決戦!川中島

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長野県北部に位置する盆地・善光寺平・・・
今から450年ほど前、戦国最強と謳われた二人が刃を交えました。
甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信です。

12年間、5回にわたり激突した川中島の戦いです。
どうしてこの場所で5回も戦わなければならなかったのでしょうか?

武田信玄は、1521年武田守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
21歳の時に、悪政をしいていた父を追放し権力を握ると・・・隣国信濃に割拠していた国衆を攻略し、信濃のほぼ全域を手中に納めました。

信玄から遅れること9年・・・春日山城で・・・
1530年越後守護代・長尾為景の末子として生まれます。
19歳で家督を相続すると、混乱していた越後を瞬く間に混乱していた越後を瞬く間に統一。
そんな中、信玄と謙信の運命を変える川中島の戦いが・・・!!

きっかけは・・・
1553年4月春日山城に、北信濃の国衆・村上義清がやってきて・・・
「信玄に我が居城を落とされたので、援軍をお願いしたい。」と言ってきたのです。
当時の信玄・謙信の唯一の緩衝地帯・北信濃は、勢力の小さい国衆・・・村上家・島津家・高梨家・・・が治めていました。
代々上杉との結びつきが強く、反武田としていました。
信玄の侵攻に、上杉を頼ってきたのでした。
義の男・謙信はこれに応じます。
しかし、この時、謙信にも信玄の侵攻を食い止める必要がありました。
越後、春日山を守るために!!
春日山城から川中島までは、直線距離で僅か50km。
北信濃を信玄に取られてしまうと、春日山城も危機に・・・!!
もう一つ互いが争う原因は、善光寺にありました。
善光寺は、川中島の戦いの場となった盆地の中にあって、この寺を支配することが戦のもう一つの目的でした。
善光寺は無宗派なので、一生に一度は善光寺参りと言われるように、全国から人々がやってくる経済の一大拠点だったのです。
善光寺を支配するということは、庶民に対して大きなアピールとなり、また、経済的にも大いに潤うという事なのです。
1553年8月、上杉謙信出陣!!
迎撃するために信玄も出陣!!そこが犀川と千曲川の間にある川中島だったのです。
12年間、5度にわたる戦いが幕を開けました。
この時信玄33歳、信玄24歳でした。

第1次川中島の戦い
両軍は、川中島で小競り合いを演じますが、上杉軍が優勢となると信玄は、塩田城に撤退し、籠城してしまいます。
川中島一帯を支配下におさめた謙信は、ひと月ほどで兵を引き上げていきました。
最初の戦いは、謙信の勝ちのような形となりました。

第1次の戦いで、川中島一帯の支配権を取られてしまった信玄は、侵攻を諦めたわけではありませんでした。
1554年駿河・今川義元、相模・北条氏康と三国同盟を結び、南の安全を万全に確保すると、北に!!
危機を感じた北信濃の国衆・高梨政頼、村上義清が謙信に助けを求めます。

1555年7月、謙信と信玄は、犀川を挟んで対峙することに・・・!!
第2次川中島の戦いです。
しかし、この2度目の戦いも小規模でした。
半年間にらみ合いを続け・・・この朝廷に乗り出したのが、今川義元でした。
義元は、境界を犀川と定め、武田がすでに攻略していた土地を返還するという信玄にとっては不利な条件で和睦させます。
武田軍の補給がこれ以上続かず、戦をすることが出来なくなっていたのです。

1557年、第3次川中島の戦い
信玄がこの講和を破ります。
信玄の動きを知った謙信は、北信濃に出てきます。
川中島で戦いますが・・・この時も、信玄は積極的ではありません。
謙信にけしかけられるも応じず。。。しびれを切らした謙信は、4か月後越後に帰っていきました。

どうして3度対峙するも小規模だったのでしょうか??
それは、戦の発端です。
謙信は、あくまでも助けを求めてきた国衆たちのために出陣!!
「義」の武将と言われるように、領土的野心はありませんでした。
謙信は、越後防衛のため・・・それ以上は戦う必要がなかったのです。

信玄が守りに徹したのは・・・
謙信の兵力があまりにも強い事を知っていたので、出来るだけ損害を出さずに個別に戦っていました。
つまり、謙信の方が、決着を付けたがっていたのです。
信玄はその意図を見抜いていました。
なので、専守防衛、籠城・・・な作戦をとっていました。
つまり、第3時までの戦いが小規模だったのは、武田信玄が積極的に攻めなかったからなのです。

