今からおよそ1300年前の奈良時代半ば・・・
荒れ狂う東シナ海を渡り、中国大陸から日本を目指した人物がいました。
唐の高僧・鑑真です。
日本から正しい仏教を指導してほしいと要請された鑑真は、来日を決意!!
しかし、それは苦難の連続でした。
幾多の困難を越え、11年もの歳月をかけて来日を果たした鑑真・・・長く、心を打つ物語として語り伝えられてきました。
この鑑真来日を巡って、新たな学説が発表されました。
日本側に極めて政治的な事情があったというのです。
時の天皇・聖武天皇は、それまでと違う皇位継承の形を望んでいました。
そこで習おうとしたのが、中国の女帝・則天武后です。
則天武后は、それまでの王朝・唐を乗っ取り、新たな王朝を立てました。
聖武天皇と則天武后・・・両者を結ぶカギとなったのが、鑑真だったのです。
鑑真来日の真相とは・・・??
中国中部、長江を下流に近接する町・揚州・・・
唐の時代、揚州は大運河の港町としてアジア各国の船が行き来する国際都市でした。
688年、鑑真はこの地で生まれます。
父は、熱心な仏教徒であり、その薫陶を受けた鑑真は、701年14歳で出家しました。
漢の時代にインドから伝来した仏教は、歴代皇帝による尊敬と保護により、唐の時代に黄金期を迎えていました。
時の皇帝で、唐王朝を乗っ取り中国史上初の女帝となった則天武后は、このような言葉を残しています。
「私の統治権は、仏により与えられたものである
衆生を救済し、天下を教化する」by則天武后
仏教は、宗教の枠を超え、中国の国家体制や政治を支える者でもありました。
707年、鑑真は、都・長安にのぼります。
そこは、巨大な寺院が軒を連ね、多くの高僧が仏教の研究に没頭する巨大宗教都市でもありました。
ここで鑑真は、仏教学の要である教・律・論を学びます。
経・・・釈迦の言葉を集めた経典
律・・・僧侶が守るべき道徳や生活習慣
論・・・釈迦の言葉を解説・解釈した書物
7年間にわたって教・律・論を深く学んだ鑑真は、故郷に戻って後進の育成に努めます。
多くの寺院を開き、育てた弟子は4万人にのぼったと言われます。
唐での鑑真の存在は・・・??
学問だけでなく、実践が素晴らしい・・・福祉事業などに熱心で、社会に出て人々を導く人でした。
742年10月、揚州・大明寺・・・55歳になった鑑真は、僧侶たちを指導していました。
そこに、2人の日本人僧侶が訪ねてきました。
普照と栄叡です。
二人は遣唐使の船で派遣されてきた学問僧でした。
彼等は鑑真にこう述べます。
「日本には、唐と同じ”正式な仏教”を指導する人がいません
どうか日本に来て、正しい仏教を指導してください」
2人は、朝廷から”唐より高僧を招く”という任務を与えられていました。
しばしの沈黙ののち、鑑真はこう答えます。
「今ここにいる者たちの中に、この遠くからの要請に応じて日本に正しい仏教を伝えようとする者はいないか」by鑑真
しかし、ひとりとして手を挙げる者はいませんでした。
日本への航路となる東シナ海は、当時地獄の門と呼ばれ、嵐や高波で船が遭難し、命を落とすことも少なくなかったからです。
すると、鑑真はこう宣言します。
「これは、仏教のための事だ
どうして命を惜しもうか
皆がいかないなら、私が日本へ行こう」by鑑真
鑑真の言葉を聞いた弟子たちは、日本への同行を申し出たといいます。
かくして鑑真は、栄叡、普照と共に日本に向かうこととなるのです。
鑑真の決断の背景には、唐の宗教事情の変化がありました。
中国の歴史では、儒教と道教、仏教が、その時々の政権によってウェイトのかけ方が変わります。
玄宗皇帝は、道教を尊重しました。
時代の変化を見て、日本という国に行けば、仏教をもっと広められると考えたのです。
時に鑑真、55歳・・・長い苦難の始まりでした。
栄叡と普照が唐に渡ったのは・・・鑑真と出会う9年前
733年入唐・・・洛陽に入ります。
当時洛陽は、都・長安と並ぶ、政治、経済、文化の中心地として繁栄を極めていました。
ここでの二人の行動を見ると、一つの謎が浮かび上がってきます。
2人は洛陽で知り合った高僧たちに頼み込み、日本行きを承諾してもらっているのです。
実際に、高僧たちは、帰りの遣唐使船に乗り日本にわたっています。
彼等は後に、752年、東大時代物開眼供養会で導師を務めたほどの高僧でした。
にもかかわらず、栄叡と普照は、その後も高僧を探し続けて9年の歳月をかけて鑑真にたどり着きます。
どうして鑑真なのか??
