日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:土方歳三

江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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新選組・池田屋事件顛末記

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幕末の英雄・勝海舟は、この男をこう評しました。

”一奇士なり”と。

奇士とは、並外れた男子を意味する言葉です。
その男の名は、土方歳三!!
新選組副長です。
死後、150年以上たった今なお、土方の生きざまは人々を魅了してやまない!!
幕末動乱の時代、盟友・近藤勇と共に、新選組を結成!!
天下にその名をとどろかせました。
その行状、残忍・酷烈!!
鉄の掟で強力な組織を作り上げた土方を、人々はこう畏れました。
”鬼の副長”と!!
しかし、近藤の死後、土方の印象は真逆に転じます。

鬼か、仏か??

そして・・・1年半に渡る戊辰戦争で、新政府軍に負けた旧幕府軍・・・そんな中、旧幕府軍の一大転機となった戦いがありました。
宇都宮城の戦いです。
この時土方は新政府軍の宇都宮城をわずか6時間で攻め落としました。
土方の挑んだ難攻不落の巨大城郭!!
この後、北を目指した土方の心中とは・・・!!

暗殺、人斬り・・・テロの嵐が吹き荒れた幕末の京都・・・
こうした尊皇攘夷の過激派に対抗して刀で制したのが新選組でした。
局長・近藤勇、そして近藤を支えた副長・土方歳三・・・
注目すべきは、土方が作り上げた新選組の組織編制です。
副長は、局長を補佐するとともに、実務を請け負う実質的トップとなります。
副長の補佐役として隊士たちを統括するのが副長助勤です。
夭折の天才剣士・沖田総司、新選組最強といわれる永倉新八、そして孤高の剣士・斎藤一など、一騎当千の剣士たちが名を連ね、副長助勤として土方を支えていました。
近藤勇は直接、副長助勤に命令しない・・・副長である自分がキーになる組織でした。
即断即決を可能にする新選組の組織編制こそ、土方の考えを反映していました。

将軍家御典医の松本良純が、新選組屯所をたずね、あまりの不衛生さに改善策をアドバイスしました。
その数時間後・・・なんと土方が松本の指示通りに病室はおろか、浴場も見事に整備していたのです。
余りの手際の良さに松も余が驚くと・・・

「兵は拙速を貴ぶとはこのことなるべし」

土方はそう言って笑ったといいます。

また、新選組の戦闘方法にも土方独自の発想がありました。
1867年11月18日に起きた油小路事件・・・
かつての同志・伊東甲子太郎を暗殺した土方たちは、遺体を油小路に遺棄・・・
駆けつけてくる伊東の仲間を一網打尽にする囮として利用しました。
この時駆けつけたのは7人・・・
それに対し、新選組は3、40人で迎え討ったといいます。

こうした戦い方を、武士として卑怯なのではないか??
という見方もあります。
しかし、新選組は当時、京都の治安を守るべき存在でした。
徳川幕府を支えなければいけない存在だったのです。
それは、当然の任務の遂行でした。
どんな手段を使おうが、必ず勝つ!!
それこそが、土方の戦闘哲学でした。

ところが・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は消滅・・・土方たち新選組の屋台骨が崩れました。
その僅か1か月後・・・旧幕府軍と新政府軍による戦いが・・・
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いが幕を開けました。
新選組を率いて戦いに臨んだ土方は、

「砲戦では勝負がつかん、斬り込め!!」

と、隊士たちを指揮したといいます。
しかし・・・近代兵器に勝る新政府軍の前に、剣に生きる新選組はなすすべなく敗れ去ったのです。
戦えば必ず勝つ!!
これまでの土方の戦闘方法は、鳥羽伏見の大敗によって大きく変わりました。
事実、土方はこう語ったと言われています。

「もはや武器は大砲でなくてはならない
 僕は剣を取り、槍で戦った
 全く無益なことであった」と。

江戸に帰還した土方は、この頃彼は洋装に転じたと言われています。
剣から銃へ・・・鳥羽伏見の敗戦を契機に、土方は新たな戦闘へと大きく踏み出していくのです。

鳥羽伏見の敗戦から2か月後・・・3月6日、甲州勝沼の戦い・・・
江戸に帰った旧幕府軍はここでも新政府軍と戦い新選組は手痛い敗北を喫しました。
連戦連敗の新選組・・・以降、隊士たちは、それぞれの道を歩むこととなります。

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4月25日・・・新選組局長・近藤勇、新政府軍に捕らえられ板橋で斬首・・・享年35。
この頃、土方にも大きな変化がありました。
洋装に身を包んだ土方は、独自の行動に出ました。
近藤の死の14日前・・・4月11日、土方は僅か6人の隊士を連れ旧幕府軍に合流します。
その主力は、勝海舟が決断した江戸無血開城に反対する勢力です。
およそ2500の兵を統率する元歩兵奉行・大鳥圭介!!
大鳥率いる旧幕府軍の中には、伝習隊の姿もありました。
当時珍しい、フランス仕込みの洋式軍隊です。
洋式軍隊の難しさは、当時の階級制度にあります。
戊辰戦争期は、各藩兵力動員を大規模にして銃を持たせていました。
指揮官になる者は、洋学を勉強したものでないとなれませんでした。
江戸時代、洋学を勉強した人たちは下級武士でした。
ところが、身分が上の侍たちは、動員されるが指揮能力がない・・・
近代戦の指揮命令系統と武士階級の格式が逆転してしまいます。
なので、近代戦法に結びつきませんでした。
近代戦法は、身分に関係なく、指揮官のもと兵を自在に動かす指揮命令系統の確立にある!!
それは、土方が組織した新選組にも通じています。
新選組は剣士の集団ではありましたが、近代化する側面を持っていたのかもしれません。

旧幕府軍に合流した土方は、この時全軍の参謀に任じられます。
その理由は・・・
”土方歳三は、元新選組副長であり、機智勇略を兼ね備えた人物である”
新選組の名は、全国に轟き、旧幕府軍にとって守護神ともいえる存在でした。
旧幕府軍は二手に別れ、日光を目指します。
日光にある東照宮は、江戸幕府の開祖・徳川家康を祀る聖地・・・
大鳥たちは、日光で新政府軍に対峙し、東国諸藩を糾合しようと考えていました。
そして・・・日光に至るには、宇都宮城を通過しなければならない・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・江戸幕府にとって、東国の外様大名に対する北の守りの一大拠点です。
宇都宮城は、近世城郭では珍しく、石垣ではなく土塁に囲まれた城でした。
宇都宮城は、北向きに作られたというのが特徴で、北を防御するようになっていました。
それが、皮肉なことに、戊辰戦争では南東の方向から攻められることになります。
この城をめぐる攻防戦こそ、鳥羽伏見の戦い以降、旧幕府軍初めての勝利となります。
しかも、土方のその後の運命を大きく帰る戦いでもありました。

