日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:吉良上野介

1702年12月14日、大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七士が、江戸本所にあった吉良邸に討ち入りしました。
主君の仇である高家肝煎・吉良上野介義央の首を討ち取りました。
江戸の人々の関心を集めたこの仇討事件・・・
四十七士の切腹からわずか12日後には、一連の赤穂事件を題材にした演目が江戸中村座で上演されました。
そして、事件から46年後の1748年8月に、大坂で上演された人形浄瑠璃がお馴染み「仮名手本忠臣蔵」です。

赤穂浪士たちは忠義の士として称賛され、吉良上野介は意地悪で強欲な悪者、敵役・・・アンチヒーローとなってしまいました。
しかし、地元では名君として立てられている吉良上野介・・・いったいどんな人物だったのでしょうか?

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1701年3月14日午前9時30分ごろ・・・
江戸城では五代将軍・徳川綱吉が湯殿で身を清め、身支度を整えていました。
この日は、綱吉が朝廷の使者たちに返礼を述べる”勅使奉答の儀”が城内の白書院で行われる予定でした。
朝廷を重んじる綱吉は、家臣たちにも粗相のないようにときつく申し付けていました。
ところが・・・儀式が始まる直前の午前11時ごろ・・・
白書院から20mほどしか離れていない松の大廊下で前代未聞の事件が起こったのです。

「この間の遺恨 覚えたるか!!」

なんと、朝廷の使者たちをもてなす饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、その指南役である高家肝煎・吉良上野介義央に背後からいきなり斬りかかったのです。

「殿中でござるぞ!!」

内匠頭を止めたのは、直前まで上野介と儀式について話し合いをしていた旗本の梶川与惣兵衛・・・
事件の唯一の目撃者です。
梶川が必死で内匠頭を止めているうちに、騒ぎを聞きつけた者たちが松の大廊下に駆けつけ、傷を負った上野介は御医師之間に運ばれました。
上野介が負った傷の具合は・・・??
治療した医師は栗崎道有で、彼の日記によると、額の傷は3寸6分・・・13.6㎝ほどで骨にも傷がつきましたが、6針ほど縫って致命傷には至りませんでした。
背中の傷は、もっと浅く3針縫う程度で済みました。
殿中では大刀の帯刀が禁止されていたため、上野介を切りつけた刀が殺傷能力の低い小刀だったこと、切っ先が烏帽子の金具に当たったことなどが致命傷に至らなかったと思われています。
事件当時、上野介61歳、内匠頭35歳、どうして上野介は指南までしていた年下の内匠頭からいきなり斬りつけられてしまったのでしょうか?
この後、吉良は幕府の取り調べに対してこう答えています。

「なんの恨みも受けた覚えはない
 全く、浅野の乱心としか言いようがない」by吉良上野介

「お上に対しては何の恨みもないが、吉良には私なりの遺恨があった
 その為、前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」by浅野内匠頭

二人の供述は食い違っていましたが、将軍・綱吉が原を立てたのは内匠頭に対してでした。

「なぜ、大事な日に、しかも殿中で私怨を晴らさなければならなかったのか?」

この日、綱吉は敬愛する生母・桂昌院を従一位に昇進させるため、朝廷の使者に働きかけるつもりでいました。
これにケチがつけられたと怒りが倍増!!
そして、即日、内匠頭に切腹を言い渡すのです。
一方、上野介は一切お咎めなし!!
江戸時代は喧嘩両成敗が天下の大法になっていて、喧嘩をした者はいかなる理由があろうとも双方ともに切腹ということになっていたのに・・・!!

吉良上野介がお咎めなしとなったのは、浅野内匠頭を必死で止めた梶川与惣兵衛の証言が決め手だったと思われます。

「内匠頭殿に斬りかかられて、上野介殿は刀に手をかけなかった」by与惣兵衛

内匠頭の一方的な強硬であって喧嘩ではないと判断して、お咎めなしとしました。
さらに、将軍綱吉は上野介を、

「殿中をはばかり、手向かいしなかったこと殊勝である」by綱吉

と褒め称え、

「手傷はどうか、追々全快すれば心置きなく出勤して勤めよ
 老体のことであるから十分保養するように」by綱吉

と見舞いの言葉までかけました。

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どうして吉良上野介は将軍・綱吉から厚遇されたのでしょうか?
ひとつには、上野介の経歴にあります。
そもそも吉良家は、清和源氏・足利氏の庶流・・・名門です。
室町時代には、”御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ”といわれるほど高い家格を誇っていました。
そして江戸時代になると、上野介の祖父・吉良義弥が徳川幕府の儀式や祭礼を司り、朝廷との交渉・連絡役も務める高家に就任するのです。
高家は、徳川家康の時代に新設された役職で、2代将軍秀忠の時代に確立されました。
室町時代から続く由緒正しき名家だけが高家に選出されました。
今川家・上杉家・織田家・武田家・吉良家などです。
天皇とか公家に謁見することが多いので、総じて高家の官位は高く、吉良家が高家に選ばれたのは、「儀式などに関する武家の礼法」が、室町時代から伝わっていたことが大きかったのです。

原則高家は世襲制。
これを継いだ上野介の父は、吉良家代々の礼法を江戸時代に即した形にし、年中行事の際の服装や礼儀作法などを細かく規定、吉良流礼法と呼ばれ、他の大名家にも広く普及していきました。
そして、1641年吉良上野介が生まれます。
上野介もまた、高家になるための英才教育を受け、28歳で家督を相続します。
1680年に、徳川綱吉が将軍宣下を受けた際には、宣下の取次ぎを担当しました。
そして、43歳の時、高家の中でも特に礼儀作法に精通している3人のうちの一人に選ばれ、高家肝煎となるのです。
石高わずか4200石の旗本でしたが、官位は波の大名よりも高く、従四位上でした。
上野介が綱吉から厚遇されたのは、朝廷を重んじる綱吉にとって非常に大事な存在だったからだと思われます。

さらに、もうひとつの理由が血縁関係・・・
上野介は、米沢藩2代藩主・上杉定勝の娘を娶り、二男三女をもうけますが、三姫の兄で家督を継いでいた綱勝が跡継ぎを残さぬまま急死したため、上杉家が断絶の危機・・・
そこで、長男・三之助を養子に出すことになりました。
その後、4代藩主となった綱憲(三之助)は、紀州徳川家の栄姫と結婚。
栄姫の兄が綱吉の娘と結婚していたことから、遠縁ながらも親戚でした。
こうしたことから、厚遇された可能性もあります。

赤穂浪士たちを吉良邸討ち入りさせることとなった松の大廊下刃傷事件・・・
事件の原因は、内匠頭に対する恨みだったと考えられます。
その恨みとは・・・??これには二人の立場が関係していました。

事件が起こった時、内匠頭は朝廷の使者をもてなす饗応役を務めていました。
そして、その指南役だったのが、高家肝煎だった上野介だったのです。
饗応役を仰せつかった大名はみな、高家の指南を仰ぐことになっていました。
失敗を許されない大役だったので、大大名でも低頭して高家に教えを受けていました。
つまり、上野介の方が内匠頭より立場が上・・・
忠臣蔵などでは、権力をかさに着た上野介が内匠頭を理不尽な理由でとことんいじめ抜きます。
パワハラで恨みを買ったのだとされています。
そして、その理不尽な理由については、内匠頭が詳細を語らずに即日切腹してしまったので、様々な憶測が飛び交いました。

①横恋慕説
上野介が美人と評判の内匠頭の妻に横恋慕するもふられてしまったため、その腹いせにいじめたというものです。
しかし、当時の大名の奥方が、他家の男性と顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。
なので、全くの創作です。

②塩田スパイ説
昭和になってからの説で、上野介は赤穂藩の主産業である塩の制法を盗むために密偵を派遣。
しかし、見つかって殺されてしまったため、内匠頭を逆恨みして虐めた・・・??
赤穂の製塩法は特別なものではなく、秘密にもされていませんでした。
わざわざ密偵を送り込む必要はありませんでした。
そもそも、吉良家が産業として塩を作っていたという記録はありません。
なので、信ぴょう性は低いと思われます。

③賄賂説
最も広く知られているのが、賄賂説です。
内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった・・・もしくは賄賂の額が少なかったために、上野介が腹を立て、内匠頭を虐めるようになったというものです。
事件のあった元禄期に書かれた尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記」にも記述があります。

”大名たちは、上野介に賄賂を贈り、様々なことを教えてもらっていた
 しかし、内匠頭は頑として賄賂を贈ろうとしなかった
 上野介はこれを不快に思い、嫌がらせをするようになった”

信憑性は高そうですが・・・
官位こそ高い上野介ですが、石高はわずか4200石の旗本です。
一方、内匠頭は赤穂藩5万石の大名です。
このようなときは、教えを受けた大名が、高家に相応の謝礼を払うのは武家社会の常識でした。
それをしなかった内匠頭の方が非常識とも言えます。
上野介がもらっていたのは、今でいうところの当然支払われるべき謝礼金だったのです。
実はこの頃、吉良家の財政は相当逼迫していたといわれ、謝礼金を払おうとしない内匠頭を上野介が快く思わなかった可能性は大いにあります。
そしてさらに、上野介が内匠頭に対する心証を悪くしたと思われるのが、儀式の予算です。
饗応役に任命された者は、接待にかかる費用を自費で負担しなければなりませんでした。
内匠頭は700両を・・・今のお金で7000万円ほどあれば足りるだろうと考えていました。
しかし、上野介は高家としての長年の経験から、最低でも1200両、1億2000万円は必要だと指南しましたが、内匠頭は頑としてこれを聞き入れませんでした。

高額な費用を自腹で出費するのは大変でしたが、上野介は嫌がらせでしたのではなく・・・
高家として当然の助言をしたにすぎません。
実際に、700両では全く足りず、内匠頭の見通しは甘かったのです。
こうしたことから上野介は不快に思い、厳しい態度をとるようになったようです。
「鸚鵡籠中記」には、上野介は老中の前でこんなことを言っていました。

「内匠頭殿は万事不調法で、言うべき言葉もありません
 公家衆も、御不快に思われています」by上野介

かなり辛辣で、内匠頭の面目は丸つぶれでした。

さらに、忠臣蔵では上野介は内匠頭に様々な嫌がらせをしています。
勅使たちの部屋に墨絵の屏風を置いた内匠頭に対し、何も問題はないのに
「勅使のお座敷に墨絵の屏風など失礼ではないか!」
と嘘を言い、金屏風に変えさせたり
勅使の宿坊は畳の張替えが必要なのを直前まで伝えず内匠頭を大慌てさせたり。
ウソを教える、必要な情報を教えないなど、露骨で悪質な嫌がらせを繰り返して、内匠頭を精神的に追い込んでいきます。
これが本当ならば、斬りつけられるのも仕方がない??

