日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:坂本龍馬

外務省・・・その中庭に、歴代外務大臣の中でただひとり・・・後進達の仕事を見守っている銅像があります。
陸奥宗光・・・日本外交の礎を築いた人物です。
明治時代、日本には大きな課題がありました。
幕末に、欧米列強と結んだ不平等条約を改正し、文明国の一員として認められること・・・
しかし、歴代外相の交渉は思うように進展しませんでした。

明治25年に外務大臣となった陸奥は、列強の中心だったイギリスとの条約改正に挑みます。

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1844年、陸奥宗光は、徳川御三家・紀州藩の勘定奉行の子として生まれました。
学色豊かな父のもとでの何不自由ない生活・・・。
しかし、それは9歳の時に突如終わりを告げました。
1852年、父がお家騒動に巻き込まれ失脚!!
同じ頃、日本の大きな転換期を迎えていました。
1853年、黒船来航。
アメリカの圧力を前に、幕府は開国へと舵を切り、欧米列強との間で不平等条約の締結を余儀なくされました。
幕府の弱腰外交に国論は沸騰!!
天皇を尊び、外国人を排斥せよとの尊王攘夷運動のうねりが日本中を席巻しました。
そんな中、陸奥は、自らの才覚だけを武器に、動乱の世を起きていくことを決意します。
和歌山を離れ、志士活動に身を投じます。
そして20歳の頃、生涯にわたり影響を受ける人物と出会います。
土佐脱藩浪士・坂本龍馬です。
弁舌が立ち、才気あふれる陸奥を、龍馬は大いに気に入ります。
陸奥にとって、藩や身分から自由に振る舞う龍馬の存在は、目指すべき目標となりました。

1867年、陸奥は龍馬の創設した海援隊に参加。
この年、陸奥は龍馬に1通の意見書「商方之愚案」を提出しました。

”海援隊に西洋の同盟商方、コンペニー、コンメンスを導入する”

集団が商取引を行うこと・・・商社です。
当時翻訳されていた西洋の経済書を参考に書き上げたこの意見書を、龍馬は大いに評価し、海援隊の商事部門を任されます。
陸奥は、長崎でオランダ商人との交渉に当たり、エンフィールド銃・・・1300丁もの調達に成功しています。
陸奥は、龍馬の懐刀という存在に成長し、共に未来を語ら得る同志と目されるようになります。
龍馬が陸奥に宛てた書簡が残されています。

”また世界の話もできるでしょうか
 この頃、面白い話もおかしい話も実に山をなしております”

しかし、この書簡を記したわずか8日後・・・1867年11月15日、坂本龍馬、京で暗殺!!
わずか4年にすぎませんでしたが、龍馬との交流は陸奥を次のステージに導きます。

龍馬の死から1年後の1868年、薩摩や長州を中心とする明治政府が成立します。
陸奥は、新政府で大阪府権判事、摂津県知事などを歴任。
海援隊で身につけた商才や交渉力を武器に、治水や税制の近代化に腕を振るいました。
この頃、陸奥が親交を深めた人物が・・・兵庫県知事を務めていた長州出身の伊藤俊輔・・・後の伊藤博文です。
二人は、すっかり意気投合!!
伊藤の家に泊り、国家の将来について夜通し語ることもありました。
しかし、伊藤と身近に接するうちに、陸奥は藩閥の後ろ盾を持たない自らの限界に直面しました。

1871年、伊藤は岩倉使節団の一員に抜擢され、欧米列強を歴訪。
実力者岩倉具視や大久保利通らの信頼を得て、着実に政府中枢の道へと登っていきました。
一方、陸奥に与えられたのは、大蔵省の一役人の地位。
中央政府に職を得たものの、藩閥出身者より一段低い待遇に不満をため込んでいきました。

陸奥の意見書「日本人」(明治7年)
「西は薩摩から、東は蝦夷まですべての日本人に国への権利と義務がある
  
 独りこれを政府、すなわち薩長等の人に任せるべきではない」

藩閥出身者に才能面では引けを取らない自分は、もっと重く用いられるべきだ・・・!!
強烈な自己主張を政府にたたきつけ、陸奥は大蔵省辞職に踏み切りました。
将来への展望が開けず、焦りを募らせる中、陸奥はある事件にかかわってしまいます。
1877年、西南戦争・・・西郷隆盛をいただく薩摩の不平士族が決起しました。
これに呼応し、反政府グループによるクーデター計画が動き出しました。
陸奥は当時、元老院に務めていましたが、知人から聞いたその計画を政府に知らせず、かえってそそのかしていきます。
積極的に反乱に加わる気はなかったものの、万が一、クーデターが成功した場合、乗り遅れないという思いもありました。
しかし、西南戦争は西郷の敗北に終わり、クーデターは失敗に終わりました。
陸奥も逮捕され、1878年、山形監獄に収監されました。
時に35歳・・・陸奥にとって大きな挫折でした。

陸奥が獄中で着た囚人服が残されています。
びっしりと描きつけられているのは、自ら作った漢詩。

”人生の行路は 幾重にも連なる山のように険しい
 
 旅の宿で過ごす一夜 恨めしい気持ちには限りがない”

しかし、与えられた獄中の時間を、陸奥は無駄にはしませんでした。
西洋の政治思想書や法律書、歴史書などを大量に送ってもらい、1日12時間以上読みふけりました。
この先の日本で、いかなる役割を果たすべきか??
獄中での施策の時は、4年半に及びました。

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1883年、陸奥は5年の刑期を半年短縮され出獄しました。
背景には、参議として政府の中枢にいた伊藤の働きかけがありました。
伊藤は、陸奥の才能を認め、共に政府で働いてほしいと考えていました。
伊藤が陸奥に期待した役割は、持ち前の交渉力を国益に活かせる外交でした。

陸奥は、特命全権公使としてアメリカに派遣されました。
この時、生涯のテーマとなり条約改正問題に直面します。
当時、日本が諸外国と結んでいたのが不平等条約でした。
そこには3つの問題点がありました。

