日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:及川古志郎

東郷茂徳 日本を危機から救った外相 (人物文庫) [ 阿部牧郎 ]

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あ~、”暑い夏”ですね・・・今回は、昭和の選択です。

平成27年に一般公開紗沙汰「皇居地下防空壕」。
平成20年8月10日、日本はここで大きな決断をしました。
「ポツダム宣言受諾の決断」です。
それは、あまりにも十十五犠牲の上の決断でした。
軍民合わせて20万人を越える死者を出した沖縄戦・・・広島、長崎に落とされた原子爆弾、9月まで続いたソ連軍の対日参戦・・・
どうして日本はもっと早く終戦を決められなかったのでしょうか?

早期降伏を阻んだのは、アメリカの条件だった無条件降伏。
敗戦後の国の形を完全に勝者にゆだねると受け取られたのです。
無条件降伏にあらざる和平・・・という懸命の努力をしていました。
起草者は東郷茂徳・・・終戦外交の中心となった外務大臣でした。
東郷の下した決断の裏には・・・??

昭和20年4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本島への上陸を開始しました。
戦局が日増しに悪化する中、4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣・・・
外務大臣は東郷茂徳・・・開戦時の外相として、戦争を止められなかったことを悔いての入閣でした。
組閣から2週間後の4月22日、新外相東郷に陸軍からある相談が持ち掛けられました。

「ソ連が対日参戦しないように外交を強化していただきたい。」

その頃、満州からは、ソ連軍増強の知らせが続々と入っていました。
本土決戦を想定し、兵力を日本国内に移動させつつあった陸軍にとって、中立国・ソ連の参戦は、断じて避けなければなりませんでした。
この申し出に東郷は・・・「軍部の希望を利用して、急速和平に導くことに決意した。」とあります。
すでに敗色濃厚なものの、和平には多くの困難が・・・
最大のハードルが、アメリカの無条件降伏です。

昭和18年1月、カサブランカ会談でルーズベルト大統領が提唱したもので、日本にとっては軍の解体や政治経済、天皇制という国体にまで連合国の意志を強要される可能性がありました。
米英との交渉をほのめかすだけで、軍の反発が・・・
2.26事件のようなクーデターにもつながりかねない・・・??
そんな状況下での対ソ交渉要請を、東郷は突破口ととらえていたのです。
5月11日、統合により時局収拾への新しい枠組みが・・・
最高戦争指導会議構成員会議・・・軍の圧力を防ぐために、参加メンバーは・・・
首相・鈴木貫太郎、外相・東郷茂徳、海軍大臣・米内光正、陸軍大臣・阿南惟幾、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・及川古志郎でした。
極秘のうちに討議が開かれました。
戦争終結が、初めて国のTOPの間で共有されました。

6月3日、駐日ソ連大使マリクへの接触を開始した東郷・・・
しかし、ソ連の返事は一向に煮え切りません。
マリクはクレムリンから訓令を受け取っていました。
「この会談の内容を、モスクワに報告するだけに止めること。
 ただし、電報ではなく、船便を使うように。」

すでにこの年の2月、ヤルタ会談にて米ソの間にソ連対日参戦の密約がなされていました。
その準備が整うまでの時間稼ぎをしようとしていたのです。
東郷も、事態を楽観していたわけではなく、
「ソ連からは、七、八分色よい返事はあるまい・・・
 ソ連以外のルートも考えねばならぬ。」と思っていたようです。

海軍少将・高木惣吉・・・米内光正海軍大臣の元、独自に終戦に関する研究に着手していました。
昭和20年3月には・・・アメリカに降伏することは、我国の資本社会主義機構の維持には有利だが、敵の軍門に下る形となり、国民的感情に忍び難い・・・と書いています。
ソ連とは、米英に対する利害は多いため接近はたやすいが、共産主義に晒され社会が不安定化する・・・
終戦から5か月も前に、高木は、米英に降伏した場合と、ソ連に仲介を頼んだ場合を緻密に考えていたのです。

第二次ぜ回大戦が終わった後の世界は、アメリカとソ連の二大勢力になる・・・それを予測し、アメリカのみへの降伏ではなく、ソ連もあっての東アジアの将来を考えていたようです。
二つの国が東アジアでせめぎあう状況で、日本は上手く戦後の復活が出来るのか・・・??
と、考えていたようです。
東郷は、高木の研究内容を高く評価し、その後の終戦外交に反映させていったようです。

