日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:光明皇后

世界最大級の木造建築、奈良の東大寺大仏殿・・・ここに鎮座するのは、銅製の仏像で世界トップクラスを誇る廬舎那仏です。
どちらも国宝です。
国宝とは、重要文化財のうち、歴史的文化史的価値が高く、世界的にも保護すべき国の宝として国が指定したものです。
現在国宝に指定されているのは、建造物、美術品を含め、1116です。
人気の国宝の謎に迫ります。

Ⅰ.日本の仏像史上最高のイケメンと称される「阿修羅像」。

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猛々しい戦いの神が、どうして憂いを帯びた少年の顔なのでしょうか?

奈良興福寺、大化の改新の中心人物中臣鎌足の妻によって創建された藤原氏ゆかりのお寺です。。
その境内に、かつてあった西金堂の安置されていたのが、国宝・阿修羅像です。
釈迦の教えによって帰依した仏法を守る神です。
3つの顔と6本の腕を持つ三面六臂、八頭身という抜群のプロポーションが特徴です。
平安時代以降に衰退し、幻の製作方法とされる”脱活乾漆”と呼ばれる方法で作られています。
その方法は・・・??

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①原型づくり・・・骨組みとなる木の芯に粘土を盛っていき、ヘラで大まかな形を作ります。
②麻布貼り・・・麻布を何枚も重ね、木くずや漆を混ぜた木屎漆を塗りつけて乾燥させます。
③粘土の掻き出し・・・乾燥したのち、背中や腰の部分に穴をあけ、中の粘土を掻き出して空洞に・・・
④縫い合わせ・・・麻布で、穴を閉じ、色を塗って完成です。

この方法で作られた阿修羅像は、軽くて丈夫なのが特徴で、そのおかげか戦火で焼失するピンチを幾度となく逃れてきました。
柔らかな表現を出すことができたのも、この技法のおかげです。
仏像全体に色が施されてきましたが、ほとんどはげ落ちてしまいました。
長い間謎とされてきたその色彩・・・赤い色で塗られていたことがわかります。
その赤は、辰砂と呼ばれる水銀と偉央を含む鉱物からできたものであることもわかりました。
辰砂は、作り方によって数種類の赤が生れます。
ろうそくの光でも・・・暗い環境でもはっきりと見えるように、明るい色で塗られていました。

もう一つ、阿修羅像に魅入られる理由は・・・??
愁いを帯びた表情で人々を魅了してきた興福寺の阿修羅像・・・
ぷっくりと膨らんだ下唇、つぶらな瞳はうるんでいるようにも見えます。
まだあどけない少年の顔をした阿修羅・・・
しかし、元々阿修羅とは、古代インド神話に登場する怒りに満ちた戦いの神です。
娘を強奪した最高神インドラに挑み続ける間に、荒ぶる神になってしまったといわれています。
なので、通常は怒りの表情らしいのですが・・・
興福寺の阿修羅像は、どうして少年の表情を称えているのでしょうか?
近年大発見がありました。
それは、九州国立博物館と奈良大学が共同で研究を進めていた時の事・・・
CTスキャンで撮影し、画像を分析すると・・・顔の下にもう一つの顔があることがわかりました。
製作の途中で、顔が作り替えられたのでは・・・??
権力者・・・仏像を作らせた光明皇后が変更を命令したのでは・・・??
夫である聖武天皇が即位してから続いた天変地異・・・。
日照り、台風が相次ぎ、各地で飢饉による餓死者が続出します。
734年には畿内で山崩れや地割れの起こる大地震が・・・。
その3年後には、死の病・・・天然痘が大流行・・・夥しい死者が出ました。
聖武天皇は考えます。

