日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:和宮

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世紀のロイヤルウエディング・・・それは、今から156年前の幕末・・・孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の結婚でした。
華麗な花嫁行列は、注目の的となりました。

1861年10月20日、花嫁行列が、京から江戸へと出発!!
16歳で降嫁した和宮でした。
総勢2万5000、長さは50キロに及ぶ史上まれにみる豪華な花嫁行列で、江戸に入るまで25日かかりました。
幕府予算の2年分と言われる莫大な費用を投じた世紀のロイヤルウエディングでした。
しかし、花嫁・和宮の心は晴れやかではありませんでした。

住みなれし 都路出でて けふいくひ
           いそぐもつらき 東路のたび

見知らぬ江戸の大奥での暮らしは、苦難の連続でした。
14代将軍家茂の愛に包まれて頑なだった和宮は人を愛することに目覚め大人へと成長していきます。
が、突然の夫の死、幕府存続の危機・・・次々と歴史の荒波が襲い掛かります。
朝廷と徳川の板挟みに苦しむ和宮は、自らの手で運命を切り開いていきます。

「私も、徳川家の滅亡を見ながら生き残るわけにはいかないので、きっと覚悟を決めましょう。」

悲劇の皇女・和宮・・・その姿は、自らの運命に立ち向かった勇敢な女性でした。
気高くたくましく成長するプリンセス・和宮!!

1862年2月、江戸城内で和宮と徳川家茂の婚礼が行われました。
朝廷と幕府の期待を背負って江戸にやってきた和宮、行った先は大奥でした。
大奥では1000人以上の女性が働き、200年の伝統と細かいしきたりがありました。
そこに君臨していたのは、前将軍の正室・天璋院篤姫でした。
薩摩藩から嫁ぎ、夫亡き後も大奥に留まっていました。
和宮より11歳年上の姑でした。

和宮と篤姫は、共に朝廷と徳川のプライドをかけてたいりつすることになってしまいます。
どうして対立してしまったのでしょうか?

1846年孝明天皇の妹として生まれた和宮。
幼いころから皇族としての教育を受け、和歌を学ぶなど何不自由ない生活を送っていました。
損な和宮に家茂との結婚の要請が来たのは、1860年、和宮が15歳の時でした。
幕府と朝廷の政略結婚でした。
きっかけは、ペリー来航でした。外国嫌いの孝明天皇が反対しているにもかかわらず、幕府は圧力に屈し開国に同意してしまいます。
そのため、幕府への批判が日本中でおこります。
そこで、幕府が目をつけたのが、朝廷の権威でした。
天皇の妹・和宮と将軍。家茂を結婚させることで、政権の安定を図ろうとしたのです。
しかし、和宮にとっては受け入れがたい話でした。
それは・・・和宮が6歳の時に11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約していたからです。
さらに、忌まれてから1回も京を出たことのなかった和宮に、江戸へ行くことは恐怖そのものでした。

”夷人が大勢おる関東へ参るなど、とても恐ろしくてできませぬ”

しかし、兄・孝明天皇は、幕府に外国船を打ち払わせるために、和宮に婚姻を勧めます。
それでも首を縦に振らない和宮・・・孝明天皇は、
「関東との縁談を断って、もし有栖川宮と婚姻しても、私が拒むから尼になるがよい。」by孝明天皇
和宮は、止む無く家茂との結婚を受け入れます。

「天下泰平のため まことにいやいやながら 仕方なくお受けするのでございます。」by和宮

1861年16歳の時、和宮江戸へ・・・!!
嫁ぐにあたって、条件を出していました。

”江戸城に入った後も、身の回りはすべて御所風を守ること”
江戸城に入った後も、和宮が慣れ親しんだ御所の習慣を通すと要求したのです。
大奥に入った後、女官は日記に書いています。
”御風違”と書いています。
そしてこのことが、和宮と篤姫が対立する原因となっていきます。

