最後の幕臣 小栗上野介【電子書籍】[ 星亮一 ]

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1868年4月4日、江戸城無血開城・・・
およそ260年続いた江戸幕府が終わりをつげ、江戸城が新政府軍に明け渡されました。
この時、江戸城の金蔵を開けた新政府軍は驚愕!!
金蔵にあるはずの幕府の御用金360万両が無くなっていたのです。
その金を盗み埋めたのでは?と疑われたのが、小栗上野介忠順でした。
本当に隠したのでしょうか?そして、その目的とは・・・??

東京神田駿河台・・・小栗上野介は、1827年に生まれます。
小栗家は、代々徳川家に仕える旗本で、譜代の中でも高い2500石。
小栗は生まれたときから出世の道が約束されたエリートでした。
9歳で、名門と言われた私塾「見山楼」に入門します。
TOPの成績を修めるなど、才覚を発揮!!
武術にも長けて、将軍のまえで弓を披露したときにはすべて大的に的中させ、褒美を賜わったといいます。
文武両道で勤勉だった小栗は、17歳で江戸城に初登城。
21歳で御書院番、27歳で進物番出役、13代将軍徳川家定に仕えます。
スピード出世を遂げていく上野介。。。

ペリー来航によって開国した日本は、
1858年6月日米修好通商条約締結。
その条約批准のために、遣米使節団が結成されます。
小栗は、大老井伊直弼からこの使節団の目付け役を任されました。
そして、1560年、小栗はアメリカ軍官ポーハタン号で出航。
この時、護衛艦として随行したのが咸臨丸です。
その館長を務めていたのは、勝海舟でした。
出航からおよそ2か月後、アメリカに到着!!
この時小栗は、条約の批准の他に、金と銀の交換比率の見直しという重責を担っていました。
小栗はその手腕を発揮!!
日米修好通商条約で定められた交換比率は、アメリカに有利なものでした。
当時はアメリカ国内では金1枚に対し銀15枚!!
日本に銀15枚を持って行くと金3枚と交換できるようになっていたのです。
少ない銀で金が手に入ると、海外に日本の金が流出し、経済の混乱が生じていました。
その状況を打開する為に・・・
小栗はアメリカに日米の銀貨などの分析を要求します。
が・・・時間を要するので、と拒否されます。
それでも説得する小栗!!
小栗の粘りの結果、分析することを約束してくれました。
そんな小栗は、明らかにシャープな男として、アメリカの新聞で取り上げられました。
さらに小栗は、アメリカで様々な場所を視察し、見識を深めていきます。
ワシントンで海軍の造船所、そして鉄製の螺子を持ち帰りました。

日本近代化実現のために奔走することとなります。
帰国後、小栗は200石加増され、2700石となり、外国奉行に就任します。
幕府の軍事力強化のために、小栗はフランスから銀600万ドルと軍艦の借り受けを検討!!
そして、同士と信じていた男・・・勝海舟に相談します。
しかし、その話を聞いた勝は・・・
「小栗は、日本の国土を担保にフランスから借金をしようとしている。
 国を売るようなこの計画、許し難し。」
と、幕閣たちに報告し、小栗を批判します。

小栗が国を担保にしようとしたというのは事実無根。
反対する為の勝のハッタリでした。
アメリカに渡航以来、勝は小栗に強いライバル心を燃やしていました。
というのも、小栗が任務を終えた後、4か月かけて日本人初の世界一周をして、見聞をひろめていたのに対し、勝はアメリカ西海岸までの護衛を果たすとその周辺を視察しただけで帰国を命じられていたのです。
小栗との待遇の差に憤っていました。

家柄のせい??

二人の間では、日本の近代化に対する考え方も違っていました。
小栗は幕府を評価して近代化を進める。
勝は諸藩にも近代化の強力を要請したい。
ことごとく対立する二人・・・。
後に小栗について勝は、
「勢力がひとに優れて計略に冨み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士」と言っています。
内心、高く評価していたのです。
小栗は、幕府の要職を歴任・・・中でも勘定奉行は4回も・・・!!
そして1863年、37歳になった小栗は、アメリカで抱いた夢の実現に向かいます。
それは日本の近代化でした。

①造船所建設
当時幕府は軍事力強化のために、大金を出して諸外国から軍艦を購入していました。
しかし、その軍艦が故障すれば・・・外国まで持って行って修理しなければなりません。
そこで、勘定奉行だった小栗は、横須賀に造船所を作りたいと幕府に提案!!
しかし、幕閣から猛反対にあいます。