「異変や災害がなおとまらず、我の不徳を責めている
 責任は我ひとりにある」

そして、民のため、国家安泰のために祈り、深く仏教に帰依していきます。
東大寺の大仏建立もその一つです。
その建立を働きかけたのは、妻の光明皇后だったともいわれています。
皇后もまた、仏教の教えに従って国民を救うべく尽力します。
興福寺の中に、貧しい人々に施しを与える悲田院や医療施設である施薬院を作ります。
みずからが建立した法華寺には、浴室(からふろ)を作ります。
病人などを癒す施設・・・サウナでした。
日本最古の風呂とされています。
そこには日本の社会福祉の原点ともいわれる逸話が・・・
光明皇后自らが千人の垢を流したという伝説が残っています。
不安な世相に怯える貧しい民に、救いの手を差し伸べた光明皇后・・・興福寺の阿修羅像もその一つでした。
仏教で国を守ろうと考えます。
しかし、阿修羅像に込めた思いは他にも・・・
727年、聖武天皇は光明皇后との間に男の子を設けます。
ようやく授かった跡継ぎ・・・二人の喜びは大きく、生後32日という異例の早さで皇太子に・・・。
しかし、その翌年、皇子は亡くなってしまいました。
愛する皇子を失った光明皇后は深い悲しみに・・・
それから6年後の734年、光明皇后は母の一周忌のため、興福寺に西金堂を建立。
その中に安置する為に作った仏像の一つが阿修羅像でした。
皇后はそこに幼くして亡くなった我が子を投影・・・そのため、物資が作った怒りの表情を、少年の表情に変えさせたのでは??と考えられています。
阿修羅像の3つの顔は、少年の成長の過程を現したものといわれています。
そこには、見ることが叶わなかった我が子の成長を思い描く、母・光明皇后の深い愛と悲しみが込められていたのです。


Ⅱ.江戸時代初期に現れた稀代の絵師・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」。
風神、雷神は、風と雷を神格化したもので、仏教美術に登場する一対の鬼神でした。
それを堂々たる主役としたのが、宗達の風神雷神図屏風です。

俵屋宗達は、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した町絵師です。
詳しいことはわかっていない、謎の多い絵師です。
宗達が活躍していた頃、画壇の頂点に君臨していたのは、狩野探幽ら・・・狩野派の御用絵師でした。
江戸時代になると、活動拠点を京都から江戸に移し、徳川家に仕えるようになります。
一方宗達は・・・京都で暮らし、扇に絵を描くことを生業としていました。
すると・・・その絵が、京都の豪商や寺社から気に入られ、やがて狩野派の絵師とは一線を画し、町絵師として人気を博すようになります。
京都・建仁寺には、宗達の最高傑作が残されています。

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国宝「風神雷神図屏風」です。

一節には、京都の豪商・打它公軌(うつだきんのり)が、制作を依頼したといわれています。
それを受けた宗達は、これまで誰も見たことのない屏風を作ってやろうと持てるわざと、アイデアをつぎ込んでいきます。
そこには、見る者を引き付けるマジックがしかけられていました。

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①色彩・・・宗達はド派手でした。
風神は鮮やかな緑、雷神は白にしましたが・・・雷神は赤い色で書かれることが殆どでした。
どうして白に・・・??
ユーモラスで親しみやすい雷様になっています。
風神と雷神の乗る雲は・・・銀色。派手で軽妙洒脱なキャラクターに・・・。
これが長く愛される由縁です。
デジタル復元で、もとの色の屏風にしてみると・・・暗い部屋でもはっきりとわかるようになっていました。

②マジックアート
夜見ると・・・江戸時代の人々とおなじように、和ろうそくで鑑賞して見ると・・・
風神と雷神が浮き出てきて絵から飛び出して来たようです。
まるで3Dアートです。
その原因は、背景の金にあります。
揺らめく炎が金箔に反射し、浮き出るような効果を発揮しているのです。

③目
通常ならば、互いを見つめ合っているはずの風神、雷神の目・・・ところが宗達の風神あり人は、風神は雷神を見ていますが、雷神は前方下を見ています。
何を見ているのか??それは、屏風の前に座る鑑賞者です。
風神の視線は雷神に、雷神の視線は鑑賞者に、そして鑑賞者は風神を・・・視線がループするようにしかけられていました。
これらの仕掛けによって、鑑賞者もまた作品の一部となって引き込まれていきます。
まさに、前代未聞の屏風なのです。


Ⅲ.今も実在していたら国宝間違いなしの幻の絵の模写を発見!!「平治物語絵巻」!!