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武家社会の常識もわきまえず、助言にも耳を貸さない内匠頭に上野介が腹を立てて辛辣な態度をとったことはあったと思われます。
しかし、儀式を失敗させるような嫌がらせをしたとは考えにくいのです。

高家肝煎の上野介が、大事な儀式を失敗させるようなことをするわけがありません。
内匠頭が失敗すれば、指南役の上野介が恥をかくのです。
厳しく接していた可能性は高いものの、儀式を失敗させるような露骨な嫌がらせはしていませんでした。

では、どうして斬りつけられてしまったのでしょうか??
その理由は今もわかっていません。
しかし、謎を解くカギになりそうなのが、内匠頭が家臣たちに残した言葉・・・

「このようなことをするつもりがあれば知らせておいたのだが、今日、やむを得ない事情があってことを起こしたので、前もって知らせることが出来なかった」

つまり、殿中で上野介に斬りかかったのは、事前に計画していたのではなく、内匠頭の突発的なことだったと思われます。
内匠頭は生来とっても短期で、感情のコントロールが苦手だったともされています。
饗応役という大役のプレッシャーに加えて、上野介との関係の悪化、事件当日の気持ちが滅入るような曇天・・・
突発的に斬りかかってしまったのではないか??

内匠頭は、ストレスなどによって、腹部や胸部などに痛みが走る自律神経失調症のような持病があったといわれています。
事件に3日前にも薬を飲んでいたと当時の記録書に残されています。
饗応役という大役を務める緊張感、大きなストレスに加えて、天気のせいで落ち込んで情緒不安定となって突発的に事件を起こしてしまったのかもしれません。

1641年、江戸・鍛治橋で生まれた吉良上野介は、生涯を江戸で過ごしました。
しかし、旗本である吉良家は、三河国と上野国に、合計11カ所、4200石の領地を持っていました。
その中のひとつが、三河国の吉良荘・・・現在の愛知県西尾市吉良町です。
現在も、殿さまとして慕われています。

忠臣蔵の敵役・吉良上野介は、地元では今も昔も領民思いのお殿様でした。
その為、忠臣蔵の上映は、戦後までご法度でした。
吉良が悪人と言われることに対して、領民が非常に不愉快に思っていました。
吉良町には、上野介が施した数々の善政が伝えられています。

黄金堤は、川の氾濫に苦しむ領民を救うために、上野介が築かせたとされています。
お蔭で水害が無くなり、稲穂が黄金色に実ったことからその名がつけられたとか。
新田開発にも力を注いだといわれ、現在その地は、上野介の妻の名にちなんで、富好新田と言われています。
吉良家の菩提寺・華蔵寺・・・上野介が50歳の時に寄進したといわれる梵鐘が今も使われています。
さらに、愛用の茶道具が残されており、住職と茶を嗜んだといわれています。
上野介は早くから茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる千宗旦に弟子入り、上野介の上という字を分解した卜一という号を名乗り、独自の流派まで開いていました。
そんな上野介にとって、華蔵寺の庭園を眺めながら、お茶を点てるのは至福のひと時だったといいます。
領民思いのお殿様で、茶の湯を愛でる風流人・・・吉良町に伝わる上野介の姿は、忠臣蔵に描かれている天下の敵役とはかけ離れたものでした。
さらに、幻の書状と呼ばれていた書状が、2020年に見つかります。
朝廷との仕事で京都にいた上野介が、江戸にいた13歳の長女・鶴姫と5歳の次女・阿久里姫に宛てたもので、子供が読みやすいように仮名文字を多用しています。

ご機嫌よくお過ごしですか?
頑張って仕事を片付けるので、帰ったら色々とお話ししましょう
鶴には御所で使われているという珍しい香包などを、阿久里にはお人形を3つ贈りました
父がいなくて寂しいでしょうが、どうか元気で待っていてください

娘たちに対する深い愛情が文面からにじみ出ています。
指南役としては厳しい面もあったかもしれませんが、仕事を離れれば上野介は子煩悩で優しい父親だったようです。

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1701年3月26日、松の大廊下刃傷事件の12日後、高家肝煎の吉良上野介は幕府に退職願を提出し、幕府はこれを受理しました。
刃傷事件の責任をとったのか、それとも傷の治療に専念するつもりだったのか・・・退職の理由は今もわかっていません。
そして、同じ年の8月、上野介は呉服橋から江戸の場末の発展途上の本所へと引っ越すように幕府から命じられます。
上野介の引っ越し命令は謎が多く、どんな理由で誰が命じたのか??
ハッキリとは分かっていません。
ただ、赤穂浪士が討ち入りをしてきても、幕府は吉良を守らないという宣言にも取れます。
というのも、この頃江戸市中には、すでに「赤穂浪士たちが吉良を襲撃するのではないか」という噂が広まっていて、吉良邸の隣人が幕府に

「赤穂浪士が吉良邸を襲撃した場合、どう対処すればよろしいか」

と、たずねると幕府は、

「一切構わず、自邸内を守るように」

と答えたといいます。
また、討ち入りの日が近づき、赤穂浪士たちが市中で暗躍するようになっても、幕府は特に警戒を強めることなく傍観を続けます。
刃傷事件の際、斬りつけられても刀を抜かなかった上野介を褒め称え、無罪放免にした幕府がどうして・・・??
綱吉が内匠頭に対して行った即日切腹が、あまりにも性急で不公平なお沙汰だったとして世間の不評を買っていました。
生類憐みの令などによって、幕府への不満が高まっていました。
これ以上、幕府の評判を落さないように上野介を見捨てたのではないか??
厄介払いをしたのではないか??
上野介は、孤立無援となってしまいました。

どうして吉良上野介は討ち入りされてしまったのでしょうか??
赤穂浪士の襲撃を警戒していたという上野介・・・
常に本所の屋敷に閉じこもっていたわけではなく、わずかなお供を連れただけで、江戸市中を散策し、茶会にも度々参加していました。

討ち入り前の上野介の資料は乏しく、確かなことはわかっていません。
しかし、討ち入りがなかなか行われなかったこともあって、気のゆるみが生じたのかもしれません。
その為か、上野介は本所の屋敷でも度々茶会を開催します。
1702年12月14日、茶会を開く予定でいました。
しかし、これが大石内蔵助ら赤穂浪士たちの知る処となり、確実に上野介が在宅しているこの日を討ち入り決行日とされてしまいました。

そして迎えた運命の日・・・上野介は予定通り、本所の屋敷で茶会を開催。
客人たちに自慢の茶器で茶を振る舞い、日が沈むとそのまま酒宴に・・・
上野介が床に就いたのは夜更け過ぎのことでした。
外で討ち入りの準備が進んでいるとも知らずに。

「おのおの方、討ち入りでござる!!」

12月15日午前3時半ごろ、吉良邸討ち入り!!
赤穂浪士たちが吉良邸の表門と裏門の二手に分かれて討ち入り決行!!
裏門から侵入した赤穂浪士たちは、まず、鎹と金槌で吉良邸の家臣たちが暮らす長屋の戸口を塞いでしまいます。
こうして、100人以上いた吉良家の家臣のうち半数以上を戦わずして封じ込めたのです。
そうした状況で、吉良側はどう応戦したのでしょうか?

家臣たちは、必死に応戦!!
入念な計画を練っていた赤穂浪士は、吉良家臣たちを次々と撃退!!
襲撃の報を受けた上野介は、すぐに寝所を離れたため、赤穂浪士たちが踏み込んだ時にはすでに布団はもぬけの殻でした。
そして、赤穂浪士たちの必死の捜索によって、炭小屋に隠れていた上野介はついに見つかってしまいました。
内匠頭につけられた額と背中の傷が本人の証拠とされ、必死に命乞いをするも聞き入れられず、討ち取られてしまいました。

それが定説です。
上野介は命乞いをした・・・
ただ、上野介が刀を抜いて戦ったという説もあります。
当時の記録には、上野介は脇差を抜いて向かってきたと書かれています。
つまり、命乞いなどせず、闘死した可能性があるのです。
上野介も武士・・・赤穂浪士たちの討ち入りにおびえ、命乞いをしたのではなく、本当は最期まで武士として刀を手に戦って散っていったのかもしれません。

松の大廊下刃傷事件から1年9カ月がたった1702年12月15日未明。
吉良上野介は討ち入りを決行した大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士によって62年の生涯を終えました。
赤穂浪士たちは、上野介の首を白布で包み、槍先に掲げて、吉良邸から浅野家の菩提寺である泉岳寺まで12キロを練り歩いたといいます。
その姿を見た江戸の人々は、主君の仇を討った忠義の士と称賛します。
そして、1703年2月4日、幕府は赤穂浪士たちに切腹を言い渡しました。
世間が赤穂浪士たちを英雄と見なしていたため、幕府は批判を恐れて、打ち首という犯罪者扱いではなく、武士の対面を尊重した切腹としたのです。
これによって、赤穂浪士たちの人気が高まったのですが・・・
事件の被害者であるはずの吉良家に待っていたのは過酷な運命でした。
赤穂浪士たちが切腹して散った2月4日、上野介の嫡男・吉良義親にも、幕府からお沙汰が下りました。
それは・・・

「浅野内匠頭家来ども 上野介を討ち候
 その方 仕方不届きにつき 領地召し上げられ 諏訪安芸守へお預け仰せつけられ候也」

赤穂浪士たちに討ち入りを許し、上野介を討ち取らせてしまったのは武士として不届きだとして吉良家の領地没収。
当主であった義親は、罪人として諏訪高島城に預けられました。
随行の家臣はわずか2人・・・
帯刀を許されず、失意の義親は、その3年後、21歳という若さで亡くなり、吉良家は断絶となりました。

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吉良家に対する幕府の仕打ちは、あまりにもひどい・・・父を討たれて領地まで没収され、懸命に戦ったにもかかわらず、罪人にされてしまった義親は、気の毒でなりません。
幕府は、権威と人気回復のために、民衆の声に迎合し、吉良家を悪者に仕立て上げたのです。
吉良=悪者といったイメージは、その後に作られた歌舞伎や人形浄瑠璃などによって助長され、上野介は天下の嫌われ者となってしまいました。

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今からおよそ300年前の江戸時代前期、江戸城松の廊下で後世まで語り継がれることとなるあの事件が起こります。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家・吉良上野介に殿中で斬りつけた・・・松の廊下事件。
内匠頭は、この事件からわずか7時間後に切腹処分。
それから・・・およそ1年9か月後の1702年12月14日、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの一連の出来事が世にいう赤穂事件です。
そして、その事件をもとに作られた物語が、御存じ忠臣蔵です。

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”預置候金銀請払帳”・・・これは、吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・
忠臣蔵の決算書です。
その経費の総額は、現在の価値で8000万以上。
刃傷事件から討ち入りまで、1年9か月・・・そんな大金が、なぜ、何に必要だったのでしょうか?

