江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? (歴史文化ライブラリー) 新品価格 |
1868年3月・・・江戸の町はえもいわれぬ緊張感の中にありました。
二人の男の話し合い如何によっては、江戸八百八丁が火の海に包まれる可能性があったからです。
その二人とは・・・清背OFF軍・東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧江戸幕府陸軍総裁・勝海舟です。
15代将軍だった徳川慶喜の首をとるべく京都から江戸へと乗り込んできた西郷、江戸での戦いだけは阻止したかった勝!!
勝はこの絶体絶命の危機を数々の知略で脱していきます。
いかにして江戸漂無血開城は行われたのでしょうか?
1867年10月、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、260年に及ぶ江戸幕府が幕を閉じます。
すると、藩幕府派の長州藩と薩摩藩がクーデターを起こし、12月9日明治天皇隣席のもと、王政復古の大号令を発布。
新政府樹立を宣言します。
1868年1月、慶喜を擁する旧幕府軍が反撃すべく新政府軍と京都で激突!!鳥羽伏見の戦いの戦いです。
結果は、新政府軍の圧勝に終わり、慶喜は朝敵となって大坂から江戸へと逃げ帰ります。
2月15日、新政府は慶喜を追討すべく、軍を派遣!!
京都を出発した軍勢は、北陸道、東海道、中山道を通って、進軍します。
その実質的な指揮を任されたのが、薩摩藩東征大総督府下参謀・西郷隆盛でした。
徳川を新政権から排除するのが目的でした。
というのも、700万石を有する旧幕府は、国内最大勢力だったのです。
西郷はこの時、慶喜を切腹させるつもりだったのです。
新政府軍が江戸へ攻め込んでくる・・・!!
慶喜に残されていた選択肢は二つ!!
①再び戦いを挑む
②恭順の意を表す
でした。
陸軍奉行並の小栗忠順らは主戦論・・・徹底抗戦を主張しました。
しかし、慶喜は恭順することを選びます。
そして、歓待する小栗を罷免!!人事を刷新する中、勝海舟を陸軍総裁に抜擢します。
さらに、その勝に新政府軍との交渉をさせることになります。
勝海舟は、慶喜との関係はいまひとつ悪かったといいます。
鳥羽伏見の後、江戸城に帰ってきた慶喜と幕臣たちに対し・・・
「こんな事態を招いて、あなた方はどうするおつもりか!!」と。
世が世なら、勝はその場で切られてもおかしくなかったのです。
そんな勝がどうして交渉役に・・・??
1823年勝海舟は、江戸本所で、禄高僅か41石の旗本の家に生まれます。
若き日に打ち込んだのは蘭学でしたが、家が貧しくオランダ語の辞書を買うことができません。
借りてきて、まず、それを写し二部作成、その一部を売り辞書の借り賃に宛てたといいます。
蛍雪の功を積み、会得した語学力でオランダの兵学所を読み漁り、28歳の時に西洋式兵学の私塾を開校。
諸藩の藩士たちが通ってくるようになると、勝の名が知れるようになっていきます。
そんな勝の大きな転機となったのが、1853年ペリー来航です。
アメリカから開国を迫られた幕府は、大名だけでなく旗本にも広く意見を求めました。
勝も意見書を提出。
その提案は・・・
江戸湾に台場の建設、軍艦を購入したうえで軍隊を西洋式に変えるべきである。
この具体的な意見が幕府の目に留まり、長崎に開設された海軍伝習所の候補生に・・・。
そして、3年以上にわたり、オランダ人仕官から指導を受けます。
1858年日米修好通商条約が締結されると、遣米使節団として咸臨丸で渡米。
アメリカ西海岸に滞在した勝は、見聞を広め西洋の脅威を実感。
日本の海防の強化の必要性を確信するのです。
勝は、”幕藩体制に代わる政治形態”を模索し始めました。
帰国後、勝は軍艦奉行並を命じられます。
大阪湾の防衛のために、神戸海軍操練所を作ることを提案します。
その準備として開港した私塾には、最新式の海軍技術を学ぼうと、全国各地から多くの若者がやってきました。
その中には、坂本龍馬の姿もありました。
弟子入りを志願する龍馬・・・。
1864年・・・薩摩藩士・西郷隆盛も勝のもとを訪れていました。
西郷は、勝に質問します。
「もし、大阪湾に外国船が攻めてきたらどうするのか??」by西郷
「私は最早、幕府の力を見限っている。
これからは、いくつかの諸大名が連合して、強力な軍事力を保持したうえで、諸外国との談判に当たらなければ、対等な交渉は行えない!!」by勝
幕府の人間とは思えない発言に驚く西郷。
そして、同じ薩摩藩士の大久保利通への手紙にこう書きます。
”勝海舟という人は、どれだけ知略のある人かわからない
ひどく惚れ申した”
勝は、様々な藩の藩士と交流!!
