文庫版 小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯 (潮文庫)

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朝ドラヒロイン「あさが来た」の広岡浅子・・・江戸・明治・大正を生きたその生涯とは??

浅子は、幕末の・・・1849年10月18日、京都の豪商・三井家六代当主・三井高益の四女として生まれました。
江戸時代初期に創業した””越後屋””起源とし、三井十一家のうちの小石川家の人間です。
広大な屋敷を構えていた豪商のお嬢様でしたが、本妻の子ではなく母はわかっていません。
2歳の時に、正式に三井家に迎えられ、26歳年上の義理の兄・高喜夫婦に大切に育てられました。

しかし、浅子は手の付けられないおてんばで、木に登ったり、丁稚と相撲をとったり、自分で髪を髷の根元から切ってしまうことも・・・
そんなおてんば娘が一番興味を持ったものが学問でした。
「商家の娘に学問は不要」ということで、13歳の時に本を読むことを禁止されてしまいまいました。
当時の女性は、読み書きそろばんのできる先生もいましたが、正式に学ぶ人はなく・・・
女性は「幼にしては父母に従ひ、嫁しては夫に従ひ、老いては子に従ふ」ものでした。
浅子も、実家では、裁縫、茶の湯、生け花、お琴・・・をさせられていました。
浅子は裁縫や茶の湯が嫌いだったわけではなく・・・強いられることが嫌いだったようです。
制約の多い古い体制の中で、大人になっていく浅子・・・
17歳で2歳の時に決まっていたいい名づけと結婚。
嫁ぎ先は大阪の両替商の「加島屋」・・・江戸時代の商家の番付表で最高位・大関に値する豪商でした。
その次男・信五郎と結婚します。

夫に服属するのが美徳とされていた時代・・・しかし、浅子は変わった嫁でした。
「妾を囲ったら、出て行ってもらう!!」
三人兄弟だった信五郎は、分家の養子に出されていましたが、その後、長男・喜三郎が死んでしまい・・・本家は三男・正秋が継ぐこととなりました。

分家の当主だった信五郎は呑気な生活で・・・
「嫁して見れば富豪の常として主人は少しも自家の業務には関与せず、万事支配人任せで、自らは日毎 謡曲 茶の湯等の遊興に耽って居るといふ有様であります。」
当時の商家の経営は、番頭任せで主人は表に出ないものでしたが・・・
信五郎のあまりの無関心さに・・・
「かくては永久に家業が繁昌するかどうか疑はしい・・・
一家の運命を双肩に担って自ら起たなければならぬと意を決し、其の準備に務めました。」

浅子が嫁いだ2年後には、慶喜が大政奉還をし、風雲急を告げる・・・時代を見通す眼力を持っていた浅子なのです。
幸い夫の信五郎は、読書を禁止する人ではなく、算術をし、商売に関する本を読み漁る浅子。
浅子の座右の銘は「九転十起」!!

浅子が広岡家に嫁いだ二年後・・・1867年10月大政奉還
徳川の世が終わりを告げましたが・・・大坂の商家にとっては驚天動地のことでした。
30件以上の商家が倒産!!
その受難は・・・
①通貨変更
大阪の商家を追いつめたのが通貨の変更です。
1868年5月、「銀目廃止」発布
銀が基本通貨だった大坂は大混乱!!
銀目手形で商取引をしていた商人たちが金などへ両替しようとして両替商に押し寄せてきました。
これによって加島屋をはじめとする両替商の資金は底をついいてしまいました。
②大名貸の焦げ付き
大名貸しとは全国の諸大名に、特産品などを担保にお金を貸していました。
江戸時代の藩の多くは財政難で、その藩にお金を貸して利息を取っていたのです。
多くの藩から御用を受ければ安泰・・・加島屋も大名貸しを行っていました。
借用証文は数千通、貸出金額は900万両(4500億円)となっていました。
しかし、幕府が消滅し、そのほとんどが反故にされ、債券は焦げ付いてしまいました。

