日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大久保利通

戦国最強と謳われ数々のライバルを打ち負かした猛将・武田信玄。
しかし、領国・甲斐の統治は一筋縄ではいきませんでした。
四方を山に囲まれた甲斐の国は急流河川が幾重にも流れる日本屈指に洪水多発地帯でした。
独立心の強い豪族が、河川の流域に割拠し、信玄の支配をも脅かしていました。
治水のような広域にわたる協力体制が必要な事業を行うには、国内がバラバラのままでは実現性が高くありません。
信玄が戦国大名として豪族たちを束ねる上に立つ存在として治水工事を行うことで、甲斐国の人々の支持を得ていく・・・自らの求心力を高めていったのです。

治水を通して国をまとめ上げた信玄・・・その原点が、甲府盆地に築いた信玄堤でした。
信玄堤は、南アルプスから流れ来る急流河川から、甲府盆地を守るために作られたおよそ3キロに及ぶ堤防です。
戦国時代に信玄が作った本土手と呼ばれる堤防が、その原型と呼ばれています。
信玄堤は現在、釜無川と御勅使川を受け止める甲府盆地の治水の要です。
しかし、信玄の時代は今と異なり川が縦横無尽に盆地に流れ込み、信玄堤だけでは対処できなかったのでは?と言われています。
江戸時代に書かれた「甲斐国史」には、信玄堤の他にも治水工事が甲府盆地に存在したと記されています。
その一つが、信玄堤から7キロ離れた御勅使川上流に残っていました。
石積出と呼ばれ、高さ7m、幅15m、奥行き80mにも及ぶ城壁のような大きな石垣です。
当時、いくつもの流路を持つ御勅使川が釜無川にぶつかることで、広範囲の洪水が起きていると考えられ・・・洪水が起こりやすい川の合流点を一カ所にまとめるため、この石積出を築いたともいわれています。
暴れる一番根元を押さえるのがポイントでした。
石積出によって向きを変えられた川は、高岩と呼ばれる断崖に激突!!
一旦勢いを弱めた川を、下流の信玄堤が受け止め、甲府盆地への浸水を防いでいたのです。
信玄堤が途切れる釜無川の下流域にも工夫が凝らされます。
ここでは霞堤と呼ばれる隙間の空いた堤防が活躍しました。
今も、霞堤の跡を見ることができます。
洪水時には、隙間からゆっくり水があふれだすことで、水の勢いを逃がし、堤防の決壊を防ぎました。
そして洪水が治まれば自然と水が川へと戻っていく仕組みになっていました。
信玄の時代の人は、治水施設の能力を超える洪水が毎年来て溢れていました。
それに対して人々の生活は、洪水と共存する・・・洪水に勝つのではなく負けないようにする工夫が霞堤の極意でした。
水をもって水を制す・・・ユニークな信玄流治水術・・・川と人々との共存を支えていたのは、建造物だけにとどまりません。
信玄が堤防脇に新たな開拓地を作ろうと人々を集めました。
信玄堤の傍に家を建てれば、税金を一切免除する
その代わり、住民に堤防の修理や洪水への対応を義務付ける・・・治水ニュータウンを作り上げました。
この時出来た地区・竜王河原宿には、今も信玄堤へと続く細長い区画が残されています。
信玄は、平安時代に起源をもつ祭・御幸祭に莫大な費用をそそぎ、甲府盆地を巻き込む一大治水パレードへと発展させます。
水害に対する庶民の力と公の力をミックスさせ、水害を防ごうとしたのです。
川を治めるものが国を治める・・・治水を通して甲斐国を強国へとした信玄が、今も山梨を守っています。


岡山市の中心部に、津田永忠が生涯をかけて作ったものが残されてています。
普段はあまり水が流れていない百間川・・・全長13キロの人工河川が、一昨年、岡山市街を洪水から守りました。
西日本豪雨・・・岡山の平野部を三日間にわたる集中豪雨が襲い、平成最大規模の水害をもたらしました。
市街地を流れる旭川は水位が急激に上昇・・・下流部では氾濫も危ぶまれる事態となりました。
この時、市の中心部から北で、旭川から分流する百間川が放水路として機能しました。
水を海に流すことで、市街地のおよそ3300戸が浸水被害を免れたのです。
江戸時代前期に開削された百間川・・・その築造を指揮した岡山藩士・津田永忠は、城下のインフラを一気に引き受けた土木の名人でした。

1654年の備前洪水・・・局地的な豪雨によって、城下1455軒が家屋流失し、156人が犠牲となりました。
前代未聞の水害に、岡山藩主・池田光政は「我ら一代の大難」と嘆いたといわれています。
甚大な被害を招いた原因は、岡山城の造りにありました。
旭川を堀として利用していたために、激流があふれ出し、大洪水となって藩士や領民の暮らす城下を襲ったのです。
旭川の氾濫から城下を守るために作られたのが、百間川でした。
どのようにして旭川の水を百間川に導いたのでしょうか?
その要となる仕掛けが、分流部にあります。
洪水の取り入れ口として、旭川の堤防を切り下げて作られたのが、百間川の入り口です。
その左右に作られた丸みのある石積みが巻石です。
強度の高い岡山さんの花こう岩が使われ、永忠が作った当時の姿で受け継がれています。
西日本豪雨の時も、改修工事を終えたばかりの巻石が活躍しました。
百間川に流れた最大で毎秒1500トンの濁流に耐え抜き、市街地の浸水被害は軽減されたといいます。
三百数十年前に、永忠がこれを築造してから、岡山の町を守っているのです。

津田永忠は、洪水から人々を守るだけでなく、その先も見据えていました。
洪水によって田畑を失った農民たちは困窮し、飢饉が・・・およそ8万人が飢えに苦しみます。
永忠は、農村を復興し、藩と領民をすくうために大規模な新田開発が必要だと痛感します。
そこで、当時広大な干潟が広がっていた百間川下流域を干拓し、水田に変えるという大胆な計画を打ち立てます。
ところが、そんな大事業は不可能だと藩重臣たちの反対にあいます。
開発に要する工事費用は、半額までしか出せないと突き放しました。
それでも永忠は、残りの資金・銀500貫目(およそ10億円)にもなる大金を、大坂や京都の豪商から自分の名義で借り、工事費用を調達しました。
永忠は、私利私欲のために新田開発を行おうとしている・・・そんな周囲からの誹謗中傷に、こう反論しました。

