日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:吉田茂

【北大路魯山人(きたおおじろさんじん)好み】【美濃焼(みのやき)】織部福寿蟹絵9号土鍋(※炊飯不可)

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料理は芸術、器は料理の着物・・・今では当たり前のようですが、この言葉が生まれたのは80年前・・・北大路魯山人の言葉でした。
しかし、魯山人はその才能がゆえに波乱の人生を歩みます。
陶芸、書、料理に非凡の才能をみせ、昭和の美術界に新風を巻き起こした総合芸術家・北大路魯山人・・・
傲慢、不遜と言われようとも自分を貫き通しました。

「富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい
 それを極めた通人などというものがあり得るかどうか」

魯山人は戸さんの一等地に高級料亭を開業。
自ら料理長となり、既成の概念を次々に覆していきます。
その味に見せられて、吉田茂、犬養毅、島崎藤村、芥川龍之介・・・歴代の首相をはじめ、一流の人々が集まりました。
しかし、魯山人に認められたものだけが、美食の門をくぐることを許されました。
高い評価の反面、徹底的に美を追求し、完璧を求める姿勢は、周りとの軋轢を生みます。
自分の指示した意味の分からない料理人・・・身だしなみの行き届かない仲居・・・気に入らない従業員は罵倒して次々とクビに・・・!!

「高きを行く人においては、衆は必ずそれを非る」

魯山人はどんな批判にも動じません・・・己の信じた道を進む魯山人!!
しかし、思いもよらない落とし穴が・・・
自ら立ち上げた料亭を追放されたのです。
どうして・・・??

孤高の芸術家・・・北大路魯山人。
すべてを犠牲にして美しさを追い求めた激しくも切ない生涯です。

様々な分野で優れた作品を残した魯山人・・・
しかし、魯山人は美術学校に通ったことも、陶芸の先生についたこともありませんでした。
殆どが幼いころからの独学でした。
どうして芸術の道を目指したのでしょうか?

1883年、魯山人は京都に生まれます。
本名は北大路房次郎。
父は上賀茂神社の神職の家柄でしたが、魯山人が生まれる前に亡くなりました。
母・登女は、生まれたばかりの房次郎を養子に出します。
女手一つで育てられるほど家計に余裕がなかったのです。
房次郎を待っていたのは、養父母の冷たい仕打ちでした。
棒で殴られるなどの暴力も度々でした。
養子先を転々としていた頃の忘れられない思い出は・・・
3歳の時、里親の娘に背負われて上賀茂神社の裏山にのぼりました。
そこには5月の陽光の中、真っ赤な山ツツジが咲いていました。

「自分はこれからこのような美しいものを生涯追い求めて生きたい」という願望となり、それからは子供心にも「自分は美しいものをこの世に探すために生まれてきたのだ」という確固とした信念が心に定着したのだ

1889年、4度目と言われる養子先は貧しい木版職人の家でした。
6歳の房次郎は、ここでやっと落ち着くことができました。
房次郎は養父母に気に入られようと、毎朝の飯炊きを買って出ます。
房次郎は研究を重ね、安い米でも美味しく炊き上がる・・・米炊き名人になって親に褒められます。
房次郎は他にも様々な料理を作って気に入られます。
人生で初めて人に認められたと感じました。

この頃、見知らぬ母の面影を求めて訪れていたのは、京都市内の二条城・・・

「僕は生まれたとき、お母さんを知らない
 京都の二条城へ遊びに行っては、門の扉についている鋲のあのおっぱいみたいな金具をなめていた
 固かったがそれを吸った」

そんな房次郎の孤独を慰めてくれたのが絵でした。
将来絵描きになれたら・・・房次郎は絵の学校に行きたいと頼むものの、そんな余裕はないと養父に断られます。
なんとか金を稼ぐ方法はないのか・・・??
12歳の時、房次郎は養父に頼みます。

「これからは木版の仕事を手伝います。
 その代わりに絵を描くことを許してくれませんか?」

養父は仕事を手伝うのなら・・・と、小遣いを貯めて絵筆を買うことを許しました。
房次郎は仕事を手伝う中で、絵画、彫刻に親しみ、その基礎を身に着けていきます。

1895年、12歳の時に賞金の出る「一字書きコンクール」に応募、何千という応募作の中から最高位の「天の位」に選ばれます。初めて自分の手で金を稼ぐことができました。
自信をつけた房次郎は、書で賞金を稼ぎます。
房次郎の書はどんどん上達し、養父は「うちのせがれはすごい!!」と、周囲に自慢するほどでした。

里親を転々とし、常に人の顔を伺いながら生きてきた房次郎・・・
書で生計を立てられれば、そんな生活から解放される・・・??
東京へ行って、書の修行をしよう・・・と考えていたある日、実の母が東京にいることがわかりました。
房次郎はすぐに母を訪ねて東京に・・・!!
母はある男爵の家で働いていました。
生れて20年間会えなかった母・・・どんな人だろう・・・??
ところが・・・
「自分を見ても、少しも嬉しさとか懐かしさとか言った表情を顔に表さず、むしろ実に冷たい態度だった
 つんとして、何しに来たと言わんばかりのこわ面で、僕はおそろしささえ感じたほどだった」

母は黙って外に出ていき、着物と下着を買ってきてくれた。
せめてもの親心でしたが・・・嬉しさがこみ上げたのもつかの間でした。

「それが一目で古衣だったので、僕は失望すると同時に癪に触ったことを今でも覚えている」

魯山人が作り、天下の料亭と言われた「星丘茶寮」。
魯山人は料理や器はもちろん、料理人の服装や仲居の接客、室内の装飾品に至るまですべてに徹底的にこだわります。
そこに理想の世界を実現しようとしたのです。
どうして食の理想郷を築こうとしたのでしょうか?

