山内一豊のことがマンガで3時間でわかる本 (アスカビジネス)

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 関ケ原の合戦の後・・・土佐を治めることになったのは山内一豊。
もともと一豊は尾張出身です。
父・盛豊は岩倉織田氏の家老で、尾張黒田城主でした。
信長の岩倉城攻めで盛豊は討ち死に。。。
一豊は母と共に城を逃れ・・・その後、10年以上尾張・美濃・近江・・・転々としました。

結局信長に召し抱えられるようになります。
妻の千代は、浅井家家臣の若宮喜助の娘でした。

千代は一豊に尽くし・・・良妻でした。
結婚した当初は貧乏で・・ボロ布を継ぎはぎして縫い合わせた着物を身に着けていました。
これが「千代紙」のいわれの始まりです。

へそくりで一豊に名馬を与えたのは有名な話。
関ケ原の合戦で、一豊は東軍に参加。
当時、妻子は人質のように大坂にいて・・・戦いになったら敵側に取り残されるような形になってしまいました。
それは千代も同じこと。。。

千代は、大坂の情勢を手紙に認め、西軍から届けられた寝返りを求める書状と共に家臣に渡します。
また、密書をこよりにして笠の緒を作り笠をかぶらせます。

この文箱を受け取った一豊は、密書を一読し焼き捨て・・・
文箱の封を切ることなく家康に差し出しました。

これで三成の動きを知った家康は、関ヶ原の合戦へと向かいます。
笠の緒には、そうするように指示があったといわれています。

さらに小山本営の軍議で「掛川城を家康に明け渡し、兵糧も提供したい」と申し出て・・・
それがきっかけとなって、ほかの大名たちも城を差し出したといわれています。
これに感激した家康。信頼を深める一豊。。。
これらの功績によって、土佐24万石を与えられます。
が、土佐は幕末になっても主人は長宗我部氏・・・
地侍達の抵抗に遭います。
が・・・何とか制圧し、子孫は代々土佐藩主として幕末まで続くのでした。

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山内一豊の隠れた新事実

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