日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:吉備真備

今からおよそ1400年前から1100年前にかけて、木造の船で風を頼りに男たちが命がけで大陸を目指して海を渡りました。
世に言う遣隋使と遣唐使です。
当時、東アジアで強大な勢力を誇っていた隋と唐に派遣された使節団です。
飛鳥時代から平安前期にかけて300年もの間続けられた一代国家プロジェクトでした。

遣隋使を初めて派遣したのは、日本初の女性天皇・推古天皇を頂点とするヤマト王権でした。
長らく交流がなかった古代中国に強大な統一王朝隋が登場!!
この隋と国交を結ぶための使節派遣でした。
そして、この国家プロジェクトを任されたのが、推古天皇の甥で摂政だったと言われる厩戸皇子(聖徳太子)です。
こうして、西暦600年、第1回遣隋使派遣となります。
その船は、現在の大阪の難波津から出航しました。
北九州を経由して、朝鮮半島にわたり、黄海を横断し、山東半島に上陸したと推測されています。
その船には誰が乗っていたのか?いつ帰ってきたのか?日本には記録がありません。
600年から・・・
①600・・・不明
②607・・・小野妹子
③608・・・小野妹子
④614・・・犬上御田鍬
と、4回行われていますが・・・②~④は、日本書紀に記されています。
どうして「日本書紀」に1回目の遣隋使派遣の記述がないのでしょうか?

第1回遣隋使について唯一描かれているのが中国の歴史書「隋書」倭国伝です。
そこに書かれているには・・・倭国から来た使者に隋の初代皇帝・文帝はこう聞きました。
「倭国はどのような国か?」
「倭王は天が兄で太陽が弟です
 夜明け前に政務をはじめて、日が昇るとあとは弟に任せます」
一説には、これは倭王を明けの明星にたとえ、隋の皇帝を天とするならば、倭王はその下で輝く金星だと言いたかったのだと言われています。
ところが、通訳が拙かったのか意味が伝わらず、文字通りに受け取った文帝の怒りを買ったともいわれています。
中国では天は唯一の物で、天の命によって皇帝が決まるという考えで、皇帝は天ではありません。
文帝は「はなはだ義理なし」とし、中国的なやり方に改めるように指導したともいわれています。
文帝は倭国を未熟で野蛮な国だと門前払いをし、日本は大恥をかいたのです。
こうして何の成果もなく屈辱的な派遣だったので、第1回遣隋使は日本書紀には記されなかったのです。
これをきっかけに厩戸皇子は隋と対等の関係を結べるような国づくりに邁進していきます。
遣隋使によって、隋との違いを知り、国内体制の整備、改革の必要を痛感したのです。

厩戸皇子の国造り
当時、ヤマト王権には外交施設がありませんでした。
そこで、古代中国の建築物に倣い小墾田宮を建造します。
さらに、遣隋使の使節が位を表す冠をしていなかったことも野蛮とされた理由の一つだったとされ、冠位十二階を制定。
そして、孔子の教えである儒教など・・・日本に入ってきたばかりの外来思想を積極的に取り入れ、憲法十七条を定めます。
こうして、国内の制度を整えた厩戸皇子は、2回目の遣隋使派遣を決めます。
その7年間で、隋の皇帝は文帝から息子の煬帝へと変わっていました。

607年第2回遣隋使派遣
第2回遣隋使の最大の目的は、隋と国交樹立すること・・・さらに、この時から仏教が復興した隋で、仏法を学ばせたいと、日本の僧侶たちを連れていくようになりました。

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そんな2回目の遣隋使の代表・・・大使となったのが、小野妹子でした。
妹子は、現在の滋賀県大津市に当たる小野村の豪族の出身で、当時の官位は大礼で、決して官位は高くなかったのですが、古くから近江の豪族はヤマト王権の中枢で活躍していたので、妹子が抜擢されたのです。
妹子はこの時、こんな書き出しの国書を持って行きました。

”日出ずる処の天子
 書を日を没する処の天子に致す
 恙なきや云々”

日出ずる処とは東の日本のこと・・・日没する処とは西にある隋のこと・・・
ところが、これを聞いた隋の煬帝は、日本が隋を同格とみていることに激怒!!
使節たちは、またも帰されてしまうのでは??と思ってビクビクしていましたが・・・
この時、隋は隣の高句麗との戦争を控えていたので、日本を敵に回して高句麗と組まれては困ると考え、無事国交樹立となりました。
1年の滞在の後、608年小野妹子帰国。
この時、隋の煬帝から国書の返書を受け取ったのですが、途中で紛失してしまいました。
朝廷に戻った妹子はこう告げます。