①領事裁判権
外国人は、居留地に限って居住や商業活動を認められます。
日本で外国人が犯した罪は、領事が自国の法律で裁きました。
領事は法律の専門家ではないため、不当に外国人に有利な判決が下ることもありました。

②関税自主権がないこと
日本には、輸入品の関税を決める権利がなく、外国の主張する低い税率を飲まされていました。
安い輸入品が大量に入ってくることは、日本の近代産業育成に大きな障害となっていました。
ひとつの国が結んだ条約の有利な条件は、他国も日本に要求出来ました(最恵国待遇)。
近代国家として自立するためには、不平等条約は何としても改正しなければならない・・・!!
歴代の外務大臣は、改正に力を注いできました。
しかし、欧米列強は、議会や法律が整っていない日本は、まだその段階にないと判断。
日本は幕末以来の不平等条約を改正できないでいました。

ワシントンへの着任早々、陸奥は条約改正への足掛かりとなる交渉に取り組むことになります。
メキシコ公使・ロメロが接触してきました。

「メキシコには日本と条約を結ぶ意思がある
 そちらの意向はどうか?」byロメロ

条約締結に積極的なロメロに対し、陸奥はこう告げました。

「日本は、対等条約でなければ締結しないつもりである」by陸奥

陸奥は交渉に当たって、対等条約を前提としました。
引き換えに提示したのは、内地開放でした。
日本国内を自由に通行し、商売ができる内地開放は、諸外国に大きなメリットがありました。
この条件で、メキシコと条約を結ぶことで、欧米列強が追随してくることを狙っていました。

「列強に先んじて領事裁判権撤廃に踏み切るのは心配だ」byロメロ

「それは杞憂に過ぎない
 日本に好意的なアメリカなどは称賛するに違いない」by陸奥

と、巧みに説得します。
日墨修好通商条約締結!!

メキシコ人は、日本で居留地以外に住むことが許されるが、そこでは日本の法律に服することが求められる!!
領事裁判権がなく、一方的な最恵国待遇もない・・・関税についても、メキシコと対等な内容で税率が設定されました。
初の対等条約の締結という輝かしい栄光を手に、陸奥は次なるステージに踏み出していきます。

1892年、伊藤博文を首班とする第2次伊藤博文内閣成立!!
陸奥は外務大臣に抜擢されました。
就任早々、陸奥はヨーロッパに派遣していた外交官から報告を受けました。
”ポルトガル政府は、新たな条約について談判を開くため、日本公使が来訪するのを待っているそうです”
もし、ポルトガルに、今までの条約を破棄し、新たな条約を結ぶ意思があるならば、メキシコ同様対等な条約にできるかもしれない・・・
ポルトガルは、ヨーロッパの一員・・・これは大きな一歩となる!!
陸奥は、早速公使をリスボンに派遣して交渉に当たらせます。
ところが・・・現地からもたらされたのは、ポルトガルに新条約締結の意思はないという、全く正反対の報告でした。
一体何があったのでしょうか?
在日イギリス公使が本国に送った報告書からは、交渉の背後で列強が様々な思惑で動いていたことが分かります。
”ポルトガルが新条約で内地開放の特権を独占することは、列強の足並みを乱す
 現にイタリア公使は、本国に要請して、これ以上のポルトガルの行動を思いとどまらせると示唆している”

その後、イタリアだけでなく、フランスも介入したことで、ポルトガルとの交渉は暗礁に乗り上げました。
陸奥は、改めて条約改正の難しさを知ることになります。

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陸奥のもとに予期せぬ知らせが入ります。
ポルトガルと日本の交渉を受けて、イギリスが条約改正に前向きな姿勢を見せ始めたのです。
イギリスとの交渉は、これまでも進展を見せていました。
1889年に大日本帝国憲法発布。
日本の司法制度や法律が整備され始めたことは、イギリスでも条約改正の機運を高めていました。
憲法発布の翌年、当時の青木周蔵外務大臣は、関税には手をつけず、内地解放と引き換えに領事裁判権を撤廃と、イギリスからもいい感触を得ていました。
ところが、正式な交渉に臨む前、来日していたロシア皇太子が警備の警官に襲われるという大津事件が発生!!
青木が責任を取って外相を辞任したことで、交渉は打ち切りとなっていました。

そのイギリスが、再び条約改正に前向きになった!!
どのような戦術で交渉に臨むべきか??
段階的改正??それとも??対等条約??

大きなきっかけとなったのは、1886年のノルマントン号事件でした。
難破したイギリス船からイギリス船員だけ非難し、日本人乗客が全員水死した事件・・・
領事裁判で船長に無罪判決が下されたことで、不平等条約撤廃の世論が高まります。
1889年には、外国に大幅に譲歩をしようとした大隈重信に対する爆弾テロ事件が発生!!
交渉自体が中止に追い込まれていました。

1893年7月5日、陸奥、内閣に条約改正草案を提出
そこには、”両国が互いに同一の基礎をもって成り立つ対等条約である”と記されていました。
陸奥の選択は、対等条約を掲げることでした。
しかし、この大胆な路線変更は、政府の中で論議を呼びます。
文部大臣の井上毅は、3日後の閣議で陸奥にかみつきます。

「対等と言っても、税の部分については日英同一にはならないはずだ
 それを対等条約を称するのは、実態にそぐわない
 誇大な表現は有害無益ではないか」by井上毅

陸奥も即座に反論します。

「西洋諸国の条約でも、特定の物品について交渉で税率を決める例はあるが、それは対等でないことを意味しない
 数年後に発行する対等条約と、過渡時代のための条約、諸君はどちらを欲するのか?」by陸奥

一時的な過渡的な不十分な案で行くのか?
それとも対等な条約を目指すのか??
対等をプラスのシンボルにしました。

こうして陸奥は、政府内を説得した上で、元外相・青木周蔵を交渉役に任命し、イギリスでの事前交渉に臨ませました。
ところが、思わぬ壁が立ちはだかります。
国内では当時、外国人への暴行や侮辱が多発し!!
内地開放によって、外国人が自由に往来することへの国民の恐怖は、陸奥の予想をはるかに超えていました。

