日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:古田織部

へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将

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日本の文化に革命を起こしたのは古田織部。
”へうげもの”と呼ばれ、一世を風靡しました。
天下を目指す信長、秀吉、家康に仕えます。

織部が人生最大の選択をしたのは・・・大坂の陣の直前でした。

古田織部は、岐阜県美濃国山口城主の子として生まれました。
濃尾平野の広がる・・・戦国時代には、天下をめざし武将たちが闘っていた場所で、代々織田家に仕えていました。
織部は、桶狭間の戦いで勢いに乗る信長の直属の家臣団に加えられました。
信長が天下統一をめざし、中国を攻略しようとしていた頃・・・腹心・荒木村重が謀反を起こします。
ここで信長は、荒木の右腕・中川清秀のもとに織部を送り込みます。
調略のために・・・!!
織部は見事、中川を説得・・・信長の危機を救います。

武将としての能力としては、刀で手柄を立てるような記録はなく、説得工作・・・調略、事前の裏工作に長けていたようです。
そんな彼を表舞台に・・・!!
数寄と呼ばれた茶の湯です。
死と隣り合わせの生活をしている武将たちには、現実を忘れることのできる唯一の世界でした。
その流行と共に、中国伝来の貴重な茶道具は、一国に匹敵るる価値を持って行きます。
それにいち早く注目したのは信長。。。
名物狩りと呼ばれ、高価な唐物を買い集め、褒章として家臣たちに与えていきます。
家臣たちを統制し、士気を鼓舞するために、茶の湯を利用し始めたのです。=茶の湯御政道。

この茶道として頭角を現していたのが千利休。
織部の数寄の師匠となって、多大な影響を与えました。
利休は信長亡き後、秀吉のブレーンとなり、一大イベントを仕掛けていきます。
黄金の茶室を作って後押しする傍ら・・・もう一つの美・・・侘びの世界を追求し始めます。

利休に傾倒していた織部は、ここで数寄の才能を発揮していきます。
侘びとは全く違うもの・・・

yaburebukuro
織部愛用の茶道具・・・「水差し・破袋」
ここに、強く反映されています。
”大きなひび割れも、一種の趣・・・”
傷のない茶碗も、一旦割ってつなぎ合わせる・・・「十文字」。。。
ゆがんだ茶碗・・・
ひょうきんな織部の美意識は、新しい流行となっていきます。
完全な茶碗は物足りないと嫌い、新しい美を追求していきます。

1591年・・・天下人となった秀吉が、独自の美を追求する利休と対立し・・・利休切腹。
命乞いをすることもなく死への旅路に向かう利休・・・

織部は、細川忠行と共に利休を見送りました。
織部は利休の死後、秀吉に取り立てられていきます。
秀吉のお伽衆に抜擢、”数寄の和尚”に任命され、才能を発揮していきます。

織部焼き・・・今までとはまったっく違う斬新なデザインと絵付け・・・
日常的な食器まで流行っていたようです。
傾奇者が出てきていたこの時代、今までの概念をぶち破ろうよいう意識が高まってきていました。
織部の数寄はその時代に合っていたようです。
慶長時代に生きた織部は、慶長の息吹がエネルギーの原点となっていたようです。
常に面白くなければ・・・!!これまでにない画期的なものを・・・!!

ひょうげを武器に新しい価値観をもたらした織部は、数寄の天下人となっていきます。
織部による美の革新・・・
東北の雄・伊達政宗、豊臣家重臣・浅野長政、信長の実弟・織田有楽、豊臣秀頼、毛利秀元、黒田如水・・・茶会を通じて、全国の武将たちとのネットワークが広がっていきます。

そのネットワークに目をつけたのが天下を狙う徳川家康です。
関ヶ原の戦いを前に、根回しをしていたのでした。

常陸の佐竹義宣は、石田三成と親しくその動向に注意を払う必要がありました。
織部を佐竹のもとに送り込み・・・茶の湯で織部と師弟関係にあった佐竹は、師の説得を受け入れて家康に人質を差し出すのです。
こうして家康は、織部を使って説得に成功し・・・関ヶ原に勝利していきます。
家康自身が数寄にのめり込むことはありませんでしたが、その力を十分に知っていたのです。

豊臣から徳川へ・・・時代が大きく動きます。
江戸幕府をひらいた家康は、その基礎を盤石なものにしていくために、織部を利用していきます。
織部は、秀忠の茶の湯の指南役となり、秀忠と諸大名との茶会を仕切って。。。
徳川政権の内部へと入り込んでいく織部・・・確固たる地位を築き上げていきます。
数寄の道に生きたい・・・しかし、あまりに忙しく・・・それもできなくなってきました。

1611年、家康は秀忠を江戸に置いたまま、京都・二条城を拠点に豊臣家弱体に進んでいきます。
二条城に諸大名を集め・・・誓詞を書かせたのです。
”反逆の企てあるべからず”と、幕府の命令に背かないように・・・!!
豊臣家と徳川家の衝突は、もう避けられなくなっていました。

織部はこの頃、息子・九郎八を豊臣秀頼の小姓として仕えさせていました。
身の安定のために徳川につくか?豊臣に尽くすのか?
織部は70歳となっていました。

①徳川方につくか??
生き残れるものの、自分のやりたい数寄は出来ない・・・!!

