日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:千利休

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雷鳴轟く京の町で・・・1591年2月28日、一人の茶人が切腹して果てます。
茶聖と称えられた千利休です。
その首は橋のたもとに置かれ、無残にも木造の足で踏みつけられるようにさらし者にされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉です。
しかし、もともと利休を寵愛したのは秀吉でした。

1522年、千利休は堺の魚屋の長男として生まれます。
幼名は与四郎といい、父・与兵衛は海産物の取引をする傍ら、倉庫を貸し付けることで財を成した堺屈指の豪商でした。
しかし、もともと千家は武家で、祖父は室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行で、利休の心理眼はこの祖父を受け継いだものかもしれません。
利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で繁栄・・・戦国大名の力に頼らず、町衆という商人たちが自ら治める独自の統治体制を形成していました。
その町衆の中で流行していたのが茶の湯でした。
社交や商談の際に必要な素養の一つだったのです。
そこで、交易で巨万の富を築いた商人たちは、「名物」と呼ばれた中国の高価な茶道具を買いあさるようになります。
商人の子・利休も、幼いころから茶の湯を嗜み、19歳の時には当代随一の茶人・武野紹鴎の弟子となり茶の世界に没頭。
更には、茶の心に通じるとして南禅寺で禅を学び、宗易という名をもらいます。
1540年父が死去・・・家督と家業を継いだ利休は、商人としても生きることとなるのです。
利休は、堺の豪商たちと頻繁に茶会をし、交流を深めます。
それによって、地位を固め、政治経済、文化を問わず、人脈を広げていきます。

そんな利休に大きな転機が訪れたのは・・・1568年47歳の時でした。
天下布武を掲げた織田信長が、美濃から上洛!!15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目をつけたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫・・・今のお金にして500億とも1000億ともいわれる金額を献金するように命じます。
堺には、冨だけでなく他にも魅力がありました。
鉄砲の産地だったのです。
町衆の自治が盛んなので、自治的な部分を押さえたかったのもあります。
この堺とのパイプを強固なものにするために、茶の湯を・・・!!
商人でもあり、茶人でも名を馳せていた今井宗久・津田宗及・・・三番手として千利休を「茶頭」に起用しました。
信長は利休を茶頭として3000石で抱えます。
それだけ茶人がキーマンだったのです。

しかし、1582年、利休が61歳の時、運命を大きく変える事件が起きます。
本能寺の変です。
天下取り目前で、織田信長が命を落としてしまいました。
信長の死から10日余り・・・山崎の合戦にて、豊臣秀吉が謀反人・明智光秀を討ち取ります。
これによって、天下取りの第一歩となった秀吉が、直後に近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き、政務を行っていた秀吉は、そこに茶室を作って利休に茶会を催すことを命じます。
利休はその時の心のうちを、茶人仲間に宛てた手紙に書いています。

「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している。」

こうして、信長の三番手だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのです。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??

①信長の継承
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の銘品を、堺の町衆から強制的に買い上げ、武功をあげた家臣たちの恩賞にすることで、人心を掌握し、強い主従関係を築くことに役立てていました。
土地をもらうのが一番の恩賞でしたが、あげ続けることはできません。
土地の代わりに茶道具うを与えたのです。
そして、手柄を立てたものに茶会を開く権利を与えるという茶道御政道を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、いつしか茶室は政治の場となっていきました。
そのやり方を秀吉は継承したのです。
そして、秀吉は、利休を筆頭茶頭に格上げしてまで取り組みたい理由がありました。

②情報力
3人の茶頭は、堺の商人です。
堺には情報が集まってきました。
家業が貸倉庫業だったので、利休のもとには、全国の情報が集まってきていたのです。

1584年3月、秀吉は敵対する勢力織田信雄・徳川家康軍と戦います。
小牧長久手の戦いです。
この時、利休は、京や堺から頻繁に戦場の秀吉と書状を交換し、秀吉の支持を周囲に伝える役目をしています。
また、秀吉が大坂城に戻ってからは、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り、秀吉に戦況を伝えます。
右近と織部とは、茶の湯を通じて交流があり、利休は師と仰がれていました。
利休はこうした茶人ネットワークを使って、戦が終わるまで情報集めに奔走。
秀吉の天下取りに貢献することで信頼を勝ち取っていくのです。
どうしてそこまで一生懸命になったのか・・・??
茶頭は、権力者の後ろ盾が必要だったからです。
二人は運命共同体だったのです。

1585年、秀吉が関白に就任。
姓を豊臣と改め、本格的に自らの政権をスタート支えます。
すると、秀吉は、弟・秀長と同じく利休を側近とします。
利休64歳の時でした。

1586年4月、秀吉のもとへ一人の武将が訪れます。
豊後の大友宗麟です。
九州で勢力を伸ばす島津義久の侵略に脅かされていると助けを求めて大坂城へとやってきたのです。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々のことは宗易に、公儀のことは宰相がすでに存じておるため悪いことはないはず・・・」by秀長
豊臣政権では、外交は秀長が、内政は利休がすべて任されていました。

利休は、どうしてこれほどまでに権力を持っていたのでしょうか?
そのカギは秀吉の弟・秀長にありました。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を所有していました。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取り仕切っていました。
その秀長に利休は近づきます。
一説には、大和にあった秀長の郡山城には、相当な金銭が蓄えられたと・・・それは、利休が相当な経済援助をしたからだ・・・とも言われています。
秀長と親密な関係を結び、政権の中枢に入り込んだ利休・・・。
温厚で人望の厚い秀長は、利休の良き理解者で、秀吉との緩衝材にもなりました。
そのため、利休は、関白・秀吉にまで意見のできる力を持つことができたのです。
さらに、利休には秀長に取り入ったもう一つの理由がありました。

秀吉は、この当時まだ子供がおらず、甥の秀次を後継者としていました。
利休の秀長への接近は、秀吉死後の自らの地位を確立するためだったのです。
政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を手に入れた利休でした。

農民出身と言われる秀吉は、天皇の威光を利用しようと朝廷に接近します。
そして、1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭の利休に取り仕切らせるつもりでした。
しかし、問題が・・・利休は一介の町人で、官位がなかったため、禁中に入ることができなかったのです。
そこで、利休は僧侶になることを考えます。
僧侶ならば、身分に関係なく禁中に入ることができました。
そして、利休居士となるのです。
この時64歳、千利休の誕生です。

