日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:則天武后

今からおよそ1300年前の奈良時代半ば・・・
荒れ狂う東シナ海を渡り、中国大陸から日本を目指した人物がいました。
唐の高僧・鑑真です。
日本から正しい仏教を指導してほしいと要請された鑑真は、来日を決意!!
しかし、それは苦難の連続でした。

幾多の困難を越え、11年もの歳月をかけて来日を果たした鑑真・・・長く、心を打つ物語として語り伝えられてきました。
この鑑真来日を巡って、新たな学説が発表されました。
日本側に極めて政治的な事情があったというのです。
時の天皇・聖武天皇は、それまでと違う皇位継承の形を望んでいました。
そこで習おうとしたのが、中国の女帝・則天武后です。
則天武后は、それまでの王朝・唐を乗っ取り、新たな王朝を立てました。
聖武天皇と則天武后・・・両者を結ぶカギとなったのが、鑑真だったのです。
鑑真来日の真相とは・・・??

中国中部、長江を下流に近接する町・揚州・・・
唐の時代、揚州は大運河の港町としてアジア各国の船が行き来する国際都市でした。
688年、鑑真はこの地で生まれます。
父は、熱心な仏教徒であり、その薫陶を受けた鑑真は、701年14歳で出家しました。
漢の時代にインドから伝来した仏教は、歴代皇帝による尊敬と保護により、唐の時代に黄金期を迎えていました。
時の皇帝で、唐王朝を乗っ取り中国史上初の女帝となった則天武后は、このような言葉を残しています。

「私の統治権は、仏により与えられたものである
                衆生を救済し、天下を教化する」by則天武后

仏教は、宗教の枠を超え、中国の国家体制や政治を支える者でもありました。
707年、鑑真は、都・長安にのぼります。
そこは、巨大な寺院が軒を連ね、多くの高僧が仏教の研究に没頭する巨大宗教都市でもありました。
ここで鑑真は、仏教学の要である教・律・論を学びます。

経・・・釈迦の言葉を集めた経典
律・・・僧侶が守るべき道徳や生活習慣
論・・・釈迦の言葉を解説・解釈した書物

7年間にわたって教・律・論を深く学んだ鑑真は、故郷に戻って後進の育成に努めます。
多くの寺院を開き、育てた弟子は4万人にのぼったと言われます。
唐での鑑真の存在は・・・??
学問だけでなく、実践が素晴らしい・・・福祉事業などに熱心で、社会に出て人々を導く人でした。

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742年10月、揚州・大明寺・・・55歳になった鑑真は、僧侶たちを指導していました。
そこに、2人の日本人僧侶が訪ねてきました。
普照と栄叡です。
二人は遣唐使の船で派遣されてきた学問僧でした。
彼等は鑑真にこう述べます。

「日本には、唐と同じ”正式な仏教”を指導する人がいません
 どうか日本に来て、正しい仏教を指導してください」

2人は、朝廷から”唐より高僧を招く”という任務を与えられていました。
しばしの沈黙ののち、鑑真はこう答えます。

「今ここにいる者たちの中に、この遠くからの要請に応じて日本に正しい仏教を伝えようとする者はいないか」by鑑真

しかし、ひとりとして手を挙げる者はいませんでした。
日本への航路となる東シナ海は、当時地獄の門と呼ばれ、嵐や高波で船が遭難し、命を落とすことも少なくなかったからです。
すると、鑑真はこう宣言します。

「これは、仏教のための事だ
 どうして命を惜しもうか
 皆がいかないなら、私が日本へ行こう」by鑑真

鑑真の言葉を聞いた弟子たちは、日本への同行を申し出たといいます。
かくして鑑真は、栄叡、普照と共に日本に向かうこととなるのです。
鑑真の決断の背景には、唐の宗教事情の変化がありました。
中国の歴史では、儒教と道教、仏教が、その時々の政権によってウェイトのかけ方が変わります。
玄宗皇帝は、道教を尊重しました。
時代の変化を見て、日本という国に行けば、仏教をもっと広められると考えたのです。
時に鑑真、55歳・・・長い苦難の始まりでした。

