日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:堀田正睦

啓発録 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ12)

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西郷は、後にこう言っています。

「才能や学識、人間の器、左内にわれの及ぶところは一つもない」と。

日本を震撼させた安政の大獄・・・左内は捕らえられ、僅か26歳で刑場に散りました。
どうして幕府は、左内に死を命じたのだろうか?
1834年、福井藩の藩医の家に生まれた左内・・・その人となりを表す資料が残っています。
「啓発録」・・・左内が数え15歳の時に書いたもので、人生の目標を定めた書です。
幼心を捨て、気を振るい、志を立て、勉学に励み、交友を選ぶ・・・
左内は、この5つを自らに課すことで、武士として生きる道を目指しました。
文末には・・・
「私は医者の家に生まれ、家を継がなければならない
 志を果たせぬ事が、悔しくてならぬ」
と、書かれています。
身もだえするような焦り・・・
背景には、西洋諸国の脅威がありました。
1840年に勃発したアヘン戦争、隣国清がイギリスに敗れ、植民地化されていました。
この危機から日本を守らねばならない!!
そのため、左内が選んだのが蘭学でした。
1849年、16歳で適塾に入門します。
福沢諭吉らを輩出した蘭学の名門です。
西洋の医学書を原書で読んで、最新の知識に触れた左内の結論は、日本は西洋に学ばなければならない・・・というものでした。

後に左内は、こう記しています。
貿易を始めることは、国家の大なる利益、品物だけでなく、知恵の交易も肝要である。
それは、西洋の政治思想や軍事産業など、あらゆることを学ぶという決意でした。

1853年、ペリーが来航し、開国を要求します。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約締結に踏み切ります。
この危機に動き始めたのが、左内の主君・松平慶永(春嶽)です。
越前藩の記録によると・・・一橋慶喜公は、不世出の御英明・・・このお方を将軍の後継にすれば、天下憂えるに足らず!!
時の将軍・家定は、病弱で暗愚とのうわさが絶えない・・・その跡継ぎに当時17歳、御三家水戸斉昭の子で、栄明に高い一橋慶喜を将軍に据えようというのです。
そこには、大名たちの政治参加の意思が隠されていました。
これまでは、10万石クラスの譜代大名だけ幕政に携わることができました。
しかし、御三家、親藩、外様の大藩には、一早く国際情勢を知り、西洋の最新技術導入に着手している藩もありました。
名君慶喜の元、挙国一致体制を作るのが、慶永の狙いでした。
水戸斉昭、島津斉彬など、一橋派の賛同を得て、政治工作に乗り出しました。
慶永の意をくむ懐刀として、左内に白羽の矢が立ちました。

1855年、武士に取り立てられ、江戸行きを命じられます。
江戸での活動は・・・薩摩の西郷と緊密に連携しながら、政治工作に臨みます。
この時の出会いは、西郷にとっても終生忘れることはなかったといいます。

左内独自の政治構想は・・・
列強が争う時代にあって、日本が単独で生き残ることはとてもできない・・・。
ロシアとの同盟を結ぶべきである。
と、当時の国際情勢を冷静に分析し、日本の生き残りの道を提示した左内・・・
国内体制の変革は・・・??
将軍継嗣を確立し、慶永公、斉昭公、斉彬公を国内事務宰相とする。
そして、天下に名だたる知識人は、陪審や浪人に関わらず、幕府で採用する。
今や日本国中を一家と見なければならない
主君をはるかに凌駕する改革案・・・左内はこれを西郷に明かしたのではないか??

空前絶後、他には見られない体系的な改革で、大名の家来や庶民まで動員し、日本最上の人材を幕府に集中し、西洋の危機を凌ごうとしたのです。

左内が帰宅したのち、西郷は周りにこう漏らしました。
「今日の談論、余甚だ敗せり」

しかし、事はそう容易くは運びませんでした。
幕閣の中心である南紀派が慶喜擁立に一斉に反発しました。
彼等が推すのは、紀州慶福・・・。
年齢こそ幼いものの、慶喜と以上に将軍との血統が近く、継承権が上なのは、誰もが認めるところでした。

老中・堀田正睦は・・・
「継嗣は将軍の御意志に従うべきではあるが、強いて言えば紀州慶福さまかと思う。」
幕閣への工作が難航する中、一橋派が頼ろうとしたのが大奥でした。
薩摩から迎えた将軍正室・篤姫を通じ、将軍を引き込もうという作戦です。
左内は、慶喜の側近から集めたエピソードを小冊子にまとめ、西郷経由で大奥に配っています。
慶喜がいかに文武に優れ、開明的な人物であるかをアピールしたのです。

結果は・・・??
息子の地位を脅かす慶喜擁立に、将軍・家定の実母本寿院が難色を示したことで、工作は遅々として進みません。
左内は、追いつめられていきます。

突破口は、思わぬところから・・・??
継嗣問題と並んで政治的課題となっていた通商条約問題。
1857年10月、老中首座・堀田正睦は、アメリカとの条約締結に向けて交渉を進めていました。
ところが、これに待ったをかけたのが京の朝廷でした。
時の孝明天皇が、自らの代で鎖国の国是を変えることはまかりならんと、頑なに主張したのです。
1858年1月、条約勅許をえるために、堀田は京へ・・・
この機をとらえて、慶永は左内に命令を下します。

京へ向かい、朝廷への工作を行うように・・・!!

左内に託されたのは、堀田を支援して、条約勅許を実現することでした。
幕府の抱える課題を解決すれば、継嗣問題も有利に運ぶことができるのでは??というのが、慶永の考えでした。
2月、公家・三条実万を訪問します。
この時、左内が藩に送った密書によると・・・

「朝廷のお考えは、攘夷か通商許容かをお聞きしたところ、実万公は呆然のご様子で、今しばらく様子を見てから・・・と、おっしゃるのみだった。」

三条は左内にこう訴えた・・・
「もし、御三家や、一門に英傑がいれば、その人を頼むしかない。」
左内にとって絶好の機会でした。
そこで、おいおいと、一橋公のことを申し上げたところ、実万公は、手を打って「その人を得た」と、お喜びであった。
条約問題ははぐらかされたものの、一橋継嗣に期待できることを聞きだします。

一方、幕府の条約勅許の交渉は難航していました。
2月23日に下された勅答は・・・
「御三家以下、諸大名の意見を聞いて、もう一度持ってくるように。」

堀田は止む無く京に留まって交渉を続けます。
左内も、今後の対策を迫られることとなります。

継嗣問題に方向転換??
順調に見えた継嗣問題も・・・
南紀派の巨頭・井伊直弼が、腹心・長野主膳を京に向かわせ、工作を展開し、関白・九条尚忠を慶福支持へと動かすことに成功していました。
そして、左内自身にも葛藤が・・・
朝廷に取り入るのは、南北朝のような混乱をもたらす・・・??

