日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:前田利家

1590年、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めました。
天下統一の総仕上げとなった戦場・・・そこに苦楽を共にした一人の武将の姿がありませんでした。
秀吉の弟・豊臣秀長です。兄が壮大な夢を叶えるのを見届けることなく、秀長はこの世を去りました。

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1582年6月2日、秀吉、秀長兄弟の運命の歯車が急速に回り始めました。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
信長の家臣として出世を重ねていた羽柴秀吉、この時46歳!!
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを受け急ぎ畿内へと引き返します。
中国大返しです。
この時、撤退する秀吉軍の殿を任されたのが、弟・秀長・44歳でした。
最後尾で敵の追撃を食い止める殿は、命を張って大将を守る危険な任務です。
これまで幾度となく秀吉軍の殿を務めてきた秀長・・・
この時も、明智光秀のもとに攻めあがる秀吉の背後を守る地味ながら重要な役割を一手に引き受けました。
そして迎えた明智光秀との山崎での戦い・・・
秀長は、勝敗を分ける天王山に布陣!!
この地の守りを固め、秀吉本体の突撃を援護、勝利に貢献しました。
強気に攻める秀吉に対し、守りを固める秀長・・・
そんな兄弟は、生い立ちからして対照的でした。

1537年、尾張国の農民の家に生まれた秀吉は、若くして家を出ます。
行商人として放浪したのち、武士を志し信長に仕えるようになります。
一方、秀長は、1540年、秀吉の3歳下の弟として生まれました。
真面目で働き者の秀長は、長男の秀吉に代わり農家を守っていました。
しかし、秀長が20歳を過ぎた頃、突然、秀吉が弟の元を訪れ、自分の家来になってほしいという・・・。
武士になるなど夢にも思わなかった秀長は困り果てたものの、兄の強引な誘いを断り切れませんでした。
以来、行動を共にするようになった2人・・・20年後、本能寺の変をむかえたのです。
山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉と秀長・・・ここから天下統一への兄弟の挑戦が始まります。

1583年、賤ケ岳の戦い・・・
秀吉は、信長の後継者の座をかけて、柴田勝家と戦います。
勝家軍は、北国街道を南下、それを琵琶湖の右岸で秀吉軍が迎え撃ちました。
布陣から一月後、両軍睨み合う中でハプニングが発生!!
信長の3男・織田信孝と、滝川一益が挙兵。
秀吉は戦場を離脱し、美濃に向かわなければならなくなりました。
後を任されたのが、秀長でした。

この時、秀吉から秀長に送られた書状が残されています。
秀吉が秀長に、どう戦闘を行うべきか、柴田軍と対峙するべきかの命令が書かれています。

”私が戻ってくるまでは攻め込んではならない”

この時も秀長は、秀吉から戦場の守りを任されたのです。
しかし、敵の大将がいなくなったのを知った柴田軍は、一斉に攻撃を開始。
窮地に立たされる秀長・・・それでも秀吉の命に徹し、守り続けました。
そこへ秀吉本体が美濃から引き返してきました。
形勢は一気に逆転し、戦いは秀吉軍が勝利!!

兄弟の連携によって、秀吉の後継者争いに一歩抜き出たかに見えました。
しかし、ここで二人に待ったをかける者が現れます。
徳川家康です。
賤ケ岳の戦いの翌年の1584年。
家康は、信長の2男・織田信雄の求めに応じて挙兵。
小牧長久手の戦いで、秀吉は家康に手痛い敗戦を被りました。
各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康・・・最大のライバルとして秀吉の天下統一に立ちはだかります。

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家康と敵対するうえで、戦略拠点となった城・・・それは、大和国の宇陀松山城です。
ここを難攻不落の城に大改修したのが秀長でした。
この城の東には、伊賀・伊勢、南には紀伊、そこには、家康と気脈を通じる勢力が根を張っていました。
伊賀衆、根来衆、雑賀衆・・・といった地侍集団の本拠地でした。
彼らは、小牧長久手の戦いでは家康と連携して秀吉を苦しめました。
もし、再び彼らが家康と結託して攻め寄せる事態となれば、秀吉は二方面から攻撃を受けることになってしまう・・・
その脅威を阻むためには、宇田松山城で、伊賀や紀伊の在地勢力を押さえ込むことが必要でした。
その為に、秀長は、この宇陀松山城の防御能力を飛躍的に高めようとしました。
東海より東に領地が広がる徳川家康・・・西に広がる秀吉。
両者がぶつかり合う地点を、秀長は堅固な城で守り通すのに成功します。
秀長は、秀吉の影の存在として、兄の天下取りを支え続けていたのです。

秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長・・・
46歳になった時、武将としての真価が問われる機会が訪れました。
1585年、四国攻めです。
小牧長久手の戦い以降、秀吉は徳川家康と手を組む勢力への対応に苦慮していました。
なかでも、秀吉に強く反抗し続けていた人物が・・・長宗我部元親です。
土佐の豪族から身を立てて、一代で四国全土を制覇した戦国大名です。
小牧長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣・本多正信が元親に畿内への出兵を依頼していたことが記録されています。
四国支配を目論むようになってきた秀吉には、服従しない姿勢を貫いていました。
業を煮やした秀吉は、対に自ら総大将となって、四国攻めに出ることを決断し、準備に取り掛かります。
しかし・・・直前になって秀吉は体調を崩したため、急遽総大将は秀長が任されることになります。
これまで影の存在となってなってきた秀長は、予期せず表舞台に立つことになりました。
徳島県土佐泊・・・秀長が率いる6万の軍勢が、ここに上陸しました。
秀長は、長宗我部方の前線の城を次々と攻略。
そして行きついたのが、阿波一宮城!!
四国山地の入り口に位置するこの城は、長宗我部の本拠である土佐へ侵入するのを防ぐ防衛拠点でした。
ここを突破すれば、四国攻めは一気に秀長側に形勢が傾くと考えられていました。
5000の長曾我部軍は、阿波一宮城に籠城します。
秀長は、川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き、およそ5万の兵で城を包囲しました。
城攻めを進めていた秀長・・・そこに、大坂から思わぬ知らせが届きます。
病のいえた秀吉が、出陣して来るというのです。
秀吉からの申し出に・・・指示に従い秀吉の出陣を待つ??それとも、秀吉の出陣を断わる??

四国攻めを行っていた当時、秀吉は別方面にも手ごわい敵を抱えていました。
家康に与していた佐々成政が、北陸で敵対行動を起こしていました。
佐々討伐のために、秀吉が発給した命令書が残っています。
記されているのは、前田利家・池田輝政・山内一豊・蒲生氏郷・細川忠興・・・名だたる武将への出兵要請でした。
兵の総勢は、5万7300!!
北陸で、四国攻めと同等の大きな戦が始まらんとしていました。
もしここで秀吉が四国攻めに参加すれば、佐々成政や家康に自由に動く機会を与えることになってしまう・・・!!

秀吉の出陣を待つべきか??自ら四国攻めを決着させるべきか・・・??

