日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大友宗麟

戦国最強の武将は誰か??
歴史通の間で評価が高いのは、浪人まで身を落としながらも大名に返り咲いた復活の名将・立花宗茂です。

・二人の父
復活の名将・立花宗茂に大きな影響を与えたと言われているのが、高橋紹運と、戸次鑑連(立花道雪)です。
共に、北九州の大部分を支配していた戦国大名・大友宗麟を支えた重臣でした。
どうして宗茂は二人の父を持つことになったのでしょうか?

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1567年、立花宗茂は、豊後国に生れます。
幼名は千熊丸・・・そこから何度も名を改め、宗茂と名乗るようになったのは40歳を超えてからのことでした。
その宗茂の実の父が高橋紹運です。
高橋紹運は、知略を以て知られた人物で、大友宗麟からも信任の厚い人でした。
そして、最後まで主家である大友家を支えた忠義の人物として知られています。

1581年、15歳になった宗茂は、大友氏に反旗を翻した秋月勢の討伐戦に参加します。
敵将のひとりを討ち取るなど、勝利に貢献したといいます。
これが宗茂の初陣ともいわれ、益荒男ぶりを遺憾なく発揮していました。

高橋紹運と双璧をなす大友家の重臣・立花道雪が、紹運に・・・
「そなたの子をわしにくれぬか」と、申し出ます。
男子がおらず、既に還暦を過ぎてきた道雪は、武勇に優れた宗茂に家督を継がせたい・・・そして、それによって両家の結びつきを強くして主君である大友宗麟をいっそう盛り立てていこうと考えたのです。
しかし、宗茂は大事な跡取り・・・
道雪が、熱心に頼んでくるとその思いに心が動かされた紹運は、宗茂を養子に出すことにしました。
高橋家の家督は、宗茂の弟に継がせることにしたのです。

宗茂が道雪のもとに行く前日・・・紹運は、宗茂に言葉をかけます。

「これからは、わしを夢にも親と思ってはならぬ
 敵味方に分かれることがあれば、お前は先鋒になってわしを討て
 少しでも迷いを見せたら、道雪さまはそれを許しはしない
 道雪さまから親子の縁を切られるようなことになっても、おめおめと帰ってきたりせず、潔く自害するが良い」

そして、自分と戦う時や自害する際にはこれを使えと、「長光の剣」を与えました。
宗茂はこの剣を、終生大切にしていたといいます。
一方、宗茂を譲り受けた道雪は、この時69歳。
35歳の時に落雷を受けた影響で歩行が困難でしたが、輿で戦場に乗り込み負け知らず!!
大友家臣団きっての猛将で、ついたあだ名は「鬼道雪」。
しかし、男子に恵まれなかったため、筑前国にある居城と家督は一人娘の誾千代に譲っていました。
誾千代の誾という字には、慎ましやかという意味が込められています。
非常に男勝りでプライドの高い性格でした。

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1581年、宗茂(15歳)は誾千代(13歳)と結婚、道雪の婿養子となりました。
厳しい道雪に鍛えられた宗茂は、その期待に応えていきます。
1582年、反大友勢の鎮圧に道雪と共に参戦。
敵軍に囲まれて苦戦していた道雪を助け、敵方の城を攻め落とすという活躍を見せました。
その甲冑から、宗茂の身長は180㎝という大柄で屈強だということが想像されます。
心身ともにひとかどの武将に成長した宗茂でしたが、全てが順調というわけではありませんでした。
この頃、主家である大友氏は、島津氏や竜造寺氏に押され、筑後国を失うなどかつての勢いはなく、宗茂の2人の父の奮闘によって、なんとか持ちこたえているような状況でした。

1584年、筑後国の奪回戦に、立花道雪と高橋紹運が参戦。
宗茂は1000の兵で立花城の守備を任されました。
道雪の不在を狙って押し寄せてきたおよそ8000の反大友勢を紀州などを用いて撃退しました。
しかし、翌年、筑後国の戦いを優勢に進めていた道雪が病に倒れそのまま亡くなってしまいました。
それを好機と見た大友氏最大のライバル島津氏が、5万ともいわれる軍を率いて筑前国に侵攻。
もはや、自分のみでは島津軍の侵攻を止められないと悟った大友宗麟は、天下人に大きく近づいていた豊臣秀吉に臣従を誓い、援軍を要請しました。
そして、宗茂の実父・高橋紹運は援軍が到着するまでの時間を稼ぐため、筑前国にある居城・岩屋城で島津軍を迎え撃ちました。

とはいえ・・・紹運の兵はわずか700・・・到底勝ち目はありませんでしたが、紹運は一歩も引かずに徹底抗戦を貫きました。
結果は、紹運を含む全員が討死!!
それでも島津軍に死傷者およそ4500人という甚大なダメージを与えたのです。
まさに武士の鑑だった高橋紹運・・・しかし、秀吉の援軍はまだ到着していません。
島津軍の矛先は、岩屋城からわずか4里・・・およそ16キロ離れた宗茂の守る立花城に向けられました。

二人の父を失った宗茂・・・しかし、悲しみに暮れる暇もなく、
1586年8月、宗茂の居城である立花城が島津軍に包囲されてしまいました。
宗茂軍が籠った立花城は、標高376mの立花山の山頂に築かれた堅固な山城でした。
その城で、宗茂は徹底抗戦の構えを崩さず、島津軍が降伏を迫っても応じませんでした。
すると島津軍は、豊臣秀吉の援軍が迫る中、立花城の攻略に時間を割くのは得策ではないと撤退を開始しました。
これを見た宗茂は、
「今が勝機!打って出る!!」
と、島津軍を追撃します。
怒涛の勢いで討ち取り、その数は一説に1000人以上。
さらに、島津方の城となっていた高鳥居城を攻め落とし、父・紹運が最後まで戦いぬいた岩屋城を奪回しました。
時を前後して、秀吉が送った援軍が続々と九州に上陸。
1587年3月には、秀吉自身も豊前国に入りました。

宗茂の奮闘を伝え聞いた秀吉は、いたく感心したと言われ・・・
その武勇を讃えた文書にはこう記されています。

”宗茂は九州の一物である”