「帰国の際に立ち寄った百済で、返書を奪われました。」

しかし、この返書紛失事件には裏がありました。
百済が隋の文書を奪うことは大きな国際問題となるので、疑問です。

奪われたわけではない・・・??
この文書は、倭国の国書に対して、無礼だとけん責し、改めさせる内容だったと考えられます。
そんな文章を持ち帰ったら・・・返書を持ち帰れないと考えた妹子は、百済で奪われたことにしたのです。

妹子を処罰すべき・・・??
推古天皇は、隋の使者に騒動が露見することを防ぐために、妹子を罪に問いませんでした。

処罰を免れた妹子は、608年、官位が最高位の大徳に昇進。
9月には、再び遣隋使の大使として海を渡ります。

京都にある紫雲山頂法寺・・・通称六角堂は、587年に厩戸皇子こと聖徳太子によって、創建されました。
隋から帰国した妹子は、出家するとこの寺に入ったといいます。
六角堂の北側にある聖徳太子が身を清めたと言われる池・・・この池のほとりに僧侶の住坊があったことから、六角堂の住職は池坊と呼ばれるようになりました。
池坊とは、華道の家元で知られるあの池坊です。
妹子と華道には深い関係があります。

当時はお花を神仏に備えるということはなく、常盤木(マツなどの常緑広葉樹)を縁起のいいものとして供えていました。
妹子が隋に行き、持ち帰ったのが供花・・・色花も含めた仏に備える花です。
そうして、ここが生け花発祥の地とされ、小野妹子は華道の祖と言われています。

614年、第4回遣隋使として犬上御田鍬・・・滅亡寸前の隋を目の当たりにします。
隋が、新興勢力だった唐に滅ぼされたのは、御田鍬が帰国した3年後・・・618年。
唐が、国として安定した630年、舒明天皇が唐との外交を密にするために、第1回遣唐派遣開始します。
そうして、894年まで、260年の間に、遣唐使は18回計画され、15回実行されたのでは?と言われています。

それではどんな人物が唐に渡ったのでしょうか?
最初の頃は、2隻の船で、使用団120人。
その大半は、船をこぐ水手でした。
船員たちは、朝鮮半島の往来に慣れていた北部九州から動員されたようで、遣唐使事業に従事したものは、3年免税されました。
船員の他には、遣唐使の使節たち・・・家柄、学識、教養、風采・・・総合的な選考が行われました。
特殊な技能を持っていた人も乗り込んでいました。
通訳、医師、主神(船内に祀られていた住吉の神に仕える者)、陰陽師(易による占いや天文、気象現象の観測を行う者)、絵師(絵や書で記録にとどめる)、船大工・・・
船大工は、外洋航海のために損傷が激しく、帰ってくるときに修理をしなければなりませんでした。
留学する者もいました。
留学生・・・長期滞在者・・・15~20年間滞在し、次回の遣唐使と帰国
     ・・・短期滞在者・・・1~2年間滞在し、同じ回の遣唐使と帰国

いずれも唐の文化を習得、密教の理解を深めることに努めました。

船旅は命がけ・・・第2回遣唐使は120名×2隻でしたが、1隻が竹島付近で遭難し、生存者はわずか5人でした。
無事生還したのは6割でした。

どうして遣唐使船は海難事故が多かったのでしょうか?
考えられるのが、船の性能、航海技術です。

①船
全長30m、全幅9.6m、船首に舵があります。
主な労力が風邪で、網代帆でした。
布帆も用いていた可能性もあり、無風、逆風の時は帆を下ろし、櫓を使っていました。
それなりの航海技術はありました。

②時期
日本は遣唐使を派遣していく中で、唐に2年に一度貢物をする約束をします。
その時には、必ず諸外国の使者と共に、唐の皇帝の祝賀行事の朝賀に参列。
それは、正月に行われることになっていました。
余裕をもって4,5か月前に出発・・・これは、現在の暦にすると9~10月ごろ・・・。
まさに、台風の起きやすい時期なのです。
おまけに季節風が向かい風に変わるころで、海が荒れ・・・海難事故・・・??
実際には、5~7月(6~8月)に出発した記録が多く、東シナ海が安定し、航海に適した時期でした。
季節風、海流などは認識していました。

