日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:北政所

京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

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北政所と淀殿―豊臣家を守ろうとした妻たち (歴史文化ライブラリー)

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日本史上有名な女の戦い・・・北政所と淀殿。
二人は仲が悪く対立していた??その葛藤とは・・・??

北政所と淀殿・・・。
秀吉の死後から大坂の陣まで・・・
どのような関係だったのでしょうか?

女性が日本史を・・・戦国史を決定させる・・・
豊臣政権では、家来がたくさんいたわけでもないので、女性が活躍する余地が残っていたのでしょう。

1598年3月、天下人として君臨していた秀吉は、醍醐寺で盛大な花見を催していました。
屏風絵には・・・正室・北政所、側室・淀殿も参加しています。
しかし、この5か月後・・・8月18日に豊臣秀吉は、波乱の生涯を終えるのです。
この時、嫡男秀頼はわずか6歳。。。
北政所と淀殿に、天下が委ねられたのでした。

北政所は、秀吉を足軽時代から支えてきた糟糠の妻です。
きわめて思慮深く、稀有の素質を備えた人。

織田信長の姪に当たる淀殿。
大勢いた秀吉の側室の中で、唯一子供を産んだことで特別扱いを受けていました。

秀吉の没後2年・・・1600年に時代は大きく動きます。
東軍・徳川家康VS西軍・石田三成の関ヶ原の戦いが勃発!!
この時、北政所と淀殿の間にも亀裂が生じ、東軍=北政所VS西軍=淀殿と、別れて戦ったと言われてきましたが・・・
近年、異なる史実が・・・
前哨戦の大津城の戦いでは、北政所と淀殿が連携して講和の使者を送ったという資料もあります。
当時の二人の関係は・・・日常的に連携していた・・・??

関ケ原の戦いに勝利した家康は、1603年征夷大将軍に・・・江戸幕府を開きました。
この家康に立ちはだかったのが・・・豊臣家・・・北政所と淀殿・・・そして、その家臣たちでした。
家康は、豊臣家を慕う大名たちを恐れて、北政所と淀殿を常に大いなる礼節と尊厳を持って扱わざるを得なかったのです。

豊臣家を守るために・・・
秀吉が死んだ翌年に京都に移った北政所。
秀吉を祀る豊国神社に月命日に通います。
亡き夫を弔う・・・しかし、目的は、それだけではありませんでした。
御所に使いを送り、公家と深い関係に・・・
幕府の出先機関にも・・・政治力を発揮します。

大坂城の淀殿は、秀頼を支えます。
当時の二人の関係は・・・??
淀殿は、なにかあると北政所に連絡し。。。
親密で、信頼し、尊敬しあっていたようです。
二人の女性によって支えられてきた豊臣家・・・徳川家の大きな障壁となっていました。

関ケ原以後、体調のすぐれなかった淀殿。。。
協調してやってきたかに見えるこのふたりに、楔を打ち込んだのは家康でした。
1605年4月・・・豊臣家に対して挑発を始めます。
伏見城で・・・家康は、秀忠に将軍職をつがせ、祝賀のために、秀頼に上洛するように要請します。
秀忠は将軍となりましたが、しかし・・・秀頼の官位は右大臣。。。
秀忠よりも各上でした。
東軍では徳川系大名の支配となったものの・・・西国には豊臣恩顧の大名が割拠しています。
家康は・・・徳川>豊臣を、見せつけたかったのですが・・・

それに北政所を利用しようとします。
北政所の高台寺の創建を後押しし、膨大な援助をしていた家康。。。
家康は、北政所の影響力を利用しようとしたのです。

5月・・・家康の依頼を受けた北政所は、大坂城に向かいます。
徳川との共存のためにも、秀頼に上洛するように・・・
淀殿に提案します。
上洛要請の1年前・・・豊国神社で盛大に行われた秀吉の7回忌に・・・
北政所の周りには・・・豊臣恩顧の大名はいませんでした。
彼等は、家康の顔を伺って出なかったのです。
北政所は、豊臣離れを感じていたのです。

