昭和の選択です~~!!

明治38年日本海軍連合艦隊が世界を驚愕させました。
当時世界最強と謳われたロシア・バルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのです。
日露戦争の体勢を決したのです。
この時、連合艦隊の巡洋艦・日進に乗り込んでいたのが、海軍兵学校を卒業したばかりの山本五十六です。
未来の連合艦隊司令長官は21歳の若さでした。
完璧な勝利をおさめた日本海海戦でしたが、山本は戦闘中の事故で大けがを負います。
山本は左手の指2本を失っていました。
明治・大正・激動の昭和を軍人として生きた山本は、戦争回避を信念とするに至ります。
しかし、連合艦隊司令長官となった山本は、作戦立案を迫られます。
親友に宛てた手紙には、対米戦争の悲痛な思いが綴られていました。
山本をアメリカとの戦争に向かわせたものは何だったのでしょうか??
その葛藤と選択は・・・??

日本海海戦からおよそ15年後、35歳の山本五十六はアメリカ駐在を命じられます。
そののちは大使館付武官として合計3年を過ごします。
山本が目の当たりにしたのは、アメリカの豊かな石油資源と大量生産システムによる工業先進国の姿でした。
中でも山本の興味を引いたのは、航空機の発達でした。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機は、その後も研究されていました。
第一次世界大戦後、各国は平和を求め戦艦など主力艦などの保有量のを制限する軍縮会議を開きました。
山本の兵学校時代からの親友・堀悌吉は、この会議に随行していました。
日本はイギリス5:アメリカ5:日本3.5の保有を主張しましたが、日本3(6割)に抑えられます。
日米の国力差を知る全権・加藤友三郎海軍大臣は、堀悌吉にこう言って条約に調印しました。

「平たく言えば金がなければ戦争は出来ぬということなり
 結論として日米戦争は不可能ということ」

加藤や堀の考え・・・国力でいったら、過大な比率をもらっていると考えたのです。
しかし、日本3を単純に数字が低いというところに引っかかる人も多かったのです。

ワシントン会議集結8年後のロンドン海軍軍縮会議で、巡洋艦、駆逐艦などの補助艦が制約を受けることとなります。
度重なる軍縮は、海軍内に大きな軋轢を生んでいきます。
国際的な軍縮条約を順守しようとする条約派と、反対する艦隊派とに分かれます。
艦隊派は巨大戦艦で大砲を撃ち合う大艦巨砲主義を中心に置きます。
艦隊派を支持していたのは、軍令部のTOP伏見宮博恭王・・・艦隊派は、伏見宮の力を背景に、条約派の軍人を次々に引退させていました。
堀悌吉は、条約派の中心にいました。
堀の処遇に危機感を抱いた山本は、伏見宮と直談判に及びます。
山本はこの時の発言を書き残しています。

「堀たちは、事実とすこぶる異なる悪評を立てられております
 人事が汚れなく、神聖公明に行われることが、海軍結束の唯一の道であります」

しかし3か月後、堀も予備役に編入され、現役を去ります。
その翌年、山本は海軍航空本部長となり、国産航空機の開発に尽力します。
これがのちにアメリカを震撼させる零戦の誕生へと繋がっていきます。
アメリカでの経験から、山本は今後、航空機が戦争の主力となることを見通していたのです。

昭和11年、山本は海軍次官として海軍省への出所を命じられます。
海軍次官は、海軍大臣を補佐しながら軍を政治面から動かす重要な役職でした。
翌年、山本と旧知の間柄の米内光正が海軍大臣として就任。
米内とのコンビで、山本は国政に参画していくこととなります。

山本が海軍次官を務めていた昭和12年7月・・・北京郊外盧溝橋での衝突がきっかけで、日中両国は全面戦争に突入しました。
この戦争で、山本が育てた海軍航空部隊は都市部への爆撃を展開します。