栄叡と普照が唐に渡ったのは・・・鑑真と出会う9年前
733年入唐・・・洛陽に入ります。
当時洛陽は、都・長安と並ぶ、政治、経済、文化の中心地として繁栄を極めていました。
ここでの二人の行動を見ると、一つの謎が浮かび上がってきます。
2人は洛陽で知り合った高僧たちに頼み込み、日本行きを承諾してもらっているのです。
実際に、高僧たちは、帰りの遣唐使船に乗り日本にわたっています。
彼等は後に、752年、東大時代物開眼供養会で導師を務めたほどの高僧でした。
にもかかわらず、栄叡と普照は、その後も高僧を探し続けて9年の歳月をかけて鑑真にたどり着きます。
どうして鑑真なのか??

従来の説は・・・
仏教伝来からおよそ200年が経った8世紀半ばの日本・・・
仏の教えが国を守るという考えの元、朝廷は巨大な寺院を次々と建立・・・
その費用は、民衆への重税が支えていました。
通常の租・庸・調以外にも、寺院建設の労役が課せられたのです。
大地震や干ばつが重なり、人々の生活は困窮を極めました。
続日本紀は、この頃の様子をこう伝えます。

”国中の民衆が流浪し、僧侶になろうとしている”

僧侶には納税義務がなく、人々は、僧侶になることで税から逃れようとしたのです。
当時の仏教界では、僧侶になるために正式な手続きがなく、「私度僧」と呼ばれる勝手に僧侶を名乗るものが続出!!
にわか僧侶の増加で、税収が減り、律令国家の根幹が揺るぎます。
さらに、平城京の郊外で、私度僧たちが1万人もの民衆を集めて怪しげな集会を開くという騒動まで勃発します。
社会不安を引き起こしていました。
困った朝廷は、僧侶になるための正式な手続きに「授戒」の導入を図ります。
授戒とは、出家の際に、高僧たちの前で僧侶の道徳・戒律を守る誓いを立てることを言います。
戒とは・・・
・人を殺してはいけない
・盗みをしてはいけない
・淫らな行為をしてはいけない
などの絶対禁止の戒め・・・
そして律は、衣は3つまでしか持ってはいけないといった贅沢を禁じるものから、食事の際に声を出してはいけないという生活態度まで僧侶が守るべき生活の規則は250項目に及びました。
当時の日本には、正式な戒律を知る僧侶がおらず、そこで朝廷は唐から戒律を身に着けた高僧を招こうとしたのです。
そして、栄叡と普照が日本で戒律を教えるにふさわしいと判断したのが鑑真であり、鑑真に出会うまでに9年の歳月を要したというのです。

中国から鑑真という高僧を招こうとしたのは、時の天皇・聖武天皇の権威を教化することが目的でした。
聖武天皇が抱えていた問題は・・・血筋です。
聖武天皇の母・宮子は藤原氏の出身・・・聖武天皇は、藤原氏の血筋を引く天皇でした。
そして妻の光明皇后も藤原氏の出身でした。
聖武天皇は、光明皇后との間に生まれた子供を後継者に願います。
しかし、そこには壁がありました。
それまでの天皇は、両親ともに皇族が一般的でした。
聖武天皇は、歴史上はじめて藤原市出身の女性が聖母でした。
聖武天皇が自分の子供に天皇の位を継承させようとするならば、自分の権威をそれまでの天皇と同格にしたかったのです。
そこで、聖武天皇が自らの子供の権威を高めるために考えたのが、大国・唐のやり方に習うことでした。
聖武天皇が注目したのは、則天武后でした。
則天武后が選択したのが仏教です。
その中でも菩薩戒・・・菩薩というのは、大乗仏教にあって衆生救済に励む人・・・皇帝こそ、その衆生救済を主導する指導者なのだとしたのです。
それを知った聖武天皇は、菩薩戒に大きな興味を持ちました。
菩薩戒とは、様々な戒律の一つで、これを受けたものは菩薩となり、悪を抑え、善を修め人々のために尽くす存在となるという・・・
菩薩戒を受けた則天武后は、菩薩であるがゆえに皇帝に相応しいとされたのです。
聖武天皇は、則天武后と同じ菩薩戒を受けることを願いました。
しかし、則天武后に菩薩戒を授けた高僧は、既に亡くなっていたのです。
そこで、栄叡と普照は、菩薩戒を授けられる高僧を探したのです。
そして、2人が9年の歳月をかけて巡り合ったのが鑑真こそ、則天武后に菩薩戒を授けた高僧の直弟子だったのです。
しかし、当時、唐では許可のない海外渡航は禁止・・・
鑑真が選んだのは、密航でした。
鑑真の足跡を記した「東征伝」・・・そこに、日本への渡航の様子が書かれています。