しかし淀殿は拒否。。。
上洛するならば自害する・・・!!と。
当時、大坂城の実務は、秀頼の側近だった大野治長が取り仕切っていました。
淀殿の乳母の子だった治長は、淀殿に意見を言い易かったようです。
大坂城には、情報はほとんど入ってきていなかったのです。
家康の上洛要請は失敗・・・。

それは、家康にとっては想定内でした。
上洛してこなくてもいい・・・??
二人の仲を裂こうとする意図があったのかもしれません。
家康の思惑が影を落とし始めます。

二人の考え方の違いは何処から来たのでしょうか??
豊臣家の存続・・・
北政所は家を残すことが重要で、淀殿は意地も誇りもあったので権力さえも、譲れなかったのです。
秀吉を天下人にのし上げた妻と、天下人の妻になった女性の違いでした。
そもそも家康も、20年前には同じように秀吉の上洛要請に応じ、臣従の意を示していました。
同じようなことをしたのです。

北野天満宮に、秀頼公がたくさんの寄進をしました。
本殿が再建されたのです。
北政所と淀殿の連携プレーによって、スムーズに事が運びました。
しかし・・・家康は、豊臣家の弱体化を・・・着々と謀っていました。

家康の助言で秀頼が行った石清水八幡宮の改修。。。
当時の瓦に家康の思惑が・・・!!
表面には高価な金が・・・!!
この資金は秀頼・・・。
家康は、80か所もの寺社の造営を進言したのです。
豊臣の権威を・・・と言いながら、豊臣家の資金枯渇を狙っていたのです。

そしてその圧力はエスカレート・・・。
1611年、大軍を率いて二条城に入った家康。
再び秀頼に上洛を要請します。しかも、軍事的圧力をかけて・・・!!

この時、上洛実現に積極的に動いたのは・・・
加藤清正、池田輝政、浅野幸長たちでした。
清正は、上洛を渋る淀殿に、自分一人でも秀頼を守ると決意を語り、説得しました。

頑なな淀殿も折れ…
3月28日二条城の会見が行われました。
北政所も見届けて・・・円満・・・??
二人の女性の想いは、成就したかに見えました。

しかし・・・家康は・・・。

「秀頼は賢い 
   誰かの家来となって
     命令を聞くような人物ではない」

と、思っていたようです。
70歳の家康には、若い秀頼は脅威でした。
3か月後・・・加藤清正が病死・・・3年間で次々と、豊臣恩顧の大名が亡くなります。
邪魔者はいなくなった???

方広寺の鐘の名分に不吉なもの・・・
「国家安康」が!!と、秀頼を糾弾し、大名たちに出陣を促します。

鉄壁の大坂城を以って開戦する??

戦を避けて和平??
北政所の懐刀・孝蔵主が和平の使者として派遣され、朝廷からも勅使が派遣されるという噂が・・・??

豊臣家の存亡をかけた選択が・・・??

1614年10月1日、北政所が大坂城に向かいます。
戦争回避を淀殿に説得するために・・・!!
しかし、道は徳川軍で進むことができませんでした。
鳥羽で引き返す北政所。。。
牢人を募集して、戦う準備を始めてしまった淀殿。。。
もはや、決戦は時間の問題でした。
11月18日、家康は20万の軍勢で、大坂城を取り囲みます。

対する豊臣軍はおよそ10万。
淀殿は、自ら甲冑をまとい陣頭指揮を執ったとされています。
大坂冬の陣!!
真田幸村などの活躍によって、徳川軍を翻弄します。
が・・・大坂城の堅牢さを知っていた家康は、長距離用の大鉄砲・芝辻砲を用意していました。
天守閣に届く砲弾の嵐。。。
戦意を喪失した淀殿は、講和に傾きました。
12月、斎う衆的に、惣掘を徳川・外堀を豊臣が埋めることを条件に、講和が成立!!

堀を埋めるのには数年はかかる???
と、淀殿は思っていました。

家康は、講和条件を無視し、外堀を含むほとんどの堀を埋めてしまいました。
鉄壁の大坂城は、裸城になってしまったのです。

家康は、北政所を監視させ、大坂に来ないように見張っていました。
豊臣家は根絶やしにするそんな老獪さでした。
外堀を掘り返そうとする豊臣・・・これを戦闘準備だとし、家康は・・・
1615年5月大坂の陣を・・・!!