北野天満宮・・・
1587年10月1日、ここで、北野大茶湯が行われることとなりました。
茶会開催に先立ち、京、奈良、堺などに高札が立てられます。

”10月1日から10日間の日程で、北野杜で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り、拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問”

この時、秀吉が身分の隔てなく平等に参加を許した理由は・・・
平和の世になった・・・武士、公家などの支配者階級だけでなく、一般庶民まで平和になったことを広く知らしめようとしたのです。
秀吉が天下人であるということを知らしめる重要なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す手紙を書くなど、茶会成功に尽力します。
利休の取り仕切った北野大茶湯とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂城から運び込まれます。
800の茶席が設けられ、訪れた客は1000人を超えたと言われています。

世紀の大茶会から4年・・・秀吉と利休の蜜月は終わりを告げます。
1591年2月13日、利休は秀吉から突如言い渡されます。
「京を出て堺で謹慎せよ!!」と。
すると、秀吉の正室・北政所らが利休のもとに密使を遣わし、真意を伝えます。
関白様に謝罪をするように・・・しかし、利休は頑なに謝罪することなく淀川を下って堺に帰ってしまいました。
これにたいして怒りが頂点に達した秀吉は、2月26日、京に戻るように利休に命じ、3000もの上杉の軍勢で屋敷を取り囲み、利休を逃げないようにし・・・
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉側の言い分は二つ。
その一つは、たった一体の木像でした。

①利休の木像 
京都大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺でもあります。北野大茶湯の後、利休は大徳寺に自費を投じて山門を寄進しました。
その壮麗な佇まいから、利休の当時の財力が伺えます。
山門は金毛閣と名付けられました。
この山門の寄進に感謝した大徳寺は、山門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし、その木造が問題となったのです。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れた・・・??
「山門の下を通るたびに、利休の足の下を潜れというのか・・・??」
しかし、これは調べればすぐにわかることで、口実に利用されただけです。

本当の理由は・・・??

②利休の着服
利休は当時、自ら製作した茶道具を売るなどして莫大な財を築いていましたが、これを秀吉側は不正行為としたのです。
無価値なものを高値で売買したり、名物の唐物と交換することは、茶道具の相場をくるませる恐れがある・・・と。
実際、利休を売僧の頂上と悪徳僧だと罵倒する者もいました。
しかし、天下人の茶頭の地位を利用して高値で売り付けていたわけではなく、その利休の茶道具の素晴らしさが人々に認められて高値になっていたのです。

どちらも表向きの理由・・・??

では、切腹させた要因は何だったのでしょうか?

利休切腹の要因①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは大陸進出です。
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり前から予定されていて・・・利休がそれに反対したために、秀吉の怒りに触れたのでは??というのです。
利休が反対していた資料は残っていないものの、堺商人である利休にとって博多の商人が潤うことは争いとなるからです。

利休切腹の要因②石田三成の陰謀
1591年1月・・・利休切腹2か月前のこと・・・利休の絶大な支持者だった秀長が死去・・・。
これによって秀長と利休の政権システムが崩壊・・・。
反利休派の勢力が台頭します。
その反利休派が石田三成を筆頭とする五奉行でした。
太閤検地を担当し、外様大名たちに影響力を持っていた三成が、利休に代わって政権を担うようになったのです。
三成にとって、諸大名と通じている利休は厄介な存在でした。
しかし・・・追い落としたという証拠はありません。
秀長が死んでいなければ、利休は切腹させられていなかったのでは・・・??

利休切腹の要因③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となってから、茶の湯の革新に取り組んでいます。
それまで大名たちが有難がっていた高価な唐物の茶器ではなく、身近な雑器を見出していったのです。
さらに、自らの理想を追求する為に、職人に命じて茶器を作成。
「利休好み」という茶道具を生み出すなど、侘茶を大成させていきます。
これに対し、黄金の茶室など秀吉は派手好み・・・
二人は合わなくなり、利休は切腹させられた・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計です。僅か三畳のその中には、利休の侘びの精神が詰まっていたといいます。

真の理由とは・・・躙り口??
躙り口は、誰もが身を屈んで頭を下げて入らなけれbなりません。
武士は刀も邪魔になるので、外に置いていかなければなりません。
これは、茶室は誰もが平等を表しているのですが・・・。
僅か2畳のまで膝を突き合わせるほどの狭い空間こそが、侘びの精神の舞台だと考えました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
その間に大きな溝ができたのは、1590年小田原討伐が終わった頃からでした。
秀吉の考えが変わったのです。
この頃から秀吉は身分制度の確立を考えるようになってきていました。
下剋上を凍結させようという目的があったのです。
そこに、平等を唱える利休は邪魔な存在となっていました。
そしてこの頃から、堺の商人も没落し、堺の役目も終わっていっていました。
秀吉が新しい社会秩序を建てるのに、最も目障りだったのが利休だったのです。

ついにその日が訪れました。
2月28日・・・
利休は、京の自宅で切腹を見届けるために来た武士と人生最後の茶の湯を催し、介錯人を頼んだ弟子にこう告げます。
「すぐには介錯するな。
 手を挙げたときに首を討て!!」
表では雷鳴が轟いていました。
秀吉の怒りか・・・利休の悔しさか・・・!!
そして、利休は腹を十文字に切ると腸を引き出し、そこでようやく首を討たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔・・・しかし、北政所がとりなして切腹となったのです。
秀吉は持ち込まれた首を見ることもなく、京の一条戻橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると山門の木像の足で踏みつけるようにしてさらし者にしたといいます。
あまりにもひどい仕打ちでした。

しかし、秀吉はこの後、大政所に手紙を書いています。
「昨日利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
4年後に、利休の子孫に千家再興を許可しています。
利休の死を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、そして政治家でもあった千利休・・・
波乱に満ちた70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた”侘びの美”・・・その日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。

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この回は・・・別れと別れのフラグが立った・・・。
そんな悲しい回となりました。