743年最初の挑戦・・・鑑真56歳
栄叡と普照は、地元の有力者に援助を受けて船を作るも、密告により計画が当局にバレ、出航できずに失敗・・・
同じ年、鑑真自ら費用を工面し、船を調達・・・秘密裏に渡航の準備を始めます。
そしてその年の12月出航・・・しかし、船は嵐により座礁、大破してしまいます。
海に投げ出された一行は、岸に打ち上げられなんとか一命をとりとめました。
こうして2度目の挑戦も失敗に終わります。

三度目(57歳)、4度目(57歳)も鑑真の渡航に反対する弟子の密告により当局に阻止され失敗します。
しかし、鑑真は日本への渡航を諦めませんでした。
4年後の748年、61歳の時に5度目の挑戦をします。
しかし、無事出航したのもつかの間、またも嵐に会い漂流・・・荒れ狂う大波で、みな、激しく船酔いし、苦しみ、横たわるしかありませんでした。
船には水もなく、塩水を飲むと腹が膨れました。
一生でこれより苦しいことはない・・・。
そして、出航した揚州からはるか南の海南島に漂着します。

海南島は、当時ジャングルに覆われ、この世の果てと恐れられていました。
この地で鑑真一行は、1年近くを過ごします。
鑑真たちが滞在した大雲寺・・・現在の建物は、2002年に再建されたものです。
鑑真は、日本へ運ぶ予定だった仏像や経典を大雲寺に寄付し、村人に学問を教えました。
鑑真の行いは、今も村に伝わっており、村人たちは毎日のお参りを欠かさないといいます。
その後、鑑真一行は、出発地の揚州に向かって陸路で引き返します。
その途中で、不幸が襲います。
鑑真の渡航計画のパートナーであった栄叡が病に倒れたのです。
唐に来て16年・・・栄叡は志を果たせぬまま、遠い異国の地で亡くなります。(749年)
さらに、普照も鑑真のもとを去ります。
外国人である自分が、行動を共にすると鑑真に迷惑をかける恐れがあるという理由でした。
そして、鑑真自身の身にも異変が起きます。
疲れがたまっているにもかかわらず、炎天下で旅を続けたため、視力が弱り、遂に光を失ってしまいました。

鑑真を日本に招こうとして栄叡は亡くなり、普照は去りました。
その上、鑑真自身が失明する・・・もはや、日本行きは完全に無くなったと思われました。
3年後の753年・・・揚州に帰っていた鑑真は、意外な人物の訪問を受けます。
日本からの遣唐使です。
遣唐使は鑑真にこう告げます。

「鑑真さま
 今も日本へ渡るお気持ちがあるのでしたら、どうか私どもの船で日本にお越しください」

鑑真はこの時66歳・・・日本行きを決意してから11年の歳月が流れていました。

これが最後の日本行きの機会となる・・・
渡航を断念し中国にとどまるのか・・・あくまで日本に渡航するのか・・・??

753年10月・・・蘇州の港に鑑真とその弟子たちの姿がありました。
鑑真は、日本への渡航を選択したのです。
しかし、いざ乗船となるその時、

「お乗せするわけには参りませぬ」

遣唐使の総責任者である大使が、鑑真たちの乗船を拒否します。
大使は、出航間際になって鑑真の密航が発見されると唐との外交問題発展すると懸念・・・
やはり・・・今度も日本に行けぬか・・・
鑑真たちが諦めかけたその時、大使に次ぐ責任者の副使が声をかけます。

「私の船に乗ってください」

副使は、自分の船である遣唐使第二船に、密かに鑑真たちを招き入れました。
表面的には、福祉が勝手にやったことになっていますが、打ち合わせがあったかもしれない・・・
何としても連れていきたい・・・!!