大坂城の防御力もなく、劣勢を余儀なくされた豊臣方は・・・??

5月8日秀頼と淀殿は、大坂城で自害。
ここに、豊臣家は滅亡したのでした。

家康に監視されて京都を動けなかった北政所。
一緒に籠城することを希望していたようです。
しかし、秀頼に遠慮され・・・よんどころなく、京都に止まったのです。
落城から11日後・・・

「大阪落城のことは  
   何とも申し上げる
     言葉もございません。」by北政所


女性だからこそできなかった・・・
女性の政権の弱みに、男の政権の徳川に付け込まれたのかもしれません。


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おお・・・遂に、如水誕生です。

官兵衛が蟄居を命じられてしまいました。
それも・・・軍師なのに三成の罠にかかって・・・。

「この太閤をコケにした罪は重い・・・!!」by秀吉。

このことで、黒田家に激震が・・・!!

「一体何があったのだ・・・??」

利休のこと・・・今の殿下のこと・・・官兵衛は覚悟を決めている様子・・・??

kan3















そんな官兵衛のことを噂話しながら腹の探り合いをするこの天下人ふたり・・・。

「ところで殿下・・・黒田殿をどうなさるおつもりで・・・??」by家康

「あ奴は知恵があり過ぎたんじゃ。。。
 それで己の首を絞めたんじゃ・・・!!」by秀吉


その怒りを鎮めるために・・・北政所も淀殿を頼ることに。。。

朝鮮から急いで帰ってきた善助・・・
利休のときと同じだと怒り心頭です。

「このまま黙って死ぬおつもりではありますまいな・・・!!」by善助。

そう、何もかもが三成の陰謀によるものだそうです・・・

そんなころ・・・お拾誕生!!

名護屋にいる秀吉は、大坂に急ぎ戻ろうとしますが・・・

「黒田殿の仕置きが残っておりますが、いかがなされますか?」by三成。。。

わざわざ言うなよ・・・

「明日・・・登城させよ・・・!!」

って、官兵衛、どこで蟄居してるんだろう??

説としては・・・
①名護屋城 ②中津 ③引き返して朝鮮
があるのですが・・・???どうかな??

で・・・登城する官兵衛・・・。

kan1












なんと、頭を丸めていました。

「この黒田官兵衛・・・本日をもって名を如水円清と号しとう存じまする。
 身は褒貶毀誉の間に在りと雖も心は水の如く清し。」
「人にどう思われようと、心は澄み切った水のように静かであると・・・。」

と、いらだつ秀吉。。。

言い逃れはいないと言いながら、官兵衛、自分のしたことは死に値するほどのことでもないといけしゃあしゃあと言っております。

利休と同じように意地を通そうとも思ったが、それは自分の性分ではない・・・
なんと言われようとも、はいつくばって詫びを入れてでも生き延びるのが自分に相応しいと・・・

「それがし・・・まだ死ぬわけにはいきません。
 この命、お救い願いたい!!」by官兵衛。

如水とは・・・「水ハ方円ノ器ニ随フ」・・・そう、秀吉の意のままに役に立つのも立たないも、秀吉次第・・・。

土下座をする官兵衛に・・・

「人を食った男よ。。。」

官兵衛の助命嘆願の書状がたくさん秀吉のもとへと来ていました。
そう、おねに書かされたであろう淀の手紙も・・・。

「官兵衛・・・お主を許す。。。
 二度とわしの命に背くな。」
 
と、隠居することを願い出た官兵衛でした。

許可して秀吉は大坂へ帰ってしまいました。
「戦は終いじゃ・・・!!」

三成、本当に悪よのう・・・
個人的にはそんなに喜怒哀楽の見えにくい人のように思えるのですが、この軍師官兵衛では???怒でもないなあ・・・哀でもないなあ・・・何処に属するんだろう、あの演技・・・嫉妬???

大坂にある黒田屋敷に帰ってきた官兵衛。
みんなびっくり、丸坊主。
ほんと、あの丸坊主、よく出来てますよね。
皮膚の感じが、ぼこぼこで・・・というか、つるつるでなくて。。。
岡田くんが本当に丸坊主にしたみたい。
でも、丸坊主にしても男前は男前、丸坊主にした方が男前ってわかるわ~~~


お拾にぞっこんの秀吉。
淀の欲しいものは・・・お拾が天下人になること。。。
どうする?三成???