この二重苦によって、姉・春が嫁いだ天王寺屋は倒産!!
春は貧しい長屋暮らしの末に1872年27歳で死んでしまいます。
多くの両替商が潰れる中・・・加島屋は持ちこたえます。
その明暗を分けたのは・・・??
まだ19歳だった浅子は、大名から少しでも借金を返してもらおうと取り立てに向かいます。
女だから・・・と、相手にしない武士を相手に武士道を持ち出して論理的に説き伏せます。
加島屋の危機を感じ取って必死に学んだ学問の結果でした。

情報収集も怠りません。
当時は、明治政府軍と旧幕府軍との戦い・・・戊辰戦争の真っただ中!!
その軍資金が欲しい両軍は、商家に献金を要求します。
どちらに着くのか・・・??それこそ、商家の運命の分かれ道でした。
奔走して集めたお金を、明治政府軍に献金することにします。
実家の三井家は、早い段階で新政府軍に献金していて、新政府とのつながりがありました。
しかし、新政府の優勢が分かっていた商家は少なかったようです。
1869年戊辰戦争は、新政府の勝利に終結・・・
加島屋は、「通商会社惣頭取」に任命されます。
浅子の行動力と情報収集で、明治政府のお墨付きまでもらうこととなりました。

加島屋の重要事項は、浅子が決めるようになっていました。
温和な夫・信五郎・・・「いや・・・どうしまして先生、先生・・・!!」と、引いたようです。
加島屋の経営が持ち直した11年目に子供・・・長女・亀子を授かります。
子供はあと4人・・・長男・松三郎、次女・蔦子、三女・極子、四女・秋子・・・この四人の母は、浅子ではありません。
母親は、浅子のお手伝い・・・三井家から連れてきた5歳年下のお手伝いムメ・・・通称・小藤です。
小藤は、お妾として信五郎の子を産んだ後も、食事の時は同席しない・・・など、控えめにし、浅子はどの子も可愛がったといいます。
最初はお妾さんを嫌がっていた浅子でしたが、自分が難産だったために、信五郎にお妾さんを勧めたようです。
後継の男の子を生むため・・・跡継ぎを生むために、正式にお妾さんが許されている時代でした。
1871年戸籍制度では、妻も妾も同格の二親等で入籍することが可能でした。
その後、妾という言葉はなくなりますが・・・一夫多妻制度が禁止されるのは1898年の民法改正のことです。
小藤は浅子から信頼されており、当時の結婚制度としては当たり前のことでした。

急速な文明開化・・・変革していく日本!!
全国に鉄道網が広がり、蒸気船によって貿易も盛んになりました。
そんな中、浅子が目を付けたのが石炭でした。
しかし、浅子は大きな挫折を味わいます。
石炭事業が苦難の連続でした。

1884年浅子は石炭の販売代理権を取得し、北九州に「広炭商店」を設立。
上海や香港への輸出を計画します。
名義上の社長は信五郎でしたが・・・経営に深くかかわっていました。
炭鉱地帯から長崎港までの運搬費を削りたいと考え、炭鉱地帯に近い門司港を開港させ税関を設置させます。
門司港は、その後、日本の石炭輸出第1位を誇るまでに発展することになります。
それは、浅子の尽力のたまものでした。
しかし、石炭事業の乱立によって石炭過多となり・・・1886年には石炭価格が下落!!
広炭商店は、設立からわずか2年で廃業となりました。
大きな挫折を味わうことになる浅子ですが・・・「九転十起」!!

1886年38歳で潤野炭鉱を買収。
しかし、採掘を始めたと単に石炭の取れない地層にぶち当たってしまいます。
常に死と隣り合わせの工夫達はならず者が多く、納屋頭が賃金を搾取するなどひどい労働条件の下で働いていました。
炭坑購入9年後、浅子はついに行動に出ます。
当時は珍しかった洋服で炭坑に乗り込みます。
一緒に働いて改善していく浅子・・・47歳の時でした。
浅子が乗り込んでから2年・・・坑夫の信頼を得て作業効率を上げていきます。
採掘量が飛躍的に増えていきます。
婦人週報の中に・・・
「深窓の令夫人たる者がピストルを懐にして鉱夫共を指揮したときに、世人はこれを狂気したと云ひました」
とあります。
浅子はピストルをお守りにして10年かけて粘り強く炭坑を軌道に乗せました。