こうした国民感情に応じて、議会では外国への強硬政策を唱える対外硬派が勢力を拡大。
条約改正について独自の強硬案を提出するに及びました。
日本の排外感情の高まりに、イギリスは強く反発・・・交渉の中断を表明し始めました。
このままでは、悲願の条約改正が頓挫しかねない・・・陸奥は、議会や国民に強く訴えかけます。

1893年12月29日、自ら演壇に立ち、対外硬派を批判する大演説を行いました。

「外交政策というのは、多くの場合、国民の気性を反映するものであります
 幕府は、鎖国攘夷の気風に影響されて、外国人との接触を制限する方針を執りました。
近年の対外硬派の動きは、維新以来我が国が目指す開国の国是に反するもので、政府には断固としてこれを排斥する責任があるのです!!」

12月30日、これに応じ、首相の伊藤が議会を解散
日本政府として断固立つ決意を示した陸奥と伊藤の姿勢は、イギリスに大きな影響を与えます。

「現在の日本で最も有力な人材はことごとく政府に集中している」

このような強力な政府に対し、

「我々は対等な権利を得、かつ与える様な構成な提案を行ったが、一顧だにしてもらえなかったと言わせるようなことがあれば、日本は完全に排外主義へと統一されてしまうだろう」

1894年4月、イギリスは日本との正式な交渉のテーブルに着きました。
交渉が始まると、陸奥は条件面での交渉はほぼ青木に任せ、その忠告に積的体に従いました。
そして、1894年7月16日、「日米通商修好条約」調印。
この条約で、領事裁判県は撤廃、関税自主権は持ち越しとなりました。
対等を掲げたものの、結果的には段階的改正にとどまりました。
しかし、陸奥の結んだ新条約は、条約改正の歴史に大きな風穴を開けました。
その後、他の欧米諸国とも改正条約を調印。
そして、1911年には関税自主権を回復!!
日本は、条約の上で列強と対等の地位を獲得しました。
幕末の不平等条約から、実に半世紀の道のりでした。

神奈川県大磯・・・晩年の大隈が過ごした別邸が残されています。
国民や議会の強硬意見に外務大臣として対峙し続けた陸奥・・・
その激務は、もともと肺に持病のあった体を確実にむしばんでいました。
晩年、陸奥は、療養生活を送る傍ら、外交の在り方を国民に啓蒙すべく最期の力を振り絞りました。
死の1年前・・・陸奥は、1冊の雑誌を創刊させました。
題して「世界之日本」・・・その第1号の巻頭論説で、陸奥はこう記しています。

「外交を支えるのは武力ではない
 国民外交上の知識である」

国民が、外交に関する知識を持つことこそ重要である・・・
この言葉に、陸奥はどのような思いを込めたのでしょうか??

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江戸幕府15歳将軍・徳川慶喜・・・在任期間はわずか1年足らずで、歴代で最も短かったものの260年に及んだ江戸時代最後の将軍です。

1837年9月29日・・・
江戸・水戸藩上屋敷でひとりの男の子が生まれました。
後の慶喜です。
父親は、水戸徳川家九代当主斉昭、母親は有栖川宮家の吉子でした。
父・斉昭の教育方針により、慶喜は生後7か月で水戸にうつされ、これ以後、天皇を尊ぶ尊王学など英才教育を受けて育ちます。
そんな慶喜に、斉昭は大きな期待を寄せ、こう語ったといいます。

「天晴な名将となるか さもなくば 手に余るようになる」

1847年、慶喜が10歳の時、大きな転機が訪れます。
一橋家から養子の申し出が来たのです。
東寺の一橋家は、11代将軍家斉、12代将軍家慶を輩出した最も将軍職に近い家柄で、慶喜は将軍後見職などの幕府要職を歴任することになり、26歳の時朝廷の対応に当たるため京都に赴き、幕府の代表として幕末混乱期の政局に手腕を発揮しました。

14代将軍・家茂が亡くなると・・・
1866年12月5日、京都にいた慶喜がそのまま15代将軍となります。
就任当時の幕府は、度重なる政策の失敗で、指導力を失い、存続の危機に瀕していました。
弱体化した幕府を強化するため、慶喜がまず行ったのが、軍事改革です。
特に海軍力に力を入れ、国内最大級となる開陽丸など、海外から軍艦を購入し配備しました。
さらに、暗礁に乗り上げていた外交問題にも着手します。
兵庫の開港を求める欧米列強に対し、朝廷は京都に近いという理由から強く反対し続けていましたが・・・慶喜は朝廷を説得して将軍就任わずか半年で開港の勅許を得ます。
各国の大使はそんな慶喜の手腕を高く評価しました。

就任から次々と成果を上げていく慶喜でしたが、この後、わずか半年ほどの間に3度の大きな決断を迫られることになります。
最初の決断は、将軍就任からおよど10か月後の1867年10月14日、大政奉還です。
当時、国内には、幕府政治に疑問を抱き、武力で討幕を目指す(武力討幕)者がいました。
最も積極的だったのが、薩摩藩です。
下級武士名から、反の実権を握っていた大久保利通や西郷隆盛は同じ討幕派の長州藩と手を結び、イギリスから武器を購入するなどして倒幕に向けての準備を着々と進めていました。
一方、同じ討幕でも平和的に政権を移そうと考えていたのが山内容堂率いる土佐藩です。
彼等が掲げたのが、大政奉還論でした。
①幕府は政権を朝廷に返上
②議会を設置
  徳川慶喜も諸侯の一員として参画
といった武力に頼らない討幕を目指したのです。
そんな中、1867年6月22日、京都で土佐の後藤象二郎・坂本龍馬と、薩摩の大久保・西郷らとの間で話し合いがもたれます。
強硬姿勢を崩さない薩摩に対し、挙兵を思いとどまらせようとする土佐・・・
話し合いは、平行線のまま終わるかに見えました。
しかし、一転、大政奉還で合意に至ったのです。
薩摩藩は、どうして態度を変えたのでしょうか?

