世界でも有数の大都市東京・・・この都市の礎を築いたのが江戸幕府初代将軍・徳川家康です。
今から400年ほど前、葦が生い茂る寒村を大都市へと変貌させたのが家康です。
1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、2万もの大軍勢を率いて北条氏を攻めるべく小田原城を包囲します。いわゆる小田原攻めです。
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を攻め滅ぼします。
この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利した徳川家康は恩賞を期待していました。
が・・・「徳川殿には、北条の領地であった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江から関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。
秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しいところに行くということは、政治的力を弱めるため・・・
秀吉は東北も完全に手に入れようとも考えていて、その場合に前線基地に家康を配置して働いてもらおうとも考えていました。
家康にとっては面白くない国替えだったのです。
関東を治めることを承諾した家康・・・本拠をどこに置くのか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。
小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・鎌倉は武士の都に相応しい・・・江戸は・・・辺鄙な田舎・・・!!
思案する家康に秀吉は・・・
「城は江戸に置いたらどうじゃ?」
家康は意外にもその提案を受け入れます。
もちろんそこには勝算がありました。
人間関係をリセットできる!!
家康が主導権を握れるということです。
1590年7月、49歳の家康は8000の家臣で江戸に向かいます。
余りの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、遂に江戸に到着!!
当時の江戸について「岩淵夜話別集」には・・・
”いかにも粗相で 茅葺の家 百ばかり
ここもかしこも 海に浸かった葦の茂る野原“と書かれています。
いくつもの川が流れる湿地帯で、平地が少なく、今の大手町辺りまで海でした。
そんなところで、町をつくるためにしなければならないことがたくさんありました。
江戸城修築・飲み水確保・土地拡張・運河開削・住民誘致・治水工事・・・
家康と共に江戸にやってきた家臣たちは口々に言います。
「殿・・・何よりもまずあの朽ち果てた江戸城を修復しましょう」と。
しかし家康は、「城など後でよい。まずは町じゃ!!」
と、町を作るにあたっての大量の物資を船で運び入れることになりましたが・・・日比谷入江は浅すぎて大きな船が入れません。
そこで、家康は運河を作ることに・・・!!
①運河開削
目をつけたのは、江戸湊に半島状に突き出した江戸前島です。
その根元に運河を開削しようと考えました。
名付けて道三堀です。
船がここを通れるようになれば、江戸湊との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、秀吉の命に背く行為でした。
江戸入府に当たって家康は秀吉から言われていました。
「鎌倉の円覚寺の領地である江戸前島には、手を付けなてはならぬ!!」と。
江戸前島は、鎌倉時代から円覚寺の物で、家康の領地には含まれていませんでした。
しかし、家康は秀吉の命令を無視して道三堀を開削します。
道三堀を作り小名木川と新川を繋げば江戸と行徳を結ぶことができる!!
行徳は塩の産地でした。
戦国時代には塩の調達が一国の政策を左右したほど・・・家康も塩は軍用第一の品、領内いちばんの宝と考えていました。
つまり、行徳の塩を確保するためのルートだったのです。
道三堀の開拓作業は、少数の家臣たちで行いました。
同じ時期、秀吉が行っていた上方での普請に、多くのものを割いていたからです。
家康の知恵袋で工事の責任者だった本多正信は、指揮を上げるために毎朝4時に視察に来ました。
そのため、家臣たちは雨や雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていったのです。
家康が描く江戸の大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みませんでした。
当時関東平野では、利根川をはじめとする関東平野の川が度々氾濫!!
これが計画の妨げとなっていました。
江戸の町づくりには、関東平野の治水工事も必須でした。
②治水工事
関東平野の治水という大事業を任されたのは、家臣の中でも位の低い伊奈忠次でした。
もともと家康の家臣ではなく、はるか昔に徳川家に楯突いたことがあって諸国を放浪していました。
伊奈忠次は甲斐の国にいたことがあり・・・ここは当時の治水先進国でした。
ここでつぶさに見ていた伊奈・・・豊富な知識に抜擢する家康でした。
伊奈は関東八州の地方行政を統括する代官頭に任命されると、さっそく工事に取り掛かります。
最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!