平安時代末期の1159年、京の都で大規模な内乱が勃発します。平治の乱です。
後白河上皇の近臣であった信西と藤原信頼の対立が原因のこの内乱は、平清盛や源義朝などを巻き込み、血で血を洗う惨劇が起こされました。
最終的には、信西側についていた平清盛が内乱を治め、それ以後平家一門が台頭し、政治の実権を握ります。
そんな平治の乱を描いたのが、「平治物語絵巻」です。
平家のライバル源氏が幕府を開いた鎌倉時代に書かれた絵巻です。
元々は、15巻に及ぶ超大作ですが、現存するのはわずか3巻のみ・・・

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「三条殿焼討巻」
藤原信頼の軍勢が、後白河上皇のいる三条殿を襲撃し、上皇を拉致する場面。

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信頼が信西を追いつめ、自害に追い込む「信西巻」

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そして清盛が監禁されていた二条天皇を助け出し平家一門の邸宅のある六波羅に匿う「六波羅行幸巻」

このうち、「六波羅行幸巻」のみが国宝です。

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しかし、もし現存していたならば、国宝間違いなしというものが出てきました。
「六波羅合戦巻」です。
何が描かれていたのでしょうか?
東京国立博物館に、模写が残っています。
原画が失われる前に書かれたものだとされています。

見どころは、三条河原の決戦です。
大将である平清盛の軍勢が、京都の三条河原で敵方を追い込み決着をつける・・・というクライマックスシーンです。
模写を元に復元してみると・・・様々な歴史の真実がわかってきました。
鎌倉時代に平清盛の活躍がどうして描かれたのか??
その象徴シーンが書かれています。
襲った勝者が後ろから狙われているシーンが書かれています。
勝者が敗者となる諸行無常のシーンです。

平治の乱に勝利した清盛ら平家一門は、その武力を背景に朝廷での地位を確立していきます。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、栄華を極めました。
しかし、それから26年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、あっけなく滅亡してしまいます。
それからおよそ100年後の鎌倉時代にこの絵巻は書かれました。

おごれる者は久しからず・・・

ぞの平家の運命を教訓として逸話が身に起きるかもしれないと心に刻むために・・・!!

国宝の数々・・・そこには、人々の思いや知られざる歴史の真実が隠されていました。

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今も広く慕われている古都・奈良・・・
この奈良を、仏都としたのが聖武天皇です。

天皇の最大の謎は・・・
即位から16年後、平城京を飛び出して・・・遷都をしようとしたのです。
そこから3つの都をさまよい続けます。
どうしてこのようなことをしたのでしょうか??
最近の発掘から想像されます。

奈良時代の政治の中枢は平城宮・・・ある法則によって作られていました。
注目したのは、大極殿に上がるために作られたスロープでした。
高御蔵を中心とした3つの同心円と、後殿を中心とする1つの円・・・
この4つの円を中心に長さ、角度が決められていました。

これは、キトラ古墳の石室の天井に書かれていました。
星の運行を示す3つの円と太陽の円・・・同心円の中心には北極星・・・天の北極を表していました。
天皇を中心として秩序ある国家を作ろうとしたのです。
地上を支配する為政者・・・万物の中心・・・724年この場所で即位したのは聖武天皇でした。

当時、日本が目標としたのは、唐の都・長安でした。
唐の皇帝のような絶対的権力を・・・!!
律令を制定し、大極殿を中心に・・・唐の長安をモデルに平城京を築こうとした聖武天皇。。。

しかし、それを許さない勢力がいました。
その代表が長屋王でした。
長屋王は、皇位継承第一位だったといっても過言ではない人物で、平城京内に広大な屋敷を構え、天皇に並ぶほどの経済力を持っていました。
大きな発言力も持っていました。

一方聖武天皇は、身内にも配慮しなければならない状態にありました。
母・宮子と妻・光明皇后は、藤原氏発展の礎を築いた藤原不比等。
藤原氏のごり押しによって擁立された聖武天皇は、その意向をないがしろにすることはできませんでした。
さらに問題は役人たちにも・・・
勤務評価を見てみると・・・役人515人のうち、平城京を本貫(出身地)とする者は115人・・・1/5でした。
他の者は・・・平城京の外で独自の私有地を持って、支配していたのです。
私地・私民をもって、中央政府の言うことを聞かない存在・・・
軍隊も、彼らの私兵に頼らなければならない存在でした。
天皇によるリーダーシップがなかなか取れない状況だったのです。

追い打ちをかける様に・・・
天然痘の大流行!!
九州の大宰府で発生した天然痘は、735年から2年間日本全国で猛威を振るいます。
この災難を自らの責任と受け止める聖武天皇。。。
天然痘は貴族をも襲い・・・藤原四兄弟が死去。。。
そして・・・天地の災異が続くのは、政治が悪いからである・・・
740年9月、有力貴族・藤原広嗣が大宰府で蜂起!!
聖武天皇は即位以来最大の危機に・・・!!

