”一奇士なり”と。
奇士とは、並外れた男子を意味する言葉です。
その男の名は、土方歳三!!
新選組副長です。
死後、150年以上たった今なお、土方の生きざまは人々を魅了してやまない!!
幕末動乱の時代、盟友・近藤勇と共に、新選組を結成!!
天下にその名をとどろかせました。
その行状、残忍・酷烈!!
鉄の掟で強力な組織を作り上げた土方を、人々はこう畏れました。
”鬼の副長”と!!
しかし、近藤の死後、土方の印象は真逆に転じます。
鬼か、仏か??
そして・・・1年半に渡る戊辰戦争で、新政府軍に負けた旧幕府軍・・・そんな中、旧幕府軍の一大転機となった戦いがありました。
宇都宮城の戦いです。
この時土方は新政府軍の宇都宮城をわずか6時間で攻め落としました。
土方の挑んだ難攻不落の巨大城郭!!
この後、北を目指した土方の心中とは・・・!!
暗殺、人斬り・・・テロの嵐が吹き荒れた幕末の京都・・・
こうした尊皇攘夷の過激派に対抗して刀で制したのが新選組でした。
局長・近藤勇、そして近藤を支えた副長・土方歳三・・・
注目すべきは、土方が作り上げた新選組の組織編制です。
副長は、局長を補佐するとともに、実務を請け負う実質的トップとなります。
副長の補佐役として隊士たちを統括するのが副長助勤です。
夭折の天才剣士・沖田総司、新選組最強といわれる永倉新八、そして孤高の剣士・斎藤一など、一騎当千の剣士たちが名を連ね、副長助勤として土方を支えていました。
近藤勇は直接、副長助勤に命令しない・・・副長である自分がキーになる組織でした。
即断即決を可能にする新選組の組織編制こそ、土方の考えを反映していました。
将軍家御典医の松本良純が、新選組屯所をたずね、あまりの不衛生さに改善策をアドバイスしました。
その数時間後・・・なんと土方が松本の指示通りに病室はおろか、浴場も見事に整備していたのです。
余りの手際の良さに松も余が驚くと・・・
「兵は拙速を貴ぶとはこのことなるべし」
土方はそう言って笑ったといいます。
また、新選組の戦闘方法にも土方独自の発想がありました。
1867年11月18日に起きた油小路事件・・・
かつての同志・伊東甲子太郎を暗殺した土方たちは、遺体を油小路に遺棄・・・
駆けつけてくる伊東の仲間を一網打尽にする囮として利用しました。
この時駆けつけたのは7人・・・
それに対し、新選組は3、40人で迎え討ったといいます。
こうした戦い方を、武士として卑怯なのではないか??
という見方もあります。
しかし、新選組は当時、京都の治安を守るべき存在でした。
徳川幕府を支えなければいけない存在だったのです。
それは、当然の任務の遂行でした。
どんな手段を使おうが、必ず勝つ!!
それこそが、土方の戦闘哲学でした。
ところが・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は消滅・・・土方たち新選組の屋台骨が崩れました。
その僅か1か月後・・・旧幕府軍と新政府軍による戦いが・・・
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いが幕を開けました。
新選組を率いて戦いに臨んだ土方は、
「砲戦では勝負がつかん、斬り込め!!」
と、隊士たちを指揮したといいます。
しかし・・・近代兵器に勝る新政府軍の前に、剣に生きる新選組はなすすべなく敗れ去ったのです。
戦えば必ず勝つ!!
これまでの土方の戦闘方法は、鳥羽伏見の大敗によって大きく変わりました。
事実、土方はこう語ったと言われています。
「もはや武器は大砲でなくてはならない
僕は剣を取り、槍で戦った
全く無益なことであった」と。
江戸に帰還した土方は、この頃彼は洋装に転じたと言われています。
剣から銃へ・・・鳥羽伏見の敗戦を契機に、土方は新たな戦闘へと大きく踏み出していくのです。
鳥羽伏見の敗戦から2か月後・・・3月6日、甲州勝沼の戦い・・・
江戸に帰った旧幕府軍はここでも新政府軍と戦い新選組は手痛い敗北を喫しました。
連戦連敗の新選組・・・以降、隊士たちは、それぞれの道を歩むこととなります。
4月25日・・・新選組局長・近藤勇、新政府軍に捕らえられ板橋で斬首・・・享年35。
この頃、土方にも大きな変化がありました。
洋装に身を包んだ土方は、独自の行動に出ました。
近藤の死の14日前・・・4月11日、土方は僅か6人の隊士を連れ旧幕府軍に合流します。
その主力は、勝海舟が決断した江戸無血開城に反対する勢力です。
およそ2500の兵を統率する元歩兵奉行・大鳥圭介!!