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4月18日、土方率いるおよそ1000人の隊は、大鳥軍に先立ち宇都宮城の近くに迫りました。
その時、宇都宮城が新政府軍の支配下にあることを知ります。
宇都宮城を制していたのは香川敬三・・・この香川こそ、近藤勇を捕らえた人物です。
当時描かれた宇都宮城の絵図が残されています。
宇都宮城は、南北900m、東西850mに及ぶ巨大城郭でした。
香川率いる城兵は、僅か400。
しかし、籠城に徹すれば、その鉄壁の守りは固く、攻め手にとって厳しくなるはずでした。

4月19日、土方ら宇都宮城に進軍。
ところが、新政府軍が奇妙な行動に出ます。
宇都宮城の外へ出撃したのです。
どうして籠城策を取らなかったのか・・・??
後の元帥・陸軍大将・山県有朋は、当時をこう振り返っています。

「各藩にはそれぞれの指揮役がいて、こうした指揮役を統一し、命令し、兵を動かすことなど新政府をもってしてもできなかった」

実は、新政府軍は、各藩の寄せ集めの軍隊で、指揮命令系統が混乱していました。

土方たちは、それを見逃しませんでした。
新選組隊士の日記にこうあります。

「はじめ敵は防御していたが、鉄砲を散々に打ちかけると次第に崩れ、やがて城の中へ逃げ込んだ」

この時、土方たちは、軍を分けました。
精鋭部隊の伝習隊は北の大手門へ・・・土方率いる新選組や桑名藩兵は東南方向へ向かいました。
土方の狙いとは何か・・・??
宇都宮城は、北に向かい防御施設を固めた城です。
そこで近代兵器による攻撃を仕掛け、北側に敵兵力を集中させ、その隙をつき土方隊が城内に白兵戦を仕掛ける・・・
川を防衛ラインとした東南側は、土塁も低く、ウィークポイントでした。
この時土方は、激しい戦場から逃げようとした味方の兵を容赦なく切り捨てたといいます。
戦に臨む土方は、鬼とかしました。
さらに、土方たちの猛攻は続きます。
旧幕府軍が誇る最新式の大砲が威力を発揮!!
砲弾は城内の建物を粉砕!!
敵にとどめを刺したのです。
結果、敵は狼狽して城を捨て、逃げ去った・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・陥落!!
わずか6時間ほどの戦いだったといいます。
土方にとって、洋装に徹して実力を初めて示すことが出来たのが、宇都宮城の戦いでした。

この戦い以降、土方の名声はさらに高まります。

”土方は、奥羽の各所で勇ましく戦い、衆目を驚かせた
 とりわけ宇都宮城の攻撃は、新政府軍を心底恐れさせた”

戦術家としてその名を天下にとどろかせた土方歳三・・・
更なる戦いを求め、北へ向かったのです。

宇都宮城の戦いの後、土方歳三は北へ向かいました。
戦いの火の手は、東北地方に拡大・・・その震源地となったのが、会津藩と庄内藩です。
東北諸藩は、朝敵となった会津・庄内の斜面を求め、奥羽越列藩同盟を結成・・・
その盟主となったのが、東北の大藩・米沢と仙台です。
この同盟に合流したのが、旧幕府海軍を率いた榎本武揚です。
榎本は、当時、最強と呼ばれた最新鋭の軍艦・開陽など、8隻の艦隊で江戸を脱走。
土方も榎本にあわせるように仙台に向かいました。

1868年9月3日、合流した土方と榎本は、仙台城で開かれた同盟の軍議に参加しました。
軍議の席上、榎本はこう発言したといいます。

「そもそも奥羽の軍勢が弱いのは、誰もが主となり戦をするものがいない故である
 今これを挽回するためには、全軍を指揮する惣督を選ぶべきである
 惣督に相応しいの人は、私が同行した土方歳三をおいては他にいないと思う」

奥羽列列藩同盟の惣督に、土方を推挙したのです。
これを受け土方は言います。

「全軍も惣督として、指揮するためには、軍令を厳しくせねばならぬ
 もしこれを破るようなものがあるときは、大藩の家老と言えどもこの歳三が切り捨てねばならん
 去れば生殺与奪の権利をくださるのなら、全軍の惣督を引き受けますが、その辺りはいかがでしょうか」
 
つまり、土方は、全ての者の命を自分に預けるように要求したのです。
土方のこの言葉に、軍議は紛糾!!
この時、土方は何を思っていたのでしょうか?

奥羽にとどまり戦を続けるために、東北諸藩が一丸とならねばならない
この地で、命がけで戦えば、戦は長引く・・・
されば勝機はある!!
会津は籠城したがために今や劣勢にあれば、庄内は連戦連勝を続けているではないか!!

既に北越戦争で長岡藩は降伏・・・会津藩は、籠城戦を余儀なくされていました。
しかし、最新鋭の武器を配備した庄内藩は、藩外での戦いを続け、連戦連勝の気炎をあげていたのです。

奥羽の足並みがそろわなければ、さすがの庄内も孤立し、いずれは破れる・・・
ならば、旧幕府海軍と共に新天地に向かう??
新たな体制のもと、新政府軍に対抗するという手もあるが・・・

この頃、旧幕府海軍率いる榎本は、先々の計画を立てていたと考えられます。
蝦夷地に渡り新政府軍に対抗しようというものです。
我が方には、最新鋭の軍艦、開陽がある!!
最強の海軍と陸軍が手を結べば、新政府など恐るるに足らず
我らは必ず勝てる!!

奥羽にとどまり戦いを続けるべきか、それとも榎本と共に新天地へと向かうべきか・・・
土方に選択の時が近づいていました。

奥羽越列藩同盟は米沢藩を皮切りに、次々と新政府軍に降伏・・・同盟は瓦解しました。
そして、会津鶴ヶ城も落城・・・!!
土方が、全軍の惣督として指揮を振るうことはありませんでした。

明治と改元した・・・1868年11月5日、土方歳三の姿は、蝦夷地・松前にありました。
土方は、榎本と共に新天地、蝦夷地を目指したのです。
しかし、蝦夷地を治める松前は、新政府にすでに恭順・・・
土方たちの行動を、許すわけはありませんでした。
ここに、松前城をめぐる攻防が始まりました。
土方にとって、宇都宮城以来の城攻めです。

”土方惣督は、陸軍隊・新選組を率いて城の裏へと回り込み、梯子で城壁を登り、城内に突入!!
 敵は気付かず我が軍は、敵に一斉射撃!!
 敵、これ大いに驚き、防御もできず場外へ走り去り、支柱に放火しながら逃走した”

戦略家、土方の面目躍如・・・
土方は1日もかからず城を攻め落とすことに成功しました。
ところが・・・この時、陸軍の援軍として着ていた海軍の開陽が、岩礁に乗り上げ沈没してしまったのです。
土方たち箱館政権の五稜郭は、日本でめずらしい西洋式の城郭・・・
しかし、函館湾から近く、制海権を失えば敵の艦砲射撃の的となります。
以後、土方は五稜郭に寄らず、もっぱら場外での戦闘に従事しました。

この頃、土方の印象は、鬼の副長と呼ばれた京都時代から大きく様変わりしていました。
新選組隊士の日記にこうあります。

”土方は、常に下々に気を遣い、戦の時には先陣をきって進むので、従う兵たちも雄を振るって進軍する
 故に、戦いに敗れることはなかった”