「名誉が欲しいなら、新田開発には挑まない
 天道天下へのご奉公と思うだけである」

難事業だった新田開発・・・永忠は、巧みな技術を使って成功に導きます。
干拓のため、海水の侵入を防ぐ必要がありました。
そこで築いたのが、干潟を囲むおよそ12キロの堤防でした。
しかし、海より低い干拓地を堤防で囲ってしまうと、百間川から流れてきた水や水田を潤した農業用水を海へ排水することができない・・・
そのため永忠は、巻石でも使われた強固な花崗岩で水門を作り、海と接する百間川の河口一帯に並べました。
木製の板によって開け閉めのできる樋門・・・海の水位が河口より高い満潮には門を閉めて、海水が水田に侵入しないようにし、海の水位が下がる干潮に合わせて門を開き、たまった水を排水しました。
樋門を通して水を管理することで、新田開発が可能となりました。
百間川の治水を、農地の拡大に結びつけたのです。
こうして、江戸時代最大規模の沖新田が生れ、岡山藩と領民を窮地から救いました。
今も、開閉式の門のシステムは継承され、百間川水域の水田地帯を守り続けています。
300年以上岡山の人々を守ってきた百間川・・・その静かなたたずまいの中に、信念を貫いた武士・津田永忠の記憶が刻まれています。


実業家・金原明善・・・
明治から大正にかけ、天竜川の治水に尽力した実業家です。
江戸時代、暴れ天龍と恐れられた天竜川・・・全長213キロ、長野県の諏訪湖から静岡県の浜松平野に流れる急流河川です。
天竜川流域は、江戸後期の100年だけでも50回近くの洪水に見舞われ、その度に多くの命が失われました。
溺死者の魂を弔う慰霊塔が川沿いの至る所にあります。
1832年、浜松の名主の家に金原明善が生れました。
幼いころから村が水に沈むさまを幾度となく目の当たりにしてきました。
明善が洪水から人々をかくまったという屋根裏部屋・・・
洪水から村人たちを救いたいと、明治時代の幕開けと共に明善は動き出しました。

1874年、天竜川の治水を目的に、治河協力社を結成。
そして、自らの財産を元手に大規模な堤防工事を行いたいと明治政府に訴え出ました。
金原家の全財産を売り払い、工事費に充てるという明善に、国内行政を管轄した内務卿・大久保利通も困惑しました。
しかし・・・当時持っていた全財産、ガラスのコップ1個まで全部売って寄付をし・・・その覚悟が大久保を動かします。
明善の熱意に討たれた大久保は、以後、天竜川の治水事業を明善に一任し、政府から支援金を出すとまで約束します。
早速明善は、最新式の測量機器を買いそろえ、欧米の建築技術を取り入れた近代てきな堤防工事を計画します。
ところが・・・明善の治水計画に反発の声が上がり始めます。
公共事業は地域全体で話し合って行うべきだと流域の村々が治河協力社への参加を要求したのです。
しかし、明善は村々の加入を頑なに拒み続け、ついに治河協力社を解散させてしまいます。
天竜川を使って生計を立てている人にとって、漁業権が失われたり、天竜川の水運だったり・・・自分達の仕事を奪ってしまう事業だと考えた人がたくさんいたのです。
そんな人たちが、治河協力社に増えると、思惑が絡み合って合意形成が難しくなる・・・
明善は、多数決の原理を恐れたのです。
村々の協力を拒んだ明善は、地域から孤立・・・
政府からの支援金も絶たれ、近代的な堤防を建設する夢は絶たれてしまいます。
しかし、明善は全く別の角度から治水に迫ることを思い立ちます。
目をつけたのは山!!

森が討伐、青い山がはげ山へと変わっていっている・・・
雨が降れば土砂が流れて川にたまり、堤防が決壊しやすくなってしまう。
治水と植林とは方法は異なるが、その目的な同じではないか・・・??

治水から治山へ・・・
明善は、山の木々や水を貯える力で天竜川を鎮めようとしたのです。
見よう見まねで杉やヒノキなどの植林を始めた明善・・・
しかし、還暦間近のその行動を、初めは多くの人があざ笑いました。

かつては流域の人々との連携を拒んだ明善・・・
今回は、地域が一丸となって治山、治水を実現すると心に決めていました。
明善はまず山間に住む貧しい人々に賃金を支払い植林という新たな仕事を与えました。
さらに、丸太を運ぶ運輸会社、木材を加工する製材所、資金を回すための銀行を設立。
林業を中心に、新たな事業と雇用を生み出していったのです。
こうして流域の人々の心を掴んだ明善は、17年で680万本を植林します。
東京ドーム450倍の森林が生れ、後に天竜美林と呼ばれるようになりました。

明善が植林を始めてから40年近くたった大正11年6月・・・
歩くこともままならなくなった91歳の明善は、最後にもう一度山を見たいと仲間たちに頼みます。
明善が植えた杉やヒノキは、見違えるほど大きく育ち、人々を見下ろしていました。
明善を笑うものなど、もうどこにもいませんでした。

大正から昭和へ・・・山々に緑が戻ると同時に天竜川の洪水も次第に減少していきます。
明善が夢見たダムなどの近代的な治水施設にも支えられ、昭和20年を最後に浜松では天竜川の大規模な氾濫は無くなりました。
明善は、今も天竜川のほとりで人々の暮らしを静かに見守っています。

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津田永忠の新田開発の心 (岡山文庫 271)

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土の偉人 金原明善伝 著/御手洗清 現代語訳監修/加藤鎮毅

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1873年、明治政府は崩壊の危機にありました。
際ぢの実力者・西郷隆盛が対外戦争につながりかねない朝鮮への使節派遣を主張・・・
これに対し、盟友大久保利通は内治優先を主張して激しく対立!!
政府は真っ二つに割れました。
いわゆる征韓論危機です。
従来この問題は、西郷・大久保の対立を軸に行われてきました。
しかし、事はそう単純ではありませんでした。
近代化をめぐる岩倉使節団と留守政府の対立、薩摩・長州と土佐・肥前の主導権争い・・・
様々な要因が危機の背後にありました。
そして近年の研究によってキーパーソンとしてクローズアップされてきたのが・・・伊藤博文です。
当時伊藤は、一官僚に過ぎない・・・その彼が、明治日本を左右する政変のキーパーソン??