大鳥率いる旧幕府軍の中には、伝習隊の姿もありました。
当時珍しい、フランス仕込みの洋式軍隊です。
洋式軍隊の難しさは、当時の階級制度にあります。
戊辰戦争期は、各藩兵力動員を大規模にして銃を持たせていました。
指揮官になる者は、洋学を勉強したものでないとなれませんでした。
江戸時代、洋学を勉強した人たちは下級武士でした。
ところが、身分が上の侍たちは、動員されるが指揮能力がない・・・
近代戦の指揮命令系統と武士階級の格式が逆転してしまいます。
なので、近代戦法に結びつきませんでした。
近代戦法は、身分に関係なく、指揮官のもと兵を自在に動かす指揮命令系統の確立にある!!
それは、土方が組織した新選組にも通じています。
新選組は剣士の集団ではありましたが、近代化する側面を持っていたのかもしれません。
旧幕府軍に合流した土方は、この時全軍の参謀に任じられます。
その理由は・・・
”土方歳三は、元新選組副長であり、機智勇略を兼ね備えた人物である”
新選組の名は、全国に轟き、旧幕府軍にとって守護神ともいえる存在でした。
旧幕府軍は二手に別れ、日光を目指します。
日光にある東照宮は、江戸幕府の開祖・徳川家康を祀る聖地・・・
大鳥たちは、日光で新政府軍に対峙し、東国諸藩を糾合しようと考えていました。
そして・・・日光に至るには、宇都宮城を通過しなければならない・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・江戸幕府にとって、東国の外様大名に対する北の守りの一大拠点です。
宇都宮城は、近世城郭では珍しく、石垣ではなく土塁に囲まれた城でした。
宇都宮城は、北向きに作られたというのが特徴で、北を防御するようになっていました。
それが、皮肉なことに、戊辰戦争では南東の方向から攻められることになります。
この城をめぐる攻防戦こそ、鳥羽伏見の戦い以降、旧幕府軍初めての勝利となります。
しかも、土方のその後の運命を大きく帰る戦いでもありました。
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4月18日、土方率いるおよそ1000人の隊は、大鳥軍に先立ち宇都宮城の近くに迫りました。
その時、宇都宮城が新政府軍の支配下にあることを知ります。
宇都宮城を制していたのは香川敬三・・・この香川こそ、近藤勇を捕らえた人物です。
当時描かれた宇都宮城の絵図が残されています。
宇都宮城は、南北900m、東西850mに及ぶ巨大城郭でした。
香川率いる城兵は、僅か400。
しかし、籠城に徹すれば、その鉄壁の守りは固く、攻め手にとって厳しくなるはずでした。
4月19日、土方ら宇都宮城に進軍。
ところが、新政府軍が奇妙な行動に出ます。
宇都宮城の外へ出撃したのです。
どうして籠城策を取らなかったのか・・・??
後の元帥・陸軍大将・山県有朋は、当時をこう振り返っています。
「各藩にはそれぞれの指揮役がいて、こうした指揮役を統一し、命令し、兵を動かすことなど新政府をもってしてもできなかった」
実は、新政府軍は、各藩の寄せ集めの軍隊で、指揮命令系統が混乱していました。
土方たちは、それを見逃しませんでした。
新選組隊士の日記にこうあります。
「はじめ敵は防御していたが、鉄砲を散々に打ちかけると次第に崩れ、やがて城の中へ逃げ込んだ」
この時、土方たちは、軍を分けました。
精鋭部隊の伝習隊は北の大手門へ・・・土方率いる新選組や桑名藩兵は東南方向へ向かいました。
土方の狙いとは何か・・・??
宇都宮城は、北に向かい防御施設を固めた城です。
そこで近代兵器による攻撃を仕掛け、北側に敵兵力を集中させ、その隙をつき土方隊が城内に白兵戦を仕掛ける・・・
川を防衛ラインとした東南側は、土塁も低く、ウィークポイントでした。
この時土方は、激しい戦場から逃げようとした味方の兵を容赦なく切り捨てたといいます。
戦に臨む土方は、鬼とかしました。
さらに、土方たちの猛攻は続きます。
旧幕府軍が誇る最新式の大砲が威力を発揮!!
砲弾は城内の建物を粉砕!!
敵にとどめを刺したのです。
結果、敵は狼狽して城を捨て、逃げ去った・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・陥落!!
わずか6時間ほどの戦いだったといいます。
土方にとって、洋装に徹して実力を初めて示すことが出来たのが、宇都宮城の戦いでした。
この戦い以降、土方の名声はさらに高まります。
”土方は、奥羽の各所で勇ましく戦い、衆目を驚かせた
とりわけ宇都宮城の攻撃は、新政府軍を心底恐れさせた”
戦術家としてその名を天下にとどろかせた土方歳三・・・
更なる戦いを求め、北へ向かったのです。
宇都宮城の戦いの後、土方歳三は北へ向かいました。
戦いの火の手は、東北地方に拡大・・・その震源地となったのが、会津藩と庄内藩です。
東北諸藩は、朝敵となった会津・庄内の斜面を求め、奥羽越列藩同盟を結成・・・
その盟主となったのが、東北の大藩・米沢と仙台です。
この同盟に合流したのが、旧幕府海軍を率いた榎本武揚です。
榎本は、当時、最強と呼ばれた最新鋭の軍艦・開陽など、8隻の艦隊で江戸を脱走。
土方も榎本にあわせるように仙台に向かいました。
1868年9月3日、合流した土方と榎本は、仙台城で開かれた同盟の軍議に参加しました。
軍議の席上、榎本はこう発言したといいます。
「そもそも奥羽の軍勢が弱いのは、誰もが主となり戦をするものがいない故である
今これを挽回するためには、全軍を指揮する惣督を選ぶべきである
惣督に相応しいの人は、私が同行した土方歳三をおいては他にいないと思う」
奥羽列列藩同盟の惣督に、土方を推挙したのです。
これを受け土方は言います。
「全軍も惣督として、指揮するためには、軍令を厳しくせねばならぬ
もしこれを破るようなものがあるときは、大藩の家老と言えどもこの歳三が切り捨てねばならん
去れば生殺与奪の権利をくださるのなら、全軍の惣督を引き受けますが、その辺りはいかがでしょうか」
つまり、土方は、全ての者の命を自分に預けるように要求したのです。
土方のこの言葉に、軍議は紛糾!!