小田原合戦によって北条家は滅亡した。
伊達政宗も重複し、秀吉に対抗する勢力はいなくなった。
秀吉による天下統一の完成である。


そして、ついにこの日も・・・

天正19年・・・関白秀吉の息子、捨は鶴松と名を改めて三歳となっていた。
秀吉の期待を一身に背負った鶴松であったが・・・

ついに、病気となってしまった鶴松。。。
現代でも子供が病気やけがをすると心配する親・・・この頃ではその心配は尋常ではないでしょうね。。。
特に、なかなか子供の出来なかった秀吉にとっては・・・

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鶴松の病状は非常に良くない・・・
今夜が山場という。。。

「利休殿の祟りではないかと密かに噂する者がおるようで・・・
 利休殿があのような最期を遂げられたので、その怨念が・・・。」by長泰

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??と、回想に入ります。
あ~、ビックリした、利休の切腹見逃したのかと想っちゃった・・・。

そう・・・あの鉛の魚ちゃん印について、前回吉継に詰問されてしまった利休。。。

どちらの武器も用意して、お前は死の商人か~~~!!って。

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秀長にも利休のことを相談しています。
このドラマでは、利休と秀吉が仲良く描かれていますが・・・

「 内々の事は宗易(千利休)に、公儀の事は私に」と言ったのは秀長です。
つまり、どちらかというと・・・
鶴松が生まれるまで・・・ま、危篤の今も??秀長にも秀吉の後を継ぐチャンスがありました。
なので、利休が秀長に取り入っていた・・・もとい仲が良かったという方が正しいかと思います。

ま、それだけ秀長は、実務能力に長けている&みんなからの信頼も厚かったのでしょう。
この爪の垢でも飲んでいたら・・・三成・・・人徳が・・・。

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兄を説く弟・・・
「兄上がいなくなっても、私がいれば鶴松さまをお守りしてなんとかやっていけるでしょう。
 気がかりなのは兄上も私もいなくなった時・・・誰が鶴松さまをお支えしていくか・・・

 力のある大名たちが皆で鶴松さまをお守りしていく・・・これしかありません!!
 今後はくれぐれも、誰か一人に力があ集まるようなことがあってはなりませぬ。

 鶴松さまのため!!
 豊臣家のため!!」by秀長

 ??ちょっと待って!!
そこに秀次を名指しで入れてくれれば死なずに済んだんじゃないの??秀長!!
って思うのは私だけでしょうか??
もうひと押し、もうひと押ししてくれていたらなあ・・・??

 
秀吉を支え続けた秀長・・・1591年
秀吉を残して52歳でこの世を去るのでした。
あ・・・最ものキーマンが死んでしまいました。
この人が死ななければ、利休も死なず、秀次も死なず・・・そうなると秀頼をみんなで支え・・・
もしかしたら大阪が首都になってたかもしれません。
そうすればなあ・・・わが家の近くにディズニーランドがあったかもしれないのに・・・
天皇陛下だって、東京にちょっと出かけているだけですからね・・・??


そうして・・・強大になりつつある利休・・・死の商人である利休の追い落とし作戦が始まるのでした。

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あの有名な大徳寺山門・楼上にある利休の像です。

これをもって追い落とそうと画策する三成と吉継・・・あ・・・反対でした。
吉継と三成・・・。

潔癖な三成が、綺麗ごとだけでは生きていけないことぐらい知っている!!というと・・・

「いや・・・本当に手を汚すとはどういうことか、まだ分かっておらぬ。」by吉継
 
意味深な発言です。
そうしてそう仕向けるように秀吉に進言します。

「利休はおのが姿に似せた木像を作り、それを大徳寺の山門に飾らせました。 
 木像があるのは山門の真上でございます。
 つまり、殿下が山門をくぐるとき、知らぬ間に利休の足の下を通っていたことになりまする。」by三成

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「利休が置かせたのか・・・??」by秀吉

「全てあの者の仕組んだ事。決して許してはなりませぬ。」by吉継

と、利休の堺での蟄居が決まるのでした。

おお!!吉継、いい人だけではないところを発揮!!
いい感じで黒い部分が見えてきました。
家康にも一目置かれる大谷吉継ですからね!!
人間としての深みがばっちり!!にじみ出ていますね。

「おぬしには蟄居半月の後、切腹を申し付ける。
 死者がつくまで堺の屋敷からは出てはならん!!」by吉継

言っちゃいましたね、吉継。。。
吉継に言わせることで、吉継の人間としての深みがばっちり出ているし、三成のやっぱり潔癖感も出ています。
この吉継の三成の泥をかぶろうという精神が、関ケ原で負けるとわかっていても三成に加勢する・・・そこの信頼が伺えます。
そう・・・色々説はありますが、あえて、”負けるとわかっていても三成に加勢する吉継”であってほしいの、私

「・・・という事でしたら・・・。
 引き取らせていただきます。
 世の中を動かす事に使うてこその金や・・・
 無駄にしたら罰が当たりますさかいに・・・。」by利休

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と、鶴松のために出した金子(自分の命の代金でもあるわな・・・)をひっこめるのでした。
ここにきて、茶人・利休よりも、金で何とでもなる利休が確立してしまいました。
茶聖にこんなことして・・・怒られるわよ・・・。 

このことで、落ち込んでいる三成と、本当に祟られるのは(鶴松さまではなく)私の方だ・・・と、淡々という吉継。。。いいコンビです。

「わては・・・商人の街に生まれ、金が人の心を・・・そして、国を動かすことを学びました。
 そして知ったんや・・・。
 戦は儲かりまっせ・・・。
  
 人の心を・・・命を・・・金で操るは業の深~い事や・・・。
 それゆえわては茶を点てる。
 ここまで茶の道を究めることが出来たのも、それだけわての業が深~いゆえ・・・。

 どうぞ利休の業が点てた茶を・・・味おうて下され・・・。by利休

と、茶を勧められた信繁・・・。

利休もわかっていたんですね・・・でも、その道を進んでしまった・・・
これが、命乞いをしなかった理由なんでしょうか・・・??

「利休さま・・・一つだけ教えてください。
 何故あのような像をこしらえたのですか?」by信繁


「あれで足・・・すくわれましたな・・・。
 ひとことで言えば・・・宿命や・・・。」by利休

はて・・・宿命って何でしょう??


