日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:吉田松陰

面白き
  こともなき世に
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幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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東京目白にある学習院大学・・・敷地内には幼稚園・中等科・高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
起源は江戸時代の京都・・・1847年に御所の日御門前に学問所を新設、二年後に時の天皇が学習院と名付けました。
その名付け親が孝明天皇です。
激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。

①前代未聞
弘化3年孝明天皇は16歳で天皇の位を受け継ぎます。
5月浦賀にアメリカ艦隊が来航し、通商条約締結を要求してきました。
6月長崎にフランス艦隊が来航。
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし・・・その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動に出ます。
時の関白を通じて・・・幕府に勅書を下します。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ。」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に江戸幕府12代将軍家慶をはじめとする幕府の人間は驚きます。
幕府の政策に天皇が口を出すなど前代未聞のことでした。
当時の天皇と幕府の関係は・・・
天皇が幕府に政治を任せる・・・ということでしたが、圧倒的に幕府に力があり、天皇は抑えられていました。
なので、天皇・朝廷が幕政に口出しすることなどなかったのです。
その理由の一つが・・・天皇・公家たちは幕府から経済的な支援を受けていたからです。
天皇の所領は、禁裏御料と言われ3万石、朝廷に仕えていた公家たちには合わせて7万石ほど・・・。
幕府は朝廷に対し、10万石も献上していたのです。
幕府からの支援を得、孝明天皇はどんな生活をしていたのでしょうか?

朝起きると、糠を入れた絹袋を石鹸代わりに洗顔。
1日か2日おきにお歯黒。
身支度が終わると、神仏、先祖の御陵の方向に向かって拝みます。
午前中は、手習い、学問、和歌を詠んで過ごします。
昼食・・・一日の食事の中で、最も豪勢で、毎日30センチもある”鯛の尾頭付き”を食べていました。
午後も、手習い、学問、和歌で過ごします。
6時ごろから夕食・・・宮廷内で酒は御献(おっこん)とよばれ、孝明天皇はかなり好きだったようで、夜10時ごろまで飲んでいたので、就寝は12時頃でした。

対して、当時の将軍は、梅干しや煮豆などの一汁二菜で、夕食でもそれに焼き魚が着く程度でした。
幕府の支援を受けながら、優雅な暮らしの孝明天皇でしたが、開国を迫る欧米諸国をひどく恐れていました。
1853年、アメリカからペリーが来航!!
日本は激動の時を迎えます。
1854年、日米和親条約を締結。
箱館と下田の二港を開港し、イギリス・ロシアなどとも条約を結びました。
この時、孝明天皇は、朝廷のある関西地方の警備体制の強化を要請しながらも、条約締結については承認します。
和親条約は、友好をうたったもので、貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
京都と離れた箱館と下田の開港だったので、孝明天皇としても恐れるほどではないと思っていました。
しかし、事態は急変・・・
1856年アメリカ在日総領事ハリスが、下田に着任し・・・
①通商条約の締結を要求
②江戸城で直接将軍に謁見し、大統領の親書を渡すと要求
幕府はハリスの要求を受け入れます。
この時、幕府はアメリカと戦う気はありませんでした。
中国・清が、イギリスとのアヘン戦争に敗れ、不平等な条約の締結と、香港の割譲させられたことを知っていたからです。

欧米諸国と戦えば・・・清の二の舞になってしまう・・・!!
開国賛成派と鎖国維持派に諸大名たちは真っ二つ!!
そこで、孝明天皇の勅許をもらうために・・・京都に堀田正睦が向かいました。
しかし!!

幕府が通商条約締結に向かっていると事前情報を手に入れていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは、後々まで恥となる。」by孝明天皇

だから・・・条約締結は承認できない・・・!!

幕府の提案を承認しないなど、前代未聞のことでした。
幕府と上手くやっていきたい公家たちは、焦ります。
そのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・
迷った挙句に、参内した老中・堀田正睦に告げます。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで、改めて帝が判断を下さされる。」
開国を反対する大名を納得させるために、京都まで来たというのに・・・もう一度彼らの意見を聞けというのか・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても勝ち目はありません。
 世界の情勢を見ても、通商条約締結は、もはや避けられないことなのです。」by堀田
理路整然と涙ながらに説明する堀田・・・。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は・・・
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
「アメリカが武力で訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

孝明天皇が望んでいたのは、”鎖国体制の維持”でした。
ハリスの・・・アメリカ人の強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”につながったのです。
攘夷に繋がっていくのです。
頑なな天皇を前に、なすすべもなくなった堀田は、勅許を得られないまま江戸へと帰っていきました。

幕府の提案をはねのけた孝明天皇ですが、幕府は強硬手段に!!
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼でした。
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の意見を聞くこともなく・・・
1858年幕府の独断で日米修好通商条約に調印してしまいました。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れたのです。

