日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:城下町へ行こう

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駿府城は天下統一を成し遂げた徳川家康が晩年隠居した居城です。
静岡県静岡市人工72万917人、面積1,412㎢、特産は茶・みかん・桜えび
1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は、2年後に秀忠に将軍職を譲り、駿府城に移り、大御所として隠居生活を送りました。
家康自ら設計し、江戸と変わらないくらいに繁栄した城下町です。
しかし戦国時代には、今川義元が・・・城下町の基礎を築いていました。
桶狭間の戦いで命を落とし、歴史の表舞台から消えた義元・・・
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東海一の弓取りと言われ、武勇に秀でた武将で、多くの戦国武将に影響を与えたと言われています。

駿府城は・・・今はお城はなく公園となっています。
富士よりも大きいと言われたその城・・・家康の頃は、三重の堀に囲まれた堅固な城で、天守は五層七階の壮大な城でした。
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天守閣の後ろに富士が見える・・・そんな大きな城で、東海道を行き来する人は驚いたと言います。

本丸跡には、家康の像が建てられています。
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駿府でなければならなかったと言われていますが。。。
駿府には江戸に無い3つのものがありました。
それが、「一富士二鷹三茄子」です。


これは、家康の好きなものを3つ並べたものです。
富士の絶景と鷹狩りの地、そして折戸茄子(献上茄子)は名産でした。
折戸茄子は賀茂茄子の原種と言われています。
家康公にあやかろうということで、「一富士二鷹三茄子」と言われたようです。

東京・銀座のルーツは駿府だった?
両替町には・・・駿府銀座発祥の地があります。
銀座とは、銀貨を作っていたところ。
慶長11年家康が隠居先を駿府と決めたことで、駿府では、大々的な街づくりが行われました。
その資金を調達するために、家康は京都にある伏見銀座を駿府に移したのが・・・現在の両替町です。
両替商もたくさんあったようです。
ここが、江戸京橋に移され・・・今日の東京の銀座となりました。
ちなみに金座もあり、この金座のあった場所は今の日本銀行本店です。

静岡おでんにある黒はんぺん。
徳川家康の家臣が、余ったイワシの活用術として発案したと言われています。

大龍山・臨済寺・・・
ここは、今川家の菩提寺ですが・・・三つ葉葵の家紋が掲げられています。
軍師とは・・・軍略・政治・外交・築城のすべてに関わる大名を影で支える存在です。
有名なのは、山本勘助・北条幻庵・黒田官兵衛・竹中半兵衛・直江兼続・片倉小十郎などそうそうたるメンバーです。
そんな中で、戦国最高の軍師・黒衣の宰相の異名を持つ太原崇孚雪斎が、この臨済寺にいました。
今川義元を天下に最も近い大名に育て上げた男です。
外交面でも手腕を発し、甲相駿三国同盟は、雪斎最大の功績とされています。
また、岡崎城に狙いを定めた雪斎は、岡崎城から家康を人質として迎えるのでした。
竹千代が雪斎から教育をうけた部屋も残されています。
その部屋で、儒学や兵法を学んでいました。
家康は、全てをここから学んだと言っています。
家康の才能を見抜き育てた今川義元と太原崇孚雪斎、天下人は、駿府で育ったのでした。

臨済寺にあるもう一つの不思議・・・
桶狭間で織田軍に負けた今川軍、この臨済寺にある今川神廟には、義元の首が安置されています。
どうして戻ってきたのでしょうか?
桶狭間の戦いののち、尾張の一大名だった信長が、大大名の今川義元を破ったことによって天下に名を轟かせ、戦国列強へと上っていきます。
信長は義元を手厚く葬り、供養しているのでした。

また、西山本門寺にも本能寺で討たれた信長の首塚があります。
信長の遺体は見つかっていません。
しかし、本能寺の変で自刃した信長の首は、密かに西山本願寺に埋葬されてたと言われています。

駿河凧は、今川義元が先勝祝いに揚げたのが始まりと伝えられています。
戦国時代、凧は戦の先勝祝いや情報の伝達などに用いられていました。
それは幕末まで・・・
そして、戦が無くなると凧は平和の象徴として子供たちの遊びに受け継がれていきます。
静岡駿府の城下町、そこは今川義元・徳川家康が培った歴史が色濃く残る富士の絶景に溶け込んだ町でした。
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小田原の城下町~後編~です。
戦国時代を駆け抜けた一族・・・
北条早雲・・・北条5代、100年の秘密げ眠る城下町です。

