日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:吉田茂

1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。

tennnou昭和天皇と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとのツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館をたずね、マッカーサーと初めて会見した際に撮られたものでした。

この写真を見た作家・高見順は「古今未曽有」と、敗戦日記に記し、歌人・斎藤茂吉は「ウヌ!マックアーサーの野郎」と、憤りました。
現人神として崇められてきた天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのカジュアルな服装で、両手を後ろに回し傲慢にさえ見える・・・
国民は、大きなショックと怒りを抱いたのです。
ところが、この後行われた二人の会談が、敗戦国となり、連合国の占領下に置かれた日本の行く末を握っていました。

その世紀の会見の中身とは・・・??

1945年8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー、GHQ最高司令官です。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機・バターン号で予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと辺りを見回しながら、タラップを悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出だったといいます。
戦争に勝利をおさめて、最高指揮官として一歩踏み出す・・・
サングラスにコーンパイプを片手に降りてきたのは、如何に自分を印象付けるかを考えた結果でした。
厚木飛行場を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎となるホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが宿泊した部屋が残っています。
どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地を横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからです。
ホテルニューグランドが、外国人向けに作られたホテルであった事、アメリカの攻撃対象から外されていたので、焼けずに残っていたのが大きな理由です。
マッカーサーは、横浜港に面したこの部屋を、とても気に入っていました。
しかし、その対応には苦労もあったようで・・・
マッカーサーは、朝食に卵を二つ注文しましたが、当時の日本は食糧難・・・その卵を一日中探し回って手に入れたのが1個だけでした。
それをきっかけに、マッカーサーは日本の食糧難を知り、進駐軍から日本に大量の食糧が届けられました。

1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン大統領の訪米にお供し、日本に立ち寄っていました。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚でした。
新婚旅行をしていなかったので、このニューグランドに泊まったことがありました。

1945年9月2日、日本の降伏調印が、東京湾上ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を述べるマッカーサー・・・

「私は連合国最高司令官として、
 私の代表する諸国の伝統に従って、
 正義と寛容を持って私の責任を果たし、
 降伏条件が、完全、迅速かつ誠実に遵守せられるよう、
 ありとあらゆる必要な措置をとる決意である」

日本側からは、外務大臣・重光葵が代表として調印・・・
ここに大日本国帝国は終焉します。

9月8日・・・
マッカーサーは東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館へ・・・。
そして、皇居の迎えに立つ第一生命ビルを接収しGHQ本部としました。
最大で40万人となった米軍部隊も日本各地に上陸。
占領体制は着々と整備されていきました。

マッカーサーは土日も休まず、判で押したような生活をしました。
毎朝10時にアメリカ大使館を出て、GHQ本部に向かいます。
仕事をするのは、マッカーサールームと呼ばれた執務室。

敗戦からおよそ1月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・おのずとGHQのトップにいたマッカーサーの命令は、絶対でした。

「私は日本国民に対して、事実上無期限の権力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」

それでもマッカーサーは、調印式、第一生命ビルの接収では、支配者マッカーサーとして日本人に焼き付けるには不十分だと思っていました。

「早急に天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

マッカーサーはGHQの幕僚たちから強く勧められていました。
「私たちの権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうだ??」
敗戦の惨めさを思い知らせろとの声もあったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして考えた末・・・天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしました。
どうして天皇を呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係していました。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれます。
陸軍士官学校を首席で卒業。
アメリカ軍に入隊し、フィリピン赴任を経て、陸軍参謀総長に史上最年少の50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして長年でフィリピンで過ごしていたマッカーサーは、アジア通を自負していました。
アジア人の心理をよくわかっていたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招き寄せたらと、強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私は待とう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするより、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かなっている」

後に、副官であるバンカー大佐は・・・
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と言っています。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー・・・
この時、日本側もマッカーサーと早急に会いたいと思っていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体が護持(=天皇制存続)されると思っていました。
しかし、同時にぽつ談宣言の中では、戦争責任を追及する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという機運が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は日本統治の最高権力を有するマッカーサーの考えを探ろうと情報集めに奔走・・・。
しかし、何もつかめずにいました。
そのために、天皇とマッカーサーとの会見に踏み切れずにいたのです。

そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとへ電話が・・・時の外務大臣吉田茂でした。
マッカーサーとあってきた吉田・・・

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった。」

吉田から電話がかかってくる直前に、藤田もマッカーサーと会っていました。
藤田が伝えた内容は・・・

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

すると、マッカーサーは・・・

「私のことをいろいろご心配下さって感謝に堪えない
 どうか天皇によろしくお伝え願いたい」

マッカーサーの丁寧な対応に、藤田侍従長は安堵したといいます。
吉田茂大臣からの連絡は、大変うれしいものでした。
マッカーサーの意向がわかったので、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーをの訪問することが決まります。

その運命の日は、9月27日でした。
昭和天皇は、数人のお付きのものと共に、赤坂にあるアメリカ大使館へ。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと、遂に対面します。
握手と簡単な挨拶を交わした後、天皇はなかに入ります。
この時、お付きとして許されたのは、通訳只一人・・・。
マッカーサーは天皇に、こちらにお立ち下さい・・・そう言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがシャッターを切ったのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず・・・姿勢を正すことができませんでした。
三枚目でようやく体制を整えることができました。
宮内省発表の記事と共に翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、内務大臣山崎巌がこれを不敬だとして掲載禁止とするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と言われた陸海軍大元帥の礼装服か、白馬にまたがった陸軍改定式などの勇姿でした。
それが、平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が直立不動の体勢をとっているのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装・・・こうした理由から不敬とし、差し止めたのです。

しかし、新聞に写真が載っていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として獣体制の考え方を持っている者がいると、言論に対する一切の制限令を撤廃したのです。

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こうして会見から2日後の29日、二人の写真が新聞に掲載されました。
これを見た国民の多くは、改めて日本が敗戦したことを思い知らされたといいます。

昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、第1回会見が始まりました。
会見の主な内容は、天皇が開戦を遺憾している事、ポツダム宣言の履行に対する確認でした。
マッカーサーは天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、10分にわたり話し続けたといいます。

後に、マッカーサーはこのことを振り返りこう言っています。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた」

天皇は命乞いをしに来たのでは??と考えていました。

「私がアメリカ製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 そのタバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

普段は吸わないタバコを手にした天皇・・・
その緊張がほぐれたのは、マッカーサーの思い出話でした。

「私は日本とは40年来の縁があるのです
 最初の日本訪問は、日露戦争の時
 父が従軍武官としてきた際に、その副官としてきたのです
 戦争後には、私は一度天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らぎ、その場の空気も和らいできました。
すると天皇は・・・

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任・・・
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

気付けば会見の予定より大幅にオーバーしていました。
昭和天皇とマッカーサーは、35分の会見で心を通わせたのです。
会見が終わると、天皇を大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたことは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのでしょう。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなります。

1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判・・・東京裁判が行われました。
ポツダム宣言に基づく戦争責任を追及するというものです。
注目されたのは、最大の責任アリとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、裁判にかけ、処刑追放するべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収集せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、これに対しマッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長に回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」
マッカーサーはこう考えていました。
日本は降伏しても、天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
そのため、これを裏切り天皇を裁けば、ゲリラ戦が各地で勃発するだろう。
それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要する・・・
占領を容易に遂行するためにも天皇を裁判にかけるべきではない・・・!!

