日本を代表する歌舞伎に、今、変化が訪れています。
大名跡・市川團十郎の復活が予定されています。
襲名興行で予定されているのは平成の天覧歌舞伎で12代目も演じた歌舞伎十八番「勧進帳」。
能をモデルに作られた勧進帳は、松羽目物と呼ばれ、格調の高い舞台が特徴です。
しかし、団十郎家を代表するこの勧進帳を作った男はそれを作ったがゆえに舞台から追われてしまったと言われています。

七代目が選定した歌舞伎十八番・・・勧進帳はその中の一つとして彼が考案した演目です。
しかし、世の中は一気に暗転します。
天保の時代に入ると、天候不順から凶作が続き、各地で一揆が頻発します。
それに対して有効な手立てを打てない幕府は、贅沢禁止を旗印に、庶民の暮らしを締め上げました。
水野忠邦が推し進める天保の改革です。

そして、やり玉にあげられたのが、七代目市川團十郎でした。
彼は、贅沢を助長されていると批判され、江戸所払の処罰を受け、舞台から追放されてしまいました。
その背景には、低い身分に置かれていた歌舞伎役者に対する差別が隠されていました。
天保の改革の直前に、能の「安宅」を歌舞伎化して「勧進帳」を造った七代目・・・
当時の能は、幕府の儀式芸能で、特別な存在でした。
能狂言の役者の身分は、武士の身分に殉じていました。
そこで、武士の恨みを買ってしまったのです。

七代目は所払いにもかかわらず、市川團十郎という大名跡は安泰でした。
七代目の長男が八代目・市川團十郎を引き継ぎ、その重責を担っていきます。
イケメンだった八代目・・・その風貌と粋な演技は江戸の女性たちを虜にします。
しかし、人気絶頂の32歳の時に八代目は自ら命を絶ってしまいます。
直接の原因は今も謎ですが、團十郎という名の重圧が、神経質な彼を苦しめた結果だと言われています。

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そして浮上したのが九代目團十郎の継承問題でした。
多くの愛人を抱えていた七代目には、七人の息子がいました。
しかし、次男、三男は役者を志すも大成せず、四男は夭折していました。
結果、白羽の矢が立ったのは、五男の権十郎。
しかし、権十郎には問題がありました。
実は権三郎は、生まれて間もなく河原崎家に養子に出されていたのです。
河原崎家は代々芝居小屋を営んでいました。
團十郎家と太いつながりを結べば、家業の隆盛に繋がると考えた河原崎家は、生後間もない権十郎をもらい受け、役者として大切に育て上げていたのです。
兄八代目の突然の死により運命を大きく変えることとなった河原崎権十郎。

まさに、時代は大きく動きました。
戊辰戦争を経て、文明開化の時代になります。
権十郎は、明治7年に正式に九代目市川團十郎を襲名します。
37歳・・・しかし、兄のような華やかさに恵まれていない彼には、これと言った当たり役はなく地味な感じの役者でした。

しかし、そんな九代目に目をつけたのが、新富座・守田勘弥。
相応しい役さえ与えれば・・・九代目は必ず光る!!
そう確信していた勘弥に、絶好の機会が訪れます。
明治10年に勃発した西南戦争・・・情報を入手した勘弥は、その舞台裏を描く本を書かせます。
そして主役西郷に、九代目團十郎を起用・・・大当たりをとったのです。

直前の出来事をその服装で演じるということは、それまでにないことでした。
疎実そのままを演じてみせる生々しさ・・・
名優への階段を一歩登った九代目・・・彼はまた、歌舞伎役者の身分にも変化をもたらします。
明治20年3月・・・九代目團十郎は、時の伊藤内閣で外相を務める井上馨に呼び出されます。
井上は、鳥居坂にある自宅に天皇を招き、茶会を開く計画があることを打ち明け、その余興として歌舞伎を披露してくれないかと依頼してきたのです。
父の追放も経験・・・蔑まれてきた歌舞伎役者の地位を高めたいと考えていた九代目にとって願ってもない申し出でした。
一方、明治政府にとっては、差し迫った理由が存在しました。
当時、最大の懸案事項であった不平等条約の改正を図るための国際会議を間近に控えており、日本が西洋に負けない文明国であることを証明する必要があったのです。