そして、1869年5月11日、海陸を新政府に包囲され太激戦のさ中・・・土方は銃弾を受け戦死。。。
享年35・・・戦場にいた新選組隊士たちに衝撃が走りました。
この時、砲台の守備に就いていた新選組の者たちは、土方の死んだことを聞き、まるで赤子が慈母を失うがごとく、皆悲嘆してやまなかった・・・ああ・・・惜しむべき将なり・・・と。

土方歳三のふるさと東京日野市・・・土方の死から19年後、地元の人々や松本良純の手により、顕彰碑の建立の話が持ち上がりました。

”殉節両雄之碑”と名付けられた石碑は、近藤と土方の偉業を讃えたものです。
はじめ、文字を依頼されたのは、将軍・徳川慶喜でした。
しかし、慶喜はただ涙を流すばかりで返答しませんでした。
結局、その文字は、かつて新選組を庇護した元会津藩主・松平容保の手によるものです。
京での新選組の華々しい戦いが語り継がれる中で、その後の新選組の物語は、史実に埋もれて行ったのです。


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新選組局長・近藤勇。
幕末の京・・・藩幕府勢力に立ち向かった最強の剣客集団・新選組。
局長・近藤勇の掲げるな誠の旗のもと、命をかける若者!!
その実態は、様々な人間の集団でした。
農民、商人、武士でもなれた隊士・・・年齢、出身、思想もバラバラでした。
近藤は、そんな隊士たちを最強組織にするために、改革を行います。
大砲や銃の最新兵器、先頭を最大限高めるために厳しい掟、西洋医学を取り入れた医療改革、
しかし、近藤には、厳しく冷酷な一面もありました。
近藤の掲げる若い理想についていけない若者たちは粛清されていきます。
やがて時代の激流に飲まれ、新選組は内部分裂!!
親しい仲間も去っていきます。
それでも、近藤は自分の信念を貫き通します。
どうして・・・??

義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所 
只まさに一死をもって 君恩に報いん

1864年6月5日、幕末の日本を揺るがす大事件が起こります。
京の町の警備をしていた新選組が死闘を演じた池田屋事件です。
新選組は長州藩の過激な面々が放火計画を立てていると情報を掴み、池田屋に急行!!
この時、突入できるものは僅か4人・・・
新選組局長・近藤勇、沖田総司、藤堂平助、永倉新八でした。
この池田屋には、多くの敵が潜んでいるかもしれない・・・
しかし、たった4人で突入!!どうして??

当時、京では過激な志士たちが天誅として要人を暗殺するなど治安が乱れていました。
今日の治安を預かる会津藩は、近藤ら新選組を配下に置いて、市中見回りをさせていました。
しかし、新選組に対し、人々の目は冷ややかでした。
それは、新選組は臨時雇いの新参者だったからです。
身なりも貧しく粗暴な姿は、壬生浪と呼ばれ、蔑まれていました。
そして会津藩藩士の中にもバカにするものもいました。
しかし、近藤は幕府や日本のために、新選組が重要な役目を果たせるという自負を持っていました。

「我々は市中見回りのために募集されたのではない」

自分達を認めさせるには、大きな功績をあげるほかはない・・・
屈辱に耐えながら、近藤はチャンスを狙っていました。
そんな近藤たちのもとへ思わぬ情報が・・・。
それは、長州藩の浪士たちが御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致しようとしているというものでした。
しかも、2日後には祇園祭で多くの人が集まる・・・
計画が実行されれば、被害は計り知れない・・・!!
近藤は、会津藩に報告し、応援を要請!!
午後7時、近藤たちは応援を待たずに出発!!
浪士が潜んでいる可能性がある場所は・・・鴨川を挟んで東と西にありました。
そこで、新選組を二つに分けて、自分たちは西側、副長・土方歳三には東側を捜索させます。
午後10時・・・近藤は、浪士が集まっているという池田屋に到着・・・
しかし、この時、まだ会津の応援部隊は到着していませんでした。

相手は大人数・・・突入すれば4人全滅するかもしれない・・・
しかし、応援を待っていれば手柄は無くなるかも・・・。
千載一遇のチャンス??身の安全を優先??
近藤の決断は、
「御用改めである!!」
20人以上の浪士が待ち受ける中、近藤はたった4人で斬り込みました。
剣の腕では勝っても、数に劣る近藤たちは次第に追いつめられていきます。
そして・・・病をおしての沖田が血を吐きます。
藤堂も額に一撃を受けて流血!!
二人が戦闘不能に・・・
近藤、もはやこれまでか・・・??
その時、近藤を救ったのは、副長・土方歳三の刃でした。
土方たちの応援で形勢は逆転、新選組は長州などの7人を討ち取り、23人を捕縛しました。
会津藩が池田屋に到着したのは、終わった後だったといいます。
近藤たち新選組の活躍は、朝廷にも認められ感謝状が贈られます。
新選組の名を天下に知らしめた近藤勇、この時29歳でした。

1834年、多摩の農家の三男に生まれた近藤勇。
28歳の若さで京の都で新選組局長となります。
どうして、農民の子が新選組の局長になれたのでしょうか?

わんぱくだった近藤はガキ大将でした。
しかし、年下の子は虐めることはなく・・・
近藤が生まれた武州・多摩郡は江戸の西側で守るため幕府の直轄地・天領が多くありました。
甲州街道が東西に走り、人々や物資、情報が行き交い、裕福な農民が多い土地でもありました。
しかし、裕福なことが災いし、強盗が多発!!
そのため、刀を持たない農民でも剣術を習うものがたくさんいました。
1848年14歳の時に、近藤も天然理心流・試衛館に入門します。
めきめきと頭角を現します。
そんな近藤の人生を変える運命が・・・強盗が家の中に・・・!!
すぐさま刀をとって斬りかかろうとする兄に近藤は、
「強盗は今は気が立っているが帰り際には心に隙ができる
 その時を待ちましょう」
そして強盗が引き上げようとした瞬間・・・強盗は突然の大声に驚き、盗んだものを投げ捨てて一目散に逃げだしました。
すぐに追いかけようとする兄を引き留める近藤。
「窮鼠猫を噛むといいますから、追うのはやめましょう」
勇は終始冷静で、無傷で強盗を追い出したといいます。
近藤の豪胆さは瞬く間に評判となり、道場主は養子に迎え、後に道場を継ぐことになります。
こうして近藤は農民から一道場主へとなります。

1860年25歳・・・近藤はツネと結婚。
良妻賢母な女性で、道場に来る若いものもよく見たといいます。
そして道場には、後の新選組を担う若者が・・・
土方歳三、永倉新八、沖田総司・・・彼らは近藤に惹かれ、住み込みで練習します。
道場に入門する人間は、農民、脱藩浪士様々で、稽古の後には近藤を中心に議論に熱中します。

幕末、ペリーが黒船で来航し、開国を迫ります。
この事件は国論を二分します。
開国か??攘夷か・・・??
近藤の理想は、幕府が朝廷と協力して攘夷を行うことでした。

”草莽の野人 国事に周旋”