対立は些細なことから始まりました。
嫁入りの際、篤姫の元へ和宮から来た目録・・・そのあて名は”天璋院”・・・呼び捨てで書かれていました。
和宮からすれば、自分より身分の低い篤姫を呼び捨てにするのは当然です。
しかし、篤姫も大奥のしきたりに従わせようとします。
二人が初めて対面した時・・・和宮が座敷に来た時、篤姫は上座に座り敷物に座っていました。
それに対し、和宮は下座で畳の上に直に座らされたのです。
これを見た女官は、朝廷に訴えの手紙を送っています。

”和宮さまは、無念の思いに耐えられないご様子で、私共もお慰めする言葉も見つかりませんでした。”

二人の対立は、和宮の女官280人VS篤姫の女中260人を巻き込み、大奥を二分する戦いに発展します。
そのすさまじさは、大奥のみならず、江戸城内でも噂になります。
幕臣だった勝海舟は、後に語っています。

「和宮と天璋院は、はじめは大層仲が悪かった
 お付きのせいだよ
 あっちでもすればこっちでもするというふうに、競ってそれはひどかった」by海舟

結局、和宮と篤姫との交流は無くなってしまうのでした。
しかし、和宮も逃げ出すつもりはありません。

惜しましな 君(天皇)と民とのためならは 
               身は武蔵野(関東)の 露と消ゆとも

自らの命を惜しまず、天皇と民の為ならば、武蔵野の露と消えても構わない・・・と!!

不慣れな江戸で姑との交流もなく、孤独な生活を送る和宮・・・
そんな毎日に潤いを与えてくれたのは、不本意ながら結婚相手の家茂でした。
和宮と同じ年の若き将軍は、家臣に

「私は和宮を本当に大切に思いたい。
 そうすれば、幕府と朝廷も自然と上手くいくはず。
 表だけ飾るのではなく、心から親しい間柄でいたいのだ。」by家茂

家茂は、自分が将軍であるにもかかわらず、和宮を宮様と呼び、皇女として扱いました。
そんな家茂の気遣いや気さくな人柄は、次第に和宮の心を開いていきます。
結婚から2か月後・・・家茂の乗馬を見学し、そのまま一夜を共にします。
その翌日も、家茂は突然大奥に訪れます。
それは、金魚を和宮に見せるためでした。

和宮が和歌を送ると・・・自ら鼈甲のかんざしを持ってくる家茂。
こうしたやり取りが、二人の間で自然に繰り返されるようになって・・・。
そして、天璋院篤姫との関係も変わってきました。
浜離宮恩賜庭園で語られているのは・・・
和宮、篤姫、家茂が庭に降りようとすると、なぜか家茂の履物だけ踏み石の下に置かれていました。
それを見た和宮は、ぽんとおり、自分の履物を下ろして家茂の履物を石の上に起きました。
かつての和宮では考えられないことでした。
これ以降、篤姫と和宮のいざこざはピタリとやんだといいます。
大奥での暮らしになれ、周囲の人間とも交流し、大人の対応ができるようになってきた和宮・・・

1863年、京では反幕府勢力が台頭!!
家茂はそれを抑え込むため自ら京に向かいます。
和宮18歳の時でした。
以後も緊迫した事態が続いたので、家茂は頻繁に江戸と京を往復します。
無理を重ね、脚気を患ってしまいました。
和宮は家茂の無事を願ってお百度参りをします。
1865年、再び西に向かう前に、家茂は和宮にどんな京土産がいいか尋ねています。

「西陣の織物が欲しゅうございます」

和宮は家茂を送り出します。
しかし・・・1866年7月、和宮にもたらされたのは、家茂の訃報でした。
享年21歳。
夫の亡骸と共に届いたのは、土産に欲しいと頼んでいた西陣織でした。

空蝉の唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ

結婚して4年・・・そのうち夫婦が一緒に暮らすことができたのは、僅か2年余りでした。

最愛の夫を亡くした和宮・・・この時、21歳でした。
朝廷と幕府の結びつきを強めるためのこの結婚・・・いまやその意味を失い、和宮が江戸に留まる理由が無くなりました。

それからわずか1年後・・・大政奉還により幕府は消滅!!
朝敵となった徳川家は滅亡の危機にさらされます。
生まれ育った天皇家と嫁ぎ先の将軍家・・・両家の板挟みにあう和宮。
この時、江戸を離れて京に戻ることもできました。
しかし、和宮は江戸に残り、徳川家存続のために必死の奔走を始めたのです。
どうして徳川家のために命をかけたのでしょうか?