従来の説は・・・
仏教伝来からおよそ200年が経った8世紀半ばの日本・・・
仏の教えが国を守るという考えの元、朝廷は巨大な寺院を次々と建立・・・
その費用は、民衆への重税が支えていました。
通常の租・庸・調以外にも、寺院建設の労役が課せられたのです。
大地震や干ばつが重なり、人々の生活は困窮を極めました。
続日本紀は、この頃の様子をこう伝えます。
”国中の民衆が流浪し、僧侶になろうとしている”
僧侶には納税義務がなく、人々は、僧侶になることで税から逃れようとしたのです。
当時の仏教界では、僧侶になるために正式な手続きがなく、「私度僧」と呼ばれる勝手に僧侶を名乗るものが続出!!
にわか僧侶の増加で、税収が減り、律令国家の根幹が揺るぎます。
さらに、平城京の郊外で、私度僧たちが1万人もの民衆を集めて怪しげな集会を開くという騒動まで勃発します。
社会不安を引き起こしていました。
困った朝廷は、僧侶になるための正式な手続きに「授戒」の導入を図ります。
授戒とは、出家の際に、高僧たちの前で僧侶の道徳・戒律を守る誓いを立てることを言います。
戒とは・・・
・人を殺してはいけない
・盗みをしてはいけない
・淫らな行為をしてはいけない
などの絶対禁止の戒め・・・
そして律は、衣は3つまでしか持ってはいけないといった贅沢を禁じるものから、食事の際に声を出してはいけないという生活態度まで僧侶が守るべき生活の規則は250項目に及びました。
当時の日本には、正式な戒律を知る僧侶がおらず、そこで朝廷は唐から戒律を身に着けた高僧を招こうとしたのです。
そして、栄叡と普照が日本で戒律を教えるにふさわしいと判断したのが鑑真であり、鑑真に出会うまでに9年の歳月を要したというのです。
中国から鑑真という高僧を招こうとしたのは、時の天皇・聖武天皇の権威を教化することが目的でした。
聖武天皇が抱えていた問題は・・・血筋です。
聖武天皇の母・宮子は藤原氏の出身・・・聖武天皇は、藤原氏の血筋を引く天皇でした。
そして妻の光明皇后も藤原氏の出身でした。
聖武天皇は、光明皇后との間に生まれた子供を後継者に願います。
しかし、そこには壁がありました。
それまでの天皇は、両親ともに皇族が一般的でした。
聖武天皇は、歴史上はじめて藤原市出身の女性が聖母でした。
聖武天皇が自分の子供に天皇の位を継承させようとするならば、自分の権威をそれまでの天皇と同格にしたかったのです。
そこで、聖武天皇が自らの子供の権威を高めるために考えたのが、大国・唐のやり方に習うことでした。
聖武天皇が注目したのは、則天武后でした。
則天武后が選択したのが仏教です。
その中でも菩薩戒・・・菩薩というのは、大乗仏教にあって衆生救済に励む人・・・皇帝こそ、その衆生救済を主導する指導者なのだとしたのです。
それを知った聖武天皇は、菩薩戒に大きな興味を持ちました。
菩薩戒とは、様々な戒律の一つで、これを受けたものは菩薩となり、悪を抑え、善を修め人々のために尽くす存在となるという・・・
菩薩戒を受けた則天武后は、菩薩であるがゆえに皇帝に相応しいとされたのです。
聖武天皇は、則天武后と同じ菩薩戒を受けることを願いました。
しかし、則天武后に菩薩戒を授けた高僧は、既に亡くなっていたのです。
そこで、栄叡と普照は、菩薩戒を授けられる高僧を探したのです。
そして、2人が9年の歳月をかけて巡り合ったのが鑑真こそ、則天武后に菩薩戒を授けた高僧の直弟子だったのです。
しかし、当時、唐では許可のない海外渡航は禁止・・・
鑑真が選んだのは、密航でした。
