日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:城下町へ行こう

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三重県松阪市の城下町です。

松阪と言えば・・・牛肉の産地。。。

式年遷宮を迎えた伊勢神宮の近く。。。

伊勢国に栄えた松阪商人の城下町。。。

そこは、信長イズムの継承者・蒲生氏郷の城下町でした。


松阪城は守りの城。。。

この城を築いたのは蒲生氏郷。

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豊臣秀吉時代に会津若松城主にまで上り詰めた蒲生氏郷は、会津入国の2年前・・・

1588年に松坂城を築きました。

かつては連結式山荘五階建ての城が建っていました。


金箔瓦が使用されている絢爛豪華な城でした。

蒲生氏郷は、1556年近江日野に生まれました。

13歳で天下布武を掲げる織田信長の元へ人質に・・・

小姓として目をかけてもらった氏郷は、後に家臣となるのでした。


信長の作った岐阜・安土は楽市楽座・・・

これを実践したのが松坂でした。

信長の戦手腕を見習っただけでなく、経済に特化した斬新な町づくりも見習った。。。そこが松阪でした。

近江から商人を招き、城下で楽市を開き、松阪を商業都市として発展させていきます。

2年ほどしかいなかったものの、現在でも城下町では毎年蒲生氏郷を称えて武者行列が行われています。

今もなお松阪の人々に愛されているのです。


御城番屋敷では、江戸時代の武士の組屋敷が現在も住居として使用されています。

中町には和菓子屋・柳屋奉善さんが。。。

天正3年創業のこの古い和菓子屋さんには蒲生氏郷ゆかりのお菓子が。。。

初代は近江で・・・蒲生氏郷と共に松阪にやってきました。


”老伴(おいのとも)”というお菓子は、創業以来変わらないお菓子で。。。

最中ですが・・・裏返すと赤い羊羹が。。。

後に”利休七哲”と呼ばれる氏郷が考案したお茶会用のお菓子で、信長の思想がつまったお菓子です。

初代の命じて作らせたものです。


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この時代、京都でも2,3軒しか羊羹を作っていませんでした。

出来たばかりの最先端の羊羹をわざわざ赤に染めました。

信長の好きな赤・・・


信長の赤好きは有名で、近江八幡名物・赤こんにゃく、安土城の屋根も赤・・・赤にこだわっていました。

そんな信長をもてなすために、最先端の羊羹をわざわざ赤に染めたのでしょう。

丸い赤・・・それは朝日、日の丸・・・日出づるところの・・・”日章旗”です。

戦国時代にはすでに使われていて・・・


戦国時代、武田信玄・・・織田信長・・・徳川家康・・・誰もが掲げていて・・・

「天下をしょって立つ者」であり、武家の頂点に立つ者・・・「源氏の象徴」でした。

この事から、日の丸に使われていた赤は、天下統一に繋がり・・・信長か好んでいたと言われています。

そのために羊羹も赤く染められたのです。


小津家は・・・松阪・江戸で紙問屋を開き、莫大な財を築いた豪商です。

全国の長者番付に載っており、万両箱があり・・・それぐらいのもうけはあったと言われています。

長者番付にはほかにも・・・越後屋(三井家)が・・・

彼等は松阪商人と呼ばれ、江戸時代近江商人に引けを取らないくらい名前が轟いていましたが・・・
その生みの親も蒲生氏郷だったのです。


松阪に一大商業都市を築くため、楽市を行うだけでなく・・・半日でいける伊勢神宮も。。。
参宮街道はもともと海側を通っていましたが、城下町の・・・町中を通したのです。

伊勢神宮の参拝者を城内に取り入れるようにしたのです。

これが成功し・・・街道には、各地から呼び寄せた商人たちも楽市をし・・・そこに伊勢参りの参拝者が立ち寄り。。。商人たちは潤って・・・松阪商人として繁栄を極めていくのです。