亡き家茂の跡を継いで将軍となったのは慶喜でした。
1867年京の二条城・・・ここで、慶喜は大政奉還を表明しました。
夫・家茂が命がけで守ろうとした徳川家は、あっけなくその幕を閉じたのです。
1868年、和宮23の時に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を西郷率いる新政府軍が撃破!!
さらに錦の御旗を掲げて徳川を朝敵とし、江戸城へ進軍を始めました。
江戸へ逃げかえった慶喜は、新政府軍に恭順の意を示し、和宮を通じて和平を模索します。
しかし、何の相談もなしに幕府を終わらせ泣きついてきた慶喜に、和宮は憤慨し、面会を拒否します。
この時、和宮と慶喜を仲介したのが天璋院篤姫でした。

同じ大奥にいながら交流のなかった和宮と篤姫・・・。
しかし、家茂亡き後、二人の間は深まっていました。
篤姫もまた、結婚してすぐに夫を亡くすという経験をしていたからです。
和宮を保護しようという気持ちが高くなっていたのです。
和宮も、その気持ちが解るので、天璋院を頼るという心境になったのです。

江戸城にいた旧幕府上層部は、徹底抗戦と時代の流れを読めない者ばかり・・・。
慶喜から事態の解決を頼まれた和宮と篤姫・・・徳川の命運は、土壇場でこの二人に託されました。

この頃の和宮の日記には・・・
朝廷の味方をすれば徳川家から不義となり、徳川家のために義を通せば兄に対して不貞になる
本当にどうすればいいのか
それでも、後世まで清き名を残したい
と書かれています。

そこには、かつて江戸に嫌々嫁いできたか弱い皇女の姿はありませんでした。
自分の家族ともいうべき徳川家を守る母の姿でした。
和宮は新政府軍に謝罪し、寛大な処置を求めます。

何卒 私へのお慈悲とおぼし召され どうか徳川家をおとり潰しにならぬようお願い申し上げます。
徳川家が滅ぶようなことがあれば、私も生きていくわけには参りません。

しかし、新政府軍の進撃は止まらない・・・
江戸城総攻撃は3月15日に決まります。
100万人が暮らす江戸に、戦火の危機が迫りました。
すでに慶喜は江戸城を去り、ほとんどのものはなすすべなく・・・かろうじて勝海舟らが動いていました。
主なき城に取り残されたのは、数百人の大奥の女性たち・・・
城中に不安な空気が・・・そんな中、和宮は訴えます。

「朝廷から寛大な処置がもらえるよう謹んで行動するように
 万一、心得違いの者がいれば、徳川家もこれ限りになります」by和宮

3月11日、江戸城総攻撃まであと4日・・・
既に江戸は、新政府軍によって包囲されていました。
ここで、和宮と篤姫は最後の手に打って出ます。
篤姫は同じ薩摩出身の西郷隆盛に手紙を・・・和宮は新政府軍総督に直接手紙を書きます。

「どうか・・・私の心中をお察しください。
 江戸へ軍勢を進めるのは今しばらくご猶予くださるようお願い申し上げます。」by和宮

1868年4月11日、和宮の願いは届きます。
新政府軍との和平が成立・・・江戸は一切戦火に見舞われることなく新政府に明け渡されました。
そして、徳川宗家の存続も約束されたのです。