10月3日、慶喜に土佐藩から大政奉還の建白書が出されます。
しかし、その裏で、薩摩の大久保らも動いていました。
あくまでも武力討伐にこだわる彼等は、公家の岩倉具視と組み、朝廷から慶喜討伐の密書を出してもらう用画策。
すると、10月14日、朝廷は、薩長の藩主に慶喜の討伐を命ずるという「討幕の密勅」を出したのです。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を討て!!
待ちに待ったこの日に、薩摩藩の指揮は一気に上がりました。
しかし、同じ日・・・慶喜は、周囲の予想を裏切り、自らあっさりと大政奉還をしてしまうのです。

「このままに持ち堪えんとすれば無理ばかり多くなり、罪責はますます増加
 遂には奪わるるにも至るべきは必然と見切り申候」

慶喜の中では、幕藩体制の維持は不可能と考えていました。
内乱や外国の介入を阻止するために、大政奉還が一番いい方法だと考えたのです。
朝廷はずっと政治を担っていなかったので、慶喜に頼ざらるをを得ないとも考えていました。

大政奉還からわずか2か月後の12月9日・・・慶喜は、再び大きな決断に迫られます。
武力討伐の中止を余儀なくされた大久保らは、新しい体制となってもなお慶喜が主導権を握るのではと脅威を感じていました。
そこで、古い政治体制をすべて打ち壊すしかないとして・・・
12月9日明け方・・・西郷の指揮のもと、薩摩藩を中心とする兵が、御所の門を完全封鎖し、明治天皇が臨席する中で討幕派主導のクーデターが起きます。
世にいう王政復古のクーデターです。
徳川幕府の廃絶と、新政府の樹立が宣言され、政権運営は新たに創設された三職(総裁・参与・議定)によって行われることが決定しました。
総裁は、今の総理大臣に当たり、議会を統括する役職で、有栖川宮熾仁親王が就任。
議定は上院議員で、皇族や公家、藩主から。
参与は下院議員で、下級の公家や藩士から選ばれました。
しかし、この新政府メンバーに、慶喜の名はありませんでした。

王政復古のクーデターが決行されたその日の夕方、京都御所で新政府による初めての会議が行われました。
議題は、慶喜の処遇です。
この時、新政府内は、旧幕府の徹底排除を求める討幕派と、旧幕府との融合を主張する公議政体派に分裂し、会議は紛糾します。
慶喜に対して最も厳しい条件を突き付けたのは、討幕派の大久保らでした。

「慶喜公からは、内大臣の官位を剥奪し、徳川家の領地800万石を没収し、それを新政府の資金に当てましょう。」

これにたいし、公議政体派の山内容堂が反対の意を唱えます。

「大政奉還という大英断を下した慶喜公こそ、新政府に必要な人物!!
 相応の役職に、迎え入れるべきだ!!」

領地没収に関しても、徳川家だけというのは不公平だと反論し、話し合いは夜中まで続きました。
しかし、最終的には、討幕派が押し切り、慶喜の官位剥奪、領地没収が決定してしまいました。
政権を返上し、諸侯の一人となった慶喜でしたが、元将軍であり、徳川家の当主としての求心力は健在・・・!!
さらに、反幕府派の中からも、大政奉還を好意的にとらえる勢力が現れ始めます。
多くの公卿たちも同調し始めたことで、慶喜を擁護する勢力が勢いを増していきます。
そんな中、旧幕府を支持する会津藩と桑名藩が、御所に向けて出兵!!
討幕派を一掃すべしという声をあげました。

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王政復古から3日後の12月12日・・・
慶喜は、家臣たちの暴発を避けるために、会津、桑名の軍勢を引き連れて京都から大阪城に移ります。
経済的にも軍事的にも重要な大坂を抑えることで、新政府にプレッシャーを与えようと考えたのです。
この選択が、自分自身の運命を大きく帰ることとも知らずに・・・!!

翌日、倒幕派の大久保と岩倉との間で、慶喜の処遇について話し合いがもたれ・・・
岩倉は、二つの案を提示します。
①強硬案・・・薩長の軍事力を背景に、このまま強硬路線を貫くというもの
②妥協案・・・慶喜が、官位剥奪と領地没収を飲むなら、議定職への就任を認めるというもの
強硬な姿勢を貫く大久保らは、新政府内で孤立しつつあり、妥協案で合意するしかありませんでした。
その後の合議の末、慶喜は

①内大臣を辞して”前内大臣”と称す
②領地没収の撤回
③議定職就任

慶喜の思惑通り、新政府に迎え入れられることとなりました。

王政復古のクーデターのおよそ1か月後・・・慶喜は最後の決断を迫られます。
大久保や西郷ら討幕派の勢いは、この頃風前の灯となっていました。
同盟を組む長州藩でさえも、薩摩の行動は理解しがたいと離れて行ってしまったからです。
孤立を深めていく中で、大久保は覚悟を決めます。
「もはや、薩摩一国となっても一戦交えるまでだ!!」
そんな中、慶喜の議定職就任が決定した翌日の1867年12月25日・・・
旧幕府から市中取り締まりを命じられていた庄内藩が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が勃発します。
薩摩浪士たちが江戸で、強盗や放火を繰り返し、幕府を挑発していたことに対する報復でした。
藩邸を襲われた薩摩は、一気に戦闘態勢に!!
一方、焼討事件を知らされた大坂城でも、会津・桑名の藩士たちが武力行使を訴えます。
慶喜が、暴発を抑えようと必死になるものの・・・
薩摩を倒すべきという声が上がり、機運の高まりはもはや慶喜にも抑えられなくなっていました。


「いかようにも勝手にせよ・・・」

慶喜は、薩摩討伐を決意し、署名します。
五か条の「討薩の表」には、こう記されていました。

”王政復古以来、朝廷のふるまいは、薩摩藩の陰謀によるものである
 薩摩の引き渡しを求める”