「今のままでは時間も経費も掛かります。
 どうしても、国内に製造修理の場所が必要です。
 資金は勘定奉行の私の責任で何とか工面します。」

その甲斐あって、翌年造船所建設が幕府に承認されます。
敷地面積・・・24万6000㎡、建設費総額・・・240万ドル(120億円)
世界を見てきた小栗は、これまでの慣例にとらわれることなく近代化を推し進めていきます。

②日本初の「株式会社」設立
1867年日本初の株式会社「兵庫商社」を設立。
資本の少ない日本の商人たちが、海外貿易で非利益を被っている解決策として作った商社でした。
他にも日本初のホテル「築地ホテル館」・・・郵便、電信、ガス、鉄道・・・の設立を、提唱していきました。

小栗は、幕府の近代化の最先端を走る人でした。
小栗は、幕府を中心とした日本の近代化を邁進していました。
しかし、その矢先、大政奉還・・・幕府の終焉と共に、小栗の運命も大きく変わっていきます。

1968年4月・・・新政府軍と旧幕府軍との間で合意されていた江戸城引き渡しがあり、新政府軍が江戸城に入りました。
江戸城無血開城です。
この時、新政府軍には、江戸城引き渡し以外にもう一つ目的がありました。
それは、江戸幕府の御用金でした。
まだ新しい政府ができたばかりで資金不足・・・そこで、江戸幕府の莫大な御用金を軍資金に・・・と考えていたのです。
ところが・・・向かった金蔵の中は・・・もぬけの殻でした。

「おそらく、旧幕府軍の何者かが、白を出る時密かに運び出したのだろう。」

この時、幕府が全国に保有していた御用金は総額360万両・・・。
今の3600億円と言われていました。
その大金を盗み、隠したと思われたのが小栗上野介だったのです。
小栗は何度も勘定奉行となっていたので、御用金に一番近い存在で、その状況を把握していたのでうたぐぁれたのです。

しかし、この時、小栗はもう、幕府の役人ではありませんでした。
江戸城無血開城が決まる前に、江戸を離れていたのです。
どうして・・・??
1968年1月・・・鳥羽・伏見の戦いで・・・。
新政府軍に敗れた徳川慶喜は、多くの家臣を残して江戸に逃げ帰ってしまいました。
朝敵となってしまった旧幕府側は、新政府軍と戦いを続けるのか、恭順するのか?江戸城で話し合います。
恭順するという慶喜に対し、小栗は徹底抗戦を主張・・・
奥へ下ろうとする慶喜に取りすがってしまいました。
「無礼者!!」
それから二日後の事・・・小栗は慶喜に勘定奉行などを罷免されてしまいました。

幕府要職を歴任してきた小栗・・・将軍から絶大な信頼を寄せられていたであろうに・・・罷免??
徹底抗戦を主張するのは、幕臣として当然だったでしょう。
あくまで意見を言っただけなのに・・・??
慶喜は、そもそも朝敵になりたくはありませんでした。
徹底抗戦を主張している小栗をそばに置いておくのは危険だ・・・と考えたのでしょう。

罷免されて2か月ほどたった3月・・・小栗は、江戸を引き払い、家族と数人の家臣たちと共に領地である上州権田村に移ります。
この時、大量の荷物を運ぶのを村人たちに見られています。
村にこんなうわさが・・・
「小栗さまが幕府の金を持ち出し隠したそうだ。」
「そういや、権田村にやってくるとき、千両箱や長持ちを山ほど運んで来たって聞いたぞ。」
「そりゃあほんとか?
 そんじゃあ、小栗さまのとこに小判がザックザックってことか?」
こうした噂は、権田村だけではなく近隣の村々に・・・
小栗がもっているという噂の金を狙い、村人たちが襲ってきたのです。

小栗は・・・日記「小栗日記」に記しています。
「暴徒は三方からおよそ二千人も押し寄せ、ついに宿場に放火。
 その上、発砲も始めたので、直ちに歩兵ども進めの号令を発して、暴徒を追討したところ、逃げ始めたので追い討って、ついに三人を討ち、一人は槍で村内の者が突きとめた。
 その他、歩兵たち十人も方々で打ち倒したので、とうとう暴徒は散々に逃げ始めた。」

撃退した小栗ですが、幕府の埋蔵金はあったのか??
いまだに発見されていませんが、お金を埋めたと言われる場所は、全国に数十カ所あると言われています。

徳川埋蔵金の真相とは??

