日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:前田利家

かつての甲斐国・・・山梨県甲州市にそびえる天目山・・・
1582年、名将武田信玄の跡を継いだ武田勝頼がこの山の麓で無念の死を遂げました。
ところ変わって・・・かつての紀伊国・・・和歌山県の高野山・・・
1595年、天下人豊臣秀吉の養子である秀次が切腹を命じられ、寺の一室でこと切れました。
この二人には、3つの共通点がります。
①歴史にその名をとどろかせる偉大なる父を持っていたこと
②無念の死を遂げたこと
③死後、数々の汚名を着せられたこと
です。

勝頼が自刃し、20代続いた名門武田家が滅びました。
歴史からその名が消えたことで、勝頼のことを不肖の息子、愚将と揶揄しました。
死の直前、養父・秀吉に対し謀反を企てたという嫌疑をかけられた秀次は、暴君・摂政関白と言う悪名を馳せます。
本当にそうだったのでしょうか??
偉大な父の影に隠れ、今まで注目されてこなかった二人の戦国武将の実在とは・・・??

武田信玄の四男として生まれた武田勝頼・・・26歳の時、信玄の指名で後継者となります。
どうして不肖の息子と呼ばれた勝頼が武田家を継ぐことになったのでしょうか?
信玄は、甲斐の隣国だった相模の北条氏康、駿河の今川義元と同盟を結んでいましたが・・・
1560年桶狭間の戦いで今川義元が尾張の織田信長に討たれると、弱体化した今川の領地をとろうと信玄は信長と同盟関係を結びます。
そしてその証として信長の養女が勝頼の正室として迎えられました。
ところが・・・この同盟に、勝頼の兄で信玄の嫡男の義信が猛反発。
義信は今川義元の娘を妻にしていたので、今川家の立場をとっていたのです。
自分に異を唱えた義信に対し信玄は激怒、義信は幽閉され2年後自刃していまいました。
この時、次男・信親は出家、三男・信之もすでに亡くなっていたため、年功序列によって四男の勝頼を新たな後継者に指名しました。
ところが、信玄の家臣たちが猛反発!!
それほど勝頼は、後継者に相応しくない不肖の息子だったのでしょうか?
信玄の側室だった勝頼の母・諏訪御料人は、信玄が攻め滅ぼした信濃の豪族・諏訪氏頼重の娘でした。
諏訪家との融和を図ろうと考えた信玄は、勝頼が生れると諏訪家の男子が用いていた頼の文字を使った名を与え、諏訪家の跡取りにすることにします。
そして勝頼はやがて武田配下の諏訪家の領主として戦に参加するようになります。
このことが、勝頼が後継者に指名された際、大きな問題になりました。
武田の重臣たちにとって、長らく同僚として戦を戦ってきた勝頼が、館となることに反発があったのです。
もう一つは、勝頼はあくまでも諏訪勝頼・・・諏訪家の男であって、武田の人間ではないという・・・
武田家は代々嫡流が家督を継いできていました。
余所の家に養子になっていた人間が武田の家を継ぐということについては根強い反発があったのです。
家臣が勝頼が跡取りとなることに反対したのは、勝頼が”不肖の息子”だったからではなく武田配下の諏訪家の当主だったからです。

こうして勝頼は、家臣の反対を受けながらも信玄の後継者としてはれて武田勝頼を名乗ることとなります。
ところがその2年後、信玄は病死してしまいました。
すると、父・信玄の遺言が、さらに勝頼を苦しませます。
その内容は・・・
”勝頼の息子・信勝が16歳になり次第、家督を継がせ、勝頼はその後見人になること”
勝頼が正当な武田家の跡取りではなく中継ぎであると・・・真の後継者は勝頼の息子・信勝だといっているようなものです。
どうしてこのような遺言を残したのでしょうか?
ゆくゆくは勝頼の息子・信勝が跡を継ぐから・・・と、家臣と勝頼を配慮したものだったのですが、逆効果だったようです。
武田の家臣は、武田二十四将と言われ、一筋縄ではいかない者も多く、信玄と一緒に領土を大きくしてきたという自信もあるので、そんな人たちを勝頼がコントロールするというのは並大抵のものではありませんでした。
信玄が長生きをして、勝頼と家臣たちの関係をうまくつなげるような関係を作っていればよかったのですが、不運としか言いようがありません。

甲斐の虎と恐れられ、戦国最強の武将・武田信玄・・・
対して息子の勝頼は、後世愚将と蔑まれてきました。
織田信長と同盟を結んでいた武田信玄でしたが、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、さらには大坂の石山本願寺などが決起すると、信長包囲網に参戦します。
1573年三方ヶ原の戦いなどで、信長と同盟を結んでいた徳川家康を相手に戦いを優勢に勧めていましたが・・・
そのさ中、持病が悪化・・・甲斐へ戻る途中に亡くなってしまいました。
そんな父の無念を晴らすために、新生武田軍も織田・徳川連合軍に挑んでいきます。

