます。

手柄を立てた者たちに、恩賞を約束する証明書を発行!!
新しい幕府のリーダーとして政治を立て直そうとしたのですが・・・そこに後醍醐天皇が立ちはだかります。
京に戻った後醍醐天皇は、建武の新政・・・朝廷を中心とする新しい政治を始めます。
高氏は討幕の功労者として30カ所の所領を与えられ、天皇の諱から一字与えられ”高氏”から”尊氏”へ!!
しかし高氏は、政権内の要職にはつけません。。。
後醍醐天皇が目指していたのは、平安時代の天皇を中心とした国を治める朝廷を目指していたのです。
天皇に権力を集中させる独裁政治でした。
後醍醐天皇は、鎌倉時代の土地の所有関係をなくし、天皇自らが決定するとします。
しかし、これが大きな問題となりました。
この時代の武士の精神は”一所懸命”。。。武家政権下では、幕府と武士の間には”御恩と奉公”があり、武士たちは戦で働く代わりに所領を保障されていたのです。
幕府の恩賞となる土地が無くなるかもしれない・・・
武士たちは、土地の支配権の確認のために京都に殺到!!混乱を招きました。

鎌倉幕府を引き継ぐことなどできなかったのです。
しかし、後醍醐天皇に従順に働いていた尊氏でしたが・・・。
再び武家政権を・・・と、尊氏のもとに人々が集まり始めました。


尊氏二度目の裏切り・・・
1335年7月、尊氏が31歳の時、北条高時の子・時行が鎌倉幕府再興を目指し挙兵!!
鎌倉を占拠したのです。
この時、鎌倉を守っていたのは尊氏が最も信頼してた弟・直義でしたが、北条時行に敗北し、尊氏に助けを求めます。
尊氏は、後醍醐天皇に、反乱を鎮圧するために鎌倉に出陣したいと・・・征夷大将軍の官位を求めましたが許されませんでした。
というのも、後醍醐天皇は、武士に政権を与えることは絶対にしないと考えていたからです。
武士政権の否定が後醍醐天皇の理念だったのです。
尊氏は、弟のために天皇の許可を得ないまま都を出発し、わずか2週間で鎌倉を奪還しました。
反乱を鎮圧すれば、功績が認められると思っていたのです。
そして旧幕府軍の反乱を鎮圧した後も、帰京命令を無視して鎌倉に留まったのです。
ちなみに、帰京を止めたのは直義だと言われています。
直義は、武士として建武政権に見切りをつけていたようです。
さらに・・・征夷大将軍を勝手に名乗り、武士たちに恩賞を与え始めました。
この尊氏の暴走に激怒した後醍醐天皇は、尊氏討伐を命じるのでした。

朝敵となってしまった尊氏・・・尊氏は苦悩します。
「今回の事態は、決して自分の望むところではない」
尊氏は、天皇に恭順の意を示すために、元結を切り落とします。
そして、鎌倉の寺に引きこもり、戦いを放棄しました。

1335年11月、朝廷軍が尊氏討伐のために鎌倉に進軍。
尊氏のいない軍の指揮を執ったのは直義でしたが、三河・駿河で敗北し、壊滅寸前!!
直義は箱根山を要害として立てこもると、兄・尊氏に出陣を求めます。

武士は永遠に公家に使われるだけのものになってしまう・・・!!

立ち上がる尊氏!!
朝廷軍と戦うことを決意し、2000に兵とともに箱根へ。。。
討伐軍を撃破し、快進撃を続け、京都に攻め入り、朝廷軍を制圧します。
しかし、2週間後・・・朝廷を支持する奥州武士団に敗北し、都を追われてしまいます。
摂津国では楠木正成に敗北し・・・追いつめられる尊氏!!
しかし・・・武士達は負けた尊氏についていきます。。。

朝廷軍に敗れ、九州に敗走した足利軍でしたが、尊氏は挽回の布石を打っていました。
”建武の新政によって後醍醐天皇に取り上げられた土地を返還する”という文を全国の武士に送っていました。
おまけに朝敵では負けるので、後醍醐天皇と敵対関係にあった光厳上皇に院宣を要請します。

後醍醐天皇VS光厳上皇となるのです。
これで朝敵となることはなくなりました。

官軍となり、土地を保障してくれるという尊氏のもとへ、武士たちが集まってきます。

1336年4月、大船団を率いて九州を出発し京を目指します。
5月、摂津国に上陸すると、楠木正成軍と対立!!”湊川の戦い”です。
尊氏軍の猛攻に、楠木正成軍は散り散りに・・・もはやこれまで!!敗戦を覚悟した正成は、戦場で命を絶ちました。
開戦からわずか6時間・・・尊氏の圧勝に終わりました。
後醍醐天皇は、吉野に逃れます。
京都奪還に成功した尊氏は、上皇の弟・光明天皇を擁立。
1336年11月、室町幕府創設。
尊氏は、幕府を京都に移すことにこだわりました。

それは・・・土地が生命線と言ってきたものの・・・お金なしでは成り立たなくなっていたからです。
お金が集まるのは京都・・・経済的利権を握りたかったのです。
室町幕府は征夷大将軍である尊氏が軍事面を、弟の直義が政務を務める二頭体制で始まったのです。

武士政権を蘇らせた尊氏でしたが、将軍という地位よりも望んだのが”隠居”でした。
政務を直義に譲り、出家したかったのです。
しかし、弟が政務を取り仕切るのを快く思わなかったのが・・・高師直です。
政権構想を巡り、直義と対立するようになった師直。
直義は尊氏に師直の罷免を要求し、尊氏はそれを承諾しました。
師直は怒り、将軍邸に抗議に行きます。”観応の擾乱”です。

すると尊氏は、弟・直義を罷免し、溺愛していた義詮に政権を譲ることにしました。
尊氏と直義の対立・・・ついには・・・戦いとなり、結果は尊氏の勝利に終わりました。
直義は鎌倉の寺に幽閉され、その後、謎の死を遂げるのです。
人々は、尊氏が暗殺したと噂しました。

その後の幕府は・・・240年にわたり、足利政権が続くこととなるのです。
公家文化に武士文化が融合して、生け花、茶の湯、能楽・・・今に至る日本の伝統文化が確立されていきます。
これは、幕府を京都に置いた尊氏の大きな功績といえます。

1358年、動乱の世を生き残るために、裏切り者をの汚名を着、生きた男は、54年の生涯を閉じるのでした。

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