日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:前田利家

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戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

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戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

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1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

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天下人豊臣秀吉の居城・大坂城!!
三国無双と称えられたこの城で、400年前悲劇のプリンスが自害し果てました。
秀吉の息子で後継者の秀頼です。
追いつめたのは、江戸幕府を開いた徳川家康。
どうして家康は豊臣家を潰さなければならなかったのか・・・??

太閤豊臣秀吉には、心配事がありました。
秀頼のことです。
溺愛する息子はまだ6歳。。。
秀頼のために遺書を書きます。

「返々 秀よりこと たのみ申候 
 五人のしゆ たのみ申候

 此ほか にわおもひのこす事なく候」

ここで秀吉の補佐を頼んだ5人とは・・・
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・・・
豊臣政権を支えていた五大老です。
彼らに遺言を託した秀吉は、1598年8月18日にこの世を去ります。
その後、前田利家は秀吉の言う通り補佐につき、家康は伏見城に於いて豊臣政権の政務を行います。
しかし、最古参の前田利家が亡くなると状況が一変しました。
家康が天下取りに動き出したのです。
当時、大名同士の婚姻は、秀吉によって法律で禁止されていました。
しかし、家康は、自らの勢力を強めるために・・・蜂須賀家、福島家、伊達家・・・婚姻を結びます。
反家康派の家臣たちは激怒し、関ケ原の戦いが起こるのです。
徳川家の東軍と、豊臣家家臣の石田三成の西軍との戦いで、およそ20万が・・・!!
家康側には反石田派の豊臣恩顧の大名も加わり、豊臣家家臣団の内部分裂の側面でもありました。
しかし、秀頼をはじめとする豊臣家は参戦せずに中立の立場を取ります。
戦は半日で決着!!
徳川家の勝利により、家康の天下が近づきました。

徳川家康は大坂城へやってきました。
秀頼に対面してから西の丸に入ります。
これに先立って、家康は、秀頼と淀殿に・・・
「豊臣家は今回の戦には全く関係ないから安心してください。」と伝えていました。
しかし、豊臣家に気付かぬように・・・戦後処理として豊臣家の所領を勝手に分配・・・
秀頼の領地は、摂津・河内・和泉の三か国・・・65万7400石あまりとなってしまいました。
秀吉時代の1/3でした。
その家康が、秀頼の何を恐れていたのでしょうか??

①豊臣ブランド
関ケ原の戦いから4か月後の1601年1月29日、大坂城は賑わっていました。
9歳になった秀頼のもとに、公家や僧侶の中でも地位の高い豪華なメンバーが新年のあいさつに来ていました。
徳川の力が強まっても、彼らは変わらず豊臣家に敬意を払っていました。
庶民たちはもっと豊臣贔屓・・・。
家康が将軍のなる際には・・・
「内府様、将軍になれせられ
 秀頼様 関白に御成之由候
 目出度御事にて候」
と、家康が将軍になるのなら、秀頼はもちろん関白になると考えていたのです。

上方の豊臣人気の理由は・・・。
秀吉が天下人となってから、豪華になり、京都は再び活気を取り戻します。
秀吉が死んだ後も、秀吉に贈り物などして関係を築いていました。
当時日本に来ていたオランダ人も・・・
「大坂の城にいる秀頼さまは、前皇帝の子であり、日本の正当な皇帝である。」
そして、経済都市大坂を領地としている秀頼には豊かな経済力がり、諸大名や庶民から絶大な信頼を得ていました。
秀吉が作った城下町は、商人たちにとっては住みやすい町でした。
再び豊臣の世が戻ってくることを誰もが期待していました。
いまだに人気の豊臣ブランドなのです。
それを、家康は恐れていました。
豊臣家の象徴である秀頼をどう扱うのか・・・??
細心の注意を払う家康です。
なので、年始の挨拶も忘れず、素直に代わらぬ振る舞いをしていました。