さらに、戦のもう一つの理由だった、善光寺・・・
第3時の戦いの間に、それぞれが、「越後善光寺如来堂」「甲斐善光寺」と移したとし、ある程度の経済的安定を達していました。
激しい戦を繰り広げる必要性がなかったのです。
周辺の村々で受けた人々の被害は甚大で、農地は荒れ果て、農民の1/3が巻き込まれ亡くなったり離散したと言います。

第4次の戦いの直前、川中島西部の6つの村は、戦で家や農地が荒らされては困ると、武田上杉両軍に、村を戦場にしないように願い出ます。
すると村にあった杉に幕が張られ、これが停戦ラインとなり村は守られました。
そして、この幕の向こうで行われたのが、激戦!!第4次川中島の戦いです。
ついに両雄が激突!!


長野県長野市八幡原史跡公園は、最も激戦となった4度目の戦いの舞台となった場所です。
1560年、信玄が上杉軍に備えるために、軍師・山本勘助に命じて川中島の近くに海津城を築城したことでした。
1561年8月14日、北信濃から1万8千の兵が・・・北信濃から武田を追い出すべく春日山城を出陣!!
善光寺に5千の後詰を残し、川中島の妻女山に1万3千の兵が!!
狼煙によってこれを知った信玄は、8月18日に1万7千の兵を出し、甲府を出発!!
29日には3千の兵が籠る海津城へ!!
これまでの戦いに比べ、両軍ともに圧倒的な数です!!
雌雄を決する時が・・・!!

どうして第4次川中島の戦いは大規模なものとなったのでしょうか??
お互いに、相手を戦い潰そうと覚悟を決めての戦いでした。
それは、第3次の戦いの後、お互いの立場が大きく変わったことが関係しています。
武田信玄は、1558年に第13代将軍・足利義輝に信濃守に補任されています。
名実ともに、信濃の支配者となり、信濃の平定は、信玄にとっての大義名分となったのです。
謙信は、1561年に関東管領・上杉家を継いでいます。
この関東管領は、鎌倉公方の補佐役ということで、関東支配を任されたという正当性があり、関東の北条を攻めるためには、北条の同盟国であった武田が邪魔だったのです。

両者に大義名分が出来たので、決着をつける必要があったのです。

1561年第4次川中島の戦い
先手を打つ信玄!!
1561年9月9日深夜・・・
海津城から別動隊1万2千が出発します。
謙信の布陣する妻女山の裏手に回るためです。
信玄自らは、本体8千を率いて八幡原へ!!
夜明けとともに別動隊が、裏から奇襲をかけ、攻めて謙信たちを妻女山から追い落とし、待ち伏せしていた本体と挟み撃ちにしようと考えていました。
啄木鳥戦法で、軍師・山本勘助が授けたと言われています。

しかし、これは謙信に見破られました。
海津城からの夕飯の支度の煙がいつもより多いことに気付いた謙信は、武田軍がその夜に動くことを察知!!
別動隊が来る前に、ひそかに妻女山を降りると、武田本体が向かっていた八幡原に先に布陣!!
作戦が見破られてしまった武田軍は、序盤で劣勢になってしまいました。

もう一つの理由が・・・気象。
9月10日早朝、武田・上杉両軍は、八幡原の至近距離に布陣していました。
戦いがあったこの日、今の暦に直すと10月中旬。
この時期は、盆地である川中島は、特に寒暖差が激しく、さらにこの場所は川が多く流れていて・・・
川中島では秋から冬にかけて、先が10mも見えない濃い霧(蒸気霧)が発生するのです。

決戦前日の放射冷却、9月10日は冷え込みました。
濃い放射霧が起こり、武田軍本体と上杉軍本体は、お互いの距離感がつかめないまま布陣することとなりました。
そして夜が明け霧が晴れると・・・目の前に敵が・・・!!
啄木鳥戦法を見破っていた上杉軍は、敵が近くにいることを想定していましたが、武田軍は、よもや目の前にいるとは思わず、劣勢となります。
上杉軍は、「車がかり」の陣形で襲い掛かります。
その激戦の中・・・信玄の弟・信繁が討ち死にします。
信繁は武田家のNo,2で、軍略・見識共に優れていた、戦国屈指の武将でした。
真田信繁の名は、父・昌幸が、武田信繁のような名将になってほしいと付けたと言われています。
この戦で啄木鳥戦法を提案した山本勘助も、責任を感じ、敵陣に突っ込んで壮絶な最期を遂げます。