刃傷事件当日、浅野内匠頭切腹から赤穂浅野家お取り潰しが決定しました。
国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになります。
これに際し、筆頭家老の大石内蔵助は、様々な成算処理を迫られることになります。
藩がお取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上しなければなりません。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産でした。
それを清算処理してお金に換える必要がありました。
内蔵助がまず着手したのが藩札の清算でした。

清算処理①藩札
藩札とは、諸藩が独自に発行している紙幣のことで、代金の代わりに商人などに支払われたものでした。
しかし、その価値は、藩が消滅するとなくなります。
そうなる前に、出回っている藩札を監禁する必要がありました。
しかし、これが莫大で、浅野家の記録によると、藩がこれまでに領内で発行した藩札の総額は銀900貫目・・・およそ18億円・・・藩の年間予算に匹敵していました。
赤穂浅野家のお取り潰しが伝わると、藩札を持っていた商人たちがただの紙切れになると、刃傷事件から5日後には当時の貨幣である銀に交換してほしいと札座に殺到しました。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札のための準備金・銀700貫目が用意されていました。
これを使えば、藩札の換金に必要な銀900貫目の大部分が清算でき、残りは200貫目となります。
内蔵助は、残り分を赤穂藩の特産品の塩をつくる塩田に課した税金・運上銀で生産しようと考えていました。
しかし、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足分を補っていました。
運上銀を大坂商人への借金の担保にしていたため、取り上げられてしまったのです。
内蔵助は、藩札の清算を如何にして切り抜けたのでしょうか?
銀200貫目は、今のお金に換算すると約4億円という大金でした。
内蔵助は、すぐに浅野家の本家である広島藩などに借金を申し込みます。
しかし、どこもけんもほろろ・・・
すると、「藩札は6分替えで行う」・・・なんと、額面の6割で銀に交換するというのです。
藩札の交換に必要な銀900貫目の6割は、540貫目。
これなら、替り銀700貫目で十分に賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと、6割交換で納得しました。
こうして内蔵助は藩札の清算を切り抜けました。

しかし、清算しなければならないものがまだありました。
藩士たちへの最後の給料です。

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清算処理②藩士への給料と退職手当
赤穂藩は、およそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れれば、藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで内蔵助は、給料にあたる米を、藩の蔵から放出。
この年の分を一括で支給することにします。
総額およそ16億5000万円!!
さらに、割賦金と呼ばれる退職金も支給します。
割賦金は、現在の価値で7億1000万
割賦金は、基本的には藩士の石高に応じて支給されるこのです。
しかし、内蔵助はこの時、今後浪人生活になるので、高い禄をもらっている者には減らし、下級藩士には比較的割合を増やしました。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りを辞退しています。
こうして赤穂藩は、最後の給料と退職金をあわせ、23億5000万円を藩士300人ほどに分配。
単純計算でも藩士ひとり780万円ほどを支給したことになります。
しかし、それまでの給料は取り上げられて、京、大坂、までなければならない・・・
しばらくは、暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らないといけませんでした。
内蔵助が赤穂藩の残務処理をすべて終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。

赤穂藩が売ったものの中には・・・
船17艘・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍など・・・銀15貫目=3000万円

藩士たちも家財整理を行い、屋敷をすべて明け渡し、赤穂城から立ち退いて行きました。
1701年4月19日、赤穂城は幕府に引き渡されました。

大石内蔵助の手元には・・・391両、瑤泉院から預かっていた化粧料300両がありました。
これら残ったお金が691両・・・およそ、8292万円でした。
これが、討ち入りの軍資金となります。

神奈川県箱根町・・・箱根神社に、内蔵助が書き記した金銀受払帳の実物があります。
伝承では・・・神社に仕えていた赤穂藩関係者が奉納したという説、瑤泉院が箱根の温泉に養生に来た際に奉納したという説が残っています。
表紙を含め52ページあり、討ち入りまでの赤穂浪士たちが使った支出報告が記録されていました。
これによると、最初に使った先は、金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都・堀川にあった紫野瑞光院に、亡き主君・浅野内匠頭の墓を建てることになり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その仏事費用の総額は、なんと金127両3分・・・軍資金全体の2割近くに及びました。
内蔵助は、この時点ではお金を討ち入りに使おうとは考えていませんでした。
第一に浅野内匠頭のための仏事費用、そして、内匠頭の弟・浅野大学で赤穂浅野家を再興させることが目的でした。

内蔵助は親戚を頼り、京都山科に移住します。
家族と暮らすための土地と家を購入し、そこを拠点として全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取り合いながら、浅野家の再興に奔走します。

浅野家再興嘆願の口利きを、京都智積院の隠居僧正にしてもらおうと1両1分のお金を渡したとあります。
さらに、時の将軍・徳川綱吉が信頼を寄せる大僧正・隆光に接触するため二度にわたって使者となってくれた赤穂遠林寺の僧にも、江戸での工作費と往復の旅費計45両を。
また、幕府の役人たちへの贈り物や接待での出費も見られます。
お家再興には伝手が必要でした。
お家再興のための交際費、接待費、工作費・・・65両1分。
このことから、内蔵助の願いは何より浅野家再興だということがわかります。
この時点での軍資金の残金は498両・・・討ち入りの話が出る前にすでに2000万円以上も使ってしまっていました。
また、かなりの支出割合を占めているのが、上方~江戸間の旅費でした。
内蔵助の母方の叔父・遠藤源四郎を江戸に使いにやった時の旅費と江戸滞在には金9両銀6匁・・・109万円
その後も8回、上方にいた赤穂浪士が次々と江戸に行っていたことがわかります。
その総費用は、金78両1分2朱、銀42匁=1000万円にも上ります。
金銀請払帳に日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろから11月までの支出と推測されます。



どうして何度も江戸に行かなければならなかったのか??
それは、その頃、赤穂浪士たちの間で意見が対立していました。
あくまでも浅野家の再興を目指す穏健派(内蔵助)と、江戸急進派(堀部安兵衛)・・・
急進派は、主君の無念を晴らすのが家臣の務めであると一刻も早く吉良邸に討ち入るべきだと主張していました。
そんな中、吉良邸討ち入りの1年4カ月前・・・
1701年8月19日、吉良上野介が江戸場近くの呉服橋門内から江戸のはずれの本所へ屋敷替えとなりました。
これに沸き立ったのが江戸急進派でした。

「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府も暗に討ち入りらせよと言っているのではないか
 上方は煮え切らぬ、上方へ行き説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう!!」by安兵衛

そうした江戸での動きを知った内蔵助は、江戸急進派をなだめるため遠藤源四郎や大高源五を江戸に送ったのです。
その旅費の内訳は、
旅籠1泊料・・・350匁(1万円)
駕籠代や食費など1日・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越しのための費用・・・48文~100文(1400円~3000円)

山科から江戸までは、およそ14日かかります。
片道の旅費は、14日分で一人当たり3両・・・36万円でした。
当時の旅は宿場宿場に泊り、それなりに置け長いりました。
しかし、元禄の世にしても、1日3両で移動するのはお金に余裕のある旅でした。

ところが、旅費を出して江戸に行った新藤たちは、急進派と意気投合!!
全く役目を果たしませんでした。
内蔵助が江戸へ送った使者が、次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになったのです。
そこで内蔵助は、安兵衛らに手紙を送ります。
討ち入りするのにより良い時期が来るまで自重するように・・・とくぎを刺しました。
しかし、それでも不安に思った内蔵助は、お供を連れて江戸へと向かうのでした。
その費用2人分で金23両3分・銀20匁・・・289万円でした。

江戸急進派をなだめるために旅費に大金が飛んでいき、軍資金の残高はおよそ419両となってしまいました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年1カ月の時でした。

江戸急進派は内匠頭の一周忌までに打ち入りたいと主張しました。
内蔵助は、討ち入りの期日を決める必要はないと返答しました。
しかし、安兵衛たちは、期日が決まらないと決心が固まらないと反論しました。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
そして、京都の山科あたりで話し合うことを決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したと考えて納得しました。

急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸に来た者たちが使う屋敷を購入。
金70両・・・約840万円で、三田にある屋敷を購入。
修繕した上で、江戸のアジトにしようと考えていたようです。
しかしその矢先、付近で火事が発生。
屋敷は燃えなかったものの、将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になってしまいます。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた三田の屋敷が幕府の御用地になることに。
結局屋敷は使えず、840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両ほど・・・4320万円。
吉良邸討ち入りまであと1年!!

請払帳には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金があります。
旧藩士たちの身分は浪人でした。
粗末な裏長屋に住むなど、厳しい生活を余儀なくされていました。
京都留守居役だった小野寺十内は、上方から妻に、手紙を出しています。

”母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道はそれには及ばないものです
 わずかながら残した金銀・家財を頼りに、母を世話してほしい
 もし、御命が長く続き財産が尽きたなら、ともに餓死なさってください
 それも仕方のないことと思います”

こう認め、命つなぎに金10両を送っています。
既に方々に借金をして首が回らなくなっている者もいました。
その困窮ぶりは、金銀請払帳からも見て取れます。
その為、飢えや生活困窮などの理由で援助金が出されています。
江戸の神崎与五郎が飢えているということで、内蔵助は金6両、銀30匁を渡しています。
また、物頭の原惣右衛門も生活困難となり、金10両を与えています。
他にも、三村次郎左衛門、矢頭右衛門七に金3両ずつ・・・
こうして、困窮する浪士たちを援助するため軍資金はさらに減っていきました。

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1702年2月15日、山科の大石内蔵助の家で会合が開かれました。
この話し合いののち、内蔵助は嫡男・大学を残し、17年間連れ添った10歳年下の妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時理玖は、7カ月になる子を身ごもっていました。
討ち入り後、理玖たちに類が及ばぬように・・・苦渋の決断でした。

この会合の頃から、内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??
金銀請払帳には、内蔵助の遊興費が記されていません。
それは自腹だったと考えられます。
吉良邸討ち入りの6か月前のことでした。

1702年7月18日・・・吉良邸討ち入りまで5か月。
浅野内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定・・・”松平安芸守へのお預け”でした。
屋敷や領地を取り上げられ、妻子ともども浅野家の本家である広島藩に引き取られたのです。
実質的な改易処分でした。
これで、大学が当主として赤穂浅野家を継ぐことができなくなりました。
大石内蔵助が奔走していたお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助はついに、腹をくくります。
浅野大学の処分から10日後、京都丸山で会議を開き、吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議の費用は、金1両・・・およそ12万円。
こののち内蔵助は、赤穂他、各地に住んでいる同志に連絡を取るよう大高源五と貝賀弥左衛門に命じます。
金銀請払帳によると、2人を赤穂へ遣わす旅費と滞在中の雑費が金2両1分と銀五匁五分。
大高は、2度赤穂に遣わせたようで、さらに金1両1分と銀4匁2分が・・・それでも滞在にが足りなくなったのか、金10両の援助までしています。
また・・・討ち入りのために江戸に下ることになったため、原惣右衛門が手紙を書いて同志たちに送った飛脚代・銀136匁5分4厘。
内蔵助はこの時、連絡係を任せた大高源五と貝賀弥左衛門にある重要な封書を預けました。
実は、以前、吉良上野介を討つと誓った120人に、誓約書である神文を出させていました。
内蔵助は、その神文の署名部分だけを切り取ってそれを封にい入れ託しました。
そして、大高源五らは、内蔵助に命じられた通り、神文を出した者たちにこう告げました。