東京で書を生業にして暮らしたい房次郎・・・しかし、当時は生活のために他の仕事もしなければなりませんでした。
その頃から美しいものへのこだわりはけた違い・・・貧乏暮らしでも金に糸目はつけませんでした。

ある会社に勤め、昼食に豆腐をとっていたところ上司が・・・
「君は実に贅沢じゃないか」
「何が贅沢なものですか
 豆腐がいくらするというんです」
「その入れ物が第一立派じゃないか
 それが贅沢だというんだ」
房次郎が使っていたのは、ギヤマンの高価な器でした。
1か月分の給料をつぎ込んでいたのです。
安い豆腐でも、器ひとつで美味しくも不味くも見える・・・
後に「器は料理の着物」となる考えはこの頃からあったのです。

若き房次郎にとって、美術品は先生・・・。

古の書を見る・・・骨董の器を使う・・・すべては審美眼と創作のスタイルを磨くためです。

そのためには家族をも犠牲に・・・
24歳で道教の女性と結婚し、二人の子供がいた房次郎・・・
ところが房次郎は身籠った妻と長男を東京に残し、美術の研究のために朝鮮半島へ!!
2年後、日本に戻った房次郎に大きな転機が・・・
京都の実業家・内貴清兵衛の食客となったのです。
裕福な風流人だった清兵衛は、房次郎を気に入って屋敷にただで住まわせます。
房次郎はたまに雑用する以外は、清兵衛の集めた飛び切りの古美術品を手に美しさを研究します。
食道楽の房次郎は、自分と清兵衛のために食事を作るようになります。
房次郎の出す料理は、ごちそうを食べなれている清兵衛でさえ「うまい」と言いました。
この時、清兵衛が発した言葉は、房次郎が生涯忘れない教えとなりました。
「料理も芸術やで」

1920年、再び東京に戻った房次郎は36歳の時に、古美術店「大雅堂」を開業。
この時、共同経営者となったのが、中村竹四郎です。
竹四郎は写真雑誌のカメラマンもしていて美術の知識も豊富でした。
二人は意気投合し、銀座や京橋で飲み歩き、深夜まで芸術話に花を咲かせました。
そして、深い信頼関係を築いていきます。
房次郎にとって初めて心を開いた友でした。

しかし、店を開業した直後、株式市場が暴落し大不況に・・・!!
店には閑古鳥が・・・なんとか客を集めなければ・・・
苦肉の策は・・・上手い料理を美術品の器で食べさせるというものでした。
気に入れば器を買ってもらう・・・

貴重な美術品の器で上手いものを食べられると口コミで噂が広まり、店には客が殺到!!
二人はこの商売を「美食倶楽部」と命名しました。
この頃から房次郎は、新たな雅号を名乗るようになります。
後に昭和の美術界にこの人ありと言われる北大路魯山人の誕生でした。

美食倶楽部をはじめて4年・・・1923年、49歳の時に関東大震災が起き、大雅堂焼失!!
ところが常連客から再開してほしいと次々依頼が・・・
この時、魯山人にはあの言葉がよみがえっていました。
「料理も芸術やで」
魯山人は竹四郎と全く新しい食の殿堂を作ろうとします。
国会議事堂を望む東京のど真ん中に会員制の高級料亭「星岡茶寮」を・・・!!
敷地の総面積は3000坪、10の客間に茶室が5室。。。大料亭でした。
経営の一切は親友の竹四郎に・・・魯山人は顧問・・・自由な立場で現場の陣頭指揮を執るためでした。

魯山人が目指したのは、料亭に入っていから出るまでのすべてに満足できる空間でした。
そのため、星丘茶寮には次々と常識を打ち破るアイデアが・・・!!
まず料理の根本の食材・・・魯山人は京都市の阿知川に自ら出向き、ここの鮎を出したいと考えました。
しかし、鮎は傷みやすく・・・京都から東京までは3~4日かかるので腐らないように腸を抜いて運ぶのが常でした。

「鮎のわたの苦味は、また格別の風韻が口に美しく残る
 はらわたを抜いてしまったのでは、鮎そのものの味覚価値は語るまでもない」

そこで考えたのは、はらわたを残すために鮎を生きたままな運ぶというものでした。
鮎を死なせないように、48時間水をかき混ぜて酸素を送り続けて運搬、流通網が発達していない昭和初期、最高の食材を全国から取り寄せる魯山人です。