鑑真の足跡を記した「東征伝」・・・そこに、日本への渡航の様子が書かれています。
743年最初の挑戦・・・鑑真56歳
栄叡と普照は、地元の有力者に援助を受けて船を作るも、密告により計画が当局にバレ、出航できずに失敗・・・
同じ年、鑑真自ら費用を工面し、船を調達・・・秘密裏に渡航の準備を始めます。
そしてその年の12月出航・・・しかし、船は嵐により座礁、大破してしまいます。
海に投げ出された一行は、岸に打ち上げられなんとか一命をとりとめました。
こうして2度目の挑戦も失敗に終わります。
三度目(57歳)、4度目(57歳)も鑑真の渡航に反対する弟子の密告により当局に阻止され失敗します。
しかし、鑑真は日本への渡航を諦めませんでした。
4年後の748年、61歳の時に5度目の挑戦をします。
しかし、無事出航したのもつかの間、またも嵐に会い漂流・・・荒れ狂う大波で、みな、激しく船酔いし、苦しみ、横たわるしかありませんでした。
船には水もなく、塩水を飲むと腹が膨れました。
一生でこれより苦しいことはない・・・。
そして、出航した揚州からはるか南の海南島に漂着します。
海南島は、当時ジャングルに覆われ、この世の果てと恐れられていました。
この地で鑑真一行は、1年近くを過ごします。
鑑真たちが滞在した大雲寺・・・現在の建物は、2002年に再建されたものです。
鑑真は、日本へ運ぶ予定だった仏像や経典を大雲寺に寄付し、村人に学問を教えました。
鑑真の行いは、今も村に伝わっており、村人たちは毎日のお参りを欠かさないといいます。
その後、鑑真一行は、出発地の揚州に向かって陸路で引き返します。
その途中で、不幸が襲います。
鑑真の渡航計画のパートナーであった栄叡が病に倒れたのです。
唐に来て16年・・・栄叡は志を果たせぬまま、遠い異国の地で亡くなります。(749年)
さらに、普照も鑑真のもとを去ります。
外国人である自分が、行動を共にすると鑑真に迷惑をかける恐れがあるという理由でした。
そして、鑑真自身の身にも異変が起きます。
疲れがたまっているにもかかわらず、炎天下で旅を続けたため、視力が弱り、遂に光を失ってしまいました。
鑑真を日本に招こうとして栄叡は亡くなり、普照は去りました。
その上、鑑真自身が失明する・・・もはや、日本行きは完全に無くなったと思われました。
3年後の753年・・・揚州に帰っていた鑑真は、意外な人物の訪問を受けます。
日本からの遣唐使です。
遣唐使は鑑真にこう告げます。
「鑑真さま
今も日本へ渡るお気持ちがあるのでしたら、どうか私どもの船で日本にお越しください」
鑑真はこの時66歳・・・日本行きを決意してから11年の歳月が流れていました。
これが最後の日本行きの機会となる・・・
渡航を断念し中国にとどまるのか・・・あくまで日本に渡航するのか・・・??
753年10月・・・蘇州の港に鑑真とその弟子たちの姿がありました。
鑑真は、日本への渡航を選択したのです。
しかし、いざ乗船となるその時、
「お乗せするわけには参りませぬ」
遣唐使の総責任者である大使が、鑑真たちの乗船を拒否します。
大使は、出航間際になって鑑真の密航が発見されると唐との外交問題発展すると懸念・・・
やはり・・・今度も日本に行けぬか・・・
鑑真たちが諦めかけたその時、大使に次ぐ責任者の副使が声をかけます。
「私の船に乗ってください」
副使は、自分の船である遣唐使第二船に、密かに鑑真たちを招き入れました。
表面的には、福祉が勝手にやったことになっていますが、打ち合わせがあったかもしれない・・・
何としても連れていきたい・・・!!