そんな率先して働く浅子は批判の的になることもありました。

並行して加島屋の事業拡大も行っていました。
その一つは銀行経営です。
1876年広岡浅子の実家一族が・・・日本初の民間銀行「三井銀行」を設立。
翌年には、加島屋と肩を並べていた大坂の豪商・鴻池家が「第十三国立銀行」設立。
浅子は加島屋も銀行にしたいと強く思うようになります。
こぎつけたのは、1888年。
広岡本家のあった土佐堀川のたもとに「加島銀行」ができました。
浅子、40歳の時です。
銀行設立の発起人は信五郎で、初代頭取は信五郎の弟で広岡本家当主・広岡正秋でした。
銀行の株式はこの3人で7割を占めていました。

加島銀行の経営戦略
①小口の新規顧客開拓
②女性行員の積極採用
加島銀行は、ゆっくりと成長を遂げていきます。
浅子54歳・・・1902年にはまだ黎明期だった生命保険業に取り組みます。
「大同生命」設立。
精力的に事業を拡大していきます。
大同生命は荒波にも負けず成長し、現在に至ります。
創業の精神は「加入者本位」と「堅実経営」。
浅子は企業の利益ばかりを追求していなかったようです。

「男女によって長所は違うのだからお互いにその長所を発揮すべきであり、女性の場合は繊細さ、優麗さなど夫人としての特性を磨き、それを生かすような仕事をするべきだ。」by浅子

そんな浅子が終生臨んだのが”女性教育”でした。

明治初期の女子の教育機関は・・・尋常小学校。
それ以上は、1875年に設立した「東京女子師範学校」「跡見学校」など、数えるほどしかありませんでした。
女子教育の必要性を感じていた浅子は、48歳の時教育家の成瀬仁蔵と出会います。
彼の著書「女子教育」には・・・
「女子を
 人として教育すること
 婦人として教育すること
 国民として教育すること」

「これこそ、私が少女時代から寸時も念頭を離れなかった我が国女子を哀れな境遇から救はんとの熱望を果たさるべき光明であるかのやうに覚えました。」

浅子は涙しながら三度読み返し、女子大学校設立の決意をしますが・・・設立費用は30万円!!
大金が必要でした。
女子教育への無理解と不景気によって資金はなかなか集まりません。

明朗活発な浅子は、時の総理大臣だけでなく、政財界に広く人脈を広げていきます。
伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、板垣退助、山縣有朋・・・財界では渋沢栄一、岩崎弥太郎・・・
浅子は女子教育の理解を得て資金を調達していきます。
建設用地は、浅子の実家の小石川三井家から東京・目白台の土地を譲ってもらえることとなりました。
苦節5年、1901年日本初の女子大学「日本女子大学校」を設立!!

1904年最愛の夫・広岡信五郎が64歳で死去
すると、娘婿の広岡恵三にすべての事業を託し、実業界からあっさりと引退してしまいました。
浅子、56歳の時でした。
晩年は日本女子大学校に足しげく通い、女学生たちとともに勉学に励みました。
市川房江、村岡花子も浅子の勉強会に参加しました。

教育によって女性たちの地位を向上させる・・・確実に実現していきます。
1919年1月14日、71年の波乱に満ちたその生涯を終えることとなります。
東京で行われた告別式には1500人が・・・大阪には1000人近くの参列者が・・・
弔辞を読んだのは大隈重信でした。
「浅子夫人は
”常にたとえ女子であっても努力すれば男子に劣らぬ仕事ができるものである。
 また力があるものである。
 そうして人間はその境遇を切り開いて自分の思う理想に達することができるものである。”
という固い信念を持っておられました。
永久にその精神と人格は残っております。」

江戸から明治・・・大正の激動期に、女性の新しい生き方を示し続けた広岡浅子、まさに「九転十起」の人生でした。


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