日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:加藤清正

佐賀県唐津市・・・今から400年以上前、ここに戦国時代屈指の巨大な城がありました。
豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城です。
高層の店主がそびえたち、周囲には全国の大名たちが陣を構えました。
城郭都市の人口は、30万人に及んだといわれています。
城の巨大さは、秀吉の大陸侵攻への野心の大きさでした。

秀吉が起こした文禄・慶長の役・・・
中国の王朝・明の征服を目論み、朝鮮半島を戦火に巻き込んだ対外戦争は、7年も続きました。
この無謀な戦争を止めるべく、講和交渉を担ったのが小西行長でした。
行長は、日本と朝鮮・明との講和を早急に実現しようと奔走します。
しかし、積年のライバル加藤清正が立ちはだかりました。

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玄界灘を望む交通の要衝に築城された肥前名護屋城・・・
面積17万平方メートルに及ぶ、当時日本最大級の城でした。
秀吉は、ここを拠点に大陸侵攻への野望を実現しようとしました。
秀吉の野心が記録に現れるのは・・・
織田信長の死後、その後継者となった秀吉が周囲の大名を次々と従え、天下に号令をかけようとしていたその時です。

「日本のことは申すに及ばず 唐国まで仰せつけられ候 こころに候」

関東の雄・北条氏を滅亡させ、遂に天下統一を成し遂げた秀吉・・・ここから大陸侵攻の意思をあからさまにしていきます。
建国以来、200年となる朝鮮王朝を経由し、中国・明に攻め入ろうとする壮大な計画・・・当時は唐入りと呼ばれました。
肥前名護屋城は、その前線基地でした。
城跡からは、秀吉の対外戦争にかける意気込みが浮かび上がってきます。
大手口から城の本丸へと向かうと・・・本丸には、壮麗な建物が並び立ち、高僧の天守がそびえていました。
玄界灘、そして大陸に睨みを利かすかのような巨大なシンボル・・・さらに、この城には、当時最先端の防御の工夫がなされていました。
秀吉の居館があった山里口・・・複雑に門が組み合わさっています。
外枡形をより発達させた門で、敵の侵入を防ぐために、屈曲が連なっています。
この連続外枡形は、後の熊本城や姫路城に採用され、近正の城郭に大きな影響を与えたと思われます。

城の周囲には、商人たちが城下町を形成していました。
人口は、爆発的に急増し、その数2,30万に達したといわれています。
今日や大阪、堺の商人でにぎわっていました。

”肥前名護屋は、日本一の港町である”

それだけではありません。
城を中心とする半径3キロ圏内には、各地の大名が集結・・・
現在確認されているだけでも、150もの陣が築かれていました。
東北から九州まで、日本中の大名が集められたのです。

大名の陣には、能舞台だけでなく茶室まで整備されていました。
大名たちは秀吉の命令に従い、城の周囲に堅固な陣を築き、長期的な対陣を覚悟していました。
この肥前名護屋城を拠点に、総勢30万もの大軍勢が動員され、7年に及んだ大戦争・・・
文禄・慶長の役が始まるのです。

熊本県宇土市・・・かつてここに、小西行長の居城・宇土城がありました。
現在、城跡に残る石垣は、行長の後にこの地を治めた肥後熊本藩主・加藤清正時代のものです。
行長が作った石垣は、この石垣の中にパックされています。
行長の痕跡は、積年のライバル・清正によって、跡形もなく消え失せています。
宇土城の本丸に建立された小西行長像・・・キリシタン大名として知られていましたが、関ケ原の戦いで西軍に属し、時代の敗者となりました。

行長は、初め備前の戦国大名・宇喜多氏に仕えていたと考えられています。
その後、宇喜多氏が織田信長と手を結んだことで、当時、信長配下で中国方面の攻略を担っていた秀吉に仕えることになったといわれています。

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信長の書状に、当時の行長の活躍が記されています。

”毛利方の警護船200艘ばかり海上を上がってきたところ、行長が船で乗り出し敵を追い払った
 実に素晴らしい働きである”

当時、来日した宣教師・フロイスも、こう記録しています。

”行長は海の司令官である”

こうした海での活躍が、信長・秀吉に重んじられた理由だと思われます。
瀬戸内海の、毛利の海ではない海(大阪に近い方)に従わせること・・・
各港の海の民・海賊衆、いざとなったら戦に船を提供してくれる人々・・・行長は、司令官としてその方々を説得して、秀吉政権が上手く回るようにしました。

秀吉の信頼を得た行長は、肥後南部を領する大名に抜擢されます。
この頃、秀吉は、行長はじめ、加藤清正、黒田長政など、子飼いの武将などを九州に配置、唐入りの準備を着々と進めていました。
その中でも特に交渉力に優れた行長に、朝鮮との交渉を担わせることにしました。

1592年3月、行長は朝鮮とのかかわりが深い対馬の宗氏と共に事前工作に奔走します。
目的は、仮道入明・・・朝鮮に道を仮、明に攻め入ることでした。
秀吉の計画は、肥前名護屋城から軍船を仕立て、壱岐・対馬を経由し、朝鮮に上陸。
兵を進め、明に侵攻するというものでした。
それには、朝鮮の協力が必要だったのです。

しかし、長きにわたって明を宗主国としてきた朝鮮が、こうした要求を受け入れるはずがありませんでした。
秀吉は、あくまで強硬姿勢を貫きます。
朝鮮が異議を申し立てるようなことがあれば、対峙すべきである!!
武力で朝鮮に攻め入ることになるのか・・・??
行長は、難しい交渉を託されたのです。
そして結果は・・・朝鮮は、日本に対する協力を正式に拒否!!
4月12日、行長はおよそ2万からなる第1陣を率いて朝鮮・釜山に上陸・・・文禄の役です。
翌日、早くも釜山の城を攻め、これを陥落させることに成功します。
戦闘は、僅か半日ほどで終了しました。
この時、勝敗を左右したとされるのが、当時の日本の主力兵器・鉄砲でした。
戦に習熟した秀吉の軍勢は、200年の泰平を維持してきた朝鮮王朝にとって、大きな脅威となりました。
釜山を陥落させた行長は、破竹の勢いで進軍!!
その4日後、加藤清正率いる第2軍が上陸します。
両軍は競い合うように朝鮮王朝の首都・ハンソン(漢城)・・・ソウルを目指しました。
そして、上陸から1月足らずで・・・5月20日、行長率いる第1軍がハンソンに入城しました。
この時、行長は、朝鮮に対し降伏を促す書状を作成・・・無益な争いを避けるため、これを朝鮮軍に届けようとしました。
ところが・・・加藤清正の軍勢に行く手を阻まれ、書状を届けることができなかったのです。
同じ日本軍とはいえ、行長と清正の戦略は違っていました。
清正は、秀吉に命じられた通り朝鮮の武力制圧、明への侵攻を目指しました。
そんな清正にとって、朝鮮との交渉を目指す行長の行動は、許しがたいものでした。
2人が手紙で相談したやり取りは、1通も残っていません。

清正との対立によって、朝鮮との交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。
そこで行長は、さらに北上を続け、明との国境に近い平壌まで進出!!
今度は、明との直接交渉に臨もうとしました。
しかし、そんな行長の思いとは裏腹に、明は朝鮮の援軍のために大軍勢を平壌に向かわせていました。

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文禄の役・・・
行長率いる第一軍に続き、総勢16万の日本の軍勢が海を渡り朝鮮全土に侵攻しました。
行長はじめ、加藤清正、黒田長政、小早川隆景など、武将たちは朝鮮各地に・・・それぞれの地域を制圧しようとしました。ところが、文禄の役は僅か2か月でほころびを見せ始めます。
陸では、郷土防衛のため、朝鮮の有力者が地元の人々を義兵として組織、各地でゲリラ戦を展開し、日本を苦しめました。
さらに、海では朝鮮水軍を率いるイ・スンシンが、日本の軍船を各地で撃沈!!
これにより、日本からの兵糧や軍事物資の輸送がままならなくなっていました。

1592年8月・・・明との直接交渉を模索していた行長は、朝鮮在陣の武将たちと軍議を開きます。
このまま民へ侵攻するのは難しい・・・そこで決議したのが、年内への明への侵攻の延期でした。
1593年1月、明・朝鮮の連合軍5万の大軍勢が、行長のいる平壌を襲ってきました。
その攻防戦を描いた屏風では・・・鉄砲を駆使し、大軍を退けようとする行長の軍勢が書かれています。
しかし、およそ7000という少ない行長軍は、連合軍の総攻撃を前に、ピョンヤン撤退を余儀なくされてしまいます。
勢いに乗じた明・朝鮮連合軍は、首都・ハンソンを目指し南下・・・そこを、小早川隆景らが迎撃・・・ピョクチェグァンの戦い。
今度は明軍を撤退させます。
戦線は膠着・・・ここに、講和の期は熟したとみた行長は、明との接触を試みます。
戦争は、始めたら終わらせなければならない・・・その時、相手の国との交渉を行い、戦争開始よりも利益を得ることが大切です。
行長としては、この戦争で何も日本側に利益がきていないことから、相手との落としどころを探りたいと思っていました。

3月、行長は、明の使節との会談が実現します。
その結果、明との一時的な停戦協定が結ばれ、明の勅使の日本への派遣が決定されました。
行長は、その後家臣を明に派遣し、自らは日本と朝鮮を行き来するなど三年にわたって明の勅使を迎える環境を整えることに力を尽くしました。
そして、最終的に秀吉が明の勅使を受け入れるための条件を3つにまとめます。

①朝鮮の王子を来日させ秀吉の臣とする
②日本と明の間で勘合貿易を行う
③朝鮮八道のうち四道は日本領とする

当時、朝鮮は八道と呼ばれる行政区に分けられていました。
秀吉が求めたのは、南四道・・・明との交渉にあたり、これが一番の問題でした。
この時、明は日本に対して、朝鮮からの全軍撤退を求めていました。
互いに折り合わない条件の中、明との講和をどう実現すべきか・・・苦悩する行長・・・!!