魯山人は、料理の出し方にも独特で、それまでの正式な日本料理はお膳にいくつもの料理を乗せて一緒に出したので、汁物が覚めてしまうこともしばしば・・・
そこで、魯山人は作り立ての美味しさにこだわり、一品ずつだし、濃い味は続けません。
現在の日本料理では珍しくない出し方も、魯山人のアイデアでした。
客の好き嫌いを記録し、決して嫌いなものは出させません。
魯山人は従業員の立ち居振る舞いも料理に影響する重要な要素だと考えます。
仲居に生け花や茶道を習わせます。
洗練された所作を身に付けさせたのです。
すべては、お客様に喜んでもらいたいという魯山人一流のもてなしでした。
一番のこだわりは魯山人が料理の着物という器・・・
料亭の規模から考えると5000点の器が必要でした。
他の職人が作る器では満足できないと、膨大な数を料理の器を自ら製作。

「美味しい食物は、それにふさわしい美しさのある食器を欲求し、それに盛らなくては不足を訴えることになる」

箸置きのような小さなものにも気を配り、火鉢や床の間の掛け軸、風呂まで自ら作り、星岡茶寮全体を魯山人がプロデュースしたのです。

人間が生活するうえで関わるもの全部を作っていたのです。
その美しさが一番大事な要素でした。
会員には、政治家、作家、実業家など角界の名士が集まり、星岡茶寮は今を時めく高級料亭として名を馳せます。
しかし、魯山人が認めない人物は、会員にはなれませんでした。
魯山人が人物を評価する基準は、美に対する眼一点にありました。
星岡茶寮は魯山人にとって食の理想郷でした。

星岡茶寮は大成功し、魯山人は時の人となりました。
「魯山人の料亭の会員でなければ日本の名士ではない」とまで言われたほどでした。
ところが11年後・・・心血を注いだ星岡茶寮から追放されます。
どうして・・・??

東京から電車で1時間・・・緑豊かな北鎌倉にとある施設が・・・
陶芸の窯・・・星岡窯です。星岡茶寮で使う器を作るために、久谷や瀬戸から職人を集めました。
中には後に人間国宝となる陶芸家・荒川豊蔵もいました。
古今の名品を収集した建物もありました。
金に糸目をつけずに集めた収集品が3000点あったのです。
魯山人はこれを、坐辺師友の精神と言いました。
身辺にあるものこそ、師であり友であるということです。
古美術を研究するには、近くに置き、触れることが必要だと考えたのです。
古美術の傑作に触れ、目の肥えた魯山人・・・職人に求めるものが高くなっていきます。

「芸術家は人相が悪くては駄目だ。
 お前なんか、飯茶碗ぐらいしかできない人相をしている」

自分の思い通りにならないときは、職人たちを罵倒し、次々とやめさせていきました。
1年半で33人もの従業員が去っていきました。
星岡茶寮の人間も、少しのミスも許さず・・・従業員の袖がわからないくらいの汚れがついているのを見かけたときに・・・

「何のために白い上着にしていると思っているんだ
 ほんの少しの汚れでも、目立つようにしているからだ!!バカモン!!すぐ洗ってこい!!」

魯山人と共同経営者の竹四郎・・・従業員たちの間で二人に影の呼び名がつけられました。
竹四郎は”旦那様”・・・温厚で信望が厚く、魯山人に怒られた従業員を慰めました。
魯山人は”ドラ猫”・・・しょっちゅう怒鳴っているからです。

「魯山人は気難しい奴だと思っている人がいる
 私が人の事を褒めたことがほとんどないのだから、褒められる道理がない
 世の人々からよく言われようと思えば、いたってやさしいことだ
 だが、うまくもないものをうまいと言うわけにはゆかぬ」

星丘茶寮の名声が高まり、客は増える一方・・・
経営も順調のように見えました。
しかし、竹四郎と魯山人の間には、少しずつ亀裂が入っていました。
魯山人の買い集めた古美術品の支払いが膨らんでいたのです。
最初は竹四郎も目をつぶっていましたが、出費が経営を圧迫するにあたり、遂に魯山人にこう切り出します。

「少し、収集を減らしてくれんやろか」
「何を言うか・・・
 星岡は、わしのおかげでもっているんや
 皿一枚も自由に買えんとは、料理を作るなどもうようやらん」

魯山人は意に介しませんでした。
昭和11年7月・・・一通の封筒が魯山人のもとに届きました。
内容証明で・・・そこに書かれていたのは、”北大路房次郎 解雇”でした。
通知を読んだ魯山人は顔面蒼白となり、ブルブル震え呆然自失となりました。
それまでの自信満々な魯山人とはまるで別人でした。
誰も信じない魯山人が、唯一心を開いていた竹四郎からの解雇通知でした。
友から捨てられたのです。
星岡茶寮の人々は、怒り狂った魯山人が来るかも??と、戦々恐々でしたが・・・何日たっても姿を現しません。
ある日・・・遂に魯山人が現れました。
従業員が出ると
「元気でやっているかな それじゃ・・・」
息苦しそうにそれだけ言って何もせず引き返しました。
これが、魯山人が星岡茶寮に足を踏み入れた最後でした。

星岡を追放された魯山人に残されたのは、北鎌倉の星岡窯。
客の注文を取り、焼き物を売って生活するしかなくなりました。
しかし、そのことが再び魯山人を輝かせることになります。
傑作を次々と発表していくのは50を過ぎたこの頃からでした。

