大宰相・原敬

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東京駅丸の内駅舎・・・現在、戦災で失われたドームが復活し、大正3年創建当時が蘇えっています。
この駅舎の一角で、かつて歴史を大きく動かす事件が起きました。
大正10年11月4日、一人の政治家がここで暗殺されました。

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”平民宰相”原敬です。
第19代総理大臣原敬・・・原は、どういう業績を残したのでしょうか?
原が首相を務めたのが、大正7年~10年の3年間・・・
この時代は、大陸にどう向き合うのか??世界にどう対応していくのか??そんな時代でした。

岩手県盛岡市、安政3年に南部藩で家老を務めた武士の家に生まれ、12歳で経験した戊辰戦争は、原の人生に大きく影響しました。
幕府側について敗れた南部藩・・・朝敵の烙印を押され、多額の賠償金を支払います。
原家の収入も10分の1となり、原が東京での学費は土地や家屋を手放してまで捻出しました。

賊軍出身というハンデを背負った原・・・世に出るためには2人の人物との出会いが重要でした。

一人はフランス帰りの啓蒙思想家・中江兆民です。
23歳の頃、兆民のもとで半年に渡ってフランス語と啓蒙思想について学びました。
そこで原は人生のカギとなる概念「公の利益」を学びます。
村単位、藩単位の利益ではなく、日本全体の利益です。
卓越した語学力と事務処理能力で、明治18年にはフランス・パリの公使館勤務となりました。
貪欲に知識を吸収し・・・力を入れたのが国際法でした。

そしてもう一人・・・
明治23年・・・後に外務大臣となる陸奥宗光の秘書官となりました。
原は日本の悲願である不平等条約の改正をはじめ、外交の最前線で経験を積んでいきます。
そして・・・明治28年陸奥宰相のもと、外務次官となりました。
ところが・・・陸奥が病死し・・・原は外務省を辞め政治の世界へ。。。

明治33年伊藤博文が結成した立憲政友会に参加。
内務大臣に任命され・・・しかし52歳で・・・誰もが驚く世界一周旅行に出発するのでした。
太平洋を横断しアメリカ・・・大西洋を渡ってヨーロッパ・・・ロシア・・・原は世界が変わる予兆を感じていました。

20世紀初頭のアメリカ・・・
”将来この国が世界に対し、いかなるものとなるか常に注目しておく必要がある”
工場や製鉄所、大学などを片っ端から見学し、将来のアメリカの躍進を確信したのです。

大正3年第1次世界大戦勃発!!
イギリス・フランスなどの連合国と、ドイツ・オーストリアなどの同盟国が欧州全土で戦火を交えました。
世界秩序をリードしていたヨーロッパの衰退がここから始まりました。

大正7年・・・5年にわたって続いていた第1次世界大戦終結。。。
戦闘員、民間人含めて1000万人の死者を出したと言われる未曽有の戦乱は、世界の潮流を変えていきます。戦後処理のために行われたパリ講和会議では・・・主役を務めたのは、第28代アメリカ大統領だったウィルソンでした。
武力を背景にした帝国主義から国際協調の道へ・・・!!
日本も新しい国際秩序に対する対応が求められていました。
大正7年第19代内閣総理大臣に就任、初の政党内閣の誕生でした。
原は、国際協調を外交の軸に据えました。
しかし・・・そこには乗り越えねばならない壁がありました。
シベリア出兵問題です。
発端は・・・大戦終結1年前の大正6年。。。
ロシアで革命が勃発し、世界初の社会主義政権が誕生しました。
革命がヨーロッパ全土に波及することを恐れたイギリス・アメリカは、治安維持を名目に軍隊の派遣を実行します。
日本も要請に伴って派兵します。
当初はウラジオストクに限る各国共同での限定の派兵でした。
アメリカ9000・フランス1200・イギリス800・カナダ5000・イタリア1400・日本14000・・・
しかし、日本国内には、戦線を拡大しようとする勢力・・・陸軍参謀本部が・・・。