その一方で暗躍します。
1600年に公家の九条兼孝が関白になります。
家康が、秀頼を関白にさせないために、仕組んだのです。
関白を武家から返すはじめということ・・・
これは秀吉の意志であったと・・・!!
関白を摂関家に返して、新しい武家関白の誕生を阻止したのです。
征夷大将軍は官位五位相当の役職で、関白は官位一位相当の太政大臣の上位に置かれる役職です。
家康は関白になれるのか・・・??
関白は摂関家でなければなれません。
秀吉は、摂関家になっているので、秀頼には関白になれるチャンスがあるからです。

家康が征夷大将軍になった年、秀頼は関白には慣れませんでしたが、正二位内大臣となりました。
一説には豊臣方をなだめるために家康の計らいだったとか・・・。
そして、この年、秀頼は結婚。相手は、家康の孫であり、淀殿の妹・お江の娘・千姫でした。
この婚姻は、もともと秀吉の遺言でした。
しかし、家康はこの婚姻に協力的ではありませんでした。
薩摩の島津家には、結婚祝いの上洛は無用と伝え、細川家には使者は無用としています。
それでも秀頼の元には多くの祝いの品が届きました。
太閤殿下の御威光はまだ残っている!!
衰えない豊臣人気!!


②豊臣家の財産
豊臣家の居城・大坂城には莫大な金銀が蓄えられていました。
金の量は、国全体の2/3もあったと言われています。
この莫大な財産こそ、家康が恐れていました。
打倒徳川の軍資金となるからです。
そこで家康は豊臣家の財産を減らす策に出ます。
寺社造営です。
家康は秀吉の菩提を弔うと称して自社の造営や修復を勧めます。
秀頼と淀の方は、秀吉が寺社造営を進めていたこともあって、家康の言葉を素直に受け入れます。
積極的に出雲大社をはじめ、名だたる神社仏閣の修復や造営を始めます。
その数およそ100!!
かなりの財産をつぎ込んでいきます。
その一方で、それは、改めて豊臣家の権威を見せつけることとなったのです。

この頃から家康の態度が変わってきます。
毎年行っていた年始の挨拶を止めます。
秀頼に来るように・・・と。
1605年、将軍職を秀忠に譲ります。
これは、将軍家は徳川家が世襲することを示していました。
政権を戻すつもりはない!!と言っているようなもの。
そして、秀忠の将軍就任に際して、秀頼に上洛するようにと言ってきました。
淀殿は、上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬと断固拒否!!
我が子秀頼を命がけで守ろうとしました。

まだ13歳の秀頼はどう思っていたのでしょうか??
幼いころから武芸、和歌、漢詩、兵学、儒学・・・あらゆる学問を当第一の学者に学んでいた秀頼は、14歳の時に明王朝の帝王学の教科書「定鑑図説」の和睦本を出版します。
優秀なブレーンアが要ることを示しています。
ひ弱でマザコンと言われる秀頼ですが、聡明で、強い自我と行動力を持っていました。

「自分こそが秀吉の後継者である!!」という強い思いが・・・!!

そして、その意志は住吉大社の造替工事にも見受けられます。
ここはかつて秀吉の母の大政所の病気平癒と延命祈願をした場所です。
住吉大社を建て替えることで、秀頼は豊臣家再興を願ったのです。
そんな秀頼に、牙を剥き出す家康・・・
駿府城三の丸の工事を始め、他の外様大名と同じように、秀頼にも労働力を差し出すように命じてきます。
しかし、秀頼は冷静で・・・年始や七夕には人を遣わして挨拶をします。
人々はそんな秀頼を”年長ずるに従い知勇加わる”と言いました。
豊臣家当主として年々頼もしくなっていく秀頼・・・!!

