日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:南朝

室町幕府将軍列伝

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今、室町時代がホットです。
応仁の乱に匹敵するの戦乱が観応の擾乱です。
室町幕府草創期・・・足利尊氏VS足利直義の未曽有の戦乱・・・兄弟げんかです。
今後の幕府の在り方をめぐり、対立する兄弟・・・。
最後に勝者となるためには・・・??

発端は・・・1335年、京に激震が走りました。
時の権力者・後醍醐天皇の元に、共に鎌倉幕府を滅ぼした有力武将・足利尊氏に関する驚くべき知らせが・・・。
「建武2年8月足利尊氏袖判下文」・・・その文書には・・・京の後醍醐天皇に図らずに、独断で領地を与えています。
恩賞の給付は、天皇の専権事項です。
後醍醐天皇は11月、激怒して討伐軍を差し向けます。
尊氏は天皇の攻勢を前に九州へ落ち延びたものの、翌年巻き返します。
1336年12月後醍醐天皇は吉野に南朝を樹立。
50以上年に及ぶ南北朝動乱が幕を明けました。

一方尊氏は、京都を抑え室町幕府を創設。
しかし、征夷大将軍・尊氏の幕府での尊氏の権限は限定的なものでした。
当時の歴史書「梅松論」には・・・
尊氏は弟の直義に政務を譲り、以降口出しすることはなかったと・・・。
尊氏の二つ違いの弟・直義は、足利家中心の武家政権の樹立を主導した人物です。
二人が車の両輪のように役割分担することによって動き出した室町幕府。
尊氏は、軍事指揮権と恩賞充行権を担当し、弟・直義は、裁判などの政務全般を司っていました。
しかし、この権限は、訴訟部分で対立することに・・・。

寺社に寄進した所領は寺社が永久に持つべきと考える直義。
寄進した後に武士に温床として出されても、寺社の寄進を優先しました。
寺社本所領、貴族の荘園の保護が特徴です。
直義は、既存勢力の寺社や貴族の権力を守ることで、秩序回復を図ります。

しかし、命を懸けて戦ったのに・・・と、武士の不満が・・・。
その空気を捕らえ、恩賞給付を進めた人物が、足利家の執事・高師直です。
師直は、幕府のために働いた武士に恩賞で報いることで、求心力を高めることを目指します。
直義にとってみれば、武士の権利を突出して強化することは目障りでした。
二人の緊張関係が続きます。

1348年1月・・・事態は大きく動きます。
南朝・楠木正行の挙兵!!
幕府軍を相次いで破り、軌道に乗り始めた幕府は大いに揺らぎます。
四条畷の戦いで、5か月に及ぶ戦いで正行を師直が討ち取りました。
さらに、師直は、南朝の本拠地・吉野に進軍!!
御所などをことごとく焼き払いました。
その権勢はさらに強くなります。
このままでは、自分の権力の座が危うい・・・直義は窮地へ追い込まれていきます。

危機感を覚えた直義に接近したのは師直に恨みを抱く僧でした。
この僧は師直の行状について・・・讒言します。

「師直は、恩賞地が狭いと文句を言ってきた武士に、周辺の寺社の領地を侵略することを勧めた・・・」

直義はこの讒言に乗り、自らの屋敷に師直を招き・・・
1349年閏6月、忠吉による師直暗殺計画・・・プレ観応の擾乱でした。
師直は密告でこれを知り、すんでのところで暗殺は回避されます。
一方これを知った直義は、師直の報復に備え、邸の周りを固めます。
一触即発の事態に、尊氏は・・・このまま放置すれば、国を二つに分けた争乱になるかもしれない・・・と。
苦渋の裁定をします。
師直を解任し、直義についたのです。
師直は・・・尊氏と直義の籠る屋敷を5万もの大軍で囲みます。
1349年8月、師直の前代未聞の軍事クーデターでした。
要求は・・・??
①直義は政務を引退すること
②後釜の政務担当には尊氏の息子・義詮を据えること。
尊氏は、この要求を承認します。
関東の統治に当たっていた義詮は・・・
10月に上京し、直義邸はい、政務をとることとなりました。
さらに・・・直義側の勢力を削ぎ始めます。
直義の養子・足利直冬・・・武勇に優れていた直義の右腕を、兵を差し向け、九州へ追いやります。
直義は、政務からの隠退をさせられた上に、出家をさせられます。
ここに及んで直義は選択に迫られます。