天皇はすぐに、幕府に御趣意書を送り付け、猛烈に抗議します。
「このたびの幕府の措置は、厳重に申せば、勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである。」by孝明天皇
そこで、水戸藩に勅書を下し、他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は・・・
”独断で日米修好通商条約を締結した幕府に経緯の説明を求めること”
”攘夷を推進すべく、幕府を改革していくこと”
を強く求めました。
幕府は、天皇と諸大名が直接やり取りをすることを禁じていたので、天皇の越権行為でしたが・・・
それだけ、孝明天皇が幕府に怒っていたともいえるのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇を逆なでするかのように・・・尊王攘夷派を大量に処罰。
吉田松陰、橋本佐内らが死罪・・・安政の大獄です。
これを聞いた天皇は激怒!!
あまりに怒ったので、関白の頭を扇子で執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか?
200年以上鎖国体制が続いていたので、気持ちの切り替えがむつかしかった・・・現状維持が大事なことだったのです。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代でかえることに抵抗を感じていました。
将軍=征夷大将軍は、”夷”・・・つまり、外国人を制圧するのが職務でした。
アメリカのいうことを聞いて、言うがままになることは、職務を果たしていないということになるのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派を処罰した井伊直弼・・・
当然ながら、多くの敵を生みました。
1860年(安政7年)3月3日・・・阿桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
主犯は、尊王攘夷派の水戸派の浪士たちでした。
これを機に、諸大名も幕府の強引なやり方に反発します。
幕府の権威は急速に失墜していきます。
そしてこの後、孝明天皇は図らずも維新の渦に巻き込まれていくのです。

②妹・和宮
公武合体を画策する幕府・・・
その象徴として・・・14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻でした。
皇族が・・・武家に嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、和宮にはこの時すでに、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。
そして、和宮自身も、江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人がたくさんいる江戸は、恐ろしいものでした。
妹の幸せを願った孝明天皇はこれを却下・・・。
しかし幕府は食い下がります。
信頼する岩倉具視に孝明天皇が相談すると・・・

「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは?」by岩倉具視

そこで、その条件を幕府に突き付けると・・・

「十年以内に鎖国体制に戻します。」by幕府

孝明天皇の望むように攘夷を決行すると約束してきました。
結婚に頑なな和宮・・・生まれたばかりの孝明天皇の娘・寿万宮を嫁がせようとすると、それを知った和宮は、自分が行かなければ誰かが犠牲になる・・・と、決めたのでした。

その代わりに和宮は、大奥に入っても御所の流儀を通すこと、御所の女官を御側付きにすることなどを条件に出します。
孝明天皇は、和宮の要求を守るようにと、江戸へと送りました。
和宮を降嫁させたことで、幕府に対し”貸し”を作ることとなりました。
そして、幕府は、降嫁の交換条件として出した”攘夷”を、いつ決行するのか・・・??
幕府に対し、優位に立った孝明天皇は、人事まで介入してきました。
「老中を決める際、事前に天皇に伺いを立てること」を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

和宮は、家茂のやさしさに仲睦まじい・・・これで公武合体も上手くいく・・・??

③尊王攘夷派

孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国を打ち払おう・・・という尊王攘夷運動が出てきました。
当初は容認していた孝明天皇ですが・・・
天皇がいる京都に続々集まってきた尊攘攘夷派の志士!!
その中心は、桂小五郎や久坂玄瑞のいた長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そんな中・・・1853(文久3年)年将軍・徳川家茂が上洛。
将軍の上洛は、徳川家光以来、およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつける・・・攘夷をいつするのか??
幕府は、文久3年5月10日に攘夷を決行すると約束してしまいました。
孝明天皇が、将軍家茂に約束させた5月10日・・・
攘夷を掲げる長州藩が動き出しました。
下関沖を航行中のアメリカの商船をいきなり砲撃!!
ついに、攘夷を決行しました。
さらに長州藩は、天皇の行幸を勝手に計画・・・奈良にある神武天皇陵と春日大社を参拝することを決めました。
孝明天皇の指揮で、攘夷を行うべく軍議を開くというのです。
日に日に過激さを増す攘夷派・・・
ところが、文久3年8月18日、京都・御所にて・・・
クーデターが勃発!!
長州藩とそれに味方した公家らが追放されてしまいました。
8月18日の政変です。
クーデターを実行したのは、”公武合体派”の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは・・・なんと孝明天皇でした。
どうして、味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか。
当初、尊王攘夷派は孝明天皇の意見を代替する存在でしたが、いつしか孝明天皇の意向を無視して事を進めるようになってしまったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷でした。
しかし、尊王攘夷派はどんどん過激になっていったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇自身は、幕府と共に、国を動かす公武合体を望んでいたのです。
そして、尊王攘夷派を追放したが為に、孝明天皇自身の運命が変わっていくのです。

過激な尊王攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した14代将軍徳川家茂に対し、こう表明します。
「無謀な征夷は実に朕が好む所に非ず」by孝明天皇
なんと、急進的な攘夷は望まないと言ったのです。
幕府に対し、あれほど攘夷せよと言っていたのに・・・軟化させたことに世間は驚きました。
攘夷の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する不信を招いたのです。
当時の世論の大半は、攘夷派でした。