採用したのが中条堤と控堤と呼ばれる堤防でした。
現在の埼玉県熊谷市付近に作った中条堤で利根川の氾濫をせき止めます。
万が一水があふれだした場合にも、下流にいくつも作った控堤で勢いをおとし、江戸に流れ込まないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の住人を使いました。
控堤の中に領という区割りを作って彼らを住まわせます。
土地のことをよく知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・工事はスムーズに進み、江戸の町づくりは本格化していきます。
1603年、家康は江戸幕府初代将軍に就任します。
江戸に幕府が開かれると、工事はより大規模なもの・・・天下普請となっていきます。
国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・
家康が大名たちに普請を命じると、3万~4万の人が集まります。
様々な事業をスタートさせます。
③土地拡張
天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に集め、監視下に置こうとします。
そのためには大名屋敷を作らなければ・・・!!
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江で城下に屋敷を作る場所はありませんでした。
そこで、家康は入り江の埋め立てという前代未聞の大工事を行うことに・・・!!
埋め立てには神田山を切り崩した土が使われたと言われています。
神田山は千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、その痕跡はほとんど残っていません。
が、地形図を見ると切り崩した後が残っています。
「慶長見聞集」によれば、この時埋められたのは三十余町・・・
北は大手町、南は新橋あたりまででした。
それほど大きな埋め立てをどのようにして行ったのでしょうか?
発掘調査によると・・・
地層は五層・・・何度も埋め立てられてきたことがわかります。
入江の底には溝があり・・・埋め立ての際に重要な役割を担っていました。
入江は干潮で潮が引いたとしてもところどころに水たまりができます。
溝はこの水を残らず出してしまうものでした。
潮が引くとき溝に海水を集めることで完全に排水・・・土を入れて埋め立てて行ったと思われます。
そこには予定通りに大名屋敷が建てられます。
後に大名小路と呼ばれ名所となります。
そんな架設された最初の橋は日本橋です。
町人地にすべく開拓を始めます。
町割りは京都に倣い碁盤目状・・・1町60間とし、中心には空地を設け共有スペースとしました。
通り沿いに建てられたのは町屋敷・・・主に店舗として利用されました。
そして奥には職人などが暮らす長屋が・・・しかし、困ったことに肝心な入居者がやってきません。
④住民誘致
当時の商業の中心は大坂でした。
西国で生まれ育った人々は、江戸は東の彼方の田舎町・・・移住したがりませんでした。
そこで家康は、まず三河や駿河など、身近な人々を江戸に移住させます。
そして、代償や特権を付与します。
家康恩顧の商人たちは、草創名主と呼ばれ名字帯刀を認められます。
年賀の大礼には登城し、将軍に拝謁されることも許されました。
地代や労役の免除も与えられ・・・この施策によって徐々に人が集まり始めます。
江戸は新たなビジネスチャンスの町だと魅力的にアピールすることができました。
家康が招いたのは商人たちだけではありません。
隅田川の河口に位置する佃島・・・その昔、砂が堆積してできた砂洲でした。
佃という地名は、家康が招いた上方佃島の漁師に基づきます。
以前家康が摂津・佃村の神社に参詣した際に、漁師たちが手厚くもてなしてくれました。
その礼にと褒美を与えると、漁師たちはお返しに白魚を献上。
家康はその美味しさが忘れられず、家康は漁師たちを佃島に住まわせたといいます。
江戸前海での漁業権を与え、漁民たちも御恩としてとった魚を献上する・・・残った魚は自由に販売することができました。
漁師たちの漁をしている姿を実際に見るという”将軍上覧”も行われました。
その背景には、従来の北条氏側の漁師たちを排除しよう・・・という狙いもありました。
江戸の町に人びとが集まるようになると、深刻な問題が・・・飲み水です。
入江を埋め立ててできた江戸の町では、井戸を掘っても海水の混ざった水しか出てこず、飲み水の確保が難しかったのです。
⑤飲み水確保
家康は家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保のために水源の探索を命じます。