下剋上の魁・・・小田原城下町を築いたのは、北条早雲です。
伊豆の国を支配していた早雲が、関東支配を目論んで小田原を攻め落とし・・・次々と勢力を拡大し、関八州を統治するとなりました。

その本拠地となったのが小田原です。
この総構えの城は、当代一の戦上手、この城は、武田信玄や上杉謙信をも撃退するべく、戦国最大級の城郭となっています。
その城を落とし、天下人となったのが豊臣秀吉でした。

小田原城から西へ3㎞にある一夜城・・・
それは、豊臣秀吉が小田原征伐の拠点として石垣山山頂に築きました。
秀吉の天下統一に、最後まで抵抗し続けた北条氏・・・
秀吉は、1590年に小田原征伐を決行、20万ともいえる大軍で小田原城を包囲しました。
この戦いには・・・徳川家康・前田利家・井伊直政らも参陣・・・
他にも、伊達政宗・上杉景勝・真田昌幸・細川忠興・池田輝政・蒲生氏郷・九鬼嘉隆・石田三成・織田信雄・・・そうそうたるメンバーの大戦でした。

そして、秀吉の奇策・一夜城・・・
この一夜城は・・・80日ぐらいで造られたと言います。
この一夜城、1日にして造られたのではなく・・・北条に気取られぬように城を造り・・・
その巨大な姿をいきなり見せつけるというものでした。
このために北条側は、戦意喪失したと言います。
戦国時代、関東には石垣を使った城はまだありませんでした。
そこに・・・石垣のある立派な城を造ってしまったのです。
その力の差に・・・降伏せざるを得なかったのです。
1か月に及んだ小田原評定・・・
降参するか、玉砕するか・・・今でも”いこかもどろか小田原評定”と言われるのです。
5代に及んだ北条も、ここに滅んだのでした。

関東の奥座敷と言われる箱根も北条早雲が治めていました。
箱根はもともと早雲が呼び寄せた木工職人が多く住んでいましたが。。。
寄木細工発祥の地・畑宿は江戸時代に誕生しました。
日本の伝統工芸・・・天然の木の色を活かした幾何学模様が特徴です。
この寄木細工が有名になったのは・・・”秘密箱”にあります。
昔、東海道を旅行するときの・・・盗賊・スリの防犯対策でした。
もともと秘密箱は枕でした。
それに仕掛けを作って大事なものをしまっておいたのです。
そして・・・1回では開けられないこの秘密箱。
つまり、携帯金庫だったのです。

箱根湯本は・・・箱根越えをする旅人達の休息地として栄えてきました。
箱根が温泉地となったのは、今から1200年前のこと。。。
箱根湯本が発祥と言われています。
最古の源泉は天平・・・熊野神社の源泉だと言われています。
早雲は温泉が大好きで、戦場で傷ついた家臣たちをねぎらうために、この地に湯治場を作ったと言われています。
早雲もそれとなく一緒に入り、民たちの話に耳を傾けていたそうです。

江戸時代には大名行列が通りました。
力を示す大名行列・・・各藩は、1000人単位でやって来ます。
しかし、路銀の捻出に苦労したとか・・・藩にとっては莫大なお金がかかります。
人気のない箱根山中では、権威も捨てて・・・経費節減の為に走ったと言われています。

血で血を洗う戦国の世に、民を守る優しい国づくりを目指した北条早雲・・・
その功績は、今なお小田原の人々の生活に息づいていました。

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名古屋の城下町・・・
この尾張名古屋・・・戦国の風雲児・織田信長をはじめ戦国を代表する大名を数多輩出する金の鯱に代表される尾張名古屋は城で持つ・・・の東海随一の大都市・名古屋の城下町です。

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愛知県名古屋市・人口226万8423人、面積326.4㎢、特産は名古屋コーチン・名古屋友禅・きしめんです。
織田信長をはじめ、豊臣秀吉・前田利家・加藤清正・柴田勝家・福島正則・山内一豊・佐々成政・・・など歴史を彩った武将を数多く輩出しました。