時間をかけて講和条件を詰めていく??
それとも、秀吉と明勅使との対面を優先して講和の既成事実を作る・・・??

1596年9月1日、秀吉と明の勅使の対面が実現します。
行長の努力が実ったのです。
行長は、講和条件についてはいったん棚上げし、対面を優先したのです。
勅使から秀吉に対し、明の皇帝の言葉が伝えられました。

”ここに特になんじを封じて日本国王と為す”

柵封といわれる措置です。
皇帝から国王として承認を受けることで、中国と朝貢貿易を行うことができました。
近年の研究では、莫大な貿易の利益を生む条件に、秀吉は満足したと考えられています。
こうして両者の対面はうまくいき、秀吉も上機嫌でした。
行長は、事前に明の勅使に対し、領土問題を口に出さぬようにくぎを刺していました。
ところが・・・面会を終えた明の勅使が宿所に戻った時、事件が起きます。
勅使歓待のために派遣された日本の高僧が秀吉のこんな言葉を伝えたのです。

「おのれに対して要求するものはなんでも正直に言うがよかろう」

この言葉を聞いた明の勅使は、思わず朝鮮に駐留する日本の軍勢の撤退を口にしてしまったのです。
後でそれを伝え聞いた秀吉は激怒!!

「彼が激怒したのは、講和を結ぶためには朝鮮国の半分だけでも入手する己の考えを忘れてはいなかったからである」byフロイス

ここに、行長の講和交渉は頓挫してしまいました。
1597年2月、秀吉は再び朝鮮出兵を命じます。

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14万余りの大軍勢が渡海し、およそ2年に及んだ慶長の役が始まりました。
今度の戦は、明に攻め入るためではなく、秀吉がこだわった南四道への侵略が目的となりました。
秀吉は容赦なく、「老若男女、僧俗に限らず、あまねくなで斬りにせよ!!」と言明しました。
これにたいし、明や朝鮮は事前に戦闘態勢を整え、日本軍を迎え撃ちます。
行長も、1万5000の兵を率いて出陣!!
戦闘の傍ら講和を模索し続けます。
しかし、郷土防衛に徹する朝鮮に、日本との講和など考える余地もありませんでした。

朝鮮側の資料に、行長の言葉が残されています。

「朝鮮は文禄の役のとがを私の責任にしているが、それは事実ではない
 私は秀吉の命に従っているだけである」

自ら望んでいない戦いを強いられた行長の本音が垣間見えます。
戦闘は激しさを増し、凄惨を極めます。
京都にある耳塚・・・日本軍が戦果として持ち帰った耳や鼻を埋めて供養した塚です。
日本軍は、朝鮮の兵士のみならず、民衆に至るまで武力で蹂躙・・・各地に深い傷跡を残していました。
泥沼化の一途をたどった慶長の役・・・1598年8月・・・秀吉の死去と共にようやく幕を閉じました。

大陸侵攻の前線基地として築かれた肥前名護屋城・・・!!
秀吉の野望のシンボルは、僅か7年でその役割を終え、人口30万を誇った城郭都市と共にやがて消え失せていきました。

文禄・慶長の役に動員された全国の大名は、新たに獲得した土地もなく、莫大な戦費ばかりを負担することとなりました。
その不満の矛先は、講和交渉に失敗し、戦を長引かせた小西行長や石田三成に向けられました。
一方、朝鮮に出兵することなく国内で実力を蓄えた徳川家康の権勢は増しました。

1600年9月15日、三成や行長は、反家康の軍勢を集め挙兵!!
東軍と西軍を二分した関ケ原の戦いです。
わずか半日で決した戦いは、行長が属した西軍の敗北となりました。

行長は、三成と同じく西軍の首謀者として捕らえられ、10月1日処刑・・・43年の短い生涯だったと伝えられています。
江戸時代以降、行長は家康に歯向かった大悪人として伝えられ、その実像は覆い隠されました。
1980年、没後380年を記念して、行長の銅像が建てられました。
しかし、落成後、すぐにトタンでおおわれいます。
当時、まだ大悪人のイメージがついていて、反行長派の破壊行為から銅像を守るために2年間もおおわれていました。
宇土の地域で神社仏閣を焼き払ったという誤った伝承があり、市民感情が非常に悪かったのです。
小西行長は、歴史に何を残したのか・・・??
その評価は、今でも問われています。

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「小西行長 講和への模索・・とめられなかった文禄・慶長の役・・」




1590年、豊臣秀吉が天下を統一!!
しかし、ようやく終止符が打たれたはずの戦国の世は、2人の武将の反目によって大きく揺らぎだします。
武勇秀でだ強者・加藤清正と、頭脳明晰な切れ者・石田三成です。
そんな2人の亀裂が、あの関ケ原の戦いを招くことになりました。

1574年、近江・長浜城・・・
織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、この地で初めて一国一城の主となりました。
有能な二人の少年が、臣下に加わりました。
石田三成と加藤清正です。
三成は、当時15歳、秀吉の身の回りの世話をする近習番として仕え、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
一方、清正は、三成の2歳年下で、剣術の才能に恵まれ、武芸に秀でていました。
2人はともに秀吉にかわいがられ、切磋琢磨しながら成長していきます。

そして・・・最初にその名を轟かせたのは清正でした。
1583年、近江国・賤ケ岳・・・信長亡き後、次なる覇権をめぐって秀吉と柴田勝家が激突!!
主君・秀吉の命運をかけた戦いで、何としても手柄を立てたいと血気に逸る清正でしたが、乗っていた馬が足を痛めて使えなくなります。
すると・・・「馬が駄目なら走って秀吉さまのお供をしよう!!」
なんと、50キロの道のりを走り通したのです。
そればかりか、戦場につくや否や敵将・山路正国を討ち取り、七本槍の一人として功名をあげました。
その後、清正は、戦で活躍する武断派の中心として秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には、功績が認められ、肥後国54万石の北半分、25万石の大名となったのです。

一方、三成は、胃腸が弱かったので戦場に出ると緊張するのかよく腹を壊して大きな武功をあげるどころではありませんでした。
その代わりに、豊臣家臣随一の才知を活かし、戦での食料や武器、兵員の調達など、兵站を担当!!
裏方として活躍します。
こうして二人はそれぞれの分野で秀吉に貢献していきます。

逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]
逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎 [ 井沢 元彦 ]

そして1590年、秀吉は最後まで抵抗していた小田原の北条氏を破ると、天下取りが実現します。
それはまさに、三成と清正の夢が叶った瞬間でもありました。
しかし、この天下統一が二人を引き裂いていきます。
平和な世の中になったことで、武功を立てて出世する武断派の活躍の場・・・戦が無くなってしまいました。
そんな武断派と入れ替わるように台頭したのが、豊臣政権の政務を取り仕切る奉行派です。
その中心だった三成は、秀吉の天下を不動のものとするため、天才的政策立案能力を発揮します。
一揆を未然に防ぎ、法治国家としての治安を維持する刀狩りや、租税の大元となる田畑の測量・太閤検地を全国的に実施するなど、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そうした奉行派・三成の重用に対し、武断派の清正は反発するようになっていきます。

佐賀県唐津市・・・かつてこの地にそびえていた名護屋城は、秀吉が新たな戦いのために造った城です。
1591年、築城を任されたのは、城づくりの名人と言われた清正をはじめとする九州の大名達でした。
清正はわずか5か月で、巨大な天守を中心とする多数の櫓が立ち並ぶ、大坂城に勝るとも劣らない城を築き上げたといいます。
さらに、周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、その陣容はかつてない大戦の始まりを告げていました。
それこそ、天下統一を果たした秀吉が、朝鮮半島に攻め入る、そこから明の征服を目指すという朝鮮出兵です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが、朝鮮半島に近い九州肥後半国の領主だった清正でした。
秀吉から同じく肥後を納める小西行長と共に、その先陣を任されたのです。
奉行派に主導権を握られていた清正にとって、まさにチャンス!!
清正は、朝鮮半島に渡る前、こう語っています。

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい」by清正

清正にとって、朝鮮出兵は自らの領地を増やす新しい夢の始まりでもあったのです。

一方、三成は朝鮮出兵に大きな疑問を感じていました。
政務を取り仕切る奉行派・三成にとっては、

「今大切なのは、豊臣の世を不動のものとする国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし・・・」by三成