秀吉は、総勢25万ともいわれる大軍を二つに分け、東西それぞれのルートで島津の本拠地である薩摩を目指すことに・・・。
秀吉は、西側ルートの指揮を執りその先鋒を任されたのが宗茂でした。
すると宗茂は、竹迫城、宇土城、出水城、大口城といった島津方の重要拠点を次々と攻略。
追い詰められた島津氏は、もはや勝ち目はないと降伏し、九州は秀吉の手によって平定されたのです。

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そして、1587年6月、宗茂は秀吉から
「その忠義鎮西一 その剛勇また鎮西一」
と、讃えられ、筑後国柳川13万2000石を拝領します。
21歳にして大友氏から独立し、豊臣家の直臣大名に取り立てられたのです。

13万2000石の大名となった宗茂は、立花城から柳川城に居城を移します。
宗茂はこの地で領国経営に力をつくしたと言われ、宗茂が農業用水の確保のために作った運河は、今も残り、立花宗茂の名をとって花宗川と呼ばれています。

家臣や農民からも慕われる良き殿様・宗茂・・・しかし、一つ問題がありました。
誾千代と別居・・・
誾千代が移り住んだ館は、柳川城から500mほどの位置にあり、別居の理由は今もはっきりとわかっていません。
子供がいなかったこともあって、2人は不仲だったともいわれていますが・・・
当時は、誾千代を当主と仰ぐ勢力もあったようです。
立花家内の勢力争いを解消するために城を出たのではないか?と言われています。
夫婦といううよりも、立花家を守る同志!!
二人はそんな関係だったのかもしれません。

立花宗茂 天下無双
豊臣秀吉から武勇を絶賛され、13万2000石の大名に取り立てられた立花宗茂。
主君となった秀吉のために、次々と武功をあげていきます。
宗茂が大名となった1587年の7月、肥後国で大規模な一揆が起きました。
秀吉はすぐに鎮圧隊を送りましたが、必死に抗戦する一揆勢は手ごわく、苦戦を強いられます。
すると宗茂は、1200あまりの兵を率いて肥後に入り、鉄砲隊を駆使して戦況を打破、時には1日に13度も戦い一揆勢が戦勝していた城を次々と落とし、およそ650の首を討ち取ったといいます。
一揆勢が降伏したのは、それから間もなくのことでした。

比類なき強さを再び見せつけた宗茂は、一揆鎮圧の翌年、従五位下侍従を授かり、豊臣姓を下賜されます。
そして1590年、宗茂は小田原攻めで集められた諸大名の前で秀吉からこう称賛されます。
「東の本多忠勝 西の立花宗茂 天下無双」
徳川四天王の一人である本多忠勝は、勇猛果敢で知られた猛将でした。
その忠勝と並び称されたのは、宗茂にとってこの上ない名誉でした。

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1592年、文禄の役・・・
3000あまりの兵を率いる宗茂は、明の軍と激突した碧蹄館の戦いで先鋒を務めます。
多くの将兵を討ち取って、日本軍の勝利に貢献します。
主将を務めていた小早川隆景から「立花の三千は他家の一万の軍勢に匹敵する」と、称賛されました。
二度目の朝鮮出兵・・・慶長の役でも、宗茂は落城寸前だった日本勢の城・蔚山城に駆けつけ、籠城していた加藤清正を救うなど活躍を見せました。

ところが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵は中止。
宗茂の運命も大きく揺さぶられることになります。
帰国した宗茂たち諸大名を待っていたのは、五奉行筆頭の石田三成と、五大老筆頭の徳川家康の対立でした。
秀吉の嫡男・秀頼を支え豊臣家を守ろうとする三成に対し、家康は天下取りの野心をたぎらせ勢力拡大していました。
1600年、石田三成は、五大老のひとり・毛利輝元を総大将に担いで家康を討つべく挙兵!!
すると、家康は、秀吉から天下無双と称賛された宗茂を東軍に勧誘します。
一説には、東軍勝利の暁には宗茂の所領を50万石に加増するという破格の条件を出したと言われています。
しかし、宗茂は、西軍に着きました。
柳川家臣団から東軍につくべきという声が上がり、三成との確執があった加藤清正からも西軍への参加を思いとどまるように言われますが・・・宗茂の決意が揺らぐことはありませんでした。
自分を大名に取り立ててくれた秀吉への恩顧に報いるため、西軍についたと考えられます。
また、毛利やその一族である小早川家は、朝鮮出兵で宗茂と同じ隊で戦っていました。
近しい関係だったので、行動を共にしたとも考えられます。

しかし・・・天下分け目の関ケ原に宗茂の姿はありませんでした。
1600年9月7日(関ケ原の戦いの8日前)
宗茂は、西軍から東軍に寝返った大名大津城主・京極高次を討つため、その居城である近江国の大津状を包囲。
大津は琵琶湖に面した交通の要衝だったため、寝返りに早急に対処する必要があり、その任を宗茂が任されたのです。
戦いは、鉄砲隊を使った宗茂が終始優勢・・・しかし、京極の軍勢を粘りを見せなかなか降伏せず、ようやく9月15日に城を明け渡しました。
9月15日・・・その日こそ、関ケ原の戦いが始まった日でした。
しかも、戦いはわずか半日で西軍の大敗に終わったのです。

納得できない宗茂は、大坂城に向かい西軍の総大将・毛利輝元に訴えます。

「大坂城に籠って徹底抗戦すべし!!」by宗茂

しかし、すでに家康と和睦交渉を始めていた輝元はそれを認めませんでした。
止む無く宗茂は領国・柳川に向けて撤退を開始。
するとその道中で西軍として戦った島津軍に遭遇します。
島津軍は、九州の覇権をかけて闘ったかつての敵で、宗茂の実父の仇でした。
家臣たちは、仇を討つ機会だと息を巻きます。