和宮の懸命の嘆願に寄って平和の訪れた江戸・・・一方徳川宗家は、静岡に移されました。
隠居した慶喜の跡を継いだのは、かつて家茂が跡継ぎに指名していた徳川家達6歳でした。
和宮は家達が静岡に引っ越すまで東京と言う名を変えた江戸で暮らし見守りました。
この時期の和宮の日記には、家達の名が頻繁に出てきています。
我が子同然だったようです。
24歳の和宮は、8年ぶりに京に戻ります。
京では聖護院に住み、泉涌寺や孝明天皇や光格天皇の墓所に・・・お墓参りをなさっていたようです。
祇園祭を見物し、嵐山で紅葉狩りをし、気ままに過ごします。
しかし、いつも気にかけていたのは家茂のことでした。

「京に住むことになれば安心ですが、来春の家茂さまの年季には、江戸に戻りたいと思っています。」by和宮

1874年29歳の時に再び東京へ・
そして、家茂のいる増上寺の見える場所を住まいとします。
この頃、和宮が読んだ歌が残っています。

玉敷の みやこもひなも へたてなき
         年を迎うる 御代のゆたけさ

都も田舎も隔てなく、年を迎えられる この時代の豊かさよ

1877年9月2日、和宮は療養中の箱根でその生涯を閉じます。
享年32歳でした。
亡骸は、和宮の遺言により、増上寺に眠る最愛の夫・家茂の隣に葬られました。
和宮の市からおよそ80年後の1958年、墓地の改装が行われることとなり、和宮の墓が掘り起こされました。
棺を開けると、和宮は一枚のガラス版を抱きかかえていました。
それは、生前の家茂を映した写真でした。
幕末の動乱の中、世紀のロイヤルウエディングをあげて波乱の生涯を閉じた和宮・・・
あれから150年余り・・・和宮と家茂は今も仲睦まじく、寄り添うように眠っています。

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今からおよそ150年前、東京の礎を築いていた江戸の街は危機に瀕していました。
1868年・・・新政府軍VS旧幕府軍との戦い・・・戊辰戦争です。
100万人が暮らす江戸が戦火の海になる可能性がありました。
その危機を救ったのが、勝海舟と西郷隆盛の会談・・・男たちの英断によって江戸は救われ、近代国家の道へ・・・!!
しかし、その成功への道筋には、大奥の二人の女性の命がけの選択がありました。
天皇家から徳川家に降嫁した皇女・和宮と、その姑として大奥に君臨した天璋院篤姫でした。
この時・・・将軍は朝敵とされ、男の政治が機能しなくなり、大奥には女性たちが取り残されていたのです。


1861年10月20日京都・・・日本史上かつてない婚礼が行われようとしていました。
京から江戸へと向かう降嫁の行列・・・花嫁は仁孝天皇第八皇女・和宮です。
輿入れの行列は豪華絢爛・・・警護まで含めると総勢およそ3万人!!
行列の長さは50㎞に及び、全部通過するのに4日間かかったと言われています。
その輿入れの道中には、歌碑が残されています。

「住み馴れし 都路出でて けふいくひ
          いそぐもつらき 東路のたび」

和宮は当初、この婚礼を望んでいませんでした。

1853年、ペリーが来航し、武力で開国をせまりました。
対応を迫られた幕府は、朝廷の勅許を得ることなく・・・
1858年安政の五ヵ国条約を締結。開国に踏み切りました。
これに対し、尊王攘夷派が激しく反発!!
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺!!
徳川幕府の権威は大きく失墜してしまいました。
権威回復のために、天皇の威光を利用しようとします。
そうして考え出されたのが、公武合体論です。

そのシンボルとして画策されたのが、第14代将軍・徳川家茂と皇女の婚礼だったのです。
そして白羽の矢が立ったのが・・・当時14歳だった皇女・和宮でした。
すでに婚約者がいた和宮・・・尼になると固辞します。
が・・・政治に興味のあった孝明天皇は幕府に交換条件を出します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
幕府は攘夷を約束し、孝明天皇は和宮降嫁を内諾します。
兄から強く諭された和宮は、この政略結婚を受け入れるほかありませんでした。

輿入れの道は、公武合体に反対する反幕府派の襲撃に備え、東海道を避け、警護をしやすい中山道が選ばれました。

行く先々での祝賀ムードに・・・

「惜しましな 君と民とのためならは
       身は武蔵野の 露と消ゆとも」

京を出発して25日目・・・1861年11月15日、ついに江戸に到着!!