その頃、西シベリアのオムスクを拠点に反革命政府が樹立・・・
軍の目的は、これを後押しし、合わせてシベリアの資源を手に入れようとのことでした。
裏にいたのは元老・山県有朋。。。
当初山県は、出兵には慎重でしたが・・・しかし、出兵が始まると、軍の拡大計画を黙認。
政府もその意向にそって次々と派兵。。。
大正7年の原内閣発足当時で日本軍は7万人以上となっていました。
バイカル湖に至るシベリア東部地域一帯を支配するようになっていました。
列強がこの派兵に不審を抱く中、原はこの問題に着手します。
半年で全兵力の半分を削減します。

ところが・・・大正8年8月・・・
日本の支援する反革命勢力が大敗北を喫します。
レーニン率いる革命軍の怒濤の進撃にどう対処すればいい??
外交調査会では2つの意見が対立します。

陸軍大臣田中義一は・・・増兵を要望し、派兵の継続
兵力削減を推し進めてきたのに・・・??
増兵に転じては、アメリカとの協調はもう無理だ。。。

野党・犬養毅は・・・全面撤兵に踏み切る!!
軍事費が歳出の50%を占めているのにこれ以上は無理だ!!
財政が破たんする!!
シベリアで利用できる資源が少なかったのも一因です。

派兵か撤兵か??
いつ、どのようにするのか??

”余はとにかく今日までは日米の提携を主として来たり”

何よりも国際協調を重視した原は・・・大正8年12月撤兵方針を固め、アメリカの意向を打診します。
しかし、大正9年1月に・・・現地アメリカ軍は日本政府に無断で撤兵を通告してきました。
一方的な撤兵通告に原はこれを利用しようとします。

”この機会をとらえて綺麗に撤兵し、浦塩と中国に保持している鉄道守備にとどめる”

政治主導の撤兵を始めます。

大正9年9月13日・・・山県の別邸古希庵にて・・・
内容は陸相田中義一の処遇からでした。
田中が辞任するならば総辞職すると申し出た原。
引き留めにかかる山県に・・・

「軍事に空いても政府が政治上全責任を負う方針に改めるべきです。
 参謀本部が天皇に直隷するといって、政府の外にでもあるように統率権を振り回そうとするのは思慮の足りないものです。
 このままでは皇室に悪影響を及ぼしかねません。」

明治憲法下、軍は天皇の直属でした。
軍を内閣でコントロールしようとした原。。。
山県に同意を求めたのです。
アメリカとの協調を重視して撤兵に向けて舵を取る原。
選挙で選ばれた人の政権が初めて兵を移動させた瞬間でした。

大正10年9月3日・・・6か月の外遊を経て帰国した皇太子(昭和天皇)・・・これからの君主は、広く世界を知らなければならない・・・原が周囲の反対を押し切ってさせた外遊でした。

ヨーロッパ各地を歴訪した昭和天皇は・・・
「世界平和の切要なるを感じた」と言ったといいます。
若き皇太子の心にも、原の想いは届いたのです。
内政改革も断行します。
鉄道を拡大し、国内産業の再編、国民経済は飛躍的に発展します。

暗殺当日・・・原は中国の新聞記者のインタビューを受けます。
そこで、中国と新たな関係を築きたいとしていました。

”われわれが中国から得ようとしているのは、実に商業的性質のものです。
 中国は各国が均等な立場で競争できる地域であり、日本には中国との通商を独占しようとする意図は全くありません。”

それは・・・中国を市場とし、戦後の日本に繋がる平和的貿易国家の道でしたが・・・
原の構想は幻に終わります。

その日・・・大正10年10月4日午後7時20分東京駅・・・
遊説のために改札に向おうとした原首相を・・・短刀を手にした一人の男が・・・!!
心臓までを貫いた短刀・・・原敬死去・・・享年65歳でした。
悲報はすぐさま世界に打電され・・・各国はその死を悼む記事で埋め尽くされました。

”原の外交政策は常に融和的だった”
”彼を失ったことは日本国民にとって大きな痛手である”

原の死後・・・その遺志を受け継ぎ国際協調をとっていきます。
しかし・・・その10年後・・・
昭和6年満州事変勃発!!
政府は軍の暴走になすすべもなく・・・日本は孤立化の道を歩むのです。
強力な政治力で軍を抑え、産業立国を目指した原。
もし、生きていれば・・・日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。


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