戦の中盤・・・有名な信玄と謙信の一騎打ちが・・・!!
謙信は、武田軍の陣中深く白馬を走らせ、信玄の本陣に突撃!!
信玄に真っ向から斬りつけました。
信玄は手にした軍配でこれを受け止めます。
三度振り下ろされた刀によって、信玄の軍配はズタズタになったと言われていますが・・・
信玄の部下の助太刀で、謙信はその場を去り、決着はつかなかった。。。
これは本当にあったのでしょうか・・・??

しかし・・・これが語られたのは江戸時代の事。
「甲陽軍鑑」で書かれています。
伝承はあったようです。が、断定はできていません。
謙信が刀を抜いて戦ったということは間違いありません。
が、相手が信玄だったということはわからないのです。

啄木鳥戦法を見破られているとも知らず、上杉軍の背後に回ろうとしていた別動隊は・・・??
1万2千が妻女山につくも、もぬけの殻・・・
作戦失敗に気付くも、時すでに遅し!!
本体の危機に山を駆け下ります。
そして、別動隊によって挟み撃ちにされてしまった上杉軍。。。
形勢逆転!!
謙信は、即座に撤退し、命からがら引き揚げて行ったのでした。
激闘の4時間!!

武田軍  死者4,600余人   負傷者13,000余人
上杉軍  死者3,400余人   負傷者  6,000余人

こうして日本の合戦史上最大の激戦は、終わりを告げたのでした。

3年後・・・最後の戦い・・・第5次川中島の戦いとなりますが・・・激戦とはなりませんでした。
にらみ合いが60日間続き、撤退します。

川中島の戦いは、12年間で5回にわたって繰り広げられた理由は・・・
謙信が北信濃の国衆を助けるためだったことと、信州善光寺がもたらす利権をめぐってのことでした。
もう一つ目的があったと言われています。
それは・・・戦が行われた季節の秋・・・!!
どうして5回の川中島の戦いは秋に行われたのでしょうか?

信濃国は、武田信玄と上杉謙信の取り合いの場となっていました。
信玄は信濃の土地を自らの領地とし勢力を拡大していきましたが・・・
謙信は領土的野心はありませんでした。もちろん信濃も奪っていません。
領土の取り合いでなければ、二人の目的は・・・??

ルイス・フロイスは、日本の戦についてこう書いています。
「われわれヨーロッパでは、土地や都市や村およびその富を奪い合うために戦う。
 日本では、戦争はほとんどいつも、小麦や大麦、米を奪うために行われる。」と。

日本の戦争は、領土を奪うためではなく食料を奪うためでした。
謙信も例外ではなく、今でこそ米所の新潟は、当時の米は寒い所では育ちにくく、よそから奪う必要がありました。
謙信は生涯を通じて10回以上関東に出兵していますが、食料確保のためだったと言われています。
1566年謙信が小田城を攻め落とした時は・・・謙信の指図で捕虜たちの人身売買が行われていました。
しかし、これは当時の戦国大名が皆やっていたことです。
東日本は激しいもので、武田信玄もやっていたことです。

川中島の戦いが、秋にやっていた・・・収穫期にやっていたのは、収穫期に合わせて農作物を略奪するためだったのです。

5回の戦いの勝者は・・・??
川中島一帯は武田の領土となり、謙信は高梨、島津、村上を本領に返すことはできませんでした。
武田の優位となったのです。
が・・・謙信は、この時、自分を頼ってきた国衆を家臣として組み込むことが出来るようになり・・・謙信も大いに利得があったようです。
川中島の戦いで、お互いをライバルと認め合うようになった信玄と謙信。
しかし、お互いの戦いに時間を費やしている間に、周りはすっかり変わっていました。
信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ・・・
これを契機に、信長が一気に躍進し、天下取りに進んでいきます。

川中島があったために、謙信と信玄は西に向かうことが出来ません。
早期に決着がついていたら、お互いがもっと西に進出していた可能性があります。
12年にわたる川中島の戦いが、信長の勢力拡大につながってしまったのです。

戦国の龍虎と称えられた信玄と謙信。
川中島の戦いが、こんなに長く続かなければ・・・戦国の勢力図が変わっていたかもしれません。




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