「敗軍を討つのは武門の恥」by宗茂

逆に、島津軍の護衛を申し出て、共に九州に帰りました。
宗茂の男気に島津義弘が感服したのは言うまでもありません。

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10月、柳川城に帰還。
すでに、この時家康の命を受けた鍋島直茂・加藤清正・黒田官兵衛たちが、柳川侵攻の気配を見せていました。
一説に、誾千代は、女官たちと共に武装し敵襲に備えていたといいます。
まもなく、鍋島軍3万が、柳川の領内に進攻。
立花軍の兵力はその1/10ほどしかなく、死力を尽くして戦うも、宗茂は将兵たちを失って行きました。
戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛は、これ以上の戦いは無益だと、宗茂を説得。
宗茂はそれを受け入れて、柳川城を明け渡しました。
宗茂を慕う領民たちは、「柳川を見捨てないでほしい」と懇願しますが、宗茂は、
「皆を戦に巻き込みたくない故降伏したのじゃ」・・・領民を巻き添えにしたくない宗茂の苦渋の決断でした。

関ケ原の戦いの後、改易された大名は88家・・・立花家もその一つで、所領も城も失った宗茂は、34歳にして浪人となってしまいました。
加藤清正や前田利長は、その器量を惜しみ仕官話を持ち掛けます。
しかし、宗茂はそれに応じることはありませんでした。
大名への復帰・・・立花家の再興を諦めていなかったからです。
その為宗茂は、加藤清正が治める肥後国に妻や家臣たちを預けます。
20人ほどの側近と京にのぼり、浪人生活を開始します。
当時の家康は、伏見城で政務を行うことが多かったので、近くにいてお家再興の機会をうかがっていたのです。
しかし、貧しい生活が続き・・・1602年10月、誾千代が死去。

立花宗茂 大名復帰
1606年9月・・・千載一遇のチャンスが・・・!!
家臣に宛てた手紙には・・・
”将軍様に召し出され候 まずもって当分 心安くこれあり”
これ以上家臣たちに苦労をかけずに済むという安堵の言葉でした。
そして宗茂は、2代将軍・秀忠と謁見、陸奥国棚倉に1万石を拝領・家臣として取り立てられます。
1万石は、大名と呼ばれる最低限の所領で、しかも柳川から遠く離れた東北の地でしたが、宗茂は6年ぶりの大名復帰を果たしました。

どうして将軍・秀忠は宗茂を召し抱えたのでしょうか?
「徳川実記」には、秀忠は武勇の誉れ高い宗茂を、将軍になった暁には召し抱えたいとかねてから考えていたと書かれています。
家康も健在だったことから、家康の意向を抜きには考えられません。
一説によると、家康は宗茂を高く評価しており、若い秀忠の相談役にしようと考えていたようです。
当時は大坂城に豊臣秀頼が健在でした。
宗茂を豊臣方に取られると大きな痛手となるので、先んじて召し抱えたのです。

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関ケ原の戦いで西軍についたため、改易されて浪人になるも徳川秀忠のもとで大名に復帰した立花宗茂・・・
大名復帰の4年後には、江戸御留守番に就任しました。
将軍の警護が主な仕事だったと考えられています。
それに伴い、宗茂の所領は3万石に加増、幕府内での地位も高まっていきました。
そして、大名復帰から8年がたった1614年・・・徳川が豊臣との最後の戦い・大坂の陣に臨むことになります。

立花宗茂 柳川に戻る
大坂の陣で、かつての主君・豊臣家を敵に回すことになった宗茂・・・

「秀吉さまへの恩は、関ケ原で返した」by宗茂

徳川家に仕えて8年・・・もはや、迷いはありませんでした。
この時、48歳。宗茂は、大坂の陣で重要な役を担います。
秀忠のそばにあって、軍事の指南役を担っていました。
2度に渡った大坂の陣・・・それは最終決戦・夏の陣の時のこと。
秀忠が宗茂に尋ねます。

「本陣をもっと前方に置くべきではないか」by秀忠
「敵は必死に攻めてくるため、本陣は後方にひくべきです」by宗茂

これには多くの者が異を唱え、結局本陣は動かしませんでした。
いざ戦いが始まると、豊臣軍の圧力に押され、本陣を1キロほど後方に下げることになりました。
重臣たちは、宗茂殿が正しかったと、自分たちの見通しの甘さを認め、さらに本陣を下げようとします。
ところが宗茂は、
「先ほどの戦闘で敵は力を使い果たし、動きが緩慢になっております
 もはや、本陣を下げる必要はなく、このまま戦うべきです」by宗茂

すると、またしても宗茂の読みが的中・・・
敵はそれ以上攻め込むことが出来ず、至近距離から徳川軍の攻撃を受けた豊臣軍は、総崩れとなりました。

あまたの激戦を制し、勝ち方をよく知っていた宗茂は、軍師としてもまた天下無双!!
これを聞いた家康は、
「今後も宗茂とは懇意にすべし」と、秀忠に命じました。
その家康が、大坂夏の陣の翌年、駿府城で病に伏すと、秀忠は見舞いのために江戸城を留守にしましたが、その間、江戸城大手門の警備を任されたのは宗茂でした。
通常は譜代大名が務める任務で、家康の言葉通り、秀忠が宗茂を重用していたことが伺えます。

そして、1620年、54歳になっていた宗茂は・・・宿願を果たします。
立花家が改易されたのち、柳川には田中家が入っていましたが、跡継ぎがいなかったことで取り潰しに・・・
代わって宗茂が20年の時を超えて旧領に復帰したのです。
柳川藩10万9000石の大名に返り咲いた宗茂は、肥後国の加藤清正のもとに預けていたかつての家臣たちを柳川に呼び戻しました。
歓喜の再会・・・
関ケ原の戦いで失った旧領を回復したのは、立花宗茂ただひとりでした。

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立花宗茂が最後の勇士を見せたのは、1637年の島原の乱。
宗茂はすでに70歳を超えていたといいます。
3代将軍・家光の命を受けて参戦!!
幕府軍の総大将・松平信綱の補佐役を務め、敵の夜襲を的確に予想し、兵糧攻めを指示したり、往年の実力を見せつけ、一揆勢が立てこもる原城での戦いに一番乗りを果たした際には、武神が再来したと称賛されたといいます。
そして、76歳・・・波乱の生涯に幕を閉じました。
宗茂のかつての領地・福岡県柳川市に鎮座する三柱神社・・・
ここには、天下無双の名将・宗茂と、義理の父・立花道雪、妻・誾千代が御祭神として祀られています。
その為、復活の社とされ、現在も宗茂にあやかろうとする人々の厚い崇敬を集めています。

