日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:増田長盛

炎の仁将 大谷吉継のすべて (新人物往来社文庫)

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1600年9月15日関ケ原で日本を二分する最大の戦い・・・関ケ原の合戦が行われました。
東西両軍総勢15万!!関ケ原の戦いです。
東軍の総大将は徳川家康、西軍を率いたのは石田三成でした。
しかし、この戦いには、もう一人の主役・・・大谷吉継がいたのです。
西軍の戦略を作り上げた男です。
通説では、三成との友情から負けるとわかっていても西軍についたと言われています。
しかし、負けるとわかっていて味方したのではなかった・・・??
どうして家康打倒の兵を挙げたのでしょうか??

史実では、関ケ原の戦いは半日で終了!!
家康が勝利をおさめ、吉継は自刃して果てることとなります。
が・・・??

大谷吉継の城があったとされるのは、福井県敦賀市。
城の痕跡はなく、幻の城とされてきましたが・・・2010年、小学校から敦賀城の建物の一部とされる礎石がはじめて発見されました。
敗者の資料は残らないのです。
吉継の名が広く知られるようになるのは・・・1583年の賤ヶ岳の戦いです。
この時吉継は、秀吉配下として戦い、武功をあげたとされています。
その後も・・・豊臣政権の官僚として石田三成とともに重要な役を担います。
1589年大谷吉継は、敦賀城主となります。
どうして敦賀なのか??
敦賀は、古来より日本海の物流の要でした。
日本海沿岸の物資の集積地であり、畿内に運ぶ拠点でもありました。
そして、大陸との交易も・・・。
吉継が敦賀城主となって3年後、秀吉は朝鮮出兵を行い、大陸に15万もの将兵を送り込みます(文禄の役)。
吉継は石田三成とともに、船奉行に就任し、全国から4000隻もの船を調達し、将兵や物資を滞りなく運び、官僚としての優秀さを発揮します。

吉継は戦奉行として監督し、石田三成と違い・・・反発するものはありませんでした。
吉継が大名に送った書状には・・・武将だけではなく家来たちにも、感謝、気遣いを忘れていませんでした。
しかし、その戦のさなか・・・吉継を悲劇が襲います。
重い病・・・吉継は、何年にもわたって、表舞台から姿を消すことになります。
そんな吉継を病床にみまったのは、秀吉と家康・・・。
二人とも吉継を豊臣政権の重要な担い手として考えていたことが分かります。
吉継は・・・豊臣の天下こそが絶対となっていきます。
その忠誠心は・・・??
秀吉主宰の茶会が行われました。
が・・・吉継は病のため、回し飲みの茶の中に鼻水を落としてしまいました。
その時・・・秀吉が吉継の茶碗をとり、一気に飲み干したのです。
吉継の窮地を秀吉が救ったのです。
吉継が公儀・・・豊臣の天下を重んじるのはこの時の感謝があったからだと言われています。
が・・・1598年8月18日豊臣秀吉死去・・・。

秀吉の死後・・・
五奉行・・・石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以。
五大老・・・徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家。
五大老の合議制で行われ、実務を担ったのが五奉行でした。
しかし、五大老筆頭・家康と三成の対立が勃発!!
日本全国に拡大していきます。
秀吉の死から半年・・・1599年閏3月、家康を支持する武将たちが三成を襲撃・・・石田三成襲撃事件です。
三成は難を逃れたものの・・・佐和山城に蟄居!!政務にはつくことが出来なくなりました。
三成の失脚後、吉継は病を押して政権内の紛争解決に奔走します。
宇喜多騒動も・・・秀家が家臣の間に入ったものの解決せず・・・家康とともに吉継が事件解決の仲介を務めています。
吉継は、実力者・家康からも、厚い信頼を得るようになっていきます。
五大老・上杉家の資料にも・・・家康に何でも言える男・・・吉継と書かれています。
揺らぎ始めた豊臣政権・・・吉継は屋台骨を支えていたのです。