ところが・・・ヨーロッパの戦況は、東郷たちの思いよりも大きく動いていました。
5月8日、ドイツ無条件降伏・・・6月には米英ソ仏による分割占領が行われていました。
ソ連大使マリクを介した日本の交渉は、遅々として進まず・・・
そんな中、東郷をさらに追いつめる状況が・・・
ベルリン近郊のポツダムで、米英ソの首脳会談が行われる・・・??
ソ連の参戦など、日本に対する決断がなされる公算が高い・・・その前に、和平の意志を伝えることが急務でした。
7月10日、東郷は高木と会見・・・
近衛特使派遣計画・・・近衛文麿を特使としてソ連に派遣する・・・??
そこには東郷の別の思惑もありました。
形の上ではソ連との交渉であるものの、一転対米交渉にも代えられるようにしていたようです。
しかし・・・すでに7月7日、アメリカ代表団はポツダムに向けて出発。。。
7月12日、東郷は最後のカードを切ります。
モスクワ大使館に緊急電報を・・・!!
「ソ側に対し、戦争終結に関する大御心を伝えておくことが適当。。。」
当時の日本では、天皇陛下の意志を持ち出すことは最後・・・それ以上のことはない。。。
天皇陛下の意志を明確に書いて、その意思を体現する為に近衛が行く。。。
東郷和平工作の最高峰でした。
しかし、モスクワ対財ソ連大使・佐藤尚武によると・・・ソ連の対応は冷ややかなものでした。
ソ連代表団は、既にポツダムに出発しようとしている・・・
出発前に回答することは、事実上不可能・・・。
最早、会談前の交渉は不可能なのか・・・??東郷、絶対絶命・・・!!

昭和20年7月17日ドイツ・ポツダムで米英ソの首脳による会談・・・。
病死したルーズベルトに代わり、アメリカ代表となったトルーマンは、ルーズベルトを引き継ぎ「対日無条件降伏案」をチャーチル、スターリンに示しました。
7月20日、モスクワ発緊急電報が、東郷に重要な決断を迫ります。
「このままではアメリカの本土決戦という最悪の事態が待っている・・・
 国民すべてが戦死を遂げても、国家を救うことはできない・・・7000万の民草が枯れてしまえば、陛下おひとりの御安泰があり得るだろうか・・・??」
佐藤は、もはや対米交渉を打ち切り、米英に無条件降伏し、皇室の存続を図るのみと主張しました。
しかし、東郷はまだあきらめず・・・翌21日の電報では・・・

「対ソ交渉の目的は、無条件降伏にあらざる和平を得るためのものなのだ。
 我々は、その大御心が米英側に徹底するよう極力努力する必要がある。」by東郷

これら日本の電文を逐一傍受していたアメリカは、対日交渉の判断材料としていました。
”天皇の心からの戦争終結の意志・・・”
これらがアメリカにどう映ったのか・・・??

7月27日午前5時・・・アメリカの短波放送が、日本に対して重大な放送を流し始めました。
ポツダム宣言・・・13条からなる日本への降伏勧告です。
報告を受けた東郷は、すぐさま外務省へと向かい、幹部と共に宣言の検討に入ります。
宣言は、日本国に対し戦争終結の機会を与えることを謳い、拒否すれば、日本の国土は完全に破壊されると通告していました。
対ソ交渉に進展が見られない中これを受けるのか??東郷・・・??

第5条以降には・・・
軍国主義の駆逐、指定地域の占領、戦後の日本の領土などが連ねられており、無条件降伏の条件が書かれていました。
どうしてトルーマンは、無条件降伏から後退したのでしょう・・・??
最大の要因は、5万人近くの死傷者を出した沖縄戦にありました。
これ以上損害を出さず、戦争を終結させることはトルーマンにとって至上命題となっていました。
ヤルタ密約通りソ連が対日参戦すれば、早期に集結可能だが、それは戦後東アジアにソ連の勢力拡大というデメリットもはらんでいました。
ポツダム宣言はトルーマンにとっての妥協の産物だったのです。


しかし、武装解除、戦争犯罪人の処分を連合国が行うというのは一方的で問題がある・・・??
これでは軍は、あくまで本土決戦に固執するのは火を見るより明らか・・・
それに、どうして宣言にソ連が名を連ねていないのか・・・??
米国主導での降伏を強いられるのか・・・??
ソ連との交渉の余地は・・・??

ポツダム宣言の即時受諾か、ソ連との交渉継続か・・・??