どうして海難事故が多かったのか??
③ルート
当初船は、北回りルートでした。
博多→壱岐→対馬→朝鮮半島西岸を経由して山東半島に上陸。
そこから陸路で長安へ・・・船旅だけで、40~50日かかりました。
これは遣隋使の頃からのルートで、危険な海路に依存する割合が少なく、比較的安全だと思われていましたが・・・
7世紀半ば、朝鮮半島の新羅が唐と同盟を結び、百済と高句麗を滅ぼします。
その後、旧百済領を巡って、唐と新羅が争いました。
朝鮮半島西岸を通ることが危険となり、使えなくなっていまいました。
そこで用いられたのが、五島列島から直接唐に入る南回りルートです。
1週間から10日で唐の江南地区長江河口付近に到着するため、航海時間は短くなりましたが、荒れやすい外洋を進むことになったので、難破や遭難が増えたのです。
海難事故が増えたこともあって、少しでも多くの人が唐にたどり着けるように、船の数を2隻から4隻に、人数も250人から600人となりました。
長安までも、運河を船で行きさらに陸路で2ヵ月・・・かかるときは半年かかったようです。
しかも、全員長安に行けたわけではなく、600人のうち50人ほどしか許されませんでした。

命がけで海を渡ってきたのに・・・??
元々長安まで上京するのは使節団のみです。
唐が遣唐使節の滞在費を負担しました。
しかし、奈良時代の後半・・・安史の乱(755年~763年・唐で起きた大規模な反乱)で、治安が悪化し、財政問題から遣唐使に希望する者すべてを長安まで行かせることができなくなっていました。
皇帝の許しが出たものに関しては、持ち帰ったり、見学(暮らし・建築)をしたりすることができました。

飛鳥時代から奈良時代に移り遣唐使後期になると、600人になった使節団は、留学する者が多くなります。
その中には長期滞在(留学生・学問僧)、短期滞在(請益生・還学僧)がいました。
長期滞在者は、次の船が来るまでの15年~20年もの間唐に滞在、それぞれが文化の習得や仏教理解の研鑚に努めました。

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備中国の豪族の生まれの吉備真備(695~775)もその一人です。
留学僧として2度唐にわたっています。
一度目は、717年、第8回遣唐使として唐にわたり、17年間滞在します。
天文学、音楽、兵学を学び、帰国の際には唐から支給された留学の手当てをすべて書物などに変えて日本に持ち帰って朝廷に提出しました。
様々な学問書や仏教・儒教の書籍を日本へ持ち帰ることが遣唐使の大きな使命なのです。

当時の日本は、唐を参考に律令に基づく国家樹立を目指していたので、唐の事情に精通し、頭脳明晰な真備は重用されました。
帰国後は、破格の出世をし、従八位下から正六位下(大学助)に任じられ、学問面で国家の基礎づくりをします。
東宮学士という皇太子の先生となり、聖武天皇、光明皇后に寵愛され、破格の出世をし、766年には右大臣へ。
学芸、政治・・・奈良時代に数々の足跡を残しました。

日本に戻れずに唐でその人生を終える者もいました。
吉備真備と共に唐に渡った阿倍仲麻呂です。

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仲麻呂は、大和国の名家の生まれで、この時まだ19歳でした。
長安についた仲麻呂は、法律、文学、儒教など様々な学問を学び、唐の国家試験である科挙に合格し、唐で役人として出世し、時の皇帝玄宗に仕えました。
唐を代表する詩人・李白や王維とも交流を深めます。
そうして唐に来て16年・・・仲麻呂は遣唐使と共に帰国したいと玄宗に願い出ます。
ところが、帰ることを許してもらえなかったのです。
仲麻呂の願いが聞き入れられたのは、それから20年後のことでした。

その送別会の席で仲麻呂は歌を詠みます。

天の原
  ふりさけみれば
      春日なる
三笠の山に
    いでし月かも

日本を懐かしんだのですが・・・日本に帰る途中で暴風雨に遭い途中で遭難。
船はベトナムへ漂着し、再び唐に戻ることに・・・。
結局、日本に帰ることはかなわず、唐でその生涯を終えたのでした。

中には鑑真・・・鑑真は、日本に戒律の精神と儀礼を伝え、唐招提寺の開祖となりました。
すでに唐で名のある高僧だった鑑真が、日本にわたる決意をしたのは743年55歳の時でした。
鑑真は天台宗の高僧として活躍した慧思が、その死後、東方の国に生まれ変わり仏教を広めたという伝承を信じていました。
そして、その東方の国こそが日本で、戒律が栄えるべきところだと考えたのです。
しかし、時の皇帝・玄宗が出国を禁じます。
それでも鑑真の意志は固く、半ば密航の形で日本に向かいます。
しかし、悪天候、弟子の密告などに阻まれます。
1回目・・・743年・・・弟子の密告
2回目・・・743年・・・悪天候
3回目・・・744年・・・弟子の密告
4回目・・・744年・・・弟子の密告
5回目・・・748年・・・悪天候
5回目の渡航の際には愛弟子が亡くなり、鑑真も視力を失ってしまいます。
それでもあきらめることなく、754年日本に戻る遣唐使船に・・・。
6回目でついに来日を果たしたのです。