日中戦争がはじまった翌年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶという動きに出ました。
日本陸軍は、ドイツ、イタリアの力を頼りに、中国を支援するイギリス・アメリカをけん制しようと考えたのです。
しかし、海軍はこの同盟締結に断固反対でした。
三国同盟を結ぶと、即座にアメリカが日本を敵視とする・・・
アメリカと大変な衝突関係になってしまう・・・!!
戦力物資の輸出が止まってしまうどころか、戦争になる可能性があると思う海軍の軍人はたくさんいました。
日本の石油の殆どは輸入に依存し、そのほとんど・・・8割がアメリカからでした。
米内海軍大臣や、古賀軍令部次長ら海軍上層部は、一丸となって反対しました。
アメリカの国力を知る海軍次官・山本は、反対の急先鋒でした。
強硬に反対する山本には、同盟推進派による暗殺まで計画されました。
身辺に危険を感じた山本は、この時覚悟のような遺書を残しています。

”勇戦奮闘
 戦場の華と散らむは易し
 誰かし至減一貫 俗欲を排し斃れて後 巳むの難きを知らむ
 此身滅すへし 此志奮ふ可からず”

昭和14年8月・・・
三国同盟締結に山本らが反対を貫いていた時、ドイツは突然ソ連と”独ソ不可侵条約”を結びます。
ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと考えていた同盟推進派の目論見は外れ、三国同盟は立ち消えとなります。
ヨーロッパ情勢を見誤った内閣は退陣・・・山本も海軍省から転出することになりました。
新たなポストは、海軍の花形・・・連合艦隊の司令長官という重職でした。
山本の就任直後、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
軍政を離れ艦隊に復帰した山本は、この後、激動する世界情勢の中で苦悩することとなります。

瀬戸内海の小島・柱島・・・
標高およそ280mの山頂にレンガ積みの建物が残されています。
海軍が建設した海軍見張り所の跡です。
ここで何をしていたのか・・・??
柱島は、呉の海軍工廠に近く、大艦隊が停泊するには十分な位置にありました。
山本が指揮する連合艦隊は、この柱島の南2キロに停泊することを常としていました。
山本が司令長官に就任した直後に始まった第二次世界大戦・・・
ドイツは破竹の勢いで勝ち進みます。
わずか1年足らずの間に、オランダ、フランスなどがドイツの軍門に下ります。
日本ではドイツの勢いを受け、再び日独伊三国同盟締結への機運が高まります。
アジアのオランダ領、フランス領の資源を確保しようという動きでした。
アメリカはこれに反発し、航空機用ガソリンや、鉄くずの対日輸出を禁止するという強硬な態度に出ました。
抜き差しならない状況で、山本は海軍首脳部が集められた席上で、三国同盟締結への賛同を求められました。
伏見宮王らがリードして、海軍も同盟を承認する動きに出ていたのです。
アメリカとの戦争に反対の山本は、連合艦隊司令長官として不満を表しました。

”重油は何処よりとるや
 鉄は何処より入るや”

核心を突いた問いかけでしたが、黙殺され、海軍は同盟締結に賛成しました。

昭和15年9月27日、日独伊三国同盟締結。
いよいよ対米戦争が現実味を帯びてきました。
山本は、首相・近衛文麿に呼ばれ、対米戦の展望を問われました。

「ぜひやれと言われれば、初めの半年か一年は、随分暴れて御覧に入れる
 しかしながら、2年3年となれば、全く確信は持てません
 三国同盟ができたのは致し方ないが、こうなったうえは日米戦を回避するよう、極力ご努力願いたい」

アメリカとの戦争を回避したい山本・・・
しかし、司令長官として連合艦隊を率いなければいけない職責が重くのしかかります。

もはや、アメリカとの戦いは避けられないのか・・・??
しかし、国力の差を考えると、勝てる見込みはない・・・
発展目覚ましいアメリカには、豊かな石油資源まであるのだ。
例え戦争になったとしても、なんとか早期に講和へと持ち込まなくてはならない・・・!!
戦いが長引けば、苦しい戦況に陥ることは間違いない・・・

今まで育ててきた航空兵力を用いて奇襲攻撃を立案するしかないか・・・??
緒戦で大きな打撃を与えれば、アメリカの戦意を喪失させることができるかもしれない。
そのためには、奇襲作戦しかない・・・??
いや・・・アメリカと戦争をしてはいけない・・・!!
国が兵を養っているのは、戦うためではなく平和を守るためなのだ・・・!!
かつて三国同盟締結を阻止したように、軍と国政を動かすことができないだろうか・・・??
戦争回避を願うものは、海軍内にもたくさんいる。
既に退役されている米内大将に復帰していただき、伏見宮殿下に代わって軍令部総長についてもらって海軍の方針を変える・・・??
大軍大臣も務めた米内大将なら、海軍内の意見をまとめて戦争を回避することができる・・・??