そんな中、孝明天皇は、公武合体を強固にするために、幕府との関係を深めていきます。
まだ十代だった家茂には・・・

「互いに親子のような情愛を持って接することが、天下の安定につながるであろう。」by孝明天皇

そう諭し、幕府から京都に派遣されていた人物と信頼関係を深めていきます。
一人は一橋慶喜・・・後の15代将軍です。
この時、禁裏御守衛総督として、京都に赴任していました。
もう一人は、京都守護職・会津藩主・松平容保です。
そして、その弟で京都所司代・桑名藩主だった松平定敬です。
中でも、孝明天皇が最も信頼していたのが、松平容保でした。
忠義を尽くし、天皇の身辺警護に当たっていました。
配下の新選組を使って、追放後も復権を狙う尊王攘夷派の志士たちを取り締まりました。
そんな容保に、孝明天皇は和歌を送っています。
内容は・・・
「武士と心合わせれば、どんな困難なことにも打ち勝つことができ、そのことは代々伝えられていくことだろう。」となっています。

容保を信頼し、幕府と運命を共にするという孝明天皇の決意の表れでした。
しかし・・・次々と事件が起こります。
1864年・・・禁門の変(蛤御門の変)
このことがきっかけで、京都の町の大半が焼失しました。
さらに翌年には、兵庫沖にイギリス・アメリカ・フランス・オランダ四か国の連合艦隊が来航。
攘夷運動の中心が天皇にあると見た彼らは、孝明天皇に通商条約の勅許を下すよう要求します。
しかし、態度を軟化させても攘夷に変わりない孝明天皇はこれを退けました。
幕府が説得を試みずも応じず・・・幕府との間に緊張が走ります。
これを打破したのが、一橋慶喜でした。
孝明天皇に・・・
「欧米諸国が京都に乗り込んで、孝明天皇が命の危険に晒される事態も起こり得る」と、進言するのです。
命も危うい・・・慶喜の言葉に、初めて諸外国の怖さを味わいました。
幕府が独断で、日米修好通商条約を締結してから7年・・・その勅許を下すのです。
失意の中・・・孝明天皇を悲劇が襲います。
1866年大坂城・・・将軍・徳川家茂が、病に倒れます。
知らせを聞いた孝明天皇は御所から二人の医師を派遣しますが、その甲斐もなく将軍家茂は亡くなってしまいました。
追い打ちをかけるように、孝明天皇への批判が・・・!!

「孝明天皇の勅許と言えども、万人が納得できなければ認めることはできない」by大久保利通
「天皇は絶対的な存在ではない」by岩倉具視

そんななか、1866年孝明天皇崩御・・・36歳でした。
公武合体を共に進めた家茂と孝明天皇の相次ぐ死で、幕府の命運は尽きました。
この後、長州藩、薩摩藩が中心となって討幕へ!!
1年後・・・1867年には大政奉還。
およそ260年続いた江戸幕府は、終わりを告げるのです。

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ついに最終回です。
最後までやってくれました。副題は、「ドレスで光の世界!未来へ王手」です。

光の世界って・・・

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こんな”月の光の世界”を思い出しちゃいましたよ・・・。
でもって、未来のなんに王手なんだよ・・・。

では、最終回の始まり、始まり!!

すでにいきなり優雅な鹿鳴館の入り口です。

「お客様・・・失礼ですが、招待状はお持ちで??」
招待状を忘れてくるという・・・いかにもお決まりの展開・・・

「あのお方は・・・」と、下品な話し方の伯爵・伊藤博文登場!!
初代総理大臣となる男が素彦にペコペコしてますよ・・・。

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でもって、美和は退屈しているらしい安子のもとへ・・・
って、この人は本当にいろんなことを・・・婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、明治23年から大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社の要職も務めた安子にこんな顔させられるなあ・・・
この人も本当に賢い人なんですが・・・
お姫様だったんですよね・・・下品にしか見えません。

貴婦人たちの慈善事業なんかに対して「なにかつまらんのう・・・」と前ふりをした安子のもとへ美和登場!!

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賢そうな女性たちも差別的に、本当に下品に、馬鹿らしく描かれていて・・・
美和ひとりがつつましいというか、おしとやかな感じに・・・というか、カマトトに仕上がってます。
あ~、気持ち悪い・・・。

よくわからない美和の説明で、貴婦人たちも群馬の生糸で作られたドレスで踊っていることを知って納得。
貧乏人にも、女性にも教育が必要だということも納得!!

そこに謀ったかのように津田梅子登場!!女性の教育が必要だと言い出します。
そんなこんなを、よくわからない美和の説明でなくて、最初から津田梅子にしてもらえばよかったのにね・・・
こっちのほうが説得力もあるし、美和の謙虚さも出てよかったのに・・・
あ・・・もともと謙虚ではないか・・・。

「群馬の女たちによろしくと伝えてください!!」by貴婦人を装った人たち。

よくわからん・・・

これからの生糸には鉄道輸送が不可欠だと言っている素彦・・・
大切なのはわかるが、援助をするのは・・・と、及び腰の夫たちのもとへかけてくる美和に洗脳された貴婦人たち。
「あなた・・・協力してあげたら??」×4

「またやったな・・・!!」by素彦。
「やはり。。。美和がいると面白いな!!」by安子

って、なんじゃこりゃ??