7月27日午前11時・・・東郷、ポツダム宣言について昭和天皇に説明。

「これを拒否するような意思表示をすれば、重大な結果が起きるでしょう。
 慎重に扱ったうえで、ソ連の返答を待つことにしたいと存じます。」

東郷は、対ソ交渉継続を選んだのです。
直後に開かれた厚生委員会議では、東郷の予想通り、軍部はポツダム宣言に強く反発、拒否を示します。
しかし、鈴木と東郷の必死の説得によって宣言を保留し、対ソ交渉で事態の打開を図ることにしました。

しかし・・・28日の新聞には・・・
”政府はこの宣言を黙殺、聖戦をあくまで完遂する!!”と書かれています。
この新聞発表によって、局面が大きく動きます。
8月6日午前8時15分・・・アメリカは広島に原爆投下!!
そして、8月9日未明・・・150万を越えるソ連軍が国境を越えて満州になだれ込みました。
報告を受けた日本政府は、その日・・・8月9日の午後11時50分、御前会議を招集します。
そして・・・8月20日午前2時30分・・・昭和天皇の聖断が下りました。

日本政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するその要求を含包し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると回答したのです。

日本の運命を決めたポツダム宣言受諾。
東郷にはソ連参戦によって、アメリカの譲歩を引き出そうとしていたようで・・・
8月12日、日本の降伏受諾を受けたアメリカからの回答「バーンズ回答」には、東郷か渇望していた一文が・・・
「最終的な日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する遺志により、決定せらるべきものとす。」
日本への譲歩を嫌ったトルーマンによって、ポツダム宣言に記載されなかった条項・・・
ここに東郷は、天皇制を認めるアメリカの意志を受け取ったのです。
降伏受諾を、天皇、軍部にも、説得できる一文でした。

8月14日、ポツダム宣言の最終的な受諾を通告しました。
戦後、アメリカ主導の資本主義体制の下で、国家を再建するという基礎は固まり、国体も守られました。
ところが・・・統合の予想もしなかった事態が・・・
ソ連は、日本の降伏通告後も戦争を継続したのです。
戦争の終結は9月5日。。。満州、朝鮮半島北部、北方四島を占領したのちです。
この間、日本の戦死者は、軍・民間人を合わせて22万人と言われています。

戦後の極東軍事裁判・・・東京裁判において東郷は、20年の有罪判決を受けます。
戦争犯罪人として収監されていた巣鴨プリズン・・・後に、「時代の一面」としてまとめられた手記は、過酷な獄中生活の中で執筆されたものです。
ソ連のしたたかさを見抜けなかったことについて東郷は・・・「迂闊」という言葉で表現しています。

敗戦から5年が経過した昭和25年7月23日、東郷は病で死去・・・享年67歳でした。

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今回は、「英雄たちの選択」ではなくって「昭和の選択」第1回です。
でも、メンバーも音楽も一緒。

終戦70年・・・開かれた太平洋戦争への扉。。。

syukuga1940年9月末・・・東京の華族会館で日独伊三国同盟婦人祝賀会が開かれました。
当時陸軍大臣だった東条英機の妻・かつ子が主催したものです。


一部の人々が恐れていたことが現実となります。
日独伊三国同盟・・・イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーとの同盟に、アメリカは激しく反発します。

その1年後、日本は太平洋戦争へと踏み出しました。
しかし三国同盟締結したものの、日本は望んでいない対米戦でした。
締結直前まで、海軍は同盟反対を訴えていたのです。
突如賛成へと変わった海軍・・・その理由とは・・・??

スイス・ジュネーブ・・・かつて国際連合の本部が置かれていたこの地で、1933年日本は大きな決断をします。
1931年の満州事変をきっかけに1932年に満州国が成立・・・
これが日本の傀儡国家であるという非難を受け、国際連盟から脱退します。
yousuke日本全権を任されたのは松岡洋右・・・。
奇しくも同じ時期に国際連盟を脱退したのは、ヒトラー率いるドイツ。
領土拡大を目論見、軍備拡大を深めていたからです。
孤立する二国は急接近していきます。
1936年日本はドイツとの間に日独防共協定を結びます。