秀吉が四国攻めに参戦すると聞いた秀長は、思案の末、兄に書状を送りました。

”ご出陣は、殿の御威光を損ねます
 たとえ日数がかかっても、期待に応えますのでご出陣をおやめください”

秀長は、秀吉の出陣を断わり、自ら四国攻めをやり遂げることを選択しました。
これまで戦場では、兄からの命令を忠実にこなしてきた秀長が、自らの考えで行動することを決断した瞬間でした。

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鉄壁の阿波一宮城をどのように攻略すべきか??
秀長は一つの策を思いつきました。
貯水池を干上がらせるため、秀長は城の背後から侵入させ、水路を破壊しました。
水の手を奪われたことで、城の兵たちは慌てふためきました。
このタイミングで、秀長は長曾我部元親に和議を提案しました。

”城が落ちる前に降参すれば、元親殿の面目も保てるでしょう
 私に任せてもらえれば、良きように取り計らわせていただきます”

秀長は、どちらかが滅ぶまで戦うよりも、和議による道を探ります。
阿波一宮城が落城すれば、本領土佐への侵攻は避けられないと考えた元親は、提案を受け入れ降伏。
阿波・讃岐・伊予の三国は秀吉方に接収されましたが、秀長の計らいによって土佐は安堵されました。

一方、四国に来なかった秀吉は、北陸を攻め佐々成政を降伏させました。
各地の味方を失った徳川家康・・・
ここで秀吉は、思い切った懐柔策に打って出ようとします。
妹・旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所も家康のもとに送ろうとしたのです。
家族を事実上の人質に差し出そうとする兄に、秀長は猛反対!!強く意見したといいます。
この頃を機に、秀長は秀吉からいわれるがままに動かずにはっきりと反対意見もいう存在に変わっていきました。

1585年、秀長は、大和、紀伊、和泉の大名になります。
秀長が、領国経営の拠点とした大和郡山城!!
近年の発掘調査によって、この城について新たな事実が明らかになりました。

2014年に行われた発掘調査で、礎石が発見され大和郡山城に天守があったことが分かりました。
さらに、大坂城と同種の金箔瓦が出土したことから、豪華絢爛な天守であったことも明らかとなりました。
秀長が、煌びやかな天守を築いたことには、ある狙いがありました。
薬師寺、東大寺、興福寺を見ることができます。
大和国はもともと寺院や神社の力の強い地域でした。
寺社勢力は、広大な荘園からなる経済基盤を持つだけでなく、独自に兵を組織し、武力も備えていました。
武士にはなびかない厄介な相手に対して、天守を見せることで領主としての権威を示そうとしたのです。
豊臣が力を持ち、これからの時代は豊臣が中心の大和国である!!
そのメッセージを、いかにお寺のお坊さんたちに見せつけるか??意図して豪華にしたものです。

秀長は、寺社勢力と渡り合うために他にも知恵を絞っていました。
興福寺の僧が記した”多門院日記”には、秀長の行った政策が細かく記されています。

・多武峰(寺)が、弓・槍・鉄砲などの全てを秀長に差し出した
秀長は、強大な兵力を備えていた多武峰寺をはじめとする寺社から、武具や防具をすべて没収し、武装解除させました。
これは秀吉が行った刀狩りの3年も前のことです。
秀長は、戦乱の世を終わらせる方策をいち早く考えていたのです。
秀長が行った政策について、こうも記されています。

・土地の面積など書き、差し出すように申しつけられた
秀長は、所領の面積や米の収穫量を申告させる差しだしという検地を行いました。
申告内容は、細かく確認され、寺の土地はことごとく押し取られたというケースもあります。
実際、興福寺は、2度に渡った検地で、領地を1/5にまで減らされました。
秀吉は、大和国の検地をさらに改良した太閤検地を全国の大名に実施させ、長く続いてきた荘園制に基づく土地所有の在り方を一新させました。

秀長は、後に豊臣政権の屋台骨となる政策を先駆けとなってあみ出していたのです。

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1587年、九州攻めでは秀吉が肥後方面の総大将・・・秀長は日向方面の総大将となり、二方面から島津氏を攻略。
九州平定によって、東海より西はほとんど秀吉の支配する処となり、天下統一は目前となりました。
秀長はこの年、48歳にして従2位大納言に叙されます。
豊臣政権内では、秀吉に次いで高い官位です。
この頃になると、秀長は戦場よりも政治の場で重要な役割を担うようになっていました。
秀吉に謁見する為に上洛する各地の大名達・・・
血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも秀長の仕事となりました。
秀長の居城・大和郡山城に招かれた毛利輝元の言葉が残されています。

”お供の衆にまで気を遣われる大納言殿の心配りは、筆舌に尽くしがたい”

九州の有力大名であった大友宗麟は・・・

”内密の話は千利休だ
 公式な業務は私が執り計らうので安心してほしい”

大友宗麟は、豊臣ファミリーをこう評しています。

”秀長殿に頼ればすべて大丈夫である”

今や権力者となった秀吉に、意見を言える数少ない存在となった秀長・・・
最も強く反対したのは、朝鮮出兵の構想についてでした。
決して実行すべきではないと歯止めをかけ続けました。

1590年の北条攻め・・・秀吉の天下取りも最終段階に入ったこの戦に、秀長の姿はありませんでした。
1591年・・・病を患った秀長は、52歳でこの世を去りました。
秀長の葬儀には、20万もの領民が集まり、野山を埋め尽くしたと記録されています。
秀長に領地を奪われた興福寺の僧でさえ、こう記しています。

「これからこの国はどうなるのか、心細い限りである」

その心配は、ほどなくして現実となります。
秀長の死から1か月後、政権を内から支えていた千利休が、秀吉に命じられて切腹。
さらに翌年、秀長が頑なに反対していた朝鮮出兵が断行されました。
秀長亡き秀吉政権は、崩壊へと進んでいったのです。

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今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

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2020年5月、戦国史を揺るがす大発見がありました。
京都御苑の一角で、巨大な城の痕跡が400年ぶりに見つかったのです。
城の名は京都新城!!
当時の資料には登場するものの、その正体は幻とされていた城です。
さらに、金箔河原も出現。
五七の桐と呼ばれる紋様は、豊臣家を象徴するものです。
この城を築いたのは豊臣秀吉。
一代で天下人に上りつめ、戦国乱世に終止符を打った英雄です。
東西およそ400m、南北およそ800mに及ぶ壮大な城郭は、秀吉が無くなる1年前に築かれたことがわかっています。
秀吉が京都新城に込めた狙いとは・・・??



最晩年、病に侵されながら幼い秀頼を後継者と定めた秀吉・・・
徳川家康を信頼し、後事を託しました。
ところが!!秀吉の死後、家康は秀頼から転嫁を簒奪!!
豊臣家は敢え無く滅亡したとされてきました。
しかし、京都新城の発見によって、秀吉が秀頼と豊臣家を守るため周到な布石を打ってきた可能性が出てきました。
知略を駆使して戦国を駆け抜けた秀吉・・・
その最期の戦略、知られざる終活プラントは??