そこで、秀吉に異を唱えたものの、聞き入れられず、主君に従う他、ありませんでした。

1592年、遂に日本軍15万9000が、海を渡り朝鮮半島に上陸・・・
この大軍のうち、1万人余りを率いる司令官を任された清正は、陣頭指揮に立ち、釜山に上陸し北上・・・瞬く間に朝鮮国の都・漢城(ソウル)を陥落させます(文禄の役)。
そして、朝鮮の二人の王子を捕らえ、明との国境まで進軍するなど破竹の快進撃!!
まさに、武断派の面目躍如でした。
流れ星型兜をかぶり、南無妙法蓮華経と染め抜いた旗を持った清正は、朝鮮の兵士たちから鬼上官・幽霊将軍の異名で畏れられたといいます。
しかし、時間がたつにつれ、戦況が様変わりします。
朝鮮各地で民衆が蜂起し、朝鮮水軍が活躍し出すと、日本軍の補給路が絶たれ、食料などが枯渇・・・
苦境に立たされてしまったのです。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参戦・・・
猛烈な反撃を受け、戦況は膠着状態に陥り、戦が長期戦になった事で、大軍を維持するための膨大な食料と武器が必要となりました。
この危機的状況を打開するため、秀吉に代わって朝鮮半島に渡ることになった三成は、こう考えていました。

「早期終戦に向けた講和しか道はない・・・」by三成

すると、その三成の渡航が清正をはじめとする異国で戦う武将たちの反感を買うこととなったのです。
清正たちは血みどろの戦いをしていました。
そこに食料も来ない・・・食料を送る役が三成たちでした。
その三成たちが乗り込んできた・・・自分たちを監督しに来たという思いで見ているので、清正としては余計に反発したのです。
三成は、戦による消耗を最小限に抑えるため、親しい関係にあった小西行長と共に講和に向けて動き出します。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた二人の朝鮮国王子の引き渡しでした。
これに猛反発したのが清正です。

「我々は、何のためにこの過酷な戦を戦ってきたのか!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって、明との講和は承服しがたいものでした。
すると・・・講和交渉に反対する清正に、秀吉からの突然の命が下ります。

「即刻帰国せよ!!」by秀吉

もっとも武功をあげた清正に、まさかの帰国命令・・・そして、そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は三成の謀略ではなく、秀吉に戦況を正しく報告した結果でした。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎になったと思い込んだ清正は、ますます三成を忌み嫌うようになっていきます。

1583年、豊臣秀吉、関白就任!!
諸大名が直接秀吉に謁見したり、献上品を手渡したりできなくなります。
その為、窓口となったのが、側近の石田三成でした。
秀吉に気に入られるかどうかは、三成の口利き次第・・・
もし三成の機嫌を損ねれば、秀吉に何を言われるかわからない・・・
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏すしかありませんでした。
そんな絶大な権力を握った三成には、諸大名からの賄賂が殺到!!
ところが、三成は、私腹を肥やすことなく、そのことごとくをはねつけてしまいます。
良く言えば、清廉潔白、悪く言えば融通の利かない男・・・
主君・秀吉のためにと働けば働くほど、逆恨みする者が増え、敵を作ってしまいました。
しかし、三成は、秀吉のせいでどんなに悪者になろうとそばから離れませんでした。

秀吉からある時、九州の大名にとの話がありました。
石高は倍・・・しかし、三成は断っています。
秀吉の周りで豊臣政権を支える人物が無くなってしまうからです。
三成は、今まで自分のしてきたことが、豊臣政権を支えてきたという自負があったのです。
三成なりの国づくり・・・三成のロマンだったのです。

秀吉は「家康政権」を遺言していた 朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相 [ 高橋 陽介 ]
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秀吉への忠誠心なら、加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵で有名な清正の虎退治・・・
実は、この話には清正の秀吉への思いがありました。
一説には、家臣のために虎を退治したと言われていますが・・・
実際は、世継ぎができなかった秀吉のための虎狩りで、精力剤として当時、朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に送るように武将たちに命じ、清正自身も虎狩りを行ったというものでした。
清正の虎退治は、彼の勇敢さを示すと同時に、秀吉への忠誠を表すエピソードだったのです。

1596年、慶長伏見地震・・・近畿地方を襲った大地震でした。
この大地震が発生した時、秀吉のいる伏見城に真っ先に駆けつけたのが甲冑をまとった清正でした。
地震に乗じた反乱を案じ、戦支度を整えて駆けつけたのです。
清正が一番乗り・・・
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎をといたといいます。
こうして、秀吉の許しを得た清正に、再びチャンスが巡ってきました。
三成や小西行長が進めてきた講和が破談となり、秀吉は朝鮮への再出兵を命じることになったのです。

朝鮮出兵に、一度は失敗した秀吉でしたが、その野望は捨てきれず、今度は朝鮮南部を占領するため、二度目の出兵を決めます。
秀吉の命を受けた加藤清正は、再び1万の兵を引き連れ朝鮮半島へと渡ります。
慶長の役(1597年)の始まりでした。
しかし、その戦いは・・・前回にもまして、過酷なものでした。
南部に侵攻した清正は、戦に備えていた明と朝鮮の連合軍に猛攻撃されてしまうのです。
食糧などが尽きた日本軍は、各地で苦戦を強いられ、清正の軍も全滅寸前にまで追い詰められてしまいます。
この危機的状況に、石田三成は日本から援軍や食料、武器などを送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまったために、十分な輸送ができませんでした。
そんな三成の事情は、戦の最前線には届かず・・・
清正の三成に対する不満や恨みは、募る一方でした。

1597年12月、日本軍に絶体絶命の危機が訪れます。
明と朝鮮の連合軍は、日本軍の蔚山城を奇襲・・・
劣勢に立たされたこの戦いで、日本軍は500人近くが討死・・・
その後、蔚山城は包囲されてしまったのです。
場内の日本軍は4千500、対する明・朝鮮連合軍は5万7000!!
それは、10倍を超える数でした。
清正はこの時、10キロ離れた西生浦城にいましたが、知らせを聞くや否や周囲の制止を振り切り、救出に向かいます。
なんと、清正は、わずか500の兵で蔚山城を取り囲んでいた敵陣を突破!!
その日のうちに入城を果たしたのです。
兵士たちの歓喜の声に迎えられた清正でしたが、ここからが地獄でした。

大量の死者を出した日本軍は、反撃はおろか、もはや、壊滅寸前。
籠城するにも食糧や水は、わずか2.3日分しかありません。
しかも、追い打ちをかけるように骨まで凍ってしまうような寒さが兵士たちを襲い、凍死者が続出・・・。
それでも、清正は一言も弱音も履きませんでした。
対象だけに配られた一善の飯を、自分は食べずに家臣たちに分け与え、励ましたといいます。
食糧の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を煮て食べるしかありませんでした。

「もはやこれまでか・・・」

死を覚悟した清正でしたが、全軍全滅という寸前、援軍が到着!!
敵を撃退してくれたのです。
この10日余りの籠城戦は清正の戦歴の中で、最も過酷なものとなりました。
かろうじて九死に一生を得た清正でしたが、その胸のうちに残ったのは、援助を行わなかった三成への激しい恨み・・・
三成と清正の関係は、完全に修復不能となってしまったのです。

朝鮮から博多に帰った清正を、三成は
「年が明けたら大坂で茶会の席を設け、慰労しましょう」by三成
とねぎらいました。
すると清正は・・・
「ならば、我らは稗粥を馳走いたそう」by清正
と、答えたといいます。
三成にしてみれば、清正のことを慮った慰労の挨拶でしたが、清正にとっては飢えと寒さに耐えながら、前線で戦う将兵の苦労が、後方で指揮を取るだけのお前にわかるのか??そう言いたかったのではないでしょうか。
朝鮮出兵で反目する奉行派と武断派。
そして、秀吉の死・・・
この豊臣政権内部の亀裂と異変を巧みに利用した男がいました。
徳川家康です。

天下人・秀吉が亡き後、豊臣政権の跡を継いだのは、秀吉の忘れ形見・・・わずか6歳の秀頼でした。
反目していても、石田三成と加藤清正の思いは同じ・・・
秀吉の恩に報いるべく、幼い秀頼を盛り立て、豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな2人の前に立ちはだかったのは、徳川家康です。
豊臣政権の実務を行う三成を中心とした五奉行と共に、家康は政を司る五大老の筆頭として、秀頼を支える立場にありました。
しかし、その裏で・・・朝鮮出兵に参加していなかったことで、兵力を温存し、虎視眈々と天下を狙っていたのです。
1599年3月、事態は急変します。
五大老の一人で家康を抑える存在であった前田利家が世を去りました。
まさに、その亡くなった日、事件が勃発!!
清正や、黒田長政たちの武断派の七将が、三成の首を取るため挙兵!!
世に言う石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の報せを聞いた三成は、間一髪で危機を逃れます。
この時、三成と七将との間を取り持つべく、調停に乗り出したのが家康でした。
家康から事を収めるためには奉行職から退任するしかないと迫られた三成は、すべての役職をとかれ、居城だった佐和山城への蟄居を余儀なくされたのです。

どうして清正は、三成を襲撃したのでしょうか??
家康が、武断派の武将たちを手なずけるという目的で、自分の養女たちを嫁がせています。
その家康の策略に清正は気づいていなかったのです。
「家康は、秀頼を守ってくれる」と思っていたようです。

しかし、三成は五奉行の一員として、五大老の一人である家康を間近で見ていました。
秀吉亡き後は、家康が天下を狙うという危機感があったのです。
武断派と奉行派の意識の違いでした。
将来のことをよくわかっていなかった7人が三成を襲ったのです。

家康としては、ここで三成を殺してしまうと、自分が天下を取る大義名分が無くなってしまうと考えていました。
活かしておいて、次のアクションを起こすことが大事だったのです。
完全に家康の計略にはまったのでした。