ここ松阪は、伊勢に向かう最終の宿場であり、最初の宿場となりました。

氏郷が亡くなり、お伊勢参りの一大ブームが来ます。

江戸時代の日本の人口は3000万人。。。

お伊勢参りの最盛期には・・・伊勢神宮参拝者は年間500万人だったと言われています。

松阪から伊勢神宮までは30㎞・・・氏郷が街道を整備したおかげで、買い物・宿・・・狙い通りの城下町となりました。

草鞋が飛ぶように売れ・・・数々の参拝者で賑わい、潤ったと言われています。

そこには・・・参拝犬もいました。

犬のお伊勢参りは、何度も記録にのこされています。

生まれた理由は、伊勢への参拝が・・・江戸時代には大変困難だったからだと言われています。

庶民にとっての憧れお伊勢参り。。。

体力に自信のなかった人々は、住所と伊勢参りをすることを記した紙を風呂敷に包み・・・

犬にお伊勢参りを託したのです。

帰りも頼んだそうです。


そう言えば、先日お伊勢さんにお参りに行った際に、犬のおみやげがたくさんありましたが、その為ですね。

人々も、自分たちは伊勢神宮の近くに住んでいることをありがたく思い、おもてなしをしたといいます。

このおもてなしのおかげで・・・快適なお伊勢参りでした。


伝統産業は・・・”松阪もめん”。

織物の里・松阪。。。

古より高度な技術を誇りっていました。

”神御衣祭”・・・神々の衣として伊勢神宮に奉納されていたからです。

そんな織物の里では・・・戦国時代に木綿が盛んとなり、縞模様の”松阪木綿”を生んだのでした。

これが松阪商人発展の礎と言われています。


三越・・・三井グループの祖・三井高利は、後に江戸や京都で店を出して大成功を収めるのですが。。。

この成功を支えたのが松阪木綿でした。

当時1反ずつ売っていた反物を・・・どれだけでも好きなだけ・・・という売り方で・・・おまけに現金掛け値なしで売ったのです。

この売り方ははじめてのことで・・・江戸で大ヒットさせます。


「松阪嶋」・・・縞ではなく、嶋なのは・・・

鎖国以前、東南アジアと交易をしていて・・・東南アジアのことを嶋と呼んでいました。

嶋わたりなので、”嶋”なのだそうです。


このストライプ模様・・・江戸で販売したところ、江戸庶民の心をつかみ・・・評判となり・・・

歌舞伎役者も縞模様を着ることを”松坂を着る”と言ったと言われています。


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松阪牛は・・・「和田金」が明治11年創業で元祖です。

文明開化のシンボルとなった牛鍋。

和田金はみそ味だった牛鍋を、現在の醤油味にした・・・すき焼き発祥の地と言われています。


蒲生氏郷が作った松阪の城下町、今に繋がる大商人を生み出した商人の町。。。おかげさまの精神がはぐくまれました。
今なお受け継がれるおもてなしの心で旅人を包んでくれる城下町でした。


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滋賀県近江八幡市は・・・近江商人発祥の地。
水郷と古き商家が立ち並ぶ・・・日本経済を築いた近江商人の城下町。
琵琶湖の東岸に位置し、江戸時代全国各地で商売を行った近江商人の城下町です。
商人たちの生活が垣間見ることが出来ます。

八幡山山頂にある近江八幡城。
今ではロープウェーで行きますが、標高285mの八幡山の頂に建てられたお城です。
現在天守は存在しておらず、石垣をみることが出来ます。

hatiman
















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この城を作ったのは、豊臣秀次・・・幻の天下人です。

秀次は、秀吉の甥で・・・
秀吉は、ゆくゆくは跡取りとして養子にしていました。
後継者として帝王学を学んでいきます。
18歳で近江の国の城主となり、24歳で関白宣下され・・・天下人となったはずでした。