かくして鑑真と弟子たちは、およそ1か月の公開を経て、ようやく日本にたどり着くのです。
753年薩摩国屋浦に到着
鑑真66歳・・・6度目の挑戦での成功でした。

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754年2月、平城京・・・鑑真一行は到着し、盛大な歓迎を受けます。
そして、聖武天皇から詔を受けます。

「鑑真和上は、遠く大海を渡り、この国へ入られた
 喜ばしさ喩えようがない
 これより戒を授け、律を伝えることは和上に一任する」

鑑真は、日本で初めての正式な戒律師に就任したのです。
4月、鑑真による授戒が行われます。
聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇(阿部内親王)が鑑真より菩薩戒を授かりました。
他の皇族たちが戒律を授かることはありませんでした。
その後、鑑真は東大寺に戒壇院を設立・・・
ここは、戒律を守ることを誓う儀式・・・「授戒」を行うための特別な空間です。
戒律を授けるのは、鑑真を筆頭とした10人の高僧です。
出家する者たちは、その前に進み出て、戒律を守ることを誓います。

「汝、不殺生を今より未来永劫よく保や、否や」

「よく保つ」

「汝、不淫を今より未来永劫よく保や、否や」

「よく保つ」

このような儀式を経て、初めて出家を許され、僧侶として歩み始めるのです。
これ以降、戒壇院で授戒を受けた者のみ僧侶になることを許されました。
鑑真がもたらした授戒制度により、横行していた税金逃れの出家に歯止めがかかることとなりました。

758年、71歳となった鑑真は、大和上・・・偉大な戒律の師という名誉称号を与えられ、東大寺の授戒の仕事から離れます。
事実上の引退でした。
翌年、鑑真は唐招提寺を開きます。
一番最初に建てられたのが、講堂・・・平城宮の東朝集殿を移築しました。
極めて簡素な造りです。
鑑真は、この講堂を何のために作ったのでしょうか??
鑑真和上と高弟が問答を行い、弟子たちが後ろで聞いて勉強する・・・
多い時には、200人以上がここで鑑真に学んだといいます。
さらに、この講堂は、広く一般にも門戸を開いていました。
鑑真和上は、僧侶にだけ仏教を教えたのではなく、一般の人にも仏の教えを説きました。
鑑真は、広く大衆にお釈迦様の教えを伝えたい・・・それが、日本に来た理由でした。
763年5月6日、鑑真は、西・・・極楽浄土をむきながらこの世を去りました。
享年76歳・・・

鑑真が、弟子たちにかけた言葉が残されています。

「愁うることを須いざれ
 宜しく方便を求めて 必ず本願 逐ぐべし」

心配しなくてもよい、しかるべき手立てを求めるならば、必ずや願いは遂げられるであろう

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秦の始皇帝以来、絶対的な権力者として君臨した皇帝・・・2000年以上続いた歴代皇帝の中で、たった一人だけ女性がいました。則天武后です。
絶世の美女といわれ男たちを虜にしたその裏で、恐ろしい野望を秘めていました。
7世紀の末・・・唐の国で・・・女性が政治に関わることがなかった時代、初めて、唯一の女性の皇帝が生れました。
則天武后です。
名門貴族が牛耳る古い政治体制に風穴を開け、実力のある者たちを次々に登用し、国力を発展させました。
仏教を手厚く保護し、文字の創作など、華やかな唐文化の礎を築きました。
しかし・・・後世に伝えられる多くは・・・稀代の悪女・・・!!

果たして彼女は、知性と美貌を兼ね備えた稀有な皇帝だったのか?
それとも国を傾けた悪女だったのか・・・??