ところで・・・沼田城主となった信幸・・・。

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その経営に追われていました。
ま、大叔父上は昌幸から任されていた代理であって、信幸が城主となったわけですから信幸が社長という訳です。
なので、信幸の言葉を守らなければなりません。
今回は、堀を広げてしまったことが原因で大目玉食らっています。
お・・・!!仕掛け扉まで作ってるみたいですよ??

おまけに稲は相変わらずのツンツンですが・・・信幸はそれが愛嬌に見えてきたみたい。

「無性に・・・お主の笑った顔がみとうなった・・・。どうか、笑ってみてはもらえぬか??」
コショコショコショ・・・なんだ、仲いいじゃん。

と・・・おこうも沼田にやってきてたんですね。

おばば様に会いに来た松と茂誠・・・
そうか・・・あの匂い袋で何もかも思い出したんだね、松!!

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二人は岩櫃へ行くことになりました。
良かったですね、すんなり変えることが出来ました。
本人の本意でなかったとはいえ、裏切り者の小山田一族ですから・・・。


根茎の件・・・利休殿の祟りと言われているとかいないとか・・・と、茶々の大蔵卿も気がかりです・・・
何で気がかり・・・??

「あの方の死に・・・御自分もいささかかかわっておられましたから。。。」by大蔵卿

なんて意味深な・・・!!


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利休を父親のように慕っていた茶々・・・
なんと、木像を作るように言ったのは茶々だというのです。
そして、注文の時に寸法を間違えたという利休。

置いておくのも何なので、最近たくさん寄進した山門にでも置いたらは・・・??と、案を出したのは茶々でした。
なんと・・・遠回りに・・・利休を殺したのは茶々だったなんて・・・!!

と、新解釈です。


願掛けで水垢離を一緒にしようと、三成を誘う清正。
断られて・・・誘ったのが間違いだった・・・と、一人で願掛けをする清正。
結局・・・やっぱり一緒に水垢離をする三成・・・やっぱりね、この二人も豊臣を想う気持ちは一緒なのよ・・・
なんでああなるかなあ・・・。
いてもたってもいられない感タップリです。。。


お付きの人も大変だろうと差し入れを持ってくる家康と正信。
本心から心配しているのやら、偵察に来たのやら・・・どっちもかも知れませんね。

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「一体、秀吉はいくつ城を作るつもりじゃ・・・」by家康
そう・・・当時は一つで十分な時代・・・
一所懸命という言葉があるように、一つの土地を・・・一つの城を大事に守る時代だったのです。
反対に言えば・・・家康が江戸に転封されたのも、本当に悔しかっただろうなあ・・・って思います。


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でもって・・・いろいろみんな登場・・・!!

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この問題児も・・・

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この人たちも・・・
こうやって見ていると・・・例えば家康なんかはちゃんとしているだけで16人の子供がいます。

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なので、秀吉にちかしい人たちもかなり少なかったようですね・・・。
ここら辺が、やっぱり盤石ではない・・・豊臣政権の崩壊へと進んでいきそうです。。。


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昌幸も・・・家康も・・・鶴松の行く末を案じる・・・というよりは、戦乱の世再びを・・・感じ始めていました。

殿下を支えようと心に誓う秀次・・・しかし、百戦錬磨の家康・昌幸たちが手ぐすね引いて待っているのですが・・・
その敵は心のうちにもありました。


そして・・・鶴松の容体が悪化・・・

「教えてくれ・・・
 鶴松は何のために生を受け、何のために死んでいくんじゃ・・・
 もっともっといい衣を着せ、美味しいものを食べさせ・・・楽しい思いをさせてやるつもりでいた・・・」by秀吉

「殿下・・・よくないことを口にすると、その通りになると申します。
 今は良い事だけを考えましょう。
 鶴松さまは、元服されるとなんという御名になるのですか?」by信繁

「まだ・・・考えておらぬ。。。」by秀吉

「やはり藤吉郎でございますか?」by信繁

「・・・そうするか。。。」by秀吉

「奥方は・・・どうされるのです?」by信繁

「秀次に娘がおる。あれと一緒にさせよう・・・」by秀吉

「よきお考えです。」by信繁

「ゆくゆくは、鶴松は関白となり、そしてこの国を治める・・・!!」by秀吉

「殿下はどうされるのです?」by信繁

「海を渡って・・・明国でも攻め下すか・・・。」by秀吉

優しいですね・・・信繁。。。

天正19年8月5日未明・・・鶴松は2年2か月の短い一生を終えた。。。
枕元ででんでん太鼓を鳴らす殿下・・・
茶々は・・・魂が抜けてしまったかのようにフラフラと歩きだしました。。。

「皆・・・死んでしまう。。。
 私の大切な人たち。。。」by茶々

そんな茶々を抱きしめる北政所・・・。
茶々の涙が堰を切ったようにあふれだしたのでした。。。
やっぱり”おっかあ”なのですね、北政所。。。

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この大河、何がいいって、信繁がいたからって、何ら時代が変わるわけではないこと・・・。

きっとその場所にいないであろう時も、すんなりそこにいるんだけれども、主人公が世の中をひっくり返した感のない所です。
私の思う「そんなバカな!!」ってところがないんですよね。
歴史好きにはたまらない、そうそう、それそれの当たり前の通説を、面白く描いてくれているところがとっても面白いんじゃないかと思うんです。

みんなが行く末を知っている歴史ドラマ・・・その歴史ドラマを奇をてらわずに書くって、すごく難しそう・・・
でも、三谷幸喜は凄い・・・??
とっても面白い真田丸です。



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1540年父が亡くなり、家督と商売を継いだ利休・・・
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堺の豪商たちと、茶会で交流を深めます。
茶人として、商人としての地位を確立し、政治・経済・文化を問わずして人脈を広めていきました。

1568年47歳の時・・・天下布武をかかげた織田信長が大軍を率いて美濃から上洛!!
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その信長が目を付けたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫(1000憶)を献金するように命じました。
堺には富だけでなく、他にも魅力がありました。
鉄砲の産地を抑えること・・・
民衆たちの自治的なものを抑えること・・・
そこで信長は、当時堺で流行していた文化・・・茶の湯に目をつけます。
町人でもあり、茶人でもある今井宗久、津田宗及・・・そして千利休。。。
信長の三番手の茶頭となった利休・・・3000石という破格で抱えられました。