そして初めて二人でダンスを・・・!!

hana1













あ~、ここら辺はどうでもいいわ・・・。
日本人は、奥ゆかしい女性が多かったので、社交の場でしゃべったり、パートナーと一緒に踊るなんてことはできない人が多く・・・
なので、ダンスには芸妓を使ったとか、伊藤のように奥さんがお茶子だったり・・・
それでも、ろくに踊れずに猿回しの猿と言われていた鹿鳴館・・・いったいどうやってそんなに踊れるんだ・・・。

なんだか素彦と美和のおかげで就学率も上がって、前橋まで鉄道も通ることになって、生糸もいい感じ。

鉄道工事が始まったと言われていますが、すでに工事はなされていたと思われるので・・・そこもなんだかなあ・・・
「楫取様が群馬の県令になってくれたおかげだ!!」と、県庁は大喜び!!

そんな中・・・物思いにふける素彦・・・。
美和に激白!!
「県令を辞めようと思う・・・
 もう群馬での私の仕事は終わったんじゃないかと思うんじゃ・・・
 あとはこの土地の人間でやっていくんがええんじゃ・・・
 じゃが・・・私一人で決めることはできん・・・お前はどう思う??」

はあ???!!!
明治時代に女性に判断させてくれたんですかね??
素彦の志って・・・
どれだけ美和が偉いんだ・・・!!
ちなみに多分、平成な我が家で旦那が「仕事辞めようと思う」と言ったら、その判断は旦那自身で、私は結局飲まなければならないと思うから。

こんなところも頓珍漢で嫌ですよね・・・
「どんな所でも旦那様についていきます。」ってなんで言えないんだろう??
それが美和の今の志じゃないの・・・??
そういえば、最初から、いつも美和のところでいったん話が詰まるので、”薩長同盟”も美和の許可が要ったように見えるんですよ・・・きっと。

そうだ。。。新しい日本を作る!!なんて、女性に言わせるからおかしいんですよね。
男尊女卑と言われるかもしれませんが、この時代、憲法の草案はそこら辺の男の人々も書いて、考えて・・・つまり、政治に対して期待して、参加しようとしていました。
なので、それこそ普通の平民が憲法を論じてもまったくおかしくなかった時代です。
でも、そこが男と女の違いではないかと思います。
女性が活躍するということは、この時代に大変だったと思います。
女工さんも、遊郭でも・・・涙なくしては語れない、活躍した名もなき女性たちがたくさんいたと思うのですけど・・・。
きれいごとばっかり言って、でしゃばりな美和には明治という時代がそぐわないんですよね。。。


そして・・・美和がついてきてくれるので、県令を辞めることにした素彦・・・。
県庁は大騒ぎ!!
引き継ぎぐらい、ちゃんとしてください。

そして・・・その大騒ぎも10秒ほどで終わって・・・「臨江閣」で送別会です。

hana3













船津伝次平が東京で農業を教えられるのも、美和様のおかげらしいわ・・・。

でもって・・・なんだかんだと式のあいさつみたいなのが続きます。
素彦への感謝状授与みたいな・・・
なんでこんなん見なくちゃいけないんだろう・・・

おまけに、美和にプレゼントされた群馬の女たちの寄せ書きは・・・
めっちゃ上手な字で書かれていて嘘っぽい・・・

とどめは素彦の挨拶・・・
「みなさん・・・今日は本当にありがとうございます。
 ・・・妻をここへ呼んでいいですか・・・??」by素彦

「ここにいるじゃないか・・・!!」by私

あああ・・・もうついに、気持ちの糸が切れてしまいました。
素彦がまたもや内容もないスピーチで終了・・・頭にも入らんわ・・・。

題は鹿鳴館だったはずだよね・・・鹿鳴館で何をやったんだよ・・・。
何もかもが中途半端で嫌だわ・・・。


汽車の出発にはたくさんの人々がお見送り!!

hana4












そんな汽車の中で美和がもらったのが玄瑞の手紙を綴じた”涙袖帖”でした。
なにもこんなとこで・・・ともおもうし、すでに鼻についているので・・・20年ほどたって・・・焼こうとした手紙の割にはしわ一つ寄ってないなあ・・・折り目一つないよ・・・と、感情移入できないまま汽車は長州へと向かうのでした。

萩では・・・塾で教えているのは民治、亀はおにぎりを作り、滝はやっぱりお風呂を沸かして美和&素彦をまっているのでした。


「どうか一粒の籾として次の春の種となれますよう」

と、偉そうに見える美和が言うんですが・・・ちゃんと言ってほしいんですよね。
この言葉は、松陰の「留魂録」一節だって・・・!!
松陰の言葉を胸に生きてきたのなら、まったくもってNoProblemですが、こちらの言葉もいきなり出て来て何が何だかわからないというか・・・心に響きませんでした。

で・・・美和の後ろ姿で終わってしまいました。

いきなり紀行に入るわけですが・・・
「涙袖帖」のことや、防府に移って教育活動をし、幼稚園の創設を支援したこと。
美和が裁縫などを教える女学校の設立を後押ししたこと。女性教育に尽力したこと。
楫取が明治天皇の第10皇女・貞宮の養育係となり、夫婦で務めたこと。
貞宮は幼くして亡くなられ、その遺品は楫取によって防府天満宮に納められたこと。

最後まで人を育てることに力を注いだ楫取と美和・・・
激動の時代を生きた二人の墓は、防府市桑山の麓に、添うように建てられ、日本の行く末を見守っています。。。


だって・・・

紀行じゃなくって、本編でやってください!!