海軍が動かねば、アメリカとの戦争は不可能なのだ・・・!!
対米戦争回避への道は残されているのか・・・??

昭和16年1月7日付の山本直筆の文書には・・・
厳秘と書かれた文書は、前年11月に海軍大臣に提示した山本の考えの覚書です。
従来の作戦で、机上の演習を繰り返しても、日本海軍はアメリカの勝つことは出来ず、このまま戦ってはじり貧に陥ってしまいます。
そこでまず遂行すべきなのは、開戦後真っ先に敵の主力艦隊を猛烈に攻撃してアメリカ海軍と国民の士気を失わせることです。
そのため、敵主力艦隊がハワイ真珠湾に停泊している場合、航空部隊で徹底的に撃破いたします。
月明かりの夜か、夜明けを狙い、全航空兵力を使って全滅覚悟で強襲・奇襲をかけるのです。

山本は、アメリカ太平洋艦隊の基地・ハワイ真珠湾を全力で攻撃する奇襲作戦を立案しました。
しかし、この文章の末尾にはこう書かれています。
”堂々の大作戦を指揮すべき大連合艦隊司令長官は、他にその人ありと確信する次第なり
 大臣にはその名前を告げ、伏見宮総長にも申し上げた”
山本は第二艦隊司令長官となっていた古賀峯一にその名を明かしています。

「此上は一日も早く 米内氏を使用の外なし」と。

さらにアメリカとの戦争回避のため、米内の軍令部総長への起用も進言していました。
山本は、奇襲作戦を立てながらも、戦争回避の人事工作を画策していたのでした。
この相反する考えは・・・??
軍人として「やったら負ける」とは言えない・・・
常識的に考えて出来ない作戦を要求して、出来ないといわれたら
「それじゃあ今はできません」と言いたかったのか・・・??

山本が望んだ人事が実現されることもなく、最後の望みを天皇の決断にゆだねるほかはありませんでした。
その苦しい進駐を堀に送っています。

「最後の聖断のみ残されておるも、個人としての意見と正確に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、真にへんなものなり。
 之も命というものか・・・。」

昭和16年11月、山本はまだ戦争回避の望みを捨てていませんでした。
ハワイ攻撃を準備する艦隊首脳陣に、日米交渉が今も続けられていると告げました。
交渉妥結の場合は、12月7日午前1時までに引き上げを命じると付け加えました。
山本のギリギリにして苦渋の選択でした。

しかし・・・山本はその時を柱島沖の連合艦隊旗艦長門で迎えました。
昭和16年12月8日未明・・・山本が放った奇襲部隊は作戦を成功させました。
真珠湾に停泊中の戦艦4隻を撃沈し、航空機200機以上を破壊するという戦果を上げたのです。
国内はこれに湧きます。
ところが・・・アメリカ太平洋艦隊の空母3隻は真珠湾にはおらず、決定的な打撃は与えていませんでした。
アメリカとの航空兵力の差を知る山本は、不安を募らせていました。

”現在の航空にては 今春伊吾 心細き限り”

山本の想像通り、アメリカは迅速に巻き返しを図ります。
これ以後日米海軍は、太平洋上で熾烈な戦いを繰り広げます。
昭和18年4月18日、山本はラバウルから最前線の視察のために飛び立ちました。
之を事前に察知したアメリカ軍は、パプアニューギニア・ブーゲンビル島の上空で待ち伏せし、山本の搭乗機を撃墜しました。
わずか4分ほどの交戦だったといいます。
翌日、墜落機の座席で山本の遺骸が発見されます。
かつて日本海海戦で二本の指を失った左手に軍刀を握り右手を添えていたといいます。

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