このまま義詮が政治をし、師直が支える・・・足利政権による武家政権樹立は私にとっても念願なので、政界を引退する??
しかし、朗報は南からもたらされます。
九州へ上陸した直冬が地元の侍と立ち上がり、師直派を次々と撃破!!
京では今にも直冬が攻め上がってくると噂に・・・!!

不満の者を集めて挙兵する??
師直さえ追い落とせば・・・!!

1350年10月26日、直義はついに挙兵!!
京を脱出します。
骨肉の争い・・・観応の擾乱の始まりでした。
師直討伐を挙げる直義の檄に、各地の武士が続々と集まってきました。
中には、尊氏派の重臣もいたとか・・・。

師直と尊氏は、直義を無視して・・・10月28日、尊氏・師直軍、直冬討伐に出陣!!
しかし、従ったのは僅か500騎ほど。
形勢は完全に直義に傾いていました。
師直に対する不満が・・・恩賞に対して全員が満足するのは不可能でした。
努力が思うほど報われていないと思った武士が、直義に着いたのです。

直義側の武将たちは、各地で次々と師直派を打ち破ります。
そして形勢が有利となった1351年2月打出浜の戦いで直接対決!!
尊氏軍500騎のうち、本陣に帰ってきたのは皆無。
思わぬ惨敗に尊氏は講和を決断する。
第一幕は、直義の大勝利に終わりました。

さらに尊氏にとって予想外だったのが・・・
休戦協定が結ばれた後、武士たちが師直を襲撃し、殺害してしまいました。
敗者となり、側近まで失った尊氏・・・窮地に陥った尊氏どうする・・・??

出家する??
俗世の権力闘争から逃れたいものの、幕府の行く末が気になる・・・
それとも頼りない息子のためにも権力を保持する??

1351年3月2日、尊氏・直義は講和会談。
戦いに敗れ、階段に臨んだ尊氏は・・・
「わしにしたがって戦った武士に恩賞を与えることを最優先にすべきである」
敗者に似合わぬ、恐ろしく強気な言葉です。
恩賞のことに対する不満に気付いたのです。
直義も、師直さえ排除してしまえば依存はなかったのです。
尊氏の要求通りとなります。

尊氏の選択は、権力の保持でした。
将軍としての恩賞を与えるという役割を今後とも続けるということでした。
情乱前後の守護勢力図は・・・直義派の方が力を持っていましたが・・・
後は直義派は増えていません。
命を懸けて戦ったのに・・・その武士の不満が、直義から離れていきます。
さらに尊氏の嫡子・義詮の動きも直義の権力を脅かします。
義詮は、「御前沙汰」という新しい裁判制度を発足させます。
直義が管轄していた所領関係の裁判を、義詮が行うというもので、その手法は、直義とは違っていました。
直義の裁判は、訴えた寺社、訴えられた武士双方の主張を聞いたうえで、文書に基づいて勝訴を決めていました。
しかし、義詮の裁判は、訴えた寺社に文書があれば、武士側の釈明は聞かずに一方的に判決しました。
裁判はスピード化され、寺社や貴族には大いに歓迎されました。
一方武士の不満は、尊氏が恩賞を手厚く与え、解消します。

直義は孤立している・・・

最早武力に訴えるしかなく・・・
1351年7月30日、直義、再び京を脱出し挙兵!!
観応の擾乱の第二幕です。
味方の本拠地・北陸を拠点に、尊氏と戦いながら鎌倉で関東の武士を糾合します。
尊氏は、3000の兵で薩埵山に布陣。
直義は、これを1万を越える兵力で包囲します。
兄弟はついに雌雄を決することに・・・!!