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その日、京の都で歴史を揺るがす大事件が勃発しました。
戦国の覇者・織田信長が、明智光秀の襲撃を受け自刃!!
本能寺の変です。

島津の陣風 義久の深謀、義弘の胆力

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信長亡き後、いち早く後継者として名乗りを上げたのが羽柴秀吉です。
秀吉は、並み居る強敵を退け、畿内統一を果たし、天下人への階段を登り始めていました。
一方、畿内から遠く離れた九州では、薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津が、急速に領土を拡大!!
九州6カ国の守護職を兼ねた大友と二大勢力に分かれていました。
この時、鎌倉以来の名門・島津家を率いたのが、16代当主の義久。
政をよくする深謀遠慮の名将と知られる戦国大名でした。
その兄を支えたのが、義弘・歳久・家久の三人の弟たちでした。
いずれも武略に秀でた猛将でした。
この島津兄弟の名が天下にとどろいたのが、現在の宮崎県北部で行われた耳川の戦いです。
大友と雌雄を決した一大合戦です。
両軍合わせて7万の大激突!!
戦いは平地におびき出した大友の軍勢を島津の伏兵が銃撃!!
結果、大友軍は総崩れとなりました。

鉄砲を一人前の武士が扱えないと薩摩の武士ではない!!
そして、集団的に鉄砲が使える・・・
必ず平地におびき出して、雌雄を決する!!
そうなれば、鉄砲の威力は存分に発揮できます。
もうひとつ養成したのが忍び(狙撃手)でした。
相手の大将を殺して戦場を離脱できる忍びがいる・・・!!
敵の大将狙い、平地戦で圧倒的な優勢を占めるのです。

こうした4兄弟の活躍で、劣勢に立たされた大友は、起死回生の一手に打って出ました。
秀吉に助けを求めたのです。
そしてその結果・・・

1585年10月、関白に就任し、羽柴から豊臣となった秀吉は、九州に停戦命令を発令。
もし、勅命に従わなければ、必ずや成敗すると島津を牽制します。
この一方的な停戦命令に、どう対処すべきか??
当主・義久は重臣を集め、軍議を開きました。
この時、大勢を占めたのが「秀吉、おそるるに足らず」という意見でした。

島津家は、源頼朝以来の名門!!
それに比べ秀吉は、由来の分からぬ人物に過ぎない・・・!!
そんな人物を関白と認めるなど、笑止である!!

軍議の結果、静観することに決しました。
これが覆ったのが、大坂から戻った使者がもたらした報告でした。
秀吉は、停戦令に加え、九州の国分け案を提示しました。
国分けとは・・・??
領土を各大名に分け与えることです。
大友には北九州の国々を、島津には薩摩など三州に加えいくつかの国を分け与えるというものです。
秀吉は、九州を思うがままに分割しようとしたのです。
九州全土の制覇を目標にした島津にとって、この秀吉の国分け案など、受け入れられるわけがありませんでした。

1586年6月、島津軍、大友領へ侵攻開始。
島津勢は、停戦令を破り、ついに大友領へと進軍。
たとえ秀吉が襲来しようと、島津にこの時勝算がありました。
ゲリラ戦によって、泥沼の選挙区情勢に持って行けると考えていました。
島津をせん滅するのは、不可能に近いものがありました。
さらに、秀吉にはこの時期、畿内を留守にできない事情がありました。
徳川家康との対立です。
小牧長久手の戦いでは、家康に思わぬ敗北を喫しました。
この両者の戦いは、各地に飛び火し、長期戦の様相を呈していました。

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そしてそんなさ中・・・1585年11月・・・天正地震!!
地震は、中部地方と近畿を襲い、秀吉方の多くの城が崩壊しました。
長期化する家康との対立、そして大地震で壊れた城の復興など、秀吉が九州に攻め入る暇はありませんでした。

島津軍が大友領に攻め入ってから3か月後・・・
畿内を留守に出来ない秀吉に代わり、仙谷秀久や長宗我部元親など四国の軍勢が九州に派遣されました。
そして、末弟・島津家久が豊臣軍と激突!!
現在の大分県大分市で行われた戸次川の戦いです。
川を渡り進軍する豊臣軍に対し、島津の伏兵による鉄砲が火を噴きました。
この攻撃で、豊臣軍の名のある武将たちが戦士・・・
史料には、豊臣方の負けっぷりは表現のしようがないと書かれています。
この大勝利により、島津軍は大友の拠点・府内の占領に成功。
九州全土の制覇は目前にありました。
ところが・・・九州から遠く離れた畿内では、不測の事態が・・・!!
1586年10月、徳川家康が秀吉に謁見。
秀吉に、家康が屈したのです。
これで、秀吉に後顧の憂いは無くなりました。
次の狙いは島津!!
今度は、秀吉自ら九州へ向かうことに決したのです。

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1587年3月1日、豊臣秀吉、九州出陣!!
秀吉は、40カ国に動員を命じ、20万の大軍勢で九州に向かいます。
当時の記録には・・・
本願寺の僧侶、京や堺の豪商までお供に加え、まるで大唐まできり従えるかのような前代未聞の大軍勢であるとあります。
九州に上陸した秀吉は、高山右近や蒲生氏郷、前田利長など畿内周辺の大名を率いて肥後方面を南下。
一方、弟の秀長は、毛利輝元や宇喜多秀家、長宗我部元親など中国四国勢を率いて日向方面を進軍しました。
この日向方面で、両軍が激突したのが九州平定の分岐点となった高城合戦です。
島津方の城・高城は、小丸川を自然の障壁となし、東を日向灘・南北を台地に覆われた堅固な要塞です。

高城は、大分や熊本・鹿児島を結ぶ交通の要所・・・標高60メートルの台地の上に築かれた山城です。
4月6日、秀吉の弟・秀長率いる10万の豊臣軍が高城を包囲。
それに対し、籠城した島津方の兵は、わずか1300あまり・・・!!
ところが、高城は、三方を断崖絶壁に囲まれた難攻不落の城・・・!!
さらに、西に続く尾根には、堅固な防御施設・堀が施されていました。

鉄壁の高城を攻めあぐねる豊臣軍・・・!!
この城をどのように攻略すべきか・・・??
豊臣軍が目をつけたのが、城の南側にある根白坂と呼ばれる場所でした。
豊臣軍は、高城から2キロ離れた根白坂周辺にも陣を築きます。
島津軍本隊の襲撃に備え、豊臣軍はわずか10日ほどで巨大な堀や土塁を築き、堅固な陣を急造したと考えられます。

4月17日夜・・・豊臣軍の思惑通り、高城救援のため島津家当主・義久自らが出陣!!
弟・義弘や、家久が前線に向かい、根白坂の豊臣軍に用地をかけました。
高城を救援するためには、根白坂に築かれた豊臣軍陣地を突破する他ない!!