かくして鑑真と弟子たちは、およそ1か月の公開を経て、ようやく日本にたどり着くのです。
753年薩摩国屋浦に到着
鑑真66歳・・・6度目の挑戦での成功でした。
754年2月、平城京・・・鑑真一行は到着し、盛大な歓迎を受けます。
そして、聖武天皇から詔を受けます。
「鑑真和上は、遠く大海を渡り、この国へ入られた
喜ばしさ喩えようがない
これより戒を授け、律を伝えることは和上に一任する」
鑑真は、日本で初めての正式な戒律師に就任したのです。
4月、鑑真による授戒が行われます。
聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇(阿部内親王)が鑑真より菩薩戒を授かりました。
他の皇族たちが戒律を授かることはありませんでした。
その後、鑑真は東大寺に戒壇院を設立・・・
ここは、戒律を守ることを誓う儀式・・・「授戒」を行うための特別な空間です。
戒律を授けるのは、鑑真を筆頭とした10人の高僧です。
出家する者たちは、その前に進み出て、戒律を守ることを誓います。
「汝、不殺生を今より未来永劫よく保や、否や」
「よく保つ」
「汝、不淫を今より未来永劫よく保や、否や」
「よく保つ」
このような儀式を経て、初めて出家を許され、僧侶として歩み始めるのです。
これ以降、戒壇院で授戒を受けた者のみ僧侶になることを許されました。
鑑真がもたらした授戒制度により、横行していた税金逃れの出家に歯止めがかかることとなりました。
758年、71歳となった鑑真は、大和上・・・偉大な戒律の師という名誉称号を与えられ、東大寺の授戒の仕事から離れます。
事実上の引退でした。
翌年、鑑真は唐招提寺を開きます。
一番最初に建てられたのが、講堂・・・平城宮の東朝集殿を移築しました。
極めて簡素な造りです。
鑑真は、この講堂を何のために作ったのでしょうか??
鑑真和上と高弟が問答を行い、弟子たちが後ろで聞いて勉強する・・・
多い時には、200人以上がここで鑑真に学んだといいます。
さらに、この講堂は、広く一般にも門戸を開いていました。
鑑真和上は、僧侶にだけ仏教を教えたのではなく、一般の人にも仏の教えを説きました。
鑑真は、広く大衆にお釈迦様の教えを伝えたい・・・それが、日本に来た理由でした。
763年5月6日、鑑真は、西・・・極楽浄土をむきながらこの世を去りました。
享年76歳・・・
鑑真が、弟子たちにかけた言葉が残されています。
「愁うることを須いざれ
宜しく方便を求めて 必ず本願 逐ぐべし」
心配しなくてもよい、しかるべき手立てを求めるならば、必ずや願いは遂げられるであろう
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荒れ狂う東シナ海を渡り、中国大陸から日本を目指した人物がいました。
唐の高僧・鑑真です。
日本から正しい仏教を指導してほしいと要請された鑑真は、来日を決意!!
しかし、それは苦難の連続でした。
幾多の困難を越え、11年もの歳月をかけて来日を果たした鑑真・・・長く、心を打つ物語として語り伝えられてきました。
この鑑真来日を巡って、新たな学説が発表されました。
日本側に極めて政治的な事情があったというのです。
時の天皇・聖武天皇は、それまでと違う皇位継承の形を望んでいました。
そこで習おうとしたのが、中国の女帝・則天武后です。
則天武后は、それまでの王朝・唐を乗っ取り、新たな王朝を立てました。
聖武天皇と則天武后・・・両者を結ぶカギとなったのが、鑑真だったのです。
鑑真来日の真相とは・・・??
中国中部、長江を下流に近接する町・揚州・・・
唐の時代、揚州は大運河の港町としてアジア各国の船が行き来する国際都市でした。
688年、鑑真はこの地で生まれます。
父は、熱心な仏教徒であり、その薫陶を受けた鑑真は、701年14歳で出家しました。
漢の時代にインドから伝来した仏教は、歴代皇帝による尊敬と保護により、唐の時代に黄金期を迎えていました。
時の皇帝で、唐王朝を乗っ取り中国史上初の女帝となった則天武后は、このような言葉を残しています。
「私の統治権は、仏により与えられたものである
衆生を救済し、天下を教化する」by則天武后
仏教は、宗教の枠を超え、中国の国家体制や政治を支える者でもありました。
707年、鑑真は、都・長安にのぼります。
そこは、巨大な寺院が軒を連ね、多くの高僧が仏教の研究に没頭する巨大宗教都市でもありました。
ここで鑑真は、仏教学の要である教・律・論を学びます。
経・・・釈迦の言葉を集めた経典
律・・・僧侶が守るべき道徳や生活習慣
論・・・釈迦の言葉を解説・解釈した書物
7年間にわたって教・律・論を深く学んだ鑑真は、故郷に戻って後進の育成に努めます。
多くの寺院を開き、育てた弟子は4万人にのぼったと言われます。
唐での鑑真の存在は・・・??