「内蔵助殿は、当初の計画を取りやめて、妻子を養うために仕官することにしました
 皆様も、勝手次第にしてください
 ですから、この神文はお返しします」

内蔵助は、この言葉に腹を立ててそれでも仇討がしたいといった者にだけ真実を告げ、味方に引き入れました。
意思の固いものを選ぶということと・・・もうひとつは、大勢で江戸に下ると目立つので、それを避けたいという気持ちもありました。
結果、残った赤穂浪士たちはおよそ50人。
その者たちに、江戸に来る費用として支度金一人につき3両が与えられたのです。
こうして、内蔵助の手元に残ったお金は、わずか720万円ほどとなりました。

そして・・・吉良邸討ち入りまで1カ月となった11月5日。
討ち入りを決意した大石内蔵助は、自宅があった京都山科からおよそ1カ月かけて江戸に到着。
日本橋石町のアジトに・・・。
この時、60両ほどとなっていた軍資金から、借家住まいの同志の家賃を補助し、さらに一人当たり1k月につき金2分(6万円)の食費を支給。
軍資金の残りは、数両となってしまいました。
これで、弓矢、槍、長刀・・・討ち入りに必要な装備のすべてを購入しなければなりません。
装備の総額は12両・・・軍資金はマイナスとなってしまいました。
金銀請払帳の末尾には、
”金7両1分(78万円)不足、自分より払”
最後は、内蔵助は自分の起こ値を使ったのでした。

吉良邸討ち入りの15日前・・・11月29日までに、内蔵助は金銀請払帳を閉めます。
今のお金で8292万円あった軍資金の使い道は、最終的に・・・

仏事費・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・132万円
生活援助金・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・379万円

赤字の8369万円・・・
こうして、赤穂浪士四十七士は、12月14日に吉良邸に討ち入ることになりました。

討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけ・・・

店賃などを支払った同志たちは、12月13日の夜・・・わずかに残った金を持ち寄り、今生の暇乞い・・・と、酒を酌み交わしました。
いよいよ、討ち入りです。

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江戸城松の廊下の刃傷事件からおよそ1年9か月後の1702年12月14日夜。
赤穂浪士四十七士は、吉良上野介の屋敷へと向かいました。
そして日が変わった12月15日午前4時半ごろ、討ち入り!!
浪士たちは、次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた吉良上野介を見つけ、見事主君の仇討ちを果たしたのです。
大石内蔵助は、12月14日討ち入りの夜・・・瑤泉院のもとに金銀請払帳を届けさせています。
討ち入りの計画が露見してしまうのを恐れ、ギリギリまで手元に置いていました。

主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのでしょう。
もともと、瑤泉院の化粧料は金1000両ありました。
そのうちの300両を拝領して討ち入り資金に当てています。
お金を適切に判断し使い、様々な浪士たちを生活させ、宥め、最もいい時期に討ち入りを成功させた大石内蔵助の力量は、改めて高く評価すべきです。
藩士たちの忠誠心はもちろん、内蔵助が管理していた軍資金があったからこそ、討ち入りが成功したのです。

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1702年12月14日・・・大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士が、江戸・本所にあった吉良邸に討ち入りしました。
主君の敵である高家肝煎・吉良上野介の首を討ち取りました。
江戸の人々の関心を集めたこの仇討事件・・・四十七士の切腹からわずか12日後には、一連の赤穂浪士を題材にした演目が中村座で上演されました。
そして、事件から46年後の1748年8月、大坂で上演されたのが人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」です。
この作品で、赤穂浪士たちは忠義の志として称賛され、討ち取られた吉良上野介は意地悪で強欲な悪者・・・憎っくき敵役の悪者・・・アンチヒーローとなってしまいました。
本当に吉良上野介は悪者だったのでしょうか・・・??

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1701年3月14日、午前9時30分ごろ・・・
江戸城では、五代将軍・徳川綱吉が、湯殿で身を清め、身支度を整えていました。
この日は、綱吉が朝廷の使者に聖旨・院旨に対する返礼を述べる儀式・・・勅使奉答の儀が城内の白書院で行われる予定でした。
朝廷を重んじる綱吉は、家臣たちにも粗相のないようにときつく申し入れていました。
ところが・・・儀式が始まる直前の午前11時ごろ・・・
白書院から20mほどしか離れていない松の大廊下で前代未聞の事件が起こりました。

「この間の遺恨、覚えたるか!!」by朝野内匠頭長矩

なんと、朝廷の使者たちをもてなす饗応役を務めていた赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、その指南役である高家肝煎である吉良上野介義央に、いきなり斬りかかったのです。

「殿中でござるぞ!!」

内匠頭を止めたのは、直前まで上野介と儀式について話をしていた旗本の梶川与惣兵衛。
事件の唯一の目撃者でした。
梶川が必死で内匠頭を止めているうちに、騒ぎを聞きつけた者たちが松の大廊下に駆けつけ、傷を負った上野介は御医師之間に運ばれました。
上野介が負った傷・・・治療医の栗崎道有によると、  額の傷は3寸6分で、骨にも傷がついたものの、致命傷にはなりませんでした。
背中の傷はもっと浅く、3針縫う程度で済んだそうです。
殿中では、大刀の帯刀が禁じられており、上野介を切りつけた刀が殺傷能力の低い小さ刀だったこと、刀が烏帽子の金具に当たったことが致命傷に至らなかった理由と考えられています。
事件当時、吉良上野介は61歳、浅野内匠頭は35歳、どうして上野介は指南までしていた内匠頭からいきなり斬りつけられてしまったのでしょうか??

「何の恨みも受けた覚えはない
 全く、浅野の乱心としか言いようがない」by上野介

「お上に対しては何の恨みもないが、吉良には、私なりの遺恨があった
 その為に、前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」by内匠頭

二人の供述は食い違っていましたが、将軍・綱吉が腹を立てたのは内匠頭に対してでした。

「なぜ、大事な儀式の日に、しかも殿中で、私怨を晴らさなければならなかったのか??」と。

この日、敬愛する母・桂昌院のを従一位に昇進させるため、朝廷の使者に働きかけるつもりでいたのです。
これにケチが付きました。
怒りも倍増です。
そして、即日、内匠頭に切腹を言い渡すのです。
一方、上野介はお咎めなし!!
江戸時代は、喧嘩両成敗となっていて、喧嘩をした者は、いかなる理由があろうとも双方とも切腹となっていたのに・・・!!
吉良上野介がお咎めなしとなったのは、朝の内匠頭を必死で止めた唯一の目撃者、梶川与惣兵衛の証言が決め手だったと思われます。

「内匠頭に斬りかかられても、上野介殿は肩にに手をかけなかった」
 
梶川の証言によって、綱吉は内匠頭の一方的な凶行であって、上野介をお咎めなしとしたのです。
さらに、将軍・綱吉は、上野介を

「殿中をはばかり、手向かいしなかった事、殊勝である」

と、褒め称え、

「手傷はどうか、追々全快すれば心置きなく出勤して勤めよ
 老体の事であるから十分保養するように」

と、見舞いの言葉までかけたといいます。

内匠頭が即日切腹なのに、上野介はお咎めなし・・・

それではあまりに不公平・・・赤穂浪士たちが、主君の無念を晴らすために、吉良邸に討ち入ることになります。
どうして、綱吉は上野介の心配までしていたのでしょうか??

綱吉から厚遇された理由は・・・
ひとつには、上野介の経歴です。
そもそも、吉良氏は清和源氏・足利義康の流れをくむ名門でした。
室町時代には、”御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ”と言われるほど高い家格を誇っていました。
江戸時代になると、上野介の祖父・義弥が、徳川幕府の高家に就任します。
高家は、徳川家康の時代に新設された役職で、2代将軍秀忠の時代に確立しました。
室町時代から続く由緒正しき名家だけが選出されました。
例えば・・・今川家、上杉家、織田家、武田家、そして、吉良家などです。
天皇と公家に謁見する機会が多いので、高家は総じて官位は高かったのです。
吉良家が高家に選ばれたのは、「儀式などに関する武家の礼法」が、室町時代から伝わっていたことが大きかったのです。

原則、高家は世襲制です。
これを継いだ上野介の父・義冬は、吉良家伝来の礼法を、江戸時代に即した形にし、年中行事の際の服装や礼儀作法などを細かく規定、吉良流礼法と呼ばれ、他大名にも広く普及していきました。
その義冬の嫡男として生まれ(1941年)た上野介も、また、高家となるための英才教育を受け、28歳で家督を相続します。
1680年に、徳川綱吉が将軍宣下を受けた際には、宣下の取次ぎを担当しました。
そして、43歳の時、高家の中でも特に礼儀作法に精通している3人のうちの一人に選ばれ、高家肝煎となるのです。
石高はわずか4200石の旗本でしたが、官位は従四位上・・・仙台藩伊達家や薩摩藩島津家と同じほどでした。
朝廷を重んじる綱吉にとって、大事な存在だったのです。

さらに、血縁関係・・・
上野介は米沢藩2代藩主・上杉定勝の娘・三姫をめとり、2男3女をもうけますが、三姫の兄で家督を継いでいた網勝が跡継ぎを残さずに急死したため、上杉家が断絶の危機に・・・
そこで、長男の三之助を養子に出すことになりました。
その後、4代藩主となった三之助は綱憲と改め、紀州徳川家の栄姫と結婚・・・栄姫の兄が綱吉の娘と結婚していたことから、上野介は綱吉と遠縁ながらも親戚でした。
こうしたことから、上野介は厚遇され、気にかけられていたのかもしれません。

赤穂浪士たちを吉良邸討ち入りに向かわせることとなった松の大廊下刃傷事件・・・
浅野内匠頭が、
「この間の遺恨 覚えたるか!!」
と、叫んで吉良上野介を斬りつけたことから、事件の原因は上野介に対する恨みだと考えられます。
では、その恨みとは何だったのでしょうか??
これには、2人の立場が大きく関係していました。
事件が起こった時、内匠頭は朝廷の使者をもてなす饗応役を務めていました。
そして、その指南役だったのが、高家肝煎の吉良上野介でした。
饗応役を仰せつかった大名は、みんな高家の指南を仰ぐことになっていました。
失敗を許されない大役・・・どんな大大名でも低頭して高家に教えを受けていました。
上野介の方が、内匠頭より立場は上でした。
忠臣蔵などでは、権力を傘に着た上野介が内匠頭を理不尽な理由でとことんイジメ抜く・・・
パワハラだったとされています。