時の孝謙天皇は、鑑真に戒律を授ける権限を一任。
日本の仏教会の頂点に立った鑑真は、400人ほどに戒律を授け、戒律制度を整備。
さらに重い税や貧困に苦しむ民衆にも手を差し伸べて救済・・・763年76歳で天寿を全うしました。

894年8月・・・
第18回遣唐使派遣が決まります。
選ばれたのは、学者から出世を継げていた菅原道真でした。
菅原道真は、一旦は引き受けますが、1か月後、遣唐使の派遣中止を時の宇多天皇に訴えます。
道真は、過去にも受諾した案件を翻意にすることがありました。
この時もそうだったようですが・・・
どうして遣唐使の中止を訴えたのでしょうか?
意見書にはこう書かれていました。

「往復の危険は承知の上。
 しかし、今は唐の国力が衰えていて、以前なら安心だった唐の中の移動が危険にさらされている」
そのため、中止が望ましいと訴えたのです。

学者として調べると、9世紀の後半には反乱が起きていて、かなり治安が悪くなっていました。
留学生の待遇も悪化しており、支給されていた遣唐使への食糧が20年分から5年分と削減されていたのです。
唐の国力が衰退し、待遇も悪化していたため、危険を冒して唐にわたる必要がないと考えたのです。
また、当時商人の船による唐との往来が増えていて、国が船を出さなくてもいい状況になってきていました。
実際、遣唐使として唐にわたっていた円仁は、847年に新羅の承認の船で帰国しています。

情勢を冷静に判断した菅原道真の意見は通り、894年遣唐使中止・・・その後廃止となりました。
およそ300年間にわたって実施されてきた国家プロジェクトは、遣隋使4回、遣唐使15回、合計19回に及んだのです。
使節たちによってもたらされた先進国・隋や唐の文化と知識は、国内で熟成し、日本文化の基礎となっていきました。
命をかけ、海を渡った男たちの賜物・・・過酷な旅でした。


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天平期の僧と仏―行基・鑑真・道鏡、そして良弁

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左遷・・・官位を低くして遠地に赴任させること・・・。
もう帰って来られない・・・
そんなイメージのある言葉ですが・・・
今から1300年前、九州、中国と相次ぐ左遷の目に遭いながら、カムバックした男がいました。
吉備真備です。
囲碁、軍事、カタカナまで・・・奈良時代、2度唐にわたり、日本にもたらしたとされるものは数知れず・・・学者でありながら70歳まで朝廷に仕え右大臣にまで大出世した男です。
岡山県倉敷市真備町・・・ここに吉備真備の原点がありました。

中国の西安・・・古代より現代にいたるまで世界有数の大都市です。
その中心部にある石碑・・・”遣唐留学生 吉備真備記念碑”です。
奈良時代に籐にわたり、功績を残した吉備真備を今の中国に伝えています。
古代中国は世界最先端の国で・・・日本は中国に倣った国を造るべく、有終の留学生・・・遣唐使を送り込みました。
吉備真備が行った遣唐使には玄昉や阿倍仲麻呂など多くのエリートがいました。
なかでも、留学生として選ばれた真備は、唐で多くを学び、その秀才ぶりは目を見張るものでした。
記録にも・・・
”真備は経書と史学を研究し、また多くの学芸に広く及んだ
 我が本朝の学生で、当国で名を上げた者は真備大臣と朝衡(阿倍仲麻呂)の二人だけである”
とあります。

ある日、真備は唐の囲碁名人と対決することに・・・
真備は囲碁の経験が少なく、勝てるはずもありませんでしたが・・・
なんと、真備は密かに相手の碁石を飲み込んで、勝利しました。
しかし、名人は疑います。

私がこんな初心者に負けるはずはない・・・
こいつはずるをしたに違いない・・・!!
どんなことをしてもこいつの悪事を暴いてやろう!!

真備は服をすべて脱がされ、下剤まで飲まされ碁石を隠していないか調べられたものの、結局碁石は出て来ませんでした。
真備は超能力を使って碁石を隠したのか・・・??
常識をを超越している・・・??

真備の唐滞在は20年に及び、735年に帰国し、朝廷に仕えます。
経書、暦、楽器、音楽書などを献上しました。
中でも興味深いのは、最先端の弓や矢などの武器で、この後の日本での戦い方を変えたものでした。
弓は強力な殺傷能力のあるものを持ち帰っています。
中国の弓は「複合弓」でmいろんなものを重ね合わせたものです。
弾力性を持たせた強力な弓で、200mぐらいの飛距離がありました。
唐から帰国後およそ40年、日本の国づくりに大きく貢献していくこととなります。