農民の近藤は、名もなき人であるけれども、国のために一生懸命頑張りたいという思いを持っていました。

1863年28歳・・・チャンスが訪れます。
幕府が腕のたつ浪士を募集します。
任務は、京へ向かう14代将軍徳川家茂の警護でした。
将軍が天皇から攘夷の命令を直に受けるためでした。
朝廷では、外国を打ち払わない幕府に対して不満がたかまっていました。
さらに、過激な長州の浪士たちが暗殺や放火を行い、暴力で政治を動かそうとしていたのです。
将軍のために京へ行く・・・将軍を守るという責任のある任務・・・
身分、出身、家柄を問わないという。。。
近藤たちにとってまたとない機会でした。

”天皇と将軍を守り 奸賊を斬る
 朝廷と幕府、その両方のために自分は戦うのだ”

近藤は、妻や道場を仲間に任せ浪士組に参加し、土方らと共に京に向かいます。
多摩の人たちの期待を背負って・・・!!
しかし、到着した夜、思わぬ事態が待っていました。浪士隊の取りまとめ役が近藤たちを集めて言いました。

「浪士組は幕府に従う義理はない
 天皇のために働き、逆らうものには容赦はしない」

幕府ではなく、朝廷の為だけに働くと言い出したのです。
寝耳に水の発言でした。
近藤は選択を迫られます。
浪士組に留まるのか??信念を貫くのか・・・??

”天皇の為だけではない、我々は将軍のために働きに来たのだ”

234人の浪士組から、近藤たちは脱退し、壬生浪士組を結成しました。
24人でしたが、あくまで信念を貫いたのです。
壬生浪士組は、ほどなく新選組となる・・・。
近藤が局長となったのは28歳の時でした。

近藤たちは壬生・八木邸で寝食を共にしながら、京都の治安を守る活動を始めました。
翌年、池田屋事件で名をあげる近藤たち。
入隊希望者が増え、200人近くに膨れ上がります。
古臭いイメージが新選組には付きまといますが、新しい面が多く・・・
西洋医学をいち早く取り入れたり、西洋の知識をどんどん吸収していました。
新しいシステム・論理を持つ集団になって・・・そのベンチャー企業の若き社長が近藤でした。

近藤は、新選組を最強集団にしていくために、合理的な組織改革を行います。
隊士の健康管理
人数が増えたため、新選組の宿舎はすし詰め状態・・・夏は暑さと不衛生な状態で・・・けが人や病人の数は全体の1/3もありました。
このままでは市中見回りに支障が出る・・・と、ある人物を訪ねます。松本良順です。
最先端の西洋医学を身につけた医者でした。
江戸にいた良順を招き・・・
衛生面の改善・・・浴室を作り隊士を清潔に
           病室を作る
台所の改革・・・・・残飯で不衛生だったので、残飯はブタや鶏に食べさせて綺麗に
           豚や鶏も食べさせます
これらは、近藤の主導のもと即実行されました。
おかげで70人以上の病人がすぐに回復。
こうした改革を行いながら、近藤たちは再び大きな手柄を立てます。

1864年禁門の変
池田屋事件以降、京を追いやられた長州藩士が、勢力挽回を狙って武力で御所に突入しようとします。
御所を守る会津藩と共に、新選組も斬り込む・・・??と思いきや、近藤が主力としたのは鉄砲でした。
軍備面でも改革を行っていた近藤です。
新選組は西洋式の軍備を取り入れて日々訓練をしていました。
新選組を強くするためなら、どん欲に、スピーディーに取り組む近藤です。

鳥羽伏見戦いの前までの新選組隊士の死者数は46人・・・
その中で敵に殺されたか病死の者は僅か6人でした。
残りの40人は、粛清や切腹で命を落としていました。
これは、近藤が隊士たちに厳しい規律を守らせた結果でした。
それは・・・局中法度!!
副長・土方歳三と作ったと言われています。

一、士道に背きまじきこと
一、局を脱することを許さず
一、勝手に金策致すべからず
一、勝手に訴訟取り扱うべからず

これが守られない場合は、例外なく切腹!!従わない場合は粛清されました。
更に近藤は、市中見回りの際にも死を恐れずに戦うために、死番を作ります。
4人一組で見回りをし、敵と遭遇した場合最も危険な先頭を、日替わりで担当するというものです。
死番に当たった隊士は、見回り中、ずっと死の覚悟を持たばなければならない・・・
さらに新選組内で切腹が行われる際には、あえて新人隊士に介錯をさせました。
人を斬ることに慣れさせるためです。
隊士たちは、本来の武士ではないものも多く、近藤も武家の出身ではありませんでした。
”真の武士でありたい”という近藤の思いが、隊を強固なものにして行ったと考えられます。
当時の会津藩手紙に近藤の評価が残っています。

”50人を超える烏合の衆は、近藤一人の力でまとまっている”と。

カリスマ・近藤勇のトップダウンで最強組織となった新選組・・・。
しかし、近藤は傲慢な態度をとるようになり、新選組は内部分裂を起こしていきます。
発端は、参謀役の伊東甲子太郎との確執です。
伊東は幕府の権威が失墜していくのを見て、幕府の代わりに天皇中心の政治体制になることを強めます。
幕府を第一に考える近藤たちとは行動を共にできない・・・
そう考えた伊東は新選組を脱退!!
近藤についていけない隊士も、次々と脱退を申し出ます。
しかし、近藤は逆らうことを許さず、伊東を暗殺・・・他の隊士たちも切腹などして殺してしまいます。
そんな頃、幕府から新選組の隊士すべてが幕臣に取り立てられます。
多摩の農家に生まれた近藤にとって、幕府の直参となるのは光栄なことでした。
遂に、誰もが認める立派な武士になった・・・この時32歳でした。
しかし、近藤の志とは反対に、時代は大きく動いていきます。

1867年10月、大政奉還!!
徳川慶喜は将軍を朝廷に返上し、徳川幕府が終わりを告げます。
幕臣となってからわずか4か月・・・近藤が命をかけて守ってきた幕府は、もはや無くなったのです。
1868年1月鳥羽・伏見の戦い。
新選組は旧幕府軍として薩長の新政府軍と戦うも、負けを重ねます。
さらに新政府軍に錦の御旗があがり・・・新選組は朝敵の汚名を・・・!!
徳川慶喜は江戸に帰還し、新政府に恭順の意を示します。
しかし、近藤は徹底抗戦を唱え、出陣します。
目指すは甲府城!!
西から甲州街道を東に進んでくる新政府軍を食い止めようとしたのです。
近藤は、隊士の前で言います。

「戦いに勝てば、俺は10万石の大名。
 皆にもそれぞれの地位を与え、甲府城へ慶喜公をお招きしたい。」

近藤は、およそ170人の部隊を率いて甲府城を目指します。
しかし、途中で新政府軍が一足先に甲府に入ったと連絡が・・・その数1200人!!
圧倒的な勢力差に不安がる隊士たち。。。
近藤は、
「遅くとも、明朝に援軍が間に合う筈であり、共に戦う!!」

援軍が来るというのは苦し紛れの嘘で、隊士たちの士気を高めるものでした。
1868年3月、甲州勝沼の戦いで、新政府軍を前に大敗。
永倉らは会津での戦いを進言します。
しかし、近藤は新選組の方針を無断で決めたことに腹を立てこう言います。