条約勅許工作を継続??
継嗣問題は、幕府内だけで決めればいいのでは・・・??
朝廷が関わると、朝廷の存在が大きくなりすぎる・・・!!
下手をすると、派閥争いで内乱になるかも・・・??

どうする??左内!!

1858年3月下旬・・・京に一通の書簡が届きました。
差出人は松平慶永、宛先人は天皇に次ぐ実力者・鷹司政通の側近でした。
「英明の一橋卿を差し置いて、他の人が将軍になるようであれば、皇国の為にもなりませぬ。
 殿下のご尽力を賜わりますよう。」

左内は、九条関白の政敵・鷹司への工作に・・・継嗣問題に方向転換しました。
効果は絶大!!
左内は、国元にこう送っています。
「将軍継嗣の一件は、年長、英傑、人望の者と定まった」と。
事実上、慶喜を名指しするものでした。

しかし、思わぬ落とし穴が待ち受けていました。
3月24日、朝廷から下された勅答は・・・
「継嗣が決定し、政務を助けられることとなれば、おにぎやかにてよろしい」
南紀派の巻き返しが功を奏し、九条関白が独断で、「年長、英傑、人望」の三条件を消し去ったのです。

そして、条約問題も壁にぶち当たり・・・
堀田の度重なる説得にもかかわらず、朝廷は条約を頑なに拒否!!
アメリカが武力に出るようならば、戦も辞さない!!と・・・条約勅許を得られなかったのです。

左内の日本を一家とする政治改革構想はついえたかに見えました。
しかし、左内はまだあきらめてはいませんでした。
京を引き上げる寸前の1858年3月24日、一人の人物とあっています。
日米和親条約締結に当たった幕府のエリー外交・ト海防掛・岩瀬忠震です。
岩瀬はこう持ち掛けます。

「ご主君・慶永公が宰相となり、将軍継嗣一橋公を補佐する体制を作る。
 事態を打開するにはそれしかない。」

堀田老中、岩瀬をはじめとする幕府の条約推進派は、条約勅許が難しくなった段階で、一気に一橋派に舵を切る・・・慶喜は積極的明国論で、慶喜継嗣に合わせて通商条約問題を一気に解決しようと思っていました・
岩瀬だけではなく、老中首座の堀田正睦も加わった一橋派。
これに対し、南紀派も反撃に出ます。
井伊直弼が大老に就任。
6月に入ると、将軍家定の「継嗣は慶福」との内意を受け、朝廷に使者を派遣。
これに朝廷からの承認が下りればすべては決着する・・・一橋派は、絶体絶命の窮地に陥ります。
予期せぬ好機が到来・・・
1858年6月17日、ハリスがぐぐん間で江戸湾に現れ、通商条約を強行に迫ります。

この時、交渉に当たった岩瀬は、勅許もないのに調印は出来ないという井伊の主張を押し切って調印を強行!!
これこそが、左内たちの最後の望みの逆転の秘策でした。
朝廷に調印を連絡しなければならない・・・しかも、それは違勅。
朝廷、孝明天皇に対し、説明する人がいかなければならない・・・!!
慶永を派遣したらどうか・・・??
その時に、将軍継嗣の話もしてもらって、もう1回内勅降下を図ろうとしたのです。

条約調印前日の6月18日、岩瀬は左内と慶永にハリスとの交渉を逐一奉じ、後は頼むとばかりにこう記します。
「回天の一事、何とぞご精力下さい。」
しかし、6月23日堀田正睦、老中を罷免!!
すべての計画が狂ってしまいます。

おりしも朝廷から祝い状が届き、慶福継嗣が正式に発表されます。
慶永は、井伊に抗議する為に江戸城に押しかけるものの、もはや決定が覆ることはありませんでした。
左内が未来を託した政治改革の夢は、ここに潰えたのです。

敗北の代償はあまりにも大きく、1858年7月5日、松平慶永隠居謹慎処分に。
左内は責任を痛感し、死を決意!!
そんな左内を思いとどまらせたのは、主君・慶永からの命令書でした。

「愕然のあまり性急に死を選ぶようなことがあれば、我を見捨てることと同じである。」

左内は、京に向け政治工作の中止を命じ、自らも一切の政治活動から身を引きます。
しかし・・・時代の激流は押しとどめることは出来ず・・・井伊は強権を発動!!
度重なる政治介入で幕政に混乱をもたらしたとして、公家、攘夷派の志士を処罰!!
世にいう安政の大獄です。
左内も、前年の朝廷工作の咎で捕縛!!
1859年10月7日、橋本左内・・・斬首・・・刑死・・・享年26歳でした。
誰もが予想しない重い処罰・・・そこには、左内の思想と行動力に対する井伊の恐れがありました。

あまりにも早すぎる死・・・しかし、左内の志は、新たな時代へと受け継がれていきます。
1868年、太政官布告「政体」・・・この中に、興味深い一節があります。

「藩士、庶人といえども、二等官に至るを得る」

身分にかかわらず、有能な人物を官僚に登用することで、対外的な危機に立ち向かう・・・左内がかつて記した構想が、10年の時を経て受け継がれていました。
時代を先駆け、時代と真っ向から格闘した橋本左内・・・
その想いは、その後も人々の心の中に生き続けたのです。

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もうね・・・「幕末。日本外交は弱腰にあらず。」こちらを読んでください。
幕府も諸外国を勉強し、一生懸命対応しようとしていましたよ

斉彬からの密命を受けた篤姫は将軍・家定に輿入れしました。
しかし、阿部正弘が急死・・・。
一体、阿部が何のために頑張っていたのか?全くわからないままでの退出でした

吉之助は、正助と熊本を訪れたあと、単身江戸へ!!

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熊本ではいろいろ勉強してきた二人・・・そんな二人をちゃんと書いてくれたらいいんですけど・・・
なんでそこんところを書かないで、遊郭で遊んでんだか・・・家畜まで売ってさ!!