1582年6月2日、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により壮絶な死を遂げました。
本能寺の変です。
この時、織田家の有力家臣の中でいち早く抜きんでたものこそ羽柴秀吉でした。
逆心・光秀を討伐することに成功した秀吉・・・
卓越した軍略で、織田家筆頭・柴田勝家を破り、莫大な経済力で最大のライバル徳川家康を圧倒しました。
しかし、この時秀吉はすでに50歳近かったのです。
天下を掌握し、自らの覇権を維持するためには何をするべきか、盤石な政権を築くことが秀吉の課題でした。
大きな壁のひとつが、出自の問題でした。
九州の有力大名・島津氏は、秀吉の出自をこう記録しています。

”秀吉はまことに由来なき人物である”

農民出身の秀吉を、由緒のない低い身分の者とさげすんでいるのです。
そこで秀吉は、出自の問題を克服するため、朝廷の権威を利用しようとしました。

1584年10月、秀吉は、朝廷から従五位下(佐近衛権少将)に任じられました。
従五位下とは、殿上人として昇殿を許される最初の位です。
さらにその翌年、秀吉は異例の速さで昇進・・・関白にまで上り詰めました。
この時、朝廷から豊臣の氏を賜り、以降、豊臣秀吉と名乗ることとなります。
当時来日した宣教師は、その衝撃をこう記しています。

「秀吉が下賤な家柄から出世し、わずかばかりのうちに突然日本最高の名誉を手にしたことは、日本人すべてを驚嘆させずにはおかなかった」

さらに秀吉は、大名たちの統制をはかるために、独自の戦略に打って出ます。
秀吉の苗字である羽柴の姓を、有力大名に下賜する授姓という政策です。
徳川家康、毛利輝元、小早川隆景・・・いずれの大名も、羽柴と名乗っています。
一国以上もつ大名はほぼ全員が羽柴になって、羽柴姓だらけになる非常に珍しい体制となりました。
家制度、家柄を意識する日本社会の中でなかなかできることではありません。
秀吉は、自分自身が持っていなかったということもあってか、疑似的な一族意識、連帯感を持ちたかったのです。
そうせざるを得なかったのです。
しかし、秀吉にとって最大の問題は後継者問題でした。
秀吉と北政所の間には、実子がいませんでした。
その為秀吉は、信長をはじめ家康や前田利家など有力大名の子供を養子とし、家督相続に備えていました。
ところが・・・秀吉53差の時に淀殿が鶴松を出産。
これで後継者問題はひとまず落着しました。
その翌年・・・1590年7月、秀吉は小田原合戦で北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
この時点では、秀吉、豊臣家の天下は末永く安泰であるかに見えました。

実子・鶴松を正統な後継者とするため、秀吉はその下地作りを始めます。
有力大名の養子を他家へと転出させる一方、養子同志を婚姻させ、一族の結束を図りました。
ところが・・・そんな秀吉に火が気が襲いかかります。
1591年8月、鶴松死去。
秀吉の後継者問題は、再び暗礁に乗り上げます。
そこで秀吉は、自分の姉の子・甥の秀次を新たな養子としました。
血縁のある者が少なかった秀吉にとって、既に成人し、自らの天下統一を支えてきた武将は秀次しかいませんでした。
1591年12月、秀吉は秀次に関白職を譲ります。
正統な後継者としました。
養子となった秀次に、関白職のみならず聚楽第まで譲ります。
秀吉は、秀次に国内の政を任せると、海外制覇への野望を抱くようになります。
1592年4月、文禄・慶長の役が始まります。
総勢30万の軍勢が、朝鮮に侵攻しました。
鶴松が死んだことで、秀吉は動揺しました。
秀吉自身が大陸に行くということで、国内のことを誰かに任せなければなりませんでした。
そうなると、秀次を跡継ぎにとなりました。
自分が日本を留守にする間の総責任者として秀次を指名したのです。
しかし、1593年8月、秀吉が57歳の時に予想だにしない出来事が起こりました。
淀殿が再び懐妊し、拾・・・秀頼が生まれました。



秀吉の天下を受け継ぐ者はひとりだけ・・・!!
実子・秀頼か、関白・秀次か・・・??
果たして秀吉の選択は・・・??

当時の秀次側近の記録には、秀頼と秀次の娘が婚約を結ぶべきと秀吉が命じたとあります。
つまり、秀吉は、当初秀頼を関白・秀次の後継者とすることでこの問題を平和裏に解決しようとしていました。
秀頼が順調に成人を迎えるのか??
もちろん確証はありませんでした。
その期間は、秀次に安定して関白職を任せておけるようにしたいと思っていたようです。

1594年4月、秀吉に病魔が襲い掛かります。
病名は明らかではありませんが、当時の記録には・・・
秀吉は意識不明となり、小便を垂れ流したとあります。
同じ頃、秀吉の朝鮮侵略は膠着状態に陥り、出陣した将兵の間に厭戦気分が蔓延していました。
先の見えない対外戦争・・・自らの病・・・徐々に疑心暗鬼が生じた秀吉は、自らの後継者問題に残酷な決断を下すことになります。

1595年7月3日、奉行衆が秀次を詰問。
秀次とその家臣たちが、秀吉に対する謀反の談合をして、武具などを準備していたためだという・・・
その5日後には、秀次の関白職を剥奪し、高野山に追放。
そして・・・7月15日、秀次は切腹して果てました。
享年28歳とされています。

京都市にある秀次の菩提寺・瑞泉寺・・・
ここに、事件のあらましを記録した縁起絵が伝えられています。
京・三条河原で秀次の正室や側室34人、そして秀次の子供5人が次々と処刑されました。
秀吉は、秀頼の将来に禍根を残さぬように秀次の一族を抹殺しました。
さらにその矛先は、関白の政庁だった聚楽第にも向けられ、跡形もなく破壊しました。

事件後、秀吉は有力大名たちに起請文を提出させます。
第1条にはこうあります。
秀頼に対し、いささかも裏切るような心を持たず、お守り申し上げること。
非情な手段で秀次を排斥した秀吉は、こうして実子・秀頼を正統な後継者と定めたのです。

2020年5月、京都で戦国史に新たな光を当てる大発見がありました。
京都御苑の南東の一角で、秀吉が築いた城の堀跡の一部が見つかったのです。
地中深くから現れたのは、戦国時代に多く見られる自然石を積み上げた野面積の石垣です。
こうした石が、5,6段積み上げられ、その高さは2m以上あったと推定されます。
この城は、当時の記録に新城と記録されていることから京都新城と呼ばれています。
秀吉が後継者となる秀頼のために築いた城です。
さらに、堀跡からは、京都新城の性格をうかがわせる貴重な遺物が発見されました。
金箔瓦です。
金箔が施された瓦には、豊臣家を象徴する五七の桐と、天皇の象徴・菊の紋様が書かれていました。
京都新城は、豊臣の権威というだけではなく、公家の権威、両方兼ね備えたお城でした。
堀跡が発見されたのは、京都御苑の仙洞御所内の一角でした。
その後の調査で、堀の幅はおよそ20mあることがわかりました。
京都新城は、東西400m、南北800mにも及ぶ巨大な城郭だったと推測されています。

江戸時代初めに描かれた絵図・・・京都新城の北側は、公家屋敷に囲まれ、天皇の御所である内裏があったことがわかります。

京都新城とはどのような城だったのでしょうか??
京都市にある西本願寺に、戦国時代に築かれた貴重な建物が保存されています。
国宝・飛雲閣・・・桃山文化を代表する建築のひとつです。
池に面した三層に築かれた楼閣は、来客をもてなす場として使用されていました。
飛雲閣は、これまで聚楽第の遺構と考えられてきました。
しかし、その建築年代が聚楽第より新しい京都新城の年代に位置することから、最近の研究では飛雲閣が京都新城から移築されたものだと推定されています。