そして、その理不尽な内容の詳細を、内匠頭が語らないまま即日切腹してしまったため、様々な憶測が飛び交いました。

①横恋慕説
上野介が美人と評判の内匠頭の妻に横恋慕するもふられてしまったためその腹いせ・・・
しかし、当時の大名の奥方が、他家の男性と顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。
②塩田スパイ説
上野介は赤穂藩の塩の製法を盗むために密偵を派遣・・・
しかし、見つかって殺されてしまったため、逆恨みで嫌がらせ・・・??
赤穂の製塩法は、特別なものではなく、秘密にもされていませんでした。
つまり、密偵を放つ必要がありません。
そもそも、吉良家が産業として塩を作っていたという記録はありません。
③賄賂説
もっともひろく知られているのが賄賂説です。
内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった・・・もしくは少なかったために、上野介が腹を立て、内匠頭をいじめるようになったというものです。
こちらは、何の根拠もない創作話ではなく、事件のあった元禄期に書かれた尾張藩士の日記にも・・・

「大名たちは、上野介に賄賂を贈り、様々なことを教えてもらっていた
 しかし、内匠頭は、頑として賄賂を贈ろうとしなかった
 上野介はこれを不快に思い、嫌がらせをするようになった」

信憑性は高そうですが・・・官位こそ高い上野介ですが、石高はわずか4,200石の旗本でした。
一方、内匠頭は赤穂藩5万石の大名でした。
教えを受けた大名が、高家に相応の謝礼を払うのは、武家社会の常識でした。
それをしなかった内匠頭の方が非常識だと思われます。
上野介がもらっていたのは、今でいうところの賄賂ではなく、謝礼金だったのです。
この頃、吉良家の財政は相当逼迫していました。
謝礼金を払わない内匠頭を上野介が快く思わなかった可能性は大いにあります。
そして、さらに、上野介が心証を悪くしたのは、儀式の予算でした。
饗応役に任じられた者は、接待費用を自腹で負担しました。
内匠頭は、700両・・・今の7000万円ほどあれば足りるだろうと考えていました。
それに対して、上野介は、高家としての長年の経験から最低でも1200万両(1億2000万円)必要だと指南しましたが、内匠頭はこれを頑として聞き入れませんでした。

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上野介は、高家として、当然の助言をしたにすぎませんでした。
結局、予算は700両ではまったく足らず、内匠頭の見通しが甘かったと思われます。
こうしたことから上野介は内匠頭を不快に思い、厳しい態度をとるようになったようで・・・

上野介は老中の前でこんなことを言っています。

「内匠頭殿は、万事不調法で、言うべき言葉もありません
 公家衆も、ご不快に思われています」by上野介

かなり辛辣・・・内匠頭の面目は丸つぶれです。

さらに、忠臣蔵では上野介は内匠頭に様々な嫌がらせをしています。
勅使たちの部屋に墨絵の屏風を置いた内匠頭に対し、何も問題はないのに
「勅使のお座敷に、墨絵の屏風など失礼ではないか!!」と、うそを言い、金屏風に代えさせたり、勅使の宿坊の畳の張替えが必要なのに内匠頭に直前まで伝えないなど、
ウソを教える、必要な情報を教えない・・・露骨で悪質な嫌がらせを繰り返して、内匠頭を精神的に追い込んでいくのです。

これは本当なのか??

武家社会の常識もわきまえず、助言も聞かない内匠頭に、上野介が腹を立てて辛辣な態度をとることはあったと思われます。
しかし、儀式を失敗させるような嫌がらせを行ったとは考えにくいのです。
高家肝煎の上野介が大事な儀式を失敗させるようなことをさせるはずがありません。
内匠頭が失敗すれば、指南役の上野介が恥をかくからです。

どうして上野介は斬りつけられてしまったのでしょうか??
その理由は、今もわかっていませんが、謎を解くカギは・・・??

「このようなことをするつもりがあれば、知らせておいたのだが、今日、止む終えない事情があってことを起こしたため、前もって知らせることができなかった」by内匠頭

つまり、殿中で上野介に斬りかかったのは、予期せぬ突発的なことだったのです。
内匠頭は、生来、短気で感情のコントロールが苦手だったともいわれています。
饗応役というプレッシャーに加えて、上野介との関係が悪化・・・事件当日は、気持ちが滅入るような曇天だったらしく、突発的に切りかかってしまったのではないかと言われています。
内匠頭は、ストレスから痞・・・自律神経失調症のような持病があったとされ、事件の3日前にも薬を飲んでいたと当時の記録書には記されています。
饗応役という大役を務める緊張感・・・大きなストレスに加え、天気のせいで気持ちも落ち込み、情緒不安定となって突発的に事件を起こしてしまったのかもしれません。

1641年、吉良上野介は江戸・鍛冶橋で生まれます。
生涯を江戸で過ごしましたが、旗本である吉良家は三河国と上野国に合計11カ所、4,200石の領地を持っていました。
その中の一つが、三河国の吉良荘・・・現在の愛知県西尾市吉良町です。
忠臣蔵の仇役・吉良上野介は、地元では今も昔も領民思いのお殿様でした。
地元では、忠臣蔵の上演は、戦後までご法度だったといいます。
吉良さまが悪人と言われることに、領民が非常に不愉快に思っていたのです。
吉良町には、上野介が施した様々な善政が伝えられています。
黄金堤は、川の氾濫に苦しむ領民たちを救うために、上野介が築かせたといわれる堤防です。
おかげで水害が無くなり、稲穂が黄金色に実ったことからその名がつけられたとか・・・
新田開発にも力を注いだといわれ、現在その地は、上野介の妻・富子の名にちなみ、冨好新田という地名になっています。

吉良家の菩提寺の華蔵寺は、上野介が50歳の時に寄進した梵鐘が今も使われています。
吉良上野介が愛用していた茶道具もあり、住職と茶をたしなんだといわれています。
上野介は、早くから茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる千宗旦に弟子入り、上野介の上の字を分解し、卜一という号を名乗り、独自の流派を開いていました。
そんな上野介にとって、華蔵寺の庭園を眺めながらお茶をたてるのは、至福のひと時でした。
領民思いのお殿様で、茶の湯を愛でる風流人・・・吉良町に伝わる上野介の姿は、忠臣蔵に描かれた天下の敵役とはかけ離れたものでした。

2020年に幻の書状が見つかりました。
朝廷との交渉で京都にいた上野介が、江戸にいる13歳の長女・鶴姫、5歳の次女・阿久里姫に宛てたもので、子供が読みやすいよう仮名文字を多用しています。
娘たちに対する深い愛情がにじみ出ている手紙です。
指南役としては厳しい面もあったかもしれませんが、仕事を離れれば、子煩悩な父親だったようです。

1701年3月26日、松の大廊下刃傷事件の12日後・・・高家肝煎の吉良上野介が幕府に退職願を提出。
幕府はこれを受理しました。
刃傷事件の責任を取ったのか、それとも傷の治療に専念するつもりだったのか・・・退職の理由は今もわかっていません。
そして同じ年の8月・・・上野介は江戸城近くの呉服橋の屋敷から、江戸の場末の本所に引っ越すように幕府から命じられるのです。
これは、どんな理由で誰が命じたのかはっきりとわかっていません。
しかし、赤穂浪士が来ても幕府は吉良を守らないという宣言かもしれません。
というのも、この頃江戸市中には、赤穂浪士たちが吉良を襲撃するのではないかという噂が広まっていて、吉良邸の隣人が幕府に
「赤穂浪士が吉良邸を襲った場合、どう対処すればよろしいか」
と、たずねると、幕府は、
「一切構わず、自邸内を守るように」
と、答えたといいます。
また、討ち入りの日が近づき、赤穂浪士たちが江戸市中で暗躍するようになっても、幕府は特に警戒を強めることなく傍観し続けました。
刃傷事件のさい、斬りつけられても刀を抜かなかった上野介を褒め称え、無罪放免にした幕府が、どうして・・・??
綱吉が、内匠頭に下した即日切腹が、あまりにも性急で不公平なお沙汰だったとして、世間の不評を買っていました。
生類憐みの令などによって、不満が高まっていました。
失墜していた幕府の評判を、これ以上落とさないために、上野介を見捨てたのです。
孤立無援となってしまった吉良上野介・・・

赤穂浪士の討ち入りを警戒していたという上野介・・・
常に本所の屋敷に閉じこもっていたわけではなく、わずかなお供で江戸市中の散策をし、茶会にも度々参加していました。
討ち入りがなかなか行われなかったので、気の緩みがあったのかもしれません。
その為、上野介は本所の屋敷でも、度々茶会を催すようになり、1702年12月14日にも茶会を開く予定でいました。
しかし、これが、大石内蔵助ら赤穂浪士たちの知るところとなり、確実に在宅しているこの日を討ち入りの決行日とされてしまったのです。
運命の日・・・上野介は本所の屋敷で茶会を開催、客人たちに自慢の茶器で茶を振る舞い、日が沈むとそのまま酒宴に・・・。
上野介が床に就いたのは、夜更け過ぎのことでした。
外で、討ち入りの準備がされているとも知らずに・・・

「各々方、討ち入りでござる!!」

日付が変わった15日午前3時半ごろ・・・
大石内蔵助率いる赤穂浪士たちが、吉良邸の表門と裏門の二手に分かれ、討ち入り決行!!
裏門から侵入した赤穂浪士たちは、まず、かすがいと金づちで、家臣が暮らす長屋の戸口を塞いでしまいます。
こうして、100人以上いた吉良家の家臣のうち、半数以上を戦わずして封じ込めました。
そうした状況で、吉良側はどのように応戦したのでしょうか?
不意を突かれましたが、家臣たちは必死に応戦!!
忠臣蔵でおなじみの清水一学と小林平八郎はいました。
しかし、映画やドラマのように大活躍はせず、あっけなく討死・・・。
上野介の孫で養子となった嫡男・義周はなぎなたで応戦、何とか命はとりとめています。

吉良邸は無防備でした・・・対して、入念に策を練っていた赤穂浪士たちは、吉良家の家臣たちを次々と撃破!!
襲撃の報を受けた上野介はすぐに寝所を離れたため、赤穂浪士たちが踏み込んだ時にはすでに布団はもぬけの殻・・・
そして、赤穂浪士たちの必死の捜索によって、炭小屋に隠れていた上野介はついに見つかってしまうのです。
内匠頭につけられた額と背中の傷が本人である証拠とされ、必死に命乞いをするも聞き入れられず討ち取られてしまったのです。

??しかし、上野介が刀を抜いて戦ったという説も残っています。
上野介も武士・・・赤穂浪士の討ち入りに怯え、命乞いしたのではなく、本当は最期まで武士として刀を抜いて戦い散っていったのかもしれません。