突撃する島津勢は、豊臣軍が築いた長大な堀の突破を試みます。
しかし、堀は深く、下りることすら容易ではない・・・!!
さらに・・・豊臣軍は、数千丁の鉄砲を用意し、雨あられの降るごとく一斉に掃射!!
これによって、島津の兵は、堀底でみな討ち捕らえられてしまいました。
豊臣軍の巨大な防御施設を前に突撃した島津兵のほとんどが戦死!!
その結果、島津勢は撤退するほかありませんでした。

島津四兄弟?義久、義弘、歳久、家久の戦い?

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義久は、この敗戦からわずか4日後、豊臣軍に降伏を申し入れました。
高城が開城したのはその8日後のことです。
鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺・・・
1587年5月8日、泰平寺に対陣していた秀吉の前に、頭を丸め出家した島津家当主・義久が出頭しました。
義久は、正式に降伏を申し出たのです。
ところが・・・戦いは終わったわけではありませんでした。
降伏に異を唱えた弟・歳久が、居城・虎居城に籠城。
あくまでも秀吉に抵抗する姿勢を見せていました。
三方を河川に囲まれた虎居城・・・高城同様、断崖絶壁・堅固な防御施設のある山城です。
こうした難攻不落の城に籠城したのは虎居城の歳久だけではなく、兄・義弘も徹底抗戦を辞さない構えを取っていました。
さらに、各地に居城を持つ島津の重臣たちも、秀吉に抵抗する姿勢を崩しません。
当主・義久が降伏を示したにもかかわらず、あくまでも抵抗を続ける島津の武将達・・・
秀吉は島津をどう処分すべきか??

戦に勝利した秀吉・・・
しかし、秀吉を取り巻く状況は厳しいものでした。
この時、九州は梅雨の只中にありました。
長引く大雨でがけ崩れなどが頻発していました。
悪天候で、畿内から食料の海上輸送も滞り、病人が続出・・・連日、餓死者の出る有様でした。
島津を滅亡させるか、島津一国にするのか・・・??

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秀吉が降伏を申し出た当主・義久に与えた赦免状が残されています。
日付は天正15年5月9日!!
泰平寺での対面の翌日です。

”この度、関白秀吉様が薩摩まで出陣し、島津を討ち果たす目前に義久が一命を捨てて出頭したので赦免する
 然るうえは、薩摩一国を与える”

秀吉は、義久に薩摩一国を安堵することを選択しました。
さらに、秀吉は義久と同じく、降伏した末弟・家久の領土を安堵。
後に恭順した義弘も、大隅一国を安堵されました。
島津家は、兄弟の領地を併せ参加国を安堵される結果となりました。
しかし・・・島津四兄弟のうち居虎城の歳久だけ秀吉との対面を拒絶!!
そればかりか、歳久は秀吉の帰り道を狙い、輿に矢を放ちました。
秀吉にとって、九州平定は凱旋の帰還とは程遠い帰還でした。

秀吉の正妻・北政所に漏らした本音が書状に残されています。

”今回の九州出陣では、非常に苦労が多く、そのせいか白髪ばかりが多くなり、抜いても追いつかないほどになってしまった”

どうして、秀吉は島津に対して三カ国も安堵したのでしょうか?
そこには”唐入りの準備”がありました。
島津がもっている明国とのパイプ、これは捨てなくてもいいのではないか??
特に、義久は中華商人のネットワークを持っていました。
島津の交易における信用・信頼関係と情報力を見て秀吉は戦略を立てていました。

6月7日、博多に戻った秀吉は、国際貿易港・博多の復興に着手しました。
唐入り・・・大陸進出のための布石でした。
さらに、北政所宛の書状からは、秀吉の大陸侵攻の強い決意が読み取れます。

”高麗王に天皇のもとへ出仕せよと命じた
 これを高麗が拒否すれば、来年、軍勢をもって成敗する
 ゆくゆくは、唐国まで手に入れるつもりだ”

秀吉がその夢を実行に移すのは、九州平定から5年後・・・1592年文禄・慶長の役です。
しかし、7年に及んだ無謀な対外戦争は、泥沼化の一途をたどり、そして・・・秀吉の死によりようやく戦いは幕を閉じたのです。

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先ごろ、ローマ教皇が38年ぶりに日本を訪問・・・広島や長崎を訪れました。
人々が平和に暮らせる世界を願い、祈りを捧げました。
日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。。。
この国は戦乱に明け暮れる戦国時代の真っただ中でした。
キリスト教は救いを求める人々に瞬く間に広がり、大名の中には自ら洗礼を受けるものまで現れました。
その中でも、戦国最大のキリシタン大名であったのが、九州6か国をおさめた大大名・大友宗麟です。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って、その布教活動を手厚く保護・・・宗麟の領国・豊後では、最盛期にはキリシタン3万人を超えたといわれています。
当時、ヨーロッパで作られた日本地図には、九州をBVNGOとし、JAPANと並ぶ一つの国とみられていました。
ルイス・フロイスは、宗麟のことを「日本にある王侯中、もっとも思慮あり、聡明叡智の人」と称えています。
近年の発掘では、南蛮貿易で手にした莫大な富と力を示した品々が伺えます。
ところが、その繁栄を揺るがしかねない選択が宗麟を待ち受けていました。

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フランドル絵画の巨匠Anthony van Dyckの描いた絵・・・
左側がフランシスコ・ザビエルで、右側がなんと大友宗麟です。
ヨーロッパではこんな風にイメージされていました。