あくまで薩摩藩を相手に戦うことが目的でした。

1868年1月2日・・・江戸から脱走した薩摩藩士の捕縛を命じられていた開陽丸の艦長・榎本武揚は、4隻の軍艦と共に大坂湾にいました。
すると、脱走した藩士を乗せた薩摩藩の艦船3隻を発見し、ここに戦いの火ぶたが切られます。
日本初の洋式海戦の勃発(阿波沖の海戦)です。
旧幕府軍・開陽の圧倒的な勝利の前に、薩摩の2隻は敗走・・・1隻は逃げきれずに自沈しました。
旧幕府軍は、海上戦で圧勝・・・慶喜が行ってきた軍事力強化がここで実を結んだのです。
海上戦が始まったこの日、陸上では、旧幕府軍が”討薩の表”を朝廷に提出するため大坂城から京を目指し北上していました。
二手に分かれた軍勢は、3日、鳥羽と伏見に到着します。
一方、薩長両藩も、鳥羽と伏見に布陣し・・・旧幕府軍を待ち伏せていました。

1868年1月3日、午後5時・・・4日間に及ぶ戦いが始まります。
鳥羽で旧幕府軍が隊列を組み強行突破を仕掛けると、新政府軍の銃砲が一斉に火を噴きました。
不意を突かれた旧幕府軍は大混乱に陥り、容赦なく浴びせられる銃弾に、歩兵は次々と倒れていきました。
鳥羽から聞こえた銃声を合図に、伏見でも戦闘が始まりましたが、戦況はこちらも同様新政府軍が優勢となりました。
新政府軍の方は、指揮官たちの巧みな戦術のもと、着実に作戦を遂行していたのですが、一方の旧幕府軍は、精鋭部隊のほとんどが江戸にいて、各部隊の命令系統はバラバラ・・・
兵の中には農民もいるなど、寄せ集めの軍隊だったのです。
翌4日になっても、旧幕府軍の劣勢は変わらず、後退を余儀なくされていきます。

鳥羽伏見の戦いのおよそ3か月前・・・
討幕派が集まって、密議が重ねられていました。
岩倉具視が中心となって、幕府軍と武力衝突が起きた際の、戦局を有利に運ぶためにはどうすればいいか??作戦が練られていました。
彼等が、切り札としたのは”錦の御旗”でした。
鎌倉時代に、朝敵を退治する戦で使われた朝廷の軍隊を象徴する旗で、その後は使われなくなり文献にしか残っていなかったのですが・・・
岩倉は、これを復活させ利用しようと提案したのです。
大久保は、早速、錦の布を買いに行かせ、それを長州藩士に渡し、西陣織の職人によって極秘裏に作成されました。

鳥羽伏見の戦いが始まって3日目・・・
新政府軍が掲げた”錦の御旗”が前線に翻りました。
これにより、慶喜は天皇に歯向かう朝敵となってしまったのです。
御旗の効果は絶大でした。
朝敵となることを恐れた諸藩は、次々と新政府側に寝返っていきました。
慶喜は、前線で戦う兵士の士気を高めるため、大坂城でこう演説します。

「たとえ、千騎が一騎馬になろうとも、決して退くな!!
 大坂が破れても江戸がある!!
 屈してはならぬ!!」by慶喜

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、慶喜はわずかの供を連れて大坂城を脱出・・・
この日、城で慶喜に拝謁した軍艦奉行の浅野氏祐は、直筆として1枚の紙を渡されたといいます。
そこには、慶喜と共に帰還する者の名と共に、戦場に残す者たちの名があり、それは、主戦論を強硬に唱えていた重臣たちでした。
慶喜は、なんと彼等に戦の責任を取らせることにして、大坂城から逃げたのです。
兵を鼓舞したすぐ後に、どうして大坂城を脱出したのでしょうか?

「これ以上、大坂城に滞在すると、ますます過激論者を刺激してしまう
 自分さえいなくなれば、激論も沈静するであろう
 私は江戸に戻って恭順の姿勢を貫き、朝命に従うつもりだ」

鳥羽伏見の戦いを早期に集結させるために江戸にもどると説明しています。
しかし、実際は、錦の御旗が出て、自分が朝敵になった事が大きかったのです。

1868年1月6日、午後9時・・・慶喜は、わずかな供を連れて大坂城の裏門から抜け出しました。
その際、慶喜はお小姓を装い、城門の衛兵の目をくらましたと言われています。
そして、八軒屋の船着場から、小舟で川を下り、沖に向かったのですが・・・
闇夜でもあり、大坂から離れた西宮周辺に停泊していた徳川家の軍艦を見つけることはできませんでした。
そこで、アメリカ大使に依頼し、夜が明けるまで軍艦に乗船させてもらうことにしました。
翌朝、慶喜一行は、開陽に乗り込んだのですが・・・館長の榎本武明が、大坂城に行っていて船にいなかったため、乗組員たちに出航は無理だと言われてしまいます。
しかし、慶喜は、半ば強引に説き伏せ、江戸に向かわせました。

大坂城脱出から5日ご・・・開陽は、品川港に到着・・・
江戸にもどった慶喜は、恭順の姿勢を示すために、もう一度戦を仕掛けようという声をかたくなに拒否しました。
そして、自ら徳川の霊廟である上野の寛永寺に入り、謹慎のみとなることで政治の表舞台から去っていきました。
その後、謹慎場所を水戸へと移し、
1868年7月19日、戊辰戦争による治安悪化を理由に駿府へと向かいます。
謹慎場所は、徳川家ゆかりの宝台院でした。
この時、慶喜の元を尋ねた旧幕臣の渋沢栄一は、将軍の時とあまりにもかけ離れたその暮らしぶりに涙したといいます。
1869年9月28日、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の終結を受け、慶喜の謹慎はようやく解かれます。
この時、32歳でした。

この後、一市民として、狩猟や釣りなどから洋画や刺しゅう、自転車を買ったり、カメラを使ったり・・・様々な趣味に没頭しました。
1913年11月22日、慶喜は76年に及ぶ波乱に人生を終えました。
歴代の将軍が眠る寛永寺でも、増上寺でもなく、自らが購入した谷中墓地で静かに眠りについたのです。
一市民として・・・!!


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幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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副題は、「戦の鬼」なんですが・・・遂に、人の良い西郷どん、戦の鬼になるんでしょうか?