しかし、利休61歳の時、本能寺の変!!
信長の死から10日余り、謀反人・明智光秀を討つことで・・・天下取りの第一歩を踏み出した秀吉が近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き政務を行っていた秀吉は、そこで茶室を作り、茶会を開こうとします。
利休はその時の気持ちを・・・
「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している」としています。
信長の三番手の茶頭だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのでした。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の名品を堺の商人から買い上げて、武功を揚げた家臣に与えて人心を掌握し、強い主従関係を築いていたのです。
土地には限りがあるのであげ続けることはできない・・・その代わりに茶道具を・・・!!と、信長は思っていたのです。
手柄を立てたものに、茶会を開く権利を与える・・・「茶湯御政道」を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、茶室が政治の場となっていきました。

そのやり方を、秀吉は継承したのです。

さらに、秀吉は利休の情報力を必要としていました。
堺の商人には情報が詰まっていました。
貸し倉庫業の利休の下には、全国のたくさんの情報が入ってきたといいます。

利休、半年後の手紙には・・・
「秀吉公が只今山崎から大坂にうつられたため、細々とお見舞いを申し上げなければならないので、堺には申し訳ないが、われながらおかしいくらい浮き浮きした気持ちでいる」と、書いています。
そして、その秀吉の天下取りに大いに貢献していくのです。

1584年3月・・・秀吉は、敵対する織田信雄と徳川家康との同盟軍との戦に臨みます。
小牧長久手の戦いです。
この時利休は、京や堺から戦場の秀吉と書状を交換し、周りに支持を出しています。
また、秀吉が大坂城に戻ってから、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り合い、秀吉に戦況を伝えました。
右近と織部とは、茶を通じて師と仰がれていました。

利休は、茶人ネットワークを駆使し、情報集めに奔走します。
秀吉の信頼を勝ち取っていきます。
利休は、茶頭は権力者の後ろ盾が必要だと思っていたのです。
そして、地位の向上も・・・!!
まさに、運命共同体となっていきました。

1585年、秀吉が関白に就任!!
姓を豊臣と改め、本格的な政権をスタートさせます。
すると秀吉は、利休を弟・秀長と同じく側近に!!
利休64歳の時でした。

1586年4月・・・秀吉のもとに一人の武将が・・・豊後・大友宗麟です。
九州で勢力を強めてきた島津義久の侵攻に脅かされていると、秀吉に助けを求めて大坂城にやってきました。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々の事は宗易(利休)に、公儀の事は宰相(秀長)が存じておるため悪いことはないはずだ」
豊臣政権では、外交が秀長、内政は利休となっていました。
実際に大坂城で利休とあった宗麟は、その格別の権限に驚いたといいます。

利休は、どうしてそれほどまでに力を持ったのでしょうか?
そのカギを握っていたのは秀長。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を超える所領を持つ大名でした。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取仕切っていました。
そこに近づいてきた利休・・・郡山城に相当な金銭が蓄えられており、そのお金は利休の援助だったともいわれています。
秀長と親密な関係をもって、豊臣政権の中枢に食い込んでいった利休・・・
温厚で人望のある秀長は、利休のよき理解者で、秀吉との間の緩衝材となり、利休は自分の意見を主張することが出来たのです。
もう一つ、秀長に取り入った理由は・・・??
当時、秀吉には子がおらず、跡継ぎは秀次?でしたが、まだ秀長にも可能性は残っていました。
秀長に接近したには、秀吉死後の自らの地位を確保するためだったのです。

政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を身に着けた利休・・・。
農民出身といわれる秀吉は、権威づけのために官位を利用しようと朝廷に近づきます。
1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭である利休に茶を点てさせようとしました。
しかし。。。問題が・・・利休は、一介の町人だったので、禁中に入ることが出来なかったのです。
そこで利休は考えます。
「僧侶になろう!!」
そしてこの時、天皇から授かった号が、利休居士でした。
この時、64歳!!千利休の誕生でした。
宮中に招かれた天下人・秀吉の茶頭・・・絶大な影響力を持つようになり・・・
茶器の値段は、利休がつけるとまで言われました。
茶の判断が、利休の判断となっていきます。
茶席で利休のお眼鏡にかなうかどうか・・・それが、武将たちの出世にも影響したといいます。

おまけに、茶会=今の料亭のような場所になっていきます。
利休は常に政治の裏工作を知っていた・・・ということになっていきます。
利休の力、恐るべし!!

京都にある北野天満宮・・・1587年10月1日、ここで秀吉主宰の「北野大茶湯」がされることとなります。
茶会開催に先立ち、京都・奈良・堺などでは・・・
「10月1日から10日間の日程で、北野社で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問」
この時、身分の隔てなく平等に参加を許したのは・・・6月に九州平定が行われたので、武士や公家だけの支配者階級だけではなく、一般庶民まで秀吉によって平和になったことを広く知らしめるためでした。

秀吉が天下人であることを示す大事なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す書状を書き・・・茶会成功に力を注ぎます。
利休の取仕切った北野大茶会の全貌とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂から運ばれます。
さらに、800ともいわれる茶席がたち、1000人を超える人が訪れたといいます。

大成功を収めた大茶湯・・・豊臣政権の安定を印象付けます。
その立役者・利休を株をあげます。

寵愛された利休・・・どうして秀吉の逆鱗に触れたのでしょうか?
1591年2月13日・・・利休は秀吉から、突然京を出て、堺で謹慎せよと命じられます。
北政所が利休に密使を遣わします。
「関白様によく謝罪をするように!!」
しかし、利休は拒みます。
そして・・・淀川を渡り堺に帰ってしまいました。
どうして頭を下げに来ないのか・・・??秀吉は怒り狂います。
2月26日・・・京へ戻るよう利休に命じます。
3000もの上杉の軍勢に利休の屋敷を囲ませ逃げないようにさせます。
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉の言い分は二つ・・・