実際の肖像画はこちら!!

sourinn2












大友宗麟は、キリスト教をヨーロッパの文化や文明と一緒に丸ごと受け入れました。

大分県大分市・・・大伴家の最盛を築いた大友宗麟の拠点です。
市の中心部では、大規模な発掘調査が行われています。
それは、全国でも類を見ないほどの館でした。
歴代当主が暮らした大友館・・・広大な敷地に行けや庭園まである全国でも屈指の規模の館だったと思われます。
館を中心に、道が整然と格子状に敷かれ、45もの町が形成されていたといい、およそ5000軒の町屋が並んでいたといいます。
当時の国際貿易都市の堺、博多と匹敵する規模の町があったのです。
発掘調査では当時の繁栄を物語る品がたくさん出土しています。
当時、この館の当主である大友宗麟が、南蛮貿易を積極的に推し進め、たくさんの東南アジアと西洋に関する文物が輸入されていました。
ベトナムやタイの陶磁器、ヨーロッパのベネチアングラスも見つかっています。
南蛮貿易で莫大な財を得ていた証です。
大伴義鎮・・・後の宗麟は、1530年に大友家の長男として生れました。
鎌倉以来、400年にわたって豊後国を治める名家だった大友家・・・宗麟はその嫡男として誕生したものの、当主の座につくまでの道は順風満帆ではありませんでした。
弟・塩市丸を当主にという派閥に、父の義鑑が結託・・・宗麟派の粛正を画策するものの、弟は殺害され、父も巻き込まれて死亡する事件が勃発しました。
そんな肉親同士の骨肉の争いを経て、1550年大友家21代当主になります。
時に21歳・・・不安定な領国統治のために目をつけたのが南蛮貿易でした。
1543年、種子島の鉄砲伝来以来、日本とポルトガルとの交易が始まりました。
豊後・府内はポルトガル船に港を開放し、一大貿易拠点として発展していきます。
ポルトガルから商人が行き交い、町は大いににぎわったといいます。
カンボジアから宗麟に象が贈られたとの記録もあります。

世界史的にみると、大航海時代が日本にやって来ていました。
それに対応する九州の大名は、陸上だけでなく海上勢力とも立ち会わなければならない・・・
そこに活路を見出した・・・一番最先端をいった大名が大友宗麟でした。
宗麟の領国経営を支えた南蛮貿易・・・その成功の裏には、ある人物がいました。
1551年、宗麟はそのイエズス会宣教師を自らの屋敷に招きます。
イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
日本にキリスト教を最初に伝えた人物です。
その時の宗麟の様子がイエズス会側の記録に残っています。

「彼は司祭に対して敬意を表し、愛情をこめて歓迎した」

はるばる日本まで布教に来たイエズス会の活動の背景には、この頃のヨーロッパでの歴史のうねりがありました。
15世紀末・・・大航海時代を切り開いた大国スペインとぽrとがると出の海外領土分割条約・・・それは、独自に引いた線から東はポルトガル、西はスペインが植民地として支配する、世界を二分するというものでした。
アジアへの進出を目論むポルトガルの援助を受け、一体となって進出したのがカトリック教団のイエズス会でした。

大航海時代、ポルトガルとスペインは、海外に植民地を獲得するため進出しました。
カトリック教会が、この枠組みに乗って、海外布教を実現させました。
国家は植民地獲得のために、教会は不況のために・・・
相互に癒着しながら、海外に進出していました。
日本に進出したイエズス会は、キリスト教の布教・保護を領主に求めます。
その見返りとして領主にはポルトガルとの貿易の便宜を図りました。
宗麟はザビエルの求めに応じて、豊後での布教を許可し、多くの土地を提供します。
府内には、教会や育児院などの施設が・・・病院では治療が無料で行われたといいます。
さらに音楽や演劇など西洋の文化が積極的に取り入れられ、府内は異国情緒あふれる町となっていきました。
府内で集中して出土するメダイ・・・この素材は南蛮貿易で輸入したタイの鉛でした。
これと同じ鉛を使って作っていたのは火縄銃の鉄砲玉です。
キリスト教を保護することによって南蛮貿易の恩恵・・・それは富だけではなく、軍事的なメリットもありました。
大友宗麟がキリスト教を受け入れたのも、信仰的な理由も大きいが、戦国時代の中でヨーロッパの進んだ武器を手に入れるということは当然でした。
さらに、重要な貿易品が火薬の原料となる硝石でした。
南蛮の良質な硝石を確保することは、戦国大名の大きな課題でした。
宗麟は九州への進出を企てる毛利氏との戦いの中、ポルトガル側に書状を送っています。

「山口の王(毛利氏)への硝石の輸出を取りやめて、私だけに良質の硝石を輸出してほしい
 そうすれば、山口の暴君は領国を失い、キリスト教は今後も私の国で一緒にいられるだろう」

宗麟は、さらにポルトガルから大砲(国崩)まで入手していました。
領国の強化を図る宗麟と、アジアでの布教拡大を目指すイエズス会・・・両方の思いが合致して、大友家は繁栄を迎えていきます。

豊後から九州全土へと勢力を広げていく大友宗麟・・・
1559年には九州6か国を領有し、室町幕府から九州探題に任じられます。
その間も宗麟の領国では、キリスト教の布教を一貫して保護し続けました。
日本全国でも布教は実を結び、信徒はおよそ10万人に・・・!!