大政奉還をしてしまった慶喜・・・その予定外の行動に、焦る西郷。
武を以て徳川を潰そうと・・・そして、新しい国を作ろうと考えます。
が、なんか、龍馬と考え方が合わなくなってきたようです。
袂を分かつ・・・??

そんな話をしている二人が、何にもキンチョー感がありません。
腹が減ったのか??と、カステラを差し出す龍馬って・・・。
なんだかなあ・・・食べもん出さんと気が済まんのか・・・??

一人になっても討つとかいいだした西郷どん・・・そこまでのいきさつが全くわかりません。
物思いにふけって話しているのかもしれないけど、眠そうな西郷どんです。
「国のかたち」について語りあかそうと思っていたのに・・・と席を立つ龍馬。
この国のかたちは、司馬遼太郎さんに語らせてあげて!!

don















世の中は、ええじゃないかでした。
京都はもっと殺伐としてるんじゃないの??
これ以降、龍馬は吉之助と会うことはありませんでした。

倒幕のために、兵を上洛させるように・・・と、薩摩にいったん戻る吉之助。
なんだか、久光もやる気のようです。
実際の久光は違うと思うけどね・・・いや、絶対に違う!!。

で・・・西郷家では赤ちゃんが生まれていました。
・・・こういう家族パート、もう要らないでしょ??
しら~~~!!って目で見ちゃうわ。

その頃、近江屋では・・・中岡慎太郎と坂本龍馬!!
風邪か?くしゃみをする龍馬・・・って、こんなところは細かくやるんだ・・・シラケちゃうわ・・・。
軍鶏を買ってくるところも史実通り・・・。
いきなり斬りつけられて龍馬、絶命!!

なんだか・・・あっさり死んでしまった・・・。
なんの志があったのか?
この国をどうしたかったのか??
全く解らずの龍馬でした。

どうしてここまで盛り上がらない龍馬暗殺なんでしょう??
クサいまでの演出があってもいいぐらいの見せ場なんですけどね??
この人が描けば、池田屋事件の沖田総司もドラマチックに吐血しないんだろうか??

3000の兵と共に京に来た吉之助は、初めて龍馬の死を知るのでした。
というナレの途中で、耳障りな女性の声が・・・。
お龍だ・・・。

don2















「あんたがうちの人を殺したんやろ!!」byお龍
じたばた、ヒステリックに叫ぶお龍・・・
もうやめてくれ・・・こんな展開・・・!!

私は幕末のカッコいい女性を3人挙げろというなら・・・
桂小五郎の幾松、山本八重子(八重の桜)、そして坂本龍馬の妻・お龍です。
山本八重子は八重の桜であったように、男勝りに鉄砲担いで戦ったカッコいい女性ですが・・・
幾松とお龍は、あげまんというか・・・
国家を背負って戦う男に惚れてしまった女性として、支えて、支えて、そして、見苦しい真似は絶対にしない・・・
肝の据わったカッコいい女性と思ってきました。

なんだよ・・・このお龍・・・龍馬を好きになる資格なんてないわ・・・
頭おかしくなったんか・・・??
ええじゃないか踊るお龍を鼻で笑ってしまった・・・どうでもええわ・・・。

大政奉還によって村を出ることを許された岩倉は、京都に戻ってきました。
呑気な岩倉具視にももう嫌だ・・・。
西郷&大久保は、そんな岩倉具視を使って慶喜を丸裸にするそうです。

なんだかいきなりな展開!!

何かわからない方はこちらを!!

いきなり鬼になる吉之助・・・これまた意味が解らない・・・。

岩倉具視も正装してどこか??へやってきてますが、何をしているのかがさっぱりわからない。

don3















あ・・・天子様の前か・・・何かわからないことは「王政復古の大号令」でした。
なんか・・・なんでこうなったんか、全く説明してくれないので、わかんないわよ・・・。
ただでさえ難しい時代背景なのに、教えてくれなければ全くわかりません。
解らんでもええってことか・・・

だから、わからない方はこちら

「西郷が御所門前に立っているから殺るなら今しかない!!」と言い出す容保・・・。
そんなの一々、慶喜の許可いんのかい??
でもって、「西郷に銃を向けるのがどういうことか解っているのか??」と言う慶喜・・・。
向けたらどうなるんだよ??
う~ん・・・朝敵となるらしいわ・・・。
錦の御旗は・・・??
錦の御旗で朝敵となったんじゃないの??
御所に銃を向けることは出来ぬと・・・朝敵だけにはなりたくないと慶喜・・・あ・・・ここだけあってる。

で・・・「短刀一本あれば事足りる・・・」も、あってるわ・・・。

don4















こんな、嘘っぱちの話の中に少しのホントを入れられても、なんだか真実味がなくって困っちゃうわ・・・。

小御所会議もなんだかわからないうちに終わっちゃったわ・・・。
もっと、いろいろ策していただろうになあ・・・。

いきなり気がおかしくなった慶喜登場!!
なんと、そこには西郷がいました。
刺される慶喜・・・なんと、夢落ちでした。
なんだよ・・・この三文芝居は・・・。

しゃべらなくなった西郷は、重い人間を表現したいんかな・・・そうそう、戦の鬼を表現したいんかな・・・??
変な笑みを浮かべたり、ウオー!!とか、エイエイオー!!とかで誤魔化して、小御所会議終了。

慶喜が京都から大坂に逃げたことが判明!!
すぐに戦を始める手はずはもう、整えている西郷だそうですが・・・。
その手はずを細かくやれよなあ・・・。
全く解らんわ。

薩摩の挑発に業を煮やした庄内藩が薩摩藩邸に火を放ったと・・・そこだけナレ!!
なんだよ・・・庄内藩、悪モンじゃん・・・。

年が明け・・・
戦の鬼になっている吉之助が気に入らない信吾です。
う~ん・・・これまでもイケイケの信吾だったし、これからも史実ではイケイケどんどんの信吾なのにね・・・。

「必ず勝つ!!」by慶喜

いきなり言われてもなあ・・・何の脈絡もなし!!