1857年、足軽の子・伊藤博文は17歳で松下村塾に入門しました。
吉田松陰のもと、幕末に活躍する多くの若者と共に学んだことで、長州藩の若手で注目の存在となります。
この頃の伊藤を評して松陰はこう書いています。

「才能は劣り、学問も未熟、だが性格は素直で、私はとても伊藤のことを愛している
 かなりの周旋家になりそうな」

1863年、23歳の伊藤は、その後の人生を大きく変える決断・・・仲間四人とイギリスに留学をします。
髷を切り、洋装に身を固めた一行の写真が残されています。
伊藤たちは英語を学ぶ傍ら、海軍の使節や造船所などを精力的に見学しました。
巨大な機械が稼働する工場や、煙を吐いて走る蒸気機関車を目の当たりにした伊藤は、西洋文明を導入しなければ日本は生き残れないと悟ります。

しかし、留学はわずか半年で終わりを告げました。
長州が窮地に陥っていたのです。
当時、長州藩は外国勢力の打ち払いいを掲げ、列強の船を次々と攻撃していました。
1864年英米仏蘭4か国艦隊を下関で砲撃、その報復のために4艦隊が下関に襲来・・・
圧倒的な軍事力を前に、長州の砲台は次々と占拠され、破壊されてしまいます。
この危機を前に、帰国した伊藤は通訳としてイギリスとの和平交渉に臨み、賠償金を幕府に肩代わりさせることに成功します。

そんな伊藤の交渉力に目をつけた桂小五郎・・・後の木戸孝允・・・
その頃、長州は幕府との対立を深めており、武器の補給が急務でした。
しかし、幕府は長崎の取引を厳しく監視しており、表立って海外から武器を購入することは困難でした。
木戸は伊藤に、それまで対立関係にあった薩摩藩名義での武器購入を命じます。
この困難な任務を伊藤はやってのけます。
こうして長州の外交を担う存在となった伊藤は、イギリスの外交官アーネスト・サトウたちとの交流を通じ、将来の日本の在り方について交流を深めていきました。
公儀公論の政治体制を目指し、幕府との対決姿勢を深めていきます。

1868年1月、薩摩や徴収を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外の鳥羽・伏見で激突!!鳥羽・伏見の戦いです。
新政府軍の勝利によって、明治という新時代が始まりました。
薩摩の西郷隆盛や、大久保利通、長州の木戸孝允といった倒幕の中心人物が新政府の政治を実質的に動かすこととなります。

1869年、伊藤は木戸の引き立てで大蔵少輔に就任します。
この時伊藤が立案したのが、大蔵省が中心となって産業を興すというプランです。
伊藤は、中央集権制の下で、強力に近代化を推進することを目指しました。
ところが、その前に立ちはだかったのが、大蔵卿・・・大久保利通でした。
旧薩摩藩との関係の深い大久保にとって、伊藤の改革案は保守的なをはじめ諸藩には到底受け入れられない過激なものに映ったのです。

この年の9月、伊藤は大蔵省から工部省へ・・・
伊藤はいつしか、大久保に西洋文明を理解させなくては日本の近代化は難しいと考えるようになっていきます。
絶好の機会がやってきました。

1871年、不平等条約改正のための使節団派遣が決定します。
使節団の中心は、外務卿・岩倉具視。
そこで伊藤は、政府の中からも・・・と、木戸・大久保の参加を推薦します。
そして実現したのが、薩摩と長州の主導者が共に洋行するという岩倉使節団です。
欧米を見れば、彼等も近代化の必要性を理解するはず・・・果たして伊藤の思惑は的中しました。
舗装された道路沿いに立ち並ぶ石造りの近代建築、電信や鉄道などの最新技術・・・
木戸はその衝撃を次のように書き残しています。
「今の日本が目指す開化と称する者の多くは、皮膚上のものに過ぎない」

大久保も・・・
「英米仏などの開化は、日本とは段違いではるかに及ばない」

帰国後にまとめられた使節団の報告書・「米欧回覧実記」によると、

「議会は必ず上下両院を分かつこと、一つの議会のみで一方局としている国はない」

大久保がたどり着いた結論・・・それは議会制でした。
西洋の進歩の源は、国民の力の結集にあると悟ったのです。
伊藤と大久保は、使節団を通じて急速に接近します。
2人は近代化に向け、方向性を共有したのです。

1873年9月、伊藤は2年近い視察を終え欧米より帰国しました。
待ち受けていたのは思わぬ事態でした。
長州の政治力が、大きく後退していたのです。
使節団不在の中、政権を握ったのが留守政府・・・
太政大臣・三条実美
参議・・・・・西郷隆盛(薩摩)
       板垣退助(土佐)
       後藤象二郎
       大隈重信(肥前)
       江藤新平
       大木喬任
でした。
しかも後藤象二郎・江藤新平・大木喬任の三人は、使節団外遊中に無断で参議に登用されていました。
使節団は、留守政府との間で約定書を交わしていました。

”内地の事務は大使帰国の上 
 大いに改正する目的なれば
 なるたけ新規の改正を要すべからず”

ところが、留守政府はその約束に反して、徴兵令の施行、学制の制定、全国への裁判所設置など大規模な改革を次々と打ち出していきます。
これらをすべて実行すれば、国の財政は破綻する・・・
長州出身の大蔵卿・井上馨は、江藤らの政争に敗れて辞任していました。
さらに、陸軍太輔・山形有朋は汚職事件に巻き込まれてしまい失脚・・・
長州の政治力は一気に低下してしまいました。
そのタイミングで勃発したのが”征韓論問題”です。
きっかけは国交を求める日本の現地高官に朝鮮側が張り出した掲示でした。

”近年日本人は、制度や衣服、風俗を西洋風に改め、昔からの法を変えようとしている
 さながら無法の国というべきである”

1873年8月、この問題を巡って、留守政府で閣議が開かれます。
閣議を主導したのは、参議・西郷隆盛でした。

「まず朝鮮に使節を派遣して談判すべきだ
 その任には、自ら当たる所存である」

これに、板垣、江藤ら土佐・肥前出身の参議が賛同・・・
閣議は西郷に大きく傾いて行きます

8月17日、三条実美は、岩倉達帰国後に再び評議することを条件に、西郷の朝鮮派遣を閣議決定。

一見、平和的に見える使節派遣・・・
しかし、後に西郷が提出した文書から、極めて危険な計画だったことが読み取れます。

”朝鮮側が暴挙に出た場合、初めてその罪を問うべきである”

緊張状態にある朝鮮に乗り込んだ西郷が殺されれば、開戦の絶好の口実になる・・・
使節派遣は対外戦争をも視野に入れた計画だったのです。
ひとたび開戦となれば、膨大な戦費がかさみ、国内の近代化どころではなくなってしまう・・・!!
伊藤は状況を打開する為に、密かに動き出しました。