1574年、勝頼は織田の領地である東美濃へ侵攻。
その勢いはすさまじく、1日で18もの城を落とします。
さらに、家康の領地へ侵攻した勝頼は、遠江にある難攻不落の城・高天神城を陥落させ、三河の足助城、野田城までも落としてみせるのです。
焦る家康をしり目に、勝頼が次に狙いを定めたのは、家康の息子・信康が城主を務める岡崎城でした。
勝頼は、徳川家の家臣・大賀弥四郎らと内通し、岡崎城を内外から攻め落とす作戦を立てます。
結局、済んでのところで情報が洩れ未遂に終わり、大賀弥四郎は処刑されます。
もし、岡崎城を占拠されていれば、信長の援護が絶たれ、浜松城にいた家康は孤立し、武田軍によって壊滅状態に追い込まれるところだったのです。
家康を追いつめた勝頼の見事な戦いを伝え聞いた信長は、同盟を結んでいた越後の上杉謙信にこんな手紙を送ります。

「勝頼はまだ若いが、信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた武将 恐るべき敵である」

勝頼が侮れない存在であることを認めたのです。
しかし、その一方、勝頼の家臣たちは・・・

”これで勝頼さまは、益々我らの意見を聞かなくなる”

勝利を重ねていく度に、勝頼は独断で動くようになり、家臣たちとの溝は深まるばかりでした。
そして、1575年・・・ついに勝頼は織田・徳川連合軍との大一番を迎えます。
長篠の戦いです。
織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍はその半分以下の1万5千。
当然勝頼の家臣たちは撤退を進言しますが・・・勝頼はそれを無視して突撃を指示!!
結果、武田軍は惨敗を喫し、信玄以来の家臣たちの多くが命を落としました。
どうして勝頼は無謀な戦いに挑んだのでしょうか?

あの場に信長、家康の二人がいる・・・信玄の果たせなかったこの戦いに勝てば、父を超えることができる・・・??
相すれば、武田家の中での権威を不動のものにできると考えたのです。
勝頼の家臣たちから武田家の跡継ぎとして認められていないという状況を打開したかったのです。

武田家の兵法書「甲陽軍鑑」には、勝頼は”強すぎたる大将”と記されています。
故に自分は父・信玄を超えているのだと過信してしまったのかもしれません。

一説に、家康は長篠の戦いの直前信長にこう迫ったといいます。

「もし信長殿が援軍を送らず、長篠が陥落したら勝頼と手を組み、織田と戦う所存」

それだけ、家康が勝頼率いる武田軍を恐れていたということ・・・
長篠の戦いで勝利した信長が、追い打ちをかけるべく上杉謙信に武田領に攻め入るように要請しますが・・・
なぜか謙信は動きませんでした。
勝頼は、信長の動きを察知して、既に謙信との和睦を成立させていたのです。
家康を追いつめ、信長の動きの先を読む・・・この時、信長42歳、家康33歳、対して勝頼は30歳・・・そう考えると武田勝頼は善戦し、名将の片りんを見せていたのです。

長篠の戦いで、大敗した武田勝頼は、領内での立て直しを図ります。
まず行ったのが検地・・・各農地からの年貢を厳しく定めることで、それまで不安定になりがちだった家臣たちの知行から得られる収入を確定させました。
そして勝頼は、それに見合う軍役を、家臣たちに課しました。
つまり、収入によって保有しなければならない兵士や武器などの数を厳密に定めたのです。
これにより、短期間で武田軍を再強化することに成功します。
勝頼は、商人と職人を管理します。
武具の安定供給、城づくりの際の資材の調達、人足の動員などを迅速に行えるようにしたのです。
さらに、城の移転を進めます。
祖父・信虎、父・信玄は躑躅ヶ崎館を居城としてきましたが、甲斐・駿河・信濃にまたがる領地を治めるには甲府は東に寄り過ぎていたため、勝頼は領土拡大も見据えて韮崎(新府城)を築城し、そこへ武田氏の本拠地を移しました。
東西を川に挟まれ、城を建てた七里岩台地の周囲は、25キロにわたって断崖が続いていて、新府城はまさに自然の要害でした。
新府城は、躑躅ヶ崎館に比べると、はるかに巨大で武田の築城技術を駆使したとてつもない大きいお城です。
他の戦国大名と比べても大きく、集大成の意味もありました。
ところが、そんな新府城を築城した翌年、勝頼は武田家を滅亡に追い込んでしまいます。