7世紀初頭・・・大陸では10年続いた内乱から唐が誕生・・・
また悪魔に周囲を圧倒し、大帝国への道を歩み始めました。
都・長安の人口は100万を超え、皇帝のもとには隣国の使者が次々と謁見に訪れました。
その中には、日本の遣唐使の姿もありました。

623年・・・武照(則天武后)誕生。
長安から遠く離れた片田舎・・・父は役人とはいえ身分の低い役人でした。
しかし、やがて皇帝の子を身籠ることとなります。

中国の歴史書の中に、則天武后の生涯が書かれています。
裕福な役人の家に生れた武照は、幼いころから噂になるほどの美少女でした。
しかし、12歳の時に父が病に倒れると、苦しい毎日が・・・!!
異母兄弟からのいじめです。
武照は、兄たちから執拗ないじめを受けたということは想像に難くありません。
勝気な彼女は、兄たちに仕返しをしたいと思っていたようです。
そんな武照が14歳の時、チャンスが訪れます。

137年、14歳の時に都から皇帝の使者がやって来て、武照を宮廷に迎えたいと・・・皇帝の側室に抜擢されたのです。
武照が稀に見る美女であるという評判は、長安まで届いていたのです。
時の皇帝は、太宗・・・優れた手腕で、唐の発展をもたらした名君として絶大な権力と人望がありました。
側室の武照に与えられた住まいは後宮・・・
皇帝の寵愛を得るために、多くの女たちが美貌と教養を競い合う愛憎渦巻く場所でした。
ここでも抜群の美貌を誇った武照は、すぐに太宗の目に留まり、3かにあけずと皇帝の寵愛を受けるようになります。
しかし、あることから皇帝の愛は急激に冷めていきます。
それは不吉な予言でした。

”唐三代の後、女の武王 代わって天下を有す”

つまり、名前に”武”のつく女性が唐を滅ぼすというのです。
当時は、天の下に王朝が存在するという考え方がありました。
天の意思をくみ取る専門の部屋・・・「太史局」が置かれていました。
王朝にとって占いの意味は大きかったのです。
これ以後、武照は太宗から遠ざけられてしまいました。

武照は、皇帝の気をひく努力から一転、学問や教養を身につけます。
太宗が重臣たちと会議をしている時にはこっそりと裏で聞き、政治のイロハを学びました。
武照は、10年以上、このような生活をし、勉強しました。

649年、26歳の時、武照は側室として絶体絶命の危機に見舞われます。
それは太宗が病を患い、余命わずかになった事です。
側室は子供に恵まれなかった場合、皇帝が亡くなるとその身を汚してはならないと髪を落として尼になるのが通例でした。
皇帝に遠ざけられ、子宝に恵まれなかった武照・・・
尼寺で生涯を終えることになってしまう・・・??

半年後、遂に太宗は崩御・・・。
武照はしきたり通り、尼寺に送られました。
しかし・・・3年後、尼寺にいるはずの武照の姿が宮中にありました。
どうして・・・??
太宗が病にふせていた時の事・・・連日熱心に見舞いに来る男性がいました。
太宗の息子で皇太子の高宗です。
その心優しい性格が買われ、早々から皇太子にといわれていました。
武照は、このチャンスを逃しませんでした。
見舞いに来る高僧に接近し、深い関係を持ったのです。
太宗の死後も密かに逢瀬を重ね、今度は高宗の側室として宮中に戻ることに成功したのです。
そしてこの時すでに、高宗の子を身籠っていました。
皇帝の子を宿し、その地位を着々と築いていく武照・・・
かつて自分を見下した者たちを排除していきます。
そして、復讐は宮中にとどまりませんでした。
数年後、異母兄弟を宮中に呼び出し、出世させます。
そして栄転と称して長安から遠い辺境の地へ左遷しました。
幼い頃武照をいじめていた異母兄弟たちは、長安に戻ることなく、辺境の地で死を遂げたのです。

皇帝の寵愛を一身に受けた武照・・・しかし、側室の地位に満足せず、邪魔者を次々と消していきます。
そのためには、我が子さえも手にかけました。
どうして、多くの人を残酷に殺したのでしょうか??
652年、29歳の時に長男・李弘誕生。
皇帝の寵愛は益々深まったが、武照は愛だけでは満足しませんでした。
密かに狙ったのは、皇帝の正室・・・皇后の座でした。

しかし、宮中には当然ながら王皇后がいました。
武照は、皇后を失脚させる策略を練り始めます。
武将にとっては、太宗に仕えて、次の皇帝(太宗の息子)の後宮にも入りました。
それは常について回る負い目となりました。
負い目が攻められて潰されるかもしれない・・・
高宗の後宮に入った段階から、皇后の道を考えていました。

