回顧七十年 (中公文庫)[本/雑誌] / 斎藤隆夫/著

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1941年12月8日太平洋戦争開戦。
日本は、連合軍との戦いに進んでいきます。
その1年前・・・帝国議会は、軍部の大きな影響下にありました。
そんな強力な権力の前に立はだちはだかった国会議員は・・・斎藤隆夫。
斎藤はこれまでも、軍部に告いできた国会議員でした。

当時、厳しく追及していたのは、日中戦争の早期解決でした。
日本は中国軍の強力な抵抗にあって戦いは泥沼化していたのです。
国家予算の3/4が軍事費に充てられ、国民の生活も疲弊していました。
多くの政治家が沈黙する中・・・斎藤隆夫は・・・??
太平洋開戦前夜の1940年・・・「反軍演説」をします。

はじまりは・・・
1936年2月26日早朝の東京で・・・陸軍の青年将校がクーデターを起こします。
二・二六事件です。
総理大臣鑑定などが襲われ、大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤實、陸軍教育総監・渡辺錠太郎の命が奪われました。
陸軍上層部に通じている者が・・・??軍部の暴挙に政界は声を失います。
その2か月後・・・5月7日に帝国議会において二・二六事件の処理について厳しく問い詰めた人物が・・・民政党代議士・斎藤隆夫でした。

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「軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。
 殊に青年軍人の思想は、きわめて純真ではございまするがまた、単純である。
 それ故に、是等の人々が政治に干渉すると云ふことは、きわめて危険性を持って居るものであります。

 この事件に関係致しました所の青年将校は、20名であるのであります。
 所が此れ以外に、より以上の軍部首脳者にして此事件に関係して居る者は一人も居ないであろうか。
 世間は確に之を疑って居るのであります。」


軍部の姿勢を正したこの演説は、粛軍演説と言われています。
陸軍大臣も、軍部の責任を認めざるを得ませんでした。
この演説は、がぜん注目され、全文が”軍部に告ぐ”として出版されました。
軍部に抗った斎藤を、国民は支持したのです。


斎藤隆夫は、但馬国出石郡の寒村に・・・明治3年に生まれます。
18歳で飛び出して・・・苦学を重ねて大学を卒業し、25歳で弁護士試験に合格しました。
31歳で衣エール大学に留学。。。憲法と政治学を学び、41歳で衆議院議員・・・農村出身の庶民の政治家となります。
地元でも大人気で・・・「出石郡立憲青年党」という支援組織も結成されます。
金なし・風采なし・親分なし・子分なしの斎藤を、青年たちが手弁当で支援します。

昭和12年・・・斎藤の粛軍演説も虚しく、軍部の政治介入が続いていました。
元老・西園寺公望は、調停に乗り出します。
軍部穏健派・宇垣一成陸軍大将を次の首相候補としました。
軍人によって軍部を抑えるために・・・!!
しかし、陸軍はこれに反対し、この内閣となると陸軍大臣は送らないと決定してしまいました。
陸軍万能の時代・・・??

そう・・・戦線は拡大し、政党政治が窮地に追い込まれていきます。
昭和12年7月・・・日中戦争勃発!!
首都・南京が陥落し、日本軍は南下、戦線は拡大していきます。
中国側の抵抗にもあい、戦いは泥沼化していきます。
戦死者の数も・・・半年で2万人を越えます。

当時の近衛内閣はこの戦いに”聖戦”のスローガンを打ち出していました。
聖戦・・・日本がアジアから欧米の植民地主義者を追放する使命を持っての戦いとしたのです。
東亜共同体を作るために・・・!!

昭和13年4月・・・国家総動員法成立!!

この法律によって、政府は議会の承認なしに、物資や労働力を動員できるようになりました。
軍事費が国家予算の3/4を占めるようになり、国民の生活が圧迫されていきます。
そして・・・斎藤隆夫のもとには、どうして沈黙しているのか?という手紙が来るようになりました。
軍部を正してほしい・・・!!

演説はするべきなのか??
右翼組織からの圧力は、日増しに強くなっていきます。
議会で軍部を追求するのは、大きな危険が伴います。

今まで戦争の早期集結を主張してきていていましたがどうする??

昭和15年元旦・・・斎藤は演説を行う決意を日記に認めています。

”議会に於て 一大質問演説をなすべし”

支援者の間では、軍部を恐れ、演説を止めさせようとする声もありました。
宇垣陸軍大将からも、身辺を心配するはがきが届きました。

2月2日、第75回帝国議会に於いて・・・
日中戦争の実態から説き始めます。
「他の事ではない、この事変を遂行するに当たりまして、過去2年有半の長きに亘ってわが国家国民が払ひたる所の絶大なる犠牲であるのであります。

 即ち、遠くは海を越えて、彼の地に転戦する所の百万、二百万の将兵諸士を初めとして、内にあっては之を後援する所の国民が払ひたる生命 自由 財産 其の他一切の犠牲は、此の壇上におきましては、如何なる人の口舌を以ってするも、其の万分の一をも尽くすことは出来ないのであります。

 此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し、曰く国民正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和。
斯の如き雲を掴むやうな文字を並べ立てて、国家百年の大計を誤るやうなことがありましたならば、これは現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。」

議場は怒号に包まれました。
この時・・・議長が書記にメモを・・・
聖戦の・・・件を削除するようにというものでした。

斎藤は続けます。

「或る有名な老政治家が演説会場に於いて、聴衆に向かって今度の戦争の目的は分らない。何のために戦争をしているのであるか自分には分らない。諸君は分って居るか。分って居るならば聴かして呉れ。というた所が、満場の聴衆一人として答へるものが無かったと云ふのである。
 此の議会を、全国民の理解を求められんことを要求するのである。」

演説後・・・2/3が削除されました。
失言・・・斎藤の除名問題にまで発展します。
しかし、国民からは、支持する手紙が800通以上届きます。

3月7日の衆議院本会議で・・・
議員・斎藤隆夫君に対し・・・議員法第96条第1項第4号により除名す。。。
衆議院議員の2/3以上に当たる296人の賛成により除名決議が下ったのでした。
反対はわずか7人。。。

自分は国民の声を代弁したのであり、それが正しかったのか間違いだったのかは100年の後に必ず明らかになるであろう。

昭和15年10月12日大政翼賛会成立。
議員の多くがその傘下に入りました。議会は、軍部の暴走を止めることができなくなってしまいました。
昭和16年12月8日太平洋戦争開戦。。。

除名後は・・・昭和17年4月、翼賛選挙が行われました。
東条英機内閣のもとで、候補者推薦制を設けます。
斎藤は推薦を受けない非推薦として出馬。
選挙妨害を受けながらもトップ当選します。

しかし・・・政治家斎藤の居場所はなく・・・議会はその機能を失っていました。

昭和20年6月・・・空襲を受け、出石に疎開します。
8月15日太平洋戦争終結。。。
地元の中学生から荒廃した日本に対する憂いの手紙が送られてきました。
その返事には・・・??
「新日本の建設は、政治の改革からはじめねばならぬ。
 日本は敗戦に依りては亡びない。
 政治の善悪によって運命が決まるのである。」by斎藤隆夫

戦後、戦争に協力した議員が追放される中、斎藤は吉田内閣に国務大臣として・・・そして次の内閣でも国務大臣を・・・

「政治を以って国に尽くさなければならない。。。」
死ぬまで政党政治家な男でした。


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