日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:勝海舟

長い日本の歴史では、それまでの世の中をひっくり返す大変革がいくつかありました。

天皇中心の体制を固めた大化の改新
武士が政権を作った鎌倉幕府
武士の世を終わらせ近代国家へと生まれ変わった明治維新・・・。

明治維新は、世界でもまれにみる犠牲者の少ない革命と言われています。
戊辰戦争の戦死者数は約8500人・・・明治10年の西南戦争を含めても約3万人です。
18世紀にはじまるフランス革命の犠牲者はおよそ40万人、アメリカ南北戦争は60万人と言われています。
どうして、日本では犠牲を抑えることができたのでしょうか?

そのヒントは、敗者とされた者たちです。
激動の中、敢えて困難な道を選んだ侍たちの歴史です。

ペリー来航に始まった幕末の動乱・・・
1868年、動乱はついに日本の運命をかけた武力衝突に・・・!!
鳥羽伏見の戦いです。
徳川の世か、新政府の世か、その争いは1年5カ月に及び、戊辰戦争と呼ばれました。
旧幕府軍を率いたのは、徳川慶喜・・・西郷隆盛らの新政府軍の前に敗走。
大坂城に退却し、そこに温存していた巨大な兵力で反撃に出るはずでした。
しかし、その直前・・・慶喜が密かに逃亡・・・旧幕府は総崩れとなりました。

①もしも徳川慶喜が大坂城で戦っていたら??

幕末、幕府は諸外国の圧力に屈して国を開きました。
それまで絶大だった幕府の権威は揺らぎ、乱世となりました。
その中で、天皇を中心とした新たな国家体制を望む声が日増しに高まっていました。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など薩摩・長州の一部は公家の岩倉具視と連携し、密かに倒幕に動き出します。
この動きにいち早く反応したのが、将軍・慶喜でした。
1867年慶喜は討幕派に対して先手を打ちます。
政権を朝廷に返上・・・大政奉還です。

慶喜は幕府がだんだん斜陽化していくのを見ていて、このままの体制では駄目かもしれないと考えていました。
それならば、自分が将軍になった後に、即幕府を廃止してしまえば討幕派の目標は失われる・・・
そこで、新しい政府を作れば、自分が中心に改めてなり、そして日本をリードする考えでした。

大政奉還によって倒すべき幕府を失った西郷と大久保・・・
しかし、徳川を排除した政権実現のためにある計画を実行します。
12月9日、早朝・・・
薩摩兵らが天皇の住む御所を封鎖、王政復古のクーデターです。
慶喜らを中枢から排除し、天皇のもとで新たなメンバーが政治を行う新政府樹立を宣言。
当然ながら、旧幕府側は激怒!!
慶喜は、大坂城に移動・・・1万5000の旧幕府軍を従え、情勢を見守ることにしました。

1868年1月2日、旧幕府軍1万が大坂城から京へ出発!!
目的は、天皇に薩摩の討伐を願い出るためです。
旧幕府軍は、鳥羽街道と伏見、二手に分かれて北上。
京の御所を目指しました。

1月3日、旧幕府軍はその途中で、新政府軍に行く手を阻まれます。
新政府軍の兵は5000!!旧幕府軍は1万!!
そこには倍の兵力がありました。

土方歳三と榎本武揚: 幕臣たちの戊辰・箱館戦争 (日本史リブレット人)

新品価格
¥880から
(2021/10/6 11:08時点)



しかし敗北・・・
敗北の原因①突然の戦闘開始
1月3日、午後5時・・・新政府軍が鳥羽伏見の戦いの火蓋を切ったとき、旧幕府軍は大混乱に陥りました。
何故なら、旧幕府軍の目的は、あくまでも天皇に薩摩討伐を願い出る為だったからです。
その為、京への登城への途中で戦いになることを想定せず、銃に弾を込めていませんでした。
そして、伏見でも・・・賭場で鳴り響いた銃声が呼び水になって戦闘が始まりました。
伏見には、土方歳三率いる新撰組もいましたが、猛烈な火力に晒されました。
虚を突かれた旧幕府軍は、じりじりと後退します。

敗北の原因②錦の御旗
1月5日早朝・・・戦場に錦の御旗が翻りました。
これで、新政府軍が官軍で、旧幕府軍が賊軍であることが示されました。
士気をくじかれた旧幕府軍は、敗走をかさね、大坂へ撤退していきます。
鳥羽伏見の戦いを決定づけた錦の御旗・・・
仁和寺には、実際に戦場で掲げられたといわれる旗が大切に保管されています。

nisiki

















御所にあった布をもらう・・・下賜されるのがこの御旗の価値です。

錦の御旗を最初に掲げたとき、旗を知る者はほとんどいませんでした。
幕府の兵隊が、「この旗はどこの藩のものか?」と、敵に聞きました。
新政府軍「これは錦の御旗だ、我々は皇軍だ」
旧幕府軍「わしらは賊か?」
噂が噂を呼んで、じわじわと賊軍となっていきました。
旗ひとつで戦局が変わる・・・如何なる軍事力でもこれには抗えなかったのです。

新政府側に錦の御旗が翻ったという知らせは、大坂城の徳川慶喜のもとにも届いていました。

「朝廷に対して刃向かう意思はつゆばかりもないのに、何かの誤りで賊名を背負うことになってしまった」by慶喜

朝敵とされたことにショックを受けた慶喜・・・そこには彼の生い立ちが深く関係していました。

1837年、慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族での母との間に・・・水戸藩に生れます。
水戸藩は、天皇を尊ぶ尊王思想の筆頭格でした。
そこで育てられた慶喜は、幼いころから聡明で知られ、徳川の御三卿・一橋家の跡取りになります(1847年11歳)。
1864年、28歳の時、御所の治安維持を任されます。
29歳の時、14代将軍家茂が病死・・・慶喜は、15代将軍となりました。
しかし、家臣たちには慶喜の考えが日によって変わることを揶揄され、”二心殿”と呼ばれました。
1868年1月5日、錦の御旗が翻った日・・・旧幕府軍は大坂方面へ後退・・・
大坂城にいた慶喜のもとで立て直しを図る・・・!!
慶喜は家臣たちを前に檄を飛ばしました。

「この大坂城が、たとえ焦土になろうとも、断固死守しようではないか!!
 予がここで死んでも、忠義の家臣たちが志を継いでくれるだろう」by慶喜

慶喜の言葉に家臣たちは再び奮い立ちました。
大坂湾では、最新鋭の軍監・開陽丸をはじめとする旧幕府軍が、薩摩藩の艦隊を撃退!!
いよいよ反撃開始!!と誰もが確信しました。

ところが・・・1月6日夜・・・慶喜は、密かに開陽丸で江戸へ・・・!!
大坂城に残る家臣のほとんどには、何も告げずに・・・
慶喜の側近は、「なぜですか」と尋ねました。

「あの調子でやらなければ、兵が奮い立たないからだ 方便だよ」by慶喜

その後、大坂城は陥落。
旧幕府軍も瓦解しました。
こうして、戊辰戦争の初戦・・・鳥羽・伏見の戦いは集結しました。

もしも、慶喜が大坂城で戦っていたら??

鳥羽伏見の戦いは勝てたかもしれない。
でも、外国勢力の介入や、内戦の長期化を避けるため、慶喜は大坂城から逃げたのでは・・・??
悪評を背負っても、混乱が起きない道を選んだのです。

鳥羽伏見の戦いを放棄し、江戸に戻った徳川慶喜は、新政府に恭順するとしました。
しかし、新政府には西郷隆盛はじめ、なにがなんでも徳川家を攻撃し、慶喜の命を奪うべし!という人がたくさんいました。
果たして・・・慶喜の運命は・・・??
1868年1月18日、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、錦の御旗を掲げ、京を出発。
東海道、東山道、北陸道の三方向から進軍し、途中にある藩を次々新政府軍に加えて江戸へ向かいました。
一方、江戸では、旧幕臣の多くが徹底抗戦を訴えていました。

”新政府軍の進軍に、江戸は殺気立ち、鎮撫するのは非常に困難である”

新政府軍と旧幕府軍との全面戦争・・・そうなれば、100万都市・江戸が火の海になる!!

江戸城に戻った徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居・・・新政府に恭順の意を示しました。

「追討使を差し向けられる事態に至ったのは、全く慶喜一身の不束より生じたことである」by慶喜

しかし、
「慶喜の首を引き抜かねばおかれぬ」by西郷隆盛

西郷隆盛率いる新政府軍は、進軍を続行。
慶喜はこの時、徳川の命運を陸軍総裁の勝海舟に一任しました。
西郷は、江戸総攻撃を3月15日に行うことに決定。
両軍の武力衝突は、何としても回避したい・・・そう考えた勝は、西郷に書状を送ります。
3月6日・・・総攻撃の9日前でした。

「我が徳川が恭順を守るのは、徳川とて国家の一員であるゆえ
 今は、兄弟相争う時ではない」

それに対し西郷は、旧幕府側に降伏の条件を示しました。

・徳川慶喜の備前藩へのお預け
・江戸城明け渡し
・軍艦・軍器全ての引き渡し
・徳川家臣の処罰

慶喜の命こそは奪われないが、徳川宗家の存続は危ぶまれる・・・
勝には、到底飲めないものでした。
最悪の事態も想定していた勝・・・恐るべき戦略を練っていました。
その内容は日記に残されています。
島津家が書き残した”勝海舟日記”・・・
江戸総攻撃5日前の3月10日の日記に、勝はこう記しています。

”我も先に市街を焼いて、一戦焦土と化す!!”