大久保は自ら作った菓子を献上して家康をうならせていました。
菓子作りにはうまい水が必要・・・と考えた家康は菓子作りに長けた大久保なら水源の確保ができるに違いないとしたのです。
水源探しをし始めた大久保・・・
方々で味見をした結果、ついに満足する味を見つけます。
それが赤坂のため池と、神田明神山岸の小川でした。
大久保は家康に報告すると、すぐさま工事に取り掛かります。
そして、わずか3か月で水路を完成させます。
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々の喉を潤しました。
喜んだ家康は、大久保に主水という名を授与。
古代のみ水を管理していた役所のことです。
この時、水が濁ってはいけないと”もんど”を”もんと”と読むようにと言ったといいます。
しかし、江戸の開発が進むと人口が増加、再び水不足に・・・。
そこで新しく探したのが井の頭池・・・ここには清水が滾々とわいていました。
江戸にひく工事は寛永に完成・・・神田上水です。
発掘調査によると、上水の仕組みは、地中の石樋や木樋を通り、井戸の下まで流れるようになっていました。
人びとはその水をくみ上げて生活用水に利用していました。
上水の管理費は利用者もちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを基準にされました。
家康が入府したころの江戸城は、粗末な建物でした。
しかも、十数年間大きな修復工事は行われませんでした。
1604年将軍に就任してから1年4か月後、家康は諸大名に江戸城修築の計画を発表します。
⑥江戸城修築
修築に際して最も重要視されたのは、石垣や堀に使う石材です。
しかし、江戸周辺にはいい石の産地がありませんでした。
家康は、30ほどの西国の大名たちに石を運ぶ船を造るように命じます。
その数3000艘・・・船が全て出来上がったのは2年8か月後のことでした。
家康の最後の大プロジェクトです!!
所領10万石につき百人持之石(約4トン)を1120個を差し出すように大名に命じます。
つまり、10万石の大名は、およそ4500トンを江戸に運ぶこととなります。
しかし、それだけ大量の石をどのようにして切り出したのでしょうか?
石の調達を命じられた大名たちは、出来るだけ海岸近くに石を切り出すための石丁場を作ります。
その数およそ130カ所・・・。
切り出された石は、大名たちの作った船で江戸に運ばれます。
しかし、1艘に乗る石は4トンが2つが限界でした。
100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかったのです。
輸送中には多くの命が失われました。
1606年5月、大風のために200余りの船が沈没・・・
たくさんの人々が命がけで運んだ石で、江戸城の修築は行われたのです。
設計に当たったのは、宇和島城や今治城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎です。
家康は高虎の設計に細かく意見し、修正を加えていきました。
しかし、残っている資料が少なく、謎のままでした。
ところが、2017年2月、初期の江戸城を描いた絵図が見つかったのです。
江戸城を描いた最も古い絵図のひとつ・・・「江戸始図」です。
1607年頃のものとされます。
家康の築いた江戸城は、当時としては最大で、最強の実践的な城であったことがわかりました。
最も注目すべき点は、戦の際、最後の砦となる天守の構造です。
大天守ひとつではなく・・・大天守、小天守×2が連立し、もっとも発達した天守でした。
これを連立式天守と呼びます。
家康の江戸城は、軍事的要素の強い城であったことがわかります。
同じく連立式で有名なのが姫路城ですが、比較にならないほどでした。
あの立派な姫路城の大天守が、江戸城の小天守ぐらいだったのです。
圧倒的な江戸城でした。
さらに・・・本丸の南側に外枡形が5つも連続して設けられていました。
外枡形とは、門の外を塀などで囲んだもので、門を突破した敵をここで攻撃します。
こうした外枡形が5つも存在し、鉄壁を誇っていました。
安土城、大坂城にもあり、西日本のお城の作り方でした。
天守の北側に3連続の馬出があり、この馬出は甲斐の武田、関東の北条の東日本で発達したものです。
西と東の融合が、家康の江戸城だったのです。
まさに戦国以来の城づくりの集大成でした。
家康がここまで実践的な城にこだわったのが、豊臣方が大坂で依然として強大な力を持っていたからです。
家康としては、豊臣の最後の戦いで江戸城が攻められるのではないか?と、万が一のことを考えていたのです。
鉄壁の城・・・江戸城!!