肥前のキリシタン大名・大村純忠の領国に残る記録には、キリシタンが数多くの神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したと書かれています。
キリスト教徒と既存宗教との確執は・・・??
イエズス会では神社仏閣の破壊は日本人のキリシタンが勝手に行ったものであると主張しています。
実際にはイエズス会の宣教師が、日本人のキリシタンに神社仏閣への放火などをそそのかしたのでは・・・??
ヨーロッパ人の宣教師にとって見れば、日本の宗教や信仰というものは偶像崇拝に当たります。
本来容認できるものではありませんでした。
一方仏教徒も・・・キリシタンの住む町に放火、教会は焼け落ち、宣教師は国外に避難する事態となりました。
こうした宗教間の軋轢に、宗麟も悩んでいたといいます。
イエズス会の記録によれば、キリシタンになることを勧めた宣教師に対して、宗麟はこう答えたといいます。

「私がキリシタンになろうとすれば、家臣たちは私を国守と認めなくなるだけでなく、それ以前に殺されてしまう」

大友家は代々禅宗とのかかわりが深く、豊後は仏教信仰に厚い土地柄でした。
1562年、33歳の時、キリスト教の保護をしながら、宗麟は出家し法名を名乗ります。
この時より宗麟の法名を名乗ります。
キリスト教に偏っていたわけではなく、仏教・禅宗への信仰心を維持していました。
宗教受容の多様性・・・その姿勢は、西国大名の場合は根本的に持っていました。

宗麟が目指したものは何だったのか・・・??
この頃、宗麟は本拠地を府内から臼杵に移しています。
出家をしながらも、キリスト教色の濃い町づくりをしています。
町づくりで特徴的なのが、城から教会へとのびる大通り・・・
イエズス会師の教育施設も建てられ、臼杵はキリスト教布教の一大拠点となりました。
近年の発掘調査では、国内最大規模のキリシタン墓地・・・棺桶を埋める穴や、墓標となる石材が66個も発見されています。
さらにこの墓地からは、十字架が建てられた広場や、礼拝堂と思われる建物の跡も発見されています。
臼杵では、キリシタンたちが平和に暮らしていた時代があったのです。
臼杵での宗麟は・・・??
自分は平和のうちにどうやったら領国が統治できるか苦慮していました。
そのために、キリスト教が最もふさわしい教えではないか??
自分の領国を平和のうちに統一して運営できるために、キリスト教を導入したいと思っていました。
キリスト教と既存の宗教が共存できる領国統治を目指した大友宗麟・・・
しかし、その繁栄を大きく揺るがしかねない選択が迫っていました。

日向国を巡って、宗麟は大友家の命運を左右する選択を迫られます。
当時、日向の大半を治めていたのは伊東氏でした。
南の薩摩・大隅を治めていたのは武門の名門・島津氏でした。
1576年、島津氏が日向の伊東領内に侵攻。
領地を奪われた伊東は、姻戚関係のある宗麟に援軍を求めてきました。

この当時、大友と島津の間に大問題が発生していました。
発端は、南蛮貿易を行う大友の船が、島津領で行方不明になったのです。
大友側は、船と積荷が島津に横領されたと疑っていたのです。
さらに日向は、大友家の南蛮貿易にとって重要な寄港地でした。
大友、島津にとって、南蛮貿易の利権をかけた戦いの側面を持っていました。
日向に出兵し、島津と戦うか??否か・・・??

①出兵を回避する??
島津と戦えば、毛利、龍造寺に攻め込まれるかもしれない・・・。
家督は嫡男に譲ったばかり、領国の安定を図るべきではないか??
当時、大友家の重臣たちは、出兵に反対するものが多かったといいます。
相手は勇猛果敢な島津軍・・・戦いは激戦が予想されました。
さらに、家督を譲った中利の義統はまだ21歳。

”義統は国主にそぐわない無能な人間であるとして罷免すべきか家臣の間で協議された”

ともいわれています。
義統は、家臣からの信頼が薄く、当主の資格さえ疑われていたといいます。

②日向に出兵する??
宗麟は、日向を手に入れたのちの構想を、イエズス会の宣教師に語ったと記録しています。

「日向に築く町は、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度によって統治されねばならない
 日向の土地に住む者たちは、みながキリシタンとなって愛と兄弟的な一致をもって生きねばならない」

宗麟は、大友家が持つ領地とは別に、日向の地に争いのないキリシタンだけが住む理想郷を作ろうとしていたのです。
領国の統治は義統に任せ、自分は新しい国を造るのだ・・・。
ポルトガルや、東南アジアの協力を得ながら、キリスト教のもとで民と心を合わせ国を統治するのだ・・・!!

日向に出兵する??それとも出兵を回避する・・・??

宗麟の取った選択は・・・??日向へ出陣・・・!!
宗麟は日向に出兵する道を選びました。
この時宗麟は、これまでの自分を振り切る重大な選択をしていました。
洗礼をしてキリシタンとなったのです。
洗礼名は、ドン・フランシスコ。
キリスト教との出会いをもたらしたフランシスコ・ザビエルの名をもらったものです。
日向に向け、4万もの大友軍が進撃を開始。
宗麟の船には、十字軍さながらに深紅の十字の旗が掲げられたといいます。
宮崎県延岡市無鹿町・・・宗麟が本陣を置いた場所です。
この時つけられた無鹿という名前は、ポルトガル語で音楽・・・MUSICAのことです。
宗麟はここに宣教師たちの宿舎や教会を建設します。
その一方で、周辺の神社仏閣を破壊したといいます。
宗麟の挙兵に対し、迎え撃つ島津軍が日向に進出!!
1578年11月、戦いの火ぶたが切られます。
しかし、大友軍はもともと出兵に反対するものも多く、武将の意見がまとまらず一枚岩ではありませんでした。
島津軍は、陽動や待ち伏せを行い大友軍を翻弄します。
結果、戦いは島津軍の圧勝に終わりました。
敗戦の報を受けた宗麟は、急いで臼杵に撤退・・・命からがらの逃避行でした。
この戦いの後、勢いに乗った島津軍は九州北部に侵攻し、大友領にも殺到します。
苦境に立たされる宗麟・・・
領国や命を預かるキリシタンを守るにはどうすればいいのか・・・??