そんな吉備真備とは・・・??
そのルーツは岡山県倉敷市真備町です。
町の中心部に位置する箭田大塚古墳・・・真備の祖先下道氏の一族が葬られたとされる古墳です。
入り口から一番奥までが19.1m、玄室の長さは8.4mと全国最大級です。
古墳は豪族の力を示すために造る・・・通る人に力を見せつけるためのものです。
これを造ったのは、吉備真備が出た一族で、強大な力を持っていたことがわかります。
真備のもとの名は、下道真備。
その祖先は真備町一帯の下道郡の豪族であり、交通の要所であるここに古墳を築いて人々に見せつけたのです。
さらに真備町の隣の矢掛町では真備に深くつながる資料が発見されました。
寺の地下から見つかったのは・・・吉備真備の祖母とされる人の人骨です。
骨の断片が黒くなって・・・火葬されているということがわかります。
火葬されたとみられる祖母の骨・・・火葬が中国から伝わって10年ほどのことでした。
仮想文化が入ってすぐにこの地域に受け入れられたことを示しています。
唐や都と結びつきが強く、文化の伝播が早かったのです。
真備は生まれながらにして外国との強い結びつきを背景に持っていたのです。

唐から帰国した真備は時の天皇・聖武天皇のブレーンに。。。
さらに後の孝謙天皇となる阿部内親王の教育係に・・・重用されます。
東宮学士吉備真備は、左大臣・橘諸兄、僧正・玄昉らと共に、積極的に政治に参加していきます。
当時の朝廷にとって待望の人材でした。
8世紀の日本は、中国風の国を造ろうとしていました。
生の唐の文化を知っている人は、重宝され大事な存在でした。

唐での経験をもとに、国に尽くす使命感に燃えていた真備・・・しかし、事は順風満帆には進みませんでした。
藤原不比等の孫・広嗣が真備に牙を剝きます。
慰霊の出世をした真備に嫉妬してこんな言葉を吐きます。
「下道真備などという度量の小さい田舎者は、国を転覆しかねない
 早く朝廷から取り除くべきだ」
そして遂に広嗣は朝廷に反旗を翻して挙兵!!
740年藤原広嗣の乱です。
僅か2か月で鎮圧され処刑されます。
これが真備が最初に接した乱でした。
田舎者とまで評された真備・・・後にある決意をします。
下道真備から吉備真備へ・・・!!
吉備という氏は、瀬戸内海周囲の巨大勢力であったこの地域の名を元にしたものです。
あくまでも自分が地方の豪族出身であるということを主張しました。

氏を変えた真備は、朝廷に尽くす覚悟をします。
そこに立ちはだかったのが、藤原仲麻呂・・・後に真備をおおいに苦しめる相手でした。
真備の試練の始まりでした。

律令制は中央豪族のための国家で、地方豪族は権力から排除されていました。
おまけに律令制は、藤原氏に酔折でほとんどの豪族は没落するのが普通でした。
真備はあくまでも学生、学者、権力から離れていると思っていました。
しかし、真備の持っていた学問は、中国の最新の統治技術。
奈良時代は権力が移動するものの、どの権力から見ても真備は必要な人物・・・スーパー・テクノクラートだったのです。

740年、真備が長らく仕えた聖武天皇が平城京を離れます。
聖武天皇は、混乱が続く都では政治を続けられないとし、新天地を求めるたびに出ました。
その結果、740~745年まで、平城京は天皇不在の状況に・・・!!
そこに現れたのが、光明皇后の甥・藤原仲麻呂です。
仲麻呂はこれを機会に実権を握ろうとします。
745年、玄昉が大宰府に左遷、翌年死去。
盟友の死・・・次は自分が標的にされるのでは・・・??と真備は恐れます。
しかし、状況はめまぐるしく変わります。
749年、聖武天皇が退位して太上天皇となります。
変わって真備が教育係をしていた阿部内親王が孝謙天皇に・・・!!
後ろ建てを得た真備は、自らの立場が脅かされることはないと期待しました。
その矢先、750年、真備56歳の時に仲麻呂は真備を筑前守に任命。
都からの突然の左遷でした。
さらに筑前の後、750年、真備56歳の時に肥前守に任命・・・1年間で2回の左遷でした。
しかし真備はめげません。
肥前国で藤原広嗣の怨霊を鎮め、結果、地元の人々の心をつかみます。
しかし、立て続けに任務が・・・
752年、真備58歳で遣唐副使として再び唐へ!!

ここでも真備は成果をあげます。
754年、真備60歳の時、遣唐使船が唐から帰国し、鑑真を来日させます。
仏教の戒律を日本中に広めることとなりました。
仲麻呂の相次ぐ左遷命令にめげず、次々と成果をあげた真備・・・これで都に戻れるはずでした。
しかし、仲麻呂はそんな真備を都に帰すことなく大宰府へ!!
大宰府は日本と関係が悪化していた新羅が近い・・・それは、真備が防衛計画の責任者に就くことを意味していました。
真備の左遷は4年で4度。
この真備の左遷には仲麻呂のどのような思いが・・・??
仲麻呂は中国被れと言われるものの、中国に行ったことがないというのが弱点でした。
真備は実際の中国を見て知っています。
仲麻呂は中国が大好きだけど知らない・・・。
真備が九州に追いやられたことを考えると、煙たがっていたのでは・・・??