聚楽第では秀次が・・・官兵衛を頼みにしていました。
ま、秀長とか・・・利休とか・・・三成を快く思わないメンバーに官兵衛も入っているでしょうから、秀次が頼ったものとも思えますが。。。


この秀次さん、とっても優秀でした。
近江八幡を商人の町として発展させたのはこの人の功績です。
後からの・・・勝ち組の話で殺生関白なんて言われますが、政治的にもですが、農民の子であるにもかかわらずおじゃるとも仲が良く、和歌を詠んだり物語を読んだり・・・と、優秀でした。


日本を5つに分けてその4つを秀次に、1つを秀頼に与えると約束します。。。
なんだか不穏な空気が漂ってます。

で・・・秀次の忠義の証として・・・
秀次の娘と秀頼の婚約という知恵を与える官兵衛ですが。。。

これはどうでしょう???

一説によると、前田利家の仲人で、秀頼と秀次の娘を婚約させたといいます。
つまり、天下をあげてしまってでもどうしようもないので、考えた末に秀吉側から持ち寄った話・・・
ということですが。。。
どちらがホントなんでしょうね。
ま、この大河では、なかなか前田利家が出てこないので、官兵衛の勝ちにしときましょう。

kan4















で・・・
黒田がみんな朝鮮から引き揚げてきて・・・
久しぶりの一家団らんです。

でもって・・・徳川家康が動き出しました。
武断派の福島正則・黒田長政が取り込まれようとしていました。


kan2












官兵衛のおかげで上手くいっているという秀次・・・。
天下人としてのありようを説く官兵衛ですが、自分の力を手に入れたいと思うようになった秀次・・・。

天下人を催促する淀殿。。。秀次の若さを・・・秀吉の死後を心配するのでした。
って、これは、秀頼を恐れた家康と状況がピッタリ似ていますね。
やはり自分の子供に・・・と思うのは誰しも同じなのでしょう。

1595年7月3日・・・
秀次を訪ねて・・・聚楽第に三成がやって来ました。
秀次に謀反の疑いありと・・・!!

おお~~~これも三成の仕業ってか・・・??
この大河は、みんな三成と官兵衛でまわっているのか???と思ってしまいますね。
次回、秀次どうなる事やら・・・知ってるけど・・・
ドキドキな展開です。

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1615年大坂夏の陣、栄華を誇った豊臣家は大坂城落城と共に運命を断ちました。
おねは、京都で大坂の空を見上げて
「なんとも申し上げるべき言葉もありません」
と言ったと言われています。

豊臣家に嫁いで54年、この言葉にはどんな思いがあったのでしょう?

名もない足軽からスタートして、知恵と愛嬌で天下の階段を駆け上ったNo,1秀吉。その日本一の出世物語の相方が、No,2北政所おね。

尾張弁丸出しの夫に物申し、数多くの戦国武将を育てた天下を支える母。
しかし、秀吉亡き後は、徳川に加担した悪女とされてきました。その真実は、一体どこに・・・?

天下一の出世男を支えたおね、本人も、足軽から一国一城の主の妻となりました。
その秀吉とおねとの結婚は、当時としては珍しく、恋愛結婚でした。

1561年同じ長屋のひょうきんな男と結婚。その式は、土間に蓆をひいただけの質素なものでした。
秀吉は、織田の家臣として、快進撃を支えていました。

おねは14歳・織田家家臣の足軽の娘として生まれ、引衆・浅野長勝の養女となっていました。
当時の秀吉は、25歳。小者・武家の雑役に使われていて、身分的にもつり合いがとれていたようです。

あけすけで明るい夫婦だったようで、おねは、頭のよい人で、裏方を任せる良き伴侶だったようです。

1566年美濃の斉藤を攻めあぐねていたとき・・・墨俣の一夜城を築いてその勝利への突破口を開きます。
また、夜襲をかけ、念願の近江制覇。

秀吉は、おねに、戦のことを意気揚々としゃべるのが好きでした。
そして、それを楽しそうに聞くおね。あけっぴろげで気さくなその人柄は、偉くなっても変わることがなかったといわれます。