マッカーサーは様々なてを打ちます。
1946年1月1日、昭和天皇の発意として「新日本建設ニ関スル詔書」を出します。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとしました。
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判の為に来日したキーナン首席検事にその意向を伝えます。
これによってアメリカ政府も天皇に”戦争責任を問わない”となりました。
しかし、他にも問題が・・・
東京裁判で審判をする連合国の内ソ連とオーストラリア・・・未だ天皇の戦争責任を追及する構えでした。
②天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し、同意させます。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾が生じてきます。

東京裁判を行う上で大きな課題となった昭和天皇の戦争責任・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見をしたGHQ最高司令官マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、天皇を糾弾しないという方向で進んでいきます。
ところが・・・
開戦当時の総理だった第40代内閣総理大臣東条英機への検察尋問で状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争を選択した。
 このことについてどう思うか?」と聞かれ・・・
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!」

これは即ち天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなる・・・!!
そこで、アメリカのキーナン主席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に東条が親しい軍人や官僚を使い説得させたのです。
東条は渋りながらも、天皇を訴追させないためにこう証言します。

「陛下には責任なし
 全責任は自分にある」と。

こうしてなんとか天皇を出廷させずに済みました。

マッカーサーは日本の占領において、民主化にも力を入れます。
それは、日本を二度と戦争国家にしないためです。
民主化の名のもとに、日本の軍事主義を徹底的には甲斐、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正・・・
マッカーサーは、占領当初から時代遅れの古い憲法を改正すべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだ・・・!!
これを受けて日本政府は新たな憲法草案を作りますが・・・明治憲法に変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導の下で新憲法の製作に・・・!!
別名「マッカーサー憲法」と呼ばれた日本国憲法の草案・・・
その最初に掲げられたのが、天皇の地位についてでした。

天皇は国家元首の地位にある
皇位は世襲される
天皇の職務および機能は憲法に基づく

憲法草案に関わったホイットニー局長は、「草案が守られれば天皇は安泰になるだろう」といったといいます。
マッカーサー・ノートに基づく三原則
①天皇の地位は国民主権に基づくものとする
②戦争の放棄
③封建制度の廃止
でした。
この草案に、当時の幣原内閣は驚きます。
自分達には考えも及ばない形で、日本や日本国民の権利か書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法だったのです。

新憲法についても、マッカーサーと天皇は話し合いました。
1946年10月16日、第3回会見
2時間にわたった会見で天皇は・・・
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」by昭和天皇
「戦争放棄を決意する日本国憲法は歴史的な意味を持つだけでなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」byマッカーサー
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌5月3日に施行されました。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・その内容は、回を追うごとに深みを帯びていきます。
第4回会見以降、マッカーサーは天皇を陛下と呼んだのです。
二人の関係は信頼そのものとなり、マッカーサーは、天皇を当惑させたり、屈辱したりしないよう気を遣ったといいます。

マッカーサーはGHQ最高司令官を突如解任されます。
それは、朝鮮戦争の進め方について当時のトルーマン大統領と意見が対立したからです。
この突然の報せに、日本は驚きます。
1951年4月15日、昭和天皇はなっかーさーに別れのあいさつに向かいます。
11回目・・・これが最後の会見でした。
そして・・・翌日、マッカーサーはあわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万もの人々が星条旗と日の丸を手に一行を見送ったといいます。
しかし、どうして日本を占領しに来た司令官がこんなに人気があったのでしょうか?

アメリカの援助物資はじめ、マッカーサーの政策が、自分たちの為になっている有難さを、日本国民は身をもって知っていたからです。
こうしてマッカーサーは、日本の統治を大成功におさめたのでした。

「私はいつも、占領政策の背後にある色々な理由を、注意深く説明したが、天皇は倭代謝話し合ったほとんど、どの日本人よりも、民主的な考え方をしっかり身に着けていた
 天皇は日本の精神的復活に、大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

天皇は・・・
「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことは、日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ
 元帥との会見はいまなお思い出深い」

昭和天皇とダグラス・マッカーサー・・・この会見がなければ、日本はいまとは違った形になっていたかもしれません。
まさに、日本の運命を決めた世紀の会見でした。


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終戦翌年から、各地に巡幸を始めた昭和天皇・・・人間宣言を行い、新しい憲法で国民統合の象徴とされました。
巡幸する昭和天皇の後ろに常に付き従うものがいました。
初代宮内庁長官・田島道治です。
占領の時代、象徴となった天皇を支え続けました。
その田島道治が残した記録が見つかりました。
”拝謁記”・・・5年近く、600回を超えた昭和天皇への拝謁の記録です。
そこに書かれていたのは、敗戦の道義上の責任を感じていた昭和天皇の告白でした。

「私は反省といふのは私にも沢山あるといへばある」

手帳6冊、ノーと12冊に及ぶ拝謁記。。。
憲法ができて、大変な変わり目・・・
敗戦の責任を感じていた昭和天皇は、戦争について国民の前で話したいと強く希望していました。
日本の独立回復を祝う式典でのお言葉では・・・戦争責任について・・・。

「私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュでゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」by昭和天皇
田島に問いかけます。
「その点今日から多く研究致します。」by田島
多くの犠牲者を出した太平洋戦争・・・天皇は反省にこだわり続けました。
「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」by昭和天皇
ところが、総理大臣の吉田茂は、戦争に言及した文言の削除を要求してきました。
「総理の考えといたしましては、戦争とか、敗戦とか言うことは、生々しいことは避けたいという意味であります。」by田島
「しかし・・・戦争のことは言わないで、反省のことがどうして繋ぐか」by昭和天皇


戦後象徴となった天皇のその出発点とは・・・??
田島道治の遺族のもとで、極秘に保管されてきた”拝謁記”
奇跡的に残されたいきさつは・・・??
田島道治が晩年、入院を繰り返していたおt機に、身辺整理という形で拝謁記を焼こうとしました。
しかし、決して悪いようには取り扱わないから、焼かないで取り残してほしいという家族の要望で残されました。
時代が昭和・・・平成・・・令和と移り、この資料を公開しようと思ったのだとか・・・。

田島道治が宮内庁の前身・・・宮内府の長官になったのは、1948年6月5日・・・終戦から3年・・・占領下で宮中の改革が求められていました。
時の総理大臣・芦田均が白羽の矢を立てたのが田島でした。
初めての民間からの登用でした。
田島は当初62歳・・・戦前の金融恐慌後の銀行の立て直しに尽力、その手腕を買われてのことでした。
当初、外部からの長官登用に難色を示したと言われる昭和天皇・・・
しかし、拝謁記には皇室と国民の関係を良くしようと理解を示していることが書かれています。

「皇室と国民の関係というものを、時勢に合うようにしてもっとよくしていかなければと思う
 私も微力ながらやるつもりだ
 長官も私のことで気付いたら、いってくれ」by昭和天皇

「勿体ない仰せで恐れ入ります」by田島

田島は新憲法の理念に沿うように、側近らの意識改革を図り、宮中の合理化を推し進めていきます。
当時、田島が直面したのが、昭和天皇の戦争責任の問題でした。
大日本帝国憲法では、天皇は軍を統帥し、統治権のすべてを握っていました。
日本政府は天皇は無答責・・・国内法上は法的責任はなかったとしました。
しかし、敗戦の道義的責任を問い、退位を求める声がありました。
東大総長・南原繁は次のように述べました。
「陛下に道義的責任あり」。。。法律的な責任はないが、道徳的な責任はある・・・と。

日本の戦争指導者を裁く東京裁判・・・
判決が近づくと、退位を主張する論説がメディアの中で広まっていきます。
昭和天皇の退位を押しとどめたのが、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーです。
占領統治に天皇の存在が欠かせないとし、天皇に伝えます。
これを受けた昭和天皇の返答は・・・??
1948年11月12日、田島道治が天皇に代わってマッカーサーに送った書簡によると・・・

「いまやわたくしは、日本の国家再建のため、国民と力を合わせ最善を尽くす所存です。」

事実上、退位しないとの意思を示したこの書簡・・・これで昭和天皇の退位問題には決着がついたと考えられてきました。
しかし、今回発見された拝謁記によると・・・翌年の退位の可能性も語っていました。

「講和が締結されたときに、また退位などの論が出て、いろいろの情勢が許せば退位とか譲位とか言うこともかんがえられる
 そのためには、東宮ちゃんが、早く洋行するのがよいのではないか」by昭和天皇

東宮・・・皇太子は、この時まだ15歳でした。
早めに外国訪問させたいと、自らの退位を見据えて、昭和天皇は考えていました。
1949年の時点での、この退位発言をどうとらえたらいいのか・・・??
君主としての責任感があって・・・一つは国民に対する君主としての責任、そしてもう一つは皇祖皇宗・・・歴代の天皇と天皇家の祖先に対する責任・・・今まで営々と続いてきた国体を危機に陥れてしまったと、敗戦という事態を迎えた・・・そのことに対する道義的な責任・・・。
皇祖皇宗と国民に対する責任のあることがわかりました。

昭和天皇の意向を受けて、田島が相談したのは総理大臣の吉田茂でした。
吉田の意見は・・・??
「余の利口ぶるものが、そんな事をいうのもあるが、人心の安定上、そんな事は考えられぬ」

1951年11月、昭和天皇は、地方巡幸に向かいました。
特別列車の中で、天皇と田島は退位問題について話し合います。

「私の退位云々の問題についてだが、帝王の暗いというものは不自由な犠牲的の地位である
 その位を去るのは、むしろ個人としてはありがたい事ともいえる
 現にマッカーサー元帥が、生物学がやりたいのかといった事もある
 地位に止まるのは易きに就くのでなく、難きにつき困難に直面する意味である」by昭和天皇

「恐れ多くございますが、陛下は法律的には御責任なきも、道義的責任がありと思召され、此責任を御果しになるのに二つあり
 一つは位を退かれるという消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建のために困難な道に敢て当らうと遊ばす事と存じます
 そして陛下は、困難なる第二の責任をとる事の御気持ちであることを拝しまするし、田島の如きはいろいろ考えまして、その方が日本国の為であり、結構な結論と存じます」by田島

昭和天皇と田島は、退位せず、日本の再建にあたる道を選択しました。
退位をめぐるこの判断にどのような背景があったのでしょうか?