一つは一体の木像でした。
京都・大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺です。
北野大茶湯ののち・・・利休は自費で山門を寄進します。
その壮麗なたたずまいから、当時の利休の財力が伺えます。
この利休の寄進に感謝した大徳寺はお礼に、門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし・・・その木像が問題となります。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れます。
「門をくぐるたびに、利休の足の下をくぐれというのか!!」
これは調べれば、利休がやったことではないとすぐにわかるので、切腹の口実に過ぎないと思われます。

もう一つは、利休の着服。
利休は、当時、自らが制作した茶器を売って、莫大な利益を得ていました。
秀吉側はこれを不正行為としたのです。
無価値なものを高値で取引し、唐物の茶器と交換するなど・・・相場が崩れてしまいます。
しかし、利休が天下人の茶頭を利用して高値で売っていたのではなく、利休の茶道具の素晴らしさが人に認められた結果でした。

どちらも表向きの理由と考えられます。
その真相・・・本当の要因は・・・??

①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは、大陸進出!!
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり以前から考えられていたようです。
その朝鮮出兵に反対したために秀吉の怒りを買ったのでは??
史料は残っていません。が、堺商人の利休としては、博多の商人が潤うのは・・・許しがたかったのかも・・・??

②秀長の死
1591年1月・・・利休の絶大な支持者だった秀長がこの世を去ります。
これによって秀長と利休による政権システムが崩壊し、反利休勢力が・・・!!
石田三成を筆頭とする五奉行です。
太閤検地をし、外様大名たちにも大きな影響力をもっていた三成が、政権を担うようになっていきます。
三成としては、利休は煙たかったかもしれませんが・・・バックには秀吉がついていたでしょう。
もし、秀長が死んでいなければ、利休の切腹はなかったかもしれません。

③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となった60歳を過ぎた頃から、茶の湯の革新に取り組みます。
それまで大名たちがありがたがっていた高価な唐物ではなく、近くにある雑器に美を見出していきます。
”利休好み”の茶器を生んで、”侘び茶”を大成させていきます。
これに対し、秀吉は”派手好み”という趣味の違い・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計で、僅か三畳には利休の詫びの精神が盛り込まれていたといいます。
問題だったのは趣味の違いでなく・・・躙り口にありました。
誰もが身をかがめ、頭を下げて入らなければなりません。
もちろん、武士は刀が邪魔になるので、外に置いておかなければなりません。
利休は小さな脇差でも外に置いておかせたといいます。
”茶室の中では誰もが平等”僅か二畳の中でひざを突き合わせ侘茶の精神を作る舞台装置だと考えていました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
二人の間に大きな溝が出来たのは、1590年の小田原討伐が終わったころからでした。
秀吉の考えが変わったのです。
身分制度を確立しようとしていたようです。
4年前の北野大茶会では、身分を問わずと言っていたのに・・・!!

利休の茶席での平等は、秀吉にはなかったという事でしょうか??
下剋上を凍結させるために、士農工商を確立させようとした・・・つまり、平等を謳う利休が邪魔になってきたのでした。

堺の商人上がりの茶人たちも没落していきます。
これは、堺の商人たちの必要性が無くなってきたことを示していました。
利休も同じ運命・・・??
秀吉の新しい社会秩序に最も目障りだったのが、利休だったのです。

遂にその日が訪れます。
2月28日・・・切腹を見届けに来た武士たちと最後の茶の湯を楽しみ、介錯人を願った弟子に・・・
「すぐには解釈するな、手を挙げたときに首を打て!!」
表では雷鳴がとどろいていました。

利休は腹を十文字に切ると、裂いた腹からはらわたを引き出し、そこでようやく首を打たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔が常識だった・・・しかし、大政所、北政所がとりなして、切腹となりました。
秀吉は持ち込まれた利休の首を見ることもせず・・・
京の橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると、あの山門の木像の足で踏ませるようにして晒しものにしたといいます。

あまりにもひどい仕打ち・・・そこまでしなければならなかったのか・・・??
しかし、この後秀吉は大政所に手紙を書いています。
「昨日、利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
さらに4年後には、利休の子孫に千家の再興を許可しています。
利休の処罰を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、政治家でもあった利休・・・70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた侘びの美は、日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。



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日本の文化に革命を起こしたのは古田織部。
”へうげもの”と呼ばれ、一世を風靡しました。
天下を目指す信長、秀吉、家康に仕えます。

織部が人生最大の選択をしたのは・・・大坂の陣の直前でした。

古田織部は、岐阜県美濃国山口城主の子として生まれました。
濃尾平野の広がる・・・戦国時代には、天下をめざし武将たちが闘っていた場所で、代々織田家に仕えていました。
織部は、桶狭間の戦いで勢いに乗る信長の直属の家臣団に加えられました。
信長が天下統一をめざし、中国を攻略しようとしていた頃・・・腹心・荒木村重が謀反を起こします。
ここで信長は、荒木の右腕・中川清秀のもとに織部を送り込みます。
調略のために・・・!!
織部は見事、中川を説得・・・信長の危機を救います。

武将としての能力としては、刀で手柄を立てるような記録はなく、説得工作・・・調略、事前の裏工作に長けていたようです。
そんな彼を表舞台に・・・!!
数寄と呼ばれた茶の湯です。
死と隣り合わせの生活をしている武将たちには、現実を忘れることのできる唯一の世界でした。
その流行と共に、中国伝来の貴重な茶道具は、一国に匹敵るる価値を持って行きます。
それにいち早く注目したのは信長。。。
名物狩りと呼ばれ、高価な唐物を買い集め、褒章として家臣たちに与えていきます。
家臣たちを統制し、士気を鼓舞するために、茶の湯を利用し始めたのです。=茶の湯御政道。

この茶道として頭角を現していたのが千利休。
織部の数寄の師匠となって、多大な影響を与えました。
利休は信長亡き後、秀吉のブレーンとなり、一大イベントを仕掛けていきます。
黄金の茶室を作って後押しする傍ら・・・もう一つの美・・・侘びの世界を追求し始めます。