共産主義国家・ソ連を仮想敵国として結ばれたこの協定・・・翌年には、ムッソリーニ率いるイタリアが参加し三国へとなっていきます。

1938年・・・日本はドイツから提案を持ち掛けられます。
ソ連だけではなく、イギリスとフランスを仮想敵国とすることを・・・!!
軍事同盟を結びたい!!
この頃、ヨーロッパに拡大していくドイツは、オーストリアを併合。
領土拡大はイギリス・フランスとの対立となっていました。
そこでヒトラーが注目したのは、極東にある日本の存在でした。
ドイツからの持ちかけに賛成したのは陸軍大臣・板垣征四郎。
1937年から中国で日中戦争が起こっており、短期間で中国を制圧できると思っていたものの・・・
日本に権益を独占されることを危惧するイギリス(ビルマ)とフランス(仏領インドシナ)が国民政府・蒋介石に軍需物資を搬入、さらにアメリカも資金援助をし、戦いは泥沼化していました。
陸軍は・・・中国を支援する国々を、三国同盟で牽制できると思っていたのです。

主要閣僚が集まった会議で・・・板垣征四郎は、三国同盟を締結するべきだと陸軍を主張します。
これに反対するのは海軍大臣・米内光政。
米内は、アメリカやイギリスと戦争になった時に事を考え、「勝てる見込みはない」と、判断します。
反対する理由・・・そこには軍需物資の問題がありました。
海軍にとって必要不可欠な軍需物資輸入額に占めるアメリカの割合は・・・
石油:76%、鉄類:69%でした。
その大部分をアメリカに依存していたのです。
「英米が、日本に攻撃を仕掛けることはないだろうが、経済的な圧力をかけてきたらとても憂慮に耐えることができない!!」と。

もう一つ海軍が反対する理由が、ドイツからの協定案の一文でした。
「締約国の一が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合、ほかの締約国は之に対し、武力援助を行ふ義務あるものとす」
参戦義務を意味する条文で、日本がヨーロッパでの戦いに巻き込まれる恐れがあったからです。
米内とともに同盟に反対していたのは、海軍次官の山本五十六。
反対する手紙も残っています。

「勇戦奮闘 戦場の華と散らむは易し
 誰か至誠一貫俗論を排し
 斃れて後已むの難きを知らむ
 ・・・・
 此身滅すへし此志奪ふ可からす」

事実この頃、同盟反対をつらぬく海軍首脳には、暗殺の噂が絶えませんでした。

それでも志を曲げることはない・・・と、山本は覚悟を決めていたのです。
陸海とも一歩も譲らす・・・平沼騏一郎内閣では、70回以上の会議を重ねました。

そんな中・・・ヨーロッパから衝撃的なニュースが・・・!!
ドイツが・・・日本と仮想敵国としていたソ連との・・・1939年8月23日・独ソ不可侵条約締結です。
この時、ポーランド侵攻を画策していたドイツは、西の英仏、東のソ連の挟み撃ちを避けるために、ソ連との条約締結に踏み切ったのです。
日本には、事前に何も連絡はありませんでした。
平沼内閣は、もはや国際情勢に対応できない・・・??と思われ総辞職!!
”欧州の天地は複雑怪奇!!”
三国同盟の締結は・・・一旦立ち消えとなってしまいました。

1939年9月第二次世界大戦勃発!!
快進撃を続けるドイツ軍・・・翌年にはフランスを制し、西ヨーロッパを手中に収めようとしていました。
日本はイギリスさえもドイツの手に落ちると考え・・・
世論の後押しもあり、日独伊三国同盟の機運が高まります。
しかし政府は、反対派の米内光政内閣!!
そこで同盟に賛成する陸軍は・・・海軍大臣・畑俊六に辞表を出させ、代わりの大臣を出さない・・・と、策謀する
陸軍大臣不在・・・異例の事態に米内内閣はわずか半年で総辞職となります。

humimaro近衛文麿は・・・内閣発足3日前に、邸宅に閣僚候補者を集めて、今後の話し合いを持ちました。
その中に近衛自ら外務大臣に指名したのは、国際連盟脱退の時の松岡洋右でした。
松岡は、日独伊の三国にソ連を加え、日本の立場を強化してアメリカと話し合う・・・渡り合う・・・と考えていたようです。

日ソ独伊の締盟は、事変(日中戦争)解決に最後の決定力を持つ!!

四国連合交渉に・・・!!
ソ連との国境不可侵協定を結ぶべし!!
アメリカには無用の衝突を避け・・・アメリカと戦うつもりは毛頭ない!!
それが、近衛内閣の方針となりました。

同じころドイツでは・・・イギリス本土への戦いが本格化???