昭和天皇は、個人的には止めた方が気が楽になるというのが偽らざる本心だと思われます。
退位した方がいい・・・しかし、それを留意する・・・
皇室が国民に認められていくことにプラスになるか、すごく気になっていました。
国民の意思が、決定的に重要だという認識があるからこそ、気にしていた結果なのです。
国民に自らの立場をどのように伝えていくのか・・・昭和天皇にとって、大きな課題が敗戦の道義的責任でした。

1951年9月・・・サンフランシスコ平和条約調印・・・
翌年の発行で、7年近くに及んだ占領が終わり、日本が独立を回復することとなります。
独立に当たり、国民にどのようなお言葉を表明するのか・・・??

「講和となれば、私が演説というか、放送というか、何かしなければならぬかと思う
 ここで私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュでゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」by昭和天皇

「その点、今日からよく研究いたします」by田島

お言葉の検討は、田島に託されました。
これ以降、一年近く、試行錯誤されます。
田島が起草した「おことば」案が八つ残されています。
一番古いものは、1952年1月15日案・・・5月3日のおことば表明に向けて、何度も書き直しが続きます。
昭和天皇がおことば案に強く求めた文言が・・・

「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」by昭和天皇

昭和天皇は、田島に戦争への反省を語り、その回想は、日中戦争から始まりました。

「私は反省というのは、私にも沢山あるといへばある
 志那事変で、南京で、ひどいことが行われているという事を、ひくいその筋でないものから、うすうす聞いてはいたが、別に表立って誰も言わず、従って私は此事を注意もしなかったが、市ヶ谷裁判で公になった事を見れば実にひどい」by昭和天皇

日中戦争のさ中に起きた南京事件・・・日本軍が南京を陥落、略奪・暴行を行い、一般住民や捕虜を殺害しました。
事件は戦後、東京裁判で問題となりました。

「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて、下剋上とか軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いことがあるから、それらを皆反省して、繰返したくないものだという意味も、今度のいう事の内にうまく書いて欲しいと思う」by昭和天皇

「その点は、目下一生懸命作文を練っております。」by田島

天皇の求めに応じて、田島は反省の文言を付け加えました。

”過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒心せねばならない”

反省した過去の推移とは・・・??
拝謁記の中で、昭和天皇は太平洋戦争に至る道を、何度も田島に語っていました。
それは、張作霖爆殺事件にさかのぼります。
1928年、旧満州の軍閥・張作霖を関東軍が列車ごと爆殺した・・・
事件をあいまいに処理しようとした総理大臣・田中義一を、昭和天皇は叱責したが、停職になっただけで真相は明らかにされませんでした。
その3年後の1931年、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府もそれを追認します。
昭和天皇は、軍の下克上ともいえる状態を憂いていました。

「考えれば、下剋上を早く根絶しなかったからだ
 田中内閣の時に、張作霖爆死を厳罰にすればよかったのだ」by昭和天皇

陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター・二・二六事件・・・
天皇は厳罰を指示し、反乱は鎮圧されましたが、軍部の台頭は強まっていきました。

「青年将校は、私を担ぐけれど、私の真意を少しも尊重しない
 軍部のやることは、あの時分は真に無茶で、迚もあの自分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」by昭和天皇

その後、日本は泥沼の日中戦争へと突き進んでいきます。
1941年東條英機内閣は、アメリカ・イギリスに宣戦布告!!
太平洋戦争が始まりました。

「東條内閣の時は、既に病が進んで、最早どうする事も出来ぬという事になってた
 終戦で戦争をやめるぐらいなら、宣戦前かあるいはもっと早く止めることができなかったかというような疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思うし、また、首相をかえる事は大権で出来ること故、なぜしなかったかと疑う向きもあると思う」by昭和天皇

「それはもちろんあると思います。」by田島

「いや・・・そうだろうと思うが、事の実際としては下剋上でとても出来るものではなかった」by昭和天皇

深い後悔の念を、誰かに話さずにはいられない・・・
残念だった・・・後悔、反省が多く、戦後でも、戦前、戦中に生きているといってもいいような暮らしぶりでした。
憲法上、あるいは世間の常識からみれば、統治権の総攬者 天皇は、主権者だったので、あの大事な場面は天皇が何とかすべきだったと思っている人が多いだろうと昭和天皇は考えていて、どうしてそれができなかったのか?自分で納得できる答えを探していたのです。

昭和天皇の深い後悔の言葉を受け止めた田島は、2月26日、おことばの下書きを天皇に説明します。

「琉球を失ったことは書いてあったか?」by昭和天皇
「残念とは直接ありませぬが、「国土を失い」とあります」by田島
「そうか、それはよろしいが、戦争犠牲者に対する厚生を書いてあるか」by昭和天皇
「「犠牲を重ねて」とはあります
 その厚生のことは、ある時の案にはありましたが、削りました
 と、申しますのは、万一政治に結び付けられるとわるいと思いましたからですが、これは大切の事故、またよく考えます」by田島
「儀税者に対し同情には堪えないという感情を述べることは当然であり、それが政治問題になることはないと思うが」by昭和天皇

日本人だけで300万人が犠牲となった戦争・・・
中でも沖縄では県民の4人に1人が亡くなりました。
日本が独立を回復したのちも、アメリカの統治下におかれることになります。

3月4日、田島は天皇の意向を受けてまとめたおことば案を朗読します。

「ちょっと読んでみますから、訂正を要するところを仰せいただきたいと存じます
 
 事志と違い 時流の激するとこと 兵を列強を交えて 遂に悲惨なる敗戦を招き 国土を失い 犠牲を重ね 曽て無き不安と困苦の道を 歩むに至ったことは 遺憾の極みであり 日夜之を思って 悲痛限りなく 寝食安からぬものがある
無数の戦争犠牲者に対し 深厚なる哀悼と 同情の意を表すると同時に 過去の推移を三省し 誓って過ちを再びせざるよう 戒慎せねばならない  」by田島

「内外に対する感謝、戦争犠牲者に対する同情、及反省の点はよろしい
 内閣へ相談してあまり変えられたくないね」by昭和天皇

田島は部下の宮内庁幹部に意見を求めました。
その結果、修正を求める声が上がりました。

3月10日、これを受けて、田島は天皇に説明します。

「主な二三の反対を強く致しましたが、その第一は「事志と違い」というのを削除するという事でありました
 何か、感じが良くないとのことであります」by田島

「どうして感じがよくないだろう
 私は「豈朕が志ならんや」ということを、特に入れてもらったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」by昭和天皇

この「事志違い」という文言・・・
太平洋戦争は天皇の志と違って始まったという事を意味していました。
昭和天皇は、開戦の詔書で表明しています。
”今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る
 豈朕が志ならんや”

「私はあの時、東條にハッキリ米英両国と袂を分かつということは、実に忍びないといったのだから」by昭和天皇

「陛下が「豈朕が志ならんや」と仰せになりましても、結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が仰せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければ、よいではないかという理屈になります」by田島

田島はたとえ平和を念じていても、実際には天皇の名で開戦を裁可したのだから、こと志と違うとういうのは弁解に聞こえると論じました。

田島は、大学時代、国際親善と平和を唱えた新渡戸稲造に学びました。
戦争中から軍部に批判的だったといいます。
田島は民間人で、民間の組織の責任のあり方をわかっていました。
しかし、昭和天皇の偽らざる・・・信頼できる人だけに言える本音でした。

3月17日案・・・結局田島は、「事志と違い」を削除し、「勢いの赴くところ」としました。
 
戦争への反省を巡って対話を進める中、昭和天皇が何度も口にしたのは・・・

軍閥の弊 
軍閥の政府に終始御不満 
軍閥が悪いのだ

陸軍を中心に政治を左右した軍閥への不満・批判です。

「私は再軍備によって旧軍閥式の再台頭は絶対に嫌だ」by昭和天皇

1950年、朝鮮戦争が勃発、これをきっかけに再軍備に向けた動きが始まりました。
警察予備隊が発足、旧軍と同じ捧げ銃をしているのを見た天皇は・・・

「ともすると、昔の軍にかえるような気持ちを持つとも思えるから、私は例の声明メッセージには、反省するという文句は入れたたほうが良いと思う」by昭和天皇

当時アメリカは、日本に再軍備を強く求めていました。
しかし、吉田茂はアメリカの特使・ダレスに消極的な姿勢を示しました。経済的な発展を優先したからです。
ダレスの要求に応じない吉田・・・
これに対し、公職追放を解除された保守政治家たちは再軍備を主張していきます。
こうした情勢の中、昭和天皇は田島にどう伝えていたのでしょうか?