10月・・・藤原広嗣と討伐軍が戦いを繰り広げている中・・・
聖武天皇は大胆な行動にでます。

”朕 思うところにより しばらく関東へと赴くやむを得ぬ事情がある”

多くの臣下とともに平城京を飛び出した聖武天皇・・・
向ったのは・・・反乱が鎮圧された後も東国を行幸、2か月後・・・平城京の10キロ北で立ち止まり、恭仁京の造営を宣言しました。
これまでこの天皇の行動は、天然痘や反乱からの逃亡とされてきましたが、近年行われた発掘によると。。。

恭仁京から天皇が滞在していた場所から、床面積250㎡の巨大な宮殿跡が見つかったのです。
調査によると、反乱がおこる前から造営されていたようで・・・
恭仁京への遷都は、以前から計画されていたようだったのです。

”平城京に居るものは、すぐに恭仁京へ出発せよ
 その他の血に居る者も、急ぎ追うようにせよ”

聖武天皇は、貴族たちを本貫から引き離し、新都への移住によって支配を強化しようとしたのです。

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新都・恭仁京・・・それまでの都とは違っていました。
京の中央を木津川が流れていました。
平城京は、近くに川が無く、物資を陸路で運搬していました。


その為、増えつつあった人口を支えきれなくなっていたのです。
流通の便を図ろうとしたのです。





さらに・・・難波京や紫香楽宮を建設・・・。
難波京は外交貿易の拠点、紫香楽には巨大な廬舎那仏を建て仏都に・・・
”三宝(仏法僧)の威力 霊力によって動植物栄えんことを望む”
仏教の力で国を治める鎮護国家で、天災や政治不安に対応しようとしたのでした。

これは唐をまねたものです。
恭仁京は洛陽を参考に作られ、紫香楽宮は龍門石窟の影響を受けました。

着々と新しい都が造営され・・・廬舎那仏も出来てきましたが・・・
複数の都の問題が、火種となりました。
何処を首都にする・・・??

744年2月・・・大仏建立の陣頭指揮のために聖武天皇は紫香楽宮へ・・・。
ここに首都を移すというと・・・意見の相違が出てきました。
先の天皇は・・・難波京を宣言、一方貴族たちは、恭仁京派と難波京派が拮抗。。。

さらに745年4月、聖武天皇に試練が・・・
紫香楽宮で、反対派による放火とみられる火事が頻発し・・・
ついに、平城京に戻ろうという声が貴族たちから起こるのでした。


平城京に戻る・・・??
この頃・・・大仏建立のために、恭仁京の建設は途中でストップしていました。
反対に加え、財政の圧迫・・・

あくまで三都維持・・・??
日本が唐と並ぶためには必要だ!!
我が権力を絶対的なものにする為に・・・!!

マグニチュード7.9の大地震が・・・美濃国から近畿一円にかけて被害が・・・!!
この地震を天の意志とし・・・平城京に戻ることを選択します。
5月5日、紫香楽宮を出発し・・・民衆は万歳の声をあげて喜びました。

三都造営の挫折・・・この挫折で学び・・・
仏都構想は平城京で行われることになりました。
大仏が作られ始めたのです。

宮城県にある金華山・・・この地で日本で初めて金が算出!!
聖武天皇は歓喜し、大仏作りは順調に進んでいきます。
752年・・・仏教伝来から200年、大仏の開眼法要が盛大に行われました。
1万人の僧侶が見守る中・・・大仏に命が吹きこまれたのです。

しかし・・・三都造営の目的はなんだったのか??
それは、都市民の増加によって食糧の調達をどうするのかということだったはず・・・。
飢饉、物価の高騰・・・聖武天皇の死から30年後・・・
784年桓武天皇によって、平城京から長岡京へと移されるのです。

長岡は大きな河川が集まる土地でした。
平城京は70年余りで政治の役割を終えたのでした。
しかし・・・その後も鎮護国家の理想は生き続けます。

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熊本市龍田町にある弓削神宮には、奈良時代の女帝・称徳天皇が祀られています。
夫婦円満・子宝・子授けの神様として祀られています。
どうして??
そこには、弓削道鏡が関係しています。

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平安時代の説話集には・・・
「道鏡と女帝は、枕を同じくして交わった」
という伝説が生まれるほど、ふたりの関係は親密でした。

そこへ宇佐八幡宮の信託が・・・
「道鏡を行為につければ天下は太平となる」
どうして皇族ではない道鏡に皇位継承の信託が下ったのでしょうか?