「慶喜さま・・・本当は西郷さまが怖いのではありませんか・・・??」とフキに言われて、逆切れする慶喜ですが・・・。
ま、逆切れするわな・・・そんな無礼な女に・・・!!??

う~ん・・・本当に、どうして戦っているのか??何をしているのか??全く解りません。

信吾・・・薩摩隼人だろ・・・!!
どんな手段を使ってでも慶喜を追いつめるという吉之助。
お・・・薩摩御用盗を認める吉之助。

「戦の鬼になってしもた・・・西郷どん・・・」byナレ

今回も、何が何だかわからない回でした。

そういえば・・・先日、娘とこんな話をしました。
「ママ、光源氏って、そんなにカッコよかったんかなあ・・・??」by娘
「??そうやなあ・・・大沢樹生でママと同級生やし、年下ばっかりやし、興味なかったなあ・・・」by私
「??違うで!!源氏物語やで??」by娘
あ・・・娘は、古典のテスト勉強中でした
「あんたがジャニオタやから・・・ゴメンゴメン・・・
 でも、めっちゃ、イケメンやったん違う??
 モデルはたくさんいて、いいところをとったみたいよ。
 そのうちの一人が「この世をば~」の藤原道長ともいわれてて、道長はこの源氏物語を政治に利用したんやで~~!!
 あ・・・ごめんごめん、テストやからな・・・これ以上は言わんとくわ。
 勉強し~~!!」by私
「でも、小さな女の子を自分の理想に育てるって気持ち悪いな~~!!」by娘
「??そんなことないよ。
 この時代は、親子や親族で結婚したり、めっちゃ年の離れた人にお嫁に行ったり、恋文が人生のすべてだったり、フラれて食べ物が喉を通らなくなって死んじゃったり・・・今とは違うんよ、常識が!!
 だから・・・この時はこれが常識で真実なんよ。
 ほら、宮崎駿も言ってたわ。
 『何か一つ嘘を入れようと思う(この時はポニョ)と、全てを真実に書かないと、全てがウソになってしまうって!!』
 特にトトロなんか、いてると思うやろ~~??」by私

と言ったんですが・・・それを言っている途中で腹が立ってきて、テスト勉強中の時間の惜しがっている娘に言ってしまいました。
「だから、西郷どん嫌いやねん!!
 大体、あの当時の女の人、あんなしゃべり方やったなんて・・・すべてが興ざめなんよ~~~!!
 ムキ~~!!」by私

娘は「またなんか言ってるよ・・・」と、あきれていましたが、そうなんですよね。
殆どウソの「西郷どん」の中に、今回もいくつかのホントがありました。
でも、そのホントも嘘くさくなってしまっています。
そして、ホントにしてほしいウソ(ポニョ)は、西郷どんの豪傑さ、清濁併せ呑むところ、大久保の頭の良さ、お龍の粋な感じ、慶喜の冷静な感じ・・・
そこは嘘でもいいから全部カッコいい感じに仕上げて欲しかった・・・。

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【戊辰戦争の出来事が時系列でわかる】その時、幕末二百八十二諸藩は?『戊辰戦争年表帖』鳥羽伏見戦~箱館戦争の同時進行・多発戦を追う

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慶応2年6月・・・世に言う第二次長州征伐が始まりました。
幕府は十万の兵を率い、僅か3500の兵で長州に襲い掛かったのです。
ところが、長州は薩摩から入手した最新鋭の武器で、紀州をしかけ、数で勝る幕府軍に次々と勝利していきました。

と、ナレーションが始まりましたが・・・
ほんと、長州の味方ですよね??
”幕府は十万の兵を率い、僅か3500の兵で長州に襲い掛かったのです。”って、テロリストは長州でしょ??

と思っていたら、簡単に長州軍の勝利・・・の途中で、いとも簡単に将軍・家茂が亡くなったのでした。
窮地に立たされた幕府は、休戦に持ち込まざるを得なくなり・・・

下品な岩倉具視が喜んで・・・そのおんぼろ岩倉邸に来た吉之助はまたもや網に足をすくわれ、罠に引っかかってしまうという、全く緊張感のない幕末が始まりました。

なんだよ・・・これ・・・??
で・・・??なんで勝海舟がここにいんねん??
家茂死んだのに、目が回るほどいろいろすることあるだろ??

全く理解不能な「西郷どん」が始まりました。

楽しそうに岩倉邸で歓談してますわ・・・
西郷、大久保、勝、岩倉が・・・!!
なんだかゲンナリ・・・
長州に一人で乗り込んでいったことを話し出す勝・・・。
って、一人で乗り込むの好きだよね??この大河!!
タイマンはるのがカッコいいと思ってるのかな??って思う。
それなら本宮ひろしを推薦するよ・・・??

「これで幕府も終わりだ・・・」なんて悲しい言葉が勝さんの口から出てしまいました。

勝さんはホントはこんなこと考えてましたよ??
「江戸城無血開城 勝海舟の知略」はこちら
この文章をそのまま読んだ方が面白いので、読んでみてください。
ほんと、ここに出てくる人たちはどうしてもがいてくれないのかなあ・・・
徳川260年が終わるんだよ??
人の考え方なんて、おいそれとは変わらない・・・生みの苦しみを・・・もがいてくれ~~!!

その頃、慶喜は孝明天皇のもとへ・・・
信頼されているようですが・・・これは松平容保に・・・やっぱり容保だろ~~~!!

いきなり咳出す孝明天皇、やっぱり崩御!!

慶喜は、徳川15代将軍となりました。
フランス公使ロッシュと会談し、フランスの後押しをお願いします。

天皇崩御で気が狂ってしまう岩倉具視。
岩倉具視が暗殺したって説もあるのに・・・
「じゃかましわ!!」って御下品です。
やめてくれ~~!!品格落としたいんか??