昭和天皇は、旧軍閥の復活に反対しながらも、朝鮮戦争のさ中、共産勢力の進出によるご心配をされていました。

「軍備といっても国として独立する以上必要である
 軍備の点だけ、公明正大に堂々と改正してやった方がいいように思う」by昭和天皇

昭和天皇は、再軍備について何度も田島に相談しています。

「吉田には再軍備のことは、憲法を改正すべきだという事を、質問するようにでも言わんほうがいいだろうね」

再軍備を巡って異なる意見を持つ天皇と吉田茂・・・。

日本の安全保障に対する昭和天皇のこだわり・・・
憲法第9条を改正して再軍備をするというのは、主権国家として当然ではないのか?しかし、旧軍閥の復活は駄目だ!!
吉田は独自の再軍備の構想を持っていて、日本の経済力が足らないうちは、それまで待ってもらいたいという意味を込めて再軍備反対でした。

質問という形で、度々吉田茂に意見を伝えようとする天皇・・・

「そういうことは政治向きの事故 陛下がご意見をお出しになりませぬ方がよろしいと存じます
 たとえ吉田首相にでもお触れにならぬ方がよろしいと存じます」by田島

明治憲法では、天皇は「神聖にして侵すべからず」として大権を持った君主でした。
新憲法で象徴となり、昭和天皇は総理大臣に内奏を求め、政治や外交についての意見を伝えようとしていました。
明治憲法の時代の意見が、必ずしも払拭されていないところがあり、元首としての自意識があり、いろんな問題について自分の意思を表示しようとしました。
しかし、田島は日本国憲法のもとで象徴天皇制を位置付けていく・・・という問題意識を持っていました。
政治に関わるような問題を、天皇が言うのは絶対ダメという意思は、ハッキリしていました。
象徴天皇制の枠の中に、天皇を押しとどめようとし、厳しいことも、諫めることも繰り返し言っています。
日本国憲法のもとでの天皇制・・・天皇なんだということがあり、それは田島の一貫した責任感でした。

田島は総理大臣・吉田のもとを訪ね、おことば案を説明します。
吉田は・・・
「だいたい結構であるが、今少し積極的に新日本の理想というものを力強く表して頂きたい」by吉田茂
吉田の求めに応じ、言葉が追加されます。

”新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは、期して待つべきであります”

憲法尊重の文言が加わります。

3月30日、おことばの最終案が出来上がりました。
田島は大磯にいる吉田のもとを訪ね、おことば案を吟味する吉田・・・。
4月18日、田島のもとへ、吉田から思わぬ手紙が届きました。

「一昨日夕方、手紙を送ってまいりました。
 ところが一節全体を削除願いたいという申し出でありました
 それは此節であります

 「勢いの赴くところ 兵を列国と交えて敗れ 人命を失い 国土を縮め 遂にかつて無き 不安と困苦とを招くに至ったことは 遺憾の極みであり 国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛 寝食為めに安からぬものがあります」」by田島

そこは、天皇が戦争への悔恨を現した重要な一節でした。
吉田が削除をしようと考えた背景には、当時再燃し始めていた天皇退位論がありました。
国会で中曽根康弘議員が質問します。
「もし天皇が、御みずからの御意思で御退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります」by中曽根康弘
「これを希望するがごとき者は、私は非国民と思うのであります」by吉田茂

田島はこの吉田の懸念を天皇に伝えます。
「要するに、せっかく今、声をひそめている御退位説を、また呼び覚ますのではないかとの不安があるということでありまして、今日は最早戦争とか敗戦とか言うことは、言っていただきたくない気がする
 領土の問題、困苦になったということは、今日もうしては天皇責任論に引っかかりが出来る気がするとの話でありました
 その次の、勢いの赴くところ以下は、とにかく戦争をお始めになった責任があるといわれる危険があると申すのでございます。
 田島と申しましては、昨年来陛下が国民に真情を告げたいという思召しの出発点が消えてしまっては困りますというようなことで、一応分かれてまいりましたが、御思召御感じの程は、如何でございましょうか」by田島

「私はそこで、反省を皆がしなければならないとならぬと思う
 やはり戦争が石に判して行われ、その結果がこんなになったという事を、前に書いてあるからわかるが、それなしではいかぬ」by昭和天皇

吉田の一節削除は何を反省するのかがあいまいになる変更です。
3日後・・・天皇は、戦争への反省にこだわりました。

「あれからずっと考えたのだが、総理が困るといえば不満だけれども仕方ないとしても、私の沿岸という事からつづけて遺憾な結果になったという事にして、反省のところへ続けるという事は出来ぬものか」by昭和天皇

田島は、普段と異なる天皇の様子を記しています。
”今日ははっきり不満を仰せになる”

「総理の考えといたしましては、終戦までのことは、終戦の時の御詔勅で一先づすみといたしまして、むしろ今後の明るい方面の方のことを主として言っていただきたいという方の考えであります。
 この際、戦争とか敗戦とかいうことは、生々しいことは避けたいという意味であります」by田島

「しかし、戦争のことを言わないで、反省の事がどうしてつなぐか」by昭和天皇

「戦争のことに関して明示ない以上、ぼんやり致しますが、反省すべきことが何だという事はわかると思います」by田島

”別に何とも仰せなく 曇った御表情に拝す”

吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇・・・この時、式典は12日後に迫っていました。
詳細なメモを用意して備える田島・・・。
天皇の最後の説得に臨みます。

・国政の重大事 政府の意思尊重の要
・祝典の祝辞に 余り過去の暗い面は避けたし
・遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ

「おことばにつきまして、田島が職責上一人の責任を持ちまして、やはり総理申し出の通り、あの一節を削除願った方がよろしいという結論に達しました。
 国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思います」by田島

「長官がいろいろそうやって考えた末だから、それでよろしい」by昭和天皇

「思し召しを一年近く承りながら、今頃こんな不手際に御心配おかけし、御不満かもしれませぬものを、お許し願い、誠に申し訳ございませぬ」by田島

「いや・・・大局から見て、私はこの方がよいと思う」by昭和天皇

田島は新しい憲法のもとで象徴となった天皇は、内閣総理大臣の意見を尊重するべきだと伝えました。
象徴天皇制の枠の中で、天皇がどこまで政治的な発言ができるのか?
初めての具体的な事案でした。
結局、なるべく具体的なことは言わない方がいいだろうと落ち着いていった過程がこの資料で見ることができます。

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効され、日本は独立を回復しました。
5月3日・・・皇居前広場に、4万人が詰めかけます。
昭和天皇は国民の前でおことばを述べました。

「さきに万世のために 太平を開かんと決意し 四国競争宣言を受諾して以来 年をけみすること七歳 米国をはじめ連合国の好意と国民不屈の努力とによって ついにこの喜びの日を迎うることを得ました
 ここに内外の協力と誠意とに対し 衷心感謝するとともに 戦争による無数の犠牲者に対しては あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します
 また 特にこの際 既往の推移を深く省み 相共に戒慎し 過ちをふたたびせざることを 堅く心に銘すべきであると信じます
 新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成し得ること 期して待つべきであります
 この時に当たり 身寡薄なれども 過去を顧み 世論に察し 沈思熟慮 あえて自らを励まして 負荷の重きにたえんことを期し 日夜ただおよばざることを恐れるのみであります」by昭和天皇

新聞は退位説に終止符を打ち、決意を新たに祝うと報じました。
このおことばは、その後の日本にどのような影響を与えたのでしょうか?