新政府軍が来る前に、水から江戸に火を放つという江戸焦土作戦です。
はったり・・・??交渉材料だったようです。
勝海舟は、交渉能力に長けていました。

3月13に理、勝、西郷と直談判!!
西郷が提示した条件に対し、勝はこう訴えました。

・徳川慶喜は水戸で謹慎
・江戸城は明け渡す
・軍艦・軍器の必要数を残して引き渡す
・徳川家臣の寛大な処罰(処刑なし)

もしこの交渉が決裂すれば、江戸がし焦土になる作戦があると伝えていたのかもしれません。
勝と話し合った西郷は、態度を一変させます。

”色々難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします”by西郷隆盛

江戸剃ぷ攻撃は中止、予定日である3月15日の1日前の出来事でした。

その1か月後、勝は江戸城を新政府軍に明け渡しました。
無血開城でした。

江戸総攻撃が起きていたら・・・??
新政府軍の江戸決戦は失敗したのではないか??
結局、明治維新後の日本の近代化が出来たのは、江戸時代の蓄積、土台があったからです。
一切なくなってしまっていたら・・・近代化は50年ぐらい遅れていただろうと思われます。
軍事的に負けても、江戸城攻撃を回避できた・・・それは勝海舟の勝利だったのかもしれません。

「西郷と最後まで闘った男」



江戸城無血開城の後も、新政府軍と旧幕府軍との戦いは終わりません。
会津をはじめ、北陸や東北で多くの犠牲者を出しながら、戦線は北上・・・
戊辰戦争最後の舞台は、北の大地・箱館でした。

旧幕府軍のリーダーとして新政府軍と戦った榎本武揚と土方歳三・・・二人の侍は、戦いの先に何を見たのでしょうか?
1868年4月以降・・・戦いは北へうつっていきました。
東北や越後では、最新の武器を備えた新政府軍が旧幕府に味方する諸藩を圧倒・・・
劣勢に立たされた旧幕府軍の頼みの綱は、世界有数の強さを誇った軍艦・開陽丸を中心とする海軍でした。
開陽丸を指揮するのは、海軍副総裁・榎本武揚です。

やがて、仙台と、土方歳三率いる新撰組も合流。
総勢3000人となった榎本の艦隊は、蝦夷地と呼ばれた北海道へと向かいます。
そこには、榎本の大きな野望がありました。

1836年、榎本武揚は江戸に旗本の子として生まれました。
幼いころから学問好きで、昌平坂学問所に・・・若くしてオランダ語、英語、フランス語を習得。
19歳の頃には、蝦夷地の海洋調査に随行。
箱館にも足を踏み入れていました。
1862年、27歳の時、オランダに留学。
5年の間、西洋の知識を吸収します。
中でも力を注いだのが、海の国際法でした。
その詳細な解説書「万国海律全書」は、生涯、榎本の座右の書となりました。
1867年、幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を発注すると、それに乗って帰国・・・この時、32歳、幕府の若きエリートでした。

一方、土方歳三は、1835年、武蔵国の多摩の農家に生れます。
武士に憧れ、剣術の修行に励む中で、生涯の盟友・近藤勇と出会います。
1863年、29歳の時、近藤と共に上京。
新撰組を結成、藤方は副長となります。
寄せ集めの新撰組を、武士以上に武士を目指すと考えた土方は・・・
武士道に叛いたもの、組を抜けようとしたものは、切腹など、隊士らに鉄の掟を課しました。
ついた異名は、鬼の副長!!

1868年、34歳の時に戊辰戦争勃発。
旧幕府軍は劣勢になり、配送をかさねる中・・・盟友・近藤勇が新政府軍に処刑されてしまいます。
もはやこれまでか・・・

「このまま終わっては、地下の近藤とまみえることができようか!!」by土方歳三

土方は、あくまで新政府軍の戦う道を模索していました。

同じく幕臣だった榎本武揚・・・しかし、土方とは違い、この戦いの先を見据えていました。

「薩摩長州など強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収したのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by榎本武揚

1868年9月、榎本と土方は仙台で合流。
仙台城で旧幕府軍会議が行われます。 
榎本は、土方ら旧幕府軍に自分の最終目的を伝えました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by榎本武揚

徳川家に仕える家臣やその家族は、30万人・・・!!
しかし、新政府は、徳川家の収入を400万石から70万石に削減してしまいます。
収入が1/6以下では、彼等を養いきれない・・・!!
路頭に迷う家臣たちを集め、蝦夷を開拓しながら北方警備にもあたる・・・
それが榎本の戦いの後の野望でした。

10月12日、総勢3000人を乗せた榎本艦隊は、仙台から函館へ出航!!
土方はその時の心境を友人への手紙に記しています。

”到底勝算があるにあらず
 我ら闘こうて快く死せんのみなり”

10月20日、蝦夷・鷲の木に上陸
1週間足らずで現地の新政府軍を破り、函館を制圧!!
榎本たちは、五稜郭を拠点としました。

新政府軍と戦ううえで、榎本が最も大切にしたのは外交でした。
箱館に在留する諸外国の領事に榎本はこう説明しています。

”我々は、反逆者でも逆賊でもない
 祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちである”

榎本たちが暴徒と見なされ、諸外国が新政府軍に味方をしたら・・・勝ち目はない!!
そこで榎本は、中立を守るように諸外国と交渉をかさねます。
そして、遂に、
「榎本たちは略奪者ではない
 しっかりと組織された軍隊を備えた政府である」
榎本は、自分たちを事実上の政権と認めさせることができたのです。
諸外国は、中立の立場を表明しました。

諸外国としては、勝ち馬に乗るつもりでした。
しかし、なかなか見極めきれなかったのです。
旧幕府側の圧倒的に近代化された海軍力が、ミリタリーバランスを保っていたのです。
そのミリタリーバランスが、諸外国を揃って中立で見守る立場に置いたのです。
榎本の外交を成功させた強大な海軍力・・・これが、旧幕府軍の生命線でした。

榎本海軍の切り札・開陽丸・・・!!
飛距離4キロのクルップ砲!!
開陽丸には、操船に長けた船員がたくさんいました。
それが、開陽丸の強さの源でした。
最大500人の兵を乗せることができました。

榎本艦隊は開陽丸を持っている・・・それが抑止力にもなっていました。
簡単に新政府軍も攻撃できなかったのです。

賊軍 土方歳三(1) (イブニングコミックス)

新品価格
¥671から
(2021/10/6 11:09時点)



1868年11月、旧幕府軍松前城を攻撃!!
土方を隊長とする旧幕府陸軍は、蝦夷地の南部を治めていた松前藩を攻略・・・北へ逃げる敵を追って江差へ・・・!!
榎本は、土方たちを海から援護しようと開陽丸の出撃を決断します。
ただ・・・それは・・・

「江差までつれて行って、大砲の2,3発でも撃たせてやろう」by榎本武揚

土方率いる義陸軍ばかりが活躍していたため、海軍にも功績を与えようという榎本の海運への計らいだったのです。
しかし、この判断が悲劇を生みます。
11月15日夜・・・江差沖に停泊中の開陽丸は、暴風雨に襲われました。
激しい波で、岸へ押し流され座礁・・・!!
大砲を撃ち、その反動で岸から離れようとするも沈没してしまいました。
榎本は、土方たちと共に沈みゆく開陽丸を見つめていました。

”暗夜に灯火を失ったようだ”

土方歳三嘆きの末・・・この松の下で、榎本と共に開陽丸を見ていた土方があることをしました。
真偽は定かではありません・・・が・・・
土方が何度もたたいたのでこぶが出来て曲がった・・・と。

1868年12月15日、榎本たち旧幕府軍は、蝦夷地の全域を制圧、各国の領事にその領有を宣言します。
さらに、日本初の選挙を実施、榎本が総裁に、土方が陸軍奉行並に選ばれました。
ところが、それから2週間もたたない12月28日・・・
榎本に衝撃的な知らせが舞い込みます。
諸外国が中立の撤回を布告したのです。
開陽丸が沈んでしまったことで、局外中立を保っていた諸外国からすれば軍事力に大きな違いが出てくる・・・榎本政権の行き先を見切ったのです。

このすぐ後、アメリカは新政府軍に細心の軍監を譲渡しました。
甲鉄と命名された協力な軍監です。
これで、旧幕府軍と新政府軍の海軍力は逆転してしまいました。

1869年4月9日・・・新政府軍が総勢7000人で攻撃開始。
上陸後、三方向に分かれて箱館に進軍しました。
迎え撃つ旧幕府軍にとって、開陽丸の不在はあまりにも大きかった・・・
甲鉄で、新政府軍が制海権を握ります。
旧幕府軍は、陸軍の攻撃に加えて、海からの艦砲射撃に晒されます。
しかし、海から遠い山の中に陣取る土方の部隊は違いました。
狭い一本道を見下ろす場所に銃を置き、登ってくる敵を待ち受けます。
やがて、新政府軍の兵が・・・1日に3万5000発もの銃弾を浴びせ、新政府軍を撃退したのです。
その夜、土方は、兵士に酒をついで回り、労をねぎらいました。

「少ない兵力で、大軍相手に良く守っていてくれている
 たくさん褒美を与えたいが、酔って軍規を乱すと困るので、今日はいっぱいで我慢してくれ」by土方歳三

しかし・・・その他の地域では、旧幕府軍は敗北続き・・・遂には、土方を含む全員が箱館へと撤退していました。

土方歳三最後の戦い 北海道199日

新品価格
¥1,870から
(2021/10/6 11:10時点)



5月11日・・・新政府軍は、函館へ大攻勢をかけます。
その結果、台場を守る新撰組が孤立してしまいます。
土方は、周りが止めるのも振り切って救援に向かいます。
一本木関門に到着すると、逃げようとする見方に檄を飛ばしました。

「俺はここで指揮を執る!!
 突撃せよ!!」by土方歳三

しかし、その直後・・・一発の銃声と共に崩れ落ちました。
銃弾は、腹部に命中・・・土方歳三35年の生涯でした。

武士を貫いて死んだ土方の死は、近世から近代への転換とも受け取れます。

五稜郭 [DVD]

新品価格
¥5,185から
(2021/10/6 11:06時点)



榎本武揚もまた、死を覚悟していました。
妻に手紙を送っています。

”もはやこの世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺のふたをしめた後にわかる”

新政府軍の軍監甲鉄は、五稜郭へ繰返し砲撃!!
五稜郭が作られた時代、
海から2キロ以上離れた五稜郭には大砲の玉は届かないはずでした。
しかし、甲鉄の玉の飛距離は4キロ・・・
海から球が届くほど進化していました。