和宮は将軍の正室・御台所として大奥に入ります。
大奥・・・常に1000人以上の女性が暮らし、250年の細かいしきたりと歴史がありました。
公武合体の使命を背負い、大奥に入った和宮に立ちはだかったのが、当時大奥の頂点に立っていた天璋院篤姫です。
篤姫は薩摩に生まれます。
名は於一(おかつ)。実家は薩摩藩島津家の貧しい分家でしたが、藩主・島津斉彬から忍耐力や才能を見込まれ養女となりました。
篤姫は幕政に対する発言力を強めようとした斉彬ために、第13代将軍家定に嫁ぎました。
その輿入れには、嫁入り道具の調達をした西郷隆盛もいました。
夫亡きあとも、次の将軍となった家茂の養母として大奥を取り仕切っていた篤姫が姑となります。

女官によると・・・二人は御風違い(作法やしきたりの違い)を感じています。
女の園・大奥で、朝廷と武家・・・それぞれの歴史と文化を背負って向き合うこととなるのです。

幕末の京都・・・天誅の名のもとに尊王攘夷派が暗躍!!
役人が次々と暗殺され・・・不穏な空気が・・・。
1863年2月、孝明天皇を命を受け、大軍を率いて上洛。
結婚の条件だった攘夷実行を迫られるのでした。
篤姫は心配し・・・
「京でのご滞在が長くなり、心配しております。
よく後先を考え、何事もうかつになさいませんようにお気を付けください。」
妻・和宮も身を案じ・・・
「京の都はいかがでございましょう。
 お慣れではない土地ゆえ 寒さもひとしおお厳しく思われることと存じます。
 ずいぶんとずいぶんとご用心なされますように。」

しかし、緊迫した状況の中で、家茂は体調が悪化していきます。
1866年7月将軍・家茂急逝・・・。 
和宮のもとには家茂の亡骸とともにお土産の京の西陣織が・・・。
「空蝉に 唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ」

家茂亡き後、英明と謳われた慶喜を将軍に選びます。
江戸を離れ、京で様々な政治工作を行っていた慶喜は。。。
大政奉還・・・徳川幕府の幕を下ろしました。
薩摩藩の西郷隆盛らはこれを機に徳川家排除を画策、新政府を樹立したのです。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発!
新政府軍は圧勝しました。
戦いに敗れた慶喜は、兵を残したまま江戸を離脱、船で江戸へ敗走!!
朝廷からは慶喜の追討令が発令します。
錦の御旗で官軍となった新政府軍・・・。
江戸城に戻った慶喜・・・朝敵となった慶喜が、救いを求めたのは篤姫と和宮でした。

和宮は、攘夷が果たされず・・・京へ帰る・・・??
篤姫は徳川家に嫁いだ以上、家を残さなければ!!
戦いは避けられない・・・新政府軍と一戦交える・・・??

二人で命を懸けて江戸城に留まり和平を目指す??

江戸城総攻撃目前・・・絶体絶命の中、二人がとった選択とは??