陶芸にのめり込んだ魯山人が、何よりも追い求めた色・・・それは、幼いころに見た山ツツジの色。
鮮やかな赤に衝撃を受けたその色を焼きつけようとしたのです。

「この歳になっても、あのツツジの赤がヨウでんのじゃ」

太平洋戦争の終結から2年後、魯山人は64歳・・・
東京銀座に「火土火土美房」を開業。
看板には英語でこう書かれていました。
「日本でもっとも偉大な芸術家」と。

美を追求し、創作に一身に打ち込んだ結果、魯山人は自信満々のドラ猫になっていました。
置かれた作品は、進駐軍の将校たちに大人気。
その評判は海にわたりアメリカ本土まで・・・!!
アメリカ屈指の大富豪ロックフェラー3世からアメリカでの展覧会と講演を依頼されます。
しかもロックフェラーは、費用の一切を出してくれるという・・・
ところが魯山人は、
「お気持ちだけで十分
 招待では言いたいことも言えないから、自費で行く」
と言ったものの、旅費のあてがある訳でもなく・・・
結局、旅行費用500万円(現在の1億円相当)を借金で用意しました。

1954年、71歳で欧米に出発・・・機上の人となります。
どこに行っても魯山人で、フランスではピカソと会います。

「ピカソはアトリエの入り口にあるくず鉄で作った人形の前で”どうだ、面白いだろう”と笑った
 こんなものをさも傑作か何かのように話したり喜んだりするのは、ピカソ一流のハッタリだなと、僕は警戒しながら眺めたものだ」

反対にシャガールのアトリエを訪ねた際には話が弾み、
「東洋の陶器にはいろいろな秘密があるのでしょう
 土のこととか、釉薬のこととか、そういう秘密がこちらに入ってくると、私たちの作品ももっと芸術的なものになるでしょう」
「シャガールの方が、ピカソよりよっぽどましだ」

1955年、72歳の時、人間国宝の打診をされます。
星岡窯の従業員は、人間国宝に指定されることを望みました。
魯山人は欧米の大借金のために、職人たちにロクに給料を払っていませんでした。
建物の雨漏りも直せない・・・
魯山人が人間国宝にいなれば、作品の値は2倍以上になり経営も楽になる・・・
しかし、魯山人は人間国宝の指定を断ります。

創造するということは、官に対してなびくことではない・・・
魯山人は、官に媚びることはできなかったのです。

1959年、76歳の時、末期の肝硬変で入院。
入院からおよそ50日・・・魯山人はこの世を去ります。

ひとつだけみんなに分かって欲しいことは
わしの人生は、この世の中を少しでも美しいものにしたいと思いながら歩んだ人生だったということだ

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東京にある三井本館・・・この建物には、GHQの外交局が置かれていました。
昭和26年、日本の戦後交渉が行われました。
対日講和特使J・F・ダレスと総理大臣吉田茂・・・敗戦から6年・・・独立を念願する日本に対し、ダレスは条件を出してきました。

前年に始まった朝鮮戦争・・・東西冷戦が強まる中、アメリカは日本を自由主義陣営に組み込むべく、再軍備を求めてきたのです。
30万の軍隊を・・・。

戦後日本は、アメリカの要求に応じ、非軍事化を推し進めてきていました。
しかし、とうのアメリカが方向転換してきたのです。
拒めば独立は遠のく・・・?
吉田の苦渋の決断とは・・・??
戦後日本の出発点となったサンフランシスコ講和への道は・・・??

昭和22年3月17、日本外国特派員協会で世界を驚かす会見が開かれました。
記者たちに語り掛けたのは・・・連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー。

「日本の民主化は進み、懸案の非軍事化も順調である。
 1年以内に占領を終わらせたい。」

yosida
GHQによる占領から1年6か月、アメリカが要求していた非軍事化と民主化・・・戦争放棄をうたった日本国憲法にかかわったのは吉田茂。
「負けっぷりをよくしようではないか」
敗戦で焼け野原になってしまった日本・・・戦争孤児があふれ、その日食べるものにも困る・・・そんな日本。。。
一刻も早く独立し、戦後復興に邁進しなければ!!と、考えていました。
そんな吉田にとって、マッカーサーの発言は願ってもないことでした。


しかし・・・戦後急速にアメリカと対立関係になってきていたソ連が強硬に反対!!
盛り上がった講和の空気はしぼんでいきました。
そして、ヨーロッパで広がっていく東西冷戦。。。
ソ連によって東欧諸国は共産主義に組み込まれ、アメリカを盟主とする自由主義が激しく対立していました。
遠のいた講和の雰囲気が変わったのは昭和24年11月アメリカ国務省が「講和草案を準備している」との情報が入ったのです。
深刻化する冷戦化!!講和を実現し、日本を確実に自由主義勢力に引き入れたい!!と、思っていたのです。
占領開始から4年・・・日本では独立の機運が高まりますが、吉田は慎重でした。

吉田の気がかりは。。。アメリカ国防総省の反対でした。
大陸では中華人民共和国成立!!
独立すれば、日本にアメリカの基地を置くことができないかもしれない!!と思っていたからです。
このまま国防総省が反対すれば、講和は一向に始まらない!!
吉田は最も信頼する大蔵大臣・池田隼人を密使としてアメリカに送ります。

昭和25年4月25日、GHQから経済視察ということで渡米の許可が下ります。
池田が面会したのは・・・GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジ。
ドッジは国防総省にも顔が効きました。
「講和条約を結んだ後も、アメリカは軍を日本に駐留させる必要があるだろうか?
 もしアメリカからその希望を言い出しにくいなら、日本政府から提案してもよい。」
吉田は国防総省が望んでいるアメリカ軍の日本駐留を日本から申し出ることで、事態の解決を謀ろうとしました。
劇的な効果・・・!!これがアメリカを動かします!!
いよいよ対日講和が・・・!!