しかし、武田家滅亡は、勝頼のせいだけではなかったのです。
勝頼は、周辺諸国との外交交渉を、積極的に行っていきます。
信玄の時代から長年対立してきていた越後の上杉謙信との和睦が成立すると、そこに信玄時代から同盟を結んでいた相模の北条氏政を加え、甲斐・相模・越後の三国による和睦を画策・・・三国で同盟を結べれば、織田・徳川連合軍に十分対抗できると考えたのです。
しかし、勝頼の期待空しく、謙信が氏政との同盟を拒否したことで、あえなく破談に終わってしまいました。
さらに、暫くして予期せぬ事態が・・・氏政が、甲相同盟を破棄して信長と同盟を結んだのです。
勝頼は、西側から織田・徳川連合軍、東側から北条の攻撃を受ける羽目に陥ってしまったのです。
次第に劣勢になっていく勝頼・・・そんな勝頼に対し、家臣たちも不信感を募らせていきます。
そして・・・この最悪の状況の中、勝頼をさらに追いつめる出来事が・・・
1582年2月14日、奇しくも織田軍が武田領に進軍したその日・・・領内の浅間山が噴火しました。
当時、浅間山の噴火は、「東国に政変が起こる」前兆とされてきました。
さらに、この時信長の朝廷への根回しにより、勝頼が朝敵とされていたことから、家臣たちはこう考えたのです。

「帝が信長の必勝を祈願したことで、神は勝頼さまを見限ったのだ」

家臣たちは武田家はもうおしまいだと、次々に勝頼の元を去っていきました。
天にも家臣にも見放されたことで、勝頼は甲斐にある天目山まで逃げのびるも・・・
結局信長軍に追い込まれ・・・妻と息子と共に自刃したのです。
1582年3月11日、武田勝頼自刃、37歳でした。

「勝頼は紛れもない名将であったが、運が尽きてしまいああいう結果に終わってしまった」by信長


天下人の養子にして関白の座にあった豊臣秀次・・・
秀次は死後、殺生関白などの汚名を着せられてしまいます。
が・・・その人生の殆どは、秀吉の言われるままでした。
1568年、秀次は、百姓であった父・弥助と秀吉の姉であった智との間に・・・尾張の農家に生まれます。
しかし、当時織田信長の家臣であった叔父・秀吉の出世によってその人生が激変していきます。

1573年北近江の浅井長政の居城・小谷城攻めの直前、秀吉は浅井の重臣宮部継潤を織田方へ寝返らせるため、甥の秀次を人質代わりに継潤の養子として差し出します。
5歳だった秀次は、宮部吉継を名乗ることになります。
その後、一度は秀吉の元に戻りますが、13歳の頃、信長の家臣・三好康長との連携を深めるために養子に出されます。
自分の子供を政治に利用することは戦国の常でしたが、秀吉と妻・おねとの間には子供がいなかったため、甥である秀次がその代わりに秀吉の出世の道具として使われたのです。
2回目の養父・三好康長は、茶の湯・連歌を嗜む風流人・・・そんな康永から多大な影響を受け、文学や和歌を嗜み、茶の湯においては千利休の弟子だったともいわれています。
そんな教養ある秀次は、後に関白となる秀吉に、公家や諸大名の接待役として重宝されたといいます。

秀次の武将としての才覚は・・・??
1584年、羽柴秀吉が、徳川家康らと相まみえた小牧長湫の戦い・・・
秀吉軍10万に対し、徳川・織田信雄軍はわずか3万・・・
数の上で劣勢だった徳川軍は、小牧山に陣を構え動かずにいました。
相手の3倍の軍を要しながら、手出しできない状況に秀吉は苛立ち始めます。
そこで、池田恒興が、こんな作戦を提案しました。

「家康の本領である三河を攻めるふりをして、徳川をおびき出し、そこをたたいてはいかがなものか」

すると、秀次がこう申し出ます。

「私をその作戦の大将にしていただきたい」

秀吉は、作戦自体には乗り気ではありませんでしたが、秀次が大将を務めるならばと了承します。
秀次は恒興らと共に、意気揚々と出陣します。
ところが・・・家康がすぐにこの作戦を見破り、秀次軍に気付かれないように二手に分かれて追跡し、挟み撃ちにしたのです。
不意を突かれた秀次軍は、壊滅状態に・・・
大将の秀次は、命からがら逃げだしますが、恒興をはじめ、2500人が討ち死にしてしまいました。
この秀次の失態に、秀吉は激怒したといいます。