中には、長州藩の木戸孝允など、明治維新の中心人物となるものも沢山いました。
その人脈の広さをかわれ、江戸幕府滅亡後の旧幕府側の代表者として新政府との交渉を任されたのです。
1868年2月12日、勝海舟に新政府との交渉を任せた徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居。
自らが謹慎することで恭順の意を示そうとしました。
実は慶喜は、松平春嶽、山内容堂など新政府に顔が利く人物に仲介を頼みましたが、どこからもいい返事をもらうことができずにいました。
そこで、何とかことを収めようと謹慎した慶喜でしたが・・・
新政府側の気持ちは収まりのつかないところまで来ていました。
慶喜の頼みの綱は、勝海舟のみでした。
交渉役を任された勝は、大役を引き受けるにあたって慶喜に言います。
「わが軍の武器をもってすれば、新政府軍に勝てる可能性もまだございます。
それでも上様は、恭順の道を・・・??」by勝
新政府軍と戦うにあたって、勝つ可能性もあったのにどうして恭順の道を選んだのか??
それは、新政府軍との戦いが長期化すれば、欧米列強に侵略される可能性があったからです。
日本を守るためにとも考えられます。
そして、勝も同じ気持ちでした。
「最早、内乱などしている暇はない!!」by勝
慶喜の覚悟を聞いた勝は、動き出しました。
まず、御内である旧幕府側の人間に、新政府への恭順を徹底させることでした。
まだ・・・一部で主戦論が燻っていたからです。
そこで勝は、幕府が築いて来ていたフランスとの良好な関係を解消。
フランスは、幕府が倒れる前から軍事顧問団を派遣、幕府軍の西洋化に協力していましたが、その一方で親密になっていた陸軍奉行並の小栗忠正らに新政府軍と戦うことを焚きつけていました。
勝は、自らフランス公使のもとへ・・・軍事顧問の解雇を申し渡します。
しかし、この行動が、旧幕府軍で反感を買うこととなり、勝は孤立・・・命を狙われる羽目に・・・。
この時勝は、新政府軍に対し、無条件降伏するつもりではありませんでした。
そこには、一歩も譲れない条件がありました。
この時、勝が望んでいたのは・・・
①徳川慶喜の命の保証
②徳川家家臣団の生活の保障
でした。
もし守られない場合は、新政府軍と戦う覚悟があったともいわれています。
和平交渉がまとまったとしても、新政府への恨みが後々まで残ってしまうからです。
勝はそう考えていました。
この後勝は、徳川のため、日本のために邁進していくことになります。
しかし、この時、その交渉の足掛かりさえありませんでした。
そこで目をつけたのが、西郷隆盛でした。
西郷はこの時、新政府軍を率いて東へと向かっていました。
そして、2月28日、駿府に到着!!
勝は、ここに手紙を届けるのです。
その内容は驚くべきものでした。
”徳川の軍艦を東海道筋の要所に配置すれば、新政府軍を撃退することができる
それをしないのは、朝廷に恭順の姿勢を貫いているからだ。
然るに、慶喜追討の姿勢を崩さないのはいかがなものか。
箱根の西に軍をとどめておいていただきたい。”
と、強気なものでした。
これを読んだ西郷は、当然激怒!!