仕組んだのは称徳天皇?道鏡?宮廷貴族の陰謀??
宇佐八幡信託事件です。

称徳天皇は、孝謙天皇です。重祚によってもう一度天皇に返り咲いた天皇です。

奈良・東大寺の廬舎那仏像は、天平15年(743年)に大仏建立の詔を出したのは、仏教を篤く信仰した聖武天皇でした。
自らを三宝の奴と称した聖武天皇・・・
三宝とは、仏法僧のしもべとなり、仏教によって国を立て直そうとしたのです。

というのも、日本は天災に見舞われていました。
干ばつによる飢饉・疫病の発生・・・各地に使者が溢れ、凄惨を極めていました。
その為、地方の貴族が反乱を起こしていたのです。
仏教による鎮護国家を自らの理想としていた聖武天皇。。。
天平勝宝元年(749)に、大仏建立が軌道に乗ったのを見届けて、聖武天皇は安阿倍内親王に譲位しました。
これが孝謙天皇です。
どうして孝謙天皇が就いたのでしょうか??
そこには当時の皇位継承の原則がありました。
嫡子相続をしてきたのですが・・・
聖武天皇には基王という子供が居ましたが、1歳を迎えることなく亡くなってしまいました。
なので、嫡子相続からいくと、阿倍内親王にしか残されていませんでした。

しかし・・・問題がありました。
当時は、女性天皇は独身でなければならなかったのです。
つまり・・・阿部内親王が継げば・・・今まで続いてきた皇統が終わることを意味していました。

それでも聖武天皇は、家庭教師をつけ、勉強させます。
そして、女性として初めて皇太子の位置につけたのです。
藤原氏はじめ、貴族たちにも認めさせました。

聖武天皇は譲位に当たり、天皇として果たすべき勤めをふたつ言い渡しました。

①三宝を栄えさせよ
②皇位の継承

でした。

しかし、商務上皇の思いとは裏腹に、女帝に対して貴族たちの味方は冷ややかでした。
その理由は・・・
孝謙天皇は正式ではなく、中継ぎであるという思いが強かったのです。
天平勝宝8年(756)聖武上皇崩御。
それを境に、行為を巡る陰謀が・・・!!

首謀者は、光明皇后の甥・藤原仲麻呂。。。
大炊王を皇位につけようと画策します。
仲麻呂の勧めによって、天平宝字2年(758)、大炊王に譲位。。。みずからは孝謙上皇となりました。
その傀儡政権を思いのままに操る藤原仲麻呂。。。

貨幣・日本初の金貨・・・開基勝宝を鋳造させます。
それまで天皇にしかできなかった貨幣の鋳造権をも得た仲麻呂。。。
それは、聖武の政治にあったものなのか??
身体の調子を崩した孝謙上皇は、ひとりの僧侶と出会いました。
それが看病禅師として奉公していた道鏡だったのです。

当時の仏教は、科学・医学・・・さまざまな分野を網羅していました。
しかし、道鏡のそれは治療の域にとどまらず・・・
心細く病気となった孝謙にとって心の支えとなっていったのです。

道鏡という大きな後ろ盾を得て・・・45歳にして出家。
天平宝字6年(762)法華寺へ・・・。
そして・・・
”政は、通常の小さいことは淳仁天皇が行え
 国家の大事と賞罰は私が行う!
と宣言しました。

国政を奪還しようとし・・・
天平宝字8年(764)藤原仲麻呂の乱がおきます。
しかし・・・失敗に終わり、首を刎ねられる仲麻呂。
そして・・・孝謙は、称徳天皇として、再び皇位についたのでした。
道鏡を得て・・・聖武天皇の政治の達成に向かうのでした。

仏教の興隆に取り組みます。
天平神護元年(765)西大寺造営開始。
当時、西大寺は多くの伽藍が立ち並ぶ巨大寺院でした。
道明の進言によって、百万塔を100万基作り、東大寺・西大寺などの十大寺に10万基ずつ奉納しました。

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天平神護2年(766)道鏡をかつてない地位・・・法皇の地位につかせます。
法皇道鏡は、天皇と同じ輿の使用を認められ、衣服や食物も同じ。。。
道鏡の親族も取り立てられていきます。
称徳天皇は、仏教の興隆の実現させるために、道鏡に天皇と同じ力を与えたのです。

そして・・・神護景雲3年(769)年宇佐八幡宮から前代未聞の信託が称徳天皇のもとに届けられたのです。

「道鏡を皇位につければ天下は太平となるであろう。」

これによって天皇としての野心が芽生えた道鏡・・・
称徳天皇は・・・??
道鏡への譲位を、どれだけ考えていたのでしょうか???