1583年の賤ケ岳の戦いで、同年代の福島正則、加藤清正らが大活躍をしていました。
秀次は焦っていたようです。
秀吉は怒り、秀次に責任を問う手紙を書いています。

”一時は殺そうと思った”
”今後行いを改めなければ首を切る”

とまで・・・
しかし、その手紙の最後にこうも書いています。

”ゆくゆくは、自分の名代として考えている”

秀吉から大きな期待を寄せられていた秀次は、秀吉の弟で自分の叔父にあたる羽柴秀長の支援もあり、その後傭兵軍団・雑賀衆・根来衆を討伐する紀州攻め、土佐の長宗我部正親を討つ四国攻めで武功をあげ、愚将の汚名を返上します。
この活躍により、秀次は近江20万石を与えられます。
大坂、京都を拠点にしていた秀吉が、秀次を隣接する近江においたのは、豊臣政権を支える大きな柱の一つとして認めたことの証でした。

豊臣秀吉の甥で秀吉の言いなりの人生を歩んできた秀次・・・一国一城の主になります。
しかし、その後、暴君という汚名を着ることとなります。
秀次は本当路暴君だったのでしょうか?
秀吉から近江20万石を与えられた秀次は、新しい町づくりに挑んでいきます。
その名残が、近江八幡市に残されています。
町を歩いていると真っ直ぐな道が多いことに気付きます。
当時の城下町の殆どが、敵の侵入を防ぐために行き止まりや袋小路を多く設けたのに対し、近江八幡の町は碁盤目状になっています。
秀次は、軍事拠点としてではなく、商業の中心地となるように町づくりを計画。
町にめぐらせた堀を、琵琶湖とつなぐことで舟で直接荷物を運び入れることができました。
さらに、上下水道を整備します。
町家と町家の間に、背割りという溝を作り、生活排水を流せるようにしました。
上水道は、遠方から引いてきた水を、竹の管を通して各緯度に分配し、常時使えるようにしました。
この時代、上下水道を完備した町は他にはなく、秀次の先見性が伺われます。
そして、秀次はインフラを整備したこの町に、信長の死によって活気を失っていた安土から多くの商人と職人を呼び寄せ、楽市楽座のような活気ある商業都市を築き上げたのです。
秀次は、軍事より商業を優先した経済都市を築き上げ、領民から喜ばれる平和な町づくりを実践した名君だったのです。

そんな秀次が、秀吉から跡継ぎとして指名されるのは、それから6年後の1591年のことでした。
この年、秀吉は良き理解者であった弟の秀長と、側室・淀の方との間にもうけた3歳の息子・鶴松を相次いで亡くします。
この時、秀吉55歳・・・自ら築き上げた豊臣政権を守るため、身内である秀次を養子とし、関白の座まで譲ります。
幼いころから秀吉の言いつけを守って生きてきた秀次が、ようやく手にした関白の座・・・喜びもひとしおでした。
ところが・・・その後、摂政関白の汚名を着せられることとなるのです。
そもそも殺生関白といわれるようになったのは、”太閤様軍記のうち”という本の中で、秀次がいろいろ悪事を働いたということが書かれています。
例えば、殺生禁止の比叡山で鹿狩り・・・??しかし、教養のある秀次がそんな大それたことをするのか??
罪もない旅人を千人斬り・・・??秀次は芸術に造詣が深く、秀吉所有の名刀の管理を任されていました。
秀次は、その切れ味を試すために、罪人を使って試し切りをした・・・と考えられます。
悪く、悪く、悪意のある書き方をされています。
”太閤様軍記のうち”は、太閤・秀吉を称賛する書物なので、秀吉に都合の悪いことは捻じ曲げられ、悪事はすべて秀次に押し付けた可能性があります。

秀次の存在は秀吉にとって都合が悪かった・・・??
天下人・豊臣秀吉に対する謀反を企てたとして、養子の秀次が切腹に追い込まれた秀次事件・・・
本当に秀次は謀反を企てたのでしょうか・・・??
1593年、秀吉と側室・淀殿との間に秀頼が生れます。
当然秀吉は、自分の息子・秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになりました。
しかし、すでに養子の秀次に関白の座を譲っていました。
そんな中、1595年、山へ鹿狩りに出かけ戻ってきた秀次に、衝撃の知らせが届きます。

「わしが山で仲間と落ち合い、太閤殿下に謀反を企てていただと・・・??」

秀次は、すぐさま秀吉に事実無根であることを訴えますが・・・弁解する事さえ拒否され、結局秀次は高野山で切腹に追い込まれてしまいます。
本当に謀反を企てていたのでしょうか?
秀次と親交のあった人々の証言によると・・・??