1600年6月・・・家康は、三成を戦に誘い出すかのように兵を東へと動かします。
敵対していた五大老の一人・上杉景勝を討つべく、全国の大名を集め、大軍を率いて上杉の領地・会津へと向かいます。
蟄居の身だった三成は、家康が上方を離れたのを知ると・・・

「今こそ、家康を討つ好機!!」と、挙兵を決意します。

豊臣家を守るため、打倒家康を決意した三成は、その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
すると、こう忠告されました。

「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない」by吉継

三成には、人望がない・・・人がついてこないというのです。
そこで、三成は家康と並ぶ五大老のひとり、毛利輝元を総大将に担ぐと、西日本を中心に西軍の陣容を整えていきます。
そんな中、戦に長けた加藤清正にも西軍に加わるように働きかけがありました。
しかし、清正は、九州から動こうとはしませんでした。
三成憎しから、反発し、西軍ではなく東軍についたのです。
それが、やがて豊臣家を滅亡へと導くことも知らずに・・・。

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そして迎えた1600年9月15日・・・美濃の関ケ原に布陣したのは、家康率いる東軍7万4000に対し、三成の西軍は8万4000でした。
軍勢では、西軍やや有利も、家康の裏工作によって西軍の要となる武将たちが寝返ります。
結果、東軍が圧勝します。
三成は、敗軍の将となりました。
三成は、密かに自らの陣を脱し、佐和山城を目指しますが・・・
東軍の追っ手につかまり、京で引き回しの上、斬首となりました。
一方、東軍についていた清正は、西軍方の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、球種で東軍の勝利に貢献するのです。

関ケ原の戦いから11年後の1611年、清正は、徳川家のもと、豊臣家を存続させるため、京の二条城で家康と秀頼の面会を実現させます。
安心したのか、ほどなくして倒れ、6月24日、波乱にとんだ人生に幕を下ろします。
しかし、天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてしまいました。
清正の死後、4年後のことでした。

関ケ原の戦いの3日前、石田三成が西軍の武将に書き送った書状にはこんな言葉が残されています。

「人の心 計りがたし」

結局、豊臣家を守りたいという二人の思いはかないませんでした。
もし、三成と清正の心が通じていたなら・・・2人が力をあわせていれば・・・豊臣の滅亡も、徳川の世もなかったのかもしれません。

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義に生きたもう一人の武将 石田三成

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大河ドラマ「真田丸」で、戦国一の頭脳派でした。
関ケ原の戦いで徳川家康に敗北した三成には、悪役のイメージが・・・!!
しかし、近年、人物像が見直されつつあります。
太閤検地、刀狩りは三成の発案だと言われています。

太閤秀吉曰く・・・
「天下にその名をとどろかす 知恵者である」と。

三成が旗印にした”大一大万大吉”は、戦乱の世を終わらせ、誰もが幸せに暮らせる社会を・・・という三成の思いが込められていました。
そんな三成の前に立ちはだかったのが、秀吉と家康です。

天下を統一した秀吉は、三成の思いとは裏腹に、さらなる戦いへ・・・!!
朝鮮出兵!!三成は、従うしかありませんでした。

徳川家康・・・秀吉の死後、天下取りの野望を露にします。
その家康を食い止めようとして敗れた三成・・・!!
理想と現実のはざまで敗れ去った人生とは・・・??

1600年10月21日天下分け目の関ケ原の戦い。
それから16日・・・処刑場に一人の男がいました。
「水をくれ。。。」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・ 腹を壊すと困る。」by三成
「首を斬られる寸前というのに、あきれたやつめ・・・」by役人

この男が石田三成。
秀吉の右腕として天下にその名を知られた三成・・・。
しかし、秀吉と会った時は、寺の小僧にすぎませんでした。
そんな彼が、秀吉から厚い信頼を得るようになったのでしょうか??


戦国時代真っただ中の1560年。
三成は、近江国で武士の子として生まれました。
長男が家を継ぐ時代・・・次男だった三成は、幼くして寺に預けられました。
三成は、ここで、算術を身に着けます。
当時、近江は、京都と江戸とを結び、京都と北陸を結ぶ交通の要衝で、商業が盛ん。。。寺でも、算術を教えたのです。

1573年14歳の時に、領主・浅井長政が信長に滅ぼされます。
新たな領主となったのが信長の家臣・秀吉でした。
その秀吉と三成の出会いのエピソードは”三杯の茶”。
鷹狩りをしていた秀吉が、たまたま三成のいる寺を訪れました。

お茶を持ってくるようにいう秀吉。
のどか乾いているに違いない・・・と思った三成は、
一杯目・・・大きな茶碗でぬるい茶を。
二杯目・・・中くらいの茶碗で少し熱い茶を。
三杯目・・・小さな茶碗でアツアツの茶。
秀吉の気持ちを考えた三成の心遣いでした。
小姓として召し抱えられることとなった三成。

三成23歳の時・・・本能寺の変!!
信長が討たれ、秀吉が後継者となりました。
ある時秀吉が石高を「500石増やしてやろう。」というと、三成は・・・
「淀川の岸辺に生えている葦をいただきとうございます。
 葦は、付近の住民が刈り取っておりますが、力の強いものが独占して自分のものにしております。
 これを公平に刈り取らせるためには、年貢をかけるのfがよろしいかと存じます。」
当時葦は、すだれやかやぶきなど、生活に欠かせないものでした。
しかし、力の強いものが独り占めしていたのです。
住民が税を払うことで、そこそこ刈り取ることができる=500石を上回る税収が入ってくるということです。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・
柴田勝家との戦いで、両軍が睨み合います。
この時秀吉は、柴田軍に追い詰められます。
助けに行かなければ・・・!!
しかし、道のりは50キロ以上!!そのうえ、日が暮れようとしていました。
そこで、軍が向かう村々に先回りし、村人に兵たちの食料を用意させ、夜道を松明を焚かせたのです。
さらに、到着地点に武器を用意します。
兵士たちは、武器をもって移動することなく、サッと行動できました。
三成の活躍によって、秀吉軍は丸二日の道程を5時間で走破したのです。
柴田軍を打ち破ることができました。
美濃の大返しです。
合戦の表舞台で華々しく戦うよりも、こういう仕事に向いているのではないか??と、感じていたようです。
戦いののち、三成は4万石を賜わり、大名となります。

秀吉は晩年、三成を評価し、北近江19万石から筑前筑後33万石へ引き上げ、重要地点の九州へ国替えを・・・破格の待遇・・・大出世を・・・としましたが三成は断ります。

大一大万大吉・・・三成の旗印ですが・・・
「一人が万民のため  万人が一人のために尽くせば この世は大吉になる。」
という意味です。
今のように、ただ戦っているだけでは、農民たちが安心して農業に精を出せない・・・
早く戦のない世の中にしたい・・・そのためには、秀吉さまに早く天下を取ってほしい。。。
そのために、自分は身を粉にして働きたい。と思っていたようです。

理想の実現に向けて一歩踏み出した町・・・堺。。。
1586年27歳で、堺の町奉行に任命されます。
当時この町は、一部の商人たちが牛耳っていました。
町を堀で囲み、傭兵を雇って自営していたのです。
町奉行となった三成は、一部の商人たちの既得権益を奪い、堀を埋め・・・自由な市場を作り上げました。
そして、堺を九州征伐の兵站の拠点としたのです。

1590年秀吉が天下を統一!!
三成は、31歳で北近江の領主に・・・佐和山城の城主となります。
三成が領民に宛てた置手紙が残っています。

・米が多く取れて余った場合は農民のものとする
・不満があれば、三成に直接申し出よ

農民に配慮する一方で・・・

・百姓が村を離れて町人や奉公人になることを禁じる

農民を増やし、生産を挙げようとしたのです。

太閤検地や刀狩りも、三成の考えだったと言います。
農民から武器を取り上げた刀狩り・・・一揆を防止させるとともに、武士や農民と・・・身分を固定させました。
太閤検地では単位を統一し、正確なコメの収穫量を調査します。
米の収穫量を正確に把握することで、税収の安定を図り、大名の不正を防止しようとしたのです。
当時大名は、石高に応じて兵を出していました。
これを嫌って、過少申告するものが後をたたかなったからです。
三成は、自ら全国各地を回り、太閤検地の現場に立ち会ったと言います。

こうした功績が認められ、1598年39歳の時に九州への栄転話がもちあがっていたのです。

「名誉なことですが、お断りさせていただきとうございます。
 私が九州の大名になってしまったら・・・」

家臣宛ての手紙には・・・
九州の大名になってしまったら、これまでのように秀吉さまの下で政務を司る人間が無くなるので断りました。
石田家の人々や、家臣たちの領地が増えないことになるので、後悔もありますが・・、
と書かれています。
 
三成は、どうして仲間の武将から嫌われていたのでしょうか??
天下統一によって、平和な日が・・・三成は、秀吉の右腕として、理想の世界の実現に邁進しますが・・・周囲の目は違いました。
杓子定規で融通が利かない三成に不満を抱く人が多かったのです。

そんな中・・・1591年秀吉が朝鮮出兵を計画!!
日本国内に分け与える領地が無くなってしまったので、海外に領地を求めたのです。
三成は反対でしたが、秀吉に反対することはできませんでした。

武功派の大名達が朝鮮へ出兵!!
戦地からは続々と吉報が・・・!!
しかし・・・敵は一向に降伏しません。
いらだつ秀吉は、三成に現地視察を命じます。
三成が目にしたのは・・・報告とは全く逆の現実でした。
この戦いには勝てない・・・撤退するしかない・・・と考えた三成は、ありのままを秀吉に伝えます。
報告を受けた秀吉は激怒!!
加藤清正らを呼び戻し、謹慎処分としました。
こうして、清正ら武功派の面々は、三成に深い恨みを抱くようになっていきます。