学問だけでなく、実践が素晴らしい・・・福祉事業などに熱心で、社会に出て人々を導く人でした。
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742年10月、揚州・大明寺・・・55歳になった鑑真は、僧侶たちを指導していました。
そこに、2人の日本人僧侶が訪ねてきました。
普照と栄叡です。
二人は遣唐使の船で派遣されてきた学問僧でした。
彼等は鑑真にこう述べます。
「日本には、唐と同じ”正式な仏教”を指導する人がいません
どうか日本に来て、正しい仏教を指導してください」
2人は、朝廷から”唐より高僧を招く”という任務を与えられていました。
しばしの沈黙ののち、鑑真はこう答えます。
「今ここにいる者たちの中に、この遠くからの要請に応じて日本に正しい仏教を伝えようとする者はいないか」by鑑真
しかし、ひとりとして手を挙げる者はいませんでした。
日本への航路となる東シナ海は、当時地獄の門と呼ばれ、嵐や高波で船が遭難し、命を落とすことも少なくなかったからです。
すると、鑑真はこう宣言します。
「これは、仏教のための事だ
どうして命を惜しもうか
皆がいかないなら、私が日本へ行こう」by鑑真
鑑真の言葉を聞いた弟子たちは、日本への同行を申し出たといいます。
かくして鑑真は、栄叡、普照と共に日本に向かうこととなるのです。
鑑真の決断の背景には、唐の宗教事情の変化がありました。
中国の歴史では、儒教と道教、仏教が、その時々の政権によってウェイトのかけ方が変わります。
玄宗皇帝は、道教を尊重しました。
時代の変化を見て、日本という国に行けば、仏教をもっと広められると考えたのです。
時に鑑真、55歳・・・長い苦難の始まりでした。
栄叡と普照が唐に渡ったのは・・・鑑真と出会う9年前
733年入唐・・・洛陽に入ります。
当時洛陽は、都・長安と並ぶ、政治、経済、文化の中心地として繁栄を極めていました。
ここでの二人の行動を見ると、一つの謎が浮かび上がってきます。
2人は洛陽で知り合った高僧たちに頼み込み、日本行きを承諾してもらっているのです。
実際に、高僧たちは、帰りの遣唐使船に乗り日本にわたっています。
彼等は後に、752年、東大時代物開眼供養会で導師を務めたほどの高僧でした。
にもかかわらず、栄叡と普照は、その後も高僧を探し続けて9年の歳月をかけて鑑真にたどり着きます。
どうして鑑真なのか??
従来の説は・・・
仏教伝来からおよそ200年が経った8世紀半ばの日本・・・
仏の教えが国を守るという考えの元、朝廷は巨大な寺院を次々と建立・・・
その費用は、民衆への重税が支えていました。
通常の租・庸・調以外にも、寺院建設の労役が課せられたのです。
大地震や干ばつが重なり、人々の生活は困窮を極めました。
続日本紀は、この頃の様子をこう伝えます。
”国中の民衆が流浪し、僧侶になろうとしている”
僧侶には納税義務がなく、人々は、僧侶になることで税から逃れようとしたのです。
当時の仏教界では、僧侶になるために正式な手続きがなく、「私度僧」と呼ばれる勝手に僧侶を名乗るものが続出!!