「私の家臣となって働くのなら、同意しよう」

同志だと思って行動と一緒にやってきたのに、家臣として扱われることに激怒!!
近藤のもとから去っていきました。
近藤は、副長・土方歳三と再起をかけます。

江戸に戻って200人近くを募集し、千葉・流山に布陣!!
しかし、丁度隊士たちが訓練で出払っていた時・・・近藤たちは新政府軍に包囲されてしまいました。
もはや最期か??
武士らしく切腹しようとする近藤・・・

「ここで切腹するのは犬死に!!
 運を天に任せて出頭し、説き伏せるのが得策だ!!」by土方歳三

土方の強い説得で、大久保大和で投降。
正体を隠してその場を切り抜けようとします。
しかし・・・見破られてしまい・・・
味方であるはずの幕府からも、
「近藤の罪は、天下の人々が知るところであり、徳川慶喜の意に反するもの
 許容できない大罪である」と言われてしまいました。
1868年4月25日、近藤勇斬首!!

最期は、武士として切腹することも許されない・・・33年の生涯でした。
近藤の時世の詩が残されています。

義を取り 生を捨つるは 吾が尊ぶ所 
           快く受けん 電光三尺の剣
只まさに一死をもって 君恩に報いん

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今から150年ほど前の文久3年2月・・・。
幕末の風雲急を告げる京都に、江戸から浪士たちの大集団がやってきました。
勤王の志士たちが恐れた戦闘集団・・・後の新選組です。
その中心人物は・・・局長・近藤勇、鬼の副長・土方歳三。
旧幕府軍が戊辰戦争で惨敗を重ねる中、彼らは武士として幕府に忠義を貫き戦い続けました。
彼らはなぜ、最期まで戦う道を選んだのでしょうか?

尊王攘夷運動の高まりとともに、不穏な空気が立ち込める京都・・・
その京都で警護に当たっていただんだら模様の羽織姿の集団が、彼らはもともと14代将軍家茂が上洛するにあたっての護衛役として幕府にお金で雇われ江戸からやってきた浪士たちでした。
その後も京都に残り、治安維持の名のもとに、幕府に刃向かう過激な尊王攘夷の志士たちを次々と粛正していきます。
そんな新選組の名を一躍世に知らしめたのが”池田屋事件”です。
長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちが、御所に火を放ち、時の孝明天皇を長州に連れて行こうと計画!!
その情報を新選組が入手します。
元治元年6月5日・・・京都三条木屋町・・・池田屋に潜んでいることを突き止めると、近藤勇、沖田総司らわずか4人で踏み込みます。
応援も駆けつけ2時間の戦闘の末、7人を殺害、4人を捕縛しました。
新選組は、彼らの配下である京都守護職&会津藩主である松平容保から絶大な信頼を得ていました。
200人を超える大組織へと成長していきます。
しかし、この時新選組は、京都守護職会津藩御預・・・あくまでも浪士の集団でした。
それでも近藤や土方は、粉骨砕身、幕府に尽くしていくのです。
どうして幕府への忠誠心が強かったのでしょうか?

それは・・・武蔵国多摩にありました。
天保5年、多摩・・・上石原村の農家の三男として生まれた近藤勇は、15歳・・・若くして天然理心流に入門。
やがて剣の腕を認められ、天然理心流の宗家・近藤家の養子となり跡を継ぎます。
甲州街道の宿場町日野・・・ここにある剣術道場に、出稽古によく通っていました。
そしてそこで、運命の出会いを果たすのです。
同じ多摩の農家の出である土方歳三です。
二人は・・・「いつか幕臣となって、幕府のために働きたい」と厚く語り合ったといいます。
幕府の直轄地だった多摩は、年貢の優遇など多大な恩恵を得ていました。
戦があった時には、兵士として参戦する”八王子千人同心”という農民たちも多く、幕府への忠誠心が強い土地柄でした。
そんな土地で育った二人が、我等こそが真の”幕府侍”であると思うことは、ごく自然なことでした。

彼等が京都に来て4年経った慶応3年6月・・・
近藤のもとに嬉しい知らせが舞い込みます。
それまでの功績が認められ、新選組隊士全員が幕臣に取り立てらることになったのです。
二人の夢がかなった瞬間でした。

しかし、その4か月後・・・第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上してしまいました。
慶応3年10月14日大政奉還、12月9日王政復古の大号令・・・。
およそ260年続いた徳川幕府が終わりを告げるのです。
そんな中、徳川慶喜は、自身の内大臣の辞退・所領の返上を命じる新政府の処分に反発する暴発をおさえるために京都から大坂城へ・・・それに伴い、新選組も京都を離れ、伏見に・・・
新選組は、いつでも幕府のために戦う覚悟を決めていました。

慶応4年1月3日・・・鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりです。
京都伏見に近い鳥羽街道で、新政府軍と旧幕府軍が激突!!
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍はおよそ5000!!
これに対し、旧幕府軍は15,000!!
数の上では旧幕府軍が圧倒的でした。
新選組は、旧幕府軍の司令部があった伏見奉行所に陣取り、薩摩軍の本陣があった御香宮神社を急襲、痛手を与えます。
しかし、その後、新選組ら旧幕府軍は苦戦を余儀なくされます。
原因は・・・鳥羽伏見の戦いで指揮を執っていたのは、局長の近藤勇ではなく副長の土方歳三でした。
半月ほど前、近藤は仲間割れした新選組隊士に右肩を狙撃され、大坂城で治療を受けていました。
この近藤の不在が、新選組が苦戦した要因でした。

戦略に長けた近藤が居なかったことで、隊士たちは戦場で臨機応変に動くことができませんでした。
新選組ら旧幕府軍は追いつめられます。
薩摩軍のはなった大砲が、伏見奉行所の火薬庫に直撃!!
大爆発を起こしたのです。
新選組ら旧幕府軍は、奉行所からあえなく撤退・・・
1月5日、淀千両松まで撤退・・・そこで敵を迎え討ちます。
新選組は得意の剣術によって善戦しますが、大砲や小銃を中心とした新政府軍の攻撃が始まると形勢は逆転・・・新選組隊士の戦死者は10人、負傷者は25人に上りました。
新選組を含む旧幕府軍は、大坂からの援軍を待つため、老中・稲葉正邦の居城である淀城に・・・体勢を立て直そうと考えます。
四方を川や池に囲まれた堅固な淀城を拠点と戦い、巻き返しを図ろうとしたのですが・・・。
新政府軍の圧力によって、稲葉家の家老が中立を決意!!
土方らは入城を拒否されます。
味方のまさかの裏切り・・・もはや、なすすべはありませんでした。