”明治六年征韓論一件”にはこう書かれています。
明治6年9月27日の岩倉具視宛の手紙には・・・

「朝鮮問題の解決は、大久保さんでなければ成功は難しい・・・
 参議就任のこと、今一度ぐらいではなく百度でも御説諭すべきです」

征韓論阻止のためには、大久保を参議にして戦ってもらうしかない・・・伊藤はそのために岩倉を動かそうとしました。
2日後、岩倉は伊藤にこう返信しています。

「今朝、大久保のところに出向き、百方懇願した」

2人の策は功を奏し、岩倉に対し大久保はついにこう表明します。

「命がけで参議就任をお引き受けする」

岩倉、大久保、そして伊藤・・・西郷の派遣阻止に向け、三人の戦いが始まりました。

1873年10月14日・・・
岩倉使節団帰国後、初めての閣議が開かれました。
メンバーは、太政大臣・三条と右大臣・岩倉、留守政府側の参議には西郷を筆頭に土佐の板垣、後藤、肥前の江藤、大隈らが顔を連ねます。
使節団側の参議は大久保一人・・・木戸は帰国後体調がすぐれず欠席していました。
閣議の様子は・・・

岩倉と三条が、朝鮮の西郷を派遣するのは延期すべきだと主張。
ほとんどの参議は、これに同意しました。
8月の閣議で、西郷を派遣を決めた三条でしたが、岩倉に説得され考えを変えていました。
三条が意見を翻したことで、留守政府の参議も派遣延期で妥協しようとしましたが・・・
西郷が納得しません。
決まったことだとあくまで即時派遣に固執し、強硬に反論しました。
先の閣議で派遣を認めた手前、留守政府の参議も延期論を捨てざるを得ない・・・

10月15日、閣議が再び開かれ、そこで決着がつきます。
三条実美が、またもや考えを変え、西郷の即時派遣を決定。
この決定を受け、岩倉と大久保、木戸は辞意を表明。
慌てた三条は、西郷に派遣の撤回を求めるものの、西郷は、頑として受け入れませんでした。
板挟みとなって追いつめられた三条は、極度のストレスで卒倒し、一時意識不明に・・・!!

この間、閣議に参加できない伊藤は、この政局を不安と共に見守っていました。
留守政府と共に近代化??それとも岩倉と大久保を支える・・・??
このまま留守政府側が進める西郷の朝鮮の派遣を認めるのか?
それとも岩倉・大久保と共に、逆転への賭けに打って出るのか??

伊藤の選択は、あくまで岩倉と大久保を支えることでした。
しかし、そのためには既に、使節派遣の閣議決定を覆さなければなりません。
果たして、伊藤はどうする・・・??

「大久保利通日記」によると・・・
三条が倒れた2日後の10月19日には、
”他に挽回の策なしと言えど、ただ一の秘策あり”と書かれています。

ただ一の秘策とは・・・??
三条の倒れた今、岩倉が太政大臣の正式な代理となって太政大臣としての実権を握り、その権限で使節派遣をやめさせるというのです。

10月20日、明治天皇が岩倉邸を訪れ、岩倉に直々にこう伝えます。

”太政大臣に代わり朕が天職を輔けよ”

岩倉を太政大臣内裏にするという秘策・・・伊藤博文が動いていた・・・??
その根拠の一つが大久保の”一の秘策”の前日の日記です。
この日、大久保宅を訪問した伊藤は、さらにその後、岩倉邸にも回っています。
両者の間で秘策の根回しを行っていたのです。

10月23日、岩倉は、使節派遣、派遣延期、二案を上奏します。
天皇の答えは、既に決まっていました。

「国政を整え、民力を養い、つとめて成功を永遠に期すべし
 汝 具視が奏上 朕 これを嘉納す」

西郷の派遣は中止され、それを受けて征韓派の参議5人は辞職しました。
征韓論をめぐる対立は、使節団側の勝利に終わったのです。

政変後・・・
1873年10月25日、伊藤は工部卿に就任します。
産業を興し、民力を育てることに手腕を発揮します。
その一つが生野銀山です。
当時、生野銀山は、採掘技術の限界から産出量が激減していましたが、伊藤率いる工部省は、静養の技術を導入することで増産を図りました。
ここで、日本初の産業道路ができています。

政変から12年後の1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。
1890年には第1回帝国議会開会。
そこでは貴族院と衆議院という二院制が取られ、近代国家の枠組みが整えられました。

1900年には立憲政友会を結成。
国民の声を政治に反映させることに力を注ぎます。
岩倉使節団で育んだ夢を、伊藤は終生追い続けたのです。

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日本の政治の中枢・国会議事堂・・・現在の建物は、1936年帝国議会議事堂として完成しました。
参議院本会議場・・・戦前は、皇族や華族で形成された貴族院として使用されていました。
現在参議院の定数は245ですが、460席あるのは貴族院の議場だった名残です。
天井は唐草模様を配したステンドグラスがはめ込まれ、当時の面影を残しています。
この参議院議場の最大の特徴とされるのが、議長席の後ろにもうけられた・・・開会式の際の天皇陛下の席です。
日本で初めて議会が開かれたのは1890年の第1回帝国議会です。
それに先立って作られたのが、大日本帝国憲法でした。

明治維新から22年の1889年・・・
近代国家を目指して制定された日本初の憲法が、大日本帝国憲法です。
その憲法制定に16年を費やし、中心的な役割を担ったのが伊藤博文でした。
伊藤は1841年、長州藩の貧しい農家に生れました。
その後、下級藩士の養子となり、吉田松陰が開いた松下村塾で学んだことで、運命が大きく変わることになります。
20代の始めに藩の留学生としてイギリスに渡り、西洋文明と英語を学びます。
そして明治維新後、その英語力を買われ、新政府に仕えることとなったのですが、士族出身者が多い政府の中で、伊藤は立場が弱い農民出身。。。
どうしてそんな伊藤が、後に憲法制定の中心人物となったのでしょうか?