石田三成の失脚から半年・・・大きな事件が・・・!!
1599年9月、五大老の筆頭・前田利長に徳川家康暗殺謀議発覚!!
両者の間に緊張と戦の準備が・・・!!
家康と前田家の朝廷に乗り出す吉継!!
利長の母を江戸に人質に出し、問題の鎮静化を図ります。
前田家が家康に屈服する形で終わりを迎えます。政権内で家康の力が強くなっていきます。
1600年、上杉景勝にも豊臣政権に対する謀反の疑いが・・・!!
吉継は、上杉に説得に・・・しかし、失敗、手切れとなってしまいます。
家康は、大老として全国に上杉討伐の動員命令を出します。
吉継も1000人を連れて敦賀を出発!!
こちらでも、あくまで朝廷を行おうとしていました。
そこへ・・・佐和山城に蟄居している三成からの使いが・・・三成のもとへ向かう吉継!!
そこで吉継は重大事を打ち明けられます。
それは、「家康打倒の挙兵計画」でした。
吉継は反対するも、三成は聞き入れません。

武断派の武将たちは実力のある家康を支持していました。
既に年寄りの戦を回避して、家康を豊臣政権を支える大老としておいた方がいい??
おまけに、戦っても家康には勝てない!!
戦で勝てない理由を5つ挙げています。
①兵力差 三成・19万4000石VS家康250万石
②戦上手
③優秀な家来
④家来から敬愛されている
⑤人望がある

三成にはない・・・ので、戦を避けなければならない!!
しかし、前田、宇喜多、上杉・・・実力者がいなくなれば、徳川に力が集中し、いずれは天下を取りたくなる・・・??

戦う・・・??
しかし、勝てない理由を解決しない限り、戦うことはできない!!
どうする??吉継!!

1600年7月11日、吉継は10日間悩んだ挙句、共に挙兵することを決意します。
吉継の反逆に驚いたのは家康・・・
”御一味あるに於ては越前半国を知らせ給ふ”として説得しています。
これに対して吉継は・・・
「拙者難治の病を受けて、勤成り難き
 度々辞したる病者なるに、内府の加恩に預かるべきや。」
と、家康の申し出を断っています。

どうして挙兵することを選んだのでしょうか??
負けるとわかっていて・・・ではなくて、豊臣家の為であれば豊臣恩顧の武将は一枚岩になる・・・福島正則や加藤清正など豊臣家のために戦うであろうと、信じて挙兵したようです。
家康は豊臣の家臣に過ぎない・・・秀頼が討伐を命じれば、敵となるのです。
しかし、吉継には譲れない条件がありました。

5つの満たしていない条件をどうするのか??
兵力差は五大老の宇喜多と毛利を味方にと考えます。長曾我部も・・・!!
さらに総大将も、人望のない三成ではなく毛利輝元に・・・!!
いくら三成に人望がなくても、輝元ならば厭わないはず・・・!!
三成が吉継の条件をのみ、翌日には二人が連署した檄文を諸大名に発したと言われています。

吉継の案は・・・盟主・毛利輝元を大坂城に置き、東軍を押さえるために、伊勢・美濃・北国方面軍!!
そして最後は美濃に集結し、岐阜城を拠点に防衛ラインを作ります。
岐阜・清州の間を最前線とし、東軍を待ち構えて長期戦に・・・。
そうすれば、真田・上杉で挟むことが出来る・・・!!

これは・・・小牧長久手の戦いを想定したものです。
これは、秀吉と家康が対した最初で最後の合戦です。
吉継や三成も参陣していたと考えられています。
戦いはおよそ8か月に及び膠着状態・・・最後は外交交渉によって秀吉が勝利しています。

大軍同士の衝突は、何か月もかかる・・・それが当時の常識でした。
吉継は、北国方面軍の司令官として北陸へ向かいます。
徳川方として出てくるのは加賀・・・前田利長!!
この時の吉継の作戦は素晴らしく、4万のうち3万は船で金沢を攻める!!
その虚報を信じた前田勢は、金沢へ撤退・・・前田軍は東西決戦に参戦できなかったのです。
順調に進む、家康打倒計画・・・しかし・・・

はじめは順調に見えた西軍の戦略も、計画は破綻をきたしていきます。
家康は、上杉討伐に参陣した豊臣恩顧の大名を味方につけることに成功!!
8月14日、東軍の先鋒は、早くも清須城へ!!
8月22日には、西軍の最前線岐阜城に迫ります。
西軍の戦略は、難攻不落の岐阜城での籠城!!
攻めあぐんでいるうちに戦況を自分たちの方に持っていく作戦だったのに・・・
8月23日、岐阜城は、東軍の猛攻に遭い僅か2日で陥落!!
岐阜城陥落で、西軍の防衛ラインは後退を余儀なくされます。
大垣城を拠点に防衛ラインを立て直すことに・・・!!
北陸から戻った吉継は、関ケ原に布陣!!
関ケ原の戦い10日以上も前のことです。
しかし、この時は・・・だれも関ケ原が戦場になるとは決まっていませんでした。
どうして吉継は関ケ原に布陣したのでしょうか??