日本と西洋の文化の一番の違いは、演劇の役割です。
西洋では外国の賓客を招くときに、素敵なシアターに連れて行き素晴らしい劇を見せる・・・
これが、最高級のおもてなしです。
それに対して、日本の歌舞伎は庶民の娯楽でした。
武士などが観に行くのは、禁止されていました。
演劇の位置づけの違いが、そのまま西洋から見ると日本の文化文明の低さに関わる・・・!!
歌舞伎を底上げして、日本の文化文明の評価を高めようとしたのです。
4日間の予定で組まれた天覧歌舞伎・・・3日目には、諸外国の公使も招かれていました。
井上馨の私邸に天皇がやってきました。
この時、九代目が真っ先に披露した演目が、父が考案した「勧進帳」でした。
能由来の格調高い舞台で、明治天皇をもてなしました。
結果、天皇からは珍しきものを見て満足だったというお褒めの言葉を受けます。
緊張の余り、4日間で体重が6キロ以上落ちたという九代目・・・
歌舞伎役者が背負ってきた負の歴史に終止符を打った彼は、それ以来、新しい時代の歌舞伎を造ることに邁進します。
天皇には勧進帳を披露した九代目、しかし、当時彼がもっぱら力を入れていたのが十八番と呼ばれた伝統演劇ではなく、活歴と呼ばれていた新作歌舞伎でした。
旧来の歌舞伎は、歴史上の事件を扱う時は・・・
鎌倉時代の人が江戸時代の衣装を着ていたり・・・”嘘”の部分がたくさんありました。
本当にそうであった装束を着たり、建物を再現する・・・できるだけ史実に即した形の”歴史劇”を活歴と呼びました。
自分が生きた明治時代ならではの新しい歌舞伎を創ろうとしたのです。
自ら取材にも赴いたという九代目・・・彼はその著書の中で活歴をこう述べています。

「芝居をする一大用心は、自分がする役の当時の精神を飲み込むことが大切なり」

しかし、史実に即して描くだけに展開は地味・・・
細やかな心理描写の多い活歴は、これまで歌舞伎を支えてきた庶民からは難解とされ、九代目がメインを張る新富座の経営は傾いていきます。



一方で、明治20年代後半・・・施錠は混迷していました。
西南戦争の戦費を補うためのデフレ政策の結果、各地で騒乱が・・・
当時盛んだった自由民権運動は、さらに盛り上がっていきました。

そんな中、ユニークなヒーローが西から登場!!
軽快な「オッペケペー」節を引っさげて、大坂の寄席に登場した川上音二郎。
やがて音二郎は、書生芝居と題した演劇活動も開始。
上京すると、江戸時代以来歌舞伎の牙城と知られた中村座に登場しました。
そして、自由民権運動の闘士・板垣退助が暴漢に襲われた事件を下敷きにした「板垣君遭難実記」を大ヒットさせたのです。
それを九代目團十郎が見学にやって決ました。
場内は意外な人物の登場に騒然となりました。
しかし、研究熱心な九代目にとっては、当然の行動・・・
どうして音二郎は受けるのか・・・??
それをじかに感じたいと足を運んだのです。
芝居が始まる前、九代目は音二郎を楽屋に尋ねています。

「今日はお前さんの芝居を見て勉強させてもらうぜ」by九代目

「九代目、こんな機会をいただいて、音二郎、感激でございます
 是非、あなたの弟子にしてくれませんか?」

歌舞伎好きで九代目に憧れていた音二郎・・・
そんな音二郎に対して自らの信じる道を進むように激励しました。
しかし、舞台が始まると九代目の表情から余裕が消えました。
音二郎一座の熱演に、心から驚いたのです。

暴漢と板垣が刃物を間にして取っ組み合いになる・・・
格闘する・・・役者同士が本気で戦っていました。
やがて2人は政治的な議論を始めました。
取っ組み合いをしながらお互いの意見を戦わしていました。
それがお客さんには迫力がすごいと人気が出たのです。

何という荒っぽい芝居だ・・・!!
しかし、客の受けは想像以上に熱く、この熱気は正直羨ましくもある・・・
だが、荒唐無稽な芝居は、我が芝居の目指すところではない・・・!!
自分は我が道を行こう!!
九代目は、当時彼がホームグラウンドとしていた歌舞伎座で、粛々と自分が信じる新しい時代の歌舞伎・活歴に取り組みました。
明治22年に完成した歌舞伎座・・・堂々たる西洋建築のこの劇場は、誕生以来経営が傾いた新富座に代わって歌舞伎の殿堂となっていました。
しかし、九代目が取り組む活歴は、相変らずの不人気で、客席には閑古鳥が鳴いていました。
明治27年7月、日清戦争勃発・・・
九代目の激励を受け、さらに自信を深めた音二郎は、明治政府初の対外戦争も即座に舞台化しました。
浅草座にかけた「壮絶快絶 日清戦争」です。
音二郎扮する日本人記者が大活躍する芝居も大当たり!!
ロングランを記録しました。
その人気ぶりに、天下の歌舞伎座も動きました。
なんと、翌明治28年の5月興行・・・予定していた九代目の出演をキャンセル・・・代わりに音二郎一座を招へいすると発表したのです。

歌舞伎座に音二郎があがる・・・!!