どうして訳の分からないドラマを見させられて・・・見たいはずの大きな河は見せてくれないんでしょう??
そう・・・大きな河は悠久に・・・連綿と続きます。
次の人にバトンタッチするわけでもなく、自分たちの世界に戻っていったような・・・そんな終わり方でした。

あ~、真田丸も怪しいよ・・・。
キャッチコピーは、
「今だって、愛と勇気の旗をかかげていいんだ」
ですって??

日本語おかしくないですが・・・??

愛と勇気はアンパンマンに任せておいてください。。。



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副題は・・・最期まで夫を思う姉に妹は・・・??です。
ここまで来てしまいました。
気持ちが上がんないのよね・・・あとひと月・・・頑張れ私!!

ということで・・・なんとなく観になってしまいました。

群馬県に87人の国事犯がやってきました。
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えんもゆかりもない人々を受けれてくれた優しい群馬です。
せいが「えんもゆかりも・・・」と言った時に、この人を思い出しましたよ。
が・・・そういえば、ほかの県も受け入れてるのよね・・・

で・・・美和は空き家を借りて学びの場を作ろうとし、素彦は囚人たちの仕事の様子を見て回っていました。
囚人さん、いい人ばっかりで、労働力になってますよ。
これも、県令殿の御高説が心に響いたのでしょう。

人と人との絆が未来を作る・・・!!

最初っからこのフレーズだけで行けばよかったのにね。
が・・・粂次郎からはその絆を断ち切ろうとするような手紙が届くのでした。

「母の気持ちがわかるなら・・・あなたには今すぐその家を出て行ってほしい。。。」by粂次郎

これって、人と人の絆を美和がつなぐ・・・今年の大河の根幹を揺るがす大事件になるから、どうにかしなければねっ!!私!!とばかりに美和が行動に移ります。

って感じでしょうか??
でもね、私たちが穿って不倫っぽくブログを書いてるんじゃなくって・・・
こんな風に話を持っていくことが・・・”母の気持ちがわかるなら・・・”なんて粂次郎に言わすところが、(心の)不倫なんですよ・・・

この手紙でやっと東京へ姉を見舞いに行こうとするのです。
でも、学びの場を作らないといけないのに・・・と、言い出しました。
今までそんなことおくびにも出さなかったのに、姉よりも大事なのか・・・??
それに、生糸の生産はどこに行ったんだよ・・・
おまけに、東京に行っている間に学び舎はせいやほかの女性たちが作ってくれるそうだ。
囚人たちに受け入れも、この人たちがやってくれたんですよね。
だから、美和より偉いですよ。

粂次郎は司法省で働き出したようで・・・素彦に、寿と粂次郎の様子を見に行ってほしいと頼まれています。
そう・・・あの手紙のことは素彦には言わないんだろうか・・・??
生糸のことや囚人のことには首を突っ込むのに、もっと、家庭を守ったら・・・当時の女性の一番の仕事は家庭を守ることなんですけどね・・・。


来たことを「どうしてきたのか・・・帰ってください!!
hana1どれだけ母上を苦しめるつもりですか・・・!!」という粂次郎。。。
なんか、一度でも、母上と呼んだ自分に腹が立つ!!という感じ。

二人で話し合いを持つのですが・・・
不倫の話をしないんであれば、なんで粂次郎を外して二人で話す必要があるん??・・・って感じがしてちょっと気持ち悪いです。

病気の寿がそこにいるのに、美和も素彦もなんか寿の心のことはほったらかしですよね。
hana2でも、寿は心は二人が一つなことを知ってるんですよ・・・これって、ほんとさみしそう・・・一番きついですよね。
つまり・・・=不倫だって寿も思っているのに、きれいごとのように二人が何もなく話が進んでいくからおかしいんです。

でもって・・・二人で女性が学ぶべきだという話をし始めました。
このふたり・・・というか、杉家は女性にも勉強するようにと、かなり教育熱心だったと言われています。
だから、本当の寿は信心深く、村人たちに説法の会を開催したり、人の交流の場を作っていたんですが・・・
子供の頃から学んできた様子が描かれていないので、なんでいきなり女性の勉強の話・・・??と、頓珍漢に見えてしまいました。

で・・・美和のいない間に生糸の相場が・・・またもや暴落!!
世界経済は不況に見舞われていました。
hana4
日本経済も危機的状況らしいです。。。
素彦の尽力によってアメリカに渡った新井領一郎は、リチャードソンと会っていました。
生糸の受注を受けましたよ


生糸の値段は高値になって・・・リチャードソンとの契約よりも高値になったので、売ろうとする阿久沢様ですが、素彦が待ったをかけました。
ここで二人のバトルが始まるか・・・??と思いきや、
「10年後・・・20年後・・・100年後のことを考えねばならんのです。・・・」
と話し出した素彦・・・この契約に、日本の未来がかかっているんだそうです。