朝廷から錦の御旗を与えられ、官軍となった新政府軍の勢いが増すと、旧幕府軍の兵士たちは恐れをなし、次々と逃げ出したのです。
そんな中、大坂城で治療中だった近藤勇が動きます。
15代将軍だった慶喜に・・・
「まだ策はあります。
 このままでは東照大権現に申し訳が立ちません。」
東照大権現として崇められていた家康の名をだし、慶喜に徹底抗戦を求めますが。
1月6日午後9時・・・慶喜は夜陰に乗じて大坂城を脱出、幕府の軍艦で江戸に逃げ帰ってしまいました。
旧幕府軍の敗戦は決定的となりました。
新選組も江戸へ撤退・・・この時、隊士たちは90人になっていたといいます。
鳥羽伏見の戦いの敗戦を受け、江戸城内は、新政府に対する教順派と抗戦派に分裂!!
教順派の代表は、幕府の重役であった勝海舟でした。
勝は、新政府軍に恭順することで、徳川家を存続させようと考えていました。
一方新選組は抗戦派・・・戦うことにこだわりました。

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸総攻撃に向けて進軍を開始します。
そんな中、新選組局長・近藤勇は幕府の直轄地だった甲州の治安維持を命じられ甲陽鎮撫隊を結成。
しかし、近藤と土方は、新政府軍に恭順しなかったことから朝敵と見なされ、命を狙われていました。
近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名を変えて素性を隠すことに・・・。

また、土方は刀や槍で戦う時代は終わったと痛感、軍備を西洋化し、自らも断髪、洋服に身を包みます。
慶応4年3月1日、150人の兵を率いて甲府へ・・・
しかし、先に甲府についた新政府軍に、甲府城にいた幕臣たちが降伏したために城を奪われてしまいました。
これを聞き、甲陽鎮撫隊から脱走兵が続出し、兵は120人ほどに減ってしまいました。
それでも近藤たちは、勝沼宿まで兵を進めます。
およそ2,000人の新政府軍と戦うために!!

3月6日正午ごろ・・・両軍が激突!!
しかし、僅か2時間ほどで鎮撫隊は壊滅状態に・・・。
それでも近藤と土方は戦うことを諦めませんでした。
兵を集めながらも幕府の直轄地・流山に移動!!
この地の豪商の屋敷に陣を構え、徹底抗戦の構えを見せますが・・・予想をしなかったことが起こりました。
4月3日、新政府軍に包囲されてしまいました。
この時ほとんどの兵士たちが軍事教練に出ていたので本陣には数人しか残っていませんでした。

「最早、切腹するしかあるまい・・・」by近藤
武士として散ろうとする近藤に対し・・・
「いけません、このままでは犬死です。
 ここは運を天に任せ、出頭すべきです。
 生きていれば、きっと反撃の機会はあります!!」by土方

近藤は、土方の言葉に出頭を決意。
この時、土方が近藤に出頭を勧めたのは、大久保大和という偽名を使っていたので、新政府軍に近藤であるとバレないのでは?と思っていました。
偽名とバレたときの秘策として・・・
新政府軍と強いパイプのある勝海舟に助命嘆願の手紙を書いてもらうというものでした。
4月4日の勝の日記には・・・
「土方歳三来る 
 流山顛末を云う」
土方が勝に面会したのは事実ですが、勝が助命嘆願したという記録は残っていません。
勝海舟は教順派なので、近藤の嘆願を書くことはあり得なかったでしょう・・・
土方の目論見はハズレ・・・さらに、新政府軍の中に、元新選組隊士がいたために近藤の素性がバレてしまいました。
4月25日・・・近藤勇は朝廷に背く逆賊として、切腹を許されず斬首・・・まだ35歳でした。
切腹を許されなかったことは無念であったことでしょう。

土方はこの後、僅か残り少なくなった新選組の隊士を率いて、下総の旧幕府軍に合流・・・
そこで、旧幕府軍総督・大鳥圭介と出会います。
土方は、鳥羽伏見の戦いの実戦経験が評価され、参謀として迎えられました。
1,000人の先鋒隊を率いて、宇都宮城を一日で落とします。
新政府軍は震え上がったといいます。

近藤勇亡き後、新選組の土方歳三は、米沢、仙台と東北各地を移動していきます。
共に新政府軍と戦ってくれるよう交渉するためでした。
しかし・・・米沢藩も、仙台藩も新政府軍の遺体する降伏を決めていたのです。
東北諸藩に味方になることを断られた土方でしたが、仙台で隊士を募り、新選組は150人に増えていました。
そして・・・ここで一人の男と出会います。
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。
榎本は新政府軍から開陽丸をはじめ8隻の軍艦の引き渡しを求められていました。
しかし、榎本はこれを拒否して仙台へ向かいます。
ところが仙台藩が新政府軍に降伏してしまったために、軍艦を率いて蝦夷へ向かうことを決めます。
幕府が倒れたことで生きる道を失った幕臣たちと共に、蝦夷で蝦夷共和国を建国しようと考えていたのです。
土方は榎本と蝦夷へ行くことにします。

明治元年10月20日・・・土方たちは、蝦夷の鷲ノ木浜に到着。
その後、二手に分かれて箱館の五稜郭に向かいました。
五稜郭は、幕府が箱館開港に向けて元治元年に完成させた西洋式の城郭・・・上から見ると星形が特徴です。
土方たちは、新政府の占領下にあった五稜郭を瞬く間に占拠。
中にあった箱館奉行所に陣を張ります。
さらに、蝦夷を支配していた松前藩の居城・松前城も1日で落としてしまいました。
蝦夷でもなお戦い続ける土方・・・一矢報いることが近藤勇の精神を継承する最後の誠である・・・。
勝つ、負けるという打算を超えたところに土方の境地があったのです。

衝撃の知らせが・・・最新鋭の軍艦・開陽丸が暴風雨により江差港で座礁・・・。
一隻で新政府軍の軍艦の全てを上回る能力を持つといわれていた開陽丸を失うことは大きな痛手でした。
一方、新政府軍の船は蝦夷へ・・・。
旧幕府軍は明治元年12月15日、蝦夷の平定を宣言し、「蝦夷共和国」樹立。
榎本武揚が共和国の総裁に選ばれ、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並でした。
新政府軍は旧幕府軍を一掃しようと蝦夷へ軍隊を向わせます。
明治2年4月箱館戦争開戦!!
土方は新政府軍を迎え討つために江差方面に・・・
その途中の二股口が主戦場となります。
二股口は急な崖を擁する山に囲まれ、谷底を深い川が流れる天然の要害・・・。
土方は周囲の山に塹壕を掘り、新政府軍を待ちます。
土方郡300に対し迫る新政府軍600!!
劣勢の中、戦いが始まりました。
新政府軍の猛攻にもひるむことなく、果敢に抗戦する土方!!
16時間に及ぶ戦いの中で、3万5000発の弾丸を打ち込み、見事新政府軍を退却させます。
激しい銃撃戦となった箱館戦争を含む戊辰戦争の一連の戦いは、最新鋭の銃を使った近代的な戦争の幕開けともいえました。
ミニエー銃は、フランスで開発された先込式のライフルで、銃身の内側にライフリングといわれる溝が刻まれていました。弾が自転しやすくなってより真っすぐに遠くまで飛ぶ仕組みになっていました。
有効射程距離も旧式銃(火縄銃・げべーる銃)の3倍の270㍍・・・箱館戦争ではこのような高性能な武器を使った激しい戦いとなったのです。
そして、土方はその銃撃戦で命を落とすことになります。