利休に傾倒していた織部は、ここで数寄の才能を発揮していきます。
侘びとは全く違うもの・・・

yaburebukuro
織部愛用の茶道具・・・「水差し・破袋」
ここに、強く反映されています。
”大きなひび割れも、一種の趣・・・”
傷のない茶碗も、一旦割ってつなぎ合わせる・・・「十文字」。。。
ゆがんだ茶碗・・・
ひょうきんな織部の美意識は、新しい流行となっていきます。
完全な茶碗は物足りないと嫌い、新しい美を追求していきます。

1591年・・・天下人となった秀吉が、独自の美を追求する利休と対立し・・・利休切腹。
命乞いをすることもなく死への旅路に向かう利休・・・

織部は、細川忠行と共に利休を見送りました。
織部は利休の死後、秀吉に取り立てられていきます。
秀吉のお伽衆に抜擢、”数寄の和尚”に任命され、才能を発揮していきます。

織部焼き・・・今までとはまったっく違う斬新なデザインと絵付け・・・
日常的な食器まで流行っていたようです。
傾奇者が出てきていたこの時代、今までの概念をぶち破ろうよいう意識が高まってきていました。
織部の数寄はその時代に合っていたようです。
慶長時代に生きた織部は、慶長の息吹がエネルギーの原点となっていたようです。
常に面白くなければ・・・!!これまでにない画期的なものを・・・!!

ひょうげを武器に新しい価値観をもたらした織部は、数寄の天下人となっていきます。
織部による美の革新・・・
東北の雄・伊達政宗、豊臣家重臣・浅野長政、信長の実弟・織田有楽、豊臣秀頼、毛利秀元、黒田如水・・・茶会を通じて、全国の武将たちとのネットワークが広がっていきます。

そのネットワークに目をつけたのが天下を狙う徳川家康です。
関ヶ原の戦いを前に、根回しをしていたのでした。

常陸の佐竹義宣は、石田三成と親しくその動向に注意を払う必要がありました。
織部を佐竹のもとに送り込み・・・茶の湯で織部と師弟関係にあった佐竹は、師の説得を受け入れて家康に人質を差し出すのです。
こうして家康は、織部を使って説得に成功し・・・関ヶ原に勝利していきます。
家康自身が数寄にのめり込むことはありませんでしたが、その力を十分に知っていたのです。

豊臣から徳川へ・・・時代が大きく動きます。
江戸幕府をひらいた家康は、その基礎を盤石なものにしていくために、織部を利用していきます。
織部は、秀忠の茶の湯の指南役となり、秀忠と諸大名との茶会を仕切って。。。
徳川政権の内部へと入り込んでいく織部・・・確固たる地位を築き上げていきます。
数寄の道に生きたい・・・しかし、あまりに忙しく・・・それもできなくなってきました。

1611年、家康は秀忠を江戸に置いたまま、京都・二条城を拠点に豊臣家弱体に進んでいきます。
二条城に諸大名を集め・・・誓詞を書かせたのです。
”反逆の企てあるべからず”と、幕府の命令に背かないように・・・!!
豊臣家と徳川家の衝突は、もう避けられなくなっていました。

織部はこの頃、息子・九郎八を豊臣秀頼の小姓として仕えさせていました。
身の安定のために徳川につくか?豊臣に尽くすのか?
織部は70歳となっていました。

①徳川方につくか??
生き残れるものの、自分のやりたい数寄は出来ない・・・!!

②豊臣方につくか??
もともと抜擢してくれたのは秀吉。。。
おまけに秀頼の小姓は息子。。。
大恩に報いる道ではないのか・・・??

aooribe織部の屋敷から発掘された「青織部角皿」。
これには、豊臣への思い・・・丁寧な筆使いで桐の文様が書かれていました。

織部はこの皿に、豊臣家の繁栄を願っていたのでしょうか??

③和平交渉策
当時大坂城には、織田有楽、片桐且元ら数寄を通じて交流を深める重臣たちがいました。

そして、秀頼の妻は秀忠の娘。。。
人間関係を生かすという策です。

両家による天下・・・新しい世界を作る・・・??


1612年8月、織部は江戸城に赴きます。
二代将軍・秀忠との接見に臨みます。
そこに伴ったのは、数寄の盟友・片桐且元でした。

片桐は、秀頼の守役のひとりで、豊臣家の重臣。徳川とのパイプ役を担っていました。
第三の道・和平交渉をしようとしていたようです。
7か月に及び江戸に滞在し、秀忠や幕閣達と茶会を行います。
推測されるのは、和平のための根回し。。。
しかし、織部の和平交渉は挫折。
秀吉が建立した方広寺の鐘に刻まれた文字が問題・・・「国家安康」に、家康がケチをつけたのです。
方広寺鐘銘事件・・・鐘銘を起草した清韓禅師は蟄居謹慎を命じられました。

言いがかりとも取れる家康の行動に・・・
なんと、織部は、清韓禅師を茶会に招いてもてなしたのです。
茶の湯に権威や権力は関係ない・・・家康の怒りを恐れることなく、茶人としての信念を貫いたのだろうか・・・??

豊臣家は大坂城内に浪人を集め・・・徳川と対決の姿勢を見せていました。
方広寺鐘銘事件から4か月後・・・大坂の陣が勃発!!
1615年、大坂城落城!!豊臣家は滅亡します。


時を同じくして、織部は幽閉されていました。
処罰の内容は、大坂方との内通です。
大坂城落城からひと月後・・・織部は息子と共に切腹を命じられます。
事件の真相は明らかではありませんが、一切の弁明をしなかったと伝えられています。
破調の美を世に刻みつけた古田織部。
6月11日・・・その生涯を閉じたのです。


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京都にある真言宗総本山・智積院には、長谷川等伯の国宝「楓図」があります。

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作者は桃山時代の絵師・長谷川等伯です。
依頼主は、時の権力者・豊臣秀吉。。。
しかし、秀吉による等伯の抜擢は異例中の異例でした。

戦国の世に終止符が打たれようとしていた時代に、名だたる武将は権力を示すために次々と城など建造物を作ります。
内装を彩ったのが・・・襖や屏風などに描かれる障壁画。
その製作を担っていたのが、一大画家集団・狩野派でした。

狩野派は、時の権力者に接近し、その技術力と組織力で確固たる地位を築いていたのです。
権力者の仕事は100%狩野派の仕事で・・・それは・・・等伯を阻む、巨大な壁でした。