「秀次さまが謀反を企てた?? そんな馬鹿な・・・」by公家・山科言経
「秀次公は、謀反を起こすような方ではない」by前田利家
「秀次は、万人から愛され、野心家ではなかった」byルイス・フロイス

秀次は、謀反を企てるような人物ではないというのです。
では、どうして切腹に追い込まれたのでしょうか??
唯一の手掛かりは、秀吉が自分の養女の婿・吉川広家に宛てた手紙です。
そこには・・・
「自分の思い通りにならなかったから・・・」
秀次の何が思い通りにならなかったからなのでしょうか??
秀吉が、秀次に自分の息子に関白の座を譲れといった事を拒絶したのか??と思われます。

秀次は、謀反ではなく関白の座を譲れという秀吉の言葉を聞かなかったことによる切腹だと考えられます。
それでも怒りが収まらない秀吉は、秀次の正室、側室、子供、侍女など30人を処刑しました。
二度と跡継ぎ問題が起きないように・・・。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

長篠の戦い 300体セット 1575年5月 織田信長・徳川家康・武田勝頼 戦国合戦ジオラマ完成品 戦国 武将 長篠 フィギュア プラモデル 天下布武 風林火山 武田騎馬 鉄砲隊 時代 模型 1/72サイズ

価格:550,000円
(2020/3/14 11:50時点)
感想(0件)

【ふるさと納税】安土信長・豊臣秀次1800ml 2本セット

価格:18,000円
(2020/3/14 11:52時点)
感想(1件)

【送料無料】新 武将豆兜紐(ミニ兜)豊臣秀吉 上杉謙信 山中鹿之助 武田信玄 島津公 織田信長 徳川家康 日月 前田利家

価格:2,700円
(2019/2/8 21:38時点)
感想(0件)



戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

<上杉謙信と戦国時代>蜜月の終わり 織田軍を圧倒!手取川の戦い (歴史群像デジタルアーカイブス)

<上杉謙信と戦国時代>上杉謙信と上洛の夢 (歴史群像デジタルアーカイブス)

500円クーポン発行中!大河ドラマ 利家とまつ 加賀百万石物語 完全版第壱集 DVD-BOX 全7枚セット

価格:19,440円
(2018/11/19 23:23時点)
感想(1件)



戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

500円クーポン発行中!大河ドラマ 利家とまつ 加賀百万石物語 完全版第弐集 DVD-BOX 全6枚セット

価格:19,440円
(2018/11/19 23:23時点)
感想(0件)

西郷どん完結編 NHK大河ドラマ・ガイド

価格:1,188円
(2018/11/19 23:24時点)
感想(1件)

新装版 島左近 石田三成を支えた義将 (PHP文庫)

新品価格
¥1,080から
(2018/10/14 06:36時点)



1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

某には策があり申す 島左近の野望

新品価格
¥1,620から
(2018/10/14 06:36時点)

左近―影武者徳川家康外伝 コミック 全4巻 完結セット (トクマコミックス)

中古価格
¥1,570から
(2018/10/14 06:37時点)

豊臣秀頼 (歴史文化ライブラリー) [ 福田千鶴 ]

価格:1,836円
(2017/12/5 15:17時点)
感想(0件)



天下人豊臣秀吉の居城・大坂城!!
三国無双と称えられたこの城で、400年前悲劇のプリンスが自害し果てました。
秀吉の息子で後継者の秀頼です。
追いつめたのは、江戸幕府を開いた徳川家康。
どうして家康は豊臣家を潰さなければならなかったのか・・・??

太閤豊臣秀吉には、心配事がありました。
秀頼のことです。
溺愛する息子はまだ6歳。。。
秀頼のために遺書を書きます。

「返々 秀よりこと たのみ申候 
 五人のしゆ たのみ申候

 此ほか にわおもひのこす事なく候」

ここで秀吉の補佐を頼んだ5人とは・・・
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・・・
豊臣政権を支えていた五大老です。
彼らに遺言を託した秀吉は、1598年8月18日にこの世を去ります。
その後、前田利家は秀吉の言う通り補佐につき、家康は伏見城に於いて豊臣政権の政務を行います。
しかし、最古参の前田利家が亡くなると状況が一変しました。
家康が天下取りに動き出したのです。
当時、大名同士の婚姻は、秀吉によって法律で禁止されていました。
しかし、家康は、自らの勢力を強めるために・・・蜂須賀家、福島家、伊達家・・・婚姻を結びます。
反家康派の家臣たちは激怒し、関ケ原の戦いが起こるのです。
徳川家の東軍と、豊臣家家臣の石田三成の西軍との戦いで、およそ20万が・・・!!
家康側には反石田派の豊臣恩顧の大名も加わり、豊臣家家臣団の内部分裂の側面でもありました。
しかし、秀頼をはじめとする豊臣家は参戦せずに中立の立場を取ります。
戦は半日で決着!!
徳川家の勝利により、家康の天下が近づきました。