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対日講和に本腰を入れ始めたアメリカ・・・
その特使に任ぜられたのが、J・F・ダレス・・・共産主義勢力に対する強硬派で知られていました。
昭和25年6月21日、ダレスが予備調査のために来日。
記者団に対し、「自由の世界・囚われの世界がある。」と、反共主義者をアピールします。
ダレスは、日本に基地の提供だけではなく、再軍備をも求める意向を示します。
吉田はどう対処したのでしょうか?

「再軍備は断った・・・日本はとても再軍備できる状態ではなかったからだ。。。
 日本は貧乏のどん底だった。
 戦前の過ちは、軍備の重さが引き起こしたのだから。」

独立国が自衛のための軍隊を持つことは当然だと考えていたダレスは・・・吉田の回答に困惑しましたが・・・過去の過ちを知り、経済だけでも回復させようと思っていた吉田にとっては再軍備の負担は大きすぎました。
平行線のまま・・・

昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発!!

38度線を越えて南下した朝鮮軍を国連軍が迎え撃ち、泥沼化していきます。
冷戦の始まりでした。
アジアの共産主義勢力の台頭をまざまざと見せつけられたダレスは、国防総省を説得!!
反共への目覚めが生まれてきたこのときに、交渉を進め、自由主義化するべきだ!!と。
ダレスに対して国防総省は、有事の際に日本の軍隊がアメリカ軍と行動を共にすることを要求。
どの程度の軍隊が想定されていたのでしょうか??
ソ連の脅威に対し、10個師団の軍隊が・・・1個師団=3万2500。。。3万×10個師団=30万人以上の軍隊を要求されていました。
現在の自衛隊は22万・・・国防総省の要求は苛烈なものでした。
昭和25年11月24日、アメリカ政府は、対日講和7原則を発表!!
日本が国際連合に加盟することを念頭に、すべての戦争当事国は日本への賠償請求権を放棄すべきと明記されました。
吉田が望んでいた寛大な講和に沿うものでした。
日本の安全保障は・・・アメリカとの間に”継続的かつ強力的な責任”と、暗にアメリカの駐留継続が書かれていました。
そして、正式に講和交渉が始まろうとしていました。
いろいろな案を想定していた吉田茂。

①国連安全保障案
すべてを国連軍にゆだねる。

②北太平洋軍事制限案
北太平洋地域の平和及び安全の強化のための提案で、そこには日本列島と朝鮮半島を非武装地帯とするというものでした。
再軍備拒否への強い思いがそこにはありました。

③日米二国間条約案
アメリカ軍を継続して駐留させるというもの。

昭和26年1月25日、ダレスが再び日本の地を踏みました。
29日・・・三井本館の1室で、第1回の交渉が行われました。
会談は冒頭から激しい応酬となりました。
「一刻も早く独立を!!」
「自由主義陣営の強化にどのような貢献をするのか?」
「再軍備すれば、自主経済が不能になる。
 対外的にも、再軍備には杞憂がある。」
「再軍備しないというのは、日本が何もしないことのいいわけか・・・??」

マッカーサーも交えることに・・・マッカーサーは、再軍備は日本経済の足かせになると吉田を支持します。
しかし、頑として主張を曲げないダレス・・・。
追い詰められていく吉田!!

2月2日・・・
「ただもぞ無だけでは、平和は得られません。
 我々は皆、家に住み、財産を持っています。
 警戒もせず、泥棒に家を荒らされるような人は、まったく同情に値しません。」
改めて強調された、ダレスの再軍備要求!!
それは、もはや無視出来ないものでした。
一刻も早く占領状態から脱したい!!
国民の期待も高まります!!

2月3日・・・
職員たちに・・・近いうちに5万人に近い保安隊を組織するという案をアメリカ側に提示することを相談します。
保安隊とは、自衛隊の前身です。
メモは英語にされ、ダレスのもとへ・・・。
その2日後の2月5日・・・
「対日講和7原則にのっとって講和作業を進展させる」と返事がありました。

2月7日ダレスと最後の会談に臨んだ吉田。
二国間で安全保障に関する新しい条約を結ぶ前提で講和をすることを確認します。
再軍備に関しては、アジアで反対論が出てくることを考慮し、当面公にしないことで一致します。
講和への道筋ができてきました。