雄藩諸侯を巻き込んで、始まるんですが・・・
雄藩諸侯を巻き込もうとしている薩摩ですが、そこら辺のことが全く理解できないほどの演出です。
地図を出すとか、系図を出すとか・・・

総代をしてほしいと言われ喜ぶ久光もアホっぽくって嫌だ・・・

テロップで前藩主とかって出てくるけど、政治的なあーだこうだが全くドラマでやってくれていないので、幕府が終わったのかどうかもわかんない・・・「そうだっけ???どうだっけ??」って思っちゃう。
それだけ大政奉還の影が薄いってことだし、王政復古の大号令も薄いからなんだろうなあ・・・。
心が揺さぶられていない・・・感動していない証拠だよ・・・全く。

で・・・いきなり四候会議。

いきなり慶喜登場で、写真を撮ると言い出しました。
俳優さんが言葉は発しているものの・・・何を言いたいのか全く分からない・・・。
そう、もう2回目なのに・・・なんで理解できないんだ・・・。

「余はもはや一橋ではない。征夷大将軍・徳川慶喜だ・・・」と、カメラの横で言って緊張感ZERO~~!!
おまけに、吉之助たちは将軍にしたかったのに・・・なったことさえ知らなかったのか??ビックリ!!です。

??会議しろよ~~!!

おまけに、2週間以上も会議はしたのに慶喜の根回しによって惨敗・・・って、久光のあほ顔をを見せられてもなあ・・・。
こんなとこにも品は皆無!!
それに、根回しってなによ、根回しって!!
山内容堂も、松平春嶽も、一応思想はあるんですよ!!
大政奉還をさせたのは、松平容堂(坂本龍馬、後藤象二郎)だし、松平春嶽も賛同していました。
彼等はやっぱり幕臣です。
なので、慶喜の根回しっていうより、やっぱり徳川方の人間なんだと思うんですけど・・・??

don2















大阪城ではパークスと慶喜が何だか交渉しています。
「女王陛下に乾杯!!」by慶喜
そんなこと、どうでもいいんだよ・・・
こんな諸外国との交渉で、復権しているらしいわ・・・
諸外国はそんなに甘く無いわよ・・・

そして・・・フランスに薩摩の割譲するという情報を盗み聞きするフキ・・・そんなバカな!!
でも、そんなバカな!!は、まだまだ続きます。

困った人の多い京都で江戸前のウナギを食べるみんな・・・
春奈の「西郷はん」のイントネーション、気持ち悪いねん・・・。

そんなところへやってきたのは、きれいなベベ着たフキでした。
「フキどん・・・」って、将軍様の妾なんだから、お芳様・・・ぐらい言ったらどうなの??いつまでフキやねん!!
春奈の京都弁も最悪・・・品が無いわ・・・
フキと吉之助、何暢気に話とるねん・・・。
お虎だけでもゲンナリなのに、フキの登場って白々しい・・・もう、辟易だ・・・。
「あの方が心配でお傍を離れられません・・・」って殊勝なこと言ってるフキですが、お前、お傍を離れて外出しとるやんけ!!

薩摩を割譲するって吉之助にチクるフキですが・・・
敵にそんなこと言っていいんかい??
それも、あんた、英語解るんかい・・・!!

イギリスも、薩摩に武器弾薬を提供してくれるらしい!!

そうね・・・この頃、アメリカで南北戦争が終わり、世界は武器弾薬が余っていました。
なので、日本を狙っていたんですよ~~!!
でも、日本で何とかするとイギリスに言う吉之助でした。

don3















「もう・・・腹をくくるしかなか・・・!!
 武力をもって、徳川を討つ!!」by吉之助

という吉之助、それに賛同する大久保利通です。

つまり、慶喜が薩摩をフランスに切り売りするってフキに聞いたから、徳川をぶっ潰そうということになったんですね・・・この大河!!

でもって、「討幕の密勅」に至るのでした。

なんか・・・鶴瓶の岩倉具視、大阪弁丸出しなのも嫌だけど、腹が座っていないのがもっと嫌!!
この頃のお公家さんは、結構武闘派も多く、吉之助から討幕の密勅や戦を聞いても腰抜かしたりせんわ!!
と、私は思う。
偽勅ですよ~~!!

長州藩、正規の兵を連れて上洛!!
その他の藩も・・・参戦!!
いよいよ戦いが始まりました。

みんな、今まで通り、「戦わずして勝つ!!」だろ??なんて言ってますが・・・
お前たち・・・薩摩隼人だろ・・・!?

そして、土佐藩も・・・??
いえいえ、龍馬は戦をしないで幕府を潰そうと考えていました。

突然1867年10月13日、京にいる10万石以上の重臣が二条城に招集されました。

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????これが二条城??
小さくないかい・・・??
え・・・??大政奉還、まだしてなかったんかい・・・??
いきなり”ええじゃないか”です。
何がいいんだか・・・。もっと大政奉還見せてくれよ~~!!

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大政奉還を喜ぶ龍馬・・・
「やっぱり坂本さんやったか・・・!!」by吉之助
これで日本中の雨漏りが直るという龍馬でした。
・・・もっとカッコいい言葉ないんかい・・・??
これでは何も変わらないという吉之助。

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おやおや・・・なんだか二人の間に溝が出てきたのでした。

実は、慶喜に大政奉還をされてしまった西郷たちは、打倒徳川の大義名分を失ってしまいました。
徳川260年・・・朝廷はトッポに機能できるわけもなく、人々は治安維持のためにやっぱり将軍様でした。
だって、長州はテロリストなんだもん!!
なので、このままの政権で行けば、またもや徳川の世になることはわかりきっていました。
今や、幕府に反逆した薩摩の・・・それも身分の低い侍なんか、一握りで潰されちゃうんです。
なので、どうにかして幕府を武力討伐したかったんです。
政権を倒して、新しい政権を作る!!それは、自分たちに後がないからしたことであって・・・ここで言う”民のため”なんてのは、後付けにしかならないと思う・・・。
”民のため”って言わすなら、板垣退助だろ・・・!!

ということで、政治的な流れが全くわからないので、毎回年表とにらめっこの私です
幕末は知っていると思っていたけど、いい復習になるわね~~!!と思いつつ、最近は「西郷どん」に突っ込むのでした。

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