京都新城は、周囲を巨大な塀で囲み、塀の中に深い堀が築かれ、城内には庭園の池に面した公家屋敷風の建物などが立ち並んでいたとされています。
聚楽第の中心部とほぼ同じ大きさで、当時、洛中に作られたお城としては最大級でした。
豊臣政権の威信をかけて作られたお城でした。
秀吉が、秀頼の為この地に城を築き始めたのは、1598年4月。
亡くなるわずか1年前のことでした。



秀吉は、どうしてこの地に城を築いたのか??
京都新城の北側に当たる場所に、秀吉が城を築いた理由を紐解くものがありました。
土御門第跡・・・もともとは、藤原道長が屋敷を持っていた場所でした。
時の最高権力の所在したところが豊臣政権の本拠である・・・そんなメッセージが込められていました。
平安貴族を代表する道長の屋敷跡を取り込み、公家屋敷に隣接した場所に城を築いた秀吉。
それは、秀頼を公家と一体化させようとしたためではないかと思われます。
当時、秀頼の年齢は5歳・・・豊臣政権の頂点に君臨するにはあまりにも幼過ぎました。
秀吉は、秀頼を公家化することで、豊臣家を永続させようと目論んだのです。
最晩年の秀吉が築いた京都新城・・・果たしてそれは、秀頼を公家化しようとして築かれたのでしょうか??

1597年4月15日、秀吉は秀頼や家康などを伴い京都新城に入城。
この時、秀頼は朝廷から破格の待遇を受け、わずか6歳で家康に次ぐ位階・従二位権中納言を授けられました。
ところが・・・京都新城から伏見城に戻った秀吉は発病し、そのまま寝たきりの状態になったといいます。
幼い秀頼に、いかに豊臣家を継承させるべきか??
病床の秀吉は、最終的な決断を迫られました。
5月、秀吉は、大坂城の強化を命じます。
そして、秀頼の居城を京都新城ではなく、大坂城と定めたのです。
2003年の大坂城の発掘調査で見つかった全長240mに及ぶ障子堀の跡・・・堅固な大坂城の防御力をさらに高める目的で、秀吉が命令した普請の跡だとされています。
秀吉は、大坂城を改造するだけでなく、有力大名を家族ごと城内に人質として住まわせます。豊臣家を継ぐ秀頼には、朝廷の高い官位だけでなく、武家の棟梁としての働きを期待したのです。
7月15日、秀吉は、有力大名を集め、死後の政権運営を11箇条にまとめたものを披露します。
そこに記されたのは、秀頼を支える大名たちの役割です。
伏見城には徳川家康が居住し、大坂城は秀頼の居城であるから前田利家がお守り役としてすべてお世話願いたい。
秀吉は、特に徳川家康と前田利家に秀頼を盛り立ててくれるよう依頼しました。
そして、8月5日、秀吉は、家康たちにあて最後の遺言を書き残しました。

”かさねがさね秀頼のこと、頼み申し候
 何事もこの他に思い残すことなく候”

この13日後、豊臣秀吉死去。
享年62歳でした。
そののち、秀頼は新たな豊臣政権のTOPとして君臨。
幼い秀頼を石田三成などの五奉行や、徳川家康を筆頭とする五大老が補佐する体制が整えられました。
ところが、やがて徳川家康がその本性をあらわにします。
秀吉が生前に定めた御掟にはこうあります。

”諸大名間の縁組は上様の御意を得て決定すること”

家康はこの御掟に反し、諸大名との姻戚関係を独断で結びました。
さらに家康は、伏見城に居住という秀吉との約束を破り大坂城に入城し、そのまま居座るばかりか新たに天守まで築きました。
家康は専横を極めました。
それを激しく糾弾したのが五奉行の石田三成でした。
やがて二人の対立は、家康を盟主とする東軍と、三成の西軍に二分。
全国を巻き込む内乱へと発展しました。
そのさ中、1600年8月29日、西軍が京都新城の堀や石垣を破壊。
史料には、禁裏のご近所の故なりrとあります。
天皇の御所が、両軍の戦いに巻き込まれないよう配慮したといいます。
秀頼の退去後、京都新城には北政所が移り住んだと記録されています。
この時の破壊に、彼女がどうかかわったのか、真相は定かではありません。

その15日後・・・9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが勃発。
戦に勝利した徳川家康は、やがて征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
豊臣家が滅亡したのは、そのわずか12年後のことです。

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1600年9月15日に起きた天下分け目の関ケ原の戦い・・・
西軍を率いる石田三成と、東軍率いる徳川家康が激突しました。
時を同じくして、遠く離れた北の地でもう一つの関ケ原が繰り広げられていました。
慶長出羽合戦です。

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慶長3年8月18日、天下人豊臣秀吉が亡くなると、一時期平穏だった世の中に暗雲が漂い始めます。
豊臣政権を支えていた五大老筆頭の徳川家康が、暴走始めたのです。
家康は、自分以外の大老を帰国させるとで全権を掌握していきます。
さらに、反家康の急先鋒であった石田三成を追放するなど、邪魔者を次々と排除していきました。
同格だった大老・前田利家亡き後、虎視眈々と天下を狙う家康にとって、もっとも目障りだったのが上杉景勝でした。
先代・上杉謙信の跡を継ぎ当主となっていた景勝は、会津120万石の大大名で、豊臣政権を支える東日本の要となっていました。
家康は、そんな景勝を潰しにかかりますが・・・
真っ向から立ち向かったのが、上杉家の名参謀・直江兼続でした。
兼続は、1560年、越後国に生れました。
父が上杉家に仕えていましたが、地位は低く、恵まれた環境ではありませんでした。
兼続の運命が大きく変わったのが、5歳の時。。。
上杉景勝の世話が狩り・・・近習として取り立てられます。
幼いころから聡明だったといわれる兼続は、どんな人物だったのでしょうか??

景勝が、上杉謙信の養子となって迎えられ春日山城内に入った時、共に春日山上に入り、上杉謙信という名将の義の心を学んでいます。
名を上げるきっかけとなったのが、上杉家の家督相続争いでした。
謙信亡き後、養子であった鐘勝人景虎との間で跡目争い・・・1578年御館の乱勃発!!
直江兼続の行動は迅速でした。
春日山城内の御金蔵を押さえます。
その判断がなければ景勝が負けていた可能性がありました。
この戦に勝利した兼続は、その後も数々の武功をあげ、上杉家のNo,2となっていきます。

直江兼続の兜の前立ての愛には、どんな意味があるのでしょうか??
それは人間愛だけではありません。
兜の愛の下には雲がかかっています。
当時、武将たちは軍神を信仰していました。
愛宕勝軍地蔵・愛染明王・・・雲の上に乗っている神様の意味でした。
軍神を表す愛の文字・・・軍略に長け、主君のため忠義を尽くし、戦い続けた兼続らしい兜です。