②豊臣方につくか??
もともと抜擢してくれたのは秀吉。。。
おまけに秀頼の小姓は息子。。。
大恩に報いる道ではないのか・・・??

aooribe織部の屋敷から発掘された「青織部角皿」。
これには、豊臣への思い・・・丁寧な筆使いで桐の文様が書かれていました。

織部はこの皿に、豊臣家の繁栄を願っていたのでしょうか??

③和平交渉策
当時大坂城には、織田有楽、片桐且元ら数寄を通じて交流を深める重臣たちがいました。

そして、秀頼の妻は秀忠の娘。。。
人間関係を生かすという策です。

両家による天下・・・新しい世界を作る・・・??


1612年8月、織部は江戸城に赴きます。
二代将軍・秀忠との接見に臨みます。
そこに伴ったのは、数寄の盟友・片桐且元でした。

片桐は、秀頼の守役のひとりで、豊臣家の重臣。徳川とのパイプ役を担っていました。
第三の道・和平交渉をしようとしていたようです。
7か月に及び江戸に滞在し、秀忠や幕閣達と茶会を行います。
推測されるのは、和平のための根回し。。。
しかし、織部の和平交渉は挫折。
秀吉が建立した方広寺の鐘に刻まれた文字が問題・・・「国家安康」に、家康がケチをつけたのです。
方広寺鐘銘事件・・・鐘銘を起草した清韓禅師は蟄居謹慎を命じられました。

言いがかりとも取れる家康の行動に・・・
なんと、織部は、清韓禅師を茶会に招いてもてなしたのです。
茶の湯に権威や権力は関係ない・・・家康の怒りを恐れることなく、茶人としての信念を貫いたのだろうか・・・??

豊臣家は大坂城内に浪人を集め・・・徳川と対決の姿勢を見せていました。
方広寺鐘銘事件から4か月後・・・大坂の陣が勃発!!
1615年、大坂城落城!!豊臣家は滅亡します。


時を同じくして、織部は幽閉されていました。
処罰の内容は、大坂方との内通です。
大坂城落城からひと月後・・・織部は息子と共に切腹を命じられます。
事件の真相は明らかではありませんが、一切の弁明をしなかったと伝えられています。
破調の美を世に刻みつけた古田織部。
6月11日・・・その生涯を閉じたのです。


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天下一の茶人とは誰か???

多くの人は、千利休と言うでしょう。
秀吉の元で、詫びの茶を作り上げ、茶人の立場から政治にかかわった利休。
その利休の陰で、歴史に葬られた男・・・
昭和の初め、岐阜県で陶器の破片が数多く見つかりました。

それを見た昭和の陶芸家・加藤唐九郎は・・・
「一目見て、惹きつけられてしまった・・・」と驚き、

北大路魯山人も、
「千変万化して、実に立派である」と評しました。

その焼き物の名は「織部焼」

その織部焼の名の由来となったのが、古田織部です。

信長・秀吉・家康の三人の天下人に仕え、戦国の世を茶の湯と言う一芸で生き抜いた文科系戦国武将。

「へうげもの」と呼ばれた作品を数多く作り出しました。
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「へうげもの」とは、「ひょうきんもの」「ふざけたもの」「お調子者」と言う意味です。
利休の亡き後、秀吉・家康のNo,2となり、茶の湯で個性的な美を天下に知らしめました。

この織部、もともとは、織田信長の使い番でした。
織部の「使い番」の仕事とは、織田・豊臣時代に各地に命令を伝え、軍中を巡視し、情報を伝える役目のことです。
つまり、若手の幹部候補生でした。

1544年美濃に生まれます。200石の田舎大名でした。
17歳の頃、信長に仕えます。
これによって、織部の人生が変わるのです。

使い番として信長に仕え、信長を美の革命家として憧れていました。

「自分が気に入れば、それは美しい!!」
その考えが、織部を変えます。


当時最先端の文化だった茶の湯。二部長は、名物と呼ばれる茶道具が高価だったことに着目・・・
名物狩りとして、京都で買い上げ、武勲のあった者に与えました。

「美しい名物をわが手に!!」

みんな、一心不乱に頑張ります。

松永弾正久秀・・・この人は、戦国一悪い人で有名です。
13代将軍を殺し、主君を殺し、奈良の大仏を焼いた男です。
しかし、自分なりの美意識は持っていました。
この美意識、太平の世とはちょっと違うのです。


松永久秀が謀反の時は・・・
信長は、謀反を許す代わりに「平蜘蛛の茶釜」を献上せよと、引き換えにしようとしました。
しかし、久秀は断固拒否。
「平蜘蛛の茶釜」に火薬を詰めて、自爆します。