「立てた手柄を全く無視し、苦戦を誇大に報告し、いかにも自分(清正)が怠け者であり、作戦下手であったと報告した。」

中間管理職のジレンマ・・・いじめ・・・

1598年秀吉がこの世を去りました。
三成は、朝鮮で戦っていた大名たちをいち早く帰国させます。
深手を負わず、迅速に帰ってこれたのは、三成の迅速な指示によるものです。
三成は、帰国した加藤清正に・・・
「茶会を開いて戦の疲れをねぎらいたいのだが・・・」
しかし清正は・・・
「俺は7年も朝鮮にいて、食い物も飲み物もお返しするものが何もない。
 せめで稗の粥なら炊いてやるわ。」

茶会には誰も来ませんでした。
武功派には恨みのみが残っていたのです。

秀吉が亡くなった時、秀頼はまだ6歳でした。
三成は、秀頼を守りながら、戦のない世界を目指しますが・・・そこに立ちはだかったのが、天下取りを狙っていた徳川家康でした。
家康は、秀吉が禁止していた政略結婚を次々と進めます。
おまけに、豊臣家の領地を独断で分配。
これに対し三成は、他の有力大名たちと手を組んで、家康を抑え込もうとします。
そんな時事件が・・・
加藤清正ら武功派が三成を襲撃!!
三成を亡き者にしようとしたのです。
この時、仲裁に入ったのが家康でした。
清正らを鎮めた家康は三成に・・・
「今回の騒動は三成殿にも非がある。
 自国に戻って、一、二ねん謹慎されよ。」by家康
襲われた三成の方を処罰してしまいました。
天下は家康のものになろうとしている・・・??

三成は1年をかけ、綿密な作戦を立てます。
まずは全国の大名たちに書状を送ります。
「家康は豊臣政権の決まり事を少しも守ろうとしません。
 太閤様のお決めに背き、何を信頼すればよいのでしょうか?」
家康を見過ごすことは、太閤・秀吉・・・大義に反すると訴えます。
毛利輝元を大将に、その威光の元大軍を組織していきます。

三成の動きを知った家康も、全国の武将に書状を・・・!!
三成が大義を訴えたのに対し、家康は領地を約束します。

そして遂に・・・
家康は大坂城を目指します。
自分たちが反乱軍にならないように、秀頼を支配下に置こうとしたのです。
一方の三成もそれを食い止めようとします。
上杉景勝を味方に付けた三成・・・家康は、背後を上杉に攻められないように2万の軍を関東に置かざるを得なくなります。
家康は、東海道・中山道と二手に分かれて西へ・・・
しかし、中山道の3万8000の軍は、上田城の真田昌幸に行く手を阻まれます。
結局家康は、東海道の7万4000の兵で、関ケ原に臨むこととなります。

三成は真田昌幸に送った手紙には・・・
「家康がたとえ十人登ってきても安心願いたい。
 討ち果たすほかない・・・!!」と、書かれていました。

石田三成の勝敗に関しては・・・徳川軍を追い払ったら勝ち、近畿地方に入れたら負けというものでした。
石田三成の元々の布陣から行けば、家康は①大垣城②南宮山③松尾山の三カ所を突破しないとダメだったのですが・・・

前日、味方の軍を押しのけて、小早川秀秋が勝手に松尾山に布陣。
小早川は味方のはずでしたが、裏切りは予想済み!!
大谷吉継らを近くに布陣させます。
自らも、大垣城を出て、関ケ原に布陣!!
西軍は、西と南宮山(毛利)で、東軍を挟み撃ちにする体制が完成!!
家康は完全に囲まれてしまいました。

1600年10月21日、三成率いる西軍8万4000VS家康府¥率いる東軍7万4000が関ケ原に集結!!
午前8時・・・関ケ原の戦いが始まりました。
一進一退の攻防・・・西軍が東軍を追いつめている・・・??
ここで南宮山に布陣していた毛利が一気に攻め込んで東軍の背後を・・・勝利確実!!
しかし、毛利勢は動かない・・・!!

家康は、毛利勢の先鋒を務める者たちと内通していました。
戦いに参加しないという約束をしていたので・・・本体が足止めを食らってしまいました。
三成のシナリオが狂い始めた瞬間でした。
そこへ、松尾山に陣取っていた小早川秀秋が、攻め込んできました。
さらに・・・小早川に呼応するかのように、味方が寝返って攻撃を仕掛けてきたのです。
西軍は総崩れとなりました。
合戦開始からわずか6時間・・・雌雄は決し、三成軍壊滅・・・。
三成は戦場から姿を消したのでした。
山中をさまよった三成・・・ようやく自分の領地に帰ると、洞窟で再起を図ります。
世話をしたのは地元の農民たち・・・掟書の恩返しをしてくれたのです。
しかし、三成を匿えば、一族郎党皆殺しというお触れが・・・
それでも世話をし続ける農民に対し、
「徳川に差し出せ・・・。」
三成は、かたくなに拒む農民を説得し、居場所を伝えさせたのです。

そして・・・処刑場へ向かうとき・・・

「水をくれ」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・腹を壊すと困る。」by三成
死ぬ間際に、腹の心配をすることを周囲はあざ笑います。

「大志を持つ者は、最後まで体をいたわる」by三成

関ケ原の戦いから16日・・・1600年11月6日、三成は、京都の六条河原で首を刎ねられました。
40年の生涯でした。

誰もが幸せに暮らせる社会を目指しつつ、志半ばで命を落とした石田三成。。。

「人の心は はかりがたし・・・」by三成


三成の死後の佐和山城・・・関ケ原の戦いの後、徳川方の武将たちは財宝目当てに城に踏み込みました。しかし、そこには何もなかった・・・。
財を成すことに興味のなかった三成。。。

地元の寺に佐和山城で使われていた板戸が残っています。
客人を喜ばせるために表は綺麗に華やかな絵が・・・
しかし、裏側は、墨で書かれた簡素な絵が・・・。
秀吉の右腕でありながら、私利私欲に走ることのなかった三成。。。
その生涯は、ひたすらに人々の幸せを願ったものでした。
 


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三成の挙兵を知った昌幸。
以降、信幸は徳川に、昌幸と信繁は豊臣に付くことになる。

真田の、生き残りを賭けた大勝負が始まった。

1600年7月・・・関ケ原もいよいよですが・・・

「これより上田へ引き返す!!」by昌幸

下野・犬伏にある昌幸の陣にて・・・。
いよいよです!!

信幸の陣では・・・家康が間もなく小山に入るという知らせが・・・。

maru1













もごもごしゃべっているのは、河原綱家。
「歯が欠けただけにございます。」by綱家
って・・・とっくり投げて欠けさせたのはあなたですよ??信幸・・・??
そんなことも気にかけられないほどの緊張かしら・・・??

知らせは岩櫃城にも・・・!!

maru2












緊迫した雰囲気の中で、相変わらずのラブラブな二人です。
「軍議を開く!!諸将をすぐに呼び寄せろ・・・!!」by家康。

今回兵を挙げたのは、毛利、宇喜多の老衆です。
ま、後ろで糸を引いているのは三成ですが、やっぱりそこは、事務次官なわけで、担ぐ神輿は大名なんですよね。

で・・・諸将を集めて軍議を開くんですが・・・みんな一緒に行動しているわけではないので、”諸将を集める”こと自体が緊急事態です。
とにかく、命を懸けた何かが起ころうとしているのは、集まってくる武将たちもわかっているはず・・・!!

7月24日・・・一人で家康のもとを訪れる信幸。
父・昌幸が離反したことを伝えに来ました。

「すでに陣を払い、上田に戻りましてございます。
 以後、徳川様の命には従わぬということでございます。」by信幸

「何故お主は残った・・・??」by正純

「それがしの妻の父親は、本多平八郎殿。
 義理の父親は徳川内府様。
 それが答えにございます。」by信幸

「殊勝なことを申しておりますが、真田安房守が離反するのを見逃したことに相違ございませぬ。
 由々しき事ですぞ・・・!!」by正純

代わりに腹を切るという信幸をかばってくれる平八郎・・・
でも、正純はおかんむりですが・・・
結局は態度で示せと許してくれる家康です。

「伊豆守・・・お主の親父に去られたのは痛いが、それ以上にお主が残ってくれたことをわしは嬉しく思うぞ。
 まれにみる忠義者じゃ・・・!!」by家康
maru5













ま、この時点で信幸を許さない=信幸以下家臣たちは、上田で合流することになるでしょう。
つまり、味方が減るだけではなく、敵が増えてしまうことも必定!!
なので、家康としてははらわた煮えくり返ってるかもしれないけれど、許してしまう状況にあったと言えるでしょう。

「今後も・・・徳川家のために、身命を賭して働きとうございます。」by信幸

会議が始まりましたよ~~!!
「大坂にとって返し、秀頼公をお救い参らせ奸賊どもを打ち果たす!!」by家康

maru3













あ~、討ち果たすことはもう決まっているんですね。。。
この言葉を見てもわかるように、家康にとっても秀頼公のおひざ元で兵を挙げた三成を処罰するという考えです。
ま、本心はやっつける気満々ですが・・・
なので、ここにいる豊臣子飼いの加藤清正や福島正則なんかも、家康の策略に引っかかってしまったのかもしれませんが、全部秀頼公のためにしている事なんですよね。

どちらの命令が本当なんだろう??って、悩んでいる諸将・・・福島正則の(↑)の一言で、みんな徳川につくことになったんだけれども、この言葉、山内一豊だったというのは有名な話。
ま、今まで出て来ていませんからね・・・。
逸話だったかもしれませんけどね。

で・・・離反したのは、昌幸・信繁親子だけらしいよ・・・。

「断じて許さぬ・・・!!」by家康

上田に向かっていた昌幸と信繁は、稲たちと合流!!