1573年小谷城攻め。
秀吉は、先陣を切って大活躍。その功績に、近江12万石を拝領します。
そして、この琵琶湖のほとりに長浜城を築いたのです。

この長浜城、砦や山城ではなく、政治と商業を司る中枢としての機能としての城になっています。
新しい城下町という町づくりに着手。

広々とした道路、掘割、水路・・・。整然とした町並みを作りました。
その町の区画には、職人や商人たちを移住させ、年貢を減免する措置をとりました。
また、戦に欠かせない、鉄砲集団の育成に力を入れ・・・。
最先端の、町づくりをしました。

しかし、城主秀吉は、すぐに戦地へ・・・。

1577年毛利征伐のため、中国遠征に。
12万石の領国経営はおねに任されました。
辣腕経営者のおね、秀吉の戦国一の懐刀だったのです。

2人は常に手紙でやり取りをしていました。秀吉は常におねに判断を仰いでいたようで、秀吉にとっての知恵袋でした。

また、おねは人材の育成にも着手します。
少しでも見どころのある人間を引き取りました。

尾張では・・・福島正則・加藤清正
長浜では・・・石田三成・増田長盛

などです。

采配を振るって、飯を食わせて、教養を付ける。
みなには、「おふくろさま」と、慕われていました。


秀吉。その戦い方は、知恵のある参謀を使っての調略が主でした。武力によって戦うのは、いたずらに兵を失うだけだったからです。

三木城の干殺しでは、2年にわたって兵糧攻め、高松城では水攻め。向かうところ敵なしの秀吉でしたが、時代は激変。

1582年本能寺の変。
明智光秀の謀反により、信長自害。
秀吉は、わずか6日で取って返し、山崎の戦いであっという間に明智を蹴散らし、天下取りレースに名乗りを挙げました。

その後3年、調略と武力で
1585年見事関白に就任。

自らの権力の象徴として豪華絢爛の大坂城を築城。
おねはこの時から北政所となるのです。

大坂城を築城したものの、秀吉は九州の島津征伐のために兵を出します。
2人を繋ぐのは手紙でした。この手紙、単なるラブレターではなく、政治のホットライン。重要な機密が書かれていました。

例えば・・・。
1587年島津義久が秀吉に降伏。
その時のおねへの書状には・・・。
①島津義久の人質は15歳の娘。
①重臣も十人ほど人質に。
①弟・義弘の人質は15歳の長男
①8歳になる息子も人質とする。

などと書かれています。

「人質」戦略を使い出す秀吉。
この人質の監督管理がおねの役割でした。


京都・聚楽第の周りには、大名屋敷が何十件と次々に出来、「人質」が送り込まれます。
秀忠も12歳の時に「人質」としてやってきます。

秀忠も、北政所が世話をしていました。
以来秀忠は、上洛するたびに、おねを訪ね、折々には贈答の挨拶、お歳暮などを送っていたといいます。
「おかか様」として、情を結ぶのです。

当時の人質の重要性として・・・。
人質とはいえお客様。子供が大きくなると城主になって、天下人を支えられる人に・・・豊臣家を慕うようになるように育てたのです。

つまり、人質とは、教養をつけ、裏切らないように育てる。だから、戦術や礼儀作法まで教えたのです。

黒田長政は、関ヶ原の時、調略して東軍に寝返るように工作をしますが、この時の京での人脈・仲間意識を利用して交渉し、寝返らせるのです。

つまり、おねの役割は大きいのです。
秀忠も、徳川と豊臣が仲良くなれるようにと、育てたのです。
おねがいなければ、秀吉は天下が取れなかったのでは?


そして、最大のライバル淀殿が出現します。
2人の間には様々な噂がありますが。。。2人の真実はどこにあるのでしょう?