2月11日、交渉を終えたダレスが日本を離れました。
アメリカには帰らず、オーストラリアやフィリピンの説得に回ります。
ヨーロッパにも回り、賠償金を求めないように熱心に説得します。
半年後の8月31日・・・吉田茂は、講和会議のために、サンフランシスコに向けて旅立ちました。
オペラハウスで行われ・・・参加国は、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアなどの共産国を含めた52か国。
代表権問題を抱える中国や戦時下の韓国は招かれませんでした。
当初はソ連の妨害が考えられましたが、ダレスの根回しで順調に進みます。
自由主義陣営の48か国が日本との講和につくことになりました。
9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印!!
ここに、長きにわたる占領が終わり、国家としての日本の独立が認められたのです。

6時間後・・・吉田はサンフランシスコ郊外に向かっていました。
第六兵団駐屯地・・・。日米安全保障条約の調印に臨むために!!
その際、吉田は池田隼人ら一員には誰にも署名させませんでした。
アメリカ軍の駐留継続と引き換えに、安全保障をアメリカにゆだねるという条約・・・
その責任を吉田一人で背負ったのです。

ダレスはその後、アイゼンハワー政権の国務長官になり、冷戦下のアメリカ外交をリードしていきますが・・・
がんを患い、昭和34年5月に死去。
昭和42年10月・・・吉田茂は89歳でこの世を去りました。
あの昭和の選択は、私たちに何をもたらし、何を問いかけているのでしょうか??

後の世代がこの不平等を平等に近づけてくれ!!という思いから、一人で署名したのかもしれません。

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昨日の続きです。。。

ここから暗躍するのが岸信介。。。
講和条約発行の日・・・
公職追放を解除されて政界に復帰して来ました。

政界再編を狙って、鳩山一郎を主とする新党結成。
吉田の追い落としにかかります。

岸は、経済優先の吉田とは正反対の政治を目指しました。

その為に、保守勢力を結集させます。
「戦前は、いざという場合、陛下のご聖断で決まった。
 戦後は数が重要だ」
と、しました。

昭和の妖怪と呼ばれた男・・・

裏方に徹しながら、55年体制を作ります。


当時は財界から金をもらって政治家がお互いに覇権争いをしている時代でした。
資本主義だと腐敗が起きる・・・
岸信介は、東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入り、北一輝らの影響を受け、革新官僚として国家社会主義に目覚めます。

1936年に満州国事業部次長となり、満州の産業経済を一手に運営、「満州は私の作品です。」
当時、満州で活躍した人を・・・「弐キ参スケ」と呼びました。
東條英機・星野直樹・岸信介・松岡洋右・鮎川義介(日産の創始者)のことです。
これが、岸の人脈と金脈となります。

東條英機内閣の時に大臣となり・・・
しかし、岸が戦争終結に向かったので、東条英機内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。

A級戦犯として逮捕され、しかし釈放、公職追放の後に政界復帰します。
裏には、アメリカとの取引も?疑われています。

政界では・・・当然保守派の一人となるかと思われました。

憲法改正・自立独立派で、60年安保改正をはじめ、改憲、再軍備を主張しています。

この岸の作った55年体制・・・。日本の政治体制のの基礎となります。

保守の自由民主党が結成されます。
憲法改正と再軍備を主張します。

革新は、日本社会党。
護憲と非武装中立を主張します。

岸は、幹事長に就任し、党内を掌握、次の総裁を狙います。

鳩山一郎の後を、岸・石井光二郎・石橋湛山が次期総裁を狙いますが・・・

1957年第1次岸内閣発足。
用意周到にステップを上がり、首相の座に上り詰めます。
岸流の日本づくりが始まりました。
憲法改正論者の岸・・・経済優先から憲法改正へ舵を取ろうとします。


首相就任2か月後にマッカーサー大使と会談。
あの、GHQのマッカーサー元帥の甥です。

55年体制を基盤に交渉を重ね・・・
1960年1月19日新安保条約調印。
安保条約の改定にこぎつけます。

しかし、国内は、反安保でもが荒れ狂います。
国民に歓迎されると思っていたのに・・・。

5月20日未明、衆議院で新安保条約強行採決。
これで、さらに抗議行動が膨らみます。

6月15日、国会構内に乱入した全学連と警官隊が激突!!
東大生、樺美智子が死亡。
これが決定的な事件となります。

60年安保内容は・・・
①基地をつくる場合、相談する必要がある。
②日本防衛の義務あり。
③起源は10年間。

改善されたはずなのに・・・
日本中が反対!!でした。

それは・・・
国民は、A級戦犯でありながら、政界に復帰していた・・・アメリカと何か密約をしている・・・。
そんな岸が信用できなかったのです。

しかし、アメリカは岸を大変信用していました。
裏工作をして・・・
将来は対等安保にしたいが、憲法を改正するまでは出来ないので、部分改定にしてほしいと申し入れたのです。

しかし、国民は反発します。明らかに改善しているのに・・・
そこには、岸が出した「警職法改正案」がありました。
これは、警察官の職務・権限の拡大を目的に提出されたものですが、これに反対したことが、60年安保へと繋がっていくのです。

警職法改正案・・・
安保改正を前に、警察力を強化しようとしたものです。
大規模な反対運動で、警職法改正案は、廃案となりました。

戦前の、国権主義に逆行するような岸の政策に国民は反発したのです。
滅私奉公に・・・戦前に戻ってしまう。

おまけに、A級戦犯だったこともイメージダウンです。

憲法改正が遠のき、経済が優先されるようになります。。。
安保は、6月18日・・・自然成立しましたが、岸は辞めざるを得なくなりました。

この後は、

吉田路線の経済優先が良いのか?
岸路線の憲法改正が良いのか?