654年、31歳の時、大事件が・・・
武照と皇帝との間に、女の子が生まれました。
皇后はお祝いを述べようと武照の部屋をたずねます。
しかし、武照の部屋には誰もおらず、赤子だけが寝かされていました。
皇后は不思議に想いながら赤子をあやし・・・武照が戻らないので部屋を後にしました。
その少しあと、武照は部屋に戻ってきました。
赤子の様子がおかしい・・・??
元気だった我が子が冷たくなっていました。
武将が女官を問い詰めると・・・

「つい今しがた、皇后さまがいらっしゃいました!!」

武照は、すぐにこの事件を皇帝に・・・

「皇后のやつめが、朕の娘を殺したのだ」

宮中でも噂が立ちます。

「子供ができない皇后さまが、武照に嫉妬して、赤ん坊を殺したのではないか・・・??」

この事件・・・武照が皇后を陥れようとした罠でした。
皇后が帰った直後に自ら子供を殺したのです。
王皇后に擦り付けるために・・・!!
この事件以後、高宗は皇后に不信感を抱き、武照を皇后にしたいと思うようになります。
高宗は重臣たちに意見を聞きます。

「皇后さまは名家のご出身にて先帝が決めた方です
 どうして廃することができましょうや」by重臣

皇后になるには、家柄にこだわる家臣が邪魔になる・・・
武照は、今度は政治闘争をしかけて行きます。
目をつけたのは、名門以外の家臣です。
実力があるのに要職につけない・・・政権に不満を持っていました。
武照は、彼らを側近として重用し、王宮での発言する機会を与えます。
高宗はこうした献策を喜び、彼らを昇進させていきます。
すると、その中から「武照を皇后にしてほしい」と願い出る者もあらわれました。

こうして、武照は、新興勢力を拡大、反対勢力と対立します。
国を二分しかねないこのこと・・・重臣の一言で決着がつきます。

「これは陛下の家庭の事でございます
 外部の者の意見をお聞きになる必要はございますまい」

これを聞いた皇帝は、王皇后を幽閉・・・
後宮に入ってから19年・・・656年、33歳で野望を達成・・・皇后の座につきます。

ところが、武照はそれだけでは満足しませんでした。
幽閉されていた王皇后を処刑・・・そのやり方は、非常に残酷なものだったと資治通鑑に書かれています。
まず、王皇后を杖で100回たたかせました。
その後、手足を切断し、酒甕に投げ入れさせこう言いました。

「骨まで酔わせておやり!!」

皇后となった武照は、武后と呼ばれ、皇帝が病弱であったことから政治の実権を握っていきます。
皇帝の背後に御簾をかけてその後ろに座ります。
表向きは皇帝が政治を行っている・・・実際は武后が指導したのです。
人々はこれを”垂廉の政”といいました。
幼い皇帝の場合、皇太后である母親が背後から支えることはしばしばありましたが、大人になっての垂廉の政は、歴史的には稀有なことなのです。
武后に牛耳られ、実質的には武后が動かしている・・・という意識は強くなっていきます。

武后は自分に楯突く可能性のある反乱の芽を摘んでいきます。
我が子でさえ例外ではありませんでした。
政治の実権を握って10年後のこと・・・
皇太子で息子の李弘は、高い教養があり、聡明で正義感が強く名君になるといわれていました。
しかし、武后は自分の政治体制を危うくする存在であるとみなしました。
皇帝が李弘に皇帝の座を譲る前に、自分を脅かす李弘を排除いたい・・・!!
武后は、密かに酒に毒を混ぜ殺害!!
息子を殺してまで守った権力の座・・・まだ・・・更なる野望を持っていました。

武后が皇帝と並んで政治を行う姿を、人々は二聖といいました。
聖人は皇帝の別名で、皇帝が二人いるようだと揶揄したのです。
しかし、武后の野望は、二聖より大きくありました。
それは、男性しかなれなかった皇帝になること・・・
どうして中国史上唯一の女帝になることができたのでしょうか?