明治2年4月13日、旧幕府軍と新政府軍が箱館近郊二股口で激突!!
旧幕府軍を率いる土方歳三の活躍によって、一旦新政府軍は撤退しますが・・・その10日後、猛攻を仕掛けてきました。
この時も、12時間の激戦の末、土方が二股口を死守・・・劣勢にあった旧幕府軍で一人気を吐き武士の意地を見せます。
そんな中、木古内方面で戦っていた大鳥圭介の軍が総崩れに・・・そのまま新政府軍がなだれ込んでくれば土方軍は挟み撃ちとなって退路を断たれてしまう・・・。
土方は止む無く函館まで退却・・・
5月11日午前3時新政府軍による箱館総攻撃・・・!!
僅か4時間ほどで箱館の街の大部分が制圧されてしまいました。
それでもなお、瀬新選組の隊士たちは箱館湾に面した弁天台場で籠城し抵抗します。
そんな仲間たちを救うために、五稜郭から向かう土方・・・。

土方の護衛役で常に行動を共にしていた立川主税によると・・・。
”土方、兵を率いて一本木より進撃す”
そして、一本木関門から異国橋まで2キロ近く敵を追い払います。
その後、一本木関門に戻ってきた土方は、味方の兵に向かって叫びます。
「前進せよ!!この策から退く者は・・・容赦なく斬る!!」
兵士たちは誰一人退くことなく果敢に立ち向かっていきます。
ところが・・・5月11日午前10時ごろ・・・
一発の銃弾が馬上にいた土方を貫きます。
立川が駆けつけたとき、すでに土方は息絶えていました。
土方は狙撃されたとも、流れ弾が当たったともいわれています。
立川の日記によると・・・”敵丸腰間を貫き遂に戦死”とあります。
 
一発の銃弾によって命を落とした新選組副長・土方歳三・・・。
土方は誰に撃たれたのでしょうか?
松前藩は、もともと新選組を配下においていた会津藩と交流がありました。
幕府側の藩でしたが、藩内での権力闘争で新政府へ恭順するようになったのです。
箱館戦争に松前藩は新政府軍として参加していました。
そして一本木に・・・。
そしてその八番隊の中に、土方を撃った者がいるのではないか??
松前藩氏・米田幸治??
米田幸治は天保14年うまれの松前藩士で若いころから銃の名士とされ、箱館戦争時は八番隊の小隊司令士となっていました。
そんな米田が土方を撃ったという資料が残されています。
米田の孫が書いた本によると・・・。
”” 御祖父米田幸治中尉が箱館戦争において脱走幕軍豪将土方歳三を討ち取った””
米田は土方を撃ったことを家族にだけが語っていたようです。

「部下が銃を撃てなかったので、その銃を取り上げ彼の方に乗せ、太刀打ちの構えで引き金を引き、やってくる武士を撃った。
 すると馬上の武士が落ちた。
 銃撃がやんだので、武士の死体を見に行き、陣羽織を裏返すと土方と書いてあった。」

米田の証言が事実ならば、幕府のために忠義を尽くして来た土方は、かつては幕府側で味方だった者の銃弾に散ったということなのです。
土方の死から7日後・・・明治2年5月18日、箱館戦争終結。
戊辰戦争は終わりを告げます。
最期まで忠義を貫き、戦い続けた新選組・・・局長近藤勇と副長土方歳三・・・
幕府の直轄地の農民に育ち、同じ夢を見て切磋琢磨し、幕臣にまでとりたてられました。
その恩を忘れず、最期まで武士としての意地を貫き戦い続けました。

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今年の1発目は私の大好きな”歳さん”で!!

かつて、司馬遼太郎はこう言った・・・。
「京は季節の都である」
四季に彩られた都を血に染めた男・・・新選組副長・土方歳三です。
黒船来航をきっかけに、国論は攘夷と開国にわかれ・・・250年続いた徳川幕府は大きく揺らぎました。
この争乱に乗じ、幕府転覆に暗躍する藩士、浪士たち・・・。
鬼の副長土方歳三は、局長・近藤勇と輩を屠り、新選組隊士をも鉄の掟で葬りました。
幕末維新の時代・・・何が土方を駆り立てたのでしょうか? 

京都の夏の華・祇園祭・・・153年前のそのさなかに、事件は起こりました。
1864年6月5日・・・新選組が一躍その名をあげた池田屋事件です。
この時討幕を目論む一派は、京都に火を放ち、混乱に乗じ天皇を長州に連れ去ろうと計画していました。
その集会に僅かな手勢で乗り込んだ新選組・・・
凄惨な斬りあいの末、数人をその場で殺害し、多くの討幕派を捕らえました。

この時、新選組副長・土方歳三が身に着けていたのが残されています。
古くから甲州街道の宿場として栄えた日野・・・
1835年土方歳三は、武州(武蔵国)石田村に豪農の六男として生まれました。
土方が暮らした家は、歳三の兄の子孫が受け継ぎ資料館として公開されています。
土方は、この鎖帷子をつけて池田屋に駆け付けたと言います。

kusari
槍で突かれたような跡、補修された跡・・・土方の汗がしみ込んだ防具からは、自らの命と引き換えに、幕府への忠義の姿が浮かびます。


土方家には、歳三の遺品以外にも武具が伝えられてきました。
武州は天領なので、徳川に何かあったら馳せ参じる気概が農民にもあったのです。




土方が生れる1年前、局長となる近藤勇も武州上石原村に生まれています。
幼いころから剣術に秀でた近藤は、27歳で天然理心流を継承し、土方は門人として腕をあげました。
1歳違いの二人は、幕府への忠義の心を育み、激動の時代を二人三脚で歩むこととなります。

この頃、250年続いた徳川幕府は大きく揺らいでいました。
ペリー来航以来、国論は、攘夷と開国に分かれ・・・幕府は、朝廷に攘夷実行を約束したものの、道筋は見えていませんでした。
政治の中心地・京都には、強硬な攘夷派の藩士や浪士が集まり、幕府寄りの人物を殺害するなどのテロ行為に及んでいました。

そんな中、朝廷への攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まります。
その警護のために、江戸城下で腕に覚えのある者が募集されます。
土方や近藤は迷うことなくこれに参加し、運命の地・京都へ・・・!!
京都での土方たちは、京都守護職・会津藩主・松平容保の預かりの身分となり、京都の治安維持を担うこととなります。
新選組は取締に当たり、過激な攘夷派の殺害を厭わず、討幕運動への脅威となっていきます。
新選組の命知らずの戦いと強固な結束は、厳しい大規によるものでした。