道義的な責任を認めて詫びる・・・
このニュアンスは消えてしまい、重い責任をあえて背負う形で、引き続き天皇としての責任を果たすという議論になってしまっています。
天皇の責任の所在を天皇自身が明らかにする「おことば」があれば、戦争に協力した国民の責任も含めて議論が始まります。
もし出されていれば、全ての責任を昭和天皇だけに押し付けるわけにはいかない・・・
戦前戦後生きてきた政治家や戦争に協力した国民の責任をどう考えるのか??
そういう問題にも発展していく可能性のある問題でした。

あいまいな形で処理されてしまったのは悔やまれる・・・
うやむやになってしまったのは、昭和天皇にとって心苦しいことで・・・
お詫びの言葉を入れたかった昭和天皇・・・入れたくなかった吉田茂・・・
朝鮮戦争の特需で景気が回復し、経済成長路線に踏み出していく未来が見えてきていました。
国民の大多数がどん底から脱出し、経済成長路線に・・・みんな前の方に希望を託す・・・!!

1953年12月田島道退官し、その後ソニーの会長に。。。
1960年御成婚直後の皇太子夫妻がソニーの工場に・・・。
迎える田島道治・・・初めての民間出身の皇太子妃誕生の選定にも貢献がありました。
戦後、象徴として国民と歩みを共にしてきた天皇・・・
1989年・・・87歳で生涯を閉じました。

昭和・・・平成・・・令和・・・と、受け継がれてきた象徴天皇。
その出発点を記録した拝謁記・・・

田島は記しています。

「新しい皇室と国民の関係を、理想的にざ漸次致したいと存じます」

昭和天皇と田島道治の5年間の対話・・・
それは、象徴天皇とは何か?改めて私たちに問いかけています。

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料理は芸術、器は料理の着物・・・今では当たり前のようですが、この言葉が生まれたのは80年前・・・北大路魯山人の言葉でした。
しかし、魯山人はその才能がゆえに波乱の人生を歩みます。
陶芸、書、料理に非凡の才能をみせ、昭和の美術界に新風を巻き起こした総合芸術家・北大路魯山人・・・
傲慢、不遜と言われようとも自分を貫き通しました。

「富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい
 それを極めた通人などというものがあり得るかどうか」

魯山人は戸さんの一等地に高級料亭を開業。
自ら料理長となり、既成の概念を次々に覆していきます。
その味に見せられて、吉田茂、犬養毅、島崎藤村、芥川龍之介・・・歴代の首相をはじめ、一流の人々が集まりました。
しかし、魯山人に認められたものだけが、美食の門をくぐることを許されました。
高い評価の反面、徹底的に美を追求し、完璧を求める姿勢は、周りとの軋轢を生みます。
自分の指示した意味の分からない料理人・・・身だしなみの行き届かない仲居・・・気に入らない従業員は罵倒して次々とクビに・・・!!

「高きを行く人においては、衆は必ずそれを非る」

魯山人はどんな批判にも動じません・・・己の信じた道を進む魯山人!!
しかし、思いもよらない落とし穴が・・・
自ら立ち上げた料亭を追放されたのです。
どうして・・・??

孤高の芸術家・・・北大路魯山人。
すべてを犠牲にして美しさを追い求めた激しくも切ない生涯です。

様々な分野で優れた作品を残した魯山人・・・
しかし、魯山人は美術学校に通ったことも、陶芸の先生についたこともありませんでした。
殆どが幼いころからの独学でした。
どうして芸術の道を目指したのでしょうか?

1883年、魯山人は京都に生まれます。
本名は北大路房次郎。
父は上賀茂神社の神職の家柄でしたが、魯山人が生まれる前に亡くなりました。
母・登女は、生まれたばかりの房次郎を養子に出します。
女手一つで育てられるほど家計に余裕がなかったのです。
房次郎を待っていたのは、養父母の冷たい仕打ちでした。
棒で殴られるなどの暴力も度々でした。
養子先を転々としていた頃の忘れられない思い出は・・・
3歳の時、里親の娘に背負われて上賀茂神社の裏山にのぼりました。
そこには5月の陽光の中、真っ赤な山ツツジが咲いていました。

「自分はこれからこのような美しいものを生涯追い求めて生きたい」という願望となり、それからは子供心にも「自分は美しいものをこの世に探すために生まれてきたのだ」という確固とした信念が心に定着したのだ

1889年、4度目と言われる養子先は貧しい木版職人の家でした。
6歳の房次郎は、ここでやっと落ち着くことができました。
房次郎は養父母に気に入られようと、毎朝の飯炊きを買って出ます。
房次郎は研究を重ね、安い米でも美味しく炊き上がる・・・米炊き名人になって親に褒められます。
房次郎は他にも様々な料理を作って気に入られます。
人生で初めて人に認められたと感じました。

この頃、見知らぬ母の面影を求めて訪れていたのは、京都市内の二条城・・・

「僕は生まれたとき、お母さんを知らない
 京都の二条城へ遊びに行っては、門の扉についている鋲のあのおっぱいみたいな金具をなめていた
 固かったがそれを吸った」

そんな房次郎の孤独を慰めてくれたのが絵でした。
将来絵描きになれたら・・・房次郎は絵の学校に行きたいと頼むものの、そんな余裕はないと養父に断られます。
なんとか金を稼ぐ方法はないのか・・・??
12歳の時、房次郎は養父に頼みます。

「これからは木版の仕事を手伝います。
 その代わりに絵を描くことを許してくれませんか?」

養父は仕事を手伝うのなら・・・と、小遣いを貯めて絵筆を買うことを許しました。
房次郎は仕事を手伝う中で、絵画、彫刻に親しみ、その基礎を身に着けていきます。

1895年、12歳の時に賞金の出る「一字書きコンクール」に応募、何千という応募作の中から最高位の「天の位」に選ばれます。初めて自分の手で金を稼ぐことができました。
自信をつけた房次郎は、書で賞金を稼ぎます。
房次郎の書はどんどん上達し、養父は「うちのせがれはすごい!!」と、周囲に自慢するほどでした。

里親を転々とし、常に人の顔を伺いながら生きてきた房次郎・・・
書で生計を立てられれば、そんな生活から解放される・・・??
東京へ行って、書の修行をしよう・・・と考えていたある日、実の母が東京にいることがわかりました。
房次郎はすぐに母を訪ねて東京に・・・!!
母はある男爵の家で働いていました。
生れて20年間会えなかった母・・・どんな人だろう・・・??
ところが・・・
「自分を見ても、少しも嬉しさとか懐かしさとか言った表情を顔に表さず、むしろ実に冷たい態度だった
 つんとして、何しに来たと言わんばかりのこわ面で、僕はおそろしささえ感じたほどだった」

母は黙って外に出ていき、着物と下着を買ってきてくれた。
せめてもの親心でしたが・・・嬉しさがこみ上げたのもつかの間でした。

「それが一目で古衣だったので、僕は失望すると同時に癪に触ったことを今でも覚えている」

魯山人が作り、天下の料亭と言われた「星丘茶寮」。
魯山人は料理や器はもちろん、料理人の服装や仲居の接客、室内の装飾品に至るまですべてに徹底的にこだわります。
そこに理想の世界を実現しようとしたのです。
どうして食の理想郷を築こうとしたのでしょうか?