ある日・・・京の町に落首が・・・
”御所柿は 一人熟して 落ちにけり
          木の下にいて 拾ふ 秀頼”
御所柿とは、駿府城に隠居し大御所となった家康の事。
老いていく家康が自然と地に落ち、その政権を秀頼が拾うと・・・
二人の年齢差を皮肉り、豊臣家の復活を望んでいるのです。


③秀頼の若さ
1611年、家康は後陽成天皇の譲位の儀式のために、今日に上ります。
そして、秀頼を二条城に呼び出すのです。
秀頼は、それに応じ3月28日午前8時、二条城に到着。
一説には庭まで出迎えたという家康。
最後にあったのは11歳の時でしたが・・・19歳の秀頼は、身長197センチの大男に成長していました。
家康に続いて城内に入った秀頼に対し・・・
「ささ・・・お先に。」家康は秀頼を先に会見の場所に通し、対等の立場で話そうというのですが・・・。
秀頼はそれを頑なに断り、家康に上席を譲りました。

家康の二条城に秀頼が赴くということは、既に秀頼は家康より下の立場から・・・なのに、家康も対等に・・・と思うのですが、この時点では、家康の方が位が上でした。
秀頼の方が下に座るべきであろうと秀頼は家康に正しい礼を取ったと言えます。
先に秀頼を家に通そうとした家康の罠で・・・先に秀頼が入っていれば、礼節をわきまえない無礼な男として非難されるところでした。
そんな家康の策にはまらず、冷静に、自分の立場をわきまえて対応します。
2時間に及んだ会見で、合間には食事も・・・。
家康は、豪華なものでは遠慮がちになると吸い物だけを振る舞います。
ここでも秀頼に気を遣っているようで・・・会見の最後に家康は言い放ちます。

「太閤殿下の遺言では、秀頼殿が15歳になったら天下を治めていただく約束だったが、先の関ケ原の戦いで我を退治せんとし、起請を破ったのは秀頼殿であるから、約束を反古にされても仕方が無かろう」by家康

関ケ原の原因は秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことを宣言。
自らの行為を正当化したのです。
改憲の後、家康は秀頼のことを・・・

「大変かしこい人なり。
 他人の臣下となって、その命令に従う人物にあらず。」by家康

19歳の賢く頼もしい男・・・それに引き換え自分は70歳・・・。

二条城会見の数日後・・・大阪の秀頼の元へ、家康の子供たちが進物を携えてやってきました。
二人に対し秀頼は心のこもった返礼をし、家康にお礼の手紙を送ります。
この手紙は・・・家康に宛てた秀頼の挑戦状・・・??

「次にお会いしたときにお礼をします」と書いています。
その品を直接会って・・・つまり、返礼品が欲しければ、家康が直接会いに来るように・・・との事なのです。

二条城会見を外から見れば、家康に対して礼節を尽くした・・・ですが、家康に対して自分の方が上位であるという手紙の書き方をしているのです。
それは、秀頼と家康の間にしかわからない失礼な手紙でした。
秀頼はかしこい人だ・・・そう思う家康でした。

再建中だった方広寺の鐘・・・。
「国家安康」・・・家康という名が分断され、呪っていると難癖をつける家康。
これが、戦のきっかけになってしまいます。
徳川と豊臣の対立・・・もはや戦は避けられない・・・と、戦の準備が始まりました。
1614年10月、秀頼は莫大な資金を投じ、大坂周辺の米を購入。
武具などを城内に配備するだけではなく、大坂周辺にも壁を築き、籠城の準備をします。
さらに、秀頼は豊臣方について戦ってくれるように早い時点で諸大名に手紙を送っています。
それは、秀吉恩顧・・・毛利、島津、伊達にまで及んでいました。
結局誰一人、秀頼の求めには応じませんでしたが・・・どうして大名は、秀頼方につかなかったのでしょうか?
 