戦国の世が終わるころ・・・徳川家康が江戸と大坂を結ぶ東海道の要衝として整備し、初代藩主は9男・徳川義直と・・・明治になるまで徳川家御三家のひとつです。
城主は徳川御三家筆頭・尾張徳川家。石高61万9000石、家紋は三つ葉葵です。

そして・・・戦国の風雲児・織田信長の足跡があちらこちらにある町です。


大きな名古屋城・金の鯱で有名です。
天守閣は五層五階・地下1階で高さ55.6mです。
昭和20年までは、本丸御殿を含め建物がのこっていましたが、戦時の空襲で焼失してしまいました。
現在の天守閣は、昭和34年に再建されたものです。
名古屋城、建てたのは家康です。
豊臣方に目を向けて、西の最前線として作られました。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1610年名古屋城の築城を開始。
この城を造ったのは、豊臣方の武士でした。
築城を命じられたのは、細川忠興・福島正則・加藤清正・池田輝政・黒田長政他20名。
工事費用や人足は外様大名側で用意し、何か不都合なことがあればそれを理由にお取り潰し・・・できなくても、懐具合を悪くして弱らせるためです。
あまりにも過酷なものでした。

それは家康にとっては天下統一のための最後の布石だったのです。
大阪城は、当時最高の36mでしたが、名古屋城はそれをはるかに上回る55.6m・・・まさに徳川の時代が到来したことを世に告げました。

金の鯱は、北が雄・南が雌・・・雌雄一対なのです。
徳川の権力の象徴として作られ、当時として慶長大判1940枚分の金量(約270キロ)の金が使われていました。現在は2代目です。
江戸時代には、凧に乗って鱗を剥いだ泥棒も・・・昭和12年にもそんな泥棒がいました。

そして・・・その名古屋城の中に・・・もう一つ那古屋城がありました。織田信長の父・信秀作り信長が住んでいた那古屋城です。元服するまでこの城で育ちました。そう、うつけの頃は、ここに住んでいたのです。

名古屋城を知るためには清州・・・を知ることが必要だそうで。。。
清州城・・・若き日の信長が活躍したころ・・・尾張の政治・経済の中心は清州で、京に次ぐ大都市でした。
この大都市を手に入れることが出来た信長は、圧倒的な経済力も手に入れることになったのです。
そして・・・清須は名古屋のルーツとなりました。
桶狭間の戦いの出発点はここでした。

敦盛を舞った後、街道一の弓取りと詠われた今川義元を破り、天下統一へと突き進みます。
そんな信長出世の原動力となった清州城は???
最盛期は人口7万人で、今よりも大きかったようです。
信長が治めていたころの清州城下には、秀吉・利家・清正・勝家・正則・一豊・成政・・・そうそうたるメンバーが住んでいました。
三重の堀があり、川が流れていて・・・。

この清州の町の全てを持って行ったのが名古屋城。
世紀の大引越し・清須越しです。
当時尾張の中心地であった清須から人のみならず建物もすべて大移転したというのです。7万人の人と共に、100以上の神社仏閣・橋や城の櫓・・・およそ2700戸の町屋も引っ越しました。

それを行ったのが徳川家康。
大坂の豊臣方に対して作る場合、川に近い清州城だと豊臣得意の水攻めに合う可能性が・・・水に弱い地形で心もとない・・・ということで引越ししたのです。


熱田神宮・・・三種の神器の一つに数えられる草薙神剣が祀られ、1900年以上の歴史を誇る神社があります。
信長が桶狭間の戦いに出陣する際に熱田神宮に立ち寄って戦勝を祈願したと言われています。
此処には、桶狭間の戦いに勝利した信長が、戦勝のお礼として奉納した瓦葺の塀・・・信長塀が残されています。

万松寺は織田家の菩提寺です。・・・信長の父・信秀の葬儀で抹香を投げつけ、うつけ者と呼ばれる所以になった場所で・・・織田信秀のお墓があります。

信秀のお墓はあまりにも小さいのですが・・・
もともとは大きかったお墓、信長が安土城を造る際に石を集めたものの・・・
集まらなかったので、“親父の墓石を持って来よう”と言い出しました。