命運を決したのは、直義が最後に頼ろうとした関東の武士・・・
下野の武士団が尊氏側について挙兵!!
直義軍に襲い掛かります。
これによって、直義軍の包囲網は崩壊!!

尊氏に降伏した直義は、1352年2月26日、幽閉先の鎌倉で死去しました。
享年46歳。
日本全土を巻き込んだ骨肉の争い・・・観応の擾乱は尊氏の勝利により集結しました。
室町幕府はすべてが恩賞化され、全国政権として確立し、求心力を高めていきます。
その一方、各地の守護に実力を蓄えさせたことは、来るべき戦乱の世への端緒ともなったのです。

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神奈川県藤沢市にある清浄光寺には・・・
異形と呼ばれた天皇の肖像画があります。
頭上に中国皇帝の冠、両手には密教の法具、袈裟を身に着けています。
このような天皇の肖像は全く存在しません。

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この天皇こそ、後醍醐天皇です。

これは、後醍醐天皇が崩御されてから35日目の抱擁の際に開眼されました。
後醍醐天皇が生きている時の姿・・・そのものであると言っていいといえます。




1333年、後醍醐天皇は、鎌倉幕府を打倒し、足利尊氏、楠木正成を従えて、天皇中心の政治・・・建武の新政を成し遂げました。

”朕が新儀は、未来の先例たるべし”

わずか3年で終わった建武の新政・・・世界最先端の新しい中国の政治システムを日本に取り入れようとしていたことが解ってきました。

古の世に・・・天皇中心の国造りを推し進めた聖徳太子・・・後醍醐天皇の理想は、この天皇中心の国造りを推し進めることでしたが・・・
それを妨げていたのは・・・150年続く鎌倉幕府。
武士が軍事力を元に朝廷と同じような権力を持っていました。

当時の鎌倉幕府執権は北条高時。
闘犬や田楽にうつつをぬかし、政務を顧みない毎日を送っていました。
当時、朝廷は、この幕府の証人が無ければ、皇位継承もままならない状態でした。

後醍醐天皇は・・・鎌倉幕府の事を・・・
「関東は戎夷なり 天下管領然るべからず」
と評しています。

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1331年、ついに後醍醐天皇は、討幕の狼煙をあげます。
楠木正成・名和長年などの新興勢力がつきます。
足利尊氏、新田義貞などの鎌倉幕府に不満を抱いていた有力武士たちも参加していきます。
1333年・・・鎌倉幕府の打倒に成功します。
天皇中心の政治を確立します。これを建武の新政といいます。

”今後、綸旨のないままに土地の権利を主張するものがいれば、勅断(天皇の裁断)によってこれを捕えてよい”

綸旨とは・・・天皇の意志を直接伝える文書の事で・・・
後醍醐天皇は、幕府が行ってきた土地の管理を天皇が直接行うとしたのです。
このような綸旨は、武士の恩賞や税の催促にまでおよび・・・天皇の絶対化を成そうとしていたのです。


朝廷内の組織改革にも取り組みます。
これまでの政治体制は・・・世襲の公家が・・・太政官・中央八省・・・行ってきました。
しかし、天皇は、直属機関を設置します。
恩賞方・武者所・記録所・雑訴決断所・・・討幕に功績をあげた武士を登用するという異例の人事を行います。
河内の一豪族だった楠木正成を抜擢・・・要職に就け、摂津・河内を与えます。

”官銭を造り、須く天下に頒つべし”
10世紀以降途絶えていた通貨を作らせたのです。

中国では、皇帝が度量衡をすべて統一して制定するという考え方がありました。
これは、世界最先端のシステムで、日本でもそれを取り入れようとしていたのです。
当時、中国はモンゴルの元・・・
貨幣の鋳造によって東アジアの経済を活性化させ、皇帝による専制政治を盤石化していました。
さらに・・・紙幣まで流通させていたのです。
後醍醐天皇も、日本初の貨幣を作ろうと考えていたようですが・・・
天皇中心のこの政治は、混乱を招きます。
土地を安堵してもらおうという綸旨を求めて、全国の武士が天皇の元へ殺到します。
政務に滞りが・・・安堵しても後から没収ということも・・・。
そんな中・・・落書が・・・

「このごろ都にはやる物
     夜討 強盗 謀綸旨」

都の混乱は、頂点に達していました。

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そして・・・武士の期待を一身に集めていたのが・・・足利尊氏。
幕府に於いて、北条氏に次いで高い家格だったから・・・
鎌倉にいた尊氏は・・・武士たちの不安を取り除くべく、天皇の許可なく土地を恩賞として与えはじめました。

都でこれを伝え聞いた後醍醐天皇は・・・”逆鱗!!”