熊野権現の起請文・・・
家康は方広寺の事件以前に起請文を諸大名から取っていました。
徳川家に忠誠を誓う・・・なので、大坂の陣で豊臣方に協力しなかったのです。
結局、秀頼に着いたのは、関ケ原で戦って敗れた浪人たちだけ。
その中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、木村重成、毛利勝永・・・といった名高る武将もいました。
11月19日、戦いの火ぶたが切られます。
徳川方20万に対し、豊臣方10万!!22歳にして初陣の秀頼!!
しかし、それは荒々しい面構えで、総大将として堂々たる立た住まいずまいでした。
かつての秀頼の姿を見て涙する者も・・・。
秀頼は広大な城の各陣を馬で回って兵士たちを激励!!
また戦果を挙げた者には即座に褒美を与え、士気を上げます。
豊臣方は、兵の数では劣りながら善戦!!
巨大な大坂城を前に攻めあぐねる家康。
真田丸らの戦いで、甚大な被害が!!
しかし、徳川方が放った砲弾が大坂城の天守に命中。
その被害を目の当たりにした淀の方が、弱気になり・・・
12月19日和睦成立。
この時、家康が出した条件は、大坂城にいる浪人たちの追放のほか、城の堀の埋め立てでした。
和睦の際の取り決めでは、三の丸の堀と外堀は徳川が埋め、二の丸は豊臣が埋めることになっていました。
しかし、家康はその取り決めを破り、全ての堀を埋めてしまったのです。
本丸だけを残し丸裸となってしまった大坂城!!
徳川軍が退去した後、秀頼はすぐに堀の復旧と戦の準備を始めますが・・・
家康はそれを理由にまたもや出陣!!
行く当てのなかった農民たちが大坂城にいました。
まだ戦うのか・・・??
今度は、秀頼の到着を待ちます。
秀頼は、兵糧や材木を大阪城内に集めます。
火薬を作る準備も!!
豊臣対徳川・・・最後の暑い夏が始まります。

豊臣方5万5000VS徳川方15万!!
圧倒的な兵力差がありました。
それでも秀頼は総大将として本丸正門に陣を構えます。
その姿は、大いに豊臣方の士気を高めましたが、秀頼が出陣することはありませんでした。
この時、秀頼の元へ知らせが来ていました。
戦っていた豊臣の者たちが寝返って、秀頼が出撃すればそれを討つと・・・!!
秀頼は動くに動けなくなって、出陣の機会を失ってしまいました。
しかし、これは、家康のデマで・・・家康の策略にまんまとはまってしまったのです。
豊臣方の形勢は悪化・・・。
真田信繁らの有力武将などが次々と討ち取られていきます。
もはやこれまで!!
秀頼は、出撃し、戦場で討ち死にしようとしますが、周囲に止められ城に留まります。

そして、炎に包まれる大坂城で、母・淀の方と共に自害するのです。
1615年5月8日・・・家康が恐れた男・豊臣秀頼・・・このときまだ、23歳でした。 

焼け落ちた大坂城に秀頼の首はありませんでした。
あったのは、金2万8000枚と、銀2万4000枚・・・。
豊臣の財力を削ごうと暗躍した家康でしたが、その財力は、家康の想像をはるかに超えていました。
そして、この戦の後、京や大坂でこんなわらべ歌がはやりました。

花のよふなる秀頼さまを
鬼のよふなる真田が連れて
退きも退いたよ加護嶋へ

真田信繁が、秀頼を鹿児島へ連れていったというのです。
大坂の地を経済都市として栄えさせてくれた秀吉に恩を感じていた町人たちは、彼の愛した息子にはどうか生きていてもらいたい・・・と願っていました。
豊臣人気も、家康の想像をはるかに超えていたのかもしれません。


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威風堂々・・・三重県伊賀上野城。
その男、上野城の石垣を高さ30メートルまでに積み上げる・・・
四国・今治城では幅50メートルの堀を掘削・・・
大坂では桁外れの石垣を築きました。
その男の名は、藤堂高虎。
75年の生涯で築いた城は30以上に上り、築城の名手とされています。
卓越した技術力で、裸一貫から32万石の大名へ・・・!!

一方で、高虎は、裏切り者、風見鶏と言われています。
弱い主君を見切り、強い者になびく・・・7人以上の主君を渡り歩きました。
そして、遂には天下人まで乗り換えます。
人々はその生き方を批判しました。

築城の名手と裏切り者・・・そこには、日本の未来を決める大きな選択がありました。
きっかけは主君・豊臣秀吉の死です。
秀頼はまだ幼く、石田三成と徳川家康との間に主導権争いが勃発しました。
政権闘争の闇で、三成が密かに計画したのが家康暗殺計画でした。

それを知ってしまった高虎・・・どうする・・・??