「お前たち、何をやっとるんじゃ。。。」by昌幸

「大坂から急ぎ立ち戻ったところでございます。
 上方は、石田治部様が挙兵されて、世の終わりが来たような大騒ぎ・・・

 母上様や春様は、大谷刑部様のもとに匿われておりますが、私は徳川の家臣の娘・・・
 これ以上、大坂にとどまっては危ない故、逃げて参りました。」by稲

おこうと息子達も連れて・・・

「して。。。我が夫は何処に・・・??」by稲

「源三郎はおらん。」by昌幸

「・・・父上は、徳川に背き毛利様に付つことに致しました。
 しかしながら兄上は・・・。」by信繁

「徳川に残ったのですね。」by稲

「話し合った末の事です。」by信繁

「あの方らしい筋の通し方。」by稲

「敵と味方という訳ですか・・・」byこう

おお・・・さすが稲です。

「詳しい話はあとでゆっくり・・・」by昌幸

「お城にお越しなら、夫に変わり私がきちんとお迎えせねばなりませぬ。
 支度を整えて、お出迎え致します故、しばしのご猶予をいただきとう存じます。」by稲

何か策を練っているのでしょうか・・・??稲、楽しそうです。

先に城に戻るという稲&こう&子供達

ところが・・・


maru7













「これより、一歩たりともお通しするわけにはまいりませぬ!!

 我が殿、真田伊豆守は、徳川方。
 ならば、徳川に刃向かうこの歯、すべて敵でございます!!
 お引き取りを・・・!!」by稲

「お引き取りを・・・!」byこう

おお!!かっこいい!!稲姫!!
おこうも可愛いわ・・・!!
沼田には入れないわっ!!と、頑張っとります。


「射かけよ~~~!!」by稲

「さすがは徳川一の名将、本多平八郎の娘じゃ!!
 源三郎はよい嫁をもろうたのう・・・!!」by昌幸

maru8












と、稲一番の見せ場です。

きりっとしていてカッコいい!!

ここで一つ・・・来年の「女城主 直虎」には不安しかない私です。
当時の女性はかなり資料が少なく、なんて呼ばれていたのかもよくわかんないぐらい・・・。
「花燃ゆ」も、有ったか無いか、わかんない情報を1年間詰め込んだ作品だったと思います。
私が男尊女卑感が強いのかもしれませんが、なかなか女性が活躍できなかった時代が長い間続いてきました。
江戸時代や平成の女性が強いのは、戦いのない時代だからだと思います。
反対に言うと、戦国時代や幕末、明治から昭和20年までは戦いの時代・・・は、女性が活躍できない時代だと思うのです。
なので、補佐する女・・・つまり、坂本龍馬のお龍、木戸孝允の松子・・・男を陰で支える気の強い粋な女がかっこいいと思うんですが、まさに、稲はそんなタイプかもしれません。
男女平等間のないこの時代にしっくりくる活躍というか・・・
四の五の言わず、カッコいい!!なのです。

こんな普通にかっこいい女性を書いてくれると嬉しいんですけどね・・・。

上田城では、 徳川をどう迎え撃つのか考え中・・・!!
兄・信幸が徳川についたことで、兵には動揺が・・・!!

一方、徳川では、兄・信幸が先鋒を任されていました。
ま、徳川にとって、これから信じうる人物となるのか・・・??
家康としては、試す絶好のチャンスだったでしょう。
まさに踏み絵状態ですね。
どちらも生き残るための作戦であったはずなのに、いきなりピンチ!!

「わしはお前を信じるが、僧でない者もおるのだ。
 そのための先鋒である。
 有無を言わせぬ戦いぶりを見せてみよ!!」by家康

ま、これで家康以外の・・・信幸に不満タラタラな家臣たちも、一目置くかもしれない・・・
家康のやさしさってパターンはあるかしら・・・??

沼田に入った信幸・・・


その頃上田では・・・三成から「小諸、深志、川中島、諏訪、切り取り次第」で領地にしていいという。
昌幸は・・・値をつり上げる・・・「甲斐・信濃、二か国」も要望して・・・
許可を得ることに成功!!

「よっしゃ~~~!!」by昌幸

ところで、この切り取り次第って、曲者ですよね??
明智光秀の出雲・岩見の時もそうでした。
自分でなんとか取ったらあげるよ的な考えなので、絶対くれるわけではありません。
そして、言ったもん勝ち・・・はったりで、簡単に甲斐・信濃もつけて・・・となったんでしょうが。。。
やっぱり昌幸にとっては、自分が大殿(武田信玄)と活躍した甲斐は絶対外せないみたいですね。
かなり固執してますから・・・。

この戦・・・真田が要やもしれぬ・・・と、吉継・・・徳川の最前線にいますからねっ!!

宇都宮で上杉をけん制していた秀忠は、東山道を3万の兵と共に信濃に・・・もちろん、真田を討つために・・・!!

上杉では・・・出陣しようとする景勝に・・・

「伊達や最上の動きも気になりまする。
 我らが動くのは、石田勢と徳川勢がぶつかってから。
 天下分け目の戦でござる。
 ひと月、蓋つきで勝負がつくとは思えませぬ。」by兼次

そうなんですよね・・・誰もがそう、思っていたことでしょう。
長い、長い、戦国時代・・・前回日の本を二分にした戦いはのらりくらりの応仁の乱でした。

長~い時間をかけて攻略するって誰もが思っていたことでしょう。


9月1日江戸を発った家康軍3万が、西へ向かいました。
2日後・・・秀忠が小諸城に入りました。
いよいよ上田で戦いが・・・


昌幸から信幸に書状が・・・。
どうも降伏するらしい・・・。

maru10












やってきたのは信繁!!
降伏条件は・・・??
①城は明け渡す
②兵は皆、城から帰す。
③真田安房守の命はとらない
④城はいずれ返していただく
⑤本領安堵
⑥真田安房守を今後徳川の家臣として丁重に扱う

これを認めていただけるのなら・・・という信繁。

「申し訳ございません!!」と、平謝りの信幸。

時を稼いでるとしか思えない・・・という信幸。

「これは・・・怒ってもいいのか・・・??」by秀忠

そうそう、百戦錬磨の昌幸VS凡庸ボンボン秀忠・・・
格が違うんですけど・・・ですが、ま、怒ってもいい部分は⑥かな??

小田原攻めの時もこんな感じでしたよね。
秀吉が約束守らなくって命とっちゃいましたけど・・・。

「上田を攻める~~~!!」by秀忠
怒っちゃいましたよ・・・。
交渉決裂!!

「これでよい・・・!!」by昌幸

9月9日・・・秀忠は小諸を出て染屋原に陣を敷きました。

「源三郎とは戦いたくないのう・・・」by昌幸

つぶやく昌幸に、私に策があるという信繁!!

一芝居打って信幸に砥石城を攻めさせるという。
戦っていると見せかけて、”内通者”に門を開けさせ、なだれ込んできた信幸軍が勝利するというものでした。
そして砥石城明け渡すというのです。
こうなると、信幸のメンツも立つわけですが・・・

「門を開ける役をお前に頼みたい。」by信繁

”内通者”の役は、三十郎・・・。

「そしてわれらが去っても城に残れ。」by信繁

「どういう事でしょうか」by三十郎

「内通者が一緒に逃げてはおかしい。」by信繁

「しかし・・・!!」by三十郎

「これ以降は兄上に従うのだ・・・!!」by信繁

maru15















「嫌でございます。
 三十郎は・・・三十郎は、源次郎様の下にいとうございます。」by三十郎

「お前が一番信じられる男故、頼んでいるのだ!! 
 父と兄が本気で戦うことを避けるにはこれしかない!!
 いずれ、真田がまた一つになるまでの辛抱だ!!」

泪で熱くなる三十郎・・・!!

うまいなあ・・・!!
この矢沢三十郎頼幸、信繁と同世代のように見えますが、実は昌幸の従兄弟にあたります。
3歳年上って説も、15歳以上上って説も。。。
でもって、武勇優れた男なんですが、信繁→信幸→信幸の子供達・・・と、仕える人間が変わっています。
どこで、どんなふうに変わるのか??楽しみだったんですが、ここで変わるんですねっ!!
グッとくるとってもいい演出です。

このことは、兄・信幸にも伝えられました。

前回の上田攻めでコテンパンにやられてしまっていた徳川軍・・・
ジリジリと攻める作戦のようで・・・誰か砥石城を・・・!!
とそこで信幸が自ら名乗り出ます。

「その役、どうかこの伊豆守にお任せくださいませ。
 砥石城は勝手知ったる城・・・攻めるにはそれがしを置いて他にはございません。」by信幸

親子で戦わせるのは・・・と、訝し気に言った正信でしたが、
「それもそうだなあ・・・」という秀忠・・・
信幸に本多様は、私を疑っておられるのです。と言われ、そうなのか??という始末。
面白みのない真面目な信幸にまで突っ込まれる秀忠って・・・どこまでボンクラ書かれちゃうんでしょう??