東京で書を生業にして暮らしたい房次郎・・・しかし、当時は生活のために他の仕事もしなければなりませんでした。
その頃から美しいものへのこだわりはけた違い・・・貧乏暮らしでも金に糸目はつけませんでした。

ある会社に勤め、昼食に豆腐をとっていたところ上司が・・・
「君は実に贅沢じゃないか」
「何が贅沢なものですか
 豆腐がいくらするというんです」
「その入れ物が第一立派じゃないか
 それが贅沢だというんだ」
房次郎が使っていたのは、ギヤマンの高価な器でした。
1か月分の給料をつぎ込んでいたのです。
安い豆腐でも、器ひとつで美味しくも不味くも見える・・・
後に「器は料理の着物」となる考えはこの頃からあったのです。

若き房次郎にとって、美術品は先生・・・。

古の書を見る・・・骨董の器を使う・・・すべては審美眼と創作のスタイルを磨くためです。

そのためには家族をも犠牲に・・・
24歳で道教の女性と結婚し、二人の子供がいた房次郎・・・
ところが房次郎は身籠った妻と長男を東京に残し、美術の研究のために朝鮮半島へ!!
2年後、日本に戻った房次郎に大きな転機が・・・
京都の実業家・内貴清兵衛の食客となったのです。
裕福な風流人だった清兵衛は、房次郎を気に入って屋敷にただで住まわせます。
房次郎はたまに雑用する以外は、清兵衛の集めた飛び切りの古美術品を手に美しさを研究します。
食道楽の房次郎は、自分と清兵衛のために食事を作るようになります。
房次郎の出す料理は、ごちそうを食べなれている清兵衛でさえ「うまい」と言いました。
この時、清兵衛が発した言葉は、房次郎が生涯忘れない教えとなりました。
「料理も芸術やで」

1920年、再び東京に戻った房次郎は36歳の時に、古美術店「大雅堂」を開業。
この時、共同経営者となったのが、中村竹四郎です。
竹四郎は写真雑誌のカメラマンもしていて美術の知識も豊富でした。
二人は意気投合し、銀座や京橋で飲み歩き、深夜まで芸術話に花を咲かせました。
そして、深い信頼関係を築いていきます。
房次郎にとって初めて心を開いた友でした。

しかし、店を開業した直後、株式市場が暴落し大不況に・・・!!
店には閑古鳥が・・・なんとか客を集めなければ・・・
苦肉の策は・・・上手い料理を美術品の器で食べさせるというものでした。
気に入れば器を買ってもらう・・・

貴重な美術品の器で上手いものを食べられると口コミで噂が広まり、店には客が殺到!!
二人はこの商売を「美食倶楽部」と命名しました。
この頃から房次郎は、新たな雅号を名乗るようになります。
後に昭和の美術界にこの人ありと言われる北大路魯山人の誕生でした。

美食倶楽部をはじめて4年・・・1923年、49歳の時に関東大震災が起き、大雅堂焼失!!
ところが常連客から再開してほしいと次々依頼が・・・
この時、魯山人にはあの言葉がよみがえっていました。
「料理も芸術やで」
魯山人は竹四郎と全く新しい食の殿堂を作ろうとします。
国会議事堂を望む東京のど真ん中に会員制の高級料亭「星岡茶寮」を・・・!!
敷地の総面積は3000坪、10の客間に茶室が5室。。。大料亭でした。
経営の一切は親友の竹四郎に・・・魯山人は顧問・・・自由な立場で現場の陣頭指揮を執るためでした。

魯山人が目指したのは、料亭に入っていから出るまでのすべてに満足できる空間でした。
そのため、星丘茶寮には次々と常識を打ち破るアイデアが・・・!!
まず料理の根本の食材・・・魯山人は京都市の阿知川に自ら出向き、ここの鮎を出したいと考えました。
しかし、鮎は傷みやすく・・・京都から東京までは3~4日かかるので腐らないように腸を抜いて運ぶのが常でした。

「鮎のわたの苦味は、また格別の風韻が口に美しく残る
 はらわたを抜いてしまったのでは、鮎そのものの味覚価値は語るまでもない」

そこで考えたのは、はらわたを残すために鮎を生きたままな運ぶというものでした。
鮎を死なせないように、48時間水をかき混ぜて酸素を送り続けて運搬、流通網が発達していない昭和初期、最高の食材を全国から取り寄せる魯山人です。

魯山人は、料理の出し方にも独特で、それまでの正式な日本料理はお膳にいくつもの料理を乗せて一緒に出したので、汁物が覚めてしまうこともしばしば・・・
そこで、魯山人は作り立ての美味しさにこだわり、一品ずつだし、濃い味は続けません。
現在の日本料理では珍しくない出し方も、魯山人のアイデアでした。
客の好き嫌いを記録し、決して嫌いなものは出させません。
魯山人は従業員の立ち居振る舞いも料理に影響する重要な要素だと考えます。
仲居に生け花や茶道を習わせます。
洗練された所作を身に付けさせたのです。
すべては、お客様に喜んでもらいたいという魯山人一流のもてなしでした。
一番のこだわりは魯山人が料理の着物という器・・・
料亭の規模から考えると5000点の器が必要でした。
他の職人が作る器では満足できないと、膨大な数を料理の器を自ら製作。

「美味しい食物は、それにふさわしい美しさのある食器を欲求し、それに盛らなくては不足を訴えることになる」

箸置きのような小さなものにも気を配り、火鉢や床の間の掛け軸、風呂まで自ら作り、星岡茶寮全体を魯山人がプロデュースしたのです。

人間が生活するうえで関わるもの全部を作っていたのです。
その美しさが一番大事な要素でした。
会員には、政治家、作家、実業家など角界の名士が集まり、星岡茶寮は今を時めく高級料亭として名を馳せます。
しかし、魯山人が認めない人物は、会員にはなれませんでした。
魯山人が人物を評価する基準は、美に対する眼一点にありました。
星岡茶寮は魯山人にとって食の理想郷でした。

星岡茶寮は大成功し、魯山人は時の人となりました。
「魯山人の料亭の会員でなければ日本の名士ではない」とまで言われたほどでした。
ところが11年後・・・心血を注いだ星岡茶寮から追放されます。
どうして・・・??

東京から電車で1時間・・・緑豊かな北鎌倉にとある施設が・・・
陶芸の窯・・・星岡窯です。星岡茶寮で使う器を作るために、久谷や瀬戸から職人を集めました。
中には後に人間国宝となる陶芸家・荒川豊蔵もいました。
古今の名品を収集した建物もありました。
金に糸目をつけずに集めた収集品が3000点あったのです。
魯山人はこれを、坐辺師友の精神と言いました。
身辺にあるものこそ、師であり友であるということです。
古美術を研究するには、近くに置き、触れることが必要だと考えたのです。
古美術の傑作に触れ、目の肥えた魯山人・・・職人に求めるものが高くなっていきます。

「芸術家は人相が悪くては駄目だ。
 お前なんか、飯茶碗ぐらいしかできない人相をしている」

自分の思い通りにならないときは、職人たちを罵倒し、次々とやめさせていきました。
1年半で33人もの従業員が去っていきました。
星岡茶寮の人間も、少しのミスも許さず・・・従業員の袖がわからないくらいの汚れがついているのを見かけたときに・・・

「何のために白い上着にしていると思っているんだ
 ほんの少しの汚れでも、目立つようにしているからだ!!バカモン!!すぐ洗ってこい!!」

魯山人と共同経営者の竹四郎・・・従業員たちの間で二人に影の呼び名がつけられました。
竹四郎は”旦那様”・・・温厚で信望が厚く、魯山人に怒られた従業員を慰めました。
魯山人は”ドラ猫”・・・しょっちゅう怒鳴っているからです。

「魯山人は気難しい奴だと思っている人がいる
 私が人の事を褒めたことがほとんどないのだから、褒められる道理がない
 世の人々からよく言われようと思えば、いたってやさしいことだ
 だが、うまくもないものをうまいと言うわけにはゆかぬ」

星丘茶寮の名声が高まり、客は増える一方・・・
経営も順調のように見えました。
しかし、竹四郎と魯山人の間には、少しずつ亀裂が入っていました。
魯山人の買い集めた古美術品の支払いが膨らんでいたのです。
最初は竹四郎も目をつぶっていましたが、出費が経営を圧迫するにあたり、遂に魯山人にこう切り出します。

「少し、収集を減らしてくれんやろか」
「何を言うか・・・
 星岡は、わしのおかげでもっているんや
 皿一枚も自由に買えんとは、料理を作るなどもうようやらん」

魯山人は意に介しませんでした。
昭和11年7月・・・一通の封筒が魯山人のもとに届きました。
内容証明で・・・そこに書かれていたのは、”北大路房次郎 解雇”でした。
通知を読んだ魯山人は顔面蒼白となり、ブルブル震え呆然自失となりました。
それまでの自信満々な魯山人とはまるで別人でした。
誰も信じない魯山人が、唯一心を開いていた竹四郎からの解雇通知でした。
友から捨てられたのです。
星岡茶寮の人々は、怒り狂った魯山人が来るかも??と、戦々恐々でしたが・・・何日たっても姿を現しません。
ある日・・・遂に魯山人が現れました。
従業員が出ると
「元気でやっているかな それじゃ・・・」
息苦しそうにそれだけ言って何もせず引き返しました。
これが、魯山人が星岡茶寮に足を踏み入れた最後でした。