京の都に近い近江・・・
1556年、高虎は、藤堂村で生まれました。
父親は、”渡り奉公人”と呼ばれる武士で、有力な主君を探し戦功をあげながら出世をする生き方でした。
しかし、その父親が期待するほど高虎は破天荒でした。
その気性は荒く乱暴で、190センチの身長を生かして、武士として身を立てることを目指していました。
高虎が武将として頭角を現したのは僅か15歳、はじめて仕えたのは浅井長政。
目覚ましい活躍で、それは、大名である長政が礼状を出すほどでした。

「その方は、今月20日、一番首を討ち取ること、他と比べようのない戦功だった。
 今後、さらに戦功を重ねるなら、一人前に取り立てよう。」

しかし、10代半ばで体も大きく悪い意味でも目立つ存在だった高虎。
気の荒さとプライドの高さから争いが絶えず、1572年、17歳の時口論となった同僚を切り殺し、浅井長政の元を出奔。
続いて仕官した阿閉家では、働きの悪い同僚二人に腹を立て斬殺。
その後、仕えた織田信澄は、戦功にあった恩賞を出さないため見限りました。
6年の間に高虎が仕えた主君は4人・・・。
高虎はどこに行っても長続きしませんでした。
そんな高虎の生き方が大きく変わったのが1576年、高虎21歳の時。。。

思わぬ大物武将・・・羽柴秀長から、是非召し抱えたいと声がかかったのです。
秀長は、高虎の故郷・近江国を攻略した羽柴秀吉の弟でした。
高虎を召し抱えるにあたって、秀長が提示した禄高は300石。
直前の主君による待遇80石のおよそ4倍・・・
高虎は、自分の価値を期待してくれる秀長に大いに感激し、二つ返事で引き受けます。
やがて本能寺の変の後、信長の後を継いだ羽柴秀吉は天下統一を目指し、近畿一円の統治政策を進めていきます。
そんな兄・秀吉のもとで、秀長は諸大名との調整役を担っていました。
そもそも秀長は、22歳の時に秀吉に乞われて百姓から武士になっていました。
温厚で誠実、和睦や調停を得意としていました。