軍艦からの方が優勢・・・この作戦は、新政府軍の最大の弱点でした。
新政府軍の弱点を指摘し、西郷を怒らせた勝・・・。
勝は、一刻も早く江戸には行ってほしかったのかもしれません。
新政府軍の力を借りて、江戸の町を統治しようとしていた可能性もあります。
勝自身が江戸で西郷に時期談判しなければ、新政府軍は止められない!!
そして、新政府軍を江戸の町へ入れることで、政権が交代したことを民衆に実感させたのです。
大政奉還、王政復古の大号令は京都で行われ、江戸の人々は政権交代を実感していなかったのです。
1868年3月6日駿府・・・
新政府軍司令部は、3月15日に江戸総攻撃を決定!!
新政府軍の実質的な指揮官にあった西郷は、京都にいた薩摩藩士に手紙を送っています。
”徳川方には、軍略に優れた勝海舟らがいる
この知勇に優れた男を相手に、雌雄を決するのは男子としては快事”
西郷は、勝海舟との戦いを待ち望んでいました。
同じころ、勝海舟の元を一つ里の男が訪れます。
旗本・山岡鉄舟です。
山岡はこの時、剣の腕を買われ、寛永寺で謹慎生活を送っていた慶喜の護衛をしていました。
慶喜が恭順の意を示しても、新政府軍に伝わらないことに歯がゆさを感じ、自分が新政府軍と交渉するとやってきたのです。
そんな山岡に勝は尋ねます。
「どうやって新政府軍の陣営に乗り込むつもりか?」by勝
「新政府軍の陣営に入ったら、まず自分の刀を差し出し、敵が縄で縛るというなら、言われるがままになりましょう。
敵とて、私を斬り殺すなどという不条理なことはしてこないでしょうから・・・」by山岡
勝は、この覚悟に感服し、西郷のもとへ送ります。
3月6日、3日後には駿府に到着。
3月9日・10日、西郷との会談を取り付けます。
そこで、西郷から慶喜助命の条件を引き出すことに成功!!
しかし、提示された内容は・・・
①慶喜の身柄を備前藩に預ける
②江戸城を明け渡す
③旧幕府軍すべての軍艦・武器を没収する
という・・・事実上、無条件降伏のようでした。
山岡はひとまず預かり、勝のもとへ急ぎます。
山岡鉄舟が江戸に戻る前に、続々と新政府軍が江戸に入ってきました。
3月11日、板垣退助率いる部隊が八王子に布陣!!
12日には別部隊が板橋到着!!そして、この日、ようやく山岡鉄舟が江戸に戻ってきました。
この条件を勝が聞いたのは、江戸城総攻撃の僅か3日前でした。
その翌日、13日には東海道を進軍してきた西郷隆盛率いる部隊が池上に布陣。
江戸の町は包囲されました。
様々な手を打ってきた勝・・・実際のところ、この交渉がまとまるかどうかの保証はありません。
最悪の事態も想定していました。
対抗策は・・・江戸焦土作戦でした。
交渉が決裂し、新政府軍との戦いとなった場合、新政府軍もろとも江戸の町を焼き払おうと考え、密かに進めていました。
自ら町火消やとび職の親分のもとを訪ね、もし新政府軍が攻撃しだしたら合図をするので、そこかしこに火を放ってもらいたいと説きました。
どうして徳川軍で真っ向から戦おうとしなかったのでしょうか?
徳川軍の中には、新政府への抵抗を唱え、江戸から離れるものが多くいました。
勝は、庶民の力を借りて、新政府軍を迎え撃とうとしたのです。
近隣の漁師たちに江戸の民衆を船で救出してくれるようにも要請!!
しかし、勝とて江戸を焦土にしたくはありません。
新政府軍との交渉に・・・!!
3月13日、京都から進軍してきた新政府軍が江戸を包囲!!
異様なまでの緊張感に包まれます。
そんな非常事態を収拾すべく、勝海舟は西郷隆盛のもとを訪れます。
4年ぶりの再会でした。
会談は13日と14日に行われたといいます。が、場所は・・・??