5月13日、新政府軍は榎本に投降を求めます。
榎本はこれを拒否!!
死を覚悟し、新政府軍の大将に宛ててある書物を送りました。
オランダ留学以来、榎本が肌身離さず持っていた「万国海律全書」です。

「この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである」by榎本武揚

将来、日本が外国と交渉する際に、この本を役立ててほしい・・・そう願いました。
そして、武士らしく、自決のために短刀を手にしました。
しかし・・・刀を素手で掴んだ部下が、懸命に説得します。

5月18日、榎本は降伏・・・その日のうちに五稜郭を手放しました。
1年5カ月にも及ぶ戊辰戦争は、こうして終わりました。

しかし・・・戦いの行方を決定づけた開陽丸の沈没・・・。
②もしも開陽丸が沈まなかったら??
新政府軍に甲鉄が与えられなかったかもしれません。
そして、旧幕府軍は、開陽丸などの軍監がある!!
開陽丸には絶大な威力がありました。
しかし、榎本は、勝っても喜べませんでした。
何故なら、豊富な物量を誇る新政府軍にいずれは屈することになると読んでいたからです。

すると道は一つ・・・どこで負けるのか・・・??
北方警備、蝦夷地の開拓などを任されるような形で新政府と交渉したかったのでは??
旧幕臣たちの居場所を作りたかったのです。

彼等はどうして敗北を自ら受け入れたのでしょうか?
いかにどう負けるのか・・・??
家族や知人を救うため、負け方を探ってきた戦いでした。
今の時代をどう未来につなぐのか??最善の選択をしたのです。
そこには、日本ならではの負け方の美意識がありました。
その美意識が、犠牲の少ない革命につながったのです。

徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、政治の表舞台から去り、77歳で人生の幕を閉じました。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた
 私はその幕府を葬り去るために将軍となったのだ」by慶喜

榎本武揚は、北海道開拓を進める新政府軍に重用され、後に外交でも活躍します。
明治政府が作った北海道開拓使には、榎本と共に戦った旧幕府軍の幹部が登用されていきました。
北海道開拓に尽力したのは旧幕臣のエリートだけではありません。
北の大地に移住し、開拓に汗を流した者の多くは、旧幕臣や戊辰戦争で負けた藩の貧しい侍たちでした。
仙台藩の伊達家は、朝敵の汚名をすすごうと積極的に開拓に参加。
有珠に赴いた彼等は、現在の伊達市の礎を築きました。

そして、1874年、屯田兵制度が始まります。
兵員として北海道の開拓と警備にあたったのは東北の侍たちが中心でした。

箱館山には榎本が仲間と建てた石碑が残っています。
”碧血碑”・・・箱館戦争で戦った旧幕府の戦友たち800人を弔うものです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

戊辰戦争の新視点 上: 世界・政治

新品価格
¥2,420から
(2021/10/6 11:09時点)


山本耕史主演 大河ドラマ 新選組!! 土方歳三最期の一日【NHKスクエア限定商品】

新品価格
¥4,290から
(2021/10/6 11:12時点)



東京・上野・・・西郷さんの像でお馴染みの上野公園は、動物園だけでなく、美術館や音楽ホールが連なり、全国の人々に親しまれる文化の薫り高い一帯です。
しかし、150年前、ここには全く違う景色がありました。

明治維新はなかった!? 渋沢栄一の従兄弟たちの彰義隊上野戦争と明治の偉業 [ たみやじゅん ]

価格:1,100円
(2021/9/20 22:02時点)
感想(1件)



1868年5月15日、この上野の山で西郷さんが戦争を起こし、全てが焼き払われました。
明治維新の動乱の中で、唯一江戸で行われた戦い・・・新政府軍と旧幕府軍と彰義隊がぶつかった上野戦争です。
この年の1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は旧幕府軍に圧勝、勢いに乗って、江戸に軍を進めました。
そして、西郷と勝海舟の会談の結果、江戸城の無血開城が決まります。
しかし、城が明け渡されたとはいえ、これで西郷たち新政府が江戸を手中に収めたわけではありませんでした。
次々と江戸から脱走する旧幕臣たち・・・
江戸の周囲では新政府に対しゲリラ戦が行われていました。
中でも西郷を悩ませたのが、上野の山に立てこもった彰義隊でした。
彼等がいる限り、江戸は新政府のものにはならない・・・西郷は、ギリギリの選択に迫られていました。
江戸を火の海にする危険を冒しても彰義隊を討滅するのか・・・??
西郷隆盛の苦渋の選択とは・・・??

江戸城明け渡しから1か月後の1868年4月・・・
江戸に駐留していた西郷隆盛は、思わぬ事態に頭を抱えていました。
”御用中雑記”・・・将軍・徳川慶喜の側近の日記によると・・・
江戸城明け渡し後、水戸で処分を受けるのを待っている慶喜の動向が書かれています。
4月15日、江戸より新聞が届いた・・・
慶喜は新聞を取ったり、使いを送ったりして江戸の様子を調べさせていました。
慶喜は何を調べていたのでしょうか??
彰義隊がどんな動きをするのか?気が気でなかったのです。
暴発してしまえば、江戸城無血開城はおじゃんとなってしまう!!
この時点で、徳川家がどの所領をもらえるのか??決まっていませんでした。
彰義隊の行動如何でZEROとなる??処罰される・・・??

上野彰義隊と箱館戦争史

新品価格
¥2,376から
(2021/9/20 22:03時点)



さらに慶喜は、彰義隊の暴発を押さえようと、家臣に軍用金65両を持たせ送り込んでいました。
この頃、江戸は混乱のさ中にありました。
4月11日、徳川将軍家の居城が無抵抗のまま新政府軍に明け渡されました。
慶喜は、江戸を出て実家の水戸に移り、謹慎します。
一度は計画されていた江戸城総攻撃!!それは、新政府側の西郷と旧幕府側の勝海舟の行動によって回避されました。
新政府が提示した降伏条件は慶喜の水戸謹慎と江戸城明け渡し、そして幕府が所用する武器・軍艦の引き渡しなどです。
しかし、開城の直前、新政府に反発する旧幕臣・大鳥圭介らが歩兵部隊を率い、武器を手に脱走!!
さらに、旧幕府歓待を率いる榎本武揚は、新政府への軍監引き渡しを拒み、江戸湾を脱走!!館山沖で新政府を威嚇していました。
西郷が勝に言い渡した降伏条件は守られなかったのです。

榎本の場合は、彼が手塩にかけて育成した旧幕府艦隊・・・お金も時間も労力もつぎ込んだ艦隊を、やすやすと薩長に引き渡すことはできない!!
徳川家の行く末がはっきりしていなかったので、全部を引き渡すと条件闘争ができない!!ということもありました。

江戸を脱出した大鳥だけでなく、他の旧幕府勢力も、江戸近くで次々と蜂起!!
新政府軍は関東各地で対応を余儀なくされました。
さらに、東北では奥羽の諸藩が新政府との対立を深めていました。
結果、江戸は手薄となって市中の治安維持もままならなくなっていました。
江戸城は手にしたものの、新政府軍は江戸で孤立していたのです。
さらに、西郷たちを悩ませていたのは、彰義隊の存在でした。

無血開城から遡ること2か月・・・浅草の本願寺で、100名以上の旧幕臣で会合を開きました。
彼等は、その場で彰義隊を結成し、その目的をこう表明しました。
「慶喜公は、朝廷に対して恭順一筋
 裁きを待つお考えである
 一同、この現状を見逃すことはできない
 その為、死を決して盟約を結び、冤罪であると訴えるしかない!!」

漸将軍・慶喜は、鳥羽・伏見の戦いによって、朝敵の汚名を着せられていました。
慶喜は、上野の寛永寺で謹慎し、ひたすら恭順の姿勢を貫いていました。
この状況を打開するために、彼らは立ち上がったのです。
この彰義隊のリーダーである頭取に、慶喜の側近だった渋沢成一郎が選ばれました。
そして、副頭取には旧幕臣・天野八郎が就任しました。
その後、彰義隊は拠点を上野・寛永寺に定めます。
関東各地のみならず、江戸にまで旧幕府側が勢力を伸ばす危険な状態・・・
西郷は頭を悩ませていました。

彰義隊の拠点となった上野の山・・・当時、この山全体が、徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の境内でした。
寛永寺は、3代将軍・家光の時代に創建、最盛期には大伽藍と付属する支院36が立ち並ぶ、江戸随一の寺として栄えました。

【戊辰戦争の出来事が時系列でわかる】その時、幕末二百八十二諸藩は?『戊辰戦争年表帖』鳥羽伏見戦~箱館戦争の同時進行・多発戦を追う

新品価格
¥1,650から
(2021/9/20 22:03時点)



鳥羽・伏見の戦いで破れ逃げ帰った徳川慶喜は、この寛永寺の支院の一つに入って謹慎していました。
寛永寺には、慶喜監禁の部屋が残っています。
”葵の間”床の間のついた書院造・・・10畳と8畳の二間続きの部屋です。
2月12日から4月11日まで、水戸に隠居されるまで、ここで謹慎していました。
将軍がここにいて、徳川の世が明治に変わっていくことに納得がいかないという人たちが・・・幕府恩顧の者たちが、上野に集結してどんどん数が膨れていきました。

慶喜を警護する為に結成された彰義隊は、旧幕臣を中心に参加者が続々と集まり、遂には4000人に達したといいます。
江戸で存在を無視できないほどの大勢力を築いた彰義隊・・・
この状況を利用しようとしたのが、徳川方の代表・勝海舟です。
勝は西郷に、彰義隊に市中取締役を命じ、江戸の治安維持にあたらせることを提案します。
治安が悪化する江戸を、新政府軍の力だけで取り締まるのは不可能・・・
西郷は、その提案を受け入れざるをえませんでした。
さらに、勝の要求はエスカレート・・・
水戸で謹慎する慶喜を、江戸に戻すこと・さらに、江戸城を徳川家に返すことまで要求しました。
このことは、西郷を窮地に陥れます。
降伏条件が守られないことを甘んじている西郷に対し、新政府軍の要人たちから弱腰との声が上がり始めたのです。
佐賀藩士・江藤新平は、手紙にこう記しています。

”官軍の中には、勝らに騙される人がおり、憤慨に堪えない”