憲法改正は棚上げされたまま、経済成長の道を邁進します。
池田勇人は、所得倍増計画を打ち出し、ひたすら豊かな社会を作ろうとします。
経済大国の道を、猛スピードで走るのです。

その急成長の歪の中から、大政治家が生まれます。
彼は、日本全土を改造しようとします。

まっしぐらに突き進んだ男。。。田中角栄。
日本は、成長から混迷の時代へ向かおうとしていました。


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楽しいです。

いつも、毎週してくれないかなあ・・・と、思いながら、この品質を保つためには月1回が限界なのかもしれませんね。黒ハート

今回は、~戦後復興と日米安保・吉田茂と岸信介~です。

1960年、国会周辺は、史上最大の騒乱・・・安保闘争で揺れていました。

日米安保の生みの親・・・吉田茂は、戦後復興の為に占領軍と対峙し、独立させました。
その時、安保が生まれたのです。
再軍備を避け、復興をしようとした吉田・・・

そして・・・その安保を改定し、安保を覆そうとしたのが岸信介でした。
憲法改正に臨もうとする岸・・・

2人の政治路線が安保で交わる時・・・
日本の政治が揺れました。

時を超えた路線構想は、今を持ってもまだ終わっていません。
ここに、戦後日本の原点がありまあす。

日本は戦後、占領軍・・・主にアメリカ軍の支配下に置かれました。
そのGHQ最高司令官が、ダグラス・マッカーサーでした。


マッカーサーは、
①日本を民主国家にすること。
②特にアメリカと戦争をしない国にすること。
が目的でした。

群を解体し、天皇を裁判にかける???

きちっとした天皇陛下に対し、ラフな格好のマッカーサー・・・
「天皇は現人神ではない・・・」
新聞の写真を見た日本人はショックを受けます。

imgtennoh[1].jpg


この時の会談の内容は・・・

天皇「・・・戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身あなたの代表する諸国の裁判に委ねるためおたずねした。」

マッカーサー「・・・明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。」

と、マッカーサーは懐古しています。

マッカーサーは、当時、命乞いに来たと思っていたのです。
    ↓
世界一のジェントルマンだ!!
と言うことで、裁判を回避しようと考えるのです。

天皇の地位を守ろうとします。
天皇をそのまま象徴として使うことに決めました。
陸海軍の武装解除の時も・・・普通なら反乱がおきるところですが、解体自体を「天皇の命令」としたので、反乱は起きなかったそうです。

その占領下にあって、マッカーサーと対立、対抗したのが吉田茂です。

GHQは、日本の弱体化を狙っていました。
重工業の設備を取り上げ、他の国に分配しようとします。
その為に邪魔な政治家を次々と公職追放します。

占領軍と渡り合える政治家を排除していきます。
その中で排除されなかった人物、どの政党にも属さず、議員でもなかった男・・・「吉田茂」です。
外交官出身で、後にワンマン宰相となる強烈な個性を持つ男。

吉田は、戦後復興の為に立ち上がります。

「日本を豊かな国に作りなおす!!占領軍と戦わなければならない」と思いました。

この吉田茂・・・
明治11年東京神田に生まれます。
明治34年学習院に入学。後に、東京大学卒業。
明治39年28歳で外務省に入省します。

当時の花形は、欧米に行く中、吉田は中国・済南領事となります。以後、天津・奉天総領事を歴任。
昭和21年68歳で第45代内閣総理大臣となります。

その間に・・・日本国憲法発布・サンフランシスコ講和条約調印・日米安全保障条約調印と、、、大きな足跡を残します。

何故・・・吉田が首相になれたのか?
それは、戦争中に憲兵隊に逮捕されていたからです。
「落日燃ゆ」でもそうでしたね。

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何故逮捕されたかというと・・・
まだ戦争中に・・・近衛文麿と一緒に、東條英機を失墜させようとしたからです。
しかし、近衛家や吉田家にいたお手伝いさん・運転手はみんな、東條のスパイだったので、筒抜けでした。
近衛を逮捕するわけにもいかず、吉田を逮捕。。。

この「東條を辞めさせようとしたこと!!」が勲章となって、首相の座まで駆け上がるのです。

ワンマン宰相と言われた吉田茂。
どの政党にも属さない吉田が首相の座につくことになりました。
戦争反対を唱えていた吉田は、GHQに受け入れられ、生き残ったのです。

この逮捕の一件は・・・
戦争末期、誰の目にも敗戦は明らかでした。しかし、軍部の反対もあり、「どのように敗戦を受け入れるのか」「どのタイミングで敗戦を申し入れるのか」が問題となっていました。
そんな中、吉田は宮中を巻き込んで、降伏のための工作をしたのです。