徳川家康は大坂城へやってきました。
秀頼に対面してから西の丸に入ります。
これに先立って、家康は、秀頼と淀殿に・・・
「豊臣家は今回の戦には全く関係ないから安心してください。」と伝えていました。
しかし、豊臣家に気付かぬように・・・戦後処理として豊臣家の所領を勝手に分配・・・
秀頼の領地は、摂津・河内・和泉の三か国・・・65万7400石あまりとなってしまいました。
秀吉時代の1/3でした。
その家康が、秀頼の何を恐れていたのでしょうか??

①豊臣ブランド
関ケ原の戦いから4か月後の1601年1月29日、大坂城は賑わっていました。
9歳になった秀頼のもとに、公家や僧侶の中でも地位の高い豪華なメンバーが新年のあいさつに来ていました。
徳川の力が強まっても、彼らは変わらず豊臣家に敬意を払っていました。
庶民たちはもっと豊臣贔屓・・・。
家康が将軍のなる際には・・・
「内府様、将軍になれせられ
 秀頼様 関白に御成之由候
 目出度御事にて候」
と、家康が将軍になるのなら、秀頼はもちろん関白になると考えていたのです。

上方の豊臣人気の理由は・・・。
秀吉が天下人となってから、豪華になり、京都は再び活気を取り戻します。
秀吉が死んだ後も、秀吉に贈り物などして関係を築いていました。
当時日本に来ていたオランダ人も・・・
「大坂の城にいる秀頼さまは、前皇帝の子であり、日本の正当な皇帝である。」
そして、経済都市大坂を領地としている秀頼には豊かな経済力がり、諸大名や庶民から絶大な信頼を得ていました。
秀吉が作った城下町は、商人たちにとっては住みやすい町でした。
再び豊臣の世が戻ってくることを誰もが期待していました。
いまだに人気の豊臣ブランドなのです。
それを、家康は恐れていました。
豊臣家の象徴である秀頼をどう扱うのか・・・??
細心の注意を払う家康です。
なので、年始の挨拶も忘れず、素直に代わらぬ振る舞いをしていました。

その一方で暗躍します。
1600年に公家の九条兼孝が関白になります。
家康が、秀頼を関白にさせないために、仕組んだのです。
関白を武家から返すはじめということ・・・
これは秀吉の意志であったと・・・!!
関白を摂関家に返して、新しい武家関白の誕生を阻止したのです。
征夷大将軍は官位五位相当の役職で、関白は官位一位相当の太政大臣の上位に置かれる役職です。
家康は関白になれるのか・・・??
関白は摂関家でなければなれません。
秀吉は、摂関家になっているので、秀頼には関白になれるチャンスがあるからです。

家康が征夷大将軍になった年、秀頼は関白には慣れませんでしたが、正二位内大臣となりました。
一説には豊臣方をなだめるために家康の計らいだったとか・・・。
そして、この年、秀頼は結婚。相手は、家康の孫であり、淀殿の妹・お江の娘・千姫でした。
この婚姻は、もともと秀吉の遺言でした。
しかし、家康はこの婚姻に協力的ではありませんでした。
薩摩の島津家には、結婚祝いの上洛は無用と伝え、細川家には使者は無用としています。
それでも秀頼の元には多くの祝いの品が届きました。
太閤殿下の御威光はまだ残っている!!
衰えない豊臣人気!!


②豊臣家の財産
豊臣家の居城・大坂城には莫大な金銀が蓄えられていました。
金の量は、国全体の2/3もあったと言われています。
この莫大な財産こそ、家康が恐れていました。
打倒徳川の軍資金となるからです。
そこで家康は豊臣家の財産を減らす策に出ます。
寺社造営です。
家康は秀吉の菩提を弔うと称して自社の造営や修復を勧めます。
秀頼と淀の方は、秀吉が寺社造営を進めていたこともあって、家康の言葉を素直に受け入れます。
積極的に出雲大社をはじめ、名だたる神社仏閣の修復や造営を始めます。
その数およそ100!!
かなりの財産をつぎ込んでいきます。
その一方で、それは、改めて豊臣家の権威を見せつけることとなったのです。

この頃から家康の態度が変わってきます。
毎年行っていた年始の挨拶を止めます。
秀頼に来るように・・・と。
1605年、将軍職を秀忠に譲ります。
これは、将軍家は徳川家が世襲することを示していました。
政権を戻すつもりはない!!と言っているようなもの。
そして、秀忠の将軍就任に際して、秀頼に上洛するようにと言ってきました。
淀殿は、上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬと断固拒否!!
我が子秀頼を命がけで守ろうとしました。