武后が実権を握り始めた頃、
668年、武后45歳の時、百済・高句麗を制圧し、勢力拡大に成功します。
それは、名君・太宗が成し遂げられなかった偉業・・・
武后の手腕のたまものでした。
国中が歓喜に湧きます。
武后の権力はますます大きくなり、皇帝は最早飾り物同然でした。

この数年前・・・皇帝は武后を排除しようとしたことがありました。
密かに宰相を呼び、自分を蔑ろにする武后の行いを嘆きました。
宰相は・・・
「皇后の横暴な振る舞い、支持するものは誰もおりません
 いっそのこと、皇后を拝されてはいかがでしょうか」

この言葉に勇気を得た皇帝は、皇后廃位の命令書の作成に取り掛かります。
しかし、このたくらみは、すぐに武后の耳に入ってしまいます。

「誠心誠意、陛下を補佐しておりますのに、何が不足でこのようなことをお考えになられるのですか・・・??」

「これは・・・宰相のしたことなのだ
 あやつがそうしろというから、そうしたまでじゃ」

叛逆の首謀者とされた宰相とその息子を処刑・・・
一族を奴隷の身分に落とされました。
これ以降・・・皇帝が武后に逆らうことはありませんでした。

しかし、実はこの事件は、武后にとってはショックなことでした。
皇后の地位は、絶対的な権力を持っていません。
武后自身も、自分の立場が不安定であることを改めて意識しました。
自分の権力を完全に貫徹するには、皇帝になるしかない・・・!!

最後、そして最大の野望・・・皇帝につくために、武后は・・・??

①氏族の系譜の見直し
先代の皇帝の時代、氏族を格付けした書物が書かれていました。
しかし、武后の氏族”武氏”は、掲載されていません。
そこで、武氏一族を名門に位置付けた「姓氏録」を編纂します。
自身の出自の正当性を作り上げます。

②女性の地位向上
当時、父親と死別した家族は、3年喪に服し仕事を休むという決まりがありました。
武后はこれを母親の場合もするべきだと主張します。
母権を父権に近づけようとしたのです。
そして、皇后の呼び名を天后(てんこう)、皇帝の名を天皇(てんこう)としました。
皇后のくらいは天から授けられたものであり、皇帝と並ぶ立場であると人々に意識させるためです。
着々と礎を築いていた683年、武后60歳の時・・・夫の高宗が病に倒れ、崩御・・・。
しかし、武后は空白となった皇帝の座につこうとはしませんでした。

敢て二人の息子中宗・睿宗を順番に皇帝としました。
女が皇帝になるということは、人々の観念に訴えなければいけない・・・
人々の中に、女性が皇帝になってもいいのではないか?
そのためには時間が必要でした。

宮中の人事を操る一方で、武后は先進的な政策を推し進めていきます。
その一つが、科挙の合格者の重用です。
科挙は、身分を問わず優秀な人材を求める官吏登用試験のことです。
隋の時代に始まった制度ですが、重要な役職につくには、結局貴族階級・・・家柄が重視されていました。
武后は才能はあるが身分の低い彼らを製作ブレーンとして自分のもとに置きます。
そして画期的な政策を生み出します。
銅きという投書箱の設置です。
政治への提言、自作の詩、不正の告発・・・民衆の声や才能を深く募ったのです。
しかし、真の目的は、役人の行いを密告させ、臣下の中の反乱分子をあぶり出すことでした。

「密告しようとするものがあれば、その内容を問わず、途中の駅馬や食事を提供し、上洛に便宜を図る
 たとえ密告が本当でなくても罰せられることはない」

武后は自分が面談し、密告が本当だとわかればだれでも雇用・昇進させました。
すると、たとえ密告が嘘であったとしても、役人を拷問し、無理やり罪を認めさせようとする人たちが現れました。
彼等はそのひどい行いから酷吏と呼ばれました。
告発されたものは、たとえ無実であったとしてもその罪を背負わされ処罰されました。
恐怖政治で役人を押さえつける一方、武后は民衆からの支持を得ることもぬかりありませんでした。
力を入れたのが仏教です。
当時、長安では玄奘三蔵が仏教の経典を天竺から持ち帰ったことで仏教の人気が高まっていました。
武后は多額の寄付をして仏教の保護に努めました。
現在の洛陽市の近郊にある龍門石窟といわれる聖地・・・十万体もの石仏が並んでいるともいわれています。
武后はここに高さ16メートルの廬舎那仏を作らせました。
仏の顔は武后の顔を模して造られたとされ、武后への崇拝の念を刷り込まれたといわれています。
民衆の気持ちを捕らえる権力の中の自分の邪魔者を排除する・・・それをやったうえで、機は熟したと考え、最後の一押しを画策しました。