最強の城塞だっただけでなく、5層6階で高さは大坂城(36m)を凌ぐ55mでした。
しかも、漆喰が塗られ純白でした。
白亜の大天守は、徳川の時代を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を作った家康には類まれな先見の名と知恵がありました。
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今から400年ほど前、葦が生い茂る寒村を大都市へと変貌させたのが家康です。
1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、2万もの大軍勢を率いて北条氏を攻めるべく小田原城を包囲します。いわゆる小田原攻めです。
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を攻め滅ぼします。
この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利した徳川家康は恩賞を期待していました。
が・・・「徳川殿には、北条の領地であった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江から関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。
秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しいところに行くということは、政治的力を弱めるため・・・
秀吉は東北も完全に手に入れようとも考えていて、その場合に前線基地に家康を配置して働いてもらおうとも考えていました。
家康にとっては面白くない国替えだったのです。
関東を治めることを承諾した家康・・・本拠をどこに置くのか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。
小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・鎌倉は武士の都に相応しい・・・江戸は・・・辺鄙な田舎・・・!!
思案する家康に秀吉は・・・
「城は江戸に置いたらどうじゃ?」
家康は意外にもその提案を受け入れます。
もちろんそこには勝算がありました。
人間関係をリセットできる!!
家康が主導権を握れるということです。
1590年7月、49歳の家康は8000の家臣で江戸に向かいます。
余りの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、遂に江戸に到着!!
当時の江戸について「岩淵夜話別集」には・・・
”いかにも粗相で 茅葺の家 百ばかり
ここもかしこも 海に浸かった葦の茂る野原“と書かれています。
いくつもの川が流れる湿地帯で、平地が少なく、今の大手町辺りまで海でした。
そんなところで、町をつくるためにしなければならないことがたくさんありました。
江戸城修築・飲み水確保・土地拡張・運河開削・住民誘致・治水工事・・・
家康と共に江戸にやってきた家臣たちは口々に言います。
「殿・・・何よりもまずあの朽ち果てた江戸城を修復しましょう」と。
しかし家康は、「城など後でよい。まずは町じゃ!!」
と、町を作るにあたっての大量の物資を船で運び入れることになりましたが・・・日比谷入江は浅すぎて大きな船が入れません。
そこで、家康は運河を作ることに・・・!!
①運河開削
目をつけたのは、江戸湊に半島状に突き出した江戸前島です。
その根元に運河を開削しようと考えました。
名付けて道三堀です。
船がここを通れるようになれば、江戸湊との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、秀吉の命に背く行為でした。
江戸入府に当たって家康は秀吉から言われていました。
「鎌倉の円覚寺の領地である江戸前島には、手を付けなてはならぬ!!」と。
江戸前島は、鎌倉時代から円覚寺の物で、家康の領地には含まれていませんでした。
しかし、家康は秀吉の命令を無視して道三堀を開削します。
道三堀を作り小名木川と新川を繋げば江戸と行徳を結ぶことができる!!
行徳は塩の産地でした。
戦国時代には塩の調達が一国の政策を左右したほど・・・家康も塩は軍用第一の品、領内いちばんの宝と考えていました。
つまり、行徳の塩を確保するためのルートだったのです。
道三堀の開拓作業は、少数の家臣たちで行いました。
同じ時期、秀吉が行っていた上方での普請に、多くのものを割いていたからです。
家康の知恵袋で工事の責任者だった本多正信は、指揮を上げるために毎朝4時に視察に来ました。
そのため、家臣たちは雨や雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていったのです。
家康が描く江戸の大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みませんでした。
当時関東平野では、利根川をはじめとする関東平野の川が度々氾濫!!
これが計画の妨げとなっていました。
江戸の町づくりには、関東平野の治水工事も必須でした。
②治水工事
関東平野の治水という大事業を任されたのは、家臣の中でも位の低い伊奈忠次でした。
もともと家康の家臣ではなく、はるか昔に徳川家に楯突いたことがあって諸国を放浪していました。
伊奈忠次は甲斐の国にいたことがあり・・・ここは当時の治水先進国でした。
ここでつぶさに見ていた伊奈・・・豊富な知識に抜擢する家康でした。
伊奈は関東八州の地方行政を統括する代官頭に任命されると、さっそく工事に取り掛かります。
最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!