巻き返しを図る旧幕府側の圧力・・・新政府強硬派からの圧力・・・
西郷は、のっぴきならない状況に追い込まれていました。

彰義隊?われら義に生きる

新品価格
¥1,980から
(2021/9/20 22:04時点)



この頃、京都から江戸にある男が送り込まれていました。
長州藩士・大村益次郎・・・長州に攻め寄せた幕府軍を、散々に打ち破った西洋流の兵学者です。
新政府内での強硬派が西郷の融和策に業を煮やし派遣・・・これは、彰義隊の武力鎮圧を期しての人選でした。
一方の西郷は、4月から江戸と京都を頻繁に行き来していました。
西郷は新政府の首脳陣と連日会議を行います。
徳川家の最終処分を決定するためです。
4月25日、新政府内部で徳川家の処分方針が決定しました。
徳川家を駿河国に移す・・・旗本の領地を含め800万石を一気に70万石まで削減するというものでした。
このことが発表されれば、旧幕臣たちの反発は必至の厳しい処分でした。

5月に入ると大村は彰義隊討滅に向け動き出します。
彰義隊に与えられていた市中取締役の役目を奪ったのです。
これ以降、江戸で事件が頻発します。
彰義隊士による新政府軍兵士の殺傷事件が起こるのです。
佐賀藩士、鳥取藩士、西郷の直属の部下である薩摩藩士も犠牲となりました。

彰義隊の扱いをどうするのか??軍議が開かれました。
大村は、彰義隊の殲滅を強硬に主張、早期の決着に自信を見せました。
一方、西郷と共に徳川方との折衝に当たってきた参謀たちは、兵力の不足を理由に大反対をします。
双方の意見を聞きながら、西郷は選択に迫られました。

彰義隊を討滅・・・??
あくまで戦を回避・・・??

いかに混乱を起こさず、徳川家処分を発表するのか・・・??
江戸と日本全体の行く末を案じながら、西郷は苦悩していました。

西郷の決断は・・・??

「大村には、勝てる清算があるに違いない
 勝てさえするならよかろう」

大村の意見に同意し、彰義隊討滅に同意しました。

5月14日、指揮権を持った大村は、彰義隊に宣戦布告を行いました。
その布告の中で大村は、官兵を暗殺し、官軍と偽り、民の財産を略奪する彰義隊は、国家の乱賊であると決めつけました。

1868年5月15日、降りしきる雨の中、新政府軍による上野攻めが始まりました。
この時、寛永寺に立てこもっていた彰義隊の人数は1000人程度。
大村による事前の宣戦布告が功を奏し、戦う意思のない者たちは寛永寺から大挙していました。
布陣を見ると・・・
彰義隊隊士たちは、寛永寺の8つの門に分かれ、新政府軍の侵攻に備えました。
さらに、現在西郷隆盛の立つ山王台に、大砲を据え、新政府軍に向けていました。
一方、新政府軍の数は1万以上、とはいえ、実際に上野の山の攻撃に当たったのはその一部に過ぎなかったといわれています。
谷中方面には長州を中心とする部隊、最も激戦と予想され黒門を攻めるのは西郷率いる薩摩兵を中心とした部隊・・・そして、谷を挟んだ本郷台には差が藩を中心とする大砲部隊の陣地が置かれました。

午前7時ごろ、戦いの火蓋が切られました。
現在も残る黒門・・・激しい戦闘を物語る無数の弾痕が・・・!!
午前中は、高台で地の利のある彰義隊が優勢に戦いを進めました。
しかし、正午・・・本郷の台地から佐賀藩が誇る最新鋭の大砲アームストロング砲が撃ち込まれました。

新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

新品価格
¥634から
(2021/9/20 22:05時点)



この砲撃をきっかけに、彰義隊が乱れ始めます。
この機をとらえた西郷は、黒門への突撃を命じます。
上野戦争を描いた錦絵には、新政府軍の一斉射撃が高台の彰義隊を狙い撃ちにします。
黒門前は、敵味方入り乱れての大乱戦・・・
濛々と煙を上げる寛永寺の伽藍・・・次々と撃たれていく彰義隊士・・・
自害するものも・・・
午後5時ごろ、戦いは新政府側の勝利で幕を閉じ、江戸で行われた唯一の戦争はわずか半日で集結しました。

新政府軍大勝利の秘密は何だったのでしょうか?
これまで佐賀藩のアームストロング砲の威力によってもたらされたといわれてきました。
しかし、勝利の理由はそれだけではない??
アームストロング砲の特性は、射程距離が長い、命中精度が高い・・・それは、旧来の大砲よりも格段に性能が良かったのですが、上野に持ってきた大砲は、6ポンドで口径が2.5インチ・・・6センチぐらいでした。
旧来の大砲に比べて、弾が小さいのです。
火薬の量も少なく、破壊力そのものでいうとそんなに際立っていないのです。

新政府側の勝因は、アームストロング砲だけでなく、旧式の大砲を使ったその戦術にあったのでは・・・??
加賀藩邸の方に13門集中的に配備、当時、砲列を敷くというのは事例的に多くありませんでした。
集中的に火砲を運用して、攻撃を支援するというのは、大村益次郎の先験的な戦術でした。

戦いののちにとられた写真・・・彰義隊と運命を共にするかのように寛永寺の大伽藍は灰塵に帰しました。
彰義隊の生き残りは、散り散りになりながらも、関東各地や東北に逃れます。
後に会津や箱館の戦いに身を投じた者たちもいました。
新政府軍の勝利は、人々の心に新しい時代の到来を印象付けました。

彰義隊を味方としていた人びとは、賊と呼ぶようになります。
新政府軍に罪を追及される恐れがあるからです。
上野戦争の大勝利の直後、新政府は徳川家の駿河移封と70万石への減俸を発表・・・
しかし、もはや江戸に反発する者はいませんでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ザンギリ愚連隊 (講談社文庫)

新品価格
¥770から
(2021/9/20 22:06時点)



榎本武揚・・・蝦夷地、現在の北海道で明治政府とは別の政府を作ろうとした人物です。
1867年、明治維新前夜・・・将軍・徳川慶喜は、大政奉還をします。
しかし、徳川家はいまだ大きな勢力でした。
その後、錦の御旗を掲げる新政府軍と旧幕府軍が激突・・・!!
朝敵となった慶喜は、戦いに負け江戸に帰って恭順します。
しかし、徹底抗戦を・・・!!それは、幕府海軍副総裁・榎本武揚でした。

「家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが、許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する」by武揚

最強の軍艦・開陽丸に乗り込んだ榎本・・・目指すは蝦夷地でした。
榎本たちは五稜郭を占領!!
西洋列強の代表と交渉し、事実上の政権と認めさせます。

「我々は反逆者でも逆賊でもありません」by武揚

しかし・・・開陽丸を事故で失うと、形勢は逆転!!
やがて、蝦夷地に上陸した新政府軍との決戦に敗れました。
もはやこれまで・・・それを思いとどまらせたのは、仲間との思いでした。

かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]
かまさん 榎本武揚と箱館共和国 [ 門井 慶喜 ]

明治維新のおよそ5年前・・・榎本武揚は、徳川幕府初の留学生として、念願の海外に出発しました。

1836年・・・榎本釜次郎は、江戸で旗本の子供として生まれました。
幼い釜次郎は、寺子屋でガキ大将・・・べらんめえ口調の江戸っ子でした。
そんな釜次郎に影響を与えたのが、父の円兵衛でした。
円兵衛は、幕府天文方に仕えて暦を研究・・・伊能忠敬の弟子として活躍しました。
そんな榎本家には、当時は珍しい地球儀がありました。
釜次郎は、広大な世界に思いをはせていました。

1851年、16歳で昌平坂学問所に入学。
釜次郎が特に力を入れて学んだのが外国語でした。
最先端の知識を得るためにオランダ語を習得、さらにアメリカから帰国したジョン万次郎の私塾にも通い、英語を学びました。

1853年、18歳の時、日本の運命を変える出来事が・・・
ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れました・・・黒船来航です。
外国の脅威を感じた幕府は、海岸防備の強化を進めます。
幕府はその一環として蝦夷地の調査を決定!!
釜次郎は父の口添えもあり、調査に参加しました。
調査ルートは、函館から日本海側を通って宗谷岬へと北上、さらに樺太に回り、東回りで蝦夷を一周するというものでした。
19歳の釜次郎にとって、蝦夷の旅は驚きの連続でした。
箱館湾でみたのは、何隻もの巨大な軍艦・・・この年、日米和親条約が締結され、開港したばかりの箱館にはアメリカ、イギリス、フランスの軍艦が集まっていたのです。
そして、蝦夷の果てしない大空と、広い大地・・・その豊かさに圧倒されます。

靺鞨の山青一髪 
我行 此に至り
漸く豪とするに
堪えたり

3年後、22歳の榎本が向かったのは、長崎の海軍伝習所でした。
近代海軍の設立を目指す幕府が、オランダの協力を得て作った学校です。
一期上には、後に軍艦奉行となる勝海舟もいました。
釜次郎は、数学や科学をはじめ、航海術、蒸気機関の動かし方など・・・伝習所に入って4年後、思いがけないチャンスが巡ってきます。
幕府は海軍力強化のため、初めて留学生を海外に派遣することにしました。
行先は、オランダ・・・榎本は、これに志願し、15人の留学生の一人に選ばれました。

1862年、27歳の時にオランダに出発。
オランダに到着したのは10か月後でした。
榎本はこの留学で、その後の人生を大きく変えるものと出会います。
国際法です。
榎本が、プロイセンとオーストリアの戦争で、和平協定が国際法に基づいて結ばれたことを知りました。
西洋列強といえど、国同士で守らなければならないルールがある・・・
これこそ、西洋の脅威にさらされている日本に必要だと考えたのです。

”万国海律全書”・・・ヨーロッパの国同士が、長年の経験をもとに取り決めた、海事に関する国際ルールの解説書です。
外国船同士の接触が多い港で、事故など国際問題になるような事態が起きた時、どのような権利や義務が発生するのかなどが記されています。
榎本は、オランダ人教師に頼み込んで、フランス語で書かれた本をすべてオランダ語に翻訳してもらい、何度も熱心に読み込みます。
榎本の熱心な勉強ぶりに感心した教師は、こんな言葉を送っています。