まだ13歳の秀頼はどう思っていたのでしょうか??
幼いころから武芸、和歌、漢詩、兵学、儒学・・・あらゆる学問を当第一の学者に学んでいた秀頼は、14歳の時に明王朝の帝王学の教科書「定鑑図説」の和睦本を出版します。
優秀なブレーンアが要ることを示しています。
ひ弱でマザコンと言われる秀頼ですが、聡明で、強い自我と行動力を持っていました。

「自分こそが秀吉の後継者である!!」という強い思いが・・・!!

そして、その意志は住吉大社の造替工事にも見受けられます。
ここはかつて秀吉の母の大政所の病気平癒と延命祈願をした場所です。
住吉大社を建て替えることで、秀頼は豊臣家再興を願ったのです。
そんな秀頼に、牙を剥き出す家康・・・
駿府城三の丸の工事を始め、他の外様大名と同じように、秀頼にも労働力を差し出すように命じてきます。
しかし、秀頼は冷静で・・・年始や七夕には人を遣わして挨拶をします。
人々はそんな秀頼を”年長ずるに従い知勇加わる”と言いました。
豊臣家当主として年々頼もしくなっていく秀頼・・・!!

ある日・・・京の町に落首が・・・
”御所柿は 一人熟して 落ちにけり
          木の下にいて 拾ふ 秀頼”
御所柿とは、駿府城に隠居し大御所となった家康の事。
老いていく家康が自然と地に落ち、その政権を秀頼が拾うと・・・
二人の年齢差を皮肉り、豊臣家の復活を望んでいるのです。


③秀頼の若さ
1611年、家康は後陽成天皇の譲位の儀式のために、今日に上ります。
そして、秀頼を二条城に呼び出すのです。
秀頼は、それに応じ3月28日午前8時、二条城に到着。
一説には庭まで出迎えたという家康。
最後にあったのは11歳の時でしたが・・・19歳の秀頼は、身長197センチの大男に成長していました。
家康に続いて城内に入った秀頼に対し・・・
「ささ・・・お先に。」家康は秀頼を先に会見の場所に通し、対等の立場で話そうというのですが・・・。
秀頼はそれを頑なに断り、家康に上席を譲りました。

家康の二条城に秀頼が赴くということは、既に秀頼は家康より下の立場から・・・なのに、家康も対等に・・・と思うのですが、この時点では、家康の方が位が上でした。
秀頼の方が下に座るべきであろうと秀頼は家康に正しい礼を取ったと言えます。
先に秀頼を家に通そうとした家康の罠で・・・先に秀頼が入っていれば、礼節をわきまえない無礼な男として非難されるところでした。
そんな家康の策にはまらず、冷静に、自分の立場をわきまえて対応します。
2時間に及んだ会見で、合間には食事も・・・。
家康は、豪華なものでは遠慮がちになると吸い物だけを振る舞います。
ここでも秀頼に気を遣っているようで・・・会見の最後に家康は言い放ちます。

「太閤殿下の遺言では、秀頼殿が15歳になったら天下を治めていただく約束だったが、先の関ケ原の戦いで我を退治せんとし、起請を破ったのは秀頼殿であるから、約束を反古にされても仕方が無かろう」by家康

関ケ原の原因は秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことを宣言。
自らの行為を正当化したのです。
改憲の後、家康は秀頼のことを・・・

「大変かしこい人なり。
 他人の臣下となって、その命令に従う人物にあらず。」by家康

19歳の賢く頼もしい男・・・それに引き換え自分は70歳・・・。

二条城会見の数日後・・・大阪の秀頼の元へ、家康の子供たちが進物を携えてやってきました。
二人に対し秀頼は心のこもった返礼をし、家康にお礼の手紙を送ります。
この手紙は・・・家康に宛てた秀頼の挑戦状・・・??

「次にお会いしたときにお礼をします」と書いています。
その品を直接会って・・・つまり、返礼品が欲しければ、家康が直接会いに来るように・・・との事なのです。

二条城会見を外から見れば、家康に対して礼節を尽くした・・・ですが、家康に対して自分の方が上位であるという手紙の書き方をしているのです。
それは、秀頼と家康の間にしかわからない失礼な手紙でした。
秀頼はかしこい人だ・・・そう思う家康でした。

再建中だった方広寺の鐘・・・。
「国家安康」・・・家康という名が分断され、呪っていると難癖をつける家康。
これが、戦のきっかけになってしまいます。
徳川と豊臣の対立・・・もはや戦は避けられない・・・と、戦の準備が始まりました。
1614年10月、秀頼は莫大な資金を投じ、大坂周辺の米を購入。
武具などを城内に配備するだけではなく、大坂周辺にも壁を築き、籠城の準備をします。
さらに、秀頼は豊臣方について戦ってくれるように早い時点で諸大名に手紙を送っています。
それは、秀吉恩顧・・・毛利、島津、伊達にまで及んでいました。
結局誰一人、秀頼の求めには応じませんでしたが・・・どうして大名は、秀頼方につかなかったのでしょうか?
 