1868年2月15日、江戸進軍開始!!
各地の藩の多くは武力抵抗せず、新政府軍は兵力を温存したまま江戸へ!!
江戸城総攻撃は3月15日に決定!!
4日後に迫った3月11日、和宮と篤姫は江戸城に残り・・・和平を目指して動いていたのです。
和宮が最後の望みをかけて書いた「和宮哀訴状」手紙の相手は、先鋒隊総督で公家の岩倉具定・・・幼馴染でした。
和宮は江戸を戦火から守るためになんとか進軍を止めてほしいと強く訴えます。

時を同じくして篤姫は3mに及ぶ嘆願書を・・・相手は、新政府軍の参謀として実権を握る西郷隆盛でした。
西郷はこの手紙を読んで涙を流したと伝えられています。
総攻撃目前の3月13日から14日にかけて西郷と勝が会談し、総攻撃は中止と決定されました。
この決定を受け篤姫は幕臣たちに通達を出します。
「江戸城総攻撃は見合わせになったが、もし不心得者がいると徳川家の一大事になる。
 これまでの努力も無に帰すので、心得違いなく静謐を保つように。」
大奥からの異例の通達でした。

1868年4月11日、江戸城明け渡し

大奥の歴史にも幕が下りました。

新政府軍が城を引き取りに行ったとき、大奥は美しく整えられていました。
明治を迎えた後も、篤姫と和宮は徳川家を残すことに力を合わせます。
徳川御三卿田安家の跡取り・亀之助が徳川宗家を継げるように嘆願し、徳川宗家16代当主・徳川家達となります。
篤姫は東京・千駄ヶ谷で家達を養育し・・・
1883年篤姫逝去・・・享年49。薩摩に帰ることなく、徳川の女としてその生涯を閉じたのでした。

一方和宮は・・・1877年に享年32歳でなくなります。
遺言のより、その遺体は亡き夫の傍らに葬られました。

女たちの江戸城無血開城・・・和宮と篤姫は命がけの選択で時代の始末をつけ、大都市・東京の繁栄の道をつないだのです。


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孝明天皇、八重の桜では、市川染五郎さんです。

yae











幕末に在位した第121代天皇であり、もちろん明治天皇のおとうさんです。
いろいろ言われる天皇様ですが、一つだけ言えることは・・・
ペリーがやって来て、井伊直弼や堀田正睦がお伺いに来るようになって・・・
「え???天下の政に参加していいの???」
とばかりに参加しようとした人です。

異母妹・和宮親子内親王を14代将軍・徳川家茂に降嫁させたりして、全くの討幕派ではなかったものの・・・公武合体運動を推進することに。。。
時代の流れに呑まれていきます。

また、松平容保の誠実な忠勤を心から信頼し、その信頼の証として容保に自ら宸翰・御製を与えています。
が・・・この孝明天皇の死が、事態を急展開させていきます。

だからこそ・・・いろいろな説が浮上します。
①病死説・・・天然痘
②毒殺説
③刺殺説
④天然痘+刺殺説
⑤毒殺+刺殺説
ま、犯人として挙がってくるのはいつも岩倉具視さん・・・
500








加山雄三さんの曽祖父ですが、彼や伊藤博文さんが有力です。
天然痘だったのは本当のようです。
でも、孝明天皇の死によって、討幕の方向性が決まったと言っても過言ではないですからね・・・
それだけ重要な天皇だったことに違いはありません。

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1861年、幕末の日本で史上最大規模のロイヤルウェディングが行われました。
天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂との結婚。和宮の降嫁です。

皇女が徳川家に嫁ぐのは、前代未聞のことでした。

kazunomiya.png

京からの花嫁行列はおよそ3万人。
かかった費用は900万両、当時の幕府の予算の2年分と言われています。

なぜこれほどまでに大事になったのでしょう?

前途多難な結婚でしたが・・・。
どうして降嫁したのでしょうか???