「あなたはこの本を読むために400時間かけた
 私は最初、簡単に訳していたが、貴方の理解が深いことを知り、正確に訳すようになった」

榎本たち留学生たちにはもうひとつ重要な任務がありました。
幕府がオランダに発注した軍艦・開陽丸を引き取って帰国することです。
開陽丸は、全長72m、排水量2590t、当時は世界的に見ても大きな蒸気軍艦でした。
さらに、榎本はこの船にクルップ砲と呼ばれる強力な大砲を装備させました。
こうして、開陽丸は完成!!
開陽丸の完成披露では、榎本たちはシャンパンで祝杯を挙げ飲み明かしたといいます。
無類の酒好きだった榎本は、留学中に飲んだビールを気に入り、開陽丸に積んで持ち帰ったといわれています。

1867年、航海術と国際法を学んだ榎本は開陽丸と共に5年ぶりに日本に帰国。
そして、幕府より開陽丸の艦長・軍艦頭に任命されます。
榎本武揚、32歳の時でした。

開陽丸と共に帰国した榎本・・・しかし、榎本が向かったのは蝦夷地、北海道でした。
オランダから帰国して3か月後の1867年、32歳の時に結婚します。
相手は、17歳の多津・・・榎本と共にオランダへ留学した仲間の妹でした。
仕事も、私生活も、順調だった榎本・・・しかし、それは長くは続きませんでした。
結婚から半年後の、1867年11月・・・将軍・徳川慶喜が大政奉還をしました。
12月には、朝廷が王政復古の大号令を発します。
幕府を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制を作るという・・・!!
さらに、徳川慶喜から内大臣の地位を奪い、徳川領400万石を朝廷に返上することが決定しました。
ここに、260年続いた徳川幕府が終わりを告げます。
明治新政府が設立されました。
しかし、徳川家の処分を巡り、旧幕府軍と新政府軍が対立!!
京の郊外で、一触即発となりました。
この時榎本は、京に上る将軍を警護するため、軍艦に乗って、江戸から兵庫の港に来ていました。
榎本が家族に宛てた手紙には、もしも戦になっても勝つ自信があったことが記されています。

”我が方の兵力はおよそ3倍、勝利は十分である”

1868年1月3日、榎本の予感は当たり、戦の火ぶたが切られました。
鳥羽伏見で新政府軍と旧幕府軍が激突!!
これが、およそ1年半に及ぶ戊辰戦争の始まりでした。
兵力では圧倒的に有利だった旧幕府軍・・・しかし、旧幕府軍は敗走してしまいます。
新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は朝敵と扱われることに大きく動揺したのです。
その場を去る兵士たちが続出しました。

翌日未明・・・1868年1月4日、榎本のいる兵庫港でも戦いが始まりました。
兵庫沖から新政府軍の船が出航しようとしたところを、榎本率いる開陽丸がクルップ砲で砲撃!!
1隻を撃沈して、他の船も追い払いました。
海上では、榎本たち旧幕府軍が圧勝でした。
しかし、陸上の敗戦がひびき、旧幕府軍は劣勢になっていきます。
2日後・・・榎本たちは戦況を立て直すために大坂城に入城。
徳川慶喜が出席する中、今後の戦略を話し合いました。
兵力に勝る旧幕府軍・・・結論は、徹底抗戦でした。
しかし・・・その夜、慶喜は密かに側近と共に開陽丸に乗り込み、江戸に逃亡!!
置いてきぼりを食った榎本は、こうつぶやきました。

「将軍たち重臣の無策に、ますます驚き失望した
 徳川家の命運これまでと、血の涙が止まらなかった」by武揚

榎本たちは、大坂城に残された兵と共に、別の軍艦に乗り込み、江戸へ帰りました。
その中には、幕府の命を受けて京都の治安を守っていた新撰組の面々もいました。
その後、改めて会議が開かれましたが、意見は真っ二つ!!
明治政府に従う恭順派と、あくまで戦い続ける徹底抗戦派!!
恭順派には慶喜や、軍の全権を担う勝海舟が・・・抗戦派には、榎本や陸軍奉行並の小栗忠順がいました。
榎本は、恭順を支持する慶喜にこう言い放ちます。

「慶喜さまは、腰が抜けたのか!!
 いまさら恭順とはどういうことか!!」by武揚

しかし、榎本の意見が取り入れられることはありませんでした。
それからおよそ1か月・・・慶喜は新政府軍に恭順の意を示し、上野・寛永寺に蟄居。
その後の一切を、勝海舟に託しました。
その間、新政府軍は東に進軍!!江戸総攻撃は目前に迫っていました。
3月13日、勝は、新政府軍の責任者・西郷隆盛に直談判します。
武装解除の条件をのみ、江戸城を引き渡すことで総攻撃を回避しました。
いわゆる無血開城です。

定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]
定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟 [ 水野 靖夫 ]

翌月、榎本は勝の自宅を訪問・・・相談をしています。
それは、蝦夷地の開拓でした。
徳川宗家は、明治政府の処分によって駿河への移封が決まり、石高が1/6に減らされていました。

「生活に困窮する幕臣を救うため、蝦夷地を開拓できないだろうか」by武揚

「するべきではない」by海舟

旧幕府の了承が得られないのなら、実力行使しかない!!
榎本の胸中は決まりました。
徳川宗家が駿河にうつされたのを見届けて、8月20日未明、開陽丸に向かいました。
榎本は、旧幕臣ら1600名を連れて、無断で開陽丸を出航します。
家族を残しての旅立ちでした。
出発直前、榎本は新政府軍に対して通告文を送っています。

”王政復古と称しながら、薩摩・長州などの強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収し、幕臣や旗本らを窮地に陥れたのは、真の王政ではない
 家臣は路頭に迷っている
 その救済を願い出たが許されなかったので、一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する”

さらに、勝に対しても謝罪の手紙を送っています。

”あなたを煩わせてしまい、申し訳ない”

開陽丸の進路は、北!!
目指すは旧幕府軍の拠点・仙台でした。
ところが、榎本たちが仙台に到着して間もなく、仙台藩も新政府に降伏してしまいます。
そんな中、心強い味方と再会します。
新撰組の土方歳三や、旧幕府の陸軍です。
新政府軍と交戦の末、北上していました。
そして榎本は、土方たちを加えた仲間に、こういいました。

「蝦夷地に赴き、そこで朝廷に嘆願し、脱走した者たちで蝦夷を開拓したい」by武揚

1868年10月12日、榎本は、2800人ほどの仲間と共に、開陽丸をはじめ8隻の船で蝦夷地へ出発しました。
この時、32歳でした。

1868年10月20日、蝦夷地上陸!!
一行は、警備の厳しい函館港を避け、北側の鷲ノ木から上陸します。
榎本はまず明治政府の拠点となっていた五稜郭にあって嘆願書を送りました。
上陸は戦闘ではなく開拓のためである・・・これを許可してほしいとおいう内容でした。
しかし、明治政府は嘆願書を無視、武力衝突へと発展します。
榎本の軍は函館へと南下、10月26日、五稜郭を占領します。
ここでも榎本は、古くから蝦夷の南部を治める松前藩に手紙を送ります。
共存共栄を図りたいという趣旨のものでした。
しかし、明治政府の統治下にあった松前藩は、榎本の使者を斬り、返答しませんでした。

ここに至り榎本は、松前城に攻撃を開始!!
土方歳三率いる陸軍部隊が一斉攻撃を浴びせ、わずか1日で松前城は陥落しました。
戦いのさ中、榎本が最も重要視したのは外交でした。
明治政府軍と戦うには、西洋列強が干渉せず、中立を保つことが不可欠だったからです。
榎本は、函館に在留していた各国領事に、自らの立場を表明します。

”我々は、反逆者でも逆賊でもありません
 祖国の地で、誇り高く生きる権利を持ち、武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちなのです”

オランダ留学時代に身に着けた語学と国際法を武器に、榎本はイギリスやフランスなど各国の代表と交渉・・・
榎本は、自分たちを事実上の政権として彼等に認めさせ、中立を認めさせました。
これが後に、蝦夷政権と呼ばれるものです。
諸外国が明治政府に味方して、榎本たちを攻撃すれば、榎本の構想が一気に崩れてしまう・・・!!
榎本としては、味方にならなくてもいいから、局外中立だけは守ってほしいと・・・
外国との交渉が重要で、それが蝦夷政権を樹立できた要因でした。

その後も、陸軍部隊は着々と蝦夷地を進軍していきます。
土方歳三たちの活躍を聞いた榎本は、軽い気持ちでこういいました。

「蝦夷地上陸以来、陸軍ばかりが活躍して、海軍兵たちの不満が募っている
 気休めに、江差まで連れて行って、大砲の2.3発でも撃たせてやろう」by武揚

この一言が、運命を大きく変えることになります。

1868年11月15日・・・榎本は、江差方面で戦う陸上部隊を支援するため、軍艦・開陽丸を移動させます。
そこへ、運悪く猛吹雪が襲い、船が座礁・・・!!
岩場に挟まった開陽丸は、船底が破れ沈没しました。
沈みゆく船を、榎本と共に見ていた兵が、この時の心境を書き残しています。

「暗夜に灯火を失ったようだ」

丁度その頃、東北地方の反政府勢力を平定した明治政府軍が、青森に集まってきていました。
冬が過ぎ、春になったら一気に攻撃を仕掛けようと準備を整えていました。
一方、榎本は、冬の間に政権の体制を整えていきます。
アメリカに習い、投票で新政府の役職を決めています。
明治政府に20年以上も先駆けて行われた日本初の選挙です。

1868年12月15日、33歳の時・・・そこで榎本は、総裁に選出されます。
蝦夷は、独立国への道を着々と歩んでいるように見えました。
しかし・・・12月28日、榎本たちを事実上の政権と認めていた諸外国が、中立の立場を撤回、明治政府支持に回りました。
榎本たちの最大の戦力だった開陽丸を失ったことが、諸外国の態度を変えさせました。
これによって、榎本たちは頼れるものを失い、明治政府軍と武力を持って戦うしか無くなるのです。