「政務のことは私に任されている。
 絶対に悪いようにはしない・・・」

遠江の徳川、薩摩の島津、四国の長宗我部・・・秀長は、地方の大名の相談にも応じ、解決策を見出す役目でした。
そんな秀長に出会い、高虎は武力だけではない才能を開花させていきます。
1583年、但馬を攻略した秀長は、居城造りを高虎に命じます。
高虎は但馬の前領主が築いた山城を修復、石垣を大胆に使います。
主要な建物を、5mの石垣で囲み、強固な守りを築きました。
秀長は、高虎の見事な働きに、高虎の禄高を300石から460石に引き上げ、更なる活躍を期待します。
高虎の頭の回転が速いのを見抜き、城を作らせたり、山林を管理させたり・・・高虎の力を引き出していきます。
1585年、紀州を平定した秀吉は、この地の統治を秀長に任せます。
紀州は、天下統一の要となる拠点・・・城の築城を決め、その普請奉行に高虎を抜擢しました。
後に、和歌山城となるこの城の築城を命じられた高虎は、1万人を動員し、およそ1年で完成させてしまいました。
秀長と出会ったことで、新しい才能を開花させていく高虎・・・
主君を変え、渡り歩いていた暴れん坊が、築城の名手たる武将へと変わっていったのでした。
1585年、30歳になった高虎は、家老として秀長を補佐。
その頃、秀吉は天下統一を見据え、日本全体の統治体制作りに動き出しました。
それまで日本各地の村々は、武装した怒号や荘園領主がバラバラな方法で支配していました。
支配者や領民は、勢力争いを繰り返したので、地域社会は治安が悪く生産性もあがりません。
そこで、無駄を排し、統治体制の大改革を断行する秀吉。
これが、刀狩りと太閤検地でした。
まず刀狩りで、領民すべての武器を回収し、勢力争いや一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしました。
太閤検地は、地域でばらばらだった租税の単位を統一。
そのうえで、田畑の広さや土地の良しあしを調べ直し、大名が統治する土地の総合的な石高を算出。
その石高から年貢や兵糧、兵の数を正確に割り出し、全国統一基準で取りこぼしなく徴収を行いました。
この二つによって、秀吉は地域の支配者の力を弱め、中央集権体制を構築しようとしました。
しかし、全国に一律に税を徴収するということは、土地や作物をめぐる地域それぞれの事情が考慮されにくくなります。
年貢や兵糧を軍役が限度を超えて強制される事態を懸念して、民衆たちは各地で大規模な一揆をして抵抗します。
そんな民衆たちに厳しく臨む秀吉。
奥羽仕置き令には・・・
「仕置きに反対する者がいたなら、村という村、ことごとくなで切りにせよ。
 六十余州に固く命じ、山の奥、海は櫓櫂の続く限り、念には念を入れて執行するように。」
高虎は、他の武将に先立ち、改革の実行を任されました。
諸国に先駆け、紀州で刀狩りと太閤検地を実行することになったのです。
その時、高虎が築いたのが三重県の赤木城・・・跡が残っています。
城の周りを石垣で固め、攻め入ろうとする敵を上から攻撃できるように設計されています。
高虎は、この城を拠点に、抵抗する民衆500人余りを殺害し、太閤検地を強行!!
豊臣政権の武将として忠実に任務を遂行し、秀吉の大改革に向けて貢献したのでした。
ところがこの後、高虎の運命は大きく変わっていきます。

1591年、高虎を見込んでくれた秀長が病死。
やがて天下人秀吉が自らが高虎を配下に起きます。
その腕利きぶりを見込んで、伊予板島7万石の大名に抜擢します。
高虎は40歳にして、城持ち大名に出世したのです。
1595年、高虎40歳で宇和島に入ります。
ここで厳しい現実に出会うことに・・・
いざ領内を巡ってみると・・・その田畑は荒廃し、豊臣の大名を見る人々の目は憎しみに満ちていました。
高虎の前大名・戸田勝隆による刀狩りと太閤検地の強行、過度な弾圧の結果でした。
板島では大規模な一揆が発生、激しい弾圧で800人余りが捕らえられ、磔にして街道に晒されました。
戸田勝隆の兵に襲われ、2000人余りの百姓が殺されたといいます。
かつて秀吉改革の先兵として、刀狩り・太閤検地を強行してきた高虎・・・
今は、領主としてこの土地を立て直さなければならなくなったのです。
高虎は、豊臣政権の指示よりも、領国の復興を優先させます。
高虎が土地に入った4か月後・・・
荒れ地を開墾したなら、そののち1年は、年貢をとらないことを約束しています。
荒れた土地の開墾を奨励し、年貢の徴収を後回しにしたのです。
さらに力を注いだのが、民衆の信頼を回復することでした。
高虎は、地域で崇拝されてきた神社を私財を投じて厚く保護します。
領内にあるいくつもの神社を復興させていく高虎。。。
豊臣政権の一武将から、地域と共に生きる大名に・・・。
彼が求める天下の在り方も変わり始めていました。

