高田屋嘉兵衛―只天下のためを存おり候 (ミネルヴァ日本評伝選) 新品価格 |
函館の町を見下ろすように立つ銅像が・・・函館発展の礎を築いた高田屋嘉兵衛です。
今からおよそ200年前、蝦夷地と言われた北海道に進出し、函館を拠点に莫大な財産を築きました。
豪商となる嘉兵衛が活躍したのは、流通の革命が起きた江戸時代の終わりごろ・・・遠くの・・・北海道の産物が大都会へ流れ込む・・・そんな時代でした。
それを担ったのが、大阪の商人たちで、勇んで蝦夷地へ出かけ、産物を買ってきます。
しかしそれは。。。ロシアとの未知との遭遇でした。
1769年、瀬戸内海に浮かぶ淡路島に生まれました。
幼いころから親戚の漁師に預けられ、船を・・・風の流れ、潮の満ち引きさえも、習って育った嘉兵衛です。
好奇心が強く、自然を学んで育ちました。
新酒番船・・・上方の新酒を誰が一番先に江戸に運べるのか・・・??
先を急いで難破する船も出る中で、嘉兵衛は優勝を重ねます。
名うての船乗りとなっていく嘉兵衛・・・。
神戸港・・・兵庫津は、大阪への寄港地として大いに賑わいました。
嘉兵衛はここを舞台に挑戦を始めます。
北前船を持ち、商売に打って出たのです。
北前船は、商人たちにとって莫大な財をもたらします。
その航路は、大阪・神戸から、日本海を回り蝦夷地へ・・・その各地で、商売をしていくというものです。
主な商品は蝦夷地の海産物・・・中でもニシンが莫大な利益をもたらします。
ニシンは、食用だけでなく、農作物の肥料としても売れたのです。
菜の花・・・江戸時代、菜の花からとれる菜種油は、灯りとして必需品でした。
菜の花の肥料としてニシンは必要とされたのです。
巨万の富・・・北前船が1往復でおよそ1000両・・・数千万円の儲けとなりました。
嘉兵衛が北前船の交易に目を付けたのは・・・
自分で荷物を運んで、積む港も選んで、売る港も選べる・・・才覚によって大きな利益を生むことが出来ました。
しかし、選びようによっては・・・ハイリスク・ハイリターンだったのです。
嘉兵衛は日本海の荒波を越えて果敢に蝦夷地へ・・・!!
北海道の玄関口は函館・・・
しかし、嘉兵衛が訪れた当時はさびれた港でした。
嘉兵衛は、ココを蝦夷地の拠点とします。
最盛期の高田屋の繁栄は・・・
北海道の屋敷の敷地は、東京ドーム4個分・・・その敷地内に220m四方の屋敷を建てたと言われています。
桁違いの成功を修めた嘉兵衛・・・北前船で今の札幌の繁栄の基礎を築きました。
その成功の秘密は・・・??
そのカギは、蝦夷地の東・択捉島でした。
択捉島近海は、豊かなラッコの生息地でした。
毛皮が高価なラッコ・・・ロシアが択捉島に迫っていました。
そのロシアの進出を危惧した幕府は、蝦夷地東部へ進出し、択捉島開拓を急ぎます。
そこで幕府は北前船商人の嘉兵衛に、航路開発を命じたのです。
幕府の望みは、択捉島を日本の領地の証として番屋を設けて役人が駐屯するという形をとりたかったのです。
嘉兵衛としては、漁獲物を自分の船で運んで商えば大きな利益となる・・・両者の利害が一致した瞬間でした。
国後島から択捉島までは20kmばかりでしたが、危険な海域でした。
波が荒く、霧が立ち込め・・・数多の命が失われてきたのです。
嘉兵衛は・・・国後島に登り、潮の流れを観察します。
その結果、海峡は3つの潮流が流れ込んで複雑になっていました。
そこで嘉兵衛は、あえて迂回し、択捉島西岸・丹根萌に渡ったのです。
こうして安全な航路を開いた嘉兵衛は、幕府から択捉島開拓を命じられます。
幕府を後ろ盾にした嘉兵衛の進出が始まりました。
先住民アイヌ・・・島の情報を持たない嘉兵衛にとってはアイヌの情報は欠かせません。
しかし、当時択捉島にはロシアの手が・・・!!