にわか僧侶の増加で、税収が減り、律令国家の根幹が揺るぎます。
さらに、平城京の郊外で、私度僧たちが1万人もの民衆を集めて怪しげな集会を開くという騒動まで勃発します。
社会不安を引き起こしていました。
困った朝廷は、僧侶になるための正式な手続きに「授戒」の導入を図ります。
授戒とは、出家の際に、高僧たちの前で僧侶の道徳・戒律を守る誓いを立てることを言います。
戒とは・・・
・人を殺してはいけない
・盗みをしてはいけない
・淫らな行為をしてはいけない
などの絶対禁止の戒め・・・
そして律は、衣は3つまでしか持ってはいけないといった贅沢を禁じるものから、食事の際に声を出してはいけないという生活態度まで僧侶が守るべき生活の規則は250項目に及びました。
当時の日本には、正式な戒律を知る僧侶がおらず、そこで朝廷は唐から戒律を身に着けた高僧を招こうとしたのです。
そして、栄叡と普照が日本で戒律を教えるにふさわしいと判断したのが鑑真であり、鑑真に出会うまでに9年の歳月を要したというのです。
中国から鑑真という高僧を招こうとしたのは、時の天皇・聖武天皇の権威を教化することが目的でした。
聖武天皇が抱えていた問題は・・・血筋です。
聖武天皇の母・宮子は藤原氏の出身・・・聖武天皇は、藤原氏の血筋を引く天皇でした。
そして妻の光明皇后も藤原氏の出身でした。
聖武天皇は、光明皇后との間に生まれた子供を後継者に願います。
しかし、そこには壁がありました。
それまでの天皇は、両親ともに皇族が一般的でした。
聖武天皇は、歴史上はじめて藤原市出身の女性が聖母でした。
聖武天皇が自分の子供に天皇の位を継承させようとするならば、自分の権威をそれまでの天皇と同格にしたかったのです。
そこで、聖武天皇が自らの子供の権威を高めるために考えたのが、大国・唐のやり方に習うことでした。
聖武天皇が注目したのは、則天武后でした。
則天武后が選択したのが仏教です。
その中でも菩薩戒・・・菩薩というのは、大乗仏教にあって衆生救済に励む人・・・皇帝こそ、その衆生救済を主導する指導者なのだとしたのです。
それを知った聖武天皇は、菩薩戒に大きな興味を持ちました。
菩薩戒とは、様々な戒律の一つで、これを受けたものは菩薩となり、悪を抑え、善を修め人々のために尽くす存在となるという・・・
菩薩戒を受けた則天武后は、菩薩であるがゆえに皇帝に相応しいとされたのです。
聖武天皇は、則天武后と同じ菩薩戒を受けることを願いました。
しかし、則天武后に菩薩戒を授けた高僧は、既に亡くなっていたのです。
そこで、栄叡と普照は、菩薩戒を授けられる高僧を探したのです。
そして、2人が9年の歳月をかけて巡り合ったのが鑑真こそ、則天武后に菩薩戒を授けた高僧の直弟子だったのです。
しかし、当時、唐では許可のない海外渡航は禁止・・・
鑑真が選んだのは、密航でした。
鑑真の足跡を記した「東征伝」・・・そこに、日本への渡航の様子が書かれています。
743年最初の挑戦・・・鑑真56歳
栄叡と普照は、地元の有力者に援助を受けて船を作るも、密告により計画が当局にバレ、出航できずに失敗・・・
同じ年、鑑真自ら費用を工面し、船を調達・・・秘密裏に渡航の準備を始めます。
そしてその年の12月出航・・・しかし、船は嵐により座礁、大破してしまいます。
海に投げ出された一行は、岸に打ち上げられなんとか一命をとりとめました。
こうして2度目の挑戦も失敗に終わります。
三度目(57歳)、4度目(57歳)も鑑真の渡航に反対する弟子の密告により当局に阻止され失敗します。
しかし、鑑真は日本への渡航を諦めませんでした。
4年後の748年、61歳の時に5度目の挑戦をします。
しかし、無事出航したのもつかの間、またも嵐に会い漂流・・・荒れ狂う大波で、みな、激しく船酔いし、苦しみ、横たわるしかありませんでした。
船には水もなく、塩水を飲むと腹が膨れました。
一生でこれより苦しいことはない・・・。
そして、出航した揚州からはるか南の海南島に漂着します。
海南島は、当時ジャングルに覆われ、この世の果てと恐れられていました。
この地で鑑真一行は、1年近くを過ごします。
鑑真たちが滞在した大雲寺・・・現在の建物は、2002年に再建されたものです。
鑑真は、日本へ運ぶ予定だった仏像や経典を大雲寺に寄付し、村人に学問を教えました。
鑑真の行いは、今も村に伝わっており、村人たちは毎日のお参りを欠かさないといいます。
その後、鑑真一行は、出発地の揚州に向かって陸路で引き返します。
その途中で、不幸が襲います。
鑑真の渡航計画のパートナーであった栄叡が病に倒れたのです。
唐に来て16年・・・栄叡は志を果たせぬまま、遠い異国の地で亡くなります。(749年)
さらに、普照も鑑真のもとを去ります。
外国人である自分が、行動を共にすると鑑真に迷惑をかける恐れがあるという理由でした。
そして、鑑真自身の身にも異変が起きます。
疲れがたまっているにもかかわらず、炎天下で旅を続けたため、視力が弱り、遂に光を失ってしまいました。
鑑真を日本に招こうとして栄叡は亡くなり、普照は去りました。
その上、鑑真自身が失明する・・・もはや、日本行きは完全に無くなったと思われました。
3年後の753年・・・揚州に帰っていた鑑真は、意外な人物の訪問を受けます。
日本からの遣唐使です。
遣唐使は鑑真にこう告げます。
「鑑真さま
今も日本へ渡るお気持ちがあるのでしたら、どうか私どもの船で日本にお越しください」
鑑真はこの時66歳・・・日本行きを決意してから11年の歳月が流れていました。
これが最後の日本行きの機会となる・・・
渡航を断念し中国にとどまるのか・・・あくまで日本に渡航するのか・・・??