採用したのが中条堤と控堤と呼ばれる堤防でした。
現在の埼玉県熊谷市付近に作った中条堤で利根川の氾濫をせき止めます。
万が一水があふれだした場合にも、下流にいくつも作った控堤で勢いをおとし、江戸に流れ込まないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の住人を使いました。
控堤の中に領という区割りを作って彼らを住まわせます。
土地のことをよく知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・工事はスムーズに進み、江戸の町づくりは本格化していきます。
1603年、家康は江戸幕府初代将軍に就任します。
江戸に幕府が開かれると、工事はより大規模なもの・・・天下普請となっていきます。
国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・
家康が大名たちに普請を命じると、3万~4万の人が集まります。
様々な事業をスタートさせます。
③土地拡張
天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に集め、監視下に置こうとします。
そのためには大名屋敷を作らなければ・・・!!
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江で城下に屋敷を作る場所はありませんでした。
そこで、家康は入り江の埋め立てという前代未聞の大工事を行うことに・・・!!
埋め立てには神田山を切り崩した土が使われたと言われています。
神田山は千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、その痕跡はほとんど残っていません。
が、地形図を見ると切り崩した後が残っています。
「慶長見聞集」によれば、この時埋められたのは三十余町・・・
北は大手町、南は新橋あたりまででした。
それほど大きな埋め立てをどのようにして行ったのでしょうか?
発掘調査によると・・・
地層は五層・・・何度も埋め立てられてきたことがわかります。
入江の底には溝があり・・・埋め立ての際に重要な役割を担っていました。
入江は干潮で潮が引いたとしてもところどころに水たまりができます。
溝はこの水を残らず出してしまうものでした。
潮が引くとき溝に海水を集めることで完全に排水・・・土を入れて埋め立てて行ったと思われます。
そこには予定通りに大名屋敷が建てられます。
後に大名小路と呼ばれ名所となります。
そんな架設された最初の橋は日本橋です。
町人地にすべく開拓を始めます。
町割りは京都に倣い碁盤目状・・・1町60間とし、中心には空地を設け共有スペースとしました。
通り沿いに建てられたのは町屋敷・・・主に店舗として利用されました。
そして奥には職人などが暮らす長屋が・・・しかし、困ったことに肝心な入居者がやってきません。
④住民誘致
当時の商業の中心は大坂でした。
西国で生まれ育った人々は、江戸は東の彼方の田舎町・・・移住したがりませんでした。
そこで家康は、まず三河や駿河など、身近な人々を江戸に移住させます。
そして、代償や特権を付与します。
家康恩顧の商人たちは、草創名主と呼ばれ名字帯刀を認められます。
年賀の大礼には登城し、将軍に拝謁されることも許されました。
地代や労役の免除も与えられ・・・この施策によって徐々に人が集まり始めます。
江戸は新たなビジネスチャンスの町だと魅力的にアピールすることができました。
家康が招いたのは商人たちだけではありません。
隅田川の河口に位置する佃島・・・その昔、砂が堆積してできた砂洲でした。
佃という地名は、家康が招いた上方佃島の漁師に基づきます。
以前家康が摂津・佃村の神社に参詣した際に、漁師たちが手厚くもてなしてくれました。
その礼にと褒美を与えると、漁師たちはお返しに白魚を献上。
家康はその美味しさが忘れられず、家康は漁師たちを佃島に住まわせたといいます。
江戸前海での漁業権を与え、漁民たちも御恩としてとった魚を献上する・・・残った魚は自由に販売することができました。
漁師たちの漁をしている姿を実際に見るという”将軍上覧”も行われました。
その背景には、従来の北条氏側の漁師たちを排除しよう・・・という狙いもありました。
江戸の町に人びとが集まるようになると、深刻な問題が・・・飲み水です。
入江を埋め立ててできた江戸の町では、井戸を掘っても海水の混ざった水しか出てこず、飲み水の確保が難しかったのです。
⑤飲み水確保
家康は家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保のために水源の探索を命じます。
大久保は自ら作った菓子を献上して家康をうならせていました。
菓子作りにはうまい水が必要・・・と考えた家康は菓子作りに長けた大久保なら水源の確保ができるに違いないとしたのです。