1869年1月、榎本は、東京にいる妻と家族に手紙を送ります。

”もはや、この世でお目にかかれるかどうかわからない
 自分への評価は、死後、棺の蓋を閉めた後にわかる”

1869年4月、明治政府軍が蝦夷地に上陸。
8000の大軍で、函館を目指して進軍します。
対する旧幕府軍は、3200!!
防衛線は次々突破されてしまいます。
5月11日、箱館戦争開始!!
明治政府は函館を総攻撃します。
この日、激しい戦闘を繰り広げてきた土方歳三が、敵の銃弾に斃れました。
もはや、榎本たちの敗戦は明らかでした。
明治政府軍に降伏を促されて拒否、死を覚悟し、明治政府に手紙と共にある書物を送りました。
留学時代から肌身離さず持ち歩いていた”海律全書”です。

”この万国海律全書は、皇国無二の書である
 もし、戦火によってこれを失えば、痛惜の極みである”

これからの日本のために、この本を役立ててほしい・・・という願いでした。
これを受け取った明治政府軍の総指揮官・黒田清隆は、榎本の志に胸をうたれ、酒とマグロを送ったといいます。
その夜、榎本は切腹を覚悟!!
短刀を手にしました。
しかし、気配を察した部下が駆けつけ、短刀を素手でつかんで・・・

「ここで死ぬべきではありません!!」

榎本は、部下の指が切れ、血が流れているのを見て思いとどまったといいます。
翌朝、榎本は、これまで共に戦ってきた仲間に感謝を述べ、降伏する旨を伝えました。

1869年5月18日、箱館戦争終結!!

榎本34歳の時でした。

箱館で敗北した榎本は、滅びゆく幕府と運命を共にしようと考えていました。
しかし、そのわずか3年後、榎本は政府から北海道の開拓を任されます。

箱館戦争の首謀者として捕らえられた榎本は、東京の牢獄に入りました。
榎本は、家族に宛てて、手紙を何通も送っていますが、中身は意外なものでした。
オランダ留学でみにつけた様々な知識や技術が延々と書かれていました。
石鹸やろうそくの作り方、ブランデーの蒸留方法、卵の人工ふ化器の作り方が、詳細な絵図と共に書かれています。
自分の死後、日本の産業のために役立ててほしいという言葉が添えられていました。
そんな榎本に救いの手を差し伸べたのが、政府高官の黒田清隆でした。
箱館戦争では、薩摩の軍人として榎本と戦いました。
黒田は、その時榎本の海律全書の翻訳を福沢諭吉に依頼しました。
しかし、福沢は数ページを訳すと黒田に

「本当にこの本を訳すことができるのは、榎本以外にはいない
 榎本に頼めないようでは、国家のために残念である」by諭吉

明治政府では、榎本を厳罰に処すべしという声が大きかったのです。
しかし、黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ、粘り強く嘆願しました。

「榎本こそ、欧米と対等に渡り合える人物・・・殺すべきではない!!」

遂には、
「この通りだ、私の頭に免じてくれ」と、丸坊主に剃り上げました。
黒田は、3年間、嘆願を続けます。
その甲斐もあり、政府は榎本の赦免を決定します。

江戸無血開城の深層 NHK英雄たちの選択 [ 磯田道史 ]
江戸無血開城の深層 NHK英雄たちの選択 [ 磯田道史 ]

その頃、岩倉使節団が欧米に向かう頃でした。
榎本の処罰がどうなるか、諸外国からみられていました。
もし、処刑になれば、日本は立ち遅れた国家だと思われてしまう懸念がありました。
榎本は、欧米の文化を体験した数少ない武人・・・
明治政府は、有能な人材を手に入れたのです。
黒田はこの頃、北海道開拓の責任者でした。
榎本を良く知る黒田は、牢獄にいるときから釈放されたら開拓の手伝いをしてほしいと誘っていました。
榎本は、自分は徳川家に仕える者で、明治政府に仕える気はないと断り続けていました。
しかし、数か月後、考えを変え、これを受け入れます。

”君恩 いまだ報いず 今日にあう”

主君の恩に、未だ報いられず、今日を迎えている・・・
その”君恩”の横にルビをうって、国為と書いています。
「君恩」は徳川幕府を指します。
オランダ留学は、徳川幕府のお金で学んできました。
形は違えど、幕末は徳川幕府のため、明治以降は近代日本発展のため、人々のために役に立つようなことを学んできたことの中から、お返ししなくてはいけない・・・!!

1872年、榎本は37歳で釈放されます。
その後、政府の役人として、北海道開拓に尽力・・・かつて蝦夷地を探索した知識で次々と農場を開墾、そして日本最大級の炭田を発見し、石炭を輸送するための鉄道も建設します。

1873年、38歳で長男誕生。
子供は金八と名付けました。
自分の幼名・釜次郎の釜から取ったものです。
開拓に従事したのち、榎本は外交官として海外を飛び回りました。
家族と過ごす時間は少なかったものの、多くの手紙のやり取りをしています。

榎本は、明治政府で大臣にまで上り詰めたが、晩年まで旧幕臣の援助を忘れませんでした。
俸禄を失い、暮らしに困る旧幕臣の子供たちのために、1885年、50歳の時に徳川育英会・・・奨学金制度を設立。
箱館戦争の時に、榎本の切腹を止め、指が不自由になった部下を、自分が設立した会社に招きました。
そして、1908年10月26日、73歳の生涯を閉じました。

亡くなる前、榎本はある場所を訪ねています。
箱館山にある碧血碑・・・箱館戦争の死者・800名を弔うため、榎本たちが建立しました。
碧血とは、”忠義を貫き亡くなった者が流した血”です。
石碑の裏にはこう書かれています。

”山上に石を立て、もってその志を表す”

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング 
人生を二度生きるーー小説 榎本武揚【電子書籍】[ 童門冬二 ]
人生を二度生きるーー小説 榎本武揚【電子書籍】[ 童門冬二 ]


1905年、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
その時の司令長官・東郷平八郎は、戦後、「仁義礼智信」の文字をある幕臣の子孫に送りました。
あて先は、小栗・・・書を送るにあたり、東郷はこう述べました。

「小栗上野介殿による横須賀製鉄所建造が、日本海海戦の完全な勝利にどれほど役立ったかしれません。」

横須賀製鉄所は1865年、徳川幕府によって建造が始まった日本初の近代的造船所です。
横須賀アメリカ海軍基地に、その一部が残っています。
1号ドライドック・・・日本海海戦の勝利には、ここで建造、整備された艦艇が大きな役割を果たしました。
その建設を手掛けたのが、小栗上野介です。

群馬県高崎市にある東善寺・・・
小栗を象徴する品が残されています。
何の変哲もない一本のネジ・・・
アメリカのワシントン海軍造船所を見学した時に、ひと箱もらってきたものです。
蒸気機関を用いて、大量に作っている工業ネジ、みんな規格が同じ・・・。
アメリカの近代工学、文明のシンボルです。
日本もこういうものを作りたい・・・!!

日本の近代化をネジに託して持ち帰った小栗・・・
その先見性はどのようにして生まれたのでしょうか?
1827年、小栗上野介は旗本の嫡男として生まれます。
幼い小栗は、エリート教育を受けます。
小栗は僅か7歳で、漢学者・安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は、非常に開明的な人で、著書「洋外紀略」には次のような一節があります。

「国を守るには大船や大砲を数多く作るしかない
 諸外国は、その費用を交易で賄っている」と。

まさに時代は変革期にありました。
1853年黒船来航。
圧倒的な武力を前に、日本は、1854年日米和親条約の締結に踏み切ります。
艮斎から学んだことが、小栗の目の前に・・・!!

1859年、33歳を向かえた小栗は歴史の表舞台に・・・!!
日米修好通商条約批准の使節に抜擢されたのです。
役職は、使節一行を監督する目付・・・。
その才能を認めた井伊直弼直々の抜擢だったといいます。
使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号は、太平洋を横断し、サンフランシスコを経由して東海岸へ・・・およそ2か月の航海の後、首都ワシントンへ・・・!!
大統領に国書を奉呈します。
現地の新聞はその様子を大々的に報じています。
しかし、果たすべき仕事はまだあります。
小栗は出発前に、井伊大老から使命を帯びていました。

「我が国にとって海軍創設は急務。
 海軍工廠を見学したい。」と。

条約批准の8日後・・・1860年4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。
最新の造船技術は、小栗の目にどのように映ったのでしょうか?

”銅や鉄製の部品が、すべて蒸気機関を用いて作られている”

とりわけ小栗たちを驚かせたのが、巨大なスチームハンマーでした。
そこではおよそ3トンものハンマーが、蒸気の力で持ち上がり、巨大な鉄の棒をひと打ちで切断していました。
1860年5月13日、ニューヨークを出港。
日本への帰路につきました。
日本を外国から守るため、近代的な造船所を建設する・・・小栗の中に、確かな目標ができました。

しかし、帰国した小栗を待ち受けていたのは、驚くべき報せでした。
1860年3月3日に起きていました。
大老井伊直弼が、尊皇攘夷を掲げる薩摩や水戸の浪士たちによって暗殺されたのです。
桜田門外の変です。
自らをアメリカへ派遣した大老の死・・・夢を描いて帰国した小栗・・・その行く手は突如暗転しました。

アメリカから帰国して一月・・・外国奉行に抜擢されます。
処が翌年事件が起きます。
1861年2月、ロシア軍艦対馬を占拠。
小栗はすぐに現場に急行します。
しかし、ロシア船の船長は、幕府を交渉相手と認めず、対馬藩を交渉相手と直接交渉を主張します。
交渉は行き詰まり、江戸に戻る小栗・・・
一説には、この時小栗は、対馬を幕府領としてロシアと交渉することを考えていたといいます。
しかし、幕閣はこの案を却下。
東アジアに大きな勢力を持っていたイギリスに、対馬に軍艦を派遣してもらい、ロシア軍艦を退去させたのです。
この外交の裏側には、外国通として知られた勝海舟がいたと言われています。