星岡を追放された魯山人に残されたのは、北鎌倉の星岡窯。
客の注文を取り、焼き物を売って生活するしかなくなりました。
しかし、そのことが再び魯山人を輝かせることになります。
傑作を次々と発表していくのは50を過ぎたこの頃からでした。

陶芸にのめり込んだ魯山人が、何よりも追い求めた色・・・それは、幼いころに見た山ツツジの色。
鮮やかな赤に衝撃を受けたその色を焼きつけようとしたのです。

「この歳になっても、あのツツジの赤がヨウでんのじゃ」

太平洋戦争の終結から2年後、魯山人は64歳・・・
東京銀座に「火土火土美房」を開業。
看板には英語でこう書かれていました。
「日本でもっとも偉大な芸術家」と。

美を追求し、創作に一身に打ち込んだ結果、魯山人は自信満々のドラ猫になっていました。
置かれた作品は、進駐軍の将校たちに大人気。
その評判は海にわたりアメリカ本土まで・・・!!
アメリカ屈指の大富豪ロックフェラー3世からアメリカでの展覧会と講演を依頼されます。
しかもロックフェラーは、費用の一切を出してくれるという・・・
ところが魯山人は、
「お気持ちだけで十分
 招待では言いたいことも言えないから、自費で行く」
と言ったものの、旅費のあてがある訳でもなく・・・
結局、旅行費用500万円(現在の1億円相当)を借金で用意しました。

1954年、71歳で欧米に出発・・・機上の人となります。
どこに行っても魯山人で、フランスではピカソと会います。

「ピカソはアトリエの入り口にあるくず鉄で作った人形の前で”どうだ、面白いだろう”と笑った
 こんなものをさも傑作か何かのように話したり喜んだりするのは、ピカソ一流のハッタリだなと、僕は警戒しながら眺めたものだ」

反対にシャガールのアトリエを訪ねた際には話が弾み、
「東洋の陶器にはいろいろな秘密があるのでしょう
 土のこととか、釉薬のこととか、そういう秘密がこちらに入ってくると、私たちの作品ももっと芸術的なものになるでしょう」
「シャガールの方が、ピカソよりよっぽどましだ」

1955年、72歳の時、人間国宝の打診をされます。
星岡窯の従業員は、人間国宝に指定されることを望みました。
魯山人は欧米の大借金のために、職人たちにロクに給料を払っていませんでした。
建物の雨漏りも直せない・・・
魯山人が人間国宝にいなれば、作品の値は2倍以上になり経営も楽になる・・・
しかし、魯山人は人間国宝の指定を断ります。

創造するということは、官に対してなびくことではない・・・
魯山人は、官に媚びることはできなかったのです。

1959年、76歳の時、末期の肝硬変で入院。
入院からおよそ50日・・・魯山人はこの世を去ります。

ひとつだけみんなに分かって欲しいことは
わしの人生は、この世の中を少しでも美しいものにしたいと思いながら歩んだ人生だったということだ

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東京にある三井本館・・・この建物には、GHQの外交局が置かれていました。
昭和26年、日本の戦後交渉が行われました。
対日講和特使J・F・ダレスと総理大臣吉田茂・・・敗戦から6年・・・独立を念願する日本に対し、ダレスは条件を出してきました。

前年に始まった朝鮮戦争・・・東西冷戦が強まる中、アメリカは日本を自由主義陣営に組み込むべく、再軍備を求めてきたのです。
30万の軍隊を・・・。

戦後日本は、アメリカの要求に応じ、非軍事化を推し進めてきていました。
しかし、とうのアメリカが方向転換してきたのです。
拒めば独立は遠のく・・・?
吉田の苦渋の決断とは・・・??
戦後日本の出発点となったサンフランシスコ講和への道は・・・??

昭和22年3月17、日本外国特派員協会で世界を驚かす会見が開かれました。
記者たちに語り掛けたのは・・・連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー。

「日本の民主化は進み、懸案の非軍事化も順調である。
 1年以内に占領を終わらせたい。」

yosida
GHQによる占領から1年6か月、アメリカが要求していた非軍事化と民主化・・・戦争放棄をうたった日本国憲法にかかわったのは吉田茂。
「負けっぷりをよくしようではないか」
敗戦で焼け野原になってしまった日本・・・戦争孤児があふれ、その日食べるものにも困る・・・そんな日本。。。
一刻も早く独立し、戦後復興に邁進しなければ!!と、考えていました。
そんな吉田にとって、マッカーサーの発言は願ってもないことでした。


しかし・・・戦後急速にアメリカと対立関係になってきていたソ連が強硬に反対!!
盛り上がった講和の空気はしぼんでいきました。
そして、ヨーロッパで広がっていく東西冷戦。。。
ソ連によって東欧諸国は共産主義に組み込まれ、アメリカを盟主とする自由主義が激しく対立していました。
遠のいた講和の雰囲気が変わったのは昭和24年11月アメリカ国務省が「講和草案を準備している」との情報が入ったのです。
深刻化する冷戦化!!講和を実現し、日本を確実に自由主義勢力に引き入れたい!!と、思っていたのです。
占領開始から4年・・・日本では独立の機運が高まりますが、吉田は慎重でした。

吉田の気がかりは。。。アメリカ国防総省の反対でした。
大陸では中華人民共和国成立!!
独立すれば、日本にアメリカの基地を置くことができないかもしれない!!と思っていたからです。
このまま国防総省が反対すれば、講和は一向に始まらない!!
吉田は最も信頼する大蔵大臣・池田隼人を密使としてアメリカに送ります。

昭和25年4月25日、GHQから経済視察ということで渡米の許可が下ります。
池田が面会したのは・・・GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジ。
ドッジは国防総省にも顔が効きました。
「講和条約を結んだ後も、アメリカは軍を日本に駐留させる必要があるだろうか?
 もしアメリカからその希望を言い出しにくいなら、日本政府から提案してもよい。」
吉田は国防総省が望んでいるアメリカ軍の日本駐留を日本から申し出ることで、事態の解決を謀ろうとしました。
劇的な効果・・・!!これがアメリカを動かします!!
いよいよ対日講和が・・・!!

daresu














対日講和に本腰を入れ始めたアメリカ・・・
その特使に任ぜられたのが、J・F・ダレス・・・共産主義勢力に対する強硬派で知られていました。
昭和25年6月21日、ダレスが予備調査のために来日。
記者団に対し、「自由の世界・囚われの世界がある。」と、反共主義者をアピールします。
ダレスは、日本に基地の提供だけではなく、再軍備をも求める意向を示します。
吉田はどう対処したのでしょうか?

「再軍備は断った・・・日本はとても再軍備できる状態ではなかったからだ。。。
 日本は貧乏のどん底だった。
 戦前の過ちは、軍備の重さが引き起こしたのだから。」

独立国が自衛のための軍隊を持つことは当然だと考えていたダレスは・・・吉田の回答に困惑しましたが・・・過去の過ちを知り、経済だけでも回復させようと思っていた吉田にとっては再軍備の負担は大きすぎました。
平行線のまま・・・

昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発!!