そうなると、周りもビビッて自分の家代々の墓石を持って行かれては困る!!
と、必死に石を探し始めまたと言います。


この織田信長、奇抜な行動からうつけ者と呼ばれています。それは、敵を欺くためとも天性の激しい気性からとも言われています。
しかし、それこそが比類なき天才の証なのです。

名古屋友禅・・・7代藩主徳川宗春が招いた江戸の絵師から伝えられました。
京友禅や加賀友禅は、たくさんの色を使った鮮やかなものですが、名古屋友禅の特徴は、淡彩濃淡です。
宗春のドハデ文化の源は、織田信長にあったのかもしれません。


数多くの戦国ヒーローを生んだ名古屋・・・
そこは、風雲児な信長の革新的な精神を受け継ぎ、ドハデな文化の中に心意気を感じる活気のある町でした。

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戦国一の出世頭、豊臣秀吉が天下取りへと第一歩を踏み出した城下町です。

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滋賀県長浜市、人口12万4054人、面積680.79㎢、特産は湖魚・鴨料理・ひょうたん。北近江を中心として北国街道や琵琶湖水運の要所として栄えてきました。
天下人・豊臣秀吉が最初に手掛けた城下町です。
小谷城の戦いで浅井長政を滅ぼした織田信長が、武功を挙げた秀吉に浅井の領地・北近江を与えたものです。

今浜と呼ばれていた町を、主君の名を取って長浜と改称。初めて城持ち大名となった秀吉は、稀代の戦略家・人心掌握の天才としてのし上がっていきます。


豊公園には・・・長浜の人の心のよりどころ、豊臣秀吉公が・・・

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尾張の貧しい農家に生まれ、足軽から天下人へ立身出世をした豊臣秀吉。
木下藤吉郎として信長の草履取りから始まった物語は、この長浜で大きな転機を迎えます。

長浜で初めて一国一城の主となった藤吉郎は、羽柴秀吉と改名。

長浜こそ、秀吉の原点となります。
この地を拠点に、主君・信長がなしえなかった天下統一を果たすのです。


長浜の城下町は、碁盤目状になっています。
もともと北近江は、浅井家が治めていた土地です。
信長の妹・お市をもらった浅井長政は、信長に反抗し・・・浅井家は滅亡。
この戦いで先陣を務め一番の手柄を挙げた秀吉に、北近江を与えたのです。

長浜を手に入れた秀吉は、山側にあった小谷城を配乗し、琵琶湖を望む長浜城を築城しました。
湖、港、北国街道・・・群雄割拠の時代に、経済の重要性を考え、生産性のある町を・・・と、考えて作られたのが、長浜城です。

近代城下町の元祖となり、以後の城下町に影響を及ぼしました。


三百石朱印地・・・済特区を作ります。
年貢を免除することで、1人でも多くの人に住んでもらうために・・・
商人に来てもらうために・・・
長浜の52の町のうち35町は、朱印状によって年貢免除の特別地域とされました。
時代を先取りです。
何にもなかった長浜は、城下町として賑わいます。
そして秀吉は、商業の活性化を図るため、琵琶湖から水路を城下町に張り巡らせました。


豊国神社 ・・・
秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600年)に、長浜町民たちによって作られました。
大坂へと移ってしまった秀吉ですが、その秀吉を変わらず想っていたようです。
でも・・・どうして恵比寿様が???

隠された秀吉・・・

豊国神社が建てられた1600年は、関ヶ原の戦いの年。

東軍の総大将徳川家康は、西軍の石田光成を撃破!!
天下は豊臣から徳川に移ってしまいました。
しかし、豊臣家を慕う武士や町民は絶えることなく・・・徳川幕府は、豊臣を徹底的に排除しようとします。
だから・・・豊国神社も廃社・・・。それは、明治時代になるまで続きました。
なので、隠れキリシタンのように・・・隠れ秀吉。。。が、たくさんいるそうです。

千成瓢箪が大好きだった秀吉、瓢箪の馬印を立てて戦場を駆け回ったと言います。
戦に勝つために、瓢箪を増やしていった秀吉、千成瓢箪は秀吉のシンボルとなり、今も長浜の町にたくさんあります。

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毎年4月に行われる長浜曳山祭りは豪華絢爛なお祭りで、京都の祇園祭、岐阜の高山祭と並ぶ日本三大山車祭りの一つです。
曳山の上では、子供歌舞伎が行われます。