「日本が正面から単独で、ロシアと談判したものなら、なかなかうんとは承知しなかっただろう」by勝海舟

1861年7月、小栗は責任をとって外国奉行を辞任
軍事力無くして国家は成り立たないことを痛感することとなりました。
しかし、幕閣はその才能を放ってはおきませんでした。
1862年、勘定奉行に就任。
これを機に造船所建設を推し進めようとした小栗・・・
しかし、その道は平たんではありませんでした。
当時、幕府内では莫大な金のかかる造船所建設に疑問の声が上がっていました。

「船は外国から買えば良い」

というのです。

「海軍を運用する人材育成に、イギリスは300年かかっている
 日本では500年かかる
 造船所建設よりそちらを優先すべきである」by勝海舟

「我が国はすでに、外国から購入した船を何隻も保有している
 破損すれば修理する場所が必要ではないか?」by小栗

短期的な目で見れば、外国から船を買った方が早い・・・
しかし、メンテナンスせず、ずっと動くかと言ったらそうではない。
外洋を走る船には貝殻が付き、船体が腐らないように塗装をするのです。
そのためには、船を造るだけではなく、実際に毎日修理できる場所が必要なのです。

1864年、幕府は造船所建設に動きます。
しかし、大きな課題が残っていました。
高度な技術と莫大な資金です。
当時の日本に単独での建設は不可能でした。
幕府には、当初アメリカに援助を求める計画がありました。
ところが・・・1861年南北戦争勃発!!
小栗は新たなパートナーを探す必要が出てきました。
虎視眈々と日本を狙う列強・・・!!
もし選択を誤れば、植民地化につながる恐れがあります。

イギリスにする・・・??
海軍に置いてイギリスは世界に冠たる国で、一早く蒸気機関を実用化し、最先端の造船技術は他国の追随を許さない・・・。
しかし、イギリスのアジア進出は、極めて暴力的!!
立ち寄った香港では道の真ん中はイギリス人が歩き、清国人は端に追いやられていた・・・。
造船所建設には多額の費用が要る・・・もし、支払いが滞れば、イギリスに国の富を根こそぎ奪われる事態になりかねない・・・。
そして、イギリスは最近薩摩と接近している・・・!!
この頃薩摩藩は、幕府政治の改革に動き出していました。
政治工作でそれを実現しようとしたが果たせず、方針を転換・・・
イギリスから最新式の武器を購入し、軍隊の近代化を進めていました。
イギリスがその後押しをしているとすれば・・・幕府の要請にこたえてくれるだろうか・・・??

オランダは・・・??
古くから付き合いがあり、海軍建設(長崎海軍伝習所)にあたり頼っていた国だ。
教官はオランダから派遣された士官が勤めていました。
オランダに、技術者肥田浜五郎を派遣してもいます。
目的は、造船の機会の注文と造船所建造方法伝習です。
幕府の一部では、オランダでの造船所建設が具体的に上がっていました。
しかし、近年その国力は衰えていると聞く・・・。
造船所建設という大プロジェクトの全面的援助が可能だろうか・・・??

フランスは・・・??
あまり付き合いのないフランス・
その頃、日本とフランスの関係は転機を迎えていました。
新たな公使レオン・ロッシュが来日、イギリスの植民地政策を非難、幕閣の好意を得ていました。
フランスは正義の国だと宣伝していました。
ロッシュには、日本で手に入れたいものがありました。
それは・・・蚕。
当時、絹織物は、フランスの輸出産業の主力で、伝染病の大流行で蚕が絶滅に瀕していました。
ロッシュは幕府の許しを得て、種紙を購入し本国に送っています。

「日本政府は我が国に皇位を持っています。
 毎日私は、フランスが日本政府に与えた幸福な影響を確認しています。」byロッシュ

友好的な関係を築きつつあるフランスとなら植民地の危険性はないかもしれない・・・。
それにフランスは、イギリスに負けじと造船技術の近代化に努めていると聞く・・・
そこにかけてみる価値はあるのでは・・・??
イギリスか?オランダか?フランスか・・・??

小栗が選んだのはフランスでした。
何が決め手となったのでしょうか?

”小栗上野介がフランス公使ロッシュに要請した造船所建設担当者について回答があった
 ヴェルニーという者が適任だという”

ヴェルニーは、清国で造船所建設の経験もある、フランス海軍きっての技術者です。
そのヴェルニーを日本に派遣し、工事の指揮を執らせると、ロッシュが確約したのです。
ヴェルニーは、契約を待たずに来日し、測量しました。
大型船でも侵入可能な横須賀に白羽の矢を立て設計に取り掛かりました。

ドックから備品の工場まで・・・小栗がアメリカで目の当たりにした造船所が日本で実現しようとしていました。

小栗が勘定奉行として直面していたのが、建設費年間100万ドルです。
ひっ迫する幕府財政の中、何を財源とすべきか・・・??
目をつけたのは生糸でした。
フランスとの契約との何か月も前から、根回しに動く小栗・・・そこで、生糸に気付きます。
生糸の安定供給・・・輸出によって外貨を得、造船所のための機材を買うことができる・・・!!
そしてその、生糸を現物で納めさせ、幕府が海外で売れば、大きな利益が得られるのです。
幕府は動き始めます。

”幕府の改印のない生糸や種紙の売買は一切許さない”

小栗は、幕府による生糸独占に舵を切ったのです。
さらにこの年、幕閣に組合商法の設立を提案しています。
計画は・・・??
幕府が改印制度を使って日本中の生糸を独占します。
さらに、日本とフランスで大商人に組合を作らせ、独占して生糸貿易を行います。
日本とフランスで生糸貿易を独占し、その費用を造船所建設に使おうと考えたのです。
造船所の建設は順調に・・・
しかし、国内情勢は悪化の一途をたどり始めました。

1866年第二次長州征伐
薩摩の仲介でイギリスから最新兵器を購入した長州を相手に、幕府軍は大敗北を喫します。
幕府の威信は充足に低下していきます。
この時、長州との講和講習に臨む勝海舟に対して小栗は・・・
「幕府の下に郡県制度を立てようと思う」
すべての藩を廃止し、将軍が任命した知事が地方を治める中央集権制です。
小栗は、徳川中心の近代国家を構想していました。
明治維新の2年前でした。

1868年鳥羽・伏見の戦い
薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との間に戦いが勃発!!
旧幕府軍は敗北を喫します。
登城した小栗上野介は慶喜に、徹底抗戦を訴えます。
慶喜の袖をとってまで秘策を・・・!!
”東海道を上ってくる新政府軍を幕府陸軍で迎撃
 孤立した敵を、幕府の誇る最新鋭の軍艦で海から砲撃する”

新政府軍の参謀・大村益次郎は・・・
「あの策を用いられれば我が軍は全滅していたかもしれない」と言っています。
しかし、すでに恭順を決めていた慶喜は、小栗の策を却下し、勘定奉行から罷免します。
そして恭順派の勝が・・・江戸城無血開城をするのです。
徳川中心の近代化の夢はついえたのです。

1868年3月1日、小栗は、知行地・権田村に退去
移住から間もなく、この地に屋敷の普請を始めます。
敷地の一角には・・・お茶の苗木を江戸から運んで植えています。
当時お茶は、生糸と並んで重要な輸出品目でした。
この地でも、国をとませる方法を考えていたのです。

国の基本は国民、国民が豊かになって落ち着いた暮らしができるということが大事なのです。
しかし、4月22日、新政府軍から付近の諸藩に一通の命令書が届きます。
小栗上野介は権田村に陣屋を厳重に構え、砲台を築いている・・・反逆の謀略は明らか・・・
手に余るようであれば、誅滅すべし!!

4月5日、小栗は逮捕され、翌日付近の河原で斬首されます。
享年41歳でした。

小栗が手掛けた造船所建設は新政府に受け継がれ、1871年横須賀製鉄所完成!!
製鉄所とは当時の用語で造船所を含む海軍工廠を指します。
後の日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた駆逐艦や、魚雷艇の多くがこのドックで建造補習されたといいます。
小栗が造船所建設にあたって同僚に語った言葉が残されています。

「この造船所ができれば たとえ幕府を売り出すとしても、 土蔵付き売り家の栄誉が残る」by小栗上野介

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

小栗上野介(主戦派)VS勝海舟(恭順派) 幕府サイドから見た幕末 [ 島添芳実 ]

価格:763円
(2019/10/1 21:36時点)
感想(1件)

明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史 [ マイケル・ワート ]

価格:4,180円
(2019/10/1 21:36時点)
感想(0件)

西郷どん 完全版 第壱集 [ 鈴木亮平 ]

価格:11,295円
(2018/12/26 20:00時点)
感想(0件)



なんと、最終回BSも、リアルタイムも録画し逃すという失態を侵してしまいました。
今年の大河に対する私の気持ちが表れているのか??それとも呪いか??
土曜日を録画し直しましたよ~~!!

「敬天愛人」・・・菊次郎が職場の部屋に飾ったこの言葉は、西郷さんが大好きだった言葉です。

菊次郎のナレから始まります。
時代の流れに乗り切れなかった男・・・西郷隆盛・・・を。
って、時代の流れに乗り切れなかったのは、いわゆる旧幕府軍の方ではないのか??
よく考えると、西郷さんは戊辰の時は官軍で・・・悲劇としては中途半端ななのかしらね??
1877年8月17日・・・延岡にて・・・戦場にいる糸が、どうも不自然な・・・。
みんなを残し、鹿児島に向かった西郷さん。。。西郷さんに従った者たちと共に・・・。

山縣有朋と西郷従道が糸を尋問しています。
って・・・おまけに謝る従道もなあ・・・もっと、戦う気満々じゃないの??不自然だよ・・・。

don2















山中を駆けずり回る西郷軍・・・やっと、鹿児島の城山にたどり着きました。

なんと、その山で子供の頃の落書きを発見しました。
そして、故郷・鹿児島で”はつらつ”と、戦ったのだそうだ。
はつらつ、溌剌・・・この言葉でいいの??戦うのに溌剌なのか??言葉の選び方、間違っているような気がする・・・。

しかし、反撃もここまで・・・政府軍の圧倒的な攻撃と、陸と海からの援軍に包囲され、山の上にと押し戻されていきます。
って・・・この政府軍の圧倒的な攻撃と、陸と海からの援軍の出し方やあれこれをやってくれたら、面白い戦いになります。
そんなこんなを、このナレ一言で終わらせるから、わかんなくなっちゃうのよ・・・戦いが・・・!!