任務を果たさず引退・・・??
今こそ唐での経験をすべて生かして任務に応える・・・??
ゆくゆく胸を張って京に帰るために・・・!!

大宰府左遷の命を受けた真備は決断します。
新羅から急襲を守る防人は、武芸を習わせるだけでなく、城を築く仕事に就かせるべきだ!!
真備は大宰府で対新羅の防衛責任者という職を全うする道を選びました。
そして、防御のための城を築くことにしました。
現在の福岡県糸島市・・・真備はここにある標高416メートルの高祖山に山城・怡土城を築城します。
そこには真備独特の工夫がありました。
怡土城の中で一番強化する必要があった場所・・・入り口です。
当時の土塁の基礎工事跡が残っています。
土塁の層が固く・・・分析するとそこにはにがり成分が入っていました。
にがりは、海水などの塩水を煮詰めると出来るものです。
土に混ぜるとセメントのようになり、凝固剤の役割を果たします。
怡土城の周りでは、塩が多く取れました。
真備はその時にできるにがりを利用したと考えられます。
中国では城壁ににがりを使っています。
真備はそのノウハウを知っていたはずです。

真備の怡土城での仕事はそれだけにとどまらず・・・
高祖山の山肌が効果的に活用されています。
山肌の斜面を使い、さらに平野部も取り込む・・・。
それまでに作られた城(朝鮮式山城)とは違う様式(中国式山城)でした。
真備が斜面を利用したのは、新羅に対する独特の作戦がありました。
斜めの山城から威圧感を与える・・・さらに攻めやすい!!
唐で学んだ築城法の多くを結集して、怡土城を造りました。
左遷にめげず、現地でベストを尽くす真備・・・仲麻呂はついに折れて、真備の左遷はついに終わったのでした。
すると状況は逆転・・・仲麻呂が苦境に・・・。
764年、仲麻呂の後ろ盾・光明皇太后が崩御。
仲麻呂は求心力を失って、対新羅の計画も無くなってしまいました。
すると真備にチャンスが・・・!!
764年、真備70歳の時に孝謙太上天皇が「造東大寺長官」に任命し、平城京に戻りました。
真備が復権し、立場を脅かされ始めた仲麻呂・・・。
遂に、764年9月藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で朝廷に反旗を翻します。
真備は孝謙軍の作戦参謀として仲麻呂軍に対峙します。
闘いの最初の山場は、琵琶湖の南・・・勢多橋でした。
真備は先回りし、ここを焼き払います。
東に行こうとした仲麻呂の動きを封じたのです。
この時、孝謙軍が使ったのが、真備が唐から持ち帰った複合弓でした。
全長200mを超える勢多橋対岸から仲麻呂軍を迎え討つにはうってつけでした。
その後、逃げる仲麻呂軍を先回りして追いつめていきます。
そして・・・764年9月18日、琵琶湖の西岸で斬られ藤原仲麻呂死去。
真備と仲麻呂の因縁の対決は幕を下ろしたのでした。

真備の動きには全く無駄がなく、それは、幅広い知識があったために柔軟に応用が利いたのです。
書物で学んだだけではない実践の知識人でした。
その後真備は軍師としてだけではなく、行政官としても活躍し、右大臣にまで昇進し、計5代の天皇に仕えました。
775年10月2日、吉備真備は81歳にて大往生をするのでした。


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「天の原
  ふりさけ見れば春日なる
   御蓋の山にいでし月かも」

この句を異国の地で詠んだのは、望郷の歌・・・この作者は阿部仲麻呂です。
遣唐使として唐にわたり、二度と日本の土を踏むことなく生涯を終えました。

仲麻呂が生きた時代は、追い立てられるように強い国家を作ろうとしていました。
遣唐使たちが唐から最新の政治制度や文化を持ち帰っていました。

仲麻呂は唐の都・長安で遣唐留学生として学んでいました。
その後、日本人で初めて唐の官僚に抜擢されます。
時の皇帝・玄宗の側近に・・・!!

しかし、日本に戻るのが遣唐使の役目・・・どうして仲麻呂は帰らなかったのでしょうか??
異国の地でどんな活躍をしたのでしょうか??

それは、日本の外交、国際情勢と密接につながっていました。
仲麻呂が直面した東アジア世界とは・・・??