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平城都第一次大黒殿跡では・・・儀式で使用される旗竿の跡が二列発見されています。
天皇が群臣を集めて行う朝賀の儀で使われるものです。
続日本紀によれば・・・この場所で朝賀の儀を行ったのは、称徳天皇と法皇道鏡のふたりのみ。
つまり、二列とは・・・称徳天皇と道鏡のためだったのです。
臣下である道鏡が天皇と同じ場所で同じ儀式をする・・・
臣下を並ばせて、威厳を見せつけるような儀式を行ったというのが、特に異例なことです。

称徳天皇が道鏡に対して、天皇の座を譲ろうという意思の表れ?

しかし、称徳天皇には、攘夷には踏み切れない事情がありました。

道鏡に譲位をするということは、天皇家が代々やって来た政を捨てることを意味していました。
それは、聖武天皇の意志に叶うことだろうか??
それに、貴族たちが従うとは到底思えない。。。

道鏡の、天皇のような振る舞いに、貴族たちは反感を募らせていました。
その批判の的となったのは、道鏡の仏教振興策でした。

続日本紀には。。。

「道鏡が権力を握ってから、盛んに土木工事を行い、寺院を建立したため、国家財政は窮乏した。」

皇位を道鏡に譲るべきなのか??
それは、国家統治のバランスを崩すことを意味していました。
仏教興隆をしていたら、皇祖皇霊への務めは果たせない。。。

称徳天皇の側近だった和気清麻呂。。。
道鏡を皇位につけるか否か???
思い悩んだ称徳天皇は、和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わします。
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神の意志を確かめるために・・・!!
清麻呂に授けられた信託は・・・

「わが国が始まって以来、君臣の別は定まっている。
 天皇の位には、必ず皇統を立てよ。
 無道の人は排除すべき。」

新しい信託は、その血筋を以って行為を継ぎ、道鏡を排除せよというものでした。
背後に見え隠れする道鏡への反感。。。
ここに、称徳天皇は、道鏡を皇位につける選択を止めるのでした。

しかし、信託には、称徳天皇が許せないことが書かれていました。

「無道の人、道鏡を追放せよ!!」

それは、自分の二元政治を否定されたということにもなるのです。
信託にかこつけて、非常な妄言をしたということで、和気清麻呂を穢麻呂と改名させ九州に左遷します。

そして、穢麻呂についていた反道鏡の貴族たちをどう処分するのか???

和気清麻呂追放から5日後・・・。

「清麻呂と共に、謀をなすものがいることはわかっているが、これを許す。
 心を改めて、以後は仕えよ。」

貴族たちの罪を不問とし、そして和解の証として紫の帯を下賜しました。
そこには「恕」という文字が書かれていました。
お互いを思いあって、私を信じて欲しいというものだったのです。

道鏡に対しては、変わらぬ寵愛を続けます。
大阪府八尾市・・・
称徳天皇は、道鏡の故郷に新しい都を造ることを考えていました。
西京・・・由義宮と定め・・・それは、仏教の都を意味していました。