で・・・みんな県令殿に賛同し・・・なんだ・・・バトルなしかよ・・・な展開で終わるのでした。
あ~、ストーリー的に見ても面白くない・・・。

で・・・姉上のお世話をしに来たのに、安子(銀姫)に会いに来ました。
なんで来たのかな・・・??な感じですが、元昭が夢(テニス)を見つけられてよかった・・・というお話と、安子が、美和のおかげで慈善事業を始めたというお話です。
美和を見ていて人のために・・・と焦りだしたのだそうです。
本当に・・・この人の活躍を描いてほしいわ・・・
安子は、婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、明治23年(1890年)から大日本婦人教育協会会長を務め、日本赤十字社の要職も務め、勲四等ももらっています。
日本赤十字社の要職についていますが・・・実は、新島八重も日本赤十字の正社員として働いています。
今でも長州と会津は仲が悪いと言われているのに、この時代に、女性たちは敵味方関係なく、大きな慈悲の心をもって教育に熱心に取り組んでいたんだろうなあ・・・と、それだけでも伺えます。
それなのになあ・・・

hana5群馬ではまたもや生糸トラブル・・・!!
リチャードソンの受注を受けきれなくなってきていました。。。
う~ん「お前、バカか!?」ルフィのように言ってください。
納期に間に合わないんて・・・お粗末以外の何物でもないでしょう・・・??

で・・・この生糸トラブルを解決すべく、美和が帰ります!!
美和に何が出来んねん・・・?!

「戻るんですね・・・それが母の願いなら・・・もう何も言いません。」by粂次郎
「粂次郎・・・私は戻ります。」私の方が正しかったのよ??みたいな笑みがこぼれているように思うのは私だけ??
でもね、”それが母の願いなら・・・”なんて、すでに、「私が死んだら旦那様を妻として支えてあげて・・・」と言ったと言っているようなものじゃないですか・・・??
そう・・・ドラマ自体が自分たちが認めない不倫を認めてるんですよ・・・

揚返場が作られ・・・素彦は「群馬の・・・日本の未来がかかっているんです!!」と、またもや頭を下げてそこら辺の工場を回っています。

美和も生糸運びを手伝います。それだけでしょう??できること??と、しらけムードで見てしまったのですが・・・まだまだ人手が足りないだろうと、糸を紡いでいる女性たちも運ぶのを手伝うんですが・・・
足りないって言っているのに生糸紡がんでええんかい・・・??

蚊帳の外でへそを曲げている阿久沢様を操縦するせい。
群馬の未来をかけた大博打だから・・・!!と、その気にさせるのです。
が・・・その言葉もなんとも薄っぺらくって心動かない・・・。

納期に間に合わない・・・??と思ったところへ阿久沢様の生糸を集めてきてくれて一件落着!!
「これをお使いください!!」by阿久沢様
う~ん・・・やっぱり群馬編のやり手は阿久沢様と妻・せいでいいんじゃないの・・・??
二人は何もやってないし・・・
あ・・・不倫騒動はやったか・・・。

一件落着となったので、寿を見舞うように素彦にお願いする美和。
群馬が心配だから行けない・・・という素彦に・・・
生糸の監視も囚人たちの監視も自分がすると言い出しました。
なんでお前がすんねん!!
生糸を紡ぐのは??
女たちの学び舎はどうしたんだ・・・??
県令代理の仕事の方がいい仕事なのか・・・??って感じがするわ。。。
後のことは面倒見てくれるって阿久沢様夫妻も言ってますが・・・
もともと阿久沢様が仕切ってたんだから、ここに来るまでにいろいろあったけど、腹割って男同士分かり合って・・・任せてくれ!!って感じで少年漫画のように強敵(とも)になったらかっこ良かったのに・・・

そして・・・学び舎もみんなが作ってくれて一件落着!!

いよいよ寿に最期の時が・・・
今回、はじめてじゃないの??美和が臨終時にいなかったの。

「明治十四年学びの場」
美和さんどうぞ!!みたいな感じで看板だけ書いたであろう看板が、学びの場に掲げられました。
寿と約束した学びの場だそうですよ・・・
寿の声が聞こえて・・・そう、それは、別れの声・・・。

hana3「奥様が・・・」by中原

寿が楽しみに待っていた女性のための学びの場・・・

粂次郎は、母から父への手紙を預かっていました。


東京の家で渡されたであろうその手紙・・・そこには「私が死んだあとは、美和を妻に迎えてください。」と書かれていました。

大義名分が出来ましたね、美和。

ということで、いきなりですが姉妹の約束だった女たちの教育の場が出来ました。
なんだか話が出てきてから20分ぐらいで出来上がってしまったので・・・
その間に生糸問題や寿の死も入っているので、なにも苦労なく出来上がった・・・
ただ単に、空き家をきれいに掃除して終わったみたいな教育の場が出来ました。

次回はここで勉強を教えるんだろうか??
それとも放り出して鹿鳴館で踊るんだろうか・・・??