吉継は、防衛ラインの後退に対応し、大垣城の後詰陣地として関ケ原に防御施設を構築したと考えられます。
西軍の戦略は・・・大垣城を拠点に南宮山・松尾山に後詰を配置。
松尾山には総大将・毛利輝元が詰めます。
長期戦を考えた策でした。
しかし、9月14日、西軍の戦略に齟齬が生じました。
総大将・毛利輝元が入る松尾山に小早川秀秋の軍が陣取ったのです。
亡き秀吉の甥でしたが・・・旗色は不鮮明でした。
石田三成、大谷吉継にとって一番大きな誤算でした。

戦略は変更を余儀なくされます。
松尾山に小早川秀秋が入ると、大垣城を拠点とする防衛ラインは破綻をきたします。
もし秀秋が東軍に寝返れば・・・西軍は分断され、大垣城が孤立してしまいかねない・・・!!
松尾山は家康と連携できる場所にありました。

西軍は、勢力の分断を避けるために、関ケ原に本陣を移さなければならなかったのです。
兵力を集中することで秀秋を自陣に取り込もうとしたのです。
西軍は軍を関ケ原に動かします。そして東軍も関ケ原に・・・
両軍合わせて15万以上!!

そして・・・9月15日午前8時・・・日本史上最大の合戦が幕を開けました。
東軍7万4000、西軍8万4000、数では西軍有利!!しかし、戦いに参加しているのは石田、大谷、宇喜多・・・3万5000余りでした。
しかし、吉継が設けた防御施設のおかげか戦いを優位に進めていました。
4時間後・・・松尾山の小早川が寝返り、吉継の陣に襲い掛かります。
吉継はそれを予想していて・・・何度も押し返します!!
が・・・吉継を最後の誤算が襲います。
吉継配下の大名たちが、小早川に呼応して寝返ったのです。
その攻撃を支えきれず・・・大谷軍が崩れ・・・すぐに西軍は総崩れ・・・
戦乱のさなか・・・大谷吉継自刃・・・享年36歳でした。

関ケ原の戦いで唯一自刃して果てた大名です。


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1615年大坂夏の陣、栄華を誇った豊臣家は大坂城落城と共に運命を断ちました。
おねは、京都で大坂の空を見上げて
「なんとも申し上げるべき言葉もありません」
と言ったと言われています。

豊臣家に嫁いで54年、この言葉にはどんな思いがあったのでしょう?

名もない足軽からスタートして、知恵と愛嬌で天下の階段を駆け上ったNo,1秀吉。その日本一の出世物語の相方が、No,2北政所おね。

尾張弁丸出しの夫に物申し、数多くの戦国武将を育てた天下を支える母。
しかし、秀吉亡き後は、徳川に加担した悪女とされてきました。その真実は、一体どこに・・・?

天下一の出世男を支えたおね、本人も、足軽から一国一城の主の妻となりました。
その秀吉とおねとの結婚は、当時としては珍しく、恋愛結婚でした。

1561年同じ長屋のひょうきんな男と結婚。その式は、土間に蓆をひいただけの質素なものでした。
秀吉は、織田の家臣として、快進撃を支えていました。

おねは14歳・織田家家臣の足軽の娘として生まれ、引衆・浅野長勝の養女となっていました。
当時の秀吉は、25歳。小者・武家の雑役に使われていて、身分的にもつり合いがとれていたようです。

あけすけで明るい夫婦だったようで、おねは、頭のよい人で、裏方を任せる良き伴侶だったようです。

1566年美濃の斉藤を攻めあぐねていたとき・・・墨俣の一夜城を築いてその勝利への突破口を開きます。
また、夜襲をかけ、念願の近江制覇。

秀吉は、おねに、戦のことを意気揚々としゃべるのが好きでした。
そして、それを楽しそうに聞くおね。あけっぴろげで気さくなその人柄は、偉くなっても変わることがなかったといわれます。