砥石城に内通者がいるので、任せてくれと自信気な信幸・・・
真田家の作戦が始まっちゃいましたよ。

城を守っているのはもちろん信繁!!
戦いが始まりました。
開門するは三十郎!!

「矢沢三十郎頼幸!!
 真田伊豆守の命を受け、只今より徳川方にお味方仕る!!」by三十郎

「ご苦労であった・・・!!」by信幸

ということで、三十郎は信幸の下へ行っちゃいました。
いろんな気持ちが交錯する中・・・勝鬨が・・・砥石城は信幸によって落城!!

この日から信幸は、砥石城から一歩も動かなかった・・・
徳川勢が上田を攻めている間、真田勢同士でぶつかることは一度もなかった。。。

おお!!素晴らしい作戦です。

結果的にこうなったのか、作戦でこうなったのか・・・そこはよくわかりません。
もともと昌幸が降伏すると言っていたのに降伏しなかったことで、信幸は徳川方にもっとこっぴどく怒られたともいわれています。
そこで、窮地に陥った信幸が砥石城攻めを進言したともいわれています。
あ・・・策を練ったのはもちろん昌幸ですけどね。
ということで、もっと情けない信幸だったのかもしれませんが、なかなかカッコいい信幸に仕上がっていましたね。
最近の存在感大です。

徳川は3万の大軍勢・・・ネックは兵糧!!
それは、正信もわかっている・・・
刈田をさせるか?させないか??これは、とっても重要です。
どの戦いでも、大軍が通った後には、何一つ残っていない(食料も女も)ということは普通でした。
庶民・・・特に農民にとっては大軍勢の戦いなんて、百害あって一利もないのです。あ・・・マイナスか・・・??

徳川の兵糧小屋を攻める小山田誠茂、刈田をさせない堀田作兵衛。
それにしても、作兵衛、ほんとカッコいいわ~~~!!

焦る秀忠・・・雨まで降ってきました。

「なるほど・・・これか!!」by正信

正信は昌幸の本当の狙いに気が付いたようです。
退路を断たれてしまいました。

そしてあくまでも裏をかこうとする昌幸・・・

「兵500を連れて、本陣の裏へまわれ。
 蚕山じゃ・・・。
 秀忠の首を取ってしまえ!!」by昌幸

「本陣まで気づかれずに攻め込めるでしょうか?」by信繁

「そのために、半月欠けて山麓から染屋原の攻め口を切り開いてきた。
 一気に突っ込めるぞ!!」by昌幸

「ここに本陣を置くのがわかっていたのですか?」by信繁

maru16















「染屋原は、上田城を攻めるには絶好の高台にある。
 ここしかないと、はなから踏んでおったわ!! 
 戦はな、源次郎。
 始める前が肝よ・・・!!」by昌幸

おお!!
戦は戦う前が肝心!!
それは、秀吉も家康もおんなじことを言ってるわ!!
特に、策謀に長けていた秀吉は100%そうだったんじゃないかしら??
昌幸も同じなのね。
戦っているときがウキウキ、とっても楽しそうです。

上田の・・・真田の全てをかけた戦いが始まろうとしていました。

「果たして総大将の首、取れますか・・・。」by内記

「取れんでもよい・・・
 秀忠は初陣じゃ・・・思い切り怖がらせてやるのよ。
 初陣で戦の怖さを思い知らされた者は、生涯戦下手で終わる・・・。」by昌幸

今までの戦いの全てをつぎ込むかのような昌幸がそこにはいました。
百戦錬磨の戦上手!!
そこに負けの二文字はありません!!

しかし・・・陣はもぬけの殻・・・
上田を攻めることなく、撤退していたのです。

血気に逸った福島正則が、石田方の儀布教を落としたのである。
これで西国の緊張は、一気に高まった。
慌てた家康は、秀忠軍に合流を急ぐよう命じた。

maru11












勝っておった・・・と悔しがる秀忠・・・。
秀忠が関ケ原に間に合っていたら・・・というifもよく言われますが・・・最近は、あんまり変わらなかったんじゃないかなあ・・・とも思っています。
ま、恩賞を与える段になって、「豊臣恩顧ばっかじゃん!!」と家康が焦ったのは本当でしょうけどね。

9月15日、石田三成率いる8万の軍勢は、関ケ原に陣を張った。

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対する徳川家康軍は9万。
天下分け目の対戦が今、始まろうとしている。

maru13












そんな中、上田では祝杯があげられていました。
どうして秀忠軍が撤退したのかも知らずに・・・。

maru17















そこへ・・・神妙な顔をして佐助登場!!
「関ケ原に於いて、石田治部少輔様と徳川内府様との軍勢がぶつかりました・・・!!」by佐助

「ついにぶつかったか・・・!!」by昌幸

「当たった~~~!!」
「甲斐、死なのは殿の物でございます!!」by etc.

「静かに~~!!
 佐助・・・続きを・・・!!」by信繁

佐助・・・何を言う・・・??

「はい・・・
 戦は朝方に始まり、昼過ぎには勝敗が決しました。
 徳川方の大勝利でございます。」by佐助

「なんだと・・・」by昌幸

「大谷刑部様はお討ち死に・・・
 石田治部様は行き方しれず・・・。」by佐助

いきなり関ケ原の戦いが終わっちゃいました。
が・・・当事者の家康さえも、こんなに早く終わるとは思っていなかったでしょう。
だって、息子・秀忠と密に連絡とってないですもんね。
だから、秀忠も関ケ原に後れちゃったわけで・・・。

誰も予想できなかった関ケ原の戦い・・・
端の方で戦っていた真田や上杉に・・・あ・・・九州勢もか・・・
だれも、昌幸のような苦虫をかみつぶしたような顔をしたことでしょう。

真田家としては、風雲急を告げる・・・急転直下の事態が待っていますが・・・。
楽しみにしています。


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徳川家康打倒に立ち上がった石田三成。
徳川屋敷襲撃を画策するが、未遂に終わる。

三成を敵視する大名は、日に日に増えていた。


さあ・・・いよいよ挙兵です!!

伏見にある石田屋敷では・・・三成が謹慎していましたが・・・

maru












自分が居なければ、政が滞る・・・と、
日本人らしく家でもお仕事中!!
「この文書はどうされたのですか?」by信繁

「騒ぎの隙に、伏見城から運ばせた。
 時があるうちに小田原攻めや朝鮮出陣の記録をまとめておこうと思ってな。」by三成


2月29日、前田利家が伏見にある徳川屋敷を尋ね、三成の処遇について話します。
家康襲撃事件で、現在、謹慎中ですからね。。。

maru2













この時点ではかなり体調が悪いはず・・・
きっと命を懸けての会見だったと思うの。
みんな、みんな、殿下の豊臣を守ろうとしての行動なんですけどね・・・。
あ・・・家康は違うか・・・!!

石田治部は豊臣になくてはならない男・・・と、本気で思っているのか?
利家を立ててこれているのか??
はたまた、利家に恩を売ろうとしているのか・・・??

maru3













水に流すと言ってくれた家康です。

おかげで、三成は謹慎が解かれ、政務に復帰しました。

しかし、福島正則や加藤清正は怒りが収まらず、利家に不満タラタラ・・・!!

「よう聞け。
 ここだけの話、わしはもう長くはない。

 わしが死んだ後も、治部と力を合わせて豊臣の家を守り抜け。
 それがお主らの役目だ。。。 よいな・・・!!」by利家


仕事に復帰し、寧に騒ぎについて改めて謝る三成。

「佐吉・・・誤解せんといて・・・
 わたくしは、仲ようしてほしいだけ・・・
 こんな子供の頃から知っとるで・・・」by寧

「では・・・」by三成

と、謝るだけ報告していってしまった三成。
こんな心のないパフォーマンスだからこそ、好かれないんでしょうね・・・。
熱演です。

「左衛門佐・・・いいですか・・・
 
 つまらぬ騒ぎに巻き込まれるのはもうたくさん・・・
 秀頼殿の婚儀が整ったら、出家するつもりだわ。。。

 今から少しづつ、身の回りの片づけをしていることろ・・・
 それで、きりにも暇を出すことにしました。

 本人のたっての願いで、細川殿のお屋敷に奉公させることになりました。」by寧

??さらっと言いましたが、秀頼の婚儀って・・・

maru4












家康の孫・千姫との婚儀でしょうか??
って・・・これは、家康が伊達や加藤などと親戚になろうとやっていた・・・そうそう、殿下が禁止していた大名同士での婚姻となるのでは・・・??
と思いがちですが、この婚儀は、殿下がお亡くなりに決めていたものです。
それって、やっぱり徳川に一目を置いていたってことで・・・
既に、徳川の強さを認めていて、別格だったって示してしまってるんじゃないの??秀吉!?


で、きりは・・・おお・・・いい感じにガラシャのところに入りましたね。きり!!
これでガラシャの死を傍でレポートできますよ!!
細川ガラシャ・・・ガラシャは天下分け目の関ケ原の勝敗を決めてしまった女・・・というイメージがあるので、その歴史の目撃者としてガラシャのもとへ行くんでしょうが、本当はどうなんでしょうね。
多分、この時点でガラシャは、三日天下の父と、忠興の異常なまでの愛情で、軟禁状態だったので、だれなと会えないはずです。
あ・・・でも、寧のつてなら潜入できる・・・??