しかし、時代は新たに展開します。
秀吉が天下を握り・・・
等伯を後押ししていたのは、当時力をつけて来ていた”新仏教”。
そして、千利休に代表される莫大な資金を持つ商人たちでした。

等伯の出身は、石川県七尾市。
当時支配していたのは、守護大名・畠山氏でした。
その家臣の家に武士の子として生まれました。
しかし、染物屋をしていた長谷川家に養子として出されてしまいました。
長谷川家は、お寺に奉納する仏画を作る絵仏師としても地元では知られていました。
卓越していた技術を持っていた等伯・・・しかし、狩野派と渡り合うこともなく・・・地元で生涯を終える筈でした。

ところが・・・1571年33歳の時に、突然京都に移り住みます。
伝統ある京の画壇を支配していたのは狩野派。
当時一門を率いていたのは狩野永徳。
永徳は信長・秀吉をはじめ全国の武将、朝廷からも厚い信頼をえて・・・大規模な事業は狩野派が握っていました。

京に縁もゆかりもない等伯が頼ったのは自らも信仰していた日蓮宗のネットワークでした。
日蓮宗は、死後の救済よりも現世の幸せに重きを置いた教えで・・・町人を中心に信者を集め、京都では毎月2~3の寺院が作られるという急成長ぶりでした。

日堯上人像
日蓮宗本山・本法寺に身を寄せます。
本法寺に残された作品としては「日堯上人像」があります。

仏教絵画の注文を受けながら、腕を磨いていました。

しかし・・・それから18年・・・消息が分かりません。

「等伯画説」によると・・・

堺の人々と交流していたようです。
その仲をもったのが、当時の本法寺住職・日通上人・・・堺の豪商の出身でした。

商人の町堺・・・
繁栄を極めたその町で・・・飛躍の時を伺っていたのです。
1589年歴史の表舞台に躍り出たのは51歳のときでした。

この時代・・・色々な勢力が出てきていました。
商人の台頭によって・・・京都や堺では豪商と言われる人たちです。
自分たち好みの芸術を求めていたのです。

daitokuji

増築されることになった大徳寺の山門・天井画や柱絵を描くという大仕事を任されます。
極楽浄土を舞う姿が力強く描かれました。

大徳寺は、町衆から宮廷の貴族まで、大きな影響力を持つ寺。。。
等伯の画は、京都で一躍評判となりました。

私財を投じ、その山門増築を進めたのは、当代きっての茶人・千利休でした。
堺の出身で美の創造者・千利休は狩野派に批判的だったといいます。



良き理解者を得て、才能を開花させていく等伯。
1590年、名声をさらに高めたのが・・・御所の造営に伴って描かれる障壁画でした。
永徳率いる狩野派は、自分たちの権益を守ろうと、妨害工作に出始めます。
永徳と等伯とではその位には天と地との差がありました。
永徳は力づくで等伯の進出を阻止します。

しかし・・・同年、狩野永徳死去。。。
カリスマの死によって狩野派は、混乱に陥りました。

遂に等伯は・・・天下人豊臣秀吉からの依頼を受けます。
それは・・・楓図を描く・・・秀吉の息子の菩提寺に、95枚の襖絵を描くという一大事業でした。
秀吉は、政権が交代したことを絵によって示そうと考えていたようです。
なので、狩野派と違った絵を使う必要があったのです。

1591年秀吉の長男・鶴松が他界・・・
秀吉はその菩提を弔う寺・・・祥雲寺を建設し、障壁画を等伯に依頼しました。
1200平方メートルの巨大な建物に・・・95枚の障壁画を描かなければなりません。
狩野派が請け負っていい大仕事。。。
当時の長谷川派は少人数・・・なのに、今までにない質と量の仕事だったのです。
この頃・・・千利休は秀吉に切腹を命じられています。

秀吉に気に入られなけれな・・・命がかかっている??
命がけの仕事だったのです。
1593年障壁画を完成させます。
「楓図」の対となるのは「桜図」。。。等伯・久蔵親子の作品です。

新参者の一大プロジェクト・・・これを通じて新しい絵画表現を開拓した等伯。
等伯は楓図で、狩野派にもマネできない表現をしました。
楓図は細かくカラフル・・・狩野派を抜いた色彩で華やかさ、豪華さが表現されていました。

しかし、突如不幸が訪れます。
逸材に成長していた息子久蔵が26歳の若さで死去・・・。
そして・・・5年後には後ろ盾となっていた豊臣秀吉が死去。
跡継ぎとパトロンを失った等伯。。。
長谷川派発展のために???

butunegahannzu等伯が活路を見出したのが新規開拓策でした。
本法寺に収められている「仏涅槃図」。
61歳の等伯は、この巨大な涅槃像で人々の度肝を抜きます。


商品価値を上げるための、ブランディング戦略です。


そしてこの仏涅槃像をそのまま奉納するのではなく、宮中でお披露目し・・・
そのことによって、画に格をつけたのです。

新規顧客層の開拓に乗り出します。

雪舟というブランドを取り入れて、町衆を味方につける・・・

その戦略は成功しましたが・・・


1610年長谷川等伯死去によって、長谷川一派を取り巻く環境が変わってしまいます。
狩野派・・・は、江戸時代に入っても、御用絵師の座は譲らず、永徳の孫・狩野探幽は、永徳以来の天才と呼ばれ、多くの障壁画を残しています。

御用絵師・探幽は、鑑定も行っており、多くの作品が持ち込まれます。
等伯の作品を周文の作品と鑑定したり・・・
等伯を美術史から抹殺しようとしました。
つまり、等伯が亡くなった後も、等伯の存在感が狩野派を脅かしていたのです。

等伯が再評価されるのは、昭和に入ってからです。
「楓図」さえも、狩野永徳の作と言われていましたが、画風や構図の研究で、等伯の作であると証明されました。
歴史から消されていた等伯が再び脚光を浴びます。
明らかになってきたのは、多彩な画風に挑戦した等伯の天才ぶりと後世に与えた影響でした。

多くの苦難を乗り越えた等伯の足跡は、その作品と共に語り継がれていきます。

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