【中古】 白村江の戦いと壬申の乱 唐初期の朝鮮三国と日本 /小林恵子(著者) 【中古】afb 価格:1,150円 |
古代の日本が直面した国家存亡の危機・・・それを物語る遺跡が福岡県筑紫野市(前畑遺跡)で発見されました。
丘の上に築かれた巨大な土塁・・・砂や粘土を敷き詰めて固めた版築と呼ばれる堅固なものでした。
長さは発掘されている部分で500m・・・この発見で、古代日本では作られたことがないとされてきた施設の存在が浮かび上がってきました。
羅城です。
羅城とは、外敵の侵略に備え、都市全体を取り囲んだ城壁や土塁などの防御施設のことです。
発見された土塁は、九州の大宰府を防御する為に作られていた可能性が・・・
羅城を築くきっかけを作ったのが、古代日本最大の戦争・・・白村江の戦です。
663年、倭国は滅亡した朝鮮半島の王朝・百済の復興を助けるために、大軍を朝鮮に派遣。
大陸の王朝・唐の大艦隊と朝鮮半島の沿岸部で激突!!
そして、圧倒的な戦力差を前に敗北を喫するのです。
この戦いを決断したのは、当時倭国の実権を握っていた中大兄皇子。
開戦後、倭国侵攻に備えて全国に防御システムを築きました。
白村江の戦いは、人々の危機感を一気に高めていきます。
どうして強大な唐に戦いを挑んだのでしょうか・・・??
645年に発生した乙巳の変・・・
この政変で蘇我氏に代わって実権を握ったのが皇太子・中大兄皇子でした。
クーデター当時僅か20歳・・・天皇を両親に持つ有力者でした。
大阪市・・・乙巳の変の後王宮となった難波宮・・・蘇我氏打倒の直後、新しい政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、長らく親しんだ飛鳥から遷都しました。
南北600mを越える強大な王宮で、南側には朝堂院が・・・広大な空間は、皇族たちが列席する中、重要な儀式が行われました。
646年1月1日、元日朝賀のあと、孝徳天皇による新政権の改革方針が発表されました。
改新の詔です。
それは、大王を中心とする中央集権体制でした。
この時代、土地と民は豪族たちが私有していました。
大王が、税や兵を徴集する場合、豪族を通す必要があり、思うように徴収できないこともありました。
改革は、全国の土地と民を大王のものとし、豪族たちを国家から給与をもらう官僚とすることでした。
これによって国家による税や兵の徴収が速やかに可能となります。
倭国が強大な軍事力を手に入れるためには必要な改革でした。
どうして中大兄は軍事力を必要としていたのでしょうか??
それは、海外情勢の危機感です。
7世紀に入り、東アジアは激動の時代を迎えていました。
7世紀前半、唐が中国を統一、すると、高句麗・百済の侵略に晒されていた新羅が唐に助けを求めるようになります。
これによって東アジアは、唐・新羅陣営と、それに対抗する高句麗・百済陣営に二分されました。
中大兄は、唐の脅威と不安定な情勢に備えるために、中央集権化に進む必要がありました。そして、外交面でも・・・
646年、新羅に使者を派遣。
最新の文化や技術をもたらす百済や高句麗の有効はこれまで通りに、新羅にも接近・・・全方位外交をしようとしたのです。
百済一辺倒の外交は、もう時代遅れ・・・。
倭国は、新羅を通して唐に接近、どの陣営にも属さない方針をとったのです。
国内の改革は、遅々として進まず・・・孝徳朝の改革に抵抗する人たちもいたのです。
中央集権化や官僚制度が成り立たない・・・。
豪族の私有地、私有民を大王のものとする改革・・・既得権益を失う豪族たちの多くは反発していました。
改革がままならない中・・・目まぐるしく変わる海外情勢について行かなければなりません・・・。
654年、朝鮮三国と均等に交流するという倭国の外交方針にほころびが・・・
倭国の遣唐使が、唐の皇帝から命令を受けます。
「倭国は新羅、高句麗、百済と接近しているが、もし危急の事態となれば、兵を出して新羅を救うように・・・」
高句麗、百済との関係を断ち、唐・新羅陣営に来るように要求したのです。
660年7月、朝鮮半島で・・・百済が唐・新羅連合軍18万の軍勢に攻撃され、滅亡したのです。
百済の都は陥落し、百済王は唐に連行されたのです。
倭国は最大の友好国を失ってしまいました。
数か月後・・・中大兄のもとへ使者が・・・
使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信。
生き残った百済の人々は、百済の復興を目指し、半島各地でゲリラ戦を展開していました。
使者は、中大兄らに軍事支援を要請をします。
当時倭国に滞在していた百済の扶余豊璋を新しい王として迎えたいと帰国を促したのです。
百済復興を支援する??
それとも百済を見捨てる・・・??
倭国にとって朝鮮半島に強い影響力を持つことは重要だったと考えられます。
が・・・どうする・・・??
百済滅亡の翌年の661年1月、中大兄は時の大王・斉明天皇と共に難波を出港・・・筑紫国に向かいました。
日本書紀には、出発前の斉明天皇の言葉が書かれています。
「百済の人々は、戈を枕にし、肝を嘗める苦労をして救いを求めてきている。
その志をどうして見捨てられようか。」
倭国は百済復興の支援を決断します。
661年9月、5000の兵が、朝鮮半島に渡ります。
その中には、百済皇子・扶余豊璋もいました。
出国直前、中大兄は扶余豊璋に、倭国の官位の一つ織冠を与えています。
これは、中大兄の臣下の身分に入ったということです。
しかし中大兄は、遠征軍を送った後、1年半の長きにわたり動きませんでした。
その理由は・・・??