①銚子沖沈没船説

徳川埋蔵金と言われる御用金は360万両・・・千両箱にして3600箱あったことになります。
幕末の混乱期・・・陸路ではなく水路で運んだのでは?というのがこの説です。
そもそも銚子は、江戸幕府ができた頃、徳川家とゆかりのある紀州の漁師が移住して作ったと言われる港でした。
銚子へは、江戸城から隅田川を経て利根川を経由するルートがあったことから、船で運んだのでは?と考えられました。
しかし、波の荒い銚子沖・・・船が沈没してしまったのでは?というものです。
未だ見つかっていません。

②群馬県赤城山説

御用金が埋められたとされる有力な説が、群馬県にある赤城山です。
その山の所有者である水野家が、代々埋蔵金の発掘調査を行ってきました。
初めて赤城山での発掘調査をしたのは明治19年1886年ですが、きっかけは江戸時代にさかのぼります。
小栗が江戸から権田村に移ることとなった小栗・・・

「実はな、公儀在職中、徳川家の再興を図るために、甲府の御用蔵より24万両を運び出し、赤城山の山中に埋めたのだ。
 徳川再興のない今となっては、山中に埋もれたままでは何とも無念。
 埋蔵金の発掘をお前に託したい・・・。」

この話が元となって、水野家はいまも発掘を行っています。

赤城山に御用金を全額隠したのではなく、全国各地に少額ずつ隠したという説もあります。

どうして小栗が・・・??
幕府には、御用金を隠そうという計画があったと言われています。

江戸時代末期・・・幕府は度重なる財政危機に陥り、破たん寸前でした。
おまけに日米修好通商条約締結後、通商が盛んになると、国内の金が安いレートで海外に流出・・・。
日本経済は混乱していました。
これに危機感を覚えたのが、大老・井伊直弼でした。

幕府再興の資金として、また、金が海外に流出するのを防ぐ手立てとして、蓄えていた御用金360万両を隠そうと画策・・・
しかし、1860年桜田門外の変で井伊直弼は暗殺・・・。
これで計画は流れた・・・??
しかし、その前に、信頼を置いている小栗に埋蔵金計画を託していた・・・。
すべて幕府の為だった・・・??

この時、御用金は360万両もなかったのでは??
生麦事件でのイギリスへの賠償金などで、幕府は財政難でした。
どのくらい残っていたのか??は詳しくはわからないのです。
その真相は、藪の中・・・。

当時、大金を持ってきたと思われていた小栗・・・。
暴徒を出した近隣の村から謝罪を受けるとこれを許し、村を良くすることに尽力していきます。

①人材育成
これからは、誰もが教育を受けられるように・・・と、私学校の構想を練ります。
「この村から、太政大臣を出す!!」と言って、自分の元で、新しい時代に対応できる若者を・・・人材育成を考えていました。
小栗についてきた優秀な若者がいたのです。

観音山で屋敷の建設を開始・・・
その家は、襖を外せば60畳の教室となり多くの人を呼べるようになっていました。
小栗は、毎日のように建設現場に・・・私学校を心待ちにしていました。

②用水路建設
観音山付近の村々は、常に水不足に悩んでいました。
雨が降らないと田植えができず、僅かな作物しか作れませんでした。
そこで小栗は、東の稲瀬沢から用水路を作ろうと測量を開始。
その用水路は、今も小高用水として大切に使われています。
しかし、小栗自身は、屋敷も用水路も完成を見ずにこの世を去ることに・・・。

幕府の重臣だった小栗が権田村にやってきて2か月たった頃・・・
小栗は村の改革を行いながら、平穏な日々を送っていました。
しかし・・・突如”小栗上野介追討令”が出されました。

「小栗上野介
 近日その領地権田村に陣屋敷など厳重に総構え しかのみならず砲台を築き
 容易ならざる企てこれあるの趣・・・
 上は天朝に対し奉り 下は主人慶喜教順の意にも相もとり候に付き・・・」

戦を企てている逆賊だと言われたのです。

4月29日、地方の治安を守るために新政府軍が任命した東山道総督府が小栗討伐に向かいます。
その舞台は、軍官の豊永貫一郎や、原保太郎らが率いる高崎藩、安中藩、吉井藩の三藩。。。
使者は小栗の元にやってきて追討令を差し出すと、