1600年4月13日、上杉家のNo,2となり、政治・軍事を取り仕切っていた兼続のもとに、上杉家を揺るがす1通の手紙が届きます。
上杉討伐を狙っていた家康の命によって送られた弾劾状です。

”越後の堀秀治が、景勝のことについて家康さまに訴えているので、景勝の陳謝が必要である”

とありました。
当時、上杉家は、越後から東北の重要拠点である会津へと国替えになったばかりでした。
その後、越後に入ってきたのが堀秀治でした。
問題は年貢・・・越後国の年貢の半年分を、上杉は徴収しました。
そこで、堀秀治が直訴したのです。
さらに、弾劾状には家康が上杉に対して不信感を抱いている旨が書かれていました。

ひとつは景勝が家康に挨拶に来るための上洛が遅れているということ、もうひとつは、上杉家が道や橋を整備し、武具を集めているということです。
これらの動きを謀反のための戦の準備をしているのでは??と、いうものでした。
書状を受け取った兼続は、すぐに返事を認めました。
それが、関ケ原の戦いの発端となったといわれる直江状です。
謀反の疑いをかけられた上杉家の危機に、兼続が出した返答とは・・・??

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家康が、上杉に謀反の疑いをかけ送りつけた弾劾状に対し、直江兼続が返した直江状とはどんなものなのでしょうか??
それは、長さ4m、16ヶ条にも及ぶ長い書状で、見た家康は激怒したといいます。
内容は、家康の弾劾状に対しての反論だったからです。
驚くほど丁寧に反論しています。
そして、主君・上杉景勝の上洛に対しては、家康に真っ向から反論します。
それは言いがかりであると・・・!!

主君・上杉景勝が上洛を引き延ばしているという批判に対しては・・・

”国替えがあって程なく上洛し、昨年、ようやく国に戻ったのにもかかわらず、また上洛せよとは・・・
 それではいつ、領国の政務を執ったらよいのでしょうか
 ことに、こちらは雪国なので、十月から三月まではどうすることもできません”

冬の会津の悪条件を述べ、再三にわたる上洛命令を非常識としながら、家康に対し謀反の意がないことを示しています。
また、上杉を訴えた堀秀治への陳謝の上洛に対しては、堀を讒人・・・人を陥れる悪人と言い放ち、

”讒人が言っていることを厳しく糾明してこそ、御懇切の証拠であるのに、理由もなく逆心と言い上洛を命じるのは乳呑み子のような扱いです
 讒人の糾明がないうちは、上洛はできません”

兼続は、きっぱりと上洛を拒否し、さらにこう続けます。

”主君・景勝が間違っているのか、内府様・家康公に表裏があるのか”
”上杉家累代の律儀の名と、弓箭の覚えまでも失ってしまうことになる”

それがたとえ家康の命令であっても、上杉家の家名にかけて間違ったことはできないというのです。

直江状を受け取った家康・・・
書状に激怒する一方で、伏見城の広間でほくそ笑んでいた・・・??
1600年5月、直江状に激怒した家康は、上洛拒否を明言した上杉家の討伐を決断し、直ちに諸大名に出陣命令を下します。
側近たちは諫めたものの・・・家康は聞き入れません。

もう一つの関ケ原・・・慶長出羽合戦まで79日!!

1600年6月18日、家康自ら総大将となって息子・秀忠と共に会津に進軍を開始しました。
さらに、陸奥・伊達政宗、出羽・最上義光にも兵を出させ、15万を超える大軍勢で上杉包囲網を作りました。
強大な徳川軍を迎え撃つこととなった上杉景勝と直江兼続は、徳川軍撃破のため周到な作戦を立てます。

福島県白河市・・・ここに、兼続の作戦を知るある物が残されています。
兼続が、徳川軍をせん滅するためにしかけた罠・・・革籠原防塁です。
高さ4m、幅7mの防塁で、総延長は3キロメートルにも及びました。
上杉軍は、まず先陣である秀忠軍と交戦・・・敗北したと見せかけて、軍勢を革籠原防塁までおびき寄せます。
そこに水を引き込んで、ぬかるみを作り、秀忠軍を足止めさせ、待ち受けていた援軍によって攻撃・・・さらに、救援にやってきた家康の本体を別動隊が襲い、徳川軍を一気に壊滅させるという計画でした。
この防塁を作るにあたって、兼続は6万人を動員し、3か月で作ったとされています。
兼続は、奥州街道を封鎖し、敵が確実に革籠原に来るように新たな道を作り誘導・・・
総勢8万4000の軍勢で迎え討とうとしていました。
兼続の周到な戦略はそれだけではなく、江戸時代に書かれた”史料綜覧”によると・・・

”これより先、石田三成、密かに陸奥・会津の上杉景勝と通じ、徳川家康の東下に乗じ、兵を挙げんことを謀る”

関ケ原の戦いで、西軍の指揮官となる石田三成と、上杉家とが通じていると書かれているのです。
上杉家の領国・会津若松にも、三成との関係を伺える記録が残されていました。
国替えとなった際に、会津の村人たちに出されたお触れの最後には・・・
直江兼続に加えて、石田三成の署名が記されています。
村人に対するお触れに、他の国の武将が署名するのは珍しいことでした。

上杉だけでは困難な会津への国替えを早急に遂行するために、三成が手を貸していたのです。
上杉のNo,2が兼続、豊臣家のNo,2が三成で、2人は同い年でした。
信頼しうるような関係で、反家康という利害でも一致、盟友という関係でした。

直江兼続と関ケ原 [ 福島県文化振興財団 ]
直江兼続と関ケ原 [ 福島県文化振興財団 ]

打倒・徳川家康・・・直江兼続と石田三成が練っていた策とは・・・??
まず、家康を上杉討伐に向かわせることで、上方を手薄にし、その上で三成が挙兵!!
さらに、佐竹氏ら有力大名と結託し、会津と上方から家康を挟み撃ちにするという大戦略です。
兼続は、この一戦に天下をかけていました。
豊臣家のために、家康の暴走を止め、上杉の存在を認めさせたいと・・・!!

1600年7月24日・・・会津の上杉討伐に乗り出した家康は、上杉軍の目と鼻の先・下野小山に到着しました。
そんな時、先陣を切った男がいました。
家康から上杉討伐の命を受けていた伊達政宗です。
政宗は、白石城を攻撃し、上杉軍を追い詰めますが・・・この行動に家康は激怒・・・!!
闘いをはじめろとは言っていなかったのです。
そんな家康に、この日・・・石田三成挙兵の一報がもたらされます。
三成に従う諸大名が、大坂城に集結しているという知らせに、家康はすぐに会議を開きます。
世に言う”小山評定”です。

家康は、上杉攻めを中止し、上方に戻ることを決断!!
大名たちは驚きましたが、家康には目論見がありました。
会津攻めは、三成挙兵の誘い水だったのです。
これ以後は、家康の計算された行動でした。