安政4年10月21日、江戸城で・・・ハリスが通商条約締結の足掛かりのために家定との謁見に・・・!!

don4















「遠国よりの書簡を嬉しく思う。
 幾久しく、友好を保ちたいと大統領に申し述べるべし。」by家定

と、一生懸命覚えて対応しました。

don5















篤姫と一緒に練習しました。
「御台が笑うと余も嬉しく思う。
 御台とも幾久しく友好を保ちたいものだ。
 幾久しく友好を・・・幾久しく友好を保ちたいものだ。」by家定

と、「不幸になる!!」と、斉彬が宣言しましたが、仲睦まじい様子です。

でもって、松平春嶽の元へやってきた西郷吉之助・・・斉彬は「思う存分使ってくれて結構だ」と、春嶽に手紙を送っていますが・・・思う存分使うほどの価値のある男かどうか、このドラマでは全くわからず!!

異国との通商などもってのほか!!という井伊直弼、弱腰の老中首座・堀田正睦・・・
だから、弱腰じゃないんだって!!
もう一度言います。
もうね・・・「幕末。日本外交は弱腰にあらず。」こちらを読んでください。

左内と力を合わせて、一橋様の将軍擁立に大名に働きかけるように・・・一橋様にその気になってもらうように・・・と。。。

でた~、品川宿・・・もうええって・・・
ヒー様も暇よのう・・・

一橋様がどれだけ偉いかをかき集めた記録を左内か書いていて・・・それを、諸藩に読んでもらおうと品川宿で密談中・・・に、ヒー様登場で、その書を破り捨ててしまいました。
でもって、ヒー様を説得・・・。
なんで品川宿でやるかね・・・
でもって、破り捨てられても、コピーを作ってるよ~~!!と、大喜びの吉之助&左内です。
あ~、二人とも低いわ・・・レベルが・・・

薩摩にいる斉彬から建白書が幕府に提出されました。

国難を乗り切るために、将軍継嗣問題について早急に解決すべきだと・・・!!

そして、バチバチな水戸斉昭と井伊直弼、ビクビクな堀田正睦・・・
なんか史実と全く違うイメージなのはいいのか・・・??

吉之助と左内は一生懸命画策してましたが、やっぱりそこは磯田屋でした。
ほんと、誰が聞いてるかわかんないわよ・・・遊郭なんて・・・


その遊郭で出くわしたのは、あのお面の男・・・
と、西郷が連れて行かれました。
何とそこには井伊殿が・・・

なんで吉之助に言うんやろ??
下々の者に・・・
そんな重要メンバーでもないよ、何にも教えてもらってないから・・・
大体、西郷を取り入れたいなら、それ相応の仕事をしていないとダメですよ・・・吉之助くん!!

井伊の誘いを断る吉之助ですが・・・そこがカッコいいと思わせたいんでしょうが、きっと、井伊に誘われるほどでも、誘いを断るほどのものでもないわよ・・・。

建白書のコピーは、大奥にも・・・!!
怒り狂う本寿院・・・篤姫の立場が・・・!!

ま、本寿院がなんだか斉彬が企んでいたとか、御台所に圧力・・・とか、それを知らなかった幾島とか・・・。
なんだか全くわかりません。

なんで本寿院が水戸斉昭を嫌いなのかっていうのはすっ飛ばすのね。。。

で、やってきた家定に、いきなり一橋慶喜を養子にするように勧める御台所・篤姫。
「一橋は好かん!!」と言いつつも、一橋様ならば、「姫もずっと息災でいられるということか?」と、息災のために・・・

「一橋にする・・・余の次は一橋じゃ!!」by家定

地団駄踏む本寿院
あっぱれと、喜ぶ幾島と篤姫。

??なんじゃこりゃ・・・。
もっと、画策してくれよ~~~!!
全然面白くないわ・・・。

おまけに、ヒー様は、またもや品川宿で遊んでいました。
そんなところで遊んでいるから刺客がっ・・・!!

「人殺しだ~~~!」と逃げるヒー様。
う~ん・・・品が無いわ、ヒー様。

助けに向かった吉之助、刀はもう振るえないじゃなかったのか??と思う活躍で・・・

don7















あの・・・殿さまにもらった懐刀でやっちゃいました

人を斬ったことに・・・殺してしまったことにビビった吉之助・・・
薩摩隼人じゃないのか・・・??
イメージダダ崩れ・・・。

「死骸の始末をつけなきゃな・・・」byヒー様

って、ヒー様、坊ちゃんじゃないでしょ??
こちらもイメージダダ崩れ・・・。
それとも、麻生太郎かっ??

なんだかんだで、

慶喜が吉之助と左内を連れて井伊にやってきました。
そして・・・
don3












「わかった!!俺が将軍になろう!!
 ならなきゃしょうがねえだろ??
 西郷、橋本、帰るぞ!!」

と、井伊に啖呵を切って帰ってきました。

なんなんだよ・・・慶喜。。。
中二病が意気った感じに代わったのかっ??

基本的に、一橋慶喜を暗殺なんて、恐れ多い事は出来ません。
当時の藩は、国のようなものです。
斉彬や慶喜、井伊直弼レベルの人が暗殺されれば、外交問題!!
それこそ大ごとで、そんなこと、出来るはずもありません。
国(藩)が滅ぶわ!!
井伊直弼が暗殺されたことで、幕府の権威が・・・終わりも決定的になったじゃん!!
そして、西郷さんレベルを暗殺する必要は全くする必要なし!!
だって、切腹させればいいんだもん!!

今回は、全く理解不能なお話しでした。
だって、結果だけ教えてくれても面白くもなんともない・・・。
そこに行くまでの過程を見たいと思うんだけど・・・みなさんどう思います??

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国難を背負って―幕末宰相 阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼の軌跡

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東京目白にある学習院大学・・・敷地内には幼稚園・中等科・高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
起源は江戸時代の京都・・・1847年に御所の日御門前に学問所を新設、二年後に時の天皇が学習院と名付けました。
その名付け親が孝明天皇です。
激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。

①前代未聞
弘化3年孝明天皇は16歳で天皇の位を受け継ぎます。
5月浦賀にアメリカ艦隊が来航し、通商条約締結を要求してきました。
6月長崎にフランス艦隊が来航。
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし・・・その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動に出ます。
時の関白を通じて・・・幕府に勅書を下します。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ。」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に江戸幕府12代将軍家慶をはじめとする幕府の人間は驚きます。
幕府の政策に天皇が口を出すなど前代未聞のことでした。
当時の天皇と幕府の関係は・・・
天皇が幕府に政治を任せる・・・ということでしたが、圧倒的に幕府に力があり、天皇は抑えられていました。
なので、天皇・朝廷が幕政に口出しすることなどなかったのです。
その理由の一つが・・・天皇・公家たちは幕府から経済的な支援を受けていたからです。
天皇の所領は、禁裏御料と言われ3万石、朝廷に仕えていた公家たちには合わせて7万石ほど・・・。
幕府は朝廷に対し、10万石も献上していたのです。
幕府からの支援を得、孝明天皇はどんな生活をしていたのでしょうか?