外交官の吉田が首相となる・・・それはひとえに占領軍と交渉できる能力が求められたからなのです。

この時期、GHQは日本の弱体化を図っていました。
しかし日本は、GHQの意図を外し、復興する必要がありました。

吉田は占領軍と渡り合い、日本を独立させるために戦うことになります。

「戦争に負けて、外交に勝つ」

実は、戦後第1回の選挙で勝ったのは、当時の「鳩山一郎」が総裁の自由党でした。
だから、鳩山が首相となると誰もが思っていたのですが、GHQにより、公職追放されてしまいました。
後に戦争反対を唱えていましたが・・・リップサービスが豊富で、軍隊やヒトラーを褒めたことが一因と言われています。

だから、吉田茂が首相となったのです。
政治家でない男が首相となりました。

吉田茂の総理大臣就任条件は・・・
①資金作りは一切やらない
②閣僚の選考に口出しは無用
③辞めたくなったらいつでも辞める
鳩山一郎の回顧録には・・・
④GHQの追放が解けたら首相の座を鳩山一郎に返す・・・とあります???

しかし、返さなかったので、後にケンカのもとになりますが、本当に④はあったのでしょうか???

マッカーサーのしたこと・・。
追放と戦犯処理・・・
次に、憲法。

1946年11月に公布されました。
GHQは、そこでは、集会、結社、言論、宗教の自由、国民主権、男女同権などの基本的価値観を示しました。

第一条 天皇は、日本国民の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく

戦前は、主権は天皇にありましたが、国民主権とし天皇を象徴としました。

第九条  
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する

②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない
 国の交戦権は、これを認めない

第1項では安全保障を放棄しています。

日本の上層部はこれを受けて、「日本人が日本国を守れないなら、アメリカに守ってもらおう」という考えに変わっていきます。

平和のためには安全保障がいるのに、その安全保障を考えないことにし、経済の復興ののみに、心血を注ぎました。

しかし、米ソ冷戦が始まります。
1947年にトルーマン・ドクトリンで、ソ連・共産主義の封じ込めが始まります。
1948年チェコスロバキア政変
1948年ベルリン封鎖
1950年朝鮮戦争
1962年キューバ危機

日本を弱くしようと思っていたのに・・・強くしようという考え方に世界が動き始めます。

WTO(1955) VS NATO(1949) です。

世界を二分し、ソ連とアメリカの覇権争いが30年近く続きます。

1957年ソ連がスプートニク号の打ち上げに成功。
科学の力を見せつけます。。。
宇宙軍拡競争へ・・・

アジアにおいては・・・
1949年中国で毛沢東率いる共産党が勝利。
東南アジアでも共産主義勢力が力をつけます。

そんな中、アメリカの考え方が変わり始めました。

1950年朝鮮戦争勃発
この戦争で、在日アメリカ軍が殆ど朝鮮に出兵してしまいます。
がら空きになった日本。。。
1950年8月、マッカーサーは警察予備隊(今の自衛隊)を作ることを吉田に要請。
半島の混乱で、日本の軍事的価値が上がったのです。

アメリカは、日本の弱体化政策を変えなければならなくなりました。
そこが、吉田の・・・日本の独立の千載一遇のチャンス。

1950年 警察予備隊発足     7万5000人
1952年 保安隊(保安庁設置)  11万人
1954年 自衛隊(防衛庁設置)  陸上 13万人
                海上 1万5000人
                航空   6000人 

この警察予備隊は軍隊なのか???
おまけにGHQは共産党を怖がって、非合法としてしまいました。

アメリカが自由にしてくれたのに・・・
レッドパージが始まります。

1951年9月サンフランシスコ講和条約
アメリカは、日本の独立を遅くしようとしていたけれども、冷戦に対抗するためにはそうも言っていられなくなって。。。

アメリカは最前線の拠点にしようと考えました。
対日平和条約調印。

48か国調印していますが、、、ソ連や中国は入っていません。
そして、48か国の中には日本の独立に反対している人々もありました。

その講和条約を結ばせるために、吉田茂は池田勇人を密使としてワシントンに送り込みます。
池田は、ジョセフ・ドッジと密談。

講和の見返りに、アメリカ軍の駐留を認めることを伝えます。
その工作をして、締結にまでこぎつけるのです。

しかし、吉田にはもう一つの署名が待っていました。
日米安全保障条約の調印式です。
これこそ、吉田がアメリカに提案したみかえりでした。

アメリカ軍の駐留継続をする安保が交換条件だったのです。
駐留する代わりに、群を持たずに守ってもらえる・・・
アメリカ軍の傘下に入れば、軍を持つ必要もない。。。持ちたくない吉田は安保を選んだのです。

しかし、日本人からはたった一人で署名します。
この日米安保条約の内容は、かなり不平等なものでした。
吉田は、安保条約には問題があると思っていたのです。

基地をつくる場合、相談しなくてよい
日本防御の義務なし
期限は無制限

こんな内容でしたが、吉田の中では、いくら不平等であったとしても日本の独立を最優先にしたかったことが伺えます。

国内で吉田に対する批判が始まります。
「憲法を改正すべきではないか???」

その後いろいろな問題が出てきます。

吉田は佐藤栄作の造船疑獄に対し指揮権を発動し逮捕を止めたり、「バカヤロー」解散をしたり・・・
何より、鳩山一郎が帰ってきたのに首相の席を譲らない。。。

ここで活躍しだすのが、岸信介です。

その話は、また後で。。。

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