第一 指導を背くこと
第二 局を脱すること
第三 勝手に金策を致すこと
第四 勝手に訴訟を取り扱ふこと

四箇条を背くときは
切腹を申し付くること

切腹の理由は・・・
新選組は、正式な武士ではありません。
町人、農民からも入隊していました。
本来の武士ならば、閉門、蟄居など、段階を追った処分ができましたが、彼らが差し出せるのは・・・自分の命だったのです。
新選組が殺した敵は26人ですが、約40人が粛正されています。
正式の武士に侮られないように、より武士らしく生きる・・・それが、ポリシーとなっていました。
内部の粛正を続けながら、新選組を維持し、京都の治安維持に努める土方・・・。
当時、土方が使っていた刀は・・・「大和守源秀圀」です。
直刃で、波紋が真っすぐになっており、まさに人を斬るための・・・戦うための刀でした。
近藤勇が長曽祢虎徹・・・他の隊士たちもブランド刀を好むのに、土方はブランド物よりも実際によく斬れる刀を好んでいます。
土方の愛刀の柄の中には・・・「幕府侍土方義豊戦刀」と名がきられています。
義豊とは土方の諱で、戦刀とあるので、戊辰戦争でこの刀を使ったと考えられています。
1868年正月・・・戊辰戦争は、京都郊外・鳥羽伏見で始まりました。
新選組は、銃や大砲を上手く使う新政府軍に敗れ、江戸に逃れることに!!
江戸にもどった土方は、旧幕府の役人に鳥羽伏見での戦いを語ります。
「最早、武器は砲でなくてはいけない。
 私は剣を帯び、槍を執ったが、一切役に立たなかった。」
幕府侍・土方は、西洋の最新銃器を見せつけられ、自らも洋装へ・・・!!

鳥羽伏見での敗戦後、江戸に戻った新選組は、旧幕府軍の責任者・勝海舟の配下となりました。
勝は、西郷隆盛との会談で、江戸城を無血開城に導き、徳川家の存続を図ろうとしていました。
しかし、土方は、幕府侍として応戦を考えていました。
鳥羽伏見での敗戦から3か月後・・・土方は、およそ200人の新選組隊士を引き連れて、近藤らとともに江戸川を渡りました。
仁を構えたのは、現在の千葉県流山!!
対陣の表向きの理由は、幕府寄りのこの地の反乱を鎮めるためでした。
しかし、土方の本意は、新選組を近代的な様式部隊に訓練することでした。
新選組が会津軍の一員として戦う??
時代は、洋式訓練、銃や砲の訓練・・・。
流山では・・・近藤は大久保大和、土方は内藤隼人という偽名を使っていました。
これは、新政府軍の追撃をかわすためだったと言われています。

新政府軍の動きは早く・・・土方らの流山着陣の翌日、新選組の本陣は、多数の新政府軍に取り囲まれてしまいました。
この時、隊士たちは野外訓練に行っており、本陣には土方・近藤以外には数名しか残っていませんでした。
ここまで鯛を引っ張ってきた近藤は、観念しました。

「最早これまで!!切腹いたす!!」by近藤勇

土方・・・どうする??

近藤を切腹させる??それとも、最後まで死力を尽くして新政府軍と戦う・・・??
それとも近藤を出頭させる・・・??

近藤と共に死を選ぶのか??一縷の望みにかけるのか・・・??

新政府軍に包囲され、切腹を覚悟した近藤勇・・・
この時・・・

「ここで割腹するは犬死になり。
 運を天に任せ、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」by土方

土方は、偽名を貫き近藤を出頭させ、生き抜くことを選びます。
近藤は、大久保大和として悠然と敵陣に乗り込みます。
土方は急いで江戸に走ります。
走った先は、旧幕府軍責任者・勝海舟の元!!
近藤出頭の翌日の勝の日記には・・・

慶応四年四月四日
土方歳三来る
流山転末を云

とあります。

土方は、勝に近藤の処遇を託し、旧幕府陸軍と合流。
新政府軍の手に渡っていた宇都宮城を様式訓練をしていた隊を指揮して陥落させます。
銃砲を駆使しての見事な勝利でした。
しかし・・・戦闘中に足を怪我した土方は、会津に入って治療に時間を有します。
そこに、追い打ちをかける悲報が・・・
新政府軍に出頭した近藤は、間もなく素性が露見し、罪人として斬首の末、首を京都三条河原に晒されました。
新政府軍の熾烈な攻撃の前に、土方が身を寄せた会津の命脈は尽きようとしていました。
しかし、土方は、近藤の最期を知って以降、常に口にしていました。

「近藤と共に死ななかったのは、ひとえに徳川家の冤を雪ぐためだ。
 万一赦されたら、何の面目をもって地下の近藤に見えんや」と・・・。

土方は、まだ戦いを終えるわけにはいきませんでした。
近藤は、「大久保大和などという者はいない」と、幕府に捨てられる形となりました。
彼らの組織自体が、幕府にとっても邪魔なものになりつつあったのです。
土方も・・・自分達は、和平路線の中で生きていくのではなく、徹底抗戦で生きていくという思いを強くしていました。
自分達が武士としての理想を追求したのにという怨念みたいなものが、近代的なエネルギーに昇華していったのです。
会津を脱出した土方は、榎本武揚と仙台で合流!!
蝦夷地を目指す決心をします。

「到底勝算あるに非らず。
 我等戦ふて快く死せんのみなり。

 吾輩は、已に死神にとりつかれたる也。
 死すへきときに死すれば則ち可なり。」と、松本良順に送っています。

かつて蝦夷地と呼ばれた港町・箱館・・・
市街地の中央に広がる五稜郭は、西洋の城郭を真似て作られ、その中心には箱館奉行所が置かれていました。
土方がここに入城したのは、1968年(明治元年)10月26日のことでした。
死神に取りつかれた男・土方は、蝦夷地でも鬼神の如く戦います。
上陸から1か月足らずで新政府に恭順していた松前藩を駆逐!!
翌1869年(明治2年)4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸します。
土方は、上陸地から最短ルートの山中・・・二股口で新政府軍を迎え討ちます。
敵が真下に見える場所に塹壕が作られていました。土方がそこで指揮していたのかもしれません。

土方率いる旧幕府軍は、巧みに築いた塹壕から一日3万5000発を新政府軍に浴びせ、撃退します。
再戦でも、熱を帯びた銃身に水をかけながら堡塁を守ります。

蝦夷の陸軍の戦い、これをもって最も烈しとなす

しかし、土方の奮闘虚しく・・・他の守りが突破され、土方は五稜郭への撤退を余儀なくされたのです。

1869年(明治2年)5月11日、箱館山を越えて、新政府軍の大攻勢が始まりました。
土方は、箱館港と五稜郭の中間にあった一本木関を死守するべく指揮を執ります。
そして・・・土方歳三享年35歳・・・
奇しくも、流山でわかれた盟友・近藤勇と同じ年でした。

土方の死後1週間・・・五稜郭は新政府軍に明け渡され、日本の近世から近代への架け橋となった内戦は終わりを見るのです。

戊辰戦争の激戦地・福島県会津若松・・・戦争のさ中、山麓の寺に罪人として首を落とされた近藤勇の墓が建てられました。
それは山腹にひっそりとたたずんでいました。
この墓が建てられたときの逸話・・・
この当時、侍のような姿がよく目撃されています。
それが・・・土方歳三ではなかったか・・・??
近藤の墓と肩を並べるようにして建てられた土方の慰霊碑。
幕府への忠義に生き、盟友への信義に死んだ土方歳三・・・。
150年前、近代明治に舵を切った日本に、彼の居場所はありませんでした。


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