秀吉の後継者として秀次しかいない!!と、誰もが思っていたのに・・・
秀頼が生まれてしまいました。
秀次は、関白を剥奪され、追放され・・・高野山へ幽閉されてしまうのでした。
切腹を命じられ・・・享年28歳でした。

しかも、一族は、女性から子供まで・・・すべて処刑され・・・
居城であった八幡山城まで廃城とされてしまうのでした。
秀吉は・・・秀次の存在をすべて消し去ろうとしたのです。

戦国の世にあまりにも理不尽に命を奪われた秀次・・・
しかし、秀次は、ここ近江の地に、偉大な業績を残していました。

秀次が近江八幡城をつくるときに最も大事にしたのが・・・経済の発展でした。

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そこで、琵琶湖から商業船を入れるために、八幡掘を築きます。


琵琶湖から繋がって・・・琵琶湖に帰ることが出来る水路を作ったのです。


この八幡掘が、近江商人発展の基礎となるのです。




どうしてここから近江商人が発展していったのか???
それは、織田信長・豊臣秀次が亡くなったことが発展の理由です。
???
信長は、安土で楽市楽座を行っていました。
当時、商人が商売をするためには、領主に税金を払い・・・
商売をするための組合”座”に入らなければいけませんでした。
そして、”市”という商売専用の場所で商売しなければならなかったのです。
一部の豪商だけが儲かる制度でした。
そこで・・・誰もが商売で利益が出るように・・・座と市の制度を撤廃したのが信長だったのです。
座と市に縛られずに自由に商売が出来るということなのです。

ところが・・・信長が死に・・・安土の町は・・・???
安土商人や民衆を引っ越させ・・・招き・・・楽市楽座をやったのが秀次だったのです。
城下町の経済が発展していきますが・・・城下町が出来て10年余りで秀次は自害。。。
城主がいなくなっても自分達で盛り上げていこう!!
と、商人たちが自立し始めるのです。
力を身に着けるために・・・他国へ出ていき大きな商売をする!!
天秤棒を担いで諸国を渡り歩くようになったのでした。
全国へ名をはせる近江商人の誕生でした。

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赤コンニャク・・・
どうしてコンニャクが赤いの???
それには、織田信長が関わっているようです。
安土城下町で”左義長まつり”があり・・・そこではすべてが赤く・・・赤づくし!!

akakon
その赤い短冊を見て、「コンニャクも赤にしろ!!」と言ったとか。。。

安土からやってきた赤コンニャクが近江八幡に根付いたのです。

冠婚葬祭にも赤コンニャクは欠かせません。
赤コン君もいます。



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新町通りは、近江商人の店が立ち並び、国の重要伝統的建造物保存地域となっています。

一番古いのは・・・300年以上経つ旧西川家住宅です。
当時、大坂や京・江戸に店舗を持ち、蚊帳や畳表等の商売で財を成しました。
その西川家には、商売に繋がる様々なアイデアが隠されています。

現代のビジネスシステム・・・本店を近江に構え支店を全国に作るというシステムを作り上げた近江商人。
本拠地の商家は、幼い丁稚を立派な商売人にさせるエリートビジネス養成所でした。
商人の屋敷に住み込みで働きながら、礼儀作法から商売の基本まで、徹底的に教え込まれました。

親元を離れ、単身歯を食いしばりながら立派な商人になっていく若者たち。
近江商人は・・・
「先義後利栄」=義理が先、利益を後に考えれば自然に栄える
「好富施其徳」=富は好し、しかし其の徳を施しなさい
という考え方でした。

それが、莫大な富を生むことになるのです。

現代に通じる日本経済の屋台骨を作り上げた近江商人。
そんな彼らをはぐくんだ近江八幡には・・・損得勘定抜きで温かく迎えてくれる人たちが待っています。

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北陸越中に栄えた富山の城下町・・・北アルプス立山連峰がそびえ、富山湾に面した薬の都。


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北前船によって、全国の富が集まってきた富山の城下町です。