この豪華なお祭りは、民の秀吉お想う気持ちから始まりました。
秀吉は、長浜時代に石松丸(秀勝)という子供がいました。この産まれたお祝いに民に砂金を与え、民はそのお礼に豪華絢爛なお祭りを催したのだそうです。
その規模は、年々盛大となり、今では日本を代表するお祭りとなりました。
子供歌舞伎は、6歳で亡くなった石松丸のために行われたといういいつたえもあります。

下船町・・・秀吉は琵琶湖水運に必要な船乗りたちを居住させました。
現在は、船の廃材を利用した船板塀が残されています。

観音護国寺、長浜城主になったばかりの秀吉と、それを支えることとなる石田三成の出会いの場所だと言われています。

豊臣政権の五奉行となり、行政や外交を担当することになる三成は、このお寺に預けられていました。つまり、この場所は、三献の茶の舞台となった場所です。

真夏に行われた秀吉の鷹狩り。
休憩のためにこの寺を訪れます。
この時に茶を出したのが光成です。
一杯目は大きな茶碗にぬるめのお茶を・・・
二杯目はやや熱め・・・三杯目は熱めのお茶を出しました。

この気遣いが秀吉の心を掴みます。
住職を諭して光成を連れていきます。
そして、長浜で同じような子供たちを育てます。秀吉塾です。
その中には、加藤清正、福島正則などもいました。

召し抱えた子供たちを、わが子のように育てる秀吉。
家来もいないので、この子たちを伸ばそうと・・・才能を見出す力は天下一品です。
この子たちが、賤ヶ岳の戦いで活躍する賤ヶ岳の七本槍です。加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則・福島正則・・・
聡明だった光成には、政治・経済を教え、知の武将へと育っていきました。

愛を持って才を育てる・・・そして、秀吉は天下統一へと突き進んでいったのです。



魚屋さんには鴨が並んでいます。
鴨は魚???

琵琶湖の猟師さんはお魚を取っていましたが、その時に、同じように網に鴨がかかったのだそうです。昭和40年ごろまで続いていました。
秀吉も、大坂に行っても鴨肉を奨励していたそうです。

おねが作った長浜名物・・・それは、のっぺいうどんです。
のっぺりしているからのっぺいうどんだそうで・・・。
とろみのあるおだしに鴨が入っているうどんです。
秀吉が初めて長浜で城を持った当時に作っていたと言われています。
みなに振る舞っていたようです。

豊臣秀吉が、天下取りの第一歩を踏み出した城下町・・・長浜。
民を大切にした秀吉・・・
その思いに今も応えている城下町でした。

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戦国最強と詠われた義の戦士、上杉謙信・・・上杉の城下町。
米沢は、上杉家が代々治めてきた土地です。

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山形県米沢市・・・人口8万6885人、面積548.74㎢、特産は米沢牛・鯉・米沢織

代々、上杉家によって治められてきた米沢藩・・・
祖は、自らを毘沙門天の化身とし、戦国時代に無敗を誇った上杉謙信です。

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その武勇は数知れず・・・しかし、有名なのは、川中島の合戦です。
毘沙門天の軍旗を掲げ、信玄との一騎打ち・・・それは、まさに伝説。
越後の龍と呼ばれ、生涯義を貫いた名将です。

その謙信の跡を継いだのが、米沢藩初代藩主・上杉景勝です。
豊臣政権下で五大老のひとりとなり、越後39万石から会津120万石の大大名となった上杉でしたが、関ヶ原で西軍についたことで米沢30万石に転封・・・わずか1/4となってしまいました。

幕府の脅威に立ち向かいながら、守ってきた米沢の城下町です。

米沢城・・・今は、石垣が少し残っていますが・・・
お城はもともと天守はなく、三階櫓と藩主の館のみの平城だったそうです。
非常に質素な城だったそうです。

これには、やむに已まれぬ事情が・・・
120万石から30万石へ・・・家臣だけでも6000人も入りました。
誰一人切り捨てることなく、米沢へと連れてきました。
だから・・・お金がなかったのです。

そこには、景勝が謙信から受け継いだ義の精神がありました。

そして、米沢城が・・・謙信のお墓になっています。
その謎は???