朝起きると、糠を入れた絹袋を石鹸代わりに洗顔。
1日か2日おきにお歯黒。
身支度が終わると、神仏、先祖の御陵の方向に向かって拝みます。
午前中は、手習い、学問、和歌を詠んで過ごします。
昼食・・・一日の食事の中で、最も豪勢で、毎日30センチもある”鯛の尾頭付き”を食べていました。
午後も、手習い、学問、和歌で過ごします。
6時ごろから夕食・・・宮廷内で酒は御献(おっこん)とよばれ、孝明天皇はかなり好きだったようで、夜10時ごろまで飲んでいたので、就寝は12時頃でした。

対して、当時の将軍は、梅干しや煮豆などの一汁二菜で、夕食でもそれに焼き魚が着く程度でした。
幕府の支援を受けながら、優雅な暮らしの孝明天皇でしたが、開国を迫る欧米諸国をひどく恐れていました。
1853年、アメリカからペリーが来航!!
日本は激動の時を迎えます。
1854年、日米和親条約を締結。
箱館と下田の二港を開港し、イギリス・ロシアなどとも条約を結びました。
この時、孝明天皇は、朝廷のある関西地方の警備体制の強化を要請しながらも、条約締結については承認します。
和親条約は、友好をうたったもので、貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
京都と離れた箱館と下田の開港だったので、孝明天皇としても恐れるほどではないと思っていました。
しかし、事態は急変・・・
1856年アメリカ在日総領事ハリスが、下田に着任し・・・
①通商条約の締結を要求
②江戸城で直接将軍に謁見し、大統領の親書を渡すと要求
幕府はハリスの要求を受け入れます。
この時、幕府はアメリカと戦う気はありませんでした。
中国・清が、イギリスとのアヘン戦争に敗れ、不平等な条約の締結と、香港の割譲させられたことを知っていたからです。

欧米諸国と戦えば・・・清の二の舞になってしまう・・・!!
開国賛成派と鎖国維持派に諸大名たちは真っ二つ!!
そこで、孝明天皇の勅許をもらうために・・・京都に堀田正睦が向かいました。
しかし!!

幕府が通商条約締結に向かっていると事前情報を手に入れていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは、後々まで恥となる。」by孝明天皇

だから・・・条約締結は承認できない・・・!!

幕府の提案を承認しないなど、前代未聞のことでした。
幕府と上手くやっていきたい公家たちは、焦ります。
そのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・
迷った挙句に、参内した老中・堀田正睦に告げます。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで、改めて帝が判断を下さされる。」
開国を反対する大名を納得させるために、京都まで来たというのに・・・もう一度彼らの意見を聞けというのか・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても勝ち目はありません。
 世界の情勢を見ても、通商条約締結は、もはや避けられないことなのです。」by堀田
理路整然と涙ながらに説明する堀田・・・。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は・・・
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
「アメリカが武力で訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

孝明天皇が望んでいたのは、”鎖国体制の維持”でした。
ハリスの・・・アメリカ人の強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”につながったのです。
攘夷に繋がっていくのです。
頑なな天皇を前に、なすすべもなくなった堀田は、勅許を得られないまま江戸へと帰っていきました。

幕府の提案をはねのけた孝明天皇ですが、幕府は強硬手段に!!
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼でした。
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の意見を聞くこともなく・・・
1858年幕府の独断で日米修好通商条約に調印してしまいました。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れたのです。

天皇はすぐに、幕府に御趣意書を送り付け、猛烈に抗議します。
「このたびの幕府の措置は、厳重に申せば、勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである。」by孝明天皇
そこで、水戸藩に勅書を下し、他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は・・・
”独断で日米修好通商条約を締結した幕府に経緯の説明を求めること”
”攘夷を推進すべく、幕府を改革していくこと”
を強く求めました。
幕府は、天皇と諸大名が直接やり取りをすることを禁じていたので、天皇の越権行為でしたが・・・
それだけ、孝明天皇が幕府に怒っていたともいえるのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇を逆なでするかのように・・・尊王攘夷派を大量に処罰。
吉田松陰、橋本佐内らが死罪・・・安政の大獄です。
これを聞いた天皇は激怒!!
あまりに怒ったので、関白の頭を扇子で執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか?
200年以上鎖国体制が続いていたので、気持ちの切り替えがむつかしかった・・・現状維持が大事なことだったのです。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代でかえることに抵抗を感じていました。
将軍=征夷大将軍は、”夷”・・・つまり、外国人を制圧するのが職務でした。
アメリカのいうことを聞いて、言うがままになることは、職務を果たしていないということになるのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派を処罰した井伊直弼・・・
当然ながら、多くの敵を生みました。
1860年(安政7年)3月3日・・・阿桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
主犯は、尊王攘夷派の水戸派の浪士たちでした。
これを機に、諸大名も幕府の強引なやり方に反発します。
幕府の権威は急速に失墜していきます。
そしてこの後、孝明天皇は図らずも維新の渦に巻き込まれていくのです。

②妹・和宮
公武合体を画策する幕府・・・
その象徴として・・・14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻でした。
皇族が・・・武家に嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、和宮にはこの時すでに、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。
そして、和宮自身も、江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人がたくさんいる江戸は、恐ろしいものでした。
妹の幸せを願った孝明天皇はこれを却下・・・。
しかし幕府は食い下がります。
信頼する岩倉具視に孝明天皇が相談すると・・・

「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは?」by岩倉具視

そこで、その条件を幕府に突き付けると・・・

「十年以内に鎖国体制に戻します。」by幕府

孝明天皇の望むように攘夷を決行すると約束してきました。
結婚に頑なな和宮・・・生まれたばかりの孝明天皇の娘・寿万宮を嫁がせようとすると、それを知った和宮は、自分が行かなければ誰かが犠牲になる・・・と、決めたのでした。

その代わりに和宮は、大奥に入っても御所の流儀を通すこと、御所の女官を御側付きにすることなどを条件に出します。
孝明天皇は、和宮の要求を守るようにと、江戸へと送りました。
和宮を降嫁させたことで、幕府に対し”貸し”を作ることとなりました。
そして、幕府は、降嫁の交換条件として出した”攘夷”を、いつ決行するのか・・・??
幕府に対し、優位に立った孝明天皇は、人事まで介入してきました。
「老中を決める際、事前に天皇に伺いを立てること」を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

和宮は、家茂のやさしさに仲睦まじい・・・これで公武合体も上手くいく・・・??