645年に建てられた奈良県桜井市にある安倍文殊院は、安倍一族の氏寺です。
安倍一族は飛鳥時代から朝廷に仕えた中級貴族でした。
文殊院の周囲一帯は一族が住んだ場所でした。
701年、仲麻呂はこの場所で生まれたとされています。

文殊院には、仲麻呂の像が祭られています。
仲麻呂は幼いころから学問に秀で、遣唐留学生に選ばれたのは十代半ばでした。
大きな期待を背負って・・・
安倍一族の興隆は、朝廷での活躍・・・修行を終えたら日本へ戻って出世することが大きな目標でした。
遣唐使は出世の大きなチャンスだったのです。
717年の遣唐使に選ばれ・・・総勢557名・・・その中には吉備真備もいました。
一行は4隻の船に・・・すし詰め状態でした。
717年春・・・仲麻呂は日本を出発・・・。

造船技術、航海技術も未熟で、沈没することもあったこの時代・・・遣唐使はまさに命がけでした。
そうまでした唐に赴く理由・・・

当時の日本は、強烈な危機感に襲われていました。
663年の白村江の戦い・・・朝鮮半島での戦いで、日本は唐・新羅の連合軍の前に大敗を喫します。
このままでは、国の存続は危うい・・・
ということで、唐との外交関係の立て直しと、強力な中央集権国家の樹立を急務としました。
その時・・・モデルとしたのが、東アジアの最強国・唐の国家体制でした。
遣唐使の任務は、最先端の政治制度や文化を輸入すること。
中でも最大の使命は、律令を学び取ることでした。
律令は、中国の代々の王朝が作り上げてきた国家の基礎となる法律のことです。
律=刑法、令=行政法に値します。
戸籍制度、官僚制度・・・日本は唐の律令を学びながら、独自の律令を作っていきました。

701年大宝律令完成。
しかし、律令を使いこなすことには不安があったようです。
実際の唐を見て、体験することを必要としたのです。

国づくりのための知識と経験の蓄積・・・安倍一族の隆盛・・・
多くの使命を背負い、4か月後に唐の都・長安へ・・・
次の遣唐使船が来るのは20年後・・・専門分野に分かれて勉強します。
圧倒的に優秀だった仲麻呂は、日本人として初の太学に入学!!
ここで、儒教を専門的に学びました。
儒教を学ぶことは、律令には欠かせない・・・
法律の理想や理念は、儒教によって形作られていました。
それを理解しなければ、律令は運用できない・・・!!
学び終えた仲麻呂・・・しかし、遣唐使船まではあと10年ほど残っていました。

そして異例の・・・日本人として初めて唐の官僚となります。
最初についたのは校書・・・宮廷の蔵書の誤りを正すことでした。
エリートが最初に任官するポジションでした。
順調にエリート街道を・・・31歳で左補闕となります。
左補闕は、玄宗皇帝と行動を共にし、政治の行き過ぎがあった場合にいさめるという・・・まさに皇帝の側近でした。
仲麻呂が順調に出世できたのは、多くの人脈を持っていたこと。
そこには、王維や李白もいました。
宮廷では、漢詩の才能が不可欠で・・・仲麻呂はたぐいまれな才能だったようです。

15年・・・遣唐使の枠を飛び出して、活躍する仲麻呂!!

733年遣唐使 唐に到着!!
自分が学んだものを日本にもたらす時がやってきました。
しかし、日本には帰国せず、唐に留まることにしました。

「親孝行のため、皇帝陛下に帰国を申し出た
 しかし、許されなかった。
 父母の恩に報いようとしても、我が人生に残された日はあるのか。
 もはや、予想することすらできない。」
 
仲麻呂は、玄宗に帰国を申し出るも、許されなかったのでしょうか?
中国の書には・・・
「阿倍仲麻呂は、中国の文化を好んだため、日本へは帰らず、玄宗皇帝のそばで出世した。」と書かれています。
自分の意志で帰らなかった・・・??


唐に留まる道を選んだ仲麻呂・・・。
その後、仲麻呂は、玄宗の側近として東アジアをまたにかけた外交官のような働きをします。
734年、遣唐使・吉備真備・平群大成が帰国の途に就きました。
が・・・平群大成の船は、暴風雨で今のベトナムに漂着します。

なんとか生き残った平群は1年後に長安に戻り、日本に帰りたいと訴えました。
次の遣唐使を何年も待つのではなく・・・渤海を通して帰国できるように取り計らう仲麻呂。
そしてこの計画を許してくれた玄宗。。。
739年平群大成は帰国することができました。

