デアゴスティーニ 戦国武将データファイル第46号太原雪斎/大村純忠 他 価格:580円 |
静岡県静岡市人工72万917人、面積1,412㎢、特産は茶・みかん・桜えび
1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は、2年後に秀忠に将軍職を譲り、駿府城に移り、大御所として隠居生活を送りました。
家康自ら設計し、江戸と変わらないくらいに繁栄した城下町です。
しかし戦国時代には、今川義元が・・・城下町の基礎を築いていました。
桶狭間の戦いで命を落とし、歴史の表舞台から消えた義元・・・
東海一の弓取りと言われ、武勇に秀でた武将で、多くの戦国武将に影響を与えたと言われています。
駿府城は・・・今はお城はなく公園となっています。
富士よりも大きいと言われたその城・・・家康の頃は、三重の堀に囲まれた堅固な城で、天守は五層七階の壮大な城でした。
天守閣の後ろに富士が見える・・・そんな大きな城で、東海道を行き来する人は驚いたと言います。
本丸跡には、家康の像が建てられています。
駿府でなければならなかったと言われていますが。。。
駿府には江戸に無い3つのものがありました。
それが、「一富士二鷹三茄子」です。
これは、家康の好きなものを3つ並べたものです。
富士の絶景と鷹狩りの地、そして折戸茄子(献上茄子)は名産でした。
折戸茄子は賀茂茄子の原種と言われています。
家康公にあやかろうということで、「一富士二鷹三茄子」と言われたようです。
東京・銀座のルーツは駿府だった?
両替町には・・・駿府銀座発祥の地があります。
銀座とは、銀貨を作っていたところ。
慶長11年家康が隠居先を駿府と決めたことで、駿府では、大々的な街づくりが行われました。
その資金を調達するために、家康は京都にある伏見銀座を駿府に移したのが・・・現在の両替町です。
両替商もたくさんあったようです。
ここが、江戸京橋に移され・・・今日の東京の銀座となりました。
ちなみに金座もあり、この金座のあった場所は今の日本銀行本店です。
静岡おでんにある黒はんぺん。
徳川家康の家臣が、余ったイワシの活用術として発案したと言われています。
大龍山・臨済寺・・・
ここは、今川家の菩提寺ですが・・・三つ葉葵の家紋が掲げられています。
軍師とは・・・軍略・政治・外交・築城のすべてに関わる大名を影で支える存在です。
有名なのは、山本勘助・北条幻庵・黒田官兵衛・竹中半兵衛・直江兼続・片倉小十郎などそうそうたるメンバーです。
そんな中で、戦国最高の軍師・黒衣の宰相の異名を持つ太原崇孚雪斎が、この臨済寺にいました。
今川義元を天下に最も近い大名に育て上げた男です。
外交面でも手腕を発し、甲相駿三国同盟は、雪斎最大の功績とされています。
また、岡崎城に狙いを定めた雪斎は、岡崎城から家康を人質として迎えるのでした。
竹千代が雪斎から教育をうけた部屋も残されています。
その部屋で、儒学や兵法を学んでいました。
家康は、全てをここから学んだと言っています。
家康の才能を見抜き育てた今川義元と太原崇孚雪斎、天下人は、駿府で育ったのでした。
臨済寺にあるもう一つの不思議・・・
桶狭間で織田軍に負けた今川軍、この臨済寺にある今川神廟には、義元の首が安置されています。
どうして戻ってきたのでしょうか?
桶狭間の戦いののち、尾張の一大名だった信長が、大大名の今川義元を破ったことによって天下に名を轟かせ、戦国列強へと上っていきます。
信長は義元を手厚く葬り、供養しているのでした。
また、西山本門寺にも本能寺で討たれた信長の首塚があります。
信長の遺体は見つかっていません。
しかし、本能寺の変で自刃した信長の首は、密かに西山本願寺に埋葬されてたと言われています。
駿河凧は、今川義元が先勝祝いに揚げたのが始まりと伝えられています。
戦国時代、凧は戦の先勝祝いや情報の伝達などに用いられていました。
それは幕末まで・・・
そして、戦が無くなると凧は平和の象徴として子供たちの遊びに受け継がれていきます。
静岡駿府の城下町、そこは今川義元・徳川家康が培った歴史が色濃く残る富士の絶景に溶け込んだ町でした。
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