③尊王攘夷派

孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国を打ち払おう・・・という尊王攘夷運動が出てきました。
当初は容認していた孝明天皇ですが・・・
天皇がいる京都に続々集まってきた尊攘攘夷派の志士!!
その中心は、桂小五郎や久坂玄瑞のいた長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そんな中・・・1853(文久3年)年将軍・徳川家茂が上洛。
将軍の上洛は、徳川家光以来、およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつける・・・攘夷をいつするのか??
幕府は、文久3年5月10日に攘夷を決行すると約束してしまいました。
孝明天皇が、将軍家茂に約束させた5月10日・・・
攘夷を掲げる長州藩が動き出しました。
下関沖を航行中のアメリカの商船をいきなり砲撃!!
ついに、攘夷を決行しました。
さらに長州藩は、天皇の行幸を勝手に計画・・・奈良にある神武天皇陵と春日大社を参拝することを決めました。
孝明天皇の指揮で、攘夷を行うべく軍議を開くというのです。
日に日に過激さを増す攘夷派・・・
ところが、文久3年8月18日、京都・御所にて・・・
クーデターが勃発!!
長州藩とそれに味方した公家らが追放されてしまいました。
8月18日の政変です。
クーデターを実行したのは、”公武合体派”の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは・・・なんと孝明天皇でした。
どうして、味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか。
当初、尊王攘夷派は孝明天皇の意見を代替する存在でしたが、いつしか孝明天皇の意向を無視して事を進めるようになってしまったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷でした。
しかし、尊王攘夷派はどんどん過激になっていったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇自身は、幕府と共に、国を動かす公武合体を望んでいたのです。
そして、尊王攘夷派を追放したが為に、孝明天皇自身の運命が変わっていくのです。

過激な尊王攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した14代将軍徳川家茂に対し、こう表明します。
「無謀な征夷は実に朕が好む所に非ず」by孝明天皇
なんと、急進的な攘夷は望まないと言ったのです。
幕府に対し、あれほど攘夷せよと言っていたのに・・・軟化させたことに世間は驚きました。
攘夷の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する不信を招いたのです。
当時の世論の大半は、攘夷派でした。

そんな中、孝明天皇は、公武合体を強固にするために、幕府との関係を深めていきます。
まだ十代だった家茂には・・・

「互いに親子のような情愛を持って接することが、天下の安定につながるであろう。」by孝明天皇

そう諭し、幕府から京都に派遣されていた人物と信頼関係を深めていきます。
一人は一橋慶喜・・・後の15代将軍です。
この時、禁裏御守衛総督として、京都に赴任していました。
もう一人は、京都守護職・会津藩主・松平容保です。
そして、その弟で京都所司代・桑名藩主だった松平定敬です。
中でも、孝明天皇が最も信頼していたのが、松平容保でした。
忠義を尽くし、天皇の身辺警護に当たっていました。
配下の新選組を使って、追放後も復権を狙う尊王攘夷派の志士たちを取り締まりました。
そんな容保に、孝明天皇は和歌を送っています。
内容は・・・
「武士と心合わせれば、どんな困難なことにも打ち勝つことができ、そのことは代々伝えられていくことだろう。」となっています。

容保を信頼し、幕府と運命を共にするという孝明天皇の決意の表れでした。
しかし・・・次々と事件が起こります。
1864年・・・禁門の変(蛤御門の変)
このことがきっかけで、京都の町の大半が焼失しました。
さらに翌年には、兵庫沖にイギリス・アメリカ・フランス・オランダ四か国の連合艦隊が来航。
攘夷運動の中心が天皇にあると見た彼らは、孝明天皇に通商条約の勅許を下すよう要求します。
しかし、態度を軟化させても攘夷に変わりない孝明天皇はこれを退けました。
幕府が説得を試みずも応じず・・・幕府との間に緊張が走ります。
これを打破したのが、一橋慶喜でした。
孝明天皇に・・・
「欧米諸国が京都に乗り込んで、孝明天皇が命の危険に晒される事態も起こり得る」と、進言するのです。
命も危うい・・・慶喜の言葉に、初めて諸外国の怖さを味わいました。
幕府が独断で、日米修好通商条約を締結してから7年・・・その勅許を下すのです。
失意の中・・・孝明天皇を悲劇が襲います。
1866年大坂城・・・将軍・徳川家茂が、病に倒れます。
知らせを聞いた孝明天皇は御所から二人の医師を派遣しますが、その甲斐もなく将軍家茂は亡くなってしまいました。
追い打ちをかけるように、孝明天皇への批判が・・・!!

「孝明天皇の勅許と言えども、万人が納得できなければ認めることはできない」by大久保利通
「天皇は絶対的な存在ではない」by岩倉具視

そんななか、1866年孝明天皇崩御・・・36歳でした。
公武合体を共に進めた家茂と孝明天皇の相次ぐ死で、幕府の命運は尽きました。
この後、長州藩、薩摩藩が中心となって討幕へ!!
1年後・・・1867年には大政奉還。
およそ260年続いた江戸幕府は、終わりを告げるのです。

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私にとってはいわくつきのTHEナンバー2岩倉具視です。
前回、あまりにも難しすぎて、レポートに失敗というか、断念してしまいました。

今回はどうなることやら???
そう・・・今思えばご意見番は加治将一さんでしたあせあせ(飛び散る汗)

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時代が江戸から明治へと大きく動いていた京都洛北で・・・
密談する男たちがいました。
薩摩藩士・大久保一蔵(利通)・長州藩士・品川弥二郎・・・そこにいたのは、粗末な着物に粗末な家・・・ふてぶてしい顔を持った男・岩倉具視でした。

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階級制度の厳しい公家の世界にあって、下級公家だった岩倉具視・・・
彼は、自らの裁量で道を切り開き天皇の侍従に・・・、皇女和宮の御成婚まで成し遂げます。
しかし、権力闘争に敗れ、岩倉村で幽閉・蟄居していたのです。
が・・・その間も意見書を書きまくり、倒幕、王政復古の策をめぐらせていました。
彼が夢見た新しい世界とはどんな世界だったのでしょうか???
彼は、明治維新の立役者でしょうか?
それともとてつもない野望を抱いた策謀家なのでしょうか???