富山城・・・昭和29年に建てられた新しい天守閣です。

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江戸時代の富山城には天守閣がありませんでした。
どうして建てられなかったの?
富山藩は、1639年、加賀藩前田家の分家として成立しました。
初代・前田利次は、加賀藩三代目藩主利常の次男です。

江戸時代初期・加賀藩前田家の石高は120万石。
大大名であり、最大の石高を持つ外様大名でした。
なので、幕府にとっては脅威!!
幕府は加賀藩を警戒していました。
不審な動きをしようものならお取り潰しにしかねない状況でした。

幕府にあらぬ嫌疑をかけられたくない加賀藩。1602年に金沢城天守が焼失した時も・・・天守の債権を断念していました。
なので、富山藩も天守建設は出来ない???
幕府から建ててもいいと言われていたそうですが、財政難で建てられませんでした。

その理由は”親バカ”???
加賀藩三代藩主前田利常は、「鼻毛の殿様」。幕府への謀反を起こさない器ではないと示すために、自ら鼻毛を伸ばしてバカ殿をしていました。
相することで加賀藩を守り抜いたのです。

しかし、彼の欠点は親バカ。。。
家督を継げない次男・利次の為に、富山藩を与えたのです。
これは、加賀の石高を減らすことで幕府からの厳しい目をそらす為・・・とも言われていますが。。。
次男も殿さまにしたかったのか、分家でも10万石を分与しています。

前田利次が初代からもらった鯰兜・・・
全長140㎝あるこの家宝の兜と蔵ひとつ分の財宝をも与えたのでした。
さらに・・・1300人以上の大家臣団さえも、富山藩に与えてしまいました。
良かれと思って与えたこの家臣団が、天守を建設できなかった最大の要因ではないか?と言われています。
10万石で1300人の家臣団・・・9割が家臣の給料でした。
つまり、石高の一割で藩の財政を賄わなければならず・・・
だから・・・幕府から認可を得たにもかかわらず、天守を建てられなかったのです。

しかし、財政難だったからこそ・・・売薬が栄えたのです。

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”富山の薬売り”、富山で有名なのは”反魂丹”です。

反魂丹の文化史 越中富山の薬売り

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もともと備前発祥の胃腸薬で、江戸時代には万能薬として重宝されていました。

大量生産するほど需要があり・・・富山の薬売りは、江戸時代には2000人以上。
全国を売り歩き、藩の財政を担っていました。

富山藩二代目・前田正甫。
幼いころから病弱で、漢方薬を服用し、自らも調合する薬オタクでした。
この反魂丹も、正甫の指示によって作られたと言われています。
そして薬で、困窮する藩の財政を立て直そうとします。

そして・・・1690年江戸城にて・・・
松の廊下で奥州三春藩主・秋田輝季が腹痛を起こしました。
慌てる諸大名・・・

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そこへやって来た前田正甫は、反魂丹を処方します。
すると・・・腹痛が嘘のように消えたのです。

「すごい薬だ!!」

こうして反魂丹は、日本中に広まったのです。
そして・・・富山は他藩商売勝手とし、藩から勝手に出て商売をしても良いという御触れを出していました。
富山の薬売りはこれによって全国に広まり・・・
”先用後利”を提案し、置き薬システムとなったのです。

富山はお薬で有名ですが、薬同じように水飴も発展してきました。
麦芽水飴・・・水飴は、薬に苦さを抑え、つなぎとしても必要だったのです。
最盛期には、9割の人が薬に携わっていたと言われています。
薬のパッケージ、おまけからの印刷業・・・
薬売りは、富山に大きな影響を与えました。

北前船・・・
江戸時代、日本海の港を回り売買をしていた北前船。。。
儲けが倍倍なので、富山ではバイ船と呼ばれていました。
莫大な利益をもたらしました。

日本中で一番コンブを消費しているのは、富山です。
江戸時代、北前船がもたらした食費の分かです。
今でも消費量は全国一位!!
そのコンブの活用方法は???
とろろ昆布おにぎり・昆布巻蒲鉾・昆布餅・昆布パン・・・