753年10月・・・蘇州の港に鑑真とその弟子たちの姿がありました。
鑑真は、日本への渡航を選択したのです。
しかし、いざ乗船となるその時、
「お乗せするわけには参りませぬ」
遣唐使の総責任者である大使が、鑑真たちの乗船を拒否します。
大使は、出航間際になって鑑真の密航が発見されると唐との外交問題発展すると懸念・・・
やはり・・・今度も日本に行けぬか・・・
鑑真たちが諦めかけたその時、大使に次ぐ責任者の副使が声をかけます。
「私の船に乗ってください」
副使は、自分の船である遣唐使第二船に、密かに鑑真たちを招き入れました。
表面的には、福祉が勝手にやったことになっていますが、打ち合わせがあったかもしれない・・・
何としても連れていきたい・・・!!
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そして、聖武天皇から詔を受けます。
「鑑真和上は、遠く大海を渡り、この国へ入られた
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これより戒を授け、律を伝えることは和上に一任する」
鑑真は、日本で初めての正式な戒律師に就任したのです。
4月、鑑真による授戒が行われます。
聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇(阿部内親王)が鑑真より菩薩戒を授かりました。
他の皇族たちが戒律を授かることはありませんでした。
その後、鑑真は東大寺に戒壇院を設立・・・
ここは、戒律を守ることを誓う儀式・・・「授戒」を行うための特別な空間です。
戒律を授けるのは、鑑真を筆頭とした10人の高僧です。
出家する者たちは、その前に進み出て、戒律を守ることを誓います。
「汝、不殺生を今より未来永劫よく保や、否や」
「よく保つ」
「汝、不淫を今より未来永劫よく保や、否や」
「よく保つ」
このような儀式を経て、初めて出家を許され、僧侶として歩み始めるのです。
これ以降、戒壇院で授戒を受けた者のみ僧侶になることを許されました。
鑑真がもたらした授戒制度により、横行していた税金逃れの出家に歯止めがかかることとなりました。
758年、71歳となった鑑真は、大和上・・・偉大な戒律の師という名誉称号を与えられ、東大寺の授戒の仕事から離れます。
事実上の引退でした。
翌年、鑑真は唐招提寺を開きます。
一番最初に建てられたのが、講堂・・・平城宮の東朝集殿を移築しました。
極めて簡素な造りです。
鑑真は、この講堂を何のために作ったのでしょうか??
鑑真和上と高弟が問答を行い、弟子たちが後ろで聞いて勉強する・・・
多い時には、200人以上がここで鑑真に学んだといいます。
さらに、この講堂は、広く一般にも門戸を開いていました。
鑑真和上は、僧侶にだけ仏教を教えたのではなく、一般の人にも仏の教えを説きました。
鑑真は、広く大衆にお釈迦様の教えを伝えたい・・・それが、日本に来た理由でした。
763年5月6日、鑑真は、西・・・極楽浄土をむきながらこの世を去りました。
享年76歳・・・
鑑真が、弟子たちにかけた言葉が残されています。
「愁うることを須いざれ
宜しく方便を求めて 必ず本願 逐ぐべし」
心配しなくてもよい、しかるべき手立てを求めるならば、必ずや願いは遂げられるであろう
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