彼が歴史の表舞台に現れたのは・・・
黒船から5年たった1858年・・・
京都御所が物々しい雰囲気になっていました。
幕府の老中・堀田正睦が通商条約締結の勅許をえるために宮中に参内・・・関白の九条尚忠が条約の議案を提出したところ88人もの公家が集まり、撤回を求めたという・・・
いわゆる“廷臣八十八卿列参事件”です。
公家が許可もなく宮中に参内することは前代未聞のことでした。

事件のせいで、関白・九条尚忠の求心力は低下、九条に取り入ろうと・・・通商条約のお墨付きをもらおうとしていた堀田正睦の目論みはご破算となりました。

その・・・首謀者こそ、岩倉具視でした。
下級武士の岩倉がどうして・・・???
実は、これは用意周到に計画されていたものでした。
宮中において関白は、殿下と呼ばれ、公家社会最大の権力者で・・・天皇でさえその意見に反対することは困難でした。

老中・堀田も九条に対し“手入れ”として・・・およそ3万5000両も用意したと言います。
しかし・・・それを快く思わなかったのが、先の関白・・・“鷹司正道”。
自分にあいさつもなく、堀田が九条にすり寄っている・・・
蔑にされたことを恨んでいました。

頭が回り、弁も立つ・・・しかし下級武士の岩倉は・・・
40歳を目前に冷や飯ぐらいでした。
そこで・・・鷹司に・・・“歌道の弟子”となることで近づきます。

そんな岩倉にとって千載一遇のチャンスが!!!
水面下で鷹司の命を受けた岩倉・・・
密かに走り回り・・・88人の公家列参をやり遂げます。
そして、上司・鷹司の敵・九条を引きずり下ろすことに成功しました。
華々しい政界デビューでした。

岩倉が行った“廷臣八十八卿列参事件”によって、堀田正睦が失脚・・・
堀田を立てて息子・慶喜を将軍に・・・と企んでいた徳川斉昭の力が低下・・・
それに乗じて反対派の井伊直弼が大老として躍り出ます。

井伊は、天皇の勅許を待たずにアメリカとの条約に調印・・・
斉昭は天皇の命で井伊を失脚させる“戊午の密勅”で反撃しようとするも・・・井伊に握りつぶされてしまいます。
そして、井伊の勢いは止まらずに・・・安政の大獄へ・・・。
しかし、その井伊も 桜田門外の変で暗殺されてしまいます。

安政の大獄の余波は、宮中にもおよび・・・
鷹司も・・・
しかし・・・この時、岩倉は・・・
すでに岩倉の妹・堀川紀子が孝明天皇の側近となり、寵愛を受けて。。。
紀子が天皇との間に女児を設け・・・その口利きで天皇の近習となっていました。

当時、天皇には大きな悩みがありました。
幕府と朝廷を・・・公武合体しようとする考えのもと・・・和宮との婚姻を進めようとする幕府・・・しかし、これは有史始まって以来の朝廷の危機でした。
心を許せるのは・・・紀子の兄・・・岩倉具視のみ・・・。


天皇「そちはどう思う?」
岩倉「ご心配なさいますな。
   和宮の御降嫁をお進め下さい・・・。」

岩倉は、水面下で幕府側・・・所司代・酒井忠義と接触し、幕府の力の衰えと、朝廷に力をすがろうとしていることを掴んでいました。
こうして、意見書にもまとめられ、和宮の降嫁が決まりました。
そして岩倉は、下級公家であるにもかかわらず、天皇の勅使を受け、幕府側との交渉に臨むことになるのです。
皇女・和宮降嫁でスポットライトを浴びる岩倉具視。。。
和宮を降嫁させるときに内親王にして降嫁させます。
内親王とは、天皇の皇女およびその姉妹ということで・・・将軍よりも位が上となります。
つまり、家康以来、幕府との関係が反転することになったのです。

宮中で幕府に最も顔が利く男となった岩倉・・・
その存在は大きくなっていきました。
そこに目をつけたのが・・・薩摩。
ライバル長州が長井雅樂を使って公武一和を進言・・・
島津久光の命により大久保利通が岩倉に近づきます。

1862年4月16日・・・
会合の後、寺田屋騒動がおきます。
さらに九か条の献策を持って江戸へ・・・
維新に向け薩摩の構成を裏で操っていたのは岩倉でした。

しかし・・・奈落の底へ。。。
三条実美・綾小路公知らの33人の連署によって突然蟄居が言い渡されます。
理由は、幕府・酒井忠義に内通し、公家側の秘事を漏らしたから・・・というものでした。
妹・紀子も隠居させられていました。
近衛忠煕が関白に返り咲くと、九条尚忠への意趣返しが始まったのです。
そして目障りとなったのが岩倉だったのです。
此処には孝明天皇が自ら三条に傾く条件もありました。
三条実美らは絶対の攘夷派・岩倉は、幕府に近いのでどちらかというと開国派だったのです。

京のはずれに逃げ込んだ岩倉・・・
しかし、虎視眈々と時期を狙っていました。
その間5年・・・
その間に・・・時代は刻々と変わります。
長州、薩摩・・・そして、三条らの七卿落ち・・・
西郷・大久保・桂・坂本・中岡・・・

寒村に押し込められていた三条は、意見書を書きます。
ここで、薩長連合を説いています。

う~ん・・・ここら辺から頭がこんがらがってきました。
だいたい岩倉具視ひとりでそんなことができるのか???
よく考えるととっても不思議・・・
失恋

岩倉具視・大逆転を狙う乾坤一擲の策は・・・???相手は将軍・慶喜。

そう、相手は慶喜・・・って、どこまで黒幕なんだ・・

1867年12月8日・・・日本が変わる48時間が始まりました。
この日、京都御所では・・・大名や公家たちの官位普及や赦免を行うことになっていました。出席者は有力公家たちと薩摩などの大名・・・
しかし、慶喜は病気を理由に会議の席には着きませんでした。
孝明天皇崩御の恩赦により蟄居の解かれた岩倉は・・・
次の間に控え・・・会議は朝方終了。
はれて宮中入りを認められた岩倉は・・・上奏文を読み上げます。
政治革新についての文書です。
そこには、幕府だけではなく・・・摂関政治をも廃止にするというものでした。
時を移さず会議が・・・
将軍のいないままに話が進んでいきます。

慶喜と、二条摂政がいない欠席の場で、“幕府廃止”と“摂政廃止”が決まってしまいました。
岩倉が練り上げた秘策の秘・・・それは、王政復古だったのです。

260年続いた徳川を倒すのではない・・・平安より続いた朝廷の摂関政治をも終わらせるのだ!!
それは、才覚さえあれば、下級公家の岩倉も、下級武士の大久保も政治の中枢に登ることが出来る!!そうなった瞬間でした。


加治将一さん・・・「天下の西郷」「天下の岩倉」とか言ってましたが・・・後から見たら天下の・・・ですが、この時“天下の・・・”だったんだろうか???