降嫁とは、皇族の娘が臣下に嫁ぐという意味です。
宮家からは・・・
8代将軍・吉宗の正室は、理子。
12代将軍・家慶の正室は、喬子。

しかし、皇女が関東の東夷(野蛮人)に嫁ぐ・・・ありえない・・・前代未聞のことでした。

みんなが諸手を挙げて喜んだわけではありませんでした。

1860年8月、結婚が決まりました。
日本列島が、一気に動き出しました。
和宮の花嫁行列は、中山道を通って、江戸へ向かうことになりました。

準備に取り掛かる街道筋・・・
周辺の宿場町では・・・
赤坂宿では、町全体で家屋を新しくしました。
257の家屋や空き地を調べています。
空き地や古い家屋は見苦しい・・・と、建て替えられたのです。
お嫁入り普請です。

馬籠宿では・・・道路工事が。
畳石に取り掛かり、石垣を二尺引込め道幅を二間に・・・
街中の道路を造り替えました。
このようなことが、中山道すべてで行われていたのです。

ちなみに、和宮とは別の婚礼道具は美濃路、東海道を通って運ばれました。
長さ9m、幅3m、重さ1tの巨大な婚礼道具を70~80人で運びました。
小さな橋は、欄干を外したり、取り替えたり・・・
小さな門は取り壊したり・・・
埃がたたないように石や砂利を敷いたり・・・
通るところはすべてインフラ整備をし・・・
広大な地域を巻き込んだ一大イベントとなりました。

1861年10月20日和宮一行は、京都を出発します。

でも、どうして中山道なのでしょう???
中山道は、東海道に比べて5分の1の交通量です。

kouka.png

槍を持った人、剣を持った人、伊賀衆30人・・・厳重な警戒のもとに、そんなに混んでいない道を選んだようです。
鉄砲や槍を持ち、戦に出かけるような行列だったそうです。

女官や役人も含めて5000人から7000人、これらの人を江戸に送るために、人足や馬をたくさん出しています。
全行程でかかわった人の数は、総勢70万人。
まさに、史上最大のロイヤルウエディングでした。


どうして、このような国を挙げての大行事となったのでしょうか???
そこには、幕府の権威の失墜がありました。
幕末になると・・・幕府の力が落ちてきて・・・朝廷の力がついてきていたのです。
対外的な国難に立ち向かうためには、公武合体が必要だったのです。

桜田門外の変で、“幕府の権威の失墜”にとどめを刺された幕府は、どうしても和宮が欲しかったのです。

1年半前の1860年4月に、和宮降嫁を要請します。
和宮は、外国人のいる江戸を嫌がっていました。

しかも、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたのです。
兄の孝明天皇は、要請を繰り返し断っていましたが・・・幕府も必死に食い下がります。

そして・・・
丙午に生まれた女は災いをもたらす・・・と、有栖川宮家に吹き込んで、破談にしてしまいました。

再度降嫁を要請します。
近臣の岩倉具視は・・・
「外圧に晒された皇国の危機を救うには、朝廷権威を回復し、国是を確立させる必要がございます。」
と、朝権の回復を訴えます。
「和宮の身は極めて重いものです。
 通商条約を破棄するよう命じ、幕府がそれを約束するというならば、和宮を説得してはいかがでしょう。」

天皇は、ついに決断します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
通商条約の破棄と、攘夷を求めました。

幕府の返答は・・・
「7,8年ないし10年以内に条約を廃棄する。」

これが、孝明天皇にとっては重要なことでした。
このことが実現するならば・・・と、政略結婚に進んでいきます。

そして、天皇の決定的な言葉・・・
「降嫁が実現しなければ、朕は譲位する。」
この一言で、和宮はついに決心しました。

和宮は降嫁とともに、5つの条件を出しました。
江戸城に入った後も、身の回りは万事御所風を守ること。
江戸城での生活になじむまで、御所の女官をおそばにつけること。
などです。

これに、孝明天皇が足したのが・・・
和宮が出した5か条を遵守すること。
蛮夷拒絶の方策は、今後老中が後退しても決して変えないこと。

これを幕府に示したのです。
孝明天皇は、今までの無知な天皇とは全く違う天皇だったのです。
16歳の少女が嫌がった・・・
このことが、攘夷の期限を切ることが出来た。
これが、幕府の最期を決定づけさせたのです。