「嫌疑を正すことはできるが・・・」

すると小栗は、

「陣屋とありますが、全く尼つゆを凌ぐだけの屋敷を作るつもりです。
 決して要害になるほどの普請工事をしているわけではなく、よくご覧いただければ事情はすぐにお分かりいただけるでしょう。
 砲台を築いているという件も、その大砲皆様にお預けいたしますからそれを根拠として下され。」

そして、小栗は使者たちを建設現場に連れて行って調べさせ、大砲と小銃5丁を引き渡しました。
この時、養子・又一が人質として連れて行かれてしまいました。

この大砲は、駿河台の小栗邸にあった飾り物で・・・
新政府軍は調査の結果、小栗を「お咎めなし」と報告していました。
しかし、この報告に総督府の原らは激怒!!

「天地の間に容るべかららざる罪人でもある 
 早々に捕らえよ」

しかも、刃向かえばそのまま斬首しても良いと言い出しました。
「無実ゆえ・・・」と、小栗の助命を嘆願しますが・・・
逆らえばとり潰すと言われ、言葉を飲みます。
一方、成り行きが思わしくないと情報を得た小栗は、家臣たちの勧めもあって家族と共に村から避難します。
そこへ権田村の名主・佐藤藤七が来て涙ながらに懇願します。

「どうか殿にはお戻りいただきたい。
 もし、殿を逃がしたとなれば、権田の村民が処罰されてしまいますゆえ・・・
 お戻りになって、官軍に申し開きなされますようお願い申し上げます。」

「そうか・・・すまなかった。
 村人に迷惑をかけるつもりはない。
 覚悟はできている。」

小栗は村にに引き返しました。

閏4月5日・・・小栗は寺の本堂にいたところを捕らえられ・・・
なんの取り調べもなく刑が確定します。

慶応4年閏4月6日午前11時・・・小栗上野介・・・斬首刑。 
処刑場となった権田村の烏川の河原では、多くの村人がかたずをのんで見守っていました。
そんな中、共に処刑されることとなった家臣がたまらずこう叫びます。

「一言の取り調べもなく、殿がこんなところで最期を遂げるとは残念です。」

「この期に及んで未練がましい事を申すでない。
 おのおの未練なきように・・・。」

そうたしなめると、小栗は一粒の涙を流したといいます。
何か言い残すことはないかと問われると・・・

「何事もない・・・ただすでに母と妻は避難させたので、どうか婦女子は寛大な処分を望む。」by上野介

権田村に移り住んでからわずか2か月・・・この時42歳でした。

小栗はどうして処刑されなければならなかったのでしょうか?
慶喜に一番近い存在であったにもかかわらず、徹底抗戦を主張した後すぐに罷免され、権田村に隠居したので、怪しいと疑われたのです。
当時、関東は治安が悪く、小栗が自分の身の安全や領地を守るために武器を持ってくるのは当然のことでしたが・・・。
新政府軍にとって小栗は、切れ者であり、野放しにしておくのは危険だと思ったのです。  

無実の小栗に続いて、三人の家臣と養子で跡継ぎの又一も、悉く斬首・・・。

小栗上野介を処刑した新政府軍は、家臣たちの家財道具をすべて没収し、高崎から呼び寄せた商人に売却し、その資金を新政府軍の軍資金としました。
そして、小栗上野介は歴史の闇に葬られてしまうのです。
唯一の救いは、面識のあった会津藩士を頼って会津に逃げた母や妻がお咎めを受けなかったことでした。
この時、妻・道子は身重でした。
道子は会津で無事に娘を出産・・・クニ子と名付けました。
その後、クニ子は養子をもらい、小栗家は続いていくこととなります。

優秀過ぎたため、あらぬ噂、あらぬ嫌疑をかけられたまま罪なく処刑され、歴史の闇に葬られた小栗上野介・・・
小栗は一言にして国を亡ぼす言葉あると言っていました。

それは「なんとかなるだろう・・・」
精一杯の努力をしない生き方を嫌った小栗・・・。
日本の近代化に勤め、最後まで幕府のために力を尽くした男でした。

1915年9月・・・
小栗が建設し、海軍の工場となっていた横須賀造船所で創立50周年の祝典が行われました。
そこで総理大臣大隈重信の言葉が伝えられます。

「この造船所は、幕末に小栗上野介の尽力によってフランスが創設の業を援助することに決した」

そして、その7年後・・・1922年、小栗の胸像の除幕式が行われました。

小栗上野介の偉業が再び日の目を見たのです。



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