その衝撃的な知らせを受けた九代目は激しく動揺しました。

活歴の新作を続けるべきか??
既存の演目に回帰する・・・??

九代目團十郎に選択が迫られました。

明治28年4月、日本は日清戦争に勝利しました。
しかし、その後に起きた三国干渉の結果、日本が遼東半島の領有権を放棄させられると、日清戦争劇のブームは急速にしぼんでいきました。
そこで歌舞伎座幹部は、再び九代目に出演をオファーします。
それに対し九代目は、こう答えました。

「書生芝居が上がった舞台に、立ちたくはない
 カンナできれいさっぱり削り直してくれ」

間に入った人がなんとかとりなし、舞台を綺麗に拭くことでしぶしぶ了承。
明治28年11月、九代目は歌舞伎座に戻りました。
しかし、歌舞伎座の舞台に立った九代目が演じ始めたのは活歴ではありませんでした。
九代目が下した選択・・・それは、既存の演目に回帰・・・歌舞伎十八番の「暫」では團十郎家伝統の荒事を久し振りに披露して喝采を浴びています。

活歴を一通りやって、自分がかつて排斥したものの魅力、価値を・・・
”嘘”でもって真実を表現することに行きつきました。
團十郎は回り道をして、最後に古典の世界に戻ってきたのです。

続く明治29年の4月興行・・・九代目の人気に気を良くした歌舞伎座幹部は、十八番の一つ「助六」をやってほしいとオファーします。
しかし、九代目は頑として首を縦に振りませんでした。
すでに59歳・・・流石に助六は無理だと断ったのです。
華やかな吉原を舞台に粋で鯔背な江戸っ子が、仇討や恋に火花を散らす助六・・・
代々の團十郎が伝えてきた世話物の代表作を老いた自分が演じ、その価値を損ねてはいけないと九代目は考えたのです。

困った歌舞伎座幹部が説得を依頼した男は、傾いた新富座の経営から身を引き当時歌舞伎座のアドバイザーだった守田勘弥です。

「芸に 年は関係ないんじゃないか 
 また 今、お前さんがしないとお手本がなくなっちまうぜ
 もちろん お前さんの代で助六はやめるというなら話は別だが
 もしもこの先も続けてほしいなら やったほうがいい」by勘弥

自分を世に送り出した男の言葉に動かされた九代目は、助六を演じます。
そして59歳には決して見えない若々しい演技を披露したのです。
守田勘弥の息子で後に人間国宝となる七代目・坂東三津五郎は、この時に見た助六の感想をこう述べています。

「九代目の助六というものは、たいしたものでした
 形 科 調子と 
 実に申し分のない助六でした」by三津五郎

色気、風情、勇ましさにあふれたその芝居は、33日間、連続大入り満員という大当たりをとりました。
こうして歌舞伎史上最高の名優が誕生したのです。

九代目は晩年、神奈川県茅ケ崎に立てた別荘で、ほとんどの時間を過ごしました。
そこで良きライバルであった五代目尾上菊五郎の息子をはじめ、次代を担う後身の指導に当たりました。
明治35年、その別荘の近くに居を構えた男がいます。
妻・禎奴と共にパリ万博で活躍し、凱旋帰国した川上音二郎です。
九代目の別荘を訪れた音二郎・・・音二郎は九代目を尊敬し、九代目は音二郎を認めていたのです。

多くの人に慕われ続けた九代目市川團十郎・・・
浅草浅草寺には、九代目を顕彰した「暫」の像が立っています。
大正8年に建立されたこの像は、戦争中、金属の不足を補うために供出されてしまいました。
戦後、この像を復元させたのは、12代目市川團十郎です。
そして、その息子が今、13代目市川團十郎です。

歌舞伎とは、何事かに打ち込むことを表す歌舞く精神から来たものです。
新時代の歌舞伎を模索し、打ち込む新しい團十郎に、今、期待が高まっています。

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