茶の湯大名・荒木村重謀反の時は・・・
武士としての名誉を捨て、城も正室も・・・家臣も何もかもの全てを捨てて、茶器とともに逃げ出す村重の姿がありました。
この荒木村重・・・のちに秀吉の茶人として生きたと言われています。

そんな中、古田織部も・・・
「武」か「茶」か・・・二つの道で悩んでいました。

どうして、この茶の湯が流行したのでしょう・・・。
茶の湯御政道と呼ばれます。これは、茶の湯を政治的に利用した信長の政策のことですが・・・。

茶の湯には二つの流れがあります。
美術として茶器を鑑賞する・・・室町様式と呼ばれ、鑑賞したり批評したりのためには、教養や知識を必要としました。
もう一つは・・・飲むという行為です。
「けっこうなおてまえでした。」教養のない武士でもできることでした。
そして、茶器の批評にしても・・・
利休好みと言うのが出てきます。そのまま、利休が良い!!と言えば良いもの!!と言うものです。

しかし、明智光秀の謀反によって、信長は死んでしまいました。

次にトップに立ったのは・・・
農民から天下を取った秀吉・堺の魚屋から天下の茶人となった利休。
2人は戦国の世に、新たな力を作ろうとしていました。

詫びの茶を考案します。
茶の湯をネットワークとし、全国の大名を把握、フィクサーとして秀吉のNo,2となった利休。

その利休の元で、武将茶人として生きることを選択します。
そんな利休に人生の教えを授かります。
「人と違うことをせよ」

利休の弟子は・・・「高弟七人」と呼ばれています。
蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・柴山宗綱・瀬田正忠・高山長房・牧村利禎
その中でも、最高の弟子は、織部と言われています。

1585年秀吉より3万5000石を拝領し、大名へ。
織部十作を選定。

そして、織部のチャンスとなった北野大茶の湯。
唯一無二の茶の湯が発表できる!!
才能を開花させていく織部。。。

その頃から、師が秀吉と対立し始めていました。
それは、美意識の違いから始まったものでした。
利休のわびさびの極致を具現化したものは、「黒楽茶碗」でした。
しかし、秀吉は黒は陰気だとして、派手な「楽茶碗」を使い始めました。

それを見ていた三成は、利休を苦々しく思っていました。

そして・・・大徳寺山門の2階にある利休像に対して・・・いちゃもんをつけだしました。
もし、秀吉が大徳寺に参る際は、利休の下をくぐるのか!!と。。。

そして、もう一つは、価値のない茶器に法外な値段をつけて儲けていると・・・。

これによって、利休は切腹に追い込まれました。

人生の師を失った織部に対し、秀吉は。。。
「織部よ
   そなたが利休の 
      あとを継げ」

新たに武家流の茶をつくるように命令します。
それに呼応して、一新する織部。

小宇宙だった3畳に・・・窓を8個作り明るくし、相伴席をつくることで、身分に差をつけました。

いろいろなデザインの椀を作ります。
それは、町人の噂にまでなり、量産をしました。
それは全国に広まり、初の流行を生み出しました。
「織部焼」です。

昭和に入って再現された織部焼はこんな感じ。

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それは、戦国とは違う新しい時代を織部に造ってほしかったのかもしれません。
茶道としての秀吉のNo,2となりました。


そんな秀吉も亡くなり・・・
利休がそうであったように、家康は、織部を無視できない存在になっていました。
そこで、秀忠の茶道指南役とします。

関ヶ原では東軍についていた織部。徳川との関係は、上手くいっているかのように見えました。
しかし家康は、織部の美に対して恐怖を抱き始めます。

秩序に収まらない・・・とらわれない自由な発想。。。
それは、下剋上の精神を煽るのでは???

豊臣・徳川、どちらからも信望のある織部。。。彼は、もろ刃の剣でした。

家康は、方広寺の「君臣豊楽」「国家安康」に目をつけました。
いちゃもんをつけ、それを書いた清韓禅師は蟄居となりました。

その清韓禅師を、織部は茶会に呼びます。
そこに、かつての利休を見てしまった家康・・・

家康に切腹の名を受けた織部は・・・

1615年 自害 享年72歳でした。

死後徳川家は、古田の存在を抹殺しようとしました。
20年で織部焼は失われてしまったのです。

織部の何を怖れたのでしょう。
「織部好み」は、家康の理解を越えていました。
解らないからこそ怖い!!

これから築こうとする泰平に対して、反逆しかねないと思ったのかもしれません。

そして、織部は、師である利休同様、死ぬことによって、自分の茶道を守ろうとしたのでした。

家康から、この織部の後を命じられた弟子の小堀遠州は、3代将軍家光に仕え、天下泰平の世に相応しい、「綺麗さび」の手法に一新しました。茶の湯だけではなく、庭など・・・総合芸術家となりました。

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