1335年11月・・・遂に後醍醐天皇VS 足利尊氏。
最初は負けていた後醍醐天皇も、楠木正成たちの活躍によって都を奪還します。
足利軍は、九州にまで逃げ落ちます。が・・・その4か月後、九州で軍勢を立て直した足利尊氏が攻め上ってきました。
動揺した後醍醐天皇!!どうする??

京を一時撤退して京で兵糧攻めにする??
当時の戦いでは、遠征・長期戦・大規模戦の増加によって「食料の確保」が最大の課題となっていました。
つまり、兵糧攻めで敵を弱らせるのが、新しい戦い方になってきていました。
楠木正成は、この兵糧攻めによって足利軍を壊滅させようとしていました。

一戦も交えないまま京を逃れてもいいのか??
絶対的な天皇を否定するのか??
迎撃する??
その頃、足利尊氏は、九州に落ちのびる間にも援軍を催促していました。
院宣・・・後醍醐天皇の敵対する光厳上皇の権威を持ちだして、それを大義名分としたのです。
九州を味方につけていく尊氏。。。

和睦する??

どうする??後醍醐天皇??

1336年5月25日・・・
兵庫・湊川に陣を張った後醍醐天皇の軍勢・・・しかし、そこに現れた足利軍・・・海上には大船団が・・・陸上には雲霞のような軍勢が現れたのです。
どうして尊氏はこれだけたくさんの軍勢を集めることができたのでしょうか??
尊氏は、院宣に加え、武士たちを結集させる策・・・
後醍醐天皇に没収された所領の返す約束をしていたのです。
武士が最も望んだものは・・・土地の安堵。。。
それを約束することで、加勢した兵たちの士気を高め。。。
これによって後醍醐天皇の軍勢は・・・壮絶なまでの戦いをすることになり・・・尊氏の大勝利に終わるのです。

敗戦の報を受けた後醍醐天皇は、比叡山へ逃亡!!
京はあっけなく尊氏の手に落ちるのです。
そして尊氏は、光厳上皇の弟・光明天皇を即位させ・・・室町幕府を開くのです。

天皇を追われた後醍醐天皇は・・・足利軍に捕えられ・・・
京で幽閉されることになるのです。

しかし、皇位を奪われた後醍醐天皇の戦いは終わることはありませんでした。
1336年12月・・・幽閉されていた公家の邸宅から、女装して脱出!!
向ったのは・・・現在の奈良県吉野山。
この地で、後醍醐天皇は新たな朝廷を立ち上げ、ここに・・・南北朝の動乱が始まったのです。

再起を図るために・・・新しい軍勢を獲得するために、皇子たちを各地に派遣、地方から火の手をあげようとしますが・・・。
皇子たち・・・新田義貞、北畠顕家・・・信頼していた家臣たちが次々と破れていきます。
後醍醐天皇自身も病に・・・
1339年8月16日、後醍醐天皇崩御。

「太平記」の後醍醐天皇は・・・右手に剣・・・死の間際まで戦うことを信念としていました。
吉野山にある後醍醐天皇の陵墓・・・歴代天皇の陵墓のほとんどが南向きなのに対し、後醍醐天皇の陵墓は、都のある北を向いています。
死の間際・・・後醍醐天皇が残した言葉・・・

「玉骨は たとひ南山(吉野)の苔に埋もるとも 魂魄は常に 北闕(京)の天を望まん」

天皇中心の政治を求めて、始終戦い続けた後醍醐天皇は、後の世に大きな影響を与えていくことになるのです。

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