中大兄は、百済支援を決断してから兵を動員するのに時間を費やしていました。
各地方豪族に民衆の徴発を命じて、徐々に軍隊を集めていきながら、中央の豪族から任命された将軍がそれを率いる・・・
なかなか中央集権的に、命令を下して軍隊が集まってくるという構造にはなっていなかったのです。
倭国が兵を集めるのに時間を擁している間に、戦局は次第に百済復興軍にとって不利になっていきます。
663年・・・唐は高句麗征討いったん中止し、百済殲滅を最優先とする方針に変え、主力を百済に投入。
さらに、百済復興軍の中でも足並みが崩れ始めました。
百済王・扶余豊璋と、将軍・鬼室福信が対立!!
これによって鬼室福信は殺害されてしまいました。
豊璋は、長く日本に住んでいたので、再興した百済が実質的に日本の支配下に置かれてもあまり抵抗はなく、しかし、鬼室福信は、極力、日本の干渉を避けたかったのです。百済の自主独立の考えだったのです。
一方、唐・新羅連合軍では軍議が行われ・・・
”周留城は敵の巣穴。周留に勝てば、諸城は自ずと下るだろう”
唐・新羅連合軍は、豊璋の籠る周留城を水陸から攻めます。
総力を持って撃破する作戦です。
それに対し、中大兄の作戦は対照的で・・・
新しい兵・2万7千を、新羅本国への攻撃に、1万の兵を周留城救援に向かわせたのです。
663年8月27日、1万の遠征軍が白村江に到着!!
倭の援軍を待っていたのは、周留城攻略のために集まっていた唐の大軍勢でした。
唐はどれほどの海軍力だったのでしょうか??
軍船の一つは楼舡・・・山荘の櫓を持ち、甲板の上を馬が走り回れるほどの船でした。
防火のために、皮で覆われた外壁で、投石機で敵を攻撃します。
小型船・蒙衝は、敵戦に素早く近づき、窓から槍や強力な矢を持つ弩で攻撃します。
倭の兵士たちは果敢に大艦隊に挑む者の、圧倒的な戦力差に次々と破れていきます。
これが白村江の戦いです。
倭国軍は、400もの船を焼かれ、その煙は天を覆ったといいます。
海は、倭国の兵の血で赤く濁ったといいます。
縦割り的なバラバラな仕組みの日本・・・
唐の軍隊は、軍団制度に基づいて、常に軍事訓練をしていました。
集団先鋒で、整然と相手を追いつめたのです。
1万の遠征軍は、僅か2日で壊滅!!
百済復興軍の立て籠もる周留城も落城。
百済王・豊璋は高句麗へと逃げ、行方不明となりました。
ここに中大兄の支援策は失敗し、百済復興がなされることはありませんでした。
中大兄は、百済復興のために3回・4万2千の兵を派兵しています。
1回目・・・661年9月第一次遠征軍・・・・・・5000
2回目・・・663年3月第二次遠征軍・・・2万7000
3回目・・・663年8月第三次遠征軍・・・1万・・・白村江で大敗
その後・・・
中大兄は唐・新羅の倭国侵攻に備え、軍事施設の建設に邁進します。
福岡県筑紫野市の前畑遺跡・・・巨大な土塁は、中大兄が侵略の危機感から築かせたものだとされています。
羅城とは、中国では一般的な、都市全体を囲んだ城壁のことです。
古代日本には存在していないといわれてきました。
九州における大和政権最大の出先機関・・・大宰府。
これまで外敵の侵略経路の博多湾から大宰府までを中心に複数の防御施設が発見されています。
数少ない大宰府南東の遺構である前畑遺跡・・・前畑遺跡の登場で、中大兄が羅城を建設しようとしていた可能性が出てきました。
50キロ以上の防衛ラインを・・・東アジア最大の羅城となります。
国難に備えた国家プロジェクトとして行われた大事業だったのです。
さらに・・・中大兄は羅城に留まらず、防衛のために瀬戸内海に古代山城を築きます。
これらの防御施設は、亡命してきた百済の技術者の指導で行われました。
しかし・・・朝鮮半島では新羅が唐と対立し、唐が倭国を侵略することはありませんでした。
668年中大兄は近江大津宮で大王に即位・・・天智天皇となります。
2年後・・・日本初となる庚午年籍を作成。
大敗戦の経験は、豪族たちの危機意識を生み、天智天皇の改革に協力する機運を高めていたのです。
中央集権化が進んでいきます。
東アジアの中で生き残るために・・・!!
改革・・・しかし、残された時間は少なく・・・天智天皇は志半ばで病に倒れます。
671年天智天皇崩御・・・46歳でした。
天智天皇の死後、倭国では皇位継承をめぐり壬申の乱が起きます。
この内乱に勝利した天武天皇は、天智天皇の志を受け継ぎ、国内改革を推し進めます。
そして、中国の制度・律令を導入し、天皇を中心とした中央集権体制を完成させるのです。
古代日本の転換点となった白村江の戦い・・・数多の犠牲を経て、日本は国家としての形を整えていくのです。
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