熊野権現の起請文・・・
家康は方広寺の事件以前に起請文を諸大名から取っていました。
徳川家に忠誠を誓う・・・なので、大坂の陣で豊臣方に協力しなかったのです。
結局、秀頼に着いたのは、関ケ原で戦って敗れた浪人たちだけ。
その中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、木村重成、毛利勝永・・・といった名高る武将もいました。
11月19日、戦いの火ぶたが切られます。
徳川方20万に対し、豊臣方10万!!22歳にして初陣の秀頼!!
しかし、それは荒々しい面構えで、総大将として堂々たる立た住まいずまいでした。
かつての秀頼の姿を見て涙する者も・・・。
秀頼は広大な城の各陣を馬で回って兵士たちを激励!!
また戦果を挙げた者には即座に褒美を与え、士気を上げます。
豊臣方は、兵の数では劣りながら善戦!!
巨大な大坂城を前に攻めあぐねる家康。
真田丸らの戦いで、甚大な被害が!!
しかし、徳川方が放った砲弾が大坂城の天守に命中。
その被害を目の当たりにした淀の方が、弱気になり・・・
12月19日和睦成立。
この時、家康が出した条件は、大坂城にいる浪人たちの追放のほか、城の堀の埋め立てでした。
和睦の際の取り決めでは、三の丸の堀と外堀は徳川が埋め、二の丸は豊臣が埋めることになっていました。
しかし、家康はその取り決めを破り、全ての堀を埋めてしまったのです。
本丸だけを残し丸裸となってしまった大坂城!!
徳川軍が退去した後、秀頼はすぐに堀の復旧と戦の準備を始めますが・・・
家康はそれを理由にまたもや出陣!!
行く当てのなかった農民たちが大坂城にいました。
まだ戦うのか・・・??
今度は、秀頼の到着を待ちます。
秀頼は、兵糧や材木を大阪城内に集めます。
火薬を作る準備も!!
豊臣対徳川・・・最後の暑い夏が始まります。

豊臣方5万5000VS徳川方15万!!
圧倒的な兵力差がありました。
それでも秀頼は総大将として本丸正門に陣を構えます。
その姿は、大いに豊臣方の士気を高めましたが、秀頼が出陣することはありませんでした。
この時、秀頼の元へ知らせが来ていました。
戦っていた豊臣の者たちが寝返って、秀頼が出撃すればそれを討つと・・・!!
秀頼は動くに動けなくなって、出陣の機会を失ってしまいました。
しかし、これは、家康のデマで・・・家康の策略にまんまとはまってしまったのです。
豊臣方の形勢は悪化・・・。
真田信繁らの有力武将などが次々と討ち取られていきます。
もはやこれまで!!
秀頼は、出撃し、戦場で討ち死にしようとしますが、周囲に止められ城に留まります。

そして、炎に包まれる大坂城で、母・淀の方と共に自害するのです。
1615年5月8日・・・家康が恐れた男・豊臣秀頼・・・このときまだ、23歳でした。 

焼け落ちた大坂城に秀頼の首はありませんでした。
あったのは、金2万8000枚と、銀2万4000枚・・・。
豊臣の財力を削ごうと暗躍した家康でしたが、その財力は、家康の想像をはるかに超えていました。
そして、この戦の後、京や大坂でこんなわらべ歌がはやりました。

花のよふなる秀頼さまを
鬼のよふなる真田が連れて
退きも退いたよ加護嶋へ

真田信繁が、秀頼を鹿児島へ連れていったというのです。
大坂の地を経済都市として栄えさせてくれた秀吉に恩を感じていた町人たちは、彼の愛した息子にはどうか生きていてもらいたい・・・と願っていました。
豊臣人気も、家康の想像をはるかに超えていたのかもしれません。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

敗者の日本史(13) 大坂の陣と豊臣秀頼 [ 関幸彦 ]

価格:2,808円
(2017/12/5 15:17時点)
感想(0件)

ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼 (新人物文庫) [ 「歴史読本」編集部 ]

価格:864円
(2017/12/5 15:17時点)
感想(0件)

このページのトップヘ