1871年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団でした。
30歳になっていた伊藤は、明治維新の英傑・大久保利通や木戸孝允たちと共に海を渡ります。
この時の使節団の目的は、幕末、日本が西洋列強に言われるがまま結んでしまった不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の視察でした。
一行は、アメリカに到着後、サンフランシスコ、ワシントン等に滞在、その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンなどの都市を視察、そこで西洋列強の工業力や軍事力のすごさをまざまざと見せつけられ、強い衝撃を受けます。
そして、その中で、その国力の背後にある「あるもの」が日本の近代化には必要だと気付きます。

「あるもの」とは・・・??
国力を高めないと西洋諸国から認められない・・・
そのうちの一つとして憲法に注目します。
ヨーロッパの多くの国は憲法を持っており、指導者と国民が一つに繋がっている・・・そのような国の形を支えている憲法というものが重要だと・・・!!
この時の日本は、廃藩置県で「藩」が廃止、日本という国を一つにまとめるための憲法はありませんでした。
そうした中で、使節団一行は、欧米諸国と肩を並べるには憲法成立が不可欠だと知ったのです。
中でもそれを強く感じたのが、大久保利通と木戸孝允で、しかし、自分たちの生きている間には実現しないだろうと考えていました。
そこで、2人はイギリス留学を経験し、西洋列強のことをよく知る若き伊藤にこの大事業を託すことにしました。
こうして伊藤は、明治政府の重鎮・木戸孝允と大久保利通の後押しがあったから憲法制定の大事業を担うことになったのです。
しかし、そんな伊藤の前に、いくつもの壁が立ちふさがることに・・・!!

憲法制定の壁①板垣退助の自由民権運動
帰国した伊藤は、1873年11月、政府から憲法制定に向けての調査を正式に命じられます。
しかし、日本の国内事情はそれどころではありませんでした。
政府内では、朝鮮への派兵をめぐる征韓論争が起き、その結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職・・・
さらに、士族の反乱が勃発、緊迫した情勢にありました。
そうした中、下野した板垣退助が1874年、日本初の政党・愛国公党を設立。
自由民権運動の口火となる建白書を政府に提出しました。

「今の政府は一部の藩閥政治家が支配している
 これを改めるには、選挙で選ばれた民撰議員を設置すべきである」by板垣

これにより、不平士族を中心に、自由民権運動が盛り上がりを見せます。
藩閥政治を批判し、早期国会開設とそれに伴う憲法制定を政府に要求、五日市憲法草案(自由民権運動家・千葉卓三郎によって起草された私擬憲法)など、自分達で憲法草案を起草する者も出てきました。
憲法制定を急ぐ急進派を前に、伊藤は困惑します。

「憲法は時間をかけなくてはいいものは出来ない」

選挙による議会開設は時期尚早・・・ましてやそれに伴う憲法制定については時間をかけるべきだと考えていました。

しかし、自由民権運動は、農民層にまで広がりを見せ、過激さを増していきます。
これに対して明治政府が動きます。
次々と条例を出すなどの徹底的な言論弾圧を行っていきます。
憲法改正、議会開設を急ぐ動きは、一時収束・・・
伊藤はようやく腰を落ち着けて憲法を制定していくことができる・・・
そう思っていたのです。

1873年、伊藤博文が32歳で明治政府の住職である参議・工部卿に就任。
しかし、その4年後・・・1877年、後ろ盾だった木戸孝允病死・・・
翌年には、大久保利通が暗殺されます。
伊藤は、木戸と大久保から託された憲法制定への想いを強くします。
2人の遺志を受け継ぎ、自ら政府をを先導していくと決意を新たにするのです。
ところが・・・

憲法制定の壁②大隈重信の裏切り
1881年3月、憲法制定に関する一通の意見書が、明治天皇に近い有栖川宮熾仁親王に秘密裏に提出されます。
意見書を出したのは、伊藤と同じ参議の大隈重信です。
そこにはこうありました。

「議会で多数派となった政党が、行政の重責を担うイギリス型の議院内閣制度を採用すべし
 できるだけ早急に憲法を発布し、二年後の明治十六年初めには議会を開くこと」

大隈は、時間をかけて憲法を制定するという政府の方針に真っ向から反対する意見書を出したのです。
それは、政府がいち早く憲法を制定することで、根強い自由民権派の政府批判を打ち消そうと考えてのことでした。
しかし、伊藤にとっては寝耳に水の話・・・
盟友・大隈の裏切りとも取れる行動に、腹を立てた伊藤は、政府の重鎮だった岩倉具視に宛ててこんな手紙を書きます。

「大隈さんの意見書を読んだところ、実に意外な急進論であり到底従うことはできません
 このような方針が取られるのであれば、自分は辞職させていただきたい」

その怒りの裏には、大隈の意見書が具体的な内容だったことへの恐れもありました。

”このままでは大隈重信に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

先を越された焦り・・・大隈という新たな壁を前に、伊藤はただ悶々としていました。
すると、ある事件が起こります。
北海道の開発を担う開拓使の廃止に伴い、鉱山や工場などの官有物を旧薩摩藩関係の民間企業などに格安で払い下げることが検討されていたのですが・・・
その払い下げ計画が、新聞にすっぱ抜かれ、政府と薩摩閥の癒着だと叩かれたのです。
さらに、新聞社に情報をもらした人物が、払い下げに反対していた大隈では??と疑われたため、大騒動に・・・!!

世に言う”開拓使官有物払い下げ事件”です。

明治政府は、騒動の責任を取らせ大隈を政府から追放。
これにより、伊藤が懸念していた大隈による早急な憲法制定と、議会開設は阻止されたのです。
ただし、一件落着とはいきませんでした。
こうした問題が起きるのは、薩摩・長州藩出身の政治家たちがいまだ権力を握っているからだと、自由民権派が「藩閥政治」を批判。
選挙で選ばれた人たちで健全な政治が行えるよう議会の早急な開設を求める声が、再び起こったのです。
政府は止む無く”国会開設の勅諭”を出し、9年後の1890年に国会開設をすることを表明。
これに先立つ憲法制定も急ぐこととなってしまったのです。

1881年10月12日、勅諭が下されたことで、9年後の国会開設が約束されました。
そして、これに伴い急ぐこととなった憲法の起草作業・・・
40歳になっていた伊藤博文は、その中心で奔走していました。
ところが、またもその立場を脅かす人物が現れます。
岩倉具視のブレーン・・・井上毅です。
伊藤は一体、井上の何を恐れたのでしょうか?
司法省の官僚として海外視察を経験していた井上毅は、西洋諸国の法律に精通した政府随一の法制度の専門家でした。
岩倉のために、すでに憲法意見書を作成していました。

・天皇が制定する憲法であること
・急激ではなく段階的に行うこと

「ヨーロッパの憲法を参考にする際は、君主の権限が強いドイツの憲法が適している」by井上毅

当時ドイツでは、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が強い権限を持つ憲法が用いられていました。
かねてから井上は、議会を重んじるイギリス型の議院内閣制度では安定した政府運営ができないと反対していました。
ドイツ型の憲法こそ、天皇を尊ぶ日本の国情に合う憲法だと考えていたのです。
井上の意見書を目にした伊藤は、自分には明確な憲法のビジョンがなかったことに気付き、大きな危機感を覚えます。