道鏡と共に、仏教の興隆に励んできた称徳天皇には、皇位継承問題が残っていました。

宝亀元年(770)称徳天皇は病の床につきます。
100日あまり、道鏡をはじめ群臣を遠ざけて・・・後継者を決めました。
白壁王(光仁天皇)です。

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その背景には、称徳天皇の意志を伺うことができます。

光仁天皇は、聖武天皇の娘・・・妻が井上内親王で・・・そこには他戸親王が・・・直径ではないものの、聖武天皇系が受け継がれる・・・という思うだったのです。

敬愛する父の血が受け継がれることを望んだのです。

8月4日・・・称徳天皇はこの世を去りました。享年53歳。。。


天皇の死は道鏡の運命を大きく変えていきます。
その17日後・・・道鏡は法皇の位を奪われ、下野薬師寺に追放されたのでした。

下野薬師寺別院 龍興寺には・・・


飢饉から人々を救うために、”しもつかれ”という粥の作り方を教えたと伝わっています。

人々・社会の幸せを願って・・・
東国へ左遷されて1年8か月・・・
道鏡は失意のうちにこの地で亡くなりました。

その後、皇位継承問題は・・・??
称徳天皇が即位を望んだ他戸親王は、皇太子を退位させられました。
そこには、貴族たちの暗躍を伺うことができます。

新しく立った皇太子は・・・山部親王・・・後の桓武天皇でした。
ここに、聖武天皇の皇位継承はなくなってしまったのです。

桓武天皇は、延暦3年(784)長岡京に遷都・・・延暦13年(794)には平安京へと都を移します。
この時、奈良の大寺院の移転は許されませんでした。
そして、高野山・比叡山・・・新しい寺院も都から離れた場所に建てます。
それは、仏教と政治とを切り離すためでした。

称徳天皇と道鏡・・・ふたりの8年間の出会いは、歴史の大きな転換点となったのでした。

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世界一込み合う展覧会・・・それは正倉院展です。
2013年の来場者数は24万人以上、1日当たり1万5000人以上と世界一です。

毎年秋に、奈良国立博物館で開催され、9000点以上ある正倉院宝物から厳選されたものを展示しています。
1回見ると10年は見ることが出来ません。
最大の特徴は、その保存状態。。。

1000年以上も前となると出土品が多く、破損していたり色褪せていたり・・・
しかし、正倉院宝物は当時そのものの輝きを放っています。
こんなにたくさんあるのは日本だけです。
中でもぴか一は・・・「螺鈿紫檀五絃琵琶」
インドで生まれ唐で完成した楽器ですが・・・現存するのは世界でこの一点だけです。
いまだに音を奏でることが出来ます。

宝物が正倉院に集められたのは・・・
奈良時代当時、聖武天皇の頃・・・
国内外から当時の一級品が集められました。
749年聖武天皇が56歳で崩御されると、光明皇后は、夫の宝物を”触目崩摧”(しょくもくほうがい)。。。
聖武天皇が大切にしていたものが目に触れると、昔のことが思い出され、心が崩れ摧けてしまうほど辛い・・・
と、600点を東大寺に献納したのです。その倉が、正倉院でした。
それから1200年以上・・・受け継がれてきた奇跡の賜物です。

この宝物は・・・
勅封・・・天皇がサインをしている紙を鍵に巻きつけて施錠していました。
畏れ多くて手が出せなかったのです。

宝物全体は9000点ですが、聖武天皇ゆかりの品は約100点。
正倉院は3つの部屋に分かれています。
北倉に聖武天皇ゆかりのものが・・・国内外の一級品が・・・シルクロードを通ってきたものもここにあります。
中倉には、奈良時代の貴族たちが献納した品(武器や武具なども・・・)が、南倉には東大寺の宝物(仏教関連置く際性豊かな品)が納められており、バランスよく選ばれています。

正倉院の顔と言われるのが・・・”蘭奢待”です。
この蘭奢待の文字の中に、”東大寺”をみることが出来ます。
どうして正倉院の顔なのか???
蘭奢待は、東南アジアの高木のひとつで、長さ15.6cm重さ11.6㎏です。
薄く削って加熱すると・・・香りを楽しむことが出来る天下一の名香なのです。
これは権力者の象徴とされ・・・
明治天皇・足利義政・織田信長が切り取っています。
信長の想い・・・
1574年・・・天下統一を夢見ていた信長の野望は・・・東大寺。
武力でのし上がってきた信長が・・・文化のこだわりとしたのが蘭奢待だったのかも???
信長が・・・正倉院の開封を要望します。
が・・・勅封されているので、勝手に開けることなどできません。
それは・・・たとえ信長の要望であったとしても・・・!!!

しかし、無下に断ことは出来ない・・・と
”天皇の許可がなければ開けることは出来ない”と固辞します。
信長の力は及ばない・・・???

そこで信長は・・・天皇の勅使を連れて東大寺に来たのでした。
そこにあったのは・・・蘭奢待に対する並々ならぬこだわりでした。
そして、開封の儀が行われ・・・蘭奢待は正倉院の外へ・・・
義政が切り取ってからおよそ100年後のことでした。
蘭奢待に刃物を入れる・・・それは仏師が行いました。
最大限の配慮がなされ・・・天下一の香りを手に入れた信長は、天下統一へと突き進んでいきました。。。
が、本能寺の変によって、天下一の夢が朽ち果てるのでした。

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