1573年小谷城攻め。
秀吉は、先陣を切って大活躍。その功績に、近江12万石を拝領します。
そして、この琵琶湖のほとりに長浜城を築いたのです。

この長浜城、砦や山城ではなく、政治と商業を司る中枢としての機能としての城になっています。
新しい城下町という町づくりに着手。

広々とした道路、掘割、水路・・・。整然とした町並みを作りました。
その町の区画には、職人や商人たちを移住させ、年貢を減免する措置をとりました。
また、戦に欠かせない、鉄砲集団の育成に力を入れ・・・。
最先端の、町づくりをしました。

しかし、城主秀吉は、すぐに戦地へ・・・。

1577年毛利征伐のため、中国遠征に。
12万石の領国経営はおねに任されました。
辣腕経営者のおね、秀吉の戦国一の懐刀だったのです。

2人は常に手紙でやり取りをしていました。秀吉は常におねに判断を仰いでいたようで、秀吉にとっての知恵袋でした。

また、おねは人材の育成にも着手します。
少しでも見どころのある人間を引き取りました。

尾張では・・・福島正則・加藤清正
長浜では・・・石田三成・増田長盛

などです。

采配を振るって、飯を食わせて、教養を付ける。
みなには、「おふくろさま」と、慕われていました。


秀吉。その戦い方は、知恵のある参謀を使っての調略が主でした。武力によって戦うのは、いたずらに兵を失うだけだったからです。

三木城の干殺しでは、2年にわたって兵糧攻め、高松城では水攻め。向かうところ敵なしの秀吉でしたが、時代は激変。

1582年本能寺の変。
明智光秀の謀反により、信長自害。
秀吉は、わずか6日で取って返し、山崎の戦いであっという間に明智を蹴散らし、天下取りレースに名乗りを挙げました。

その後3年、調略と武力で
1585年見事関白に就任。

自らの権力の象徴として豪華絢爛の大坂城を築城。
おねはこの時から北政所となるのです。

大坂城を築城したものの、秀吉は九州の島津征伐のために兵を出します。
2人を繋ぐのは手紙でした。この手紙、単なるラブレターではなく、政治のホットライン。重要な機密が書かれていました。

例えば・・・。
1587年島津義久が秀吉に降伏。
その時のおねへの書状には・・・。
①島津義久の人質は15歳の娘。
①重臣も十人ほど人質に。
①弟・義弘の人質は15歳の長男
①8歳になる息子も人質とする。

などと書かれています。

「人質」戦略を使い出す秀吉。
この人質の監督管理がおねの役割でした。


京都・聚楽第の周りには、大名屋敷が何十件と次々に出来、「人質」が送り込まれます。
秀忠も12歳の時に「人質」としてやってきます。

秀忠も、北政所が世話をしていました。
以来秀忠は、上洛するたびに、おねを訪ね、折々には贈答の挨拶、お歳暮などを送っていたといいます。
「おかか様」として、情を結ぶのです。

当時の人質の重要性として・・・。
人質とはいえお客様。子供が大きくなると城主になって、天下人を支えられる人に・・・豊臣家を慕うようになるように育てたのです。

つまり、人質とは、教養をつけ、裏切らないように育てる。だから、戦術や礼儀作法まで教えたのです。

黒田長政は、関ヶ原の時、調略して東軍に寝返るように工作をしますが、この時の京での人脈・仲間意識を利用して交渉し、寝返らせるのです。

つまり、おねの役割は大きいのです。
秀忠も、徳川と豊臣が仲良くなれるようにと、育てたのです。
おねがいなければ、秀吉は天下が取れなかったのでは?


そして、最大のライバル淀殿が出現します。
2人の間には様々な噂がありますが。。。2人の真実はどこにあるのでしょう?