”井上毅に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

法制度に精通する井上毅に憲法制定の主導権を奪われることを恐れたのです。
木戸や大久保から託されたという伊藤のプライドが、傷つけられたのでした。

伊藤の親友で外務卿だった井上馨は、この頃の伊藤についてこう語っています。

「近頃、伊藤も大いに心痛の極みにて、神経症が起こり毎夜眠れず
 酒一升を飲んで ようやく寝ることができるという状態である」

完全に自信を喪失し、苦悩する伊藤・・・すると政府内から声が・・・

「よかったら、静養もかねて欧州へ憲法調査に行かれたら如何でしょうか」

渡りに船とばかりに、伊藤はこの提案を受け入れ、1882年3月、伊藤博文ヨーロッパへ旅立ちます。
その伊藤に、井上毅はこんな手紙を送りました。

「立憲作業はもう最終段階、海の向こうで静養でもしながら私が研究した成果を参考にして、草案を仕上げてきてください」

それは、伊藤は無用、立憲作業のお飾りに過ぎないとでもいわんばかりの屈辱的な内容でした。
しかし、伊藤はこれを、巻き返すチャンスだと信じて疑いませんでした。

1882年5月、ドイツ・ベルリンに到着。
議会開設まであと8年・・・ドイツのような立憲君主国の憲法とは??
議会と内閣の関係とは?選挙は・・・??
具体的な仕組みの調査を目的としていた伊藤・・・
しかし、かの地で漢方調査は思うようにうまくいきませんでした。

ドイツに到着した伊藤がまず頼ったのが、ベルリン大学の憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストでした。
ところが、こう言われてしまいます。

「遠方からドイツを目標においで下さったのは感謝の至りだが、憲法は法文でない
 精神である
 日本の事情に無知な自分がお役に立てるかは自信がない」

グナイストは、憲法や法律は国家が勝手に決めるものではなくて、その国の歴史に根ざして作られて行く物という考え方を持っていました。
=「日本の歴史を知らないから助言する立場にない」となるのです。
伊藤の憲法調査は、頓挫してしまいました。
さらに、議会の開設についても、謁見したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から日本では到底無理だろうといわれてしまうのです。

行き詰まり、苦悶する伊藤でしたが、救いの手を差し伸べる人物が現れます。
オーストリア・ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインです。
以前から日本に関心を持っていたシュタインは、懇切丁寧に国家の全体像についての講義をしてくれました。

国家というものは、独立したひとつの人格に例えられる
そして、それぞれ自立した3つの要素を備えている
国家の自己意識を具現化する機関としての君主
国家の意思を形成する議会(立法)
国家の好意を司る内閣(行政)
そして、最も重要なのは、憲法そのものではなく、それを支える制度や組織です

伊藤は、国家の全体像について理解するようになっていきます。
そのことが、自分こそが憲法を作るのだという自信を回復することに繋がっていきます。
そして、「立憲カリスマ」として日本に帰ってくることになるのです。

伊藤は、岩倉に宛てた手紙にこう書いています。

「私はドイツにて国家組織の大体を理解した」

およそ1年半に及ぶヨーロッパでの憲法調査で、自身を回復した伊藤は、立憲政治において誰からも一目置かれるカリスマへと生まれ変わったのです。
そして、1883年8月・・・井上毅と対等に議論できる知識を得、帰国した伊藤は、憲法制定へのリーダーシップをとっていきます。
まず着手したのが憲法を制定し、議会を開くための受け皿となる国家組織の改革です。
自立した行政を行うため、近代的な内閣制度を作りました。
そして、44歳になった伊藤は・・・1885年12月、初代内閣総理大臣に就任。

1887年、伊藤博文は、横浜・東屋旅館で参事院議官の井上毅、伊藤の秘書官の伊藤巳代治、同じく秘書官の金子堅太郎と共に、憲法の起草作業を始めました。
順調に事は運んでいました。
ところが・・・東屋旅館に宿泊していた伊藤巳代治と金子堅太郎が、ことのほか起草作業が進んでいることに木を良くし、ある晩宴会を開き、酔いつぶれてしまいました。
すると運悪くそこに怪しい侵入者が・・・目覚めた二人は青ざめます。
憲法草案の入った大事なカバンを盗まれてしまいました。
もしかして、妨害しようとした自由民権派の仕業では・・・??
しかし、幸いカバンは近所の畑に捨てられていて、草案は無事でした。
金品目当ての泥棒だったのです。

草案は無事だったものの、慎重を期し、伊藤は横須賀・夏島にあった自身の別荘に作業場を移します。
そして、密かに作業を続ける中で、三人に言いました。

「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及してくれ
 君らの言うことが分からなければ、私も君らを徹底的に攻撃する互いに攻撃し、議論するのは憲法を完全なものにするためである
 長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論議論を極めて、完全なる憲法を作ろうではないか」

こうして、数か月にわたる激しい議論を交わしながら作り上げていったのが、大日本帝国憲法の原案となる”夏島草案”です。

第一条には・・・
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
この天皇の権限こそ、草案作成の中で最も論争となった点でした。
伊藤たちは、天皇は国を一つにまとめる重要な存在と認めながらも、独裁になってはならないと考えます。
そこで盛り込んだのが

第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

実際には、天皇の主権は憲法の規定に従って行うということも明記されています。
完全な意味での独裁ではなく、君主(天皇)の権限は制限されていました。
草案はその後も検討され、徐々に完成へと近づいていきました。
そんな中、最後の壁となったのが明治天皇でした。

憲法制定の壁③明治天皇の反発
明治天皇は、政治的実権はすべて自分にあると考えていました。
そのため、伊藤は憲法で主権を制限されることに天皇が難色を示すのではないかと危惧したのです。

「何としても陛下を説得しなければ・・・!!」

伊藤はいかにして明治天皇を説得したのでしょうか??