1589年鶴松の誕生。ここから確執が生まれるのです。

「二人かかさま体制」の誕生です。
家を守る女性と子供を育てる女性、役割分担が生かされました。

1590年小田原城攻めの時、秀吉は北政所に頼んでいます。
「長い戦になるので淀の者を呼び寄せとうござる」
京を離れられない北政所に代わりに陣中における妻の代わりを淀殿に託したのです。

翌年、そんな3人に悲劇が・・・。
1591年鶴松病没。

跡継ぎをあきらめた秀吉は、甥の秀次に関白職を譲ります。
自らは、朝鮮征伐の指揮官として九州にわたります。
朝鮮での戦いに邁進する日々・・・。
そんな中、思いがけない懐妊の知らせが。。。
秀頼の誕生です。

何としても秀頼に跡を!!
秀吉に暗い野心が灯りました。

自ら位を譲った秀次を高野山に追放。
1595年自害に追い込みます。

豊臣家の将来は?

1598年秀吉が62歳で亡くなります。
北政所にとっては、2人で作ってきた豊臣政権。秀吉の死によって、私は私の道を行こうかしら・・・。と、思ったのかもしれません。豊臣さえ残れば・・・天下一でなくても良いのでは?

淀殿の力が大きくなって・・・おまけに育てた子供たちが反目しだしました。
尾張は武断派、近江は文治派に割れてしまうのです。
朝鮮戦争を戦った尾張派。他国に攻めていって負けたということは、恩賞がありません。その不平不満も、死んでしまった秀吉には文句が言えません。矛先は、石田三成ら近江派に向けられたのです。

しかし、近江派は、朝鮮戦争の用意をしたり、準備をしたり、みんなが帰れるように、兵を退くための用意もしました。「中途半端に戦ったくせに・・・」

この近江派が、淀殿と秀頼方になるのです。

俺たちは排除される・・・追いやられたくない。。。尾張派は、北政所のところに泣きつきに行きました。
相談に乗る北政所。当時五大老筆頭だった家康を頼るように言います。

北政所は、大坂城を淀殿と秀頼に託し、京でひっそりと暮らします。
自分の役割は、夫の菩提を弔うこと・・・。

晩年に建立した高台寺には、御膳・スリッパ・杖、ゆかりの道具や衣装が数多く残されています。
しかし、時代は静かな生活を脅かします。

天下をめぐる争いが・・・。虎視眈々と家康が狙っていました。
秀吉と北政所が育てた小早川秀秋・福島正則・加藤清正は、にわかに権力を振るい始めた石田三成に反発していました。

家康はこれを利用して、内部から切り崩しにかかります。
東軍につくか、西軍につくか・・・。水面下で激しい攻防が繰り広げられました。

北政所のところにも、次々相談にやってきました。その中に、小早川秀秋の姿もありました。
豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった! 天下に愛された女・おねの生き様に秘められた真実
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周りの武士は、北政所を味方につければ「使い道」がある。北政所には逆らえない。。。
そこを突いたのが、策士・黒田長政でした。

いち早く徳川に味方した黒田長政。黒田長政も、北政所が家康に動きかけているのを察知して、小早川に揺さぶりをかけます。

「徳川方につくことを早々に決断されよ
 われわれ北政所様に恩義がある者は、それこそがお心に従うことだとわきまえよ」

東軍につくように勧めます。

1600年関ヶ原の戦いの火ぶたが切って落とされました。
しばらくは互角に見えましたが、小早川の1万5千の軍が東軍へ寝返ります。

これを機に、西軍は総崩れ。わずか1日にして幕を閉じたのです。
このことからも、北政所が天下を大きく左右したと言えるでしょう。

この戦いに豊臣が負けた一番の要因は、尾張閥・近江閥が一致団結していれば・・・。
奥の秩序が保たれていれば・・・。ということに尽きるのではないでしょうか?

事実、北政所は、石田三成に追い出されたような節がありました。

秀吉と最後まで相思相愛だったおね。秀吉の死後は、抜け殻のようになって、思い出に生きたようです。

秀吉辞世の句はあまりにも有名です。

「つゆとおち
  つゆときえにし
    わがみかな
 なにわの事も
    ゆめのまたゆめ」

1615年大坂城落城の折、豊臣家も滅んでしまいました。

たったひとこと

「大坂のことは
  なんとも申し上げる
    言葉もございません」

高台寺霊屋には仲良く二人の木造が並んでいます。
日本一のおかか様はいま、夫婦ゆっくり暮らしているのです。


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