水源探しをし始めた大久保・・・
方々で味見をした結果、ついに満足する味を見つけます。
それが赤坂のため池と、神田明神山岸の小川でした。
大久保は家康に報告すると、すぐさま工事に取り掛かります。
そして、わずか3か月で水路を完成させます。
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々の喉を潤しました。
喜んだ家康は、大久保に主水という名を授与。
古代のみ水を管理していた役所のことです。
この時、水が濁ってはいけないと”もんど”を”もんと”と読むようにと言ったといいます。
しかし、江戸の開発が進むと人口が増加、再び水不足に・・・。
そこで新しく探したのが井の頭池・・・ここには清水が滾々とわいていました。
江戸にひく工事は寛永に完成・・・神田上水です。
発掘調査によると、上水の仕組みは、地中の石樋や木樋を通り、井戸の下まで流れるようになっていました。
人びとはその水をくみ上げて生活用水に利用していました。
上水の管理費は利用者もちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを基準にされました。
家康が入府したころの江戸城は、粗末な建物でした。
しかも、十数年間大きな修復工事は行われませんでした。
1604年将軍に就任してから1年4か月後、家康は諸大名に江戸城修築の計画を発表します。
⑥江戸城修築
修築に際して最も重要視されたのは、石垣や堀に使う石材です。
しかし、江戸周辺にはいい石の産地がありませんでした。
家康は、30ほどの西国の大名たちに石を運ぶ船を造るように命じます。
その数3000艘・・・船が全て出来上がったのは2年8か月後のことでした。
家康の最後の大プロジェクトです!!
所領10万石につき百人持之石(約4トン)を1120個を差し出すように大名に命じます。
つまり、10万石の大名は、およそ4500トンを江戸に運ぶこととなります。
しかし、それだけ大量の石をどのようにして切り出したのでしょうか?
石の調達を命じられた大名たちは、出来るだけ海岸近くに石を切り出すための石丁場を作ります。
その数およそ130カ所・・・。
切り出された石は、大名たちの作った船で江戸に運ばれます。
しかし、1艘に乗る石は4トンが2つが限界でした。
100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかったのです。
輸送中には多くの命が失われました。
1606年5月、大風のために200余りの船が沈没・・・
たくさんの人々が命がけで運んだ石で、江戸城の修築は行われたのです。
設計に当たったのは、宇和島城や今治城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎です。
家康は高虎の設計に細かく意見し、修正を加えていきました。
しかし、残っている資料が少なく、謎のままでした。
ところが、2017年2月、初期の江戸城を描いた絵図が見つかったのです。
江戸城を描いた最も古い絵図のひとつ・・・「江戸始図」です。
1607年頃のものとされます。
家康の築いた江戸城は、当時としては最大で、最強の実践的な城であったことがわかりました。
最も注目すべき点は、戦の際、最後の砦となる天守の構造です。
大天守ひとつではなく・・・大天守、小天守×2が連立し、もっとも発達した天守でした。
これを連立式天守と呼びます。
家康の江戸城は、軍事的要素の強い城であったことがわかります。
同じく連立式で有名なのが姫路城ですが、比較にならないほどでした。
あの立派な姫路城の大天守が、江戸城の小天守ぐらいだったのです。
圧倒的な江戸城でした。
さらに・・・本丸の南側に外枡形が5つも連続して設けられていました。
外枡形とは、門の外を塀などで囲んだもので、門を突破した敵をここで攻撃します。
こうした外枡形が5つも存在し、鉄壁を誇っていました。
安土城、大坂城にもあり、西日本のお城の作り方でした。
天守の北側に3連続の馬出があり、この馬出は甲斐の武田、関東の北条の東日本で発達したものです。
西と東の融合が、家康の江戸城だったのです。
まさに戦国以来の城づくりの集大成でした。
家康がここまで実践的な城にこだわったのが、豊臣方が大坂で依然として強大な力を持っていたからです。
家康としては、豊臣の最後の戦いで江戸城が攻められるのではないか?と、万が一のことを考えていたのです。
鉄壁の城・・・江戸城!!
最強の城塞だっただけでなく、5層6階で高さは大坂城(36m)を凌ぐ55mでした。
しかも、漆喰が塗られ純白でした。
白亜の大天守は、徳川の時代を知らせるものでした。
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