松岡どうする??
①同盟に賛成する??
日中戦争を終わらせるためには・・・!!
これには陸軍も大賛成ですが・・・

②同盟に反対する??
海軍は相変わらずこちらを支持!!
参戦義務の問題はどうする??
望まざる戦争に巻き込まれるかもしれない・・・!!


国民はどう思っていたのでしょうか??

対米外交は強硬に出るべきか??
強硬に出る・・・・・・・・・・・・・・62%
強硬に出るのはよくない・・・37%

1940年9月7日、ドイツから外務大臣特使ハインリヒ・スターマーがやってきました。
迎えたのは外務大臣・松岡洋右。
海軍の許可もなく・・・独自に交渉を始めました。
ヒトラーも、日本との同盟に前向きでした。
6月10日演説をしました。これまでヨーロッパでの戦争を傍観していたアメリカ・・・
アメリカ大統領・ルーズベルトが、イギリスの支援を表明したからです。

松岡とスターマー・・・
ドイツが日本に求めるのは、あらゆる手段でアメリカをけん制し、アメリカの参戦を阻止することでした。
日ソ神前につき、ドイツは正直な仲買人たるの用意あり・・・。
ドイツも四国連合に興味を持っていたのです。

一方海軍は、黙ってみていたわけではなく・・・
9月13日海軍次官が松岡のもとを訪れ、賛成はできないと迫り・・・参戦義務を外す!!と、松岡に言わせます。
海軍大臣・及川古志郎は、参戦義務がなくなった今、この選択を迫られることとなりました。

会議の場で・・・松岡ははっきりとした態度に出ないといけない!!と詰め寄り・・・
及川は、「それ以外・・・道なし!!」海軍大臣として初めて同盟に賛成の意を表しました。
15日には、海軍首脳会議が・・・
ここまで来たら仕方ない・・・賛成・・・
及川の考えが、海軍の総意となった瞬間でした。

1940年9月27日・・・ベルリンで、調印式が行われ・・・日独伊三国同盟が成立!!
大きく分けて三条からなるこの条約・・・第三条は、一方が攻撃された場合・・・三国は軍事を含むあらゆる手段で援助をするという内容でした。
参戦義務をうたっているかに見えるこの条項・・・
松岡とドイツの間では、攻撃されたかどうかは三国で協議するとなっていました。
つまり。。。参戦義務の回避をしたのです。

isorokuこの時山本五十六は・・・
「実に言語道断だ!!
 東京あたりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常にみじめな目に遭うだろう」
と言っています。

しかし、賛成に回ったことで海軍にはメリットも・・・
物資不足で全く行き詰っていた海軍の戦備は、幸か不幸かこれを機に進んだのです。
海軍は多大な予算を獲得!!

松岡の次なる構想は・・・
志を同じくする国と提携し、全世界の国家と人民に永久の平和を調約することでした。
全国各地で祝賀が行われます。


日中戦争の解決のために結んだ日独伊三国同盟・・・
しかし、海軍の恐れていた事態が・・・
アメリカがくず鉄の対日輸出を禁止!!
厳しい経済制裁を打ち出してきます。
軍需物資を求めて・・・アジア南方への進出の必要性が・・・!!

アメリカが牙をむき始めた今・・・!!
松岡洋右はモスクワにいました。
四国連合の重要性が増してきていたのです。
1941年4月13日日ソ中立条約締結!!
しかし、松岡の思惑通りに進んだのはここまででした。
2か月後の6月22日、独ソ戦勃発!!
四国連合構想が藻屑となった瞬間でした。
内閣の信用を失った松岡は、外務大臣の職を辞することとなります。
7月28日・・・資源を求めて仏領インドシナに進駐を開始する日本・・・
4日後にはアメリカの石油全面禁輸という制裁が待っていました!!

日本の石油の備蓄はわずか2年分。
軍事行動によって打開しようという考えが・・・!!
ついに日本は・・・決断・・・1941年12月8日日米開戦!!
真珠湾攻撃を指揮したのは、最後まで三国同盟に疑問を抱いていた山本五十六でした。

開戦の方を受けた松岡洋右は・・・泣きながら・・・
「三国同盟の締結は、ぼく一生の不覚だったことを今更ながら痛感する。」

三国同盟締結からわずか1年余りでなだれ込んだ太平洋戦争・・・
日本は国際情勢を読み違えた末に、悲惨な戦争へと踏み出したのです。

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