で・・・いきなり東京の大久保邸です。
今までの大河でも、家族のことを描くことはあっただろうけど、
「女が口出しする」大河があったかな??そこがシラケるのよね??って思っちゃうんです。
私も女ですが、私が男尊女卑というよりも、この時代が男尊女卑です。
でもって、この大河では女性たちはみんな口をそろえて言います。
「話せばわかってくれる」って!!
話してわかってくれたら、戦争なんて悲惨なことにはならないんだよ~~!!
第二次世界大戦だって、官僚たちは止めようと思っていたけど、関東軍がイケイケ陸軍で暴走しちゃったんだろ??って思うの。
止めようにも止まらない戦いとか・・・よく言うでしょ??

「男なら、負けるとわかっていても戦わなければならない時もある」って言葉もあるし・・・!!

糸たちが鹿児島の家に帰ってきました。
そんな家族パートをするのは諦めたけど・・・
西郷どんの妹・琴子、従道に戦争をやめるように怒るんですが・・・
それを言うなら、西郷どんに言わないといけないし・・・
だいたい、嫁に行ったのに・・・出戻ってんの??
昔は嫁に行った娘は年に1回藪入りでないと帰れなかったんだよ??
そんな・・・今どきの嫁でもこんなに実家にいてへんわ・・・!!

西郷どんの陣営は、村田新八によるアコーディオンの演奏で指揮を揚げます。
”ラ・マルセイエーズ”で、戦力アップ!!
踊るんですが・・・まるで阿波踊りです。

その頃・・・大久保は昔を懐かしんでいました。

don3















西郷さんの好意に預らなかったものはおらんか??とか言い出す山縣有朋です。
が・・・この大河って、なんとなく話が進んでいくんですよね??
そう思うなら、山縣有朋と西郷隆盛の大事なエピソードを入れればいいだけのことなのに・・・。
そのエピを端折っているから、その好意が解らんから、”どうして西郷さんが慕われているのか”がわかんないのよね~~!!

総攻撃が行われることが西郷さんに手紙で届きました。
この手紙、山縣有朋からではなく、この大河では大久保からになっております。

don4















どうする??
西郷さんだけは生きてほしいという桐野以下全部!!

あ・・・こんなキンチョーな場面でまたもや東京の大久保・・・。
呑気な音楽で内国勧業博覧会で、商売です。

自分が死ぬことで、”戦が終わる”と戦うことを決心する西郷さんでした。
最期の夜も、最後の晩餐って感じじゃなくって、若者のコンパみたいだわ・・・。
でも、そうだったのかもなあ・・・とも思う。

当日・・・またもやお腹の鳴る村田新八・・・ってどうよ??
あきれるわ・・・。
武士は食わねど高楊枝なんですけどね・・・??
それは、もっと位の上の人なのかな??

don5
















戦って、戦って・・・みんな死んでいきます。
そりゃあそうだよね??

って思っていたら、川路が桐野を撃ったの??
東京にいた川路が・・・??

村田新八も撃たれて死んじゃいました。
なんの感動もさせずに・・・。

「圧倒的じゃないか!!我が軍は!!」と、ギレン・ザビに言わせるぐらいの政府軍です!!

??西郷さん、撃たれちゃいました・・・!!

糸のもとへ西郷が戦場で連れていた犬たちが戻ってきました。
そうね・・・この犬の演技は、犬を飼っているものとしては涙を誘ったかなあ・・・??

大久保邸では・・・吉之助を追いつめたことを悔いる一蔵・・・。

フキとなんだかんだと住んでいたんですね・・・慶喜・・・。
西郷さんをアゲアゲするフキ・・・。
当時の新聞で見てますが・・・そんなに早く新聞でるか??今よりもタイムラグは計り知れないほど大きいというのに・・・。
どうして逃げなかった??という慶喜ですが、慶喜、逃げたんじゃないって言ってたよね??
西郷星も出て来ましたが・・・どうして西郷星が出てきたのかも説明してくれませんでした。
当時の人がテレビのニュースがあるわけでも、字が読めたわけでもなく。全員が西郷さんを知っているとは思えないしなあ・・・。

西郷従道邸では、こんな大きい家を作ったのは、皆を呼び寄せるためだったんですね??なんていう奥さんの前でうな丼をほおばる従道ってなんだよ??諭されている子供か??

みんな普通の生活してますけど・・・そこに何の意味が??
そこは家族愛なのか??で、やっぱりいる琴子です。

1878年5月14日・・・西郷が死んで翌年・・・紀尾井坂にて大久保利通暗殺・・・!!

なんと・・・西郷どんが迎えに来ました。

??終わると思っていたら、這いずり回る西郷どんです。

don6
















「もう・・・ここらへんでよか・・・」by西郷どん

??何回終わったら気が済むん??っていうほど、終わりがたくさんありましたね・・・

なんだか西郷どんの死に方・・・時間軸がよくわからなかったなあ・・・。
西郷さんより桐野利秋が先に死んだし、別府晋介もどっかいったし・・・もやもやです。

で・・・最終的に、吉之助さあと一蔵どんが手に手を取ってあの世へ行ったんですか??
そう見えたんですけど・・・。
やっぱり1年かけてBLだったんでしょうか??
1年見ていて思った事・・・それは、本筋でBLをやるのはなしだなあ・・・ってことです。
今年は「おっさんずラブ」が流行りました。でも、そのBLとはまた違うんですよね??
彼等は150年前に確かに生きていて、子孫の方がいらっしゃるんです。
司馬遼太郎さんは、100年経たないと歴史にならない・・・みたいなことを言てらっしゃいましたけど、やっぱり幕末の人は、かなり資料も残っているし、ちゃんとした子孫の方が生きていらっしゃる・・・。

と書いていて思ったのは、この作品、BLでなくてもみんなをサゲサゲの作品だったなあ・・・と、思うのです。
誰の正義もちゃんと書けていなかったなあ・・・それならみんな人殺しだよ・・・。

話はそれてしまいましたが、BLについて・・・
私が子供の頃にJUNEという雑誌があって・・・やおいや百合がかなり流行った時代でした。
もともとの日本の歴史に男色があったこともありますが、腐女子爆発的に人気が出たのはなんだろう??
個人的には「リングにかけろ」だと思っていますが・・・。
長浜ロマンロボシリーズかも知れないですね??
長浜ロマンロボシリーズが機動戦士ガンダム(腐女子の大好物はシャアガル)になっていくわけですが・・・。

先日、某塾講師の先生のテレビ番組で「新選組もBLだった」みたいな見出しでやってましたけど、今のBLと男色を一緒にしないでほしいなあ・・・と思ってみていました。
男色や衆道の理由にはいろいろあって・・・そこには愛でないものもあると思うんです。
尊敬とか、主従関係とか、僧侶だったとか、女性が少なかったとか・・・
そして、BLは二次作品でないと・・・ってことです。

「好き」って感情でなく・・・
例えば、西郷さんはその尊敬されるあまり桐野利秋によって「新政府軍には渡したくない」と、殺されたともいわれています。
このワンシーンを加えるだけで、腐女子たちは自分でBL化できると思うんです。
それこそ、西郷さんの首を渡すわけにはいかないと、首を隠したという人もいます。
もちろん、ここでBLしたかったであろう大久保利通・・・ただ単に号泣させるのではなく・・・
心の底ではわかりあっていた・・・そう表現することで、腐女子たちは自らBL化してくれるでしょう。
腐女子が好きなのは、友情や、信頼関係なんですよね・・・
ジャンプの友情マンガには、そんな作品が溢れています。
だからそれが腐女子が求めているモノなんですよ・・・。
スラムダンクでの花道と流川のハイタッチとか・・・ただ単に「愛」ではないと思います。

そしてもう一つ・・・歴女が好きな大河について・・・。
誰かが書かれていましたが・・・腐女子はラブラブとかを見たいわけではなくて・・・
斬り合いの中で、吐血しながら階段を転げ落ちる(これは沖田総司な感じ)を見たいのだ、と。
なんかわかる気がする・・・。
私は歴女という言葉が嫌いです。
だって、女性が歴史を好きになっても普通でしょ??
歴女とか、山ガールとか・・・別に女を強調する必要ないんじゃないかな??って思うからです。
そんな私、昔は永倉新八の良さがわかりませんでした。
だって、最後まで新選組隊士として戦わなかったから。
今は、あの時代にあの生き方はしんどかっただろうなあ・・・って思うけど。
若い頃は、そんな儚い男子が好きだったんですよ・・・たぶん歴女はみんなそうじゃないかな??
だから、突っ走った長州はともかく、寝返った薩摩は好きじゃないけどね・・・??


とにかく、今回西郷隆盛をいろいろ調べて思ったのは・・・
テロリストと言われるだけあって、なかなか黒い部分の多い人でした。
あれだけ黒い人を大河で綺麗に書くのは本当に難しいだろうなあ・・・ってことです。
ほんと、かなりえげつないことしてますもん。

この大河では、大久保利通とっても悪者でしたが、大久保利通という人は義理とか人情とかよりも日本政府をつくることが第一の人でした。
なので、西郷さんとは対極にある人というか・・・義理と人情を無視しても日本政府を作る人だったんです。
対極にある二人でしょ??
だから、西郷さん一人なら難しいけど、大久保利通と一緒に描いたら友情物語ができたのになあ・・・って思います。
その二人の心が繋がっていれば・・・
それを書くだけで、脚本家先生の書きたかったBLになったのにね??

何はともあれ、皆さんお疲れさまでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

西郷どん 完全版 第弐集 [ 鈴木亮平 ]

価格:12,245円
(2018/12/26 20:01時点)
感想(1件)

西郷どん 完全版 第参集 [ 鈴木亮平 ]

価格:10,727円
(2018/12/26 20:01時点)
感想(1件)

このページのトップヘ