薬売りにとっても昆布とかかわりが深く・・・
江戸中期より盛んになった富山の薬産業。
日本全国で行商を行って、顧客を獲得していきましたが。。。
最難関は薩摩藩。
江戸時代薩摩藩は、秘密の国と言われるほどで、他藩の出入りがとても難しかったのです。
しかし、富山の薬売りだけは自由に入ることができました。
どうして入れたのか???
上質の昆布が富山にあったからです。

江戸時代、長崎を除いては鎖国でした。
薩摩藩の密貿易に・・・その内容の大半は昆布だったのです。
この貿易によって、薩摩は巨万の富を得ていたのです。
それは中国でも、昆布は薬として高く売れたからです。
薬売り達は、昆布を使って薩摩に入国していました。
そして・・・薩摩と取引し、中国産の生薬を安く仕入れていました。
昆布が無かったら、薩摩は最強になっていなかったかも???

苦しい財政があったからこそ生まれた薬売り・・・それは、藩の経済を支えるとともに、全国の人々の健康も支えていたのです。
富山は薬売りの精神と、人々の温かさが溢れた城下町でした。


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伊達政宗(1) [ 山岡荘八 ]

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伊達政宗の城下町の後編です。

青葉山仙台城は、商業の町として発展してきました。
仙台藩の祖は、独眼竜の伊達政宗。
政宗の築いた城下町は、軍事より流通を重視し商業を優先・・・現在の仙台市繁栄の礎となりました。
jyoukamati







日本三景・松島は、日本三景として有名です。
国宝・瑞巌寺は平安時代に建立され、伊達家の菩提寺として政宗が再建しました。
寺の改修は政宗自ら行ったと言われています。

特徴は参道・・・真直ぐではなく曲がっています。
政宗は、月をこよなく愛していて、月を基本において・・・
本堂をずらして・・・参道を曲げました。
本堂から綺麗に月を眺めるためです。
どうしてこれほど月を愛していたのでしょうか???
ちなみに辞世の句は・・・
「曇りなき 
  心の月を先立てて
 浮世の闇を 
  照らしてぞゆく」
でした。

江戸幕府が開かれたあと・・・
政宗は瑞巌寺の材料の運搬として、水主衆を集めました。
しかし、その水夫は・・・村上水軍から。。。精鋭48名を採用。
村上水軍は、戦国最強の海の武装集団です。
どうしてわざわざ松島に???
密かに徳川幕府を倒そうと思っていたのかもしれません。
今も村上水軍の末裔が、海の仕事をしています。

伊達政宗が眠るのは瑞宝殿。
政宗は、身長159㎝、血液型はB型

1613年慶長遣欧使節団をヨーロッパに派遣。
大航海時代に、幕府からスペインとの外交を許された政宗は、貿易を中心とした友好条約締結のために使節団を派遣しました。
江戸幕府はイギリスやオランダと仲良かったのですが・・・
幕府とは一線を画す・・・それだけの財力もありました。
この外交を、スペインとの軍事同盟にしようとも考えていたようです。
仮想敵国は江戸幕府。
天下取り、世界進出も考えていたかもしれません。
1年後、スペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世に謁見。
しかし・・・1613年キリスト教禁教令が出され、同盟は幻に終わったのです。

海に浮かぶ月を愛し、遥かヨーロッパへと野望を抱いていた政宗。
戦国武将の器には、納まりきらなかった政宗の城下町。
古き良き時代の文化を携えながら新たな未来に進むエネルギーに満ち溢れた町でした。

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大分県・杵築(きつき)・・・九州・豊後に栄えた坂道の城下町です。
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大分県杵築市・・・人口3万1384人、面積280.03㎢、特産はみかんときつき茶、ちりめん。
別府湾を望むこの地は、豊後国と呼ばれていました。
杵築城が築城されたのは、室町時代初期の1394年。
九州探題として大友一族の大付氏によって築城されました。