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ああ・・・もう、どんな風に書いても、不満しか出てこないんじゃないかと思ってしまいますが・・・。
ほんと、歴史に忠実に・・・なんてドラマに思わないですが、どうか、面白いドラマにしてください。

前回1回で萩の乱、終了・・・。
杉家にも、吉田家にも、楫取家にも影が・・・
そりゃあ・・・OPから先週の終わりのこれじゃあなあ・・・。

hana4











どんな運命の糸をつなげるんでしょうか??

楫取家ではすでに美和が妻のようです。。。
ああ・・・見つめ合うとかいらないんですよ。。。気持ち悪いんだから・・・。

阿久沢様のおかげ様で群馬は成り立っているようで、ま、この頃は当然と言っては当然でしょう。

「侍の世は昔話。これからは商人の世。。。」という阿久沢に、「勉強が大事だ」と返す素彦・・・。
目の上のたんこぶのように東京に出張に行けと言われることに、眉を顰める素彦でした。

楫取邸にやってきたせい・・・。寿のお見舞いに、みんなで作ったという焼きまんじゅうを持ってきました。
この大河は、本当にスイーツが好き??
と、食べるんかい??の美和です。
お・・・思い出しました。
そういえば、あの最低と謳われる「江」も、食べては子供を産んで、子供を産んでは食べていましたね。。。
女性とくると、こういうことしかしていないと思っている・・・??
思い浮かばないんだろうか・・・??
それこそ思い込みの男尊女卑・・・。


いまだに美和を”お手伝いさん”呼ばわりするせいですが・・・
これは伏線なんでしょうが・・・しょうもなさが目立ちます。
焼きまんじゅうを持ってきてのお見舞いは口実で・・・字を教えるなどと言いに来るなとくぎを刺されるのでした。

「道楽でそんなことされても困る・・・」と。
そうですね・・・この時点では、道楽以外の何物にもないようです。

hana2












そして、野村靖が楫取邸にやってきました。
幕府の要職にず~っとついていたこの人も、けっこう暇なようです。

野村がやってきたのは・・・

hana5


















留魂録・・・
松陰が小伝馬町の牢で、沼崎吉五郎に預けたものでした。

ちなみに・・・この留魂録。。。結構謎なものです。
野村が楫取に持ってくる前から、楫取はこの留魂録の存在を知っていたようです。
ま、そこはいろいろあってでも、ドラマなので、とやかく言うのも無粋かなあ・・・とも思うんですけどね。

相変わらずラブラブの二人です。

やっと明治10年だということがわかりましたよ。
ちょうど、緋村剣心が神谷薫と知り合った頃です。

楫取邸に年賀の挨拶に来る職員たち・・・
お世話をしているのは美和一人・・・
一人だと、まるで奥様のようですが・・・きっと、こんなところだと使用人の一人や二人はいたことでしょう。

教育で群馬を日本一にするという素彦にな美和がそこにはいました。

職員たちは、学校設立に反対!!
でも、どちらにも熱意は感じられません。

素彦は、一生懸命自分の足で村を回って状況把握に・・・
そして美和もまた、女工たちに勉強をさせようと努力しますが・・・
ろくでなしの亭主を抱えて寝る間も惜しんで一生懸命働いているんだと、せいに言われてしまいました。

ま、群馬の男性全員がろくでなしのように聞こえますよ。。。

家の手伝いをしながら学校に行けるように、近場に通える学校を作ろうと言い出す素彦ですが・・・。
実は群馬、たくさんの寺子屋があったんですよ。
だから、そこを利用すればいいのにねえ。。。
それに、本当に貧しいところを回って説いていますが、貧乏暇なしなんだから拒否られるのは明らかです。
明治時代の一番の教育は・・・まずは教育者を作ることだったんじゃないかな??

例えば、「坂の上の雲」の兄・秋山好古は、松山藩士でした。
頭は良かったのですが、薩長土肥が政府要人を占める中、上には上がれない・・・と思ったので、まずは学校の先生となって・・・陸軍軍人となります。
そう、司馬遼太郎先生も書いてるんですよ・・・
薩長土肥以外の人間が、うえに上がっていくためには教育者か軍人しかない!!と。
学ぶ余裕のある人からまず勧誘しないとね。。。
だから・・・真実味がなく見えてしまいます。


寿は母に対して手紙を書いていました。
自分では旦那様の力になることはできないと、いきなり始まりました。
そして唐突に・・・「今の旦那様の力になれるのは美和です。。。」と。

滝と亀が話しています。
「美和がようやってくれているから感謝しとる。。。」
「そうでございますか・・・よかった。。。」
って、違うやろ・・・!!

寿が死にそうやから、美和と再婚させてって言ってんだよ。。。!!
寿が死にそうとか言ってんのに、寿の心配しなさいよ・・・!!

学校を作ろうと、いろいろ頑張る素彦と美和ですが・・・みんな今一つです。

そのころ・・・明治政府は西南戦争に対峙していました。
おお・・・いきなりですが、木戸さん、調子悪そうですよ・・・。
「たいがいにせい・・・西郷!!」と言って倒れてしまいました。
で・・・終わっちゃった??