天下の行方が急変・・・巨大な権力が集中する豊臣秀吉死去・・・
秀頼はまだ小さい・・・
豊臣官僚の五奉行と、大大名の五大老の中で、政治闘争が始まりました。
動き出したのは、政権一の実力者、五大老の徳川家康!!
大名間の婚姻の禁止といった決まりを無視し、政略結婚を進めます。
勢力拡大、政権の主導権をとる意欲を見せ始めました。
石田三成ら五奉行は、家康の行動は支障をきたすと激しく反発し、家康の行動を阻止しようとします。
高虎は難しい立場にありました。
家康は関東250万石を統治、全国一の石高を有する実力者・・・
家康は刀狩りや太閤検地を杓子定規に行うことに反対、土地の事情に応じて統治する為に、大名の裁量を拡大することを考えていました。
地方大名の事情に配慮することは、亡き主君・秀長も同様で、しかし、豊臣家直属の三成たちは秀吉の遺志を継ぎ、中央集権の仕組みをさらに推し進めることを目指していました。
あくまで中央の意志によって効率よく運営することで、安定した統治体制が築けると考えていたのです。
目指すべき道は、豊臣の世・・・??家康のまだ見ぬ国の形・・・??

秀吉の死からわずか半年・・・恐るべき情報を手に入れます。
石田三成らによる「家康暗殺計画」です。
五大老の重鎮・前田利家の病気見舞いの際に討つというのです。
大坂に屋敷のない家康は、伏見から船で八軒家の浜に来る・・・
前田利家の屋敷はそこから4キロの場所・・・
この道中で、家康を暗殺する・・・それが三成たちの計画でした。
家康を助けに行く??見殺しにする・・・??


慶長軍記によると・・・
1599年3月11日、家康は船で伏見を出発。
翌12日の朝、大坂・八軒家の浜に到着。
ところが船着き場には見慣れない駕籠が・・・あたりに人はいない・・・。
家康たちに緊張が走ったその時!!
駕籠から出てきたのは高虎でした。
「この先の道々には、家康様のお命を狙うものがいるという噂がございます。
 私が用意したこの駕籠にお乗りください。
 家康様の駕籠には私が乗ります。」
高虎を乗せた駕籠は、厳重な警護で先に出発・・・家康の駕籠は時間を置いて出発!!

前田利家の屋敷にたどり着きました。
高虎は、三成たちの夜襲に備え、大坂の自宅に家康を匿います。
警護は夜通し続き家康を守り抜きます。
この日を境に、高虎は家康支持を鮮明に打ち出します。
1600年、45歳の時に関ケ原の戦い・・・
家康と三成がついに激突!!
高虎は、三成側大名への寝返り工作に暗躍・・・家康を勝利に導きます。

1603年、48歳の時に家康が江戸幕府を成立させます。
高虎は、家康の側近に招かれ、献身的に支えていきます。
豊臣から徳川への主君の乗り換え・・・
この高虎の変わり身を、豊臣恩顧の武将たちは・・・「裏切り者」
しかし、高虎は、意に介することなく家康のもとで新たな国造りの礎を築いていきます。
関原の功績で、伊予20万石を与えられた高虎は、その復興に取り組みます。
拠点を今治に置き・・・これまでと全く違った城を・・・!!
今治城・・・平地に城を設け、御殿までの道程を、単純なものに・・・。
大名の権威を示す天守も簡素化・・・構造を規格化することで、巨大建築にかかる負担を軽減化・・・。
ほかの大名たちが天守を作るときの手本としました。
高虎は、太平の世を意識し、城を地方政治の舞台とし、設計しなおしたのです。
戦争のためのお城であると同時に、領国支配の政治のためのお城を築いたのです。

城を建設する時に必ず作ったのは城下町でした。
高虎は、城下町に職人や商人を集めるために租税を免除、経済を発展させようとしました。
そうして自ら領国の基礎を作ると、他の大名たちのところに出張し、各地を奔走します。
家康に命じられ、各地で15以上の城を作り、地方の発展に貢献したのです。
徳川政権より多大な評価を受け、三重津藩32万石の大名にまで上り詰めた高虎・・・
息子への遺言には、大名のあるべき志が・・・
「領国を将軍から預けられている間は、すべてのことに油断してはならない。」
領国は大名の私有地ではなく、あくまで将軍から預かったもの・・・大名はかりそめの主でしかない・・・
しかし、だからこそ、領国の全てに目を配り、大事にしなければならない・・・

1630年、藤堂高虎死去。
75歳・・・裏切り者と呼ばれても、自らの意志を貫き通した生涯でした。


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