53歳で秘書監にまでのぼりつめます。
秘書監とは、国家の重要文書を管理する組織の責任者です。
文人官僚としてのトップについたのです。


752年遣唐使到着・・・。
遣唐使・大友古麻呂による争長事件が起こります。
それは、皇帝に挨拶をする朝賀の儀で起こりました。
唐の官僚をはじめ、唐に朝貢する国々の大使たちが年に一度の外交を行うために、大迷宮へやってきました。

古麻呂は唐に異議を申し立てます。
続日本紀によると・・・
「昔から新羅国は日本国に朝貢している国でございます。
 ところが新羅国が上席になっております。
 我が日本国は、それより下位であります。
 これは道理に合わないことでございます。」と・・・。
席順は・・・新羅が東側の1番、日本は西側の2番でした。
古麻呂は、新羅より下座であることはおかしいと訴えたのですが、その背景には日本の外交政策がありました。

当時、東アジアの外交は、絶対的な力を持つ唐が中心で、唐は自らを世界の中心とし、周辺諸国を臣下とし、朝貢を要求していました。
日本も唐に対して朝貢を行っていました。
しかし・・・天皇を頂点とする集権国家を目指していた日本は、国内では日本こそが世界の中心であるとしていたのです。
そのため渤海や新羅に対して朝貢を要求し、日本が上位であるという姿勢を貫いていたのです。
日本では世界の中心は天皇・・・だったのです。
しかし、国際外交ではいかがなものかな事でした。

この古麻呂の主張は受け入れられ・・・席次は入れ替わります。
古麻呂は国に帰ってからこのことを誇らしげに語ったと言われています。
丸くおさまったのは、仲麻呂の仲介があったからなのでしょうか??
事件のあと・・・玄宗皇帝は古麻呂たちに特別待遇を与えます。
皇帝のための経典を収めた三教殿や、政府の重要書を収めた府庫へと案内させ・・・その案内人が仲麻呂でした。
外国使節には与えない待遇を見せたのは、仲麻呂に対する皇帝の信頼があったからでしょう。
仲麻呂を通して日本に対して親近感があったのでしょう。
唐と日本の架け橋となった仲麻呂・・・。
結局古麻呂が示したダブルスタンダード外交が、大きな国際問題となることはありませんでした。

仲麻呂が玄宗の側近をしていた時代、唐は安定し人々は太平の世を謳歌していましたが・・・
745年玄宗が、絶世の美女・楊貴妃を迎えると、右腕・李林甫に政治を任せてしまいます。
強大な力を持った李林甫は、敵対勢力を次々と粛清・・・
反発した者たちが李林甫を追放!!
権力闘争が巻き起こりました。
752年遣唐使が長安に到着。。。
仲麻呂は、日本への帰国を玄宗に申し出ます。
唐に来て36年・・・どうしても帰りたい。。。
玄宗は仲麻呂に対し・・・帰国を許します。
どうして、国内が混乱の中、帰国を許したのでしょうか??

李白や王維が来た盛大な送別会で仲麻呂が謳った歌に・・・
「今まさに皇帝陛下の命を身に受けて唐を去ります。」とあります。
受けた命・・・それは、玄宗皇帝から天皇に向けた国書を託された??

王維が仲麻呂に送った歌に・・・
「敬問の詔を懐に携えて 君は旅立とうとしている
 金簡玉字のごとき尊き教えの書が
 今遥かなる国 日本に伝えられようとしている」
とあります。

金簡玉字は、道教の書・・・道教の教えを仲麻呂に託して日本に伝えようとしたと思われます。
道教は、儒教、仏教と並ぶ中国三大宗教の一つで、不老長生を目指すことで信仰を集めてきました。
道教に心酔していた玄宗が、それを近隣諸国に広めることで権威を広めたかったのかもしれません。

そして仲麻呂は・・・753年唐を出発・・・日本へと旅立ちます。
沖縄についたものの・・・天候のために漂流し、ベトナムへ・・・。
長安には、仲麻呂は遭難し、死んでしまったという連絡が届きました。
友人の詩人・李白な、声をあげて泣き、漢詩を作りました。
「君を乗せた一層の船の帆の影は、遠い遠い日本へ去っていった。
 そして明月のごとく明るい君は、碧い海に沈んでしまった。
 今、深い悲しみに満ちている。」
 
ところが、仲麻呂は生きていました。
命からがら1年かけて長安に戻ります。
しかしさらなる過酷な運命が・・・

755年安禄山の乱。
安禄山は、15万の大軍で長安を占領しました。
756年玄宗は、身の危険を感じ、蜀へと逃れます。
ここに玄宗の太平の治世は終わりをつげ・・・唐は、緩やかな衰退の道をたどるのです。

そんな中、仲麻呂は唐の官僚として生き続けていました。
最後の仕事は・・・766年鎮南都護に就任。
770年・・・異国の地で壮絶な人生を終えるのでした。


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