択捉島周辺の島々では、アイヌの人々がロシア正教に改宗している・・・??
そんなことが起きてきていました。
択捉島にもロシアの十字架が建てられていました。
嘉兵衛はそんな人々と巧みに関わり合いを持ちます。
親身に世話をして、信頼を得ていきます。
しかし、そこにはしたたかな狙いがありました。
ロシアのように靡かないようにするために・・・
幕府をありがたく思い、威光を示すために・・・
アイヌの人々を日本人化することがプラスになると考えていたようです。
こうして嘉兵衛は、アイヌの人々と協力し、漁場を建設していきます。
それは、ロシアの進出を防ぐだけではなく、幕府の利益ともなりました。
幕府から厚い信頼を得ていきます。
1812年8月・・・嘉兵衛は危機に遭遇します。
ロシア軍艦に拿捕されたのです。
相手はロシアの海軍大尉・リコルド・・・拿捕の背景には、日露間の確執がありました。
その発端は8年前・・・1804年のロシア大使レザノフの来日にさかのぼります。
レザノフの目的は、通商関係の樹立でしたが・・・幕府は使節を半年間待たせた挙句に鎖国を理由にこれを拒否!!
この対応に激怒したレザノフは、部下に命じて北の地を襲わせる・・・1806年の露寇事件です。
権威を傷つけられた幕府は、1807年ロシア船打払令発令!!
そして発令から4年後・・・蝦夷地の近海で1811年ゴローニン捕縛!!
ゴローニンの部下だったリコルドは、その救出を模索していたのです。
日本側の情報を集めるために、嘉兵衛を拿捕したのでした。
カムチャッカ半島にあるペトロパブロフスク・・・ここで嘉兵衛を待ち受けていたのは敵意に満ちた住人たちでした。
さらに冬はマイナス20度・・・。
どうすれば帰国できる・・・??
嘉兵衛は行動に起こします。
世話係の少年からロシア語を教わります。
そして、その少年を通じて、ロシア国内の情勢を知ろうとします。
狙いはリコルドとの会談・・・!!
しかし、嘉兵衛が目の当たりにしたのは緊迫した情勢でした。
軍事訓練をするロシア軍・・・!!
それは、日本に対する備えでした。
亀裂が深まる前に帰国の途につかなくては・・・!!
ゴローニンとの捕虜交換??
幕府に対する釈明要求??
日露間の通商提案??
どうする・・・??
一世一代の交渉が始まりました。
1812年12月8日深夜・・・拿捕から4か月・・・嘉兵衛は直談判を申し入れます。
自分たちをどうするつもりなのか・・・?と。
6年前、レザノフが行った行為を激しく非難します。
幕府は、ロシアの乱暴狼藉に大変憤慨している・・・海賊同様の行いは、ロシア皇帝の命令ではないのか・・・??と。
予期せぬ追及に・・・ゴローニンたちを返してほしいというリコルドの望み・・・。
嘉兵衛はロシア将校のしたことがいけなかったと説明します。
「幕府に謝罪文を提出するならば、万事うまくいくだろう。。。」と、幕府に対する釈明を要求します。
リコルドは、襲撃は一介の将校のしたことだから、ロシアの恥にはならない!!と、これえを了承するのでした。
拿捕から9か月・・・1813年5月、嘉兵衛はリコルドとともに日本に出発しました。
リコルドは、ロシアからの書簡を幕府に提出します。
そこには・・・「略奪という厚顔無恥な行為は、ロシア政府の関知したものではない。」とありました。
これを釈明書として受け取り、面目は保たれたのです。
解放された嘉兵衛・・・。
嘉兵衛との交渉に当たったリコルドは・・・
「日本人は我が同胞を解放したのみならず、二つの国が将来の交流を深める基礎を築いた」と、称えています。
武力行使によって生じた北の海の緊張を交渉で回復し、日本に帰ってきた嘉兵衛・・・そのまなざしは、今も北のフロンティアに注がれています。
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