1589年鶴松の誕生。ここから確執が生まれるのです。

「二人かかさま体制」の誕生です。
家を守る女性と子供を育てる女性、役割分担が生かされました。

1590年小田原城攻めの時、秀吉は北政所に頼んでいます。
「長い戦になるので淀の者を呼び寄せとうござる」
京を離れられない北政所に代わりに陣中における妻の代わりを淀殿に託したのです。

翌年、そんな3人に悲劇が・・・。
1591年鶴松病没。

跡継ぎをあきらめた秀吉は、甥の秀次に関白職を譲ります。
自らは、朝鮮征伐の指揮官として九州にわたります。
朝鮮での戦いに邁進する日々・・・。
そんな中、思いがけない懐妊の知らせが。。。
秀頼の誕生です。

何としても秀頼に跡を!!
秀吉に暗い野心が灯りました。

自ら位を譲った秀次を高野山に追放。
1595年自害に追い込みます。

豊臣家の将来は?

1598年秀吉が62歳で亡くなります。
北政所にとっては、2人で作ってきた豊臣政権。秀吉の死によって、私は私の道を行こうかしら・・・。と、思ったのかもしれません。豊臣さえ残れば・・・天下一でなくても良いのでは?

淀殿の力が大きくなって・・・おまけに育てた子供たちが反目しだしました。
尾張は武断派、近江は文治派に割れてしまうのです。
朝鮮戦争を戦った尾張派。他国に攻めていって負けたということは、恩賞がありません。その不平不満も、死んでしまった秀吉には文句が言えません。矛先は、石田三成ら近江派に向けられたのです。

しかし、近江派は、朝鮮戦争の用意をしたり、準備をしたり、みんなが帰れるように、兵を退くための用意もしました。「中途半端に戦ったくせに・・・」

この近江派が、淀殿と秀頼方になるのです。

俺たちは排除される・・・追いやられたくない。。。尾張派は、北政所のところに泣きつきに行きました。
相談に乗る北政所。当時五大老筆頭だった家康を頼るように言います。

北政所は、大坂城を淀殿と秀頼に託し、京でひっそりと暮らします。
自分の役割は、夫の菩提を弔うこと・・・。

晩年に建立した高台寺には、御膳・スリッパ・杖、ゆかりの道具や衣装が数多く残されています。
しかし、時代は静かな生活を脅かします。

天下をめぐる争いが・・・。虎視眈々と家康が狙っていました。
秀吉と北政所が育てた小早川秀秋・福島正則・加藤清正は、にわかに権力を振るい始めた石田三成に反発していました。

家康はこれを利用して、内部から切り崩しにかかります。
東軍につくか、西軍につくか・・・。水面下で激しい攻防が繰り広げられました。

北政所のところにも、次々相談にやってきました。その中に、小早川秀秋の姿もありました。
豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった! 天下に愛された女・おねの生き様に秘められた真実
豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった! 天下に愛された女・おねの生き様に秘められた真実
周りの武士は、北政所を味方につければ「使い道」がある。北政所には逆らえない。。。
そこを突いたのが、策士・黒田長政でした。

いち早く徳川に味方した黒田長政。黒田長政も、北政所が家康に動きかけているのを察知して、小早川に揺さぶりをかけます。

「徳川方につくことを早々に決断されよ
 われわれ北政所様に恩義がある者は、それこそがお心に従うことだとわきまえよ」

東軍につくように勧めます。

1600年関ヶ原の戦いの火ぶたが切って落とされました。
しばらくは互角に見えましたが、小早川の1万5千の軍が東軍へ寝返ります。

これを機に、西軍は総崩れ。わずか1日にして幕を閉じたのです。
このことからも、北政所が天下を大きく左右したと言えるでしょう。

この戦いに豊臣が負けた一番の要因は、尾張閥・近江閥が一致団結していれば・・・。
奥の秩序が保たれていれば・・・。ということに尽きるのではないでしょうか?

事実、北政所は、石田三成に追い出されたような節がありました。

秀吉と最後まで相思相愛だったおね。秀吉の死後は、抜け殻のようになって、思い出に生きたようです。

秀吉辞世の句はあまりにも有名です。

「つゆとおち
  つゆときえにし
    わがみかな
 なにわの事も
    ゆめのまたゆめ」

1615年大坂城落城の折、豊臣家も滅んでしまいました。

たったひとこと

「大坂のことは
  なんとも申し上げる
    言葉もございません」

高台寺霊屋には仲良く二人の木造が並んでいます。
日本一のおかか様はいま、夫婦ゆっくり暮らしているのです。


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