岩倉具視最大の疑惑・・・それは・・・
明治新政府のNo,2となった岩倉が・・・1871年岩倉使節団としてアメリカ・ヨーロッパを訪問、不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の調査を行いました。
そのメンバーは・・・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・・・明治の世を切り開いた人たちでした。
ここに、龍馬がいたならば・・・


出た~!!龍馬暗殺説!!
またまた加治さんならではです



しかし、中岡慎太郎と、岩倉具視の画策・・・幕府を倒すためには・・・幕府を生かそうとする龍馬は邪魔者になっていたのです。
近江屋で暗殺された竜馬・・・
もし、中岡が龍馬暗殺に関わっていたとしたら???

岩倉具視が関与していた???

と、何でもかんでも岩倉具視さんが黒幕で終わってしまいました。失恋

龍馬暗殺説に関しては、京都見廻組が有力です。
どうして高らかに発表しなかったのか??
それは、龍馬と一緒に関係のない中岡慎太郎が殺されたから・・・
という説まであります。
ま・・・中岡慎太郎の何が関係ないの???っても思えますが・・・
そこをあーだこうだというのが面白いのですが黒ハート

そうだ・・・だから、頭がこんがらがるんだ・・・失恋
たくさんの草莽がいて、その時代のうねりに逆らうことは誰もできなかったと・・・
私はそう思うのです。
例えそれがみんなの好きな坂本龍馬でも、私の大好きな土方歳三でも・・・あせあせ(飛び散る汗)

一人の人の頭で仕上がるなんて・・・あんまり考えられないなあ・・・失恋


って、中立にレポートできませんでした。
ごめんなさい・・・たらーっ(汗)


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ペリー来航で、260年に渡る太平の世から目を覚まされ、開国した日本。

井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結び、徳川の時代が軋みはじめました。。。

従来の開国の歴史はこうして始まります。

しかしペリー来航は1853年、日米修好通商条約は1858年。。。
その間に空白の5年があります。
この5年の間に一体何があったのでしょうか?

阿部正弘とペリーの日米和親条約、大老・井伊直弼とハリスの日米修好通商条約。。。
しかし、日本がこの時期に開国できたのは、もう一人の埋もれた宰相がいたからでした。

13代将軍家定の老中首座・堀田正睦です。

うつけと言われた家定を支えた堀田正睦。
昼行燈と呼ばれていましたが、本当は日本の将来を案ずる開国派で、
清国の様に海外列強の食い物にされないためには開国しかない!!と、思っていました。

その堀田の前の、三つの大きな壁が立ちはだかります。

①堀田を老中首座に据えた開国に否定的な阿部正弘

②条約交渉の相手・アメリカ行使タウンゼント・ハリス。
 商人上がりのハリスは、開国のみならず自らの利益に執着する男でした。

③最大の壁は、御三家・水戸の徳川斉昭でした。
 斉昭は、攘夷派として怖れられていました。

このままでは、アメリカとの条約交渉は進まない・・・
そこで、堀田は江戸幕府始まって以来の奇策に打って出ます。

京都御所の天皇の勅許を手に入れることで、反対派に有無を言わせないようにしようと考えたのです。
中央突破を図ります。

では、どうして堀田が老中首座となったのでしょうか?
当時堀田は、蘭癖大名と揶揄されるほどの西洋かぶれ、知識人でした。
今の順天堂・・・佐倉順天堂は、堀田の招きを受けた蘭医・佐藤泰然が1843年に開いた蘭医学の塾です。
そんな蘭学を、保護して、繋がりがあり発展に尽くした人でした。

当時の人々の常識としては・・・
開国=貿易=商売は、朱子学では卑しいものとされていたので、受け入れられにくかったのです。
「武士たるものが、卑しい商売とは・・・」
どうして開国の必要があるのか?という考え方でした。

1853年6月3日浦賀沖が一変します。
4隻の巨大な黒い船が・・・
ペリー率いる艦隊・黒船の来航です。
この4隻は、73門の大砲が臨戦態勢を取りながら投了します。
空砲を撃つと、江戸が大混乱となりました。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず"

相対するときの将軍は12代家慶。
しかし、間もなく死去。あとを継いだのは、4男うつけものの家定でした。
その家定を支えるのは、超エリートの阿部正弘。
阿部は、ペリー来航に対し、御三家・水戸斉昭を幕閣に迎え、難局を乗り切ろうとしましたが、斉昭は評判とは違い、”烈公”として、誰とでも対立して期待はずれでした。

そんな中、阿部はしぶしぶ日米和親条約を締結。英・ロとも調印させられます。
おまけに斉昭は、意にそぐわない老中2人の罷免を強要します。

この難局に能力のある者を!!
白羽の矢が立ったのが、佐倉藩主堀田正睦でした。
安政の大地震のどさくさの中、堀田に登城の連絡が来ます。

「老中首座に!!」

阿部が堀田を老中首座にしたのは、実務能力にたけていたからです。
だから、老中筆頭に置いたものの、権力を渡す気など毛頭ありませんでした。
西洋の事情をよく知っている堀田をとりあえず風よけにし、自分が幕閣を仕切るつもりだったのです。

そして、その知らせは堀田にとっても青天の霹靂でした。

「西洋諸国は、次は交易を求めてやってくる!!
 その時我が国は、清国の様に戦うのか?
 戦いに敗れて言われるままに賠償金を支払い、領土までとられるのか!!
 それだけは絶対に避けなくては!!」
堀田は、アヘン戦争を知っていたのです。

攘夷鎖国のエリート老中・阿部正弘 VS 開国論者の実務派・堀田正睦

の始まりでした。

阿部は、現状を変えるのが嫌でした。
今まで何の支障もないのに、変える必要があるのか???
あえて、改革する必要があるのか???