しかし、本当の悲劇はこの後に待っていました。

松の大廊下刃傷事件から1年9か月たった1702年12月15日未明・・・
吉良上野介は討ち入りを決行した赤穂浪士四十七士によって62年の生涯を終えました。
赤穂浪士たちは上野介の首を白布で包み、槍の切っ先にぶら下げて、吉良邸から浅野家の菩提寺である泉岳寺まで12キロを練り歩いたといわれています。
その姿を見た江戸の人たちは、主君の敵を討った赤穂浪士たちを忠義の士だと称賛・・・
そして、1703年2月4日、幕府は赤穂浪士たちに切腹を言い渡します。
世間が赤穂浪士たちを英雄と見なしていたため、幕府は批判を恐れ、打ち首という犯罪者扱いではなく、武士の対面を尊重した切腹としたのです。
これによって、赤穂浪士たちの人気が一層高まりました。
しかし、事件の被害者である吉良家に待っていたのは、過酷な運命でした。
赤穂浪士たちが切腹して散った2月4日、上野介の嫡男・吉良義周にも幕府からお沙汰が下ったのです。

「浅野内匠頭の家来ども、上野介を討ち候
 その方、仕方不届につき、領地召し上げられ、諏訪安芸守へお預け仰せつけられ候也」

赤穂浪士たちに討ち入りを許し、上野介を討ち取らせてしまったのは武士として不届きとして、吉良家の領地没収・・・
当主であった義周は、罪人として諏訪高島城に預けられました。
随行の家臣は、わずか2人のみ・・・帯刀も許されず、失意の義周はその3年後、21歳の若さで亡くなり、吉良家は断絶となりました。
吉良家に対する幕府の仕打ちはあまりにもひどい・・・父をうたれた上に、領地を没収、懸命に戦ったものの罪人にされてしまった義周は気の毒でなりません。

幕府は、権威と人気回復のために、民衆の声に迎合し、吉良家を悪者に仕立て上げてしまったのです。
そして、吉良=悪者といったイメージは歌舞伎や人形浄瑠璃らによって助長され、上野介は天下の嫌われ者となってしまいました。

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決算!忠臣蔵 豪華版【Blu-ray】 [ 堤真一 ]
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今からおよそ300年前の江戸時代前期・・・元禄14年3月14日・・・
江戸城松の廊下で後世まで語り継がれることとなる事件が起こります。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介に殿中で斬りつけたのです。
内匠頭はこの事件からわずか7時間後に切腹処分・・・
それから1年9ヵ月後・・・
元禄15年12月14日・・・赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの赤穂事件・・・。
これをもとに作られた芝居が忠臣蔵です。

「預置金銀請払帳」・・・吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・忠臣蔵の決算書、かかった費用は現在の価値で8000万円以上!!
刃傷事件から討ち入りまで1年9か月・・・どのようにして使われたのでしょうか?

元禄14年3月14日、浅野内匠頭の切腹と共に赤穂浅野家のおとり潰しが決まりました。
そして国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになりました。
これに際し、筆頭家老である大石内蔵助はいろいろな精算処理に迫られます。

一般的に、藩が取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産です。
精算処理をする必要がありました。

換算レートは・・・
金一両=   12万円
金一分=    3万円
金一朱=   7,500円
銀一匁=   2,000円
銀一文=     30円

まずは、
①藩札の精算・・・
藩札とは、藩が独自に発行した紙幣で、商人たちに支払われたものですが、藩が消滅すればなくなってしまう・・・換金する必要がありました。
ただし、これが莫大で、赤穂浅野家の記録によると藩がこれまでに発行した藩札は銀900貫目=約18億円・・・藩の返還予算に匹敵する額でした。
藩札を持っていた商人たちは、刃傷事件から5日後には、銀に換えてほしいと札座に殺到します。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札に交換するための準備金・銀700貫目(約14億円)が用意されていました。
これを使えば、藩札の総額900貫目の大部分が生産でき、不足は200貫目となります。
内蔵助は残りの分を塩田に貸した運上銀で精算しようと考えていましたが、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足を補っていました。
運上銀を大坂商人への担保としていたために取り上げられてしまいました。

銀200貫目はいまの4億円・・・
内蔵助は浅野家の本家である広島藩などに借金の申し入れに走らせますが、どこもけんもほろろ・・・。
「藩札は6分替えで行う!!」
額面の6割で替えるというのです。
6割は540貫・・・これなら700貫目で賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと藩札を額面の6割で銀に交換しました。
こうして内蔵助は何とか切り抜けました。

しかし・・・
②最後の給料と退職手当
赤穂藩はおよそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れると藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで、倉から米を放出・・・この年の分を一括支給しました。
米1万7836石=現在の価値で16億5000万円!!
さらに割賦金という退職金も支給
金5,899両=現在の価値で7億1千万円!!
割賦金は、基本的に藩士の石高に応じて支給されるものです。
しかし、内蔵助は高い録を持っている者には支給割合を減らし、すぐに困窮するであろう小録の者に多く支給しています。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りは辞退しています。
こうして赤穂藩は最後の給料と退職金をあわせて23億5000万円を藩士300人ほどに分配しました。
単純計算で1人780万円ほどの支給となりました。
しばらくは暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らなければなりませんでした。
すべての残務処理を終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。

この残務処理の際、赤穂藩が売ったものには・・・
船17艘・・・・・・・・・・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍・・・銀15貫目=3000万円
鉄砲150挺・大筒など

藩士たちもそれぞれ家財の整理を行い、赤穂城から立ち退いていきました。
4月19日・・・赤穂城は幕府に引き渡されます。

大石内蔵助の手元には残ったのは391両、浅野内匠頭の正室・瑤泉院の持参金の化粧料300両・・・691両・・・およそ8292万円が討ち入りの軍資金となります。

箱根町の箱根神社には、浅野内匠頭が書いた「預置金銀請払帳」が残されてます。
討ち入りまでの支出報告が記録されています。
最初に使った先は・・・金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都堀河にあった紫野瑞光院に亡き主君・浅野内匠頭の墓を立てることとなり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その総額は金127両3分・・・軍資金の2割近くになりました。
内蔵助はこの時点でお金を討ち入りに使おうとは思っていなかったようです。
第一に浅野内匠頭の仏事費用でした。
仏事費金127両3分=約1533万円

その後、内匠頭の弟で旗本となっていた浅野大学を当主とし、浅野家を再興させようと動いていました。

赤穂城を幕府に引き渡したのち、残務処理を終えた大石内蔵助は、親戚を頼り京都郊外の山科に移住します。
家族と暮らすための家と土地を購入し、全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取りながら、浅野家の再興に紛争します。
お家再興には伝手が必要でした。
そのお金・・・交際費、工作費は65両1分(783万円)・・・このことから、内蔵助の願いはお家再興だったと思われます。
この時点での残高は、498両=5976万円でした。

他にもかなりの支出割合を占めているのが上方~江戸間の旅費でした。
上方の浪士たちが次々と江戸へ行っていました。
その費用金78両1分2朱と銀42匁=1000万円にも上りました。
金銀請払帳に、日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろ~11月ごろまでの支出と推測されます。
どうしてその時期に集中して行かなければならなかったのでしょうか?
その頃、赤穂浪士たちの中で意見が対立!!
あくまでも赤穂藩再興を目指す大石内蔵助ら穏健派と、堀部安兵衛達江戸詰めの急進派が主君の無念を晴らすのが家臣の務めであるとし、一刻も早く討ち入りすべしとしていたのです。

そんな中、元禄14年8月19日・・・討ち入りまで1年4か月・・・
吉良耕付之介が呉服橋門内から本所へ屋敷替えが行われました。
これに湧きたったのが、江戸の急進派です。

「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府にも暗に仇討せよと言っているのではないか}
「上方は煮え切らぬ!上方へ行き、説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう」

そうした江戸での動きを知った内蔵助は、急進派をなだめるために進藤源四郎や大高源吾をを江戸へ送ったのです。
その旅費の内訳は・・・
旅籠宿泊料・・・350文(1万円)
駕籠代・食費など(1日)・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越し・・・約48文~100文(約1400円~3000円)
なので、山科から江戸までは14日かかるので、片道の旅費は一人当たり3両(約36万円)

当時の旅は、宿場宿場に泊まるので、それなりにお金がかかります。
元禄の世にしても1日3両で山科~江戸間を移動するのはお金に余裕のある旅でした。
ところが、旅費をかけて江戸に行った進藤たちは、急進派たちと意気投合・・・全く役に立ちませんでした。
江戸に送った使者が次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになりました。
そこで内蔵助は堀部らに文を送ります。

「まだるく思し召し候とも時節を御見合わせなさるべく候」

討ち入りするいい時期が来るまで待つようにと言います。
しかし、それでも不安な内蔵助はお供を連れて江戸に向かうのです。
その費用二人分で金23両3分、銀20匁・・・289万円でした。
残りは419両・・・5028万円となってしまいました。
吉良邸討ち入りまで1年1か月・・・!!
江戸急進派は内匠頭の一周忌までに討ち入りたいと思っていました。
内蔵助は討ち入りの期日を決める必要はないと考えていたのです。
安兵衛は期日が決まらないと決心が固まらないと主張したのです。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
江戸に集まると目立つので、京都の山科あたりで話し合おうと決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したのだと考えて納得しました。

赤穂浪士たちに残された軍資金は、691両ありました。
しかし、内匠頭への弔い料、お家再興のための工作費、度重なる上方~江戸間の旅費に消えていきました。
さらに、急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸へ来た者たちの屋敷(アジト)を購入します。
金70両・・・江戸三田屋敷調え代
およそ840万円で屋敷を購入し、修繕してアジトにしようと考えていましたが、その矢先・・・付近で火事が発生し、屋敷は燃えなかったものの将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になりました。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた屋敷が幕府の御用地になることに・・・。
結局屋敷は使えず840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両・・・4320万円ほどになりました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年となりました。

帳面には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金と出てきます。
旧藩士たちの身分は浪人・・・無職でした。
粗末な裏長屋に住むなど、貧しい生活を送っていました。

「母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道は、それには及ばないものです。
 わずかながら残した金銀・家財を頼りに母を世話してほしい。
 もし御命が長く続き財産が尽きたら、ともに餓死なさってください。
 それも仕方のないことと思います。」by小野寺十内

こうしたため、命つなぎにと金10両を送っています。
すでに借金をして首が回らないもののいました。
其れなりの割賦金のあった中級藩士でも、1年で使ってしまうほどでした。
そのため、飢えや生活困窮の名で援助金が出されたのです。

こうして困窮する藩士たちのために132両1分=1587万円が出され・・残金は227両・2733万円となったのです。

元禄15年2月15日、山科の大石内蔵助邸で会合が開かれました。
この話し合いの後、内蔵助は嫡男・力を残し、17年間連れ添った妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時、理玖は7か月の子を身籠っていました。
その後、理玖たちに類が及ばないための苦渋の選択でした。
この頃から内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??帳面にはそのお金は書かれていません。
吉良邸討ち入りまで6か月のことでした。