この時、土方は何を思っていたのでしょうか?
奥羽にとどまり戦を続けるために、東北諸藩が一丸とならねばならない
この地で、命がけで戦えば、戦は長引く・・・
されば勝機はある!!
会津は籠城したがために今や劣勢にあれば、庄内は連戦連勝を続けているではないか!!
既に北越戦争で長岡藩は降伏・・・会津藩は、籠城戦を余儀なくされていました。
しかし、最新鋭の武器を配備した庄内藩は、藩外での戦いを続け、連戦連勝の気炎をあげていたのです。
奥羽の足並みがそろわなければ、さすがの庄内も孤立し、いずれは破れる・・・
ならば、旧幕府海軍と共に新天地に向かう??
新たな体制のもと、新政府軍に対抗するという手もあるが・・・
この頃、旧幕府海軍率いる榎本は、先々の計画を立てていたと考えられます。
蝦夷地に渡り新政府軍に対抗しようというものです。
我が方には、最新鋭の軍艦、開陽がある!!
最強の海軍と陸軍が手を結べば、新政府など恐るるに足らず
我らは必ず勝てる!!
奥羽にとどまり戦いを続けるべきか、それとも榎本と共に新天地へと向かうべきか・・・
土方に選択の時が近づいていました。
奥羽越列藩同盟は米沢藩を皮切りに、次々と新政府軍に降伏・・・同盟は瓦解しました。
そして、会津鶴ヶ城も落城・・・!!
土方が、全軍の惣督として指揮を振るうことはありませんでした。
明治と改元した・・・1868年11月5日、土方歳三の姿は、蝦夷地・松前にありました。
土方は、榎本と共に新天地、蝦夷地を目指したのです。
しかし、蝦夷地を治める松前は、新政府にすでに恭順・・・
土方たちの行動を、許すわけはありませんでした。
ここに、松前城をめぐる攻防が始まりました。
土方にとって、宇都宮城以来の城攻めです。
”土方惣督は、陸軍隊・新選組を率いて城の裏へと回り込み、梯子で城壁を登り、城内に突入!!
敵は気付かず我が軍は、敵に一斉射撃!!
敵、これ大いに驚き、防御もできず場外へ走り去り、支柱に放火しながら逃走した”
戦略家、土方の面目躍如・・・
土方は1日もかからず城を攻め落とすことに成功しました。
ところが・・・この時、陸軍の援軍として着ていた海軍の開陽が、岩礁に乗り上げ沈没してしまったのです。
土方たち箱館政権の五稜郭は、日本でめずらしい西洋式の城郭・・・
しかし、函館湾から近く、制海権を失えば敵の艦砲射撃の的となります。
以後、土方は五稜郭に寄らず、もっぱら場外での戦闘に従事しました。
この頃、土方の印象は、鬼の副長と呼ばれた京都時代から大きく様変わりしていました。
新選組隊士の日記にこうあります。
”土方は、常に下々に気を遣い、戦の時には先陣をきって進むので、従う兵たちも雄を振るって進軍する
故に、戦いに敗れることはなかった”
そして、1869年5月11日、海陸を新政府に包囲され太激戦のさ中・・・土方は銃弾を受け戦死。。。
享年35・・・戦場にいた新選組隊士たちに衝撃が走りました。
この時、砲台の守備に就いていた新選組の者たちは、土方の死んだことを聞き、まるで赤子が慈母を失うがごとく、皆悲嘆してやまなかった・・・ああ・・・惜しむべき将なり・・・と。
土方歳三のふるさと東京日野市・・・土方の死から19年後、地元の人々や松本良純の手により、顕彰碑の建立の話が持ち上がりました。
”殉節両雄之碑”と名付けられた石碑は、近藤と土方の偉業を讃えたものです。
はじめ、文字を依頼されたのは、将軍・徳川慶喜でした。
しかし、慶喜はただ涙を流すばかりで返答しませんでした。
結局、その文字は、かつて新選組を庇護した元会津藩主・松平容保の手によるものです。
京での新選組の華々しい戦いが語り継がれる中で、その後の新選組の物語は、史実に埋もれて行ったのです。
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