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お城には、“上杉謙信御堂跡”があります。
そこに、謙信公の遺骸が安置されていました。
謙信の遺骸は、甲冑を着せ、漆で固めて保存したと伝えられています。

家臣たちは、謙信の言いつけを守り、越後⇒会津⇒米沢へ・・・お国替えをする度に、お謙信公を移したのです。

毎日謙信に手を合わせること・・・
戦に負けなかった・・・義によって働く謙信を信仰していたのです。
明治になるまで、謙信は御堂で眠り、家臣たちを、米沢を見守っていました。
米沢城は、謙信そのものになっていました。


上杉家廟所・・・1623年景勝逝去の際・・・初代景勝から11代斉定までこの地に埋葬されています。
今は、謙信公もこちらに移されて、歴代藩主と一緒に眠っています。

上杉謙信公墓所

謙信は、31歳で関東管領職の上杉家の名跡を譲られ、越後・関東の平定に努めました。


「龍」と「毘」

八海山・法音寺は、越後時代から1200年以上の歴史のある真言宗のお寺で、菩提寺です。
お寺に掲げられた毘沙門天の旗・・・
これは、毘沙門天を信仰していた上杉謙信が戦で掲げていた旗印です。

ここには実際に謙信公が拝んでいた毘沙門天の本物の“泥足毘沙門天像”があります。
軍神と呼ばれた謙信公が、深く信仰していた毘沙門天です。

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謙信公は、戦勝祈願をして戦に行ったと言います。
ある時・・・謙信が越後・春山城で祀っていた毘沙門天像が、戦から戻るとその足に、泥がついていたという伝説が残っている毘沙門天です。

上杉家は・・・謙信公から14代は米沢で過ごされました。
現在は東京で暮らしているのが17代・上杉邦憲さんは・・・
“はやぶさ”の開発にも携わっているJAXA宇宙工学博士だそうです。

上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件 (PHP文庫)

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米沢藩の危機を救った救世主登場・・・上杉鷹山。
鷹山公が藩主の時、日本中が大飢饉(天明の大飢饉)・30万人の餓死者でした。
上杉家も財政破綻寸前・・・

第9代当主・鷹山は、飢饉のときの食べ物として城のお濠で大量の鯉を養殖。
お城には、鯉の供養碑も残っています。

さらに、鷹山が奨励したのが、一汁一菜。
ご飯・おかず・お味噌汁だそうです。

財政再建策に取り掛かった鷹山は・・・
米沢織・・・生糸の生産に力を入れます。
これは、大ヒット商品となり財政を救います。
自分たち、奥女中から始めた倹約でした。

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は、とっても有名です。

自分が率先してする・・・
藩の立て直しに一生をかけた人だったのです。

米沢の公立小中学校では、謙信と鷹山の肖像画が掛けられ、鷹山の功績を今に伝えています。
上杉鷹山は、米沢を救った救世主として今も人々に語り継がれています。


米沢は食べられる城下町???
武家屋敷・・・原方衆=下級武士の家は、城下の外にあります。
減封してやってきた際に、入りきらなかったのです。

そんな武士たちの任務は、藩境警備と荒れ地の開墾でした。
藩士半農の生活・・・
石高の少ない米沢藩の武士は、自給自足の生活を送っていました。

その為、下級武士の家のほとんどに畑がありました。
町全体に、柿・栗・胡桃の木を植え、屋敷の生け垣は、食べられる“ウコギ”の木にしました。
このウコギは、トゲがあるので侵入を防ぎ、新芽をてんぷらやお浸しとして食べるそうです。

町の至る所で食べられる食料を作り、飢饉に備えていました。
また、鷹山時代には“糧者”(かてもの・糧になるもの)として、82種類の山菜や果物の食べ方などのサバイバル本を無料で配布していました。
これは、戦争中に復刻版が出たそうで・・・今も、ヘルシーブームとして復刻されているそうです。

郷土料理は、柿の白和え、ウコギ、ひや汁・・・ひや汁は、一汁一菜から生まれた郷土料理だそうです。


義に生きる大切さを説き、武士の生き様を教えた謙信と、民を救い助け合う心を広げた上杉鷹山、米沢の城下町は、二人が残した逞しさと優しさがにじみ出た町でした。



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