討ち入りまで5か月前の元禄15年7月18日、討ち入りまで5か月の時・・・
内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定します。
松平安芸守へのお預け・・・
屋敷や領地を取り上げられ、本家の広島藩に引き取られました。
事実上の改易処分でした。
これで大学が当主として浅野家を継ぐことはできなくなりました。
内蔵助のお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助は遂に腹をくくります。
処分から10日後・・・吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議は、食事は金一両(12万円部屋代+食事代)
この後、赤穂他、各地に住んでいる浪士たちに連絡するように大高源吾と貝賀弥左衛門に命じます。
二人を赤穂に遣わす旅費と雑費が金二両一分と銀五匁五分(28万円)。
大高は2回赤穂に遣わされたので、別に金一両一分と銀四匁二分が支給されました。
それでも滞在費が足りなくなったのか、金10両の援助をしています。

それ以外にも、
銀百三十六匁五分四厘
原惣右衛門書き出す方々
飛脚賃金 並びに路銀不測の面々遣わす

討ち入りのために江戸に下ることが決まったので、原惣右衛門が手紙を書いて同士にたちに送った飛脚代も・・・
この時、連絡係の大高源吾と貝賀弥左衛門に大事な封書を預けます。
以前誓った120人に神文を出させていましたが、神文の署名部分を切り取ってそれを封にいれ託しました。
そして、大高源吾らは、内蔵助の通りにこう告げます。

「内蔵助殿は当初の計画を取りやめ、妻子を養うために仕官することにしました。
 皆様も勝手次第にしてください。
 ですからこの神文はお返しします。」

内蔵助はそれでも仇討がしたいと怒ったものに対してだけ真実を告げ仲間に入れました。
意志の固いものを選抜する・・・むやみに大勢が下ると目立つので、それは避けたいと思っていたようです。
結果、残った浪士たちは50人・・・その一人一人に支度金金三両(36万円)が与えられました。
こうして内蔵助のもとに残ったのは、60両・・・720万円ほどになりました。

そして・・・元禄15年11月5日・・・討ち入りまで1か月・・・
討ち入りを決意した大石内蔵助は1か月かけて江戸に到着。
日本橋石町の隠れ家に入ります。
この時60両となっていた軍資金から借家暮らしの浪士の家賃を払い、さらに一人当たり1か月につき金2分の食費を出します。
残りは僅か数両に・・・これで、弓矢や槍、長刀などの討ち入りの装備の総てを買わなければなりません。

これをあわせた装備の総額は12両の144万円・・・残金は-7両1分・・・約-87万円となってしまいました。
金銀請払帳の末尾には・・・「金七両一分(約87万円)不足 自分より払」とあります。
最後は内蔵助が自分のお金を使ったことがわかります。

元禄15年11月29日、討ち入りまで15日・・・内蔵助は金銀請払帳を締めます。
軍資金の使い道は、最終的に・・・


仏事費・・・・・・・・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・・・・・・132万円
生活援助費・・・・・・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・・・・・・・・379万円

合計8369万円・・・こうして赤穂浪士四十七士は12月14日、吉良邸に討ち入ることとなったのです。
内蔵助は同士たちが集まった時・・・
「それぞれの店賃やツケの代金は12日までにしっかりと始末をつけておけ
 不足の際は申すがよい」
お金のない者にはまた内蔵助が自腹を切るというのです。
討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけということでした。
13日の夜・・・残った僅かの金を持ち寄り今生の暇乞いと酒を酌み交わしたといいます。
いよいよ討ち入りです!!

江戸城松の廊下の刃傷事件から1年9か月後の元禄15年12月14日夜・・・
赤穂浪士四十七士は吉良上野介の屋敷に向かいました。
そして4時半ごろ・・・いざ討ち入りです!!
浪士たちは次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた上野介を見つけ、主君の仇討を果たしたのです。
12月14日、討ち入りの夜、大石内蔵助は瑤泉院に金銀請渡帳を届けています。
計画が露見してしまうのを畏れ、ギリギリまで手元に置いていました。
いくら主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのです。
内蔵助が管理していた資金があったからこそ、討ち入りは成功したのでした。

吉良邸討ち入りまでかかった経費を綴った預置金銀請払帳・・・それをつぶさに見ていくと、討ち入りまでの1年9か月がどれほど大変だったのか・・・よくわかります。
忠臣蔵の決算書は数字ですが、そこからは様々な葛藤や苦労・・・様々な思いを感じることができました。

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元禄14年3月14日、江戸城・松の廊下で幕府を震撼させる大事件が起こりました。
赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に斬りかかったのです。
前代未聞の刃傷事件・・・内匠頭は、即日切腹となりました。
これより四十七士が討ち入りを果たすまでが赤穂事件・・・この事件をもとに造られた芝居が「忠臣蔵」です。
四十七士の討ち入りまでは有名ですが、処分が下るまでの彼らのことはあまり知られていません。

元禄15年12月14日深夜、前日降った雪の中を・・・赤穂浪士四十七士が・・・!!
彼らの目的は、主君の敵・吉良上野介を討ち果たす事。
リーダーは大石内蔵助の合図で吉良邸に突入!!
その先陣を切ったのは、間十次郎と大高源五です。
これに他の浪士たちが続きます。
突然の襲撃に、上野介の家臣たちは応戦するも・・・周到な浪士たちにはかないません。
彼らの中で別格の働きをしたのが堀部安兵衛。
仇討で助太刀をした実戦経験を生かして獅子奮迅の働き!!
事前に手に入れていた図面で、おおよそが解っていた浪士たちは、吉良の寝所へ・・・!!
しかし!!そこはもぬけの殻でした。
敷いてあった布団はまだ温かく・・・まだ屋敷の中にいるはず!!と、台所の裏で物置のような部屋を発見!!
中を調べてみると人の気配が・・・!!
間十次郎が槍で一突き、あぶり出します。
吉良上野介!!
突入してから1時間余り・・・ついに浪士たちは本懐を遂げたのです。

翌15日早朝・・・浪士たち一行は、上野介の首を槍に括りつけると、かつての赤穂藩江戸屋敷の前を通って主君・浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ・・・!!
その道中、二人の浪士が列を離れます。
吉田忠左衛門と冨森助右衛門です。
内蔵助から預かった口上書を手に、江戸幕府大目付・仙谷久尚の元へ・・・!!
その口上書には、浪士たちの想いがつづられていました。

15日8時ごろ・・・泉岳寺に到着!!
吉良上野介の首を井戸水で洗い清め、浅野内匠頭の墓前に供え、討ち入りの報告をしました。
討ち取った間十次郎が一番最初に焼香をし、大石内蔵助・・・と、」身分の高い順から焼香し、名乗りをあげました。
そして、皆、声を上げて泣き崩れたとか・・・。
一旦大目付・戦国の家の預けられた浪士たち。
その日の夕方・・・幕府から戦国家に預けられていた浪士たちを4つに分けて預けるという命令がい下りました。

①熊本藩細川家
大石内蔵助・冨森助右衛門・奥田孫太夫・片岡源五右衛門・潮田又之丞・矢田五郎右衛門・原惣右衛門・赤植源蔵・大石瀬左衛門・近松勘六・小野寺十内・間喜兵衛・吉田忠左衛門・磯貝十郎座衛門・堀部弥兵衛・間瀬久太夫・早水藤左衛門

②松山藩松平家
大石主税・千馬三郎兵衛・堀部安兵衛・大高源五・木村岡右衛門・貝賀弥左衛門・中村勘助・岡野金右衛門・菅谷半之丞・不破数右衛門

③長府藩毛利家
岡島八十右衛門・武林唯七・倉橋伝助・吉田澤右衛門・松村喜兵衛・杉野十平次・勝田新左エ門・小野寺幸右衛門・前原伊助・間新六

④岡崎藩水野家
奥田貞右衛門・間十次郎・三村次郎左衛門・矢頭右衛門七・芽野和助・松村三太夫・神崎与五郎・間瀬孫九郎・横川勘助

どうして四家に分けられたのでしょうか?
吉良側の反撃にあったとしても、四家に分かれていれば被害も分散する・・・と判断したようです。
吉良側の反撃とは、上杉の仕返しのことで・・・当時の上杉・・・米沢藩四代藩主は上杉綱憲は養子で、実は吉良上野助の長男でした。
そのため、赤穂と浪士たちに復讐するのでは??と、幕府が警戒したのです。
実際四家には・・・
「上杉がどう出るかわからないので、その覚悟で念入りに引き取るように」と、お達しが出ていました。
これを受け、浪士たちを引き取るときも、多くの藩士たちを目付の仙石屋敷に向かわせます。
その数、1400人!!
夕方から夜にかけての引き取りだったので、仙谷邸は多くの提灯の明かりでそれは祭りかと見紛うほどでした。
駕籠に乗せられ、各大名屋敷に向かう浪士たち・・・。
この時、どこに預けられたか?が、彼らのその後を大きく左右することとなります。

赤穂浪士たちは各大名家でどんな扱いを受けたのでしょうか?

松山藩松平家の対応
大石主税ら10人が預けられたこの家では、襲撃を警戒し、浪士たちの護送は鎖帷子を着た藩士たちが厳重に警護。
屋敷では、10人は武家長屋に一部屋ずつ別々に入れられ、昼夜問わず厳しく監視されました。
その後、一部屋に5人ずつ・・・
彼らは武家諸法度によると”徒党”を組んでの暴挙に当たります。
預かっている側にとっては”罪人を預かっている”ことになります。
幕府の威光に背く処遇をすれば、自分達にも類が及ぶのではないか?
それを恐れた松平家では、神経をとがらせた対応でした。
薬・・・着物・・・手紙を書く・・・
一々幕府に問い合わせ、徹底的に管理しました。

長府藩毛利家の対応
こちらの扱いもひどく、護送の駕籠には錠がかけられ、網まで被せて開けられないようにしました。
まるで天下の大悪党扱いです。
長屋に一部屋5人収容した挙句、話しができないように一人一人を屏風で仕切り、往来に面した部分には目隠しをしました。
あまりの厳しさから浪士たちからの嘆願があって、屏風だけは取り払われることとなりまりました。
幕府に譴責があると思われないように・・・。

岡崎藩水野家の対応
初日には、厚手の着物や絹の夜具、枕を・・・。
年を明けて寒さが一層ひどくなると、火鉢もなく、寝具も増えず、屋敷は牢獄のようで外から見えないように玄関には竹垣が二重に・・・。