陛下には、シュタイン博士の憲法の根幹を学んでいただき、君主の役割を理解していただく必要がある・・・
伊藤は、まずは天皇が厚い信頼を寄せる人物に憲法を学ばせ、その人物に天皇に講義をしてもらおうと考えます。
伊藤がその大役に選んだのが、侍従の藤波言忠です。
藤波は、シュタインの教えを学ぶため、ウィーンへと旅立ちます。
そして、シュタインから憲法だけでなく、教育、宗教、産業など立憲国家の君主が心得るべきことの全てを学びます。

こうして1887年11月・・・
帰国した藤波は、明治天皇に講義を行いました。
その時間は、合計33時間に及んだといいます。
これにより、新しい憲法における自らの立場を理解した天皇は、その制定を見守ることに・・・
天皇が全幅の信頼を寄せる侍従に、憲法を学ばせて、天皇に講義を行うことで説得しました。

そして、その翌年の4月・・・46歳の伊藤は、天皇に意見を求める機関として新設された枢密院の議長に就任。
そこで、天皇列席のもと、2か月に及ぶ憲法の審議を行うのです。
これを受けて伊藤たちは、さらに議論を重ね、およそ半年後、全ての条文を作り上げるのです。
言論の自由、臣民の権利が、法律の範囲で保証されることが約束され、帝国議会については貴族院は皇族・華族からなり、衆議院は当選された議員から定められることとなりました。

1889年2月11日、ついに伊藤にとって念願の日を向かえます。
憲法発布の日です。
式典が、この年新しくなった皇居・明治宮殿で行われました。
伊藤が起草を手掛けた大日本帝国憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡しする形で、無事に発布されました。
これにより、日本は東アジアで初めて近代憲法を持つ立憲君主国となったのです。
各地でちょうちん行列が催され、民衆は憲法発布に沸き立ち、万歳三唱を繰り返しました。
その様子を、当時お雇い外国人として日本に来ていた医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、こう記しています。

「東京全市は十一日の憲法発布に対し 言語に絶した騒ぎを演じている
 だが滑稽なことに だれも憲法の内容をご存知ないのだ」

ベルツが言うように、民衆の殆どが大日本帝国憲法の中身を知りませんでした。
憲法発布によって、日本が文明国の仲間入りをしたことにただただ喜んだのです。
そんな状況もあってか、憲法発布後、伊藤は各地で公演を行い、憲法の理解を求めて生きました。

この後、三度にわたり内閣総理大臣を務める伊藤は、大日本帝国憲法の精神と立憲政治の定着に邁進・・・
それこそが、自らの使命と信じて。。。

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川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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明治天皇は在位中、北は北海道から南は鹿児島まで全国巡幸を繰り返しました。
学校や工場など訪れたところで多くの人々と接した天皇・・・そのわけは、新政府を率いた大久保利通たちの戦略でした。
幕末動乱のさ中、14歳で即位となった明治天皇・・・その存在は、まだ全国に知られていませんでした。
無名の青年君主を、新しい日本を導く天皇としてあまねく知らしめる・・・
巡幸は、人々の心にどのように印象付けたのでしょうか?
そしてどのように受け入れられていったのでしょうか?

幕末の動乱・・・明治維新・・・天皇は大きな時代の流れに飲み込まれていきます。
1868年鳥羽伏見の戦いで旧幕府勢力に勝利した新政府は、新しい国づくりに着手します。
この時、大久保、西郷、木戸らが構想したのは、天皇を中心とした国家でした。
しかし、そこには乗り越えなければならない壁がありました。
当時、多くの国民にとって、天皇は遠い存在だったからです。

京都では、行事もあり、御所もあるので天皇の存在は当然でしたが・・・
普通の人々に天皇の存在は知られていません。
かなり茫漠としたもの・・・江戸では天皇は神様のような存在だったのです。

江戸時代、天皇は御所の外にはほとんど出ませんでした。
民衆の抱く天皇には、多くのばらつきがありました。
そこで、天皇の存在を知ってもらう必要がると感じた大久保は・・・

”天皇が玉廉の中にいて、公卿にしか会えないのでは、民の父母であるという天から授かった職掌を達成できない
 外国においても、帝王は国中を歩き、万民を慈しむものである”

新しい時代の天皇は、人々に姿を見せる西洋の君主になるようにと、大久保は考えました。
1868年、大久保たちは、天皇を御所の外に出すことから始めました。
3月大坂行幸、7月東京行幸を計画します。
天皇はその求めに応じ、9月20日、京都から東京へ出発。
道中、民衆とのふれあいを楽しみます。
そして20日後の10月13日、江戸城へ到着。
東京では大勢の人々が天皇を祝福。山車が繰り出され、2日間にわたるお祭り騒ぎ・・・
ひとまず新政府は、京都以外の人々に天皇をアピールすることに成功しました。
そして、東京は西洋諸国に倣って文明開化!!
そして、天皇自身が新時代にふさわしい天皇になることを求め始めます。

天皇のイメージチェンジ・・・
明治神宮には、明治天皇が明治5年に着用した燕尾服と帽子がが残されています。
帽子には鳳凰の刺繍、ボタン掛けの上着は、菊唐草紋の刺繍で覆いつくされています。
金の糸をふんだんに使った豪勢な作り・・・

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天皇の軍服は、主に儀式などで使われたと思われます。
黒羅紗の地に金モール・・・天皇は20歳の時、この軍服を身にまとい、カメラの前に・・・

明治天皇の代表的な肖像写真です。

白粉やお歯黒を落とし、ひげを蓄え、威風動堂な姿・・・
江戸時代の天皇とは全く違う天皇が誕生したのでした。



明治天皇は、全国巡幸で訪れた先々で、花瓶や茶碗などを下賜しました。
それらは、大切に保管され、人々は後々まで天皇のことを語り継いでいきます。

権威や徳の大きさを印象付けるだけが巡幸の目的ではありませんでした。
群馬県では新町の中心にあった工場を視察しています。
巡幸の前年に作られた工場に、明治天皇は1時間滞在しています。
この工場、明治10年にできたときは屑糸紡績所でした。
この紡績所で屑糸をリサイクルし、生糸を作っていたのです。
ここは、大久保や岩倉らが新たな外貨獲得を目的として建設した政府肝いりの工場でした。
もともと群馬には、フランスの技術を導入し、輸出用の生糸を生産していた富岡製紙工場がありました。
この製糸場に近く、屑糸が手に入りやすいため、屑糸紡績所を作ったのです。

明治天皇は全国巡幸で、工場をはじめ近代化の象徴とされる施設を多数訪問しました。
学校、地方行政を担う庁舎、天皇ができたばかりの施設を視察することで、文明開化や殖産興業を図ったのです。



巡幸は、人々が明治天皇を広く知ることだけではなく、天皇自身が為政者としての自覚を促すきっかけになったといいます。
天皇に日本の隅々までご覧いただきたい・・・日本はこれだけ広くて、これだけいろんな地方がある・・・
豊かなところもあれば、そうでないところもある・・・それも含めて日本だ・・・ということを、新しい時代の天皇として知っていただきたい・・・。
巡幸を通じて、君主としての自覚が生れてきたのです。
巡幸なくして、意識の変革はなかったのです。

1878年・・・明治11年5月、事件が発生!!
大久保利通暗殺!!
赤坂上御所に向かう途中、紀尾井坂でのことでした。
実行犯たちは斬奸状を起草して、明治政府を糾弾!!