直江状を受け取った家康は、ひっそりとほくそ笑んでいたのは、これをうまく使えば三成を担ぎ出し、戦いの口実を作ることができると考えたからでした。

もう一つの関ケ原・慶長出羽合戦まで33日・・・
1600年8月5日、家康は上杉討伐を中止し、三成を討つために江戸にもどります。
しかし、そこからはなかなか動けず・・・その理由の一つが、共に戦う豊臣ゆかりの武将たちが、最後まで家康支持を貫くかどうかという不安があったためです。
それを見極めようと、家康は122通にも及ぶ書状を出し、東軍内部の体制固めに1か月を費やしました。
さらに、家康を江戸に足止めしたのには・・・江戸城を離れ出陣した際に、上杉・佐竹軍が背後から攻め上ってくると徳川軍は挟み撃ちの危険があったからです。
しかし、まさに、これこそ直江兼続と石田三成が建てた徳川壊滅作戦の筋書きでした。
徳川軍の崩壊は、上杉軍にとって千載一遇のチャンスでした。

「殿、直ちに追撃いたしましょう
 後退した今、徳川を討てるまさに最良の時・・・三成と挟み撃ちすれば、勝利は我らのもの!!」by兼続

しかし、どんなに説得しても、景勝は首を縦に振りません。

「謙信公は敵の背後を襲うことはなかった」by景勝

追撃を許さなかったのです。
兼続は諦めるしかありませんでした。
しかし、この時上杉軍は、家康を追撃する状況にはありませんでした。
戦術に長けていた兼続ですが、にっくき家康を討ちたいという思いの強さから先走ってしまったようです。
上杉軍は、完全に包囲されていました。
北には最上・伊達が、西には越後の堀がいたのです。
この状況を打破するため、兼続は越後での一揆を画策します。
弟を越後に侵入させ、一揆を続けたことで、堀をくぎ付けにしました。
問題は、家康が上杉軍を押さえるために残していった伊達と最上でした。
追撃されることを恐れた家康が、上杉軍への圧力として残した伊達軍と最上軍・・・
しかし、残された両軍は、家康が引き揚げたことでかなり動揺します。
政宗は、上杉軍に停戦を申し入れます。

伊達な文化の伝承と記憶 伊達政宗公生誕四五〇年記念 [ 古田義弘 ]
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残るは最上軍!!
それが慶長出羽合戦です。
1600年9月9日・・・直江兼続を総大将とした2万4000の上杉軍が、最上領に進軍します。
120万石を有する上杉に対し、最上は20万石でした。
城攻めを得意としていた上杉軍は、最上軍の城を次々と落としていきます。
ここには、軍略に長けた兼続の狙いが・・・
上杉の所領が、最上と分断されていました。
それが手に入れば、背後を取られることはない・・・と、最上領に侵攻したのです。

9月15日、戦を優位に進める兼続は、最上軍最後の砦・長谷堂城へ総攻撃をかけます。
そして、まさにその日・・・美濃の関ケ原では、東西16万の軍勢が対峙していました。
関ケ原の戦いです。
家康率いる東軍7万2000と、三成率いる西軍8万4000!!
兵力では、家康は不利な状況にありました。
午前8時・・・天下分け目の戦いの火蓋が切られ・・・両軍互いに一歩も引かない攻防戦が続きました。
一方、北で繰り広げられていたもう一つの関ケ原の戦いは・・・
上杉軍2万4000に対し最上軍はわずか3000!!
上杉軍が圧倒的有利に立っていました。
しかし・・・何日たっても城を落とせません!!
そこには、直江兼続の誤算がありました。
長谷堂城は、標高230mほどの丘陵に立つ小さな山城です。
しかし、本丸を中心にして無数の防御陣地を備え、山全体が水堀で固められた守りの堅い城でした。
さらに、城の周囲には田園地帯が広がり、これが上杉軍の進軍を阻んだといいます。
ぬかるんだ田んぼに足を取られ、なかなか前に進めませんでした。
なんとか外堀まで侵攻するものの・・・山の上から鉄砲の集中砲火を浴び、多くの兵を失ってしまいます。
思わぬ持久戦となった上杉軍を、さらに追い詰めたのが、最上軍に伊達政宗の援軍が到着したことでした。
敵の士気は一気に上がりました。
そんな中、兼続に思わぬ知らせが届きます。

関ケ原で西軍・石田三成敗れる・・・!!

予想外の、わずか数時間の戦でした。
このままここに残っていては、戻ってきた徳川軍との挟み撃ちにあってしまう・・・
主君・上杉景勝からは、即時撤退の命令が下されました。
直江兼続・・・無念の撤退でした。

10月1日、兼続は撤退を開始しましたが、敵地から追撃を受けながら2万もの大軍を引かせるのは至難の技でした。
兼続は、会津に繋がる狐越街道に敵を集中させようと、一計を案じました。
兼続率いる部隊がおとりとなって狐越街道に後退し、それを伊達・最上に追撃させます。
そのすきに、別の道を使い上杉本体を本国に撤退させるという作戦でした。
この時、直江兼続は自ら殿を務めて闘ったといいます。

兼続の活躍により、上杉軍は3日後には米沢に到着。
こうしてもう一つの関ケ原も、西軍の敗退という結果で終わったのです。

暴走する家康を止めたい・・・上杉家の存在を知らしめたい・・・
強い思いで家康に戦いを挑んだ北の関ケ原・・・
その戦に敗れた兼続は、主君・景勝と共に家康の元を訪れ謝罪・・・
そして、会津120万石から米沢30万石に減封を命じられるのです。

徳川家に従うことになった上杉は、大坂冬の陣で大活躍、家康に勲功を讃えられた兼続は、こう答えました。

「慶長出羽合戦に比べれば、大坂の陣など簡単で、子供の喧嘩のようでした」by兼続

戦に負けてもなお、武士としてのプライドは健在でした。

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1590年、豊臣秀吉が天下を統一!!
しかし、ようやく終止符が打たれたはずの戦国の世は、2人の武将の反目によって大きく揺らぎだします。
武勇秀でだ強者・加藤清正と、頭脳明晰な切れ者・石田三成です。
そんな2人の亀裂が、あの関ケ原の戦いを招くことになりました。

1574年、近江・長浜城・・・
織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、この地で初めて一国一城の主となりました。
有能な二人の少年が、臣下に加わりました。
石田三成と加藤清正です。
三成は、当時15歳、秀吉の身の回りの世話をする近習番として仕え、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
一方、清正は、三成の2歳年下で、剣術の才能に恵まれ、武芸に秀でていました。
2人はともに秀吉にかわいがられ、切磋琢磨しながら成長していきます。

そして・・・最初にその名を轟かせたのは清正でした。
1583年、近江国・賤ケ岳・・・信長亡き後、次なる覇権をめぐって秀吉と柴田勝家が激突!!
主君・秀吉の命運をかけた戦いで、何としても手柄を立てたいと血気に逸る清正でしたが、乗っていた馬が足を痛めて使えなくなります。
すると・・・「馬が駄目なら走って秀吉さまのお供をしよう!!」
なんと、50キロの道のりを走り通したのです。
そればかりか、戦場につくや否や敵将・山路正国を討ち取り、七本槍の一人として功名をあげました。
その後、清正は、戦で活躍する武断派の中心として秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には、功績が認められ、肥後国54万石の北半分、25万石の大名となったのです。

一方、三成は、胃腸が弱かったので戦場に出ると緊張するのかよく腹を壊して大きな武功をあげるどころではありませんでした。
その代わりに、豊臣家臣随一の才知を活かし、戦での食料や武器、兵員の調達など、兵站を担当!!
裏方として活躍します。
こうして二人はそれぞれの分野で秀吉に貢献していきます。

逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]
逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]

そして1590年、秀吉は最後まで抵抗していた小田原の北条氏を破ると、天下取りが実現します。
それはまさに、三成と清正の夢が叶った瞬間でもありました。
しかし、この天下統一が二人を引き裂いていきます。
平和な世の中になったことで、武功を立てて出世する武断派の活躍の場・・・戦が無くなってしまいました。
そんな武断派と入れ替わるように台頭したのが、豊臣政権の政務を取り仕切る奉行派です。
その中心だった三成は、秀吉の天下を不動のものとするため、天才的政策立案能力を発揮します。
一揆を未然に防ぎ、法治国家としての治安を維持する刀狩りや、租税の大元となる田畑の測量・太閤検地を全国的に実施するなど、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そうした奉行派・三成の重用に対し、武断派の清正は反発するようになっていきます。

佐賀県唐津市・・・かつてこの地にそびえていた名護屋城は、秀吉が新たな戦いのために造った城です。
1591年、築城を任されたのは、城づくりの名人と言われた清正をはじめとする九州の大名達でした。
清正はわずか5か月で、巨大な天守を中心とする多数の櫓が立ち並ぶ、大坂城に勝るとも劣らない城を築き上げたといいます。
さらに、周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、その陣容はかつてない大戦の始まりを告げていました。
それこそ、天下統一を果たした秀吉が、朝鮮半島に攻め入る、そこから明の征服を目指すという朝鮮出兵です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが、朝鮮半島に近い九州肥後半国の領主だった清正でした。
秀吉から同じく肥後を納める小西行長と共に、その先陣を任されたのです。
奉行派に主導権を握られていた清正にとって、まさにチャンス!!
清正は、朝鮮半島に渡る前、こう語っています。

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい」by清正

清正にとって、朝鮮出兵は自らの領地を増やす新しい夢の始まりでもあったのです。

一方、三成は朝鮮出兵に大きな疑問を感じていました。
政務を取り仕切る奉行派・三成にとっては、

「今大切なのは、豊臣の世を不動のものとする国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし・・・」by三成

そこで、秀吉に異を唱えたものの、聞き入れられず、主君に従う他、ありませんでした。

1592年、遂に日本軍15万9000が、海を渡り朝鮮半島に上陸・・・
この大軍のうち、1万人余りを率いる司令官を任された清正は、陣頭指揮に立ち、釜山に上陸し北上・・・瞬く間に朝鮮国の都・漢城(ソウル)を陥落させます(文禄の役)。
そして、朝鮮の二人の王子を捕らえ、明との国境まで進軍するなど破竹の快進撃!!
まさに、武断派の面目躍如でした。
流れ星型兜をかぶり、南無妙法蓮華経と染め抜いた旗を持った清正は、朝鮮の兵士たちから鬼上官・幽霊将軍の異名で畏れられたといいます。
しかし、時間がたつにつれ、戦況が様変わりします。
朝鮮各地で民衆が蜂起し、朝鮮水軍が活躍し出すと、日本軍の補給路が絶たれ、食料などが枯渇・・・
苦境に立たされてしまったのです。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参戦・・・
猛烈な反撃を受け、戦況は膠着状態に陥り、戦が長期戦になった事で、大軍を維持するための膨大な食料と武器が必要となりました。
この危機的状況を打開するため、秀吉に代わって朝鮮半島に渡ることになった三成は、こう考えていました。

「早期終戦に向けた講和しか道はない・・・」by三成

すると、その三成の渡航が清正をはじめとする異国で戦う武将たちの反感を買うこととなったのです。
清正たちは血みどろの戦いをしていました。
そこに食料も来ない・・・食料を送る役が三成たちでした。
その三成たちが乗り込んできた・・・自分たちを監督しに来たという思いで見ているので、清正としては余計に反発したのです。
三成は、戦による消耗を最小限に抑えるため、親しい関係にあった小西行長と共に講和に向けて動き出します。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた二人の朝鮮国王子の引き渡しでした。
これに猛反発したのが清正です。

「我々は、何のためにこの過酷な戦を戦ってきたのか!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって、明との講和は承服しがたいものでした。
すると・・・講和交渉に反対する清正に、秀吉からの突然の命が下ります。

「即刻帰国せよ!!」by秀吉

もっとも武功をあげた清正に、まさかの帰国命令・・・そして、そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は三成の謀略ではなく、秀吉に戦況を正しく報告した結果でした。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎になったと思い込んだ清正は、ますます三成を忌み嫌うようになっていきます。

1583年、豊臣秀吉、関白就任!!
諸大名が直接秀吉に謁見したり、献上品を手渡したりできなくなります。
その為、窓口となったのが、側近の石田三成でした。
秀吉に気に入られるかどうかは、三成の口利き次第・・・
もし三成の機嫌を損ねれば、秀吉に何を言われるかわからない・・・
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏すしかありませんでした。
そんな絶大な権力を握った三成には、諸大名からの賄賂が殺到!!
ところが、三成は、私腹を肥やすことなく、そのことごとくをはねつけてしまいます。
良く言えば、清廉潔白、悪く言えば融通の利かない男・・・
主君・秀吉のためにと働けば働くほど、逆恨みする者が増え、敵を作ってしまいました。
しかし、三成は、秀吉のせいでどんなに悪者になろうとそばから離れませんでした。

秀吉からある時、九州の大名にとの話がありました。
石高は倍・・・しかし、三成は断っています。
秀吉の周りで豊臣政権を支える人物が無くなってしまうからです。
三成は、今まで自分のしてきたことが、豊臣政権を支えてきたという自負があったのです。
三成なりの国づくり・・・三成のロマンだったのです。

秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]
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秀吉への忠誠心なら、加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵で有名な清正の虎退治・・・
実は、この話には清正の秀吉への思いがありました。
一説には、家臣のために虎を退治したと言われていますが・・・
実際は、世継ぎができなかった秀吉のための虎狩りで、精力剤として当時、朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に送るように武将たちに命じ、清正自身も虎狩りを行ったというものでした。
清正の虎退治は、彼の勇敢さを示すと同時に、秀吉への忠誠を表すエピソードだったのです。

1596年、慶長伏見地震・・・近畿地方を襲った大地震でした。
この大地震が発生した時、秀吉のいる伏見城に真っ先に駆けつけたのが甲冑をまとった清正でした。
地震に乗じた反乱を案じ、戦支度を整えて駆けつけたのです。
清正が一番乗り・・・
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎をといたといいます。
こうして、秀吉の許しを得た清正に、再びチャンスが巡ってきました。
三成や小西行長が進めてきた講和が破談となり、秀吉は朝鮮への再出兵を命じることになったのです。

朝鮮出兵に、一度は失敗した秀吉でしたが、その野望は捨てきれず、今度は朝鮮南部を占領するため、二度目の出兵を決めます。
秀吉の命を受けた加藤清正は、再び1万の兵を引き連れ朝鮮半島へと渡ります。
慶長の役(1597年)の始まりでした。
しかし、その戦いは・・・前回にもまして、過酷なものでした。
南部に侵攻した清正は、戦に備えていた明と朝鮮の連合軍に猛攻撃されてしまうのです。
食糧などが尽きた日本軍は、各地で苦戦を強いられ、清正の軍も全滅寸前にまで追い詰められてしまいます。
この危機的状況に、石田三成は日本から援軍や食料、武器などを送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまったために、十分な輸送ができませんでした。
そんな三成の事情は、戦の最前線には届かず・・・
清正の三成に対する不満や恨みは、募る一方でした。