三家の浪士たちに対する対応は、どこも厳しいものでした。

熊本藩細川家の対応は・・・
細川邸に深夜に到着した大石内蔵助らは、思わぬ厚遇を受けることに・・・。
他の三家では、せいぜい家老が出てきて対応したのに、深夜にもかかわらず、藩主・細川綱利自ら出向き、浪士たちを称賛します。
「忠義なる振る舞いに感じ入った!!」
浪士の討ち入りを称えた綱利は、幕府の許しがあれば彼らを召し抱えてもいいとさえ思っていました。
収容された場所も、書院の広間・二間をあてがわれ、さらに新しい小袖・上帯・下帯が用意されました。
時々取り替えられました。
必要があれば、手紙を書くことを許されました。
幕府を気にせず彼らの希望を最大限に叶えます。
寝る時も・・・寒がりの内蔵助は頭巾をかぶり、掛布団にこたつ布団で寝ていたと言いいます。
他の三家なら許されなかった好待遇でした。
食事も良かったようで、朝夕藩主と同じ二汁五菜という贅を尽くしたものでした。
酒も・・・飲めない者には甘酒、おやつや夜食も出されました。
しかし、大石内蔵助は・・・質素な食事にしてほしいと断ったと言います。
が・・・ますます料理は豪勢になっていきました。

浪士たちは、討ち入りをするまで、どのような生活を送っていたのでしょうか?
お家断絶となった藩士たちは、全員浪人となりました。
家禄も無くなり、生きていくだけで大変でした。
堀部安兵衛は、裏路地の狭い長屋暮らしを余儀なくされます。
得意の剣術指南で僅かな収入を得て、かゆを食べて飢えをしのぎました。
下級武士となると悲惨で・・・
小山田庄左エ門はあまりの極貧に、討ち入りを結構前に、仲間のお金と着物を盗んで逃げてしまいました。

箱根神社は、仇討で有名な曽我兄弟の墓がったとされる場所で、成功を祈願し、大石内蔵助が来ています。
ここに・・・大石内蔵助の描いた「預置候金銀受払帳」が残っています。
そこには、主君・浅野内匠頭の菩提を弔うために、寺に寄進した100両をはじめ、浪士たちの家賃や食費などが事細かく記されています。
そのそう支出額は、697両で、現在の価値にすると7000万円でした。
討ち入りまでに要した最も大きな出費は、旅費や江戸滞在費です。
次にかさんだのが、生活補助費です。
援助を受けたものの中には、内蔵助の右腕で浪士の中で3番目に高い禄高をもらっていた原惣右衛門もいました。
たくわえが底をつき、討ち入り資金から金10両を援助されています。
矢頭右衛門七は、禄高なしで、討ち入りの時17歳でしたが、困窮を極めていたので、生活が立ち行かなくなり3両を援助されています。
これに深く感謝した矢頭は、父の鎧を質に入れて江戸行きのお金を捻出。
討ち入りに参加しました。
赤穂浪士たちの生活は、それはそれは大変なものだったのです。

討ち入りまでの697両はどうして捻出したのでしょうか?
赤穂藩のお金を処分して、それを退職金にしました。
そのほか、瑤泉院(浅野内匠頭の正室)の化粧料が690両。
討ち入り寸前には十数両になってしまっていました。
その残ったお金も、槍12本、長刀2振、まさかり2挺、弓2張と、武器の購入に充てられました。
全くお金が足りなくなって、7両2分は、内蔵助の持ち出しでした。
祗園で豪遊している内蔵助のイメージは歌舞伎で、本当はつつまし生活をしていたようです。

お預けになった浪士たちは、四十七人ではありません。
46人・・・一人足りません。
それは、足軽・寺坂吉右衛門です。
吉右衛門は、四十七士の中で最も低い身分で、大石内蔵助を補佐した吉田忠左衛門に仕えていました。
実直なこの男は、浪士たちの連絡役を務めていました。
吉良邸討ち入り直後はその場所にいましたが・・・泉岳寺についてみると居なくなっていました。
一説には広島に向かったと言われていました。
そこには、浅野内匠頭の弟・浅野大学が預けられていて、討ち入りの報告に向かったのだとか。
京都にいる元赤穂藩医・寺井玄渓の元を訪ねたともいわれています。
内蔵助の密命を受け、赤穂藩の関係者に報告をしたともいわれています。
しかし、本当の理由はわかっていません。
が・・・吉田忠左衛門は
「あの者は不届き者である。
 二度とその名前を口にしないでほしい」と言ったとか。。。
つまり、裏切り者だった??
しかし、それは庇うためだったのかもしれません。
寺坂は討ち入りに参加したにもかかわらず、幕府に咎められることはなく・・・それは、仙谷氏の温情だったともいわれています。
切腹を免れた寺坂は、討ち入りから45年後、多くを語らないまま83歳で亡くなります。

裏切り者と言われ、浪士たちから反感を買っていたのが高田郡兵衛。
郡兵衛は槍の名手で、刃傷事件が起こるや、真っ先に敵討ちを主張した討ち入り派の急先鋒でしたが・・・
貧乏暮らしを心配した叔父からしつこく養子縁組を薦められ・・・
兄が口を滑らします。
「弟には、敵討ちの大望があるから、無理なのです!!」
討ち入りをばらしてしまったのです。
それを脅迫材料とした叔父は・・・ばらされたくなければ大人しく養子になれ!!と言いましたが・・・。
メンバーから抜けたいがための言い訳かも知れません。
自害もせず・・・討ち入り後、祝い酒を持って浪士たちを訪れますが、浪士たちは激怒!!
その後の消息は分かっていません。

このように、討ち入りに参加しなかった者たちへの風当たりは強いものでした。
彼らはどんな人生を送ったのでしょうか?
取り潰される前の赤穂藩には300人の藩士がいました。
その中で討ち入りした者たちは、正義のヒーローでした。
幕府が禁止したにもかかわらず、芝居が数多くつくられ、大人気でした。
それもあってか、討ち入りに関わらなかった者たちは、世間から冷たい目で見られました。
城代家老の大野九郎兵衛は、赤穂城明け渡しの混乱の中、国家老である内蔵助と意見が対立!!
その後、京都に移り住むも、困窮で餓死したと言われています。
その大野氏の一派の中には、家族から一家の恥と責め立てられ切腹したものも・・・。

討ち入り直前に、仲間の金と着物を盗んで逃亡した小山田庄左衛門のその後の人生も悲惨でした。
父・一閃は、息子が討ち入らなかったことを知ると、それを恥じて自決!!
本人は、偽名を使って医者となりましたが、討ち入りの19年後・・・使用人によって妻と共に殺害されるという謎の死を遂げています。
他にも参加しなかったからと、親類から絶縁された者、卑怯者の娘として離縁された者、仕官先が見つからない息子・・・世間の冷たい仕打ちにも・・・
食べ物を売ってもらえなかったり、近所付き合いを断られるなどあったようです。
赤穂の義士たちの名声が高まるほど、参加しなかった者に非難が集中しました。

赤穂の義士たちは、お預かりになってから1か月たってもお沙汰がありませんでした。
浅野内匠頭は、即刻切腹だったのにどうして・・・??
そこには、迷える将軍・綱吉がいました。
46人のそのほとんどが罪人と扱っていましたが、世間は圧倒的に彼らの見方でした。
庶民たちは、四十七士をヒーロー扱いし、軽い処罰を望んでいました。
討ち入りからひと月立っても、彼らに沙汰はありません。
幕府の裁定は紛糾していました。
討ち入りを主君への「忠義」と取るか、悪までの法を犯した「徒党」と取るか??

綱吉は・・・
「彼らの討ち入りは、主君に対する忠義故の行動。
 死なせるには惜しい。。。」
なんとか助けてやりたいと考えていましたが・・・
しかし、刃傷事件の時、浅野内匠頭を即日切腹を下していました。
大名に対してこの裁定は、前代未聞の厳しさでした。
「上野介は殿中を憚り手向かいをしなかった事、殊勝である」と、無罪放免にしたのです。
この裁定に赤穂浪士たちは・・・どうして喧嘩両成敗にならないのか??と!!
上野介だけ処分がないのは納得がいかない・・・その不満が募って、自分たちの手で討ち入りを決行していました。
浪士たちの行動を許せば、喧嘩両成敗をしなかったことへの不満を認めたことになり、幕府の面目が潰れてしまうと綱吉は悩んでいたのです。
そこで、儒学者・林信篤に相談すると・・・
「主君の意志を継いだものとはいえ、天下の法を破ったことに違いはない。
 これは、道理に背くことなので、これを捕らえて誅することは国家の法を明らかにするものだ。」と、返ってきました。

同じく荻生徂徠も・・・
「吉良が浅野を殺したわけではない以上、吉良は浅野の仇ではない。
 浅野の行動は、一時の怒りによる不義であるから、浪士たちの行動も義とは言い難い。」

困った綱吉は、助命嘆願の発言を期待し、輪王寺門跡・公弁法親王に相談します。
「命を助けて後、将来を誤るようなことがあればよろしくない。」

死罪より選択肢はない・・・??
綱吉は苦渋の決断をします。
元禄16年2月4日・・・四十六士に切腹の命令が・・・!!
武士にとっては名誉の死・・・将軍綱吉のせめてもの温情でした。

赤穂浪士たちの切腹の儀が各大名屋敷で執り行われることとなりました。
細川邸で、最初に切腹したのは大石内蔵助、畳3畳の最高の格式で切腹が許されました。
内蔵助は・・・

 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる
         浮世の月に  かかる雲なし

と詠みました。

46人の切腹にかかったのはおよそ4時間で、全員が見事切腹して果てました。

その日・・・吉良家にも処罰が下っています。
吉良上野介の孫で吉良家嫡男・吉良左兵衛は、討ち入りを防げなかったことで、領地召し上げのうえ高嶋藩諏訪家にお預けという厳しい処分が。。。
左兵衛は生きる望みを失い3年後・・・21歳の若さで亡くなります。
これにより吉良家は断絶・・・遺体の引き取り手もいませんでした。

赤穂浪士たちの家族は・・・
当時は連座制で、三親等までが処罰の対象でした。
が、幕府は女性には処分を下さず、男子は15歳以上のもの4人だけを伊豆大島に島流しにしました。
まだ幼い男の子は15歳に達し次第遠島の処分がなされました。
宝永3年には、桂昌院の一周忌で大赦があり、流罪になった4人のうち生き残っていた3人が帰り・・・
宝永6年には綱吉が亡くなったことによる大赦で、遺児全員が許されました。

世間の評判を気にした幕府が、赤穂の家族に配慮した結果でした。
そして、浅野家、大石家は・・・??
浅野家は、500石の旗本としてお家を再興しています。
大石内蔵助の家族は・・・
妻・理玖は、浅野家本家で厚遇を受け、68歳で亡くなっています。
内蔵助との間の5人のうち、三男・大三郎は、広島藩・浅野家に召し抱えられ、父・内蔵助と同じ1500石の家臣となりました。
赤穂浪士たちが討ち入りを決行し、忠義を尽くしたからではないでしょうか?

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