日本=清らかな国。
外国人=肉を食らい、血のような酒を飲む。。。
今まで上手くいっていたのに、なぜ変える必要があるのか?と、危機感のないものでした。


そして、アメリカからは、嵐を巻き起こす男がやってきました。
アメリカ行使・タウンゼント・ハリス

1854年阿部が締結した日米和親条約には・・・
アメリカの文には、どちらかの国が望めば外交官を置ける。。。と。
日本の文には、双方の国が望めば。。。となっていました。

だから、日本側にとってハリスが来たことは、青天の霹靂だったのです。

そして、堀田が開国するには数々の高い壁がありました。
今と同じで幕府も官僚社会、思いのままになるわけではなく、役人にもそれぞれの管轄があり、それ以外のことには口出しできませんでした。

諸外国の通商条約は、海防掛の担当・・・
当時は外交掛は、交易反対を取っていました。
トップは宿敵・阿部正弘。
頑なに通商を避け、鎖国を保とうとします。

こんなことをしていては、清国のようになってしまう!!
海防掛に自分の考えを浸透させ、一気に通商にもっていこうとします。
しかし海防掛は、やはり阿部の息のかかったものばかりでどうしようもなりません。

そこで、外圧を利用しようとします。
ハリスです。
しかし、ハリスも一筋縄ではいきません。
自分の利にならないことははぐらかし、通常の3倍の貨幣の交換レートをねじ込ませようとしていました。

対応した下田奉行は・・・
「憤怒募らせ候。
 趣意も通りかね候に付き
 対話相止め申し候。」
興奮して怒り狂ったと言います。

こんな強気の態度に出ることが出来たのは、もちろんバックにアメリカの艦隊がいたからです。
そして、そんなに本を英・ロも狙っていました。


しかし、反目し合っていた阿部は、病で幕閣を去ります。
阿部に代わり、ついに堀田正睦がNo,2となったのです。
自分の思うように歴史を動かし始めます。

1856年10月21日ハリスは江戸城に登城し、家定に謁見します。

堀田はハリスに手を焼きながらも条約締結に向けて歩みを進めていました。
そこに強敵・徳川斉昭が!!

条約締結については、御三家と諸大名に説明し、質疑応答し、協議を尽くさなければなりません。
その為にも、根回しは必要でした。

そんなころ、水戸ではお家騒動で斉昭が評判を落としました。
斉昭は幕府の使いに対して・・・
「備中(堀田)は腹を切らせ、ハリスは首を刎ねる!!」と、言い放ちます。

「烈公」斉昭が、条約調印に断固反対!!
これが広まったら、これまでのハリスの交渉も、諸大名への根回しも、吹っ飛んでしまう!!
頓挫してしまいます。
何かいい方法は?!

1857年1月堀田正睦は京都御所にいました。
朝廷から直々に天皇の勅許をもらうために!!

家康が徳川幕府を開いて以来、天皇の勅許は形だけのものになっていました。
事実天皇が、幕府に逆らったことは一度もありません。

理由は・・・
斉昭は、尊王攘夷を美とする水戸学の総帥・・・天皇の言葉には反対できない!!ということだったのです。
しかし、それは思わぬ方向に・・・
朝廷は、御三家・諸大名をまとめてから勅許をもらいに来いという不許可の連絡でした。

これまでの幕府は、朝廷には全て事後報告でした。
しかし、今回初めて事前に勅許だったので、政治に敏感な孝明天皇に、政治介入の野心を抱かせてしまったのです。孝明天皇は、攘夷鎖国派でした。

堀田は納得できずに粘り強く公家たちに揺さぶりをかけます。

朝廷では、天皇に決定権はない・・・
全ては、太閤・鷹司政通と関白・九条尚忠がにぎり、2人は常にケンカ争いをしていました。
今回の勅許は関白がまとめていました。

そこに絡んできたのが、将軍跡継問題です
慶喜か慶福か???
公家たちもどちらにつくか、激しい綱引きをしていました。

関白は、元々藤原氏が天皇を抑えるために作った地位なので、幕府寄り。将軍家は常に、関白の力を以てして天皇を抑えてもらっていました。
九条にたどり着いた堀田は、天皇に反目させることに成功、一度は勅許をいただけることが決まりましたが・・・
そこに下級公家の反乱が。。。
裏で糸を引いていたのは九条の政敵、太閤・鷹司でした。
権力奪取と慶喜まき返しの為、岩倉具視ら88人の公家が九条のもとに押しかけて勅許を書き換えさせます。88卿列参事件です。

勅許は一夜にして差し戻し不許可。
堀田の最善のアイデアは最悪な結果に・・・

その最大の理由は、この時代が関白と対抗・・・二大勢力時代だったことがあげられます。

勅許に失敗した堀田に、
「苦労をかける。」
と、将軍からの手紙が届きます。

「上様に信頼してもらえれば大丈夫」
と、条約締結に向けて邁進します。

次なる一手は将軍お世継ぎ問題を利用して、斉昭を味方につけること。
慶喜と慶福ですが・・・。
慶喜は実は斉昭の7男でした。
将軍職をエサに、黙らせようとします。
そこで、松平越前守慶永を将軍補佐役にしようとします。

家定は、「さようせい」・・・
とは言わずに、井伊を大老に任じてしまいました。
家定は、紀州・慶福を推していたのです。
家定、本当はうつけものではなく冷静だったようです。

そして、将軍職跡継ぎ問題に対して一度も相談がないことを理由に遠ざけるようになりました。

No,1の家定をおろそかにしていた堀田、気づいたときはすでに時遅し。。。
No,2の座から転げ落ちます。

堀田にしては、自分の行っていることが正しいから、将軍も支持してくれるだろう!と、思っていたのでした。
まさか、足元をすくわれるとは思っていませんでした。

井伊が大老となっても、堀田が老中首座を持することはありませんでした。
在任中に条約締結を!!

1858年6月15日神奈川県小柴沖・・・
日米修好通商条約は、御三家・天皇の勅許ももらえないまま、井伊の独断で締結されてしまいます。

翌日堀田は罷免。

そして、歴史書に、最も開国と向き合った、この堀田正睦の名はありません。。。


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