その後、江戸時代初期には、杵築藩初代藩主・松平英親によっておさめられました。3万2000石の城下町を整備・・・
以来、明治になるまで10代、松平氏が治め、繁栄を築きました。

別名勝山城。
それは、敵に討ち勝った山・・・その敵は、島津でした。
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島津でさえ落とせなかったお城なのです。
三方を海と川に挟まれ、断崖絶壁の上・・・それは、自然を利用した鉄壁の城でした。
天正15年、九州を統一しようとした島津家17代当主・島津義弘。。。
その猛攻を受けても落ちることのない、堅固な城でした。
しかし、戦国時代に落雷によって天守閣が焼失・・・
江戸時代には、天守閣がなかったと言われています。
城下町には22の坂が・・・そんな坂道の城下町です。

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武士の住む高台をはさんで谷間には町人が住んでいたので、サンドイッチ型城下町と言われています。
松平英親は、どうしてこのような城下町にしたのでしょうか?
高台に武士を住まわせたのは、防御のためだったと言われています。


武士は、有事の際には、高台から敵を威嚇したのです。
城下町の入り口には寺町を配置、戦の時には武士の集合場所となりました。

英親がこれまでして守りたかったものは・・・
平地に住んでいた町人たちでした。
商売が繁盛すると・・・藩の収入が増える・・・藩の経済を考えての事でした。
商業を奨励し、発展させようよ考えていました。
事実、七島藺草を奨励し、全国に販売経路を築きました。
この交易で栄え、実質5万石以上あったのではないか?と言われています。

全国で行われている”景観条例”・・・
杵築では、この景観条例が江戸時代から存在していました。
・できるだけ瓦にしよう⇒火事を怖れての防火対策・景観を良くするために
・鏝絵と呼ばれる絵も推奨。鏝絵は、左官職人が漆喰を使って鏝で書いたものです。
 家の魔除けや、美観を目的としています。
では・・・どうして景観に重視していたのでしょうか?
それは、観光名所にしたかったと言われています。
江戸時代、五街道が整備され、庶民の間にも観光・・・神社仏閣巡りが流行っていたようです。
当時の一番の人気スポットは伊勢神宮。
九州では・・・全国に4万以上存在する八幡宮の総本山・宇佐神宮。
当時のお殿様は、この参拝客に着目し、町を整備したと言われています。

家老屋敷「大原邸」では・・・
武家屋敷なのに・・・茅葺です。
低い商人の家は瓦屋根なのに???
武士は質素倹約を重んじてほとんどが藁葺だったと言われています。

杵築では、古くから演劇が盛んで・・・杵築歌舞伎は、平家の落人が伝え・・・朝鮮半島まで公演に行っていたと言われています。
江戸時代には、農業しながら五穀豊穣を願いながら舞っていたものが、全国で公演するようになりました。
そこには、殿さまの・・・隠密歌舞伎としての働きもありました。
九州は・・・福岡藩・肥前藩・肥後藩・薩摩藩・・・と、強豪大名・・・日本の火薬庫と言っても過言ではありません。
そんな中にあって、譜代大名の杵築藩の役目は、外様大名を監視することにありました。
殿さまは、杵築歌舞伎を奨励する代わりに、隠密行動をさせていたと言われています。
当時の舞台衣装は・・・大変豪華なもので、藩が奨励していなくてはなかなか使えない高価な物が多いのです。
そして、巡業という名の隠密活動をさせていたようです。
松平にとって、最も警戒すべき藩は・・・隣の日出藩でした。
秀吉の正室・ねねの甥・きのした延俊が藩祖でしたが・・・
この豊臣縁故のこの藩を最も警戒していたと言われています。

江戸の昔から守られてきた景観。
武士が何よりも大事にした商人たち。
その商人たちを包み込むようにして城下町が出来ていました。
お殿様が創った庶民に優しい城下町でした。


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