現在の法律は天皇の御威光でもなく、人民の意見を取り入れて作られたものでもない。
要職にいる一部の官吏の独断によるものである。

この事件を契機に、宮中で天皇の在り方を変えようとしていた勢力が動き出しました。
中心となったのが、熊本藩出身の儒学者・元田永孚や土佐藩出身で新政府の参議も務めた佐佐木高行・・・侍補と呼ばれる側近たちでした。
侍補は明治10年に天皇の補佐・指導を目的として宮内省に置かれた役職で、天皇の傍に仕えながら、政治や道徳を教え、相談を受ける役割を担っていました。
天皇が主に学んだのは、元田の意向を反映した書経や詩経・・・儒学の古典でした。
侍補たちは、天皇を「徳」を備えた聖人君子にしようとしたのです。
大久保が暗殺された直後、侍補たちは、かねてからの構想を実行に移しました。
大臣・参議による専制を批判し、天皇が政治の実権を握る天皇親政を進めるべきだと言ったのです。

薩摩・長州の一部の人間が牛耳り、陛下の意向を無視して進められている・・・
このままだと天下の人心に不平が起こり、政府要人を狙った暗殺事件が再び起きるかもしれない・・・
今こそ、古代中国の聖人君子のように徳を備えた聖人君子となり、天皇親政を実現しなければっ!!

明治天皇は涙を浮かべて奏上を聞き、侍補たちに同調しました。
自ら政治に介入する動きに出ます。
当時空席となっていた工部卿に佐佐木高行を推薦。
しかし、それは天皇親政を恐れた太政大臣・三条実美らに認められず、実現できませんでした。
天皇親政運動の結果としては「天皇の政治的意思は内閣が担う。もう侍補は要らない」となったのです。

政府の外でも動きが・・・地方の士族や豪農を中心とする自由民権運動です。
国民の自由や権利の拡大を目指した政治運動で、国会開設と憲法制定を要求しました。
国民主体の政治を目指しました。
運動の過激化を防ごうとした政府は、明治14年、9年後の国会開設と憲法制定を表明します。
憲法の制定作業に本格的に取り組むことなります。
この動きの中心となったのが、大久保亡き後政権の中枢にいた伊藤博文でした。
当時、政府よりも早く民間では様々な憲法案が発表されていました。
議会優越、天皇大権・・・天皇の廃位を求めるモノまで・・・天皇を憲法の中でどこに位置付けるのか??
憲法制定の中核を担った伊藤は頭を悩ませていました。

そんな中、明治15年3月、伊藤は憲法調査のためにヨーロッパへ。
そしてウィーンで重要な人物と出会います。
ウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタイン教授です。
伊藤はこの講義を受け、感銘を受けます。
シュタインの教えは、君主に一定の統治権を認めつつ、行政を中心に据えることで君主や議会の横暴を止めるというもの。
当時ヨーロッパの新興国だったドイツ・プロイセンの考え方・・・立憲君主制でした。

明治16年8月、構想を固めて伊藤博文帰国。
政治に復帰した伊藤は宮中改革を進めますが・・・
そこに直面したのは、自らの意思を反映できずに政治への意欲を失った天皇の姿でした。
たまりかねた伊藤は、明治18年8月、三条実美に書簡を認めます。
政務に熱心でない明治天皇への嘆きが率直に書かれています。

天皇の知らないところで、大臣たちが全てを決めているという現状・・・。
明治天皇に立憲君主としての在り方をどう理解してもらうのか??
伊藤の苦悩は深かったのです。

明治天皇にどのようにして憲法を学んでもらうか・・・伊藤には秘策がありました。
「澳国スタイン博士講和録」・・・伊藤と同じくシュタイン博士の講義を受けた人の記録です。
侍従の藤波言忠は幼いころから宮中に出入りし、天皇の信頼も厚い学友でした。
伊藤は当時ヨーロッパで滞在していた藤波に目をつけ、ヨーロッパでシュタインのもとで憲法を学び、帰国後明治天皇に進講することを要請します。
藤波はおよそ1年にわたりシュタインの憲法を徹底的にたたき込まれ、天皇の立憲君主としての心構えまで学んで帰国しました。
明治20年に始まった進講は30回以上、4か月に及んだといいます。
憲法を熱心に学ぶ明治天皇・・・。

藤波は、立憲君主の仕組みを工夫を凝らして説明し、天皇を助けます。
何から何まで自分が統治するのではない・・・法律の中にあるのが天皇である!!
明治21年春まで続いた進講によって、明治天皇は憲法の中に規定されている自らの役割を理解し、理解を深めていきました。
伊藤の目論見通り、天皇は新しい立件国家に相応しい君主へと成長したのです。

明治21年6月、憲法草案について最後の審議が行われました。
天皇の諮問機関として設けられた枢密院・・・1か月にわたり伊藤を議長とし、皇族や大臣が参列する中、激しい議論が行われます。
憲法の制定に深い関心を示す天皇の姿・・・明治天皇は一度も欠かすことなくご臨席されます。
夏の暑い時に、長時間の難しい議論もじっと聞いていられる・・・根気のいることでした。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。
新築された宮殿で、天皇御隣席のもと、盛大な式典が催されました。
憲法で天皇はどう位置付けられたのか??
第1条・・・萬世一系の天皇これを統治す・・・天皇家が日本の統治権を担うことを宣言。
その一方、第4条で天皇の統治権は憲法の条規により・・・憲法の従うことが明記されました。
立憲君主として憲法の制約を受ける天皇の役割を明確に規定した憲法となりました。

皇居前広場・・・憲法発布の前に式典公開のために整地された敷地です。
宮殿での発布式を終えた明治天皇と皇后は、馬車に乗ってパレードを行いました。
皇居前広場は、多くの民衆で溢れ、憲法発布を祝いました。
喜びの声は、東京から各地へと広がります。
幕末維新の動乱のさ中に即位した明治天皇・・・
それから22年・・・近代日本の立憲君主として国民の前にその姿をようやく定着したのでした。


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