徳川屋敷襲撃事件について、申し開きをしようとする三成ですが・・・
茶々は何も知らない・・・と、巻き込まれないように頑張って・・・大蔵卿局に話すことさえさえぎられてしまいました。

maru8












3月3日・・・前田利家が亡くなってしまいました。
maru9












反三成派の武将たちの抑えが・・・効かなくなってしまいます。
その中には、細川忠興も・・・!!

maru6












ガラシャから情報を仕入れたきりは、信繁に報告・・・!!
メンバーは、加藤、福島、細川、黒田、藤堂、蜂須賀、浅野!!
そう、秀吉子飼いの子達ばかりだったのです。

避難する三成!!
そしてそこには・・・

maru5













襲撃したら・・・なんと、信幸&信繁で将棋!!

石田治部少輔を出せといわれ・・・

「加藤殿、石田治部少輔との諍いは、身内のもめ事で済ませても、我が真田と一戦交えるならばもはや国同士の戦でござる。
 それをお覚悟の上か・・・??
 お覚悟の上とならば、お受け申すが・・・!!」by信幸

おっと、信幸、貫禄出てきましたね、とってもかっこいいです。
よっ!!男前!!

清正たちは三成を血眼になって探しているようですが、見つかりません。
今は宇喜多邸にいるものの・・・治部少輔丸に立て籠もろうと言い出す三成。

寧に会いに行き断られ・・・茶々に会いに行き大蔵卿局に断られ・・・
いろいろ手を尽くす信繁ですが・・・

「 秀頼殿が言えば、治部は助かるのですか?
 それは、秀頼殿のためになりますか?
 
 徳川内府と治部は犬猿の仲・・
 秀頼殿が板挟みにはなりませんか?
 秀頼殿のためになりますか?
 おかえりなさい。」by茶々

ごもっとも、茶々!!

遂には吉継の案で、家康に救いを求めに行く信繁!!

「いまだ治部様の引き渡しを迫っている加藤様たちをお諫めいただきとうございます。
 内府様がお出ましくだされば、必ずや矛を収めましょう。」by信繁

「じゃがなあ・・・今は合議で全てを決することになっておる・・・
 わしひとりがしゃしゃり出るわけにはいかんのじゃ。。。」by家康

おお!!ああいえばこういう!!
合議、合議と言っていたのは三成・・・
なんだかんだと一筋縄ではいかない家康・・・まさに古狸!!
利家が亡くなってしまったことで、ほとんどが子供世代に移って行っている中で、一人で頑張っているんですが・・・
やっぱり”小童”には負けられないでしょう。

でも・・・立ち回りの上手い家康の事・・・
この事件を丸く収め、七将たちを説き伏せてくれましたが・・・その代わり、三成は蟄居・・・政から手を引くこととなりました。

「なぜだ・・・
 殿下にすべてを捧げ、殿下亡き後は豊臣家にのために、すべてをなげうってここまでやってきた。
 何故私が伏見を追われなければならぬ・・・!!」by三成
佐和山へ引っ込むことになってしまいました。

最後に・・・「虎之助に会いたい」と、信繁に頼む三成。

maru7













はて・・・清正・・・虎之助に何をつぶやいたんでしょうね・・・??

三成が伏見を去った3日後・・・伏見城に入ったのは家康・・・高らかな勝利宣言でした。


三成が蟄居して・・・家康が信繁を引き抜こうとしている・・・!!
断る信繁ですが・・・
ま、最期を知って人間は思いますよね??
ああ!!勿体ない!!どうしてこの時、家康に鞍替えしなかったのか???って。
でも、それはその後を知ってる私たちの考えで・・・この頃は何もわかっていなかったはず・・・!!
ただ・・・この時家康についていれば、後世にわたって愛されキャラの真田幸村は登場しなかっただろうし、真田十勇士も作られなかったかもしれません。。。
なので、やっぱりここは、断って正解です。
???断る男だからこそ、大坂の陣に豊臣方として馳せ参じるのでしょう!!
でもって、愛されキャラになるのだ・・・!!

ただ・・・「お断りいたします!!」ってそっけない言い方・・・多分、信繁はそんなご身分ではないのだ。
雇われ人の方なんだから。
ただ・・・ドラマ的にはかっこいいですよね。
自由にならない一目置く男だから欲しいんですよ、家康も!!

お役御免となって信幸と真田のために尽くしたいという信繁がそこにはいました。

1600年5月・・・

ほぼ天下を手中に収めている大坂城に入っている家康・・・。
発端は、謀反の疑いが出てきた上杉景勝!!

maru10












兼次は”直江状”を送り付けてきました。

”われらが戦道具を集めているとのことなれど、髪型の武士が茶器などをお集めになるように、われら田舎節は鉄砲や弓矢を集めるだけ。
 maru11












そのようなことにこだわるのは、天下を預かるお方らしからぬご了見!!
 われらに逆臣はないと申し上げたはず。
 にも拘わらず、「逆心なければ上洛できるはずだ」とは、赤子の理屈で、全く話にもなり申さぬ。
 家康様に分別がついたころには上洛できると存ずる。
 どこぞの誰かのように太閤殿下のご遺言に背き、起請文も破り、秀頼公をないがしろにしたりは致しませぬ。
 さようなことをして天下をとっても、悪人と呼ばれるは必定!!
 末代までの恥と相成りますゆえ・・・!!”by兼次(直江状)

もう一つの関ケ原 ~直江兼次の誤算~はこちら

兼次の声がまたいいのよね~~~!!
怒り狂う家康!!

その上杉から密書が届いたのは昌幸!!
味方になってほしいという。。。

「わしはそれに乗ろうと思う。
 合戦が始まったら横合いからいきなり徳川本陣を攻める・・・!!
 徳川はひとたまりもあるまい。

 
 世は再び乱れる・・・
 その機に乗じて、甲斐・信濃・駿河・・・信玄公が治めていた領地をこの手で奪い返す!!
 小田原の陣で、死を覚悟した北条氏政にわしは言った。
 「死にたければ死ね。されど生きておれば、また楽しいものが見られますぞ。」と・・・
 
 これはわしにとって、今度こそ最後の機会じゃ。
 わしの我儘、聞いてくれんか?
 どうか頼む・・・!!」by昌幸

そう、信繁が言ってますが、徳川を倒した後はどうするのか??
オールドタイプにはそんなこんながわからないようです。
昌幸のやんちゃなキャラは、とっても魅力的なんですが。
1477年の応仁の乱以降・・・100年以上も戦い続けている人たちには、きっと”平和”がわからないのでしょう。
なので、父・昌幸の考えが間違っているのではないのだけど・・・
それこそ北条氏政が死んだ時点で、その時代は終わっていたような気がします。
そう・・・戦いは終息に向かっているのです。


「徳川家康はもはや太閤殿下のご遺言を踏みにじる大悪党となり果てました。
 許しておいてはなりません。」と、父に賛同する信繁。

「・・・私は真田安房守の嫡男・・・
 父上に従うに決まっておるではありませぬか・・・!!」by信幸

父と舅の間に挟まれて、しんどそうな信幸がいます・・・が、父が戦がなければ生きていけないことをこの兄弟はわかっているのです。

そして・・・時流は・・・?? 

上杉征伐を「上杉VS徳川」にしたい片桐且元ですが・・・「上杉VS豊臣」にしたい家康。
??これって、前回の三成・・・家康を討つために、千成瓢箪が欲しい!!と言ったのと同じ構図です。
みんな錦の御旗(豊臣の権威)を最大限に利用し・・・そのNo,2となりたいようです。

って思うと、本当に日本はNo,2な国だと思います。
って・・・天皇のNo,2、天皇あっての征夷大将軍ですからね・・・。
この構図はいつからんだろう??天皇ですんごい頑張った人って奈良時代とか、後白河天皇とか、後醍醐天皇とか知らないもの・・・。
ってことは、奈良時代に、天智天皇が血なまぐさい大化の改新を起こしてドタバタし、桓武天皇が平安京へ都を移して以降はほとんどNo,2の時代だったのね・・・。

今回は秀頼のNo,2として戦いたい家康なのです。
三成は上手くいきませんでしたが家康は・・・??
老獪・・・おまけに老衆筆頭ですからね・・・。

ああ・・・片桐且元では器が・・・
頑張っているんですけどね。。。

「片桐には悪いが・・・ここは是が非でも豊臣と上杉の戦にしておきたい・・・
 戦の重みが違う・・・!!」by家康


と、茶々に願い出ます。

「陣中お見舞いなどを賜われば、士気も上がりましょう。
 軍用金二万両、兵糧の米2万石では・・・??

 それとですなあ・・・此度は秀頼公よりそれがしは豊臣の軍勢をお借りして上杉を懲らしめんとする戦・・・
ついでに豊臣の旗・幟もお許しいただければ、更に士気は高まりましょう」by家康

「好きにせよ」by茶々

控えながら、ほくそ笑む家康がいました。

6月16日、家康は豊臣の軍旗を高らかに揚げ、会津への進軍を開始!!
そして大坂では、徳川内府を弾劾すべく・・・

maru12













立ち上がる男たちがいました。
もう・・・あとには退けない・・・!!

日本史上未曽有の大戦が始まろうとしていました。

ということで、大詰めな回となりました。
前回も書きましたが、今回の真田丸の三成ですが・・・
こんな三成な気がしてきました。

勝たせてあげたい三成なんて、はじめてです。



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