京都から出発・・・

この時に詠んだのが
「住みなれし 都路出て けふいく日 
        いそぐもつらき 東路の旅」

「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の
        人なつかしく こがれこそすれ」

しかし、日本中は、興味津々・・・

万歳・万歳です。
行列を見る為のガイドブックまでありました。
出版されたのは、10カ月も前のことでした。

一方で、風刺画も・・・
「和宮降嫁は狐の嫁入り」
朝廷と幕府の化かしあいだというのです。


公武合体を日本人全員に目に見えるような形で示す・・・
大行列は・・・その効果は絶大でした。


1961年11月15日、江戸城へ・・・。京都を出発して25日経っていました。

閉塞状態だった幕末、明るい話はとっても歓迎されました。

1862年2月11日和宮と家茂結婚。二人は17歳でした。
幸せ、ラブラブな二人・・・しかし、この結婚が、幕府を窮地に陥らせます。

5月15日、孝明天皇は“条約破棄”を改めて求めます。
「もし10年以内にことを起こさないならば、自分が最高司令官となって戦う!!」その言葉が、朝廷内の反幕府勢力の原動力となってしまうのです。

京都では、過激な攘夷派の天誅が横行します。
公武合体派の人びとが暗殺されるという異常な状況になってきました。

孝明天皇と家茂の仲をとりもつ和宮。
家茂は上洛します。この将軍上洛は、3代・家光以来240年ぶりのことでした。

幕府としては、戦うのは幕府、その期日は言わないという考えでした。
しかし、朝廷は譲位期限を決めたい!!

1863年4月20日、家茂はこともあろうに譲位期限を5月20日と決定してしまいます。
7~8年ないしは10年を・・・です。
20日後になってしまいました。

家茂は諸藩に命じます。
「海岸防衛を慎重にし、外国が襲来した場合には掃攘せよ」と。

1863年5月10日、長州藩が実際にアメリカ商船を爆破、戦争へと発展します。
翌年、4か国が下関を砲撃し、長州藩は負けてしまいます。


しかし・・・必死に攘夷を迫る和宮・・・そこには、民衆の為という純粋な思いがありました。
天下泰平の道に進めるように・・・

しかし、その役割は突然終わりを告げます。
1865年9月、4か国の連合艦隊が直接朝廷に通商条約の勅許を求めてやってきました。
のど元の大坂湾へやってきます。

勅許せざるを得なくなった孝明天皇・・・それも、なんの断りもなく・・・言葉にできない驚愕でした。
この勅許によって降嫁の意味がなくなってしまった和宮。。。
おまけに、家茂は21歳で急死。。。
孝明天皇までも崩御。。。

和宮は帰京を求める手紙を出しています。
「異人が丸の内まで徘徊するようになりました。
 使命が果たせなかったので帰京したい。」と。


夫と兄を亡くした和宮は・・・新しい役割を担うこととなります。

1867年10月14日、新しい将軍・慶喜のもとで・・・大政奉還。
政権を朝廷へ返照します。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
薩摩、長州の反幕府軍が官軍となって・・・賊軍となった幕府に襲いかかります。

和宮は、徳川の家名の存続を嘆願します。
自らの命を懸けた嘆願・・・1868年3月15日の江戸城無血開城・・・徳川存続へと繋げていきますが・・・。

徹底抗戦を望む幕府軍の人に・・・
「神君以来の御家名が立つことを心がけ、謹慎を守ることが徳川家代々に対する真の忠義です。」
と、強い思いを持っていました。

旧幕府軍がたてば、江戸っ子たちは幕府側につく・・・
内乱状態になることを避けようとして、火の手をあげさせない!!
そういう強い思いがあったようです。

その後和宮は、徳川家とも天皇家とも親交を深めながら過ごします。
明治8年歌会始で・・・

「玉敷の みやこもひなも へたてなき
       年を迎ふる 御代のゆたけさ」

それから2年後、明治10年(1877年)9月2日、脚気が悪化して亡くなります。享年32歳でした。


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