池上本門寺説、薩摩藩蔵屋敷説、愛宕山の山頂説・・・
会談は勝が待ち望んだものでしたが、初日は慶喜助命の条件に付いての質問だけでした。
会談前日に江戸に戻ってきた山岡の持ち帰った条件を西郷に確かめたかったのです。
会談を終えた勝は、江戸城に戻り、嘆願書をまとめ上げます。
そして、14日会談に臨みます。
勝は、嘆願書を提出・・・!!
それは、新政府軍の条件をほとんど無視したものでした。
慶喜を備前藩に預ける→兄の水戸藩での謹慎
軍艦・武器をすべて新政府軍に差し出す→処分が下った後、徳川家に必要な分以外を差し出す
条件を認めたのは、江戸城を明け渡すことぐらいでした。
当然西郷は激怒し、突き返すと思いきや・・・
即決できないと預かり・・・結論が出るまでは江戸城総攻撃は延期するとし、朝廷のある京都へと戻っていきました。
どうして西郷は嘆願書を拒否しなかったのでしょうか?
それは、13日に、西郷にとって不測の事態が起きていました。
この日、横浜で・・・新政府軍の木梨精一郎は、ハリー・パークスに会いに行っていました。
薩英戦争後、薩摩藩は最新の武器を擁してもらうなどイギリスと親密な関係にありました。
イギリスに新政府の後ろ盾になってももらっていました。
そこで、江戸城総攻撃をかけるとパークスに報告すると・・・
「恭順の意を表している慶喜公を攻撃する必要などないのでは・・・」と、江戸総攻撃に反対したのです。
その裏には、勝の根回しがありました。
4日前の3月9日江戸で・・・
勝はパークスの通訳であるアーネスト・サトウと会っていました。
勝はサトウに訴えます。
「慶喜の命と、家臣たちの生活の保障があれば、どんな条件にも応じる用意があります。
さもなければ、戦いも辞さない!!
そのような事態を、貴国の力で未然に防いでもらえないだろうか??」と。
新政府が江戸を攻めると、イギリス人にも犠牲・損害が出る恐れがありました。
戦争を避けたいイギリスを利用して、新政府軍の西郷に圧力をかけていたのです。
イギリスの意向を無視できない西郷は、旧幕府軍の嘆願書を受け取らざるを得なかったのです。
イギリスという薩摩藩と新政府が逆らえない相手を利用した勝海舟渾身の一手でした。
篤姫は、旧知の西郷に、長さ3メートルの手紙を認めます。
徳川家のことを願って・・・!!
”私の一命にかけて何卒お頼み申し上げます”
徳川家を必死に守ろうとした篤姫の手紙に、西郷は涙を流したといいます。
一説には、勝が篤姫にこの手紙を書かせたともいわれていますが、真相はやぶの中・・・。
朝廷の判断如何では危険になる可能性が残っていたので・・・
勝は、イギリス公使パークスのもとへ出向き・・・
「イギリスに帰国するであろう貴国の軍艦を、もう一月だけ停泊しておいてもらいたい・・・!!」と。
勝はその理由を、山岡鉄舟に明かしています。
”慶喜公の命が危なくなったら、イギリスの軍艦にお乗せする計画がある。”と・・・!!
イギリスに亡命させることまで考えていたのでは??
あらゆる可能性を考え、リスクを抑え、次の新しい時代に、命、文明、すべてを譲ろうとしていました。
しかし、勝の心配は杞憂に終わりました。
おおむね、朝廷が承諾してくれたのです。
そこには西郷隆盛の尽力があったといいます。
西郷は、勝の想いに応えてくれようとしたのかもしれません。
共に新しい時代を作ろう!!と。
そして・・・4月11日、江戸城が新政府に明け渡されました。
血を流すことなく・・・!!
その後、西郷隆盛、勝海舟も、高い能力を買われ新政府で要職を任されました。
しかし、西郷は征韓論で新政府と対立し下野!!
そして西南戦争で反乱軍を指揮したとして、朝敵の汚名を着せられ亡くなります。
そんな西郷の汚名を回復しようと誰よりも動いたのは、勝でした。
上野の銅像を建てる運動にも積極的に参加したといいます。
勝は解っていたのです。
西郷無くして江戸無血開城は果たせなかったと・・・!!
そして、西郷無くして、明治という新しい時代は迎えられなかったと・・・!!
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