話は賭場に・・・。
本当に、群馬の男性たちは、まったく働いていないかのような書かれようで・・・
女たちは、苦労して生糸を紡いでいます。
本を読んでもらおうと必死な美和ですが・・・。

別に、ここだけで勧誘しなくってもいいのになあ・・・と、思うんですよ。

ぶつくさぶつくさ寿に文句を言ってたしなめられる美和・・・。
美和より4歳年上だってことですが・・・杉家一番の常識人かもしれません。
あ・・・梅兄も常識人・・・・?

東京に名医がいるということで、寿は東京に行くことになりそうです。
粂次郎のいる東京で、女中を雇って・・・
そう、姉が!!寿が!!美和は素彦のところにいてほしいそうな!!
ああ・・・もう、天下御免の不倫となってしまいましたね。

ちなみに・・・史実の美和は、同居してないし、東京へも看病に通っています。

ああ・・・寿が行ってしまった・・・。

東京では粂次郎が・・・
「あねぇにやつれて・・・」と、父に不満タラタラです。

・・・このまま、フェイドアウトしてしまいそうな勢いです。

ほんと、この大河ではずーっと寝ているだけの寿ですが、いろいろやってるんですよ、ほんとは!!


毛利元徳は、第十五国立銀行頭取に就任し、パーティーが・・・。
そこに孝允や素彦がやってきました。
が、素彦のほうが偉そうですよ。。。
ああ・・・第十五国立銀行の設立は明治10年5月21日で・・・木戸孝允の命日は5月26日・・・
あともう少しで意識朦朧の昏睡状態です。
天皇陛下と京都へ行っているときに、昏睡状態に陥って・・・京都の別宅で亡くなるんですけどね・・・。
だから今も死にそうなのか・・・??
だいたい木戸と伊藤しかいないからこんな感じになっちゃうんだよ・・・。

ここでも銀姫と松子のガールズトークでは、美和が秀次郎の養育費を払っていることを話し始めました。
ああ・・・みんな持ち上げていますが、その美和が支払っているお金はどこから出ているのでしょう・・・??
働いていないのに・・・。

「今度は美和が何をしでかすか楽しみじゃ・・・」by銀姫
しでかすかって・・・養育費を支払っていることがしでかしてるんですか・・・??
と、上げ足も取ってしまう。。。

女工たちのもとには、やくざまがいの男たちが取り立てにやってきていました。
娘を奉公にだせという・・・

女工は聞いてもいないのに、「私たちには証文は何かいているかわかんないから・・・」と、暗に勉強しないといけないよねみたいなムードを作り出してきました。
そこへやってきたせいは、証文と引き換えにお金を立て替えます。

「それでええんですか??
 同じことの繰り返しで慣れっこになってしもうて・・・このままで本当にええんですか??」by美和
ま、そうなんですか。。。

「おぼこいお手伝いさんが、私に意見しようっつうんですか??」

「はい!!言わせていただきます!!」って、「マザーゲームか・・・!!」

と、演説し始めました。
自分の言いたいこと、できないことはない・・・やればできる・・・文章も読めるようになる・・・
これからは、自分で人生を好きに生きていける・・・そんな時代になったんです。
だれでも夢見てええんです!!
でも、そのためには学ばんと!!
それが生きる力になります!!
生きる力を身につけんと!!



「気に入った!!」byせい

何が気に入ったのか・・・で・・・こっぱずかしいが・・・ここで・・・
「お手伝いさん・・・いいや美和さん・・・。」
と、認めてもらいました。

hana












ということで、お勉強の時間ですよ~~~!!

あ・・・だからってねえ・・・この勉強の時間の間、生糸の生産はどうなるのか・・・??

そして、楫取の活躍で、学校がたくさんできそうです。
ほんと・・・こういうところをちゃんと大河してほしいわ・・・。


最近私の中では、紀行に違和感を感じています。
??本編に違和感か・・・??
だって、紀行でやってること、本編で全くしてくれないんだもん。

ボロカス言われているけど、きっと、楫取素彦の功績は、大河に選ばれるだけあってたくさんあると思うんですよね・・・。
だけど、やってくれないからこんなにブーブー言われちゃうんだよ。。。

坂本龍馬だって、司馬遼太郎が「竜馬がゆく」でかっこよく書くまでは、「そんなん誰??」って感じだったんです。
本当の龍馬は、「竜馬がゆく」とまったく違うともいうし・・・。
やっぱり、フィクションであっても面白く、かっこよく・・・というか、フィクションなんだから、かっこよく書いてあげてほしいんですよね。。。

紀行によると、本当の素彦は・・・
教育政策に情熱を注ぎ、学校の設立を奨励。
群馬県は就学率が飛躍的にあがり、全国でもトップレベルに!!
道徳の教科書「終身説約」を編纂させ、子供たちの教育に力を注ぎます。
この教科書は、全国で採用!!

明治11年には衛生所を兼ねた医学校を新設。
後には当時少なかった女学校の校舎となります。
先進的な教育環境を整え、人材の育成に努めたということです。

これでは、大河に選ばれた損みたいです。


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