1597年12月、日本軍に絶体絶命の危機が訪れます。
明と朝鮮の連合軍は、日本軍の蔚山城を奇襲・・・
劣勢に立たされたこの戦いで、日本軍は500人近くが討死・・・
その後、蔚山城は包囲されてしまったのです。
場内の日本軍は4千500、対する明・朝鮮連合軍は5万7000!!
それは、10倍を超える数でした。
清正はこの時、10キロ離れた西生浦城にいましたが、知らせを聞くや否や周囲の制止を振り切り、救出に向かいます。
なんと、清正は、わずか500の兵で蔚山城を取り囲んでいた敵陣を突破!!
その日のうちに入城を果たしたのです。
兵士たちの歓喜の声に迎えられた清正でしたが、ここからが地獄でした。

大量の死者を出した日本軍は、反撃はおろか、もはや、壊滅寸前。
籠城するにも食糧や水は、わずか2.3日分しかありません。
しかも、追い打ちをかけるように骨まで凍ってしまうような寒さが兵士たちを襲い、凍死者が続出・・・。
それでも、清正は一言も弱音も履きませんでした。
対象だけに配られた一善の飯を、自分は食べずに家臣たちに分け与え、励ましたといいます。
食糧の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を煮て食べるしかありませんでした。

「もはやこれまでか・・・」

死を覚悟した清正でしたが、全軍全滅という寸前、援軍が到着!!
敵を撃退してくれたのです。
この10日余りの籠城戦は清正の戦歴の中で、最も過酷なものとなりました。
かろうじて九死に一生を得た清正でしたが、その胸のうちに残ったのは、援助を行わなかった三成への激しい恨み・・・
三成と清正の関係は、完全に修復不能となってしまったのです。

朝鮮から博多に帰った清正を、三成は
「年が明けたら大坂で茶会の席を設け、慰労しましょう」by三成
とねぎらいました。
すると清正は・・・
「ならば、我らは稗粥を馳走いたそう」by清正
と、答えたといいます。
三成にしてみれば、清正のことを慮った慰労の挨拶でしたが、清正にとっては飢えと寒さに耐えながら、前線で戦う将兵の苦労が、後方で指揮を取るだけのお前にわかるのか??そう言いたかったのではないでしょうか。
朝鮮出兵で反目する奉行派と武断派。
そして、秀吉の死・・・
この豊臣政権内部の亀裂と異変を巧みに利用した男がいました。
徳川家康です。

天下人・秀吉が亡き後、豊臣政権の跡を継いだのは、秀吉の忘れ形見・・・わずか6歳の秀頼でした。
反目していても、石田三成と加藤清正の思いは同じ・・・
秀吉の恩に報いるべく、幼い秀頼を盛り立て、豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな2人の前に立ちはだかったのは、徳川家康です。
豊臣政権の実務を行う三成を中心とした五奉行と共に、家康は政を司る五大老の筆頭として、秀頼を支える立場にありました。
しかし、その裏で・・・朝鮮出兵に参加していなかったことで、兵力を温存し、虎視眈々と天下を狙っていたのです。
1599年3月、事態は急変します。
五大老の一人で家康を抑える存在であった前田利家が世を去りました。
まさに、その亡くなった日、事件が勃発!!
清正や、黒田長政たちの武断派の七将が、三成の首を取るため挙兵!!
世に言う石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の報せを聞いた三成は、間一髪で危機を逃れます。
この時、三成と七将との間を取り持つべく、調停に乗り出したのが家康でした。
家康から事を収めるためには奉行職から退任するしかないと迫られた三成は、すべての役職をとかれ、居城だった佐和山城への蟄居を余儀なくされたのです。

どうして清正は、三成を襲撃したのでしょうか??
家康が、武断派の武将たちを手なずけるという目的で、自分の養女たちを嫁がせています。
その家康の策略に清正は気づいていなかったのです。
「家康は、秀頼を守ってくれる」と思っていたようです。

しかし、三成は五奉行の一員として、五大老の一人である家康を間近で見ていました。
秀吉亡き後は、家康が天下を狙うという危機感があったのです。
武断派と奉行派の意識の違いでした。
将来のことをよくわかっていなかった7人が三成を襲ったのです。

家康としては、ここで三成を殺してしまうと、自分が天下を取る大義名分が無くなってしまうと考えていました。
活かしておいて、次のアクションを起こすことが大事だったのです。
完全に家康の計略にはまったのでした。

1600年6月・・・家康は、三成を戦に誘い出すかのように兵を東へと動かします。
敵対していた五大老の一人・上杉景勝を討つべく、全国の大名を集め、大軍を率いて上杉の領地・会津へと向かいます。
蟄居の身だった三成は、家康が上方を離れたのを知ると・・・

「今こそ、家康を討つ好機!!」と、挙兵を決意します。

豊臣家を守るため、打倒家康を決意した三成は、その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
すると、こう忠告されました。

「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない」by吉継

三成には、人望がない・・・人がついてこないというのです。
そこで、三成は家康と並ぶ五大老のひとり、毛利輝元を総大将に担ぐと、西日本を中心に西軍の陣容を整えていきます。
そんな中、戦に長けた加藤清正にも西軍に加わるように働きかけがありました。
しかし、清正は、九州から動こうとはしませんでした。
三成憎しから、反発し、西軍ではなく東軍についたのです。
それが、やがて豊臣家を滅亡へと導くことも知らずに・・・。

【中古】 逆説の日本史(11) 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 小学館文庫/井沢元彦(著者) 【中古】afb
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そして迎えた1600年9月15日・・・美濃の関ケ原に布陣したのは、家康率いる東軍7万4000に対し、三成の西軍は8万4000でした。
軍勢では、西軍やや有利も、家康の裏工作によって西軍の要となる武将たちが寝返ります。
結果、東軍が圧勝します。
三成は、敗軍の将となりました。
三成は、密かに自らの陣を脱し、佐和山城を目指しますが・・・
東軍の追っ手につかまり、京で引き回しの上、斬首となりました。
一方、東軍についていた清正は、西軍方の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、球種で東軍の勝利に貢献するのです。

関ケ原の戦いから11年後の1611年、清正は、徳川家のもと、豊臣家を存続させるため、京の二条城で家康と秀頼の面会を実現させます。
安心したのか、ほどなくして倒れ、6月24日、波乱にとんだ人生に幕を下ろします。
しかし、天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいました。
清正の死後、4年後のことでした。

関ケ原の戦いの3日前、石田三成が西軍の武将に書き送った書状にはこんな言葉が残されています。

「人の心 計りがたし」

結局、豊臣家を守りたいという二人の思いはかないませんでした。
もし、三成と清正の心が通じていたなら・・・2人が力をあわせていれば・・・豊臣の滅亡も、徳川の世もなかったのかもしれません。

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