38度線を越えて南下した朝鮮軍を国連軍が迎え撃ち、泥沼化していきます。
冷戦の始まりでした。
アジアの共産主義勢力の台頭をまざまざと見せつけられたダレスは、国防総省を説得!!
反共への目覚めが生まれてきたこのときに、交渉を進め、自由主義化するべきだ!!と。
ダレスに対して国防総省は、有事の際に日本の軍隊がアメリカ軍と行動を共にすることを要求。
どの程度の軍隊が想定されていたのでしょうか??
ソ連の脅威に対し、10個師団の軍隊が・・・1個師団=3万2500。。。3万×10個師団=30万人以上の軍隊を要求されていました。
現在の自衛隊は22万・・・国防総省の要求は苛烈なものでした。
昭和25年11月24日、アメリカ政府は、対日講和7原則を発表!!
日本が国際連合に加盟することを念頭に、すべての戦争当事国は日本への賠償請求権を放棄すべきと明記されました。
吉田が望んでいた寛大な講和に沿うものでした。
日本の安全保障は・・・アメリカとの間に”継続的かつ強力的な責任”と、暗にアメリカの駐留継続が書かれていました。
そして、正式に講和交渉が始まろうとしていました。
いろいろな案を想定していた吉田茂。

①国連安全保障案
すべてを国連軍にゆだねる。

②北太平洋軍事制限案
北太平洋地域の平和及び安全の強化のための提案で、そこには日本列島と朝鮮半島を非武装地帯とするというものでした。
再軍備拒否への強い思いがそこにはありました。

③日米二国間条約案
アメリカ軍を継続して駐留させるというもの。

昭和26年1月25日、ダレスが再び日本の地を踏みました。
29日・・・三井本館の1室で、第1回の交渉が行われました。
会談は冒頭から激しい応酬となりました。
「一刻も早く独立を!!」
「自由主義陣営の強化にどのような貢献をするのか?」
「再軍備すれば、自主経済が不能になる。
 対外的にも、再軍備には杞憂がある。」
「再軍備しないというのは、日本が何もしないことのいいわけか・・・??」

マッカーサーも交えることに・・・マッカーサーは、再軍備は日本経済の足かせになると吉田を支持します。
しかし、頑として主張を曲げないダレス・・・。
追い詰められていく吉田!!

2月2日・・・
「ただもぞ無だけでは、平和は得られません。
 我々は皆、家に住み、財産を持っています。
 警戒もせず、泥棒に家を荒らされるような人は、まったく同情に値しません。」
改めて強調された、ダレスの再軍備要求!!
それは、もはや無視出来ないものでした。
一刻も早く占領状態から脱したい!!
国民の期待も高まります!!

2月3日・・・
職員たちに・・・近いうちに5万人に近い保安隊を組織するという案をアメリカ側に提示することを相談します。
保安隊とは、自衛隊の前身です。
メモは英語にされ、ダレスのもとへ・・・。
その2日後の2月5日・・・
「対日講和7原則にのっとって講和作業を進展させる」と返事がありました。

2月7日ダレスと最後の会談に臨んだ吉田。
二国間で安全保障に関する新しい条約を結ぶ前提で講和をすることを確認します。
再軍備に関しては、アジアで反対論が出てくることを考慮し、当面公にしないことで一致します。
講和への道筋ができてきました。

2月11日、交渉を終えたダレスが日本を離れました。
アメリカには帰らず、オーストラリアやフィリピンの説得に回ります。
ヨーロッパにも回り、賠償金を求めないように熱心に説得します。
半年後の8月31日・・・吉田茂は、講和会議のために、サンフランシスコに向けて旅立ちました。
オペラハウスで行われ・・・参加国は、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアなどの共産国を含めた52か国。
代表権問題を抱える中国や戦時下の韓国は招かれませんでした。
当初はソ連の妨害が考えられましたが、ダレスの根回しで順調に進みます。
自由主義陣営の48か国が日本との講和につくことになりました。
9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印!!
ここに、長きにわたる占領が終わり、国家としての日本の独立が認められたのです。

6時間後・・・吉田はサンフランシスコ郊外に向かっていました。
第六兵団駐屯地・・・。日米安全保障条約の調印に臨むために!!
その際、吉田は池田隼人ら一員には誰にも署名させませんでした。
アメリカ軍の駐留継続と引き換えに、安全保障をアメリカにゆだねるという条約・・・
その責任を吉田一人で背負ったのです。

ダレスはその後、アイゼンハワー政権の国務長官になり、冷戦下のアメリカ外交をリードしていきますが・・・
がんを患い、昭和34年5月に死去。
昭和42年10月・・・吉田茂は89歳でこの世を去りました。
あの昭和の選択は、私たちに何をもたらし、何を問いかけているのでしょうか??

後の世代がこの不平等を平等に近づけてくれ!!という思いから、一人で署名したのかもしれません。

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田原総一朗の仰天歴史塾~戦後復興と日米安保・吉田茂と岸信介~
昨日の続きです。。。

ここから暗躍するのが岸信介。。。
講和条約発行の日・・・
公職追放を解除されて政界に復帰して来ました。

政界再編を狙って、鳩山一郎を主とする新党結成。
吉田の追い落としにかかります。

岸は、経済優先の吉田とは正反対の政治を目指しました。

その為に、保守勢力を結集させます。
「戦前は、いざという場合、陛下のご聖断で決まった。
 戦後は数が重要だ」
と、しました。

昭和の妖怪と呼ばれた男・・・

裏方に徹しながら、55年体制を作ります。


当時は財界から金をもらって政治家がお互いに覇権争いをしている時代でした。
資本主義だと腐敗が起きる・・・
岸信介は、東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入り、北一輝らの影響を受け、革新官僚として国家社会主義に目覚めます。

1936年に満州国事業部次長となり、満州の産業経済を一手に運営、「満州は私の作品です。」
当時、満州で活躍した人を・・・「弐キ参スケ」と呼びました。
東條英機・星野直樹・岸信介・松岡洋右・鮎川義介(日産の創始者)のことです。
これが、岸の人脈と金脈となります。

東條英機内閣の時に大臣となり・・・
しかし、岸が戦争終結に向かったので、東条英機内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。

A級戦犯として逮捕され、しかし釈放、公職追放の後に政界復帰します。
裏には、アメリカとの取引も?疑われています。

政界では・・・当然保守派の一人となるかと思われました。

憲法改正・自立独立派で、60年安保改正をはじめ、改憲、再軍備を主張しています。

この岸の作った55年体制・・・。日本の政治体制のの基礎となります。

保守の自由民主党が結成されます。
憲法改正と再軍備を主張します。

革新は、日本社会党。
護憲と非武装中立を主張します。

岸は、幹事長に就任し、党内を掌握、次の総裁を狙います。

鳩山一郎の後を、岸・石井光二郎・石橋湛山が次期総裁を狙いますが・・・

1957年第1次岸内閣発足。
用意周到にステップを上がり、首相の座に上り詰めます。
岸流の日本づくりが始まりました。
憲法改正論者の岸・・・経済優先から憲法改正へ舵を取ろうとします。


首相就任2か月後にマッカーサー大使と会談。
あの、GHQのマッカーサー元帥の甥です。

55年体制を基盤に交渉を重ね・・・
1960年1月19日新安保条約調印。
安保条約の改定にこぎつけます。

しかし、国内は、反安保でもが荒れ狂います。
国民に歓迎されると思っていたのに・・・。

5月20日未明、衆議院で新安保条約強行採決。
これで、さらに抗議行動が膨らみます。

6月15日、国会構内に乱入した全学連と警官隊が激突!!
東大生、樺美智子が死亡。
これが決定的な事件となります。

60年安保内容は・・・
①基地をつくる場合、相談する必要がある。
②日本防衛の義務あり。
③起源は10年間。

改善されたはずなのに・・・
日本中が反対!!でした。

それは・・・
国民は、A級戦犯でありながら、政界に復帰していた・・・アメリカと何か密約をしている・・・。
そんな岸が信用できなかったのです。

しかし、アメリカは岸を大変信用していました。
裏工作をして・・・
将来は対等安保にしたいが、憲法を改正するまでは出来ないので、部分改定にしてほしいと申し入れたのです。

しかし、国民は反発します。明らかに改善しているのに・・・
そこには、岸が出した「警職法改正案」がありました。
これは、警察官の職務・権限の拡大を目的に提出されたものですが、これに反対したことが、60年安保へと繋がっていくのです。

警職法改正案・・・
安保改正を前に、警察力を強化しようとしたものです。
大規模な反対運動で、警職法改正案は、廃案となりました。

戦前の、国権主義に逆行するような岸の政策に国民は反発したのです。
滅私奉公に・・・戦前に戻ってしまう。

おまけに、A級戦犯だったこともイメージダウンです。

憲法改正が遠のき、経済が優先されるようになります。。。
安保は、6月18日・・・自然成立しましたが、岸は辞めざるを得なくなりました。

この後は、

吉田路線の経済優先が良いのか?
岸路線の憲法改正が良いのか?

憲法改正は棚上げされたまま、経済成長の道を邁進します。
池田勇人は、所得倍増計画を打ち出し、ひたすら豊かな社会を作ろうとします。
経済大国の道を、猛スピードで走るのです。

その急成長の歪の中から、大政治家が生まれます。
彼は、日本全土を改造しようとします。

まっしぐらに突き進んだ男。。。田中角栄。
日本は、成長から混迷の時代へ向かおうとしていました。


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