690年9月3日、宮廷の門前に武后の息のかかった酷吏が900人以上の全国の有力者を従えて現れました。

「国号を改めてください」

国号を改めてくださいとは、武后を皇帝にいただく新たな国にしてほしいという意味でした。
翌日にはこれに官吏や農民、僧侶、異民族の長など・・・宮廷を囲む人は6万人にもなりました。
この事態を受け、皇帝は武后にこう提言します。

「どうか・・・皇帝になって下さい」by睿宗

「われ、天命を受け入れる!!」by武后

この時、史上唯一の女性の皇帝が誕生しました。
14歳で後宮に入ってすでに50年以上・・・武后、67歳の時でした。

あらゆる策略を用いて、遂に皇帝となった武后・・・
国号は、古代中国の国に倣い”周”としました。
古代の周は、平等な社会を築いたとして、孔子から高く評価されていました。
その再現を、武后がしてくれるのでは・・・と、民衆は期待しました。
都も長安から周と同じ洛陽へ・・・!!
新しく宮殿を建設・・・新しい時代が幕を開けました。
この遷都によって、名門貴族は力を削がれ、科挙による人材登用がさらに進みます。

しかし、その一方で、武后は武氏一族を重用していきます。
武后は女帝になることに全力を注いできたので、後継者の問題はほとんど頭にありませんでした。
しかし、新しい王朝を作ったということは、武氏の王朝を作ったということ・・・
武氏の血族を自分の身辺に置くことを考えて、後継者をどうするのか迷い続けていきます。

武后の気をひこうとするものも・・・酷吏たちです。
武后が皇帝となった今、酷吏たちはあまり必要なくなっていました。
そのため、存在価値を高めるべく、嘘の密告を重ねます。
罪のない有能な官僚を処刑・・・盤石だった武后の政権は、足元から崩れようとしていました。
武后がのめり込んだのは、愛人でした。
相手は貴族でも役人でもない・・・一介の商人・・・薬売りの遊び人でした。
男に夢中になった武后は、身分の低い愛人を堂々と宮中に呼び寄せられるようにわざわざ出家させます。
そして、その愛人のために、巨大な寺院を建設させたといいます。

696年・・・73歳の時・・・北方遊牧民族が侵攻してきました。
なんとか洛陽寸前で止めたものの、かつて周辺諸国を圧倒した力は失われていました。
武后への失望は、政権内部から農民にまで広がっていきます。
しかし、そんな情勢も知らんとばかりに80歳も近くなった武后は、再び愛人にのめり込みます。
今度の相手は、まだ20歳前後の美男子兄弟でした。政治手腕などないに等しい二人に新たな役所を作り、要職につけます。
当然成果はなく、兄弟の横暴さを強調させただけでした。
二人を告発する声ががっても、武后は聞く耳を持ちませんでした。
そして705年1月・・・宰相が中心になり、武后の息子・中宗を立ててクーデターを決行!!
愛人の兄弟を斬り捨てて武后に迫ります。

「人々は唐の復興を待ち望んでおります
 どうか、皇帝の座を皇太子に譲られ、万民の要望にしたがってください」

息子を見据えながら、武后はこう言いました。

「来るべきものが来た
 あとは静かに成り行きに任せ、そして消えゆくのみ」

中国史上、最初で最後の女帝・則天武后の治世はこうして終わりを告げました。
皇帝についてから、15年後のことでした。

それからわずか10か月・・・武后は静かに息を引き取りました。
82歳でした。
遺言にはこう書かれていたといいます。

「帝の称号は取り去り、則天大聖皇后と称する
 王皇后の一族、そして自分に逆らった官僚たちやその親族、彼らの罪を赦す」

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