追いつめられた宗麟は、起死回生の一手に打って出ます。
全国統一を目指す秀吉のもとに自ら出向いて援軍を求めたのです。
1586年、宗麟の直訴により秀吉軍が20万軍で九州へ侵攻、翌年島津を降伏させます。
結果、九州全域は秀吉のもとに落ち、大友家は秀吉配下の一大名となりました。
しかし、島津攻略の直後、宗麟は病に倒れその生涯に幕を閉じます。

1587年、大友宗麟死去・・・享年58歳でした。
宣教師やキリシタンの身内に看取られた静かな最期でした。

九州を制圧した秀吉は、宗麟の死から1か月後、突如宣教師たちの国外追放を命じました。
世にいう伴天連追放令です。
この後、秀吉、家康と続く天下の中で、キリスト教徒たちは厳しい迫害の時代を迎えます。
かつてヨーロッパまで轟いた大友宗麟の名も、その輝きを失っていくのです。


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雷鳴轟く京の町で・・・1591年2月28日、一人の茶人が切腹して果てます。
茶聖と称えられた千利休です。
その首は橋のたもとに置かれ、無残にも木造の足で踏みつけられるようにさらし者にされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉です。
しかし、もともと利休を寵愛したのは秀吉でした。

1522年、千利休は堺の魚屋の長男として生まれます。
幼名は与四郎といい、父・与兵衛は海産物の取引をする傍ら、倉庫を貸し付けることで財を成した堺屈指の豪商でした。
しかし、もともと千家は武家で、祖父は室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行で、利休の心理眼はこの祖父を受け継いだものかもしれません。
利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で繁栄・・・戦国大名の力に頼らず、町衆という商人たちが自ら治める独自の統治体制を形成していました。
その町衆の中で流行していたのが茶の湯でした。
社交や商談の際に必要な素養の一つだったのです。
そこで、交易で巨万の富を築いた商人たちは、「名物」と呼ばれた中国の高価な茶道具を買いあさるようになります。
商人の子・利休も、幼いころから茶の湯を嗜み、19歳の時には当代随一の茶人・武野紹鴎の弟子となり茶の世界に没頭。
更には、茶の心に通じるとして南禅寺で禅を学び、宗易という名をもらいます。
1540年父が死去・・・家督と家業を継いだ利休は、商人としても生きることとなるのです。
利休は、堺の豪商たちと頻繁に茶会をし、交流を深めます。
それによって、地位を固め、政治経済、文化を問わず、人脈を広げていきます。

そんな利休に大きな転機が訪れたのは・・・1568年47歳の時でした。
天下布武を掲げた織田信長が、美濃から上洛!!15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目をつけたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫・・・今のお金にして500億とも1000億ともいわれる金額を献金するように命じます。
堺には、冨だけでなく他にも魅力がありました。
鉄砲の産地だったのです。
町衆の自治が盛んなので、自治的な部分を押さえたかったのもあります。
この堺とのパイプを強固なものにするために、茶の湯を・・・!!
商人でもあり、茶人でも名を馳せていた今井宗久・津田宗及・・・三番手として千利休を「茶頭」に起用しました。
信長は利休を茶頭として3000石で抱えます。
それだけ茶人がキーマンだったのです。

しかし、1582年、利休が61歳の時、運命を大きく変える事件が起きます。
本能寺の変です。
天下取り目前で、織田信長が命を落としてしまいました。
信長の死から10日余り・・・山崎の合戦にて、豊臣秀吉が謀反人・明智光秀を討ち取ります。
これによって、天下取りの第一歩となった秀吉が、直後に近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き、政務を行っていた秀吉は、そこに茶室を作って利休に茶会を催すことを命じます。
利休はその時の心のうちを、茶人仲間に宛てた手紙に書いています。

「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している。」

こうして、信長の三番手だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのです。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??

①信長の継承
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の銘品を、堺の町衆から強制的に買い上げ、武功をあげた家臣たちの恩賞にすることで、人心を掌握し、強い主従関係を築くことに役立てていました。
土地をもらうのが一番の恩賞でしたが、あげ続けることはできません。
土地の代わりに茶道具うを与えたのです。
そして、手柄を立てたものに茶会を開く権利を与えるという茶道御政道を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、いつしか茶室は政治の場となっていきました。
そのやり方を秀吉は継承したのです。
そして、秀吉は、利休を筆頭茶頭に格上げしてまで取り組みたい理由がありました。

②情報力
3人の茶頭は、堺の商人です。
堺には情報が集まってきました。
家業が貸倉庫業だったので、利休のもとには、全国の情報が集まってきていたのです。

1584年3月、秀吉は敵対する勢力織田信雄・徳川家康軍と戦います。
小牧長久手の戦いです。
この時、利休は、京や堺から頻繁に戦場の秀吉と書状を交換し、秀吉の支持を周囲に伝える役目をしています。
また、秀吉が大坂城に戻ってからは、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り、秀吉に戦況を伝えます。
右近と織部とは、茶の湯を通じて交流があり、利休は師と仰がれていました。
利休はこうした茶人ネットワークを使って、戦が終わるまで情報集めに奔走。
秀吉の天下取りに貢献することで信頼を勝ち取っていくのです。
どうしてそこまで一生懸命になったのか・・・??
茶頭は、権力者の後ろ盾が必要だったからです。
二人は運命共同体だったのです。

1585年、秀吉が関白に就任。
姓を豊臣と改め、本格的に自らの政権をスタート支えます。
すると、秀吉は、弟・秀長と同じく利休を側近とします。
利休64歳の時でした。

1586年4月、秀吉のもとへ一人の武将が訪れます。
豊後の大友宗麟です。
九州で勢力を伸ばす島津義久の侵略に脅かされていると助けを求めて大坂城へとやってきたのです。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々のことは宗易に、公儀のことは宰相がすでに存じておるため悪いことはないはず・・・」by秀長
豊臣政権では、外交は秀長が、内政は利休がすべて任されていました。

利休は、どうしてこれほどまでに権力を持っていたのでしょうか?
そのカギは秀吉の弟・秀長にありました。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を所有していました。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取り仕切っていました。
その秀長に利休は近づきます。
一説には、大和にあった秀長の郡山城には、相当な金銭が蓄えられたと・・・それは、利休が相当な経済援助をしたからだ・・・とも言われています。
秀長と親密な関係を結び、政権の中枢に入り込んだ利休・・・。
温厚で人望の厚い秀長は、利休の良き理解者で、秀吉との緩衝材にもなりました。
そのため、利休は、関白・秀吉にまで意見のできる力を持つことができたのです。
さらに、利休には秀長に取り入ったもう一つの理由がありました。

秀吉は、この当時まだ子供がおらず、甥の秀次を後継者としていました。
利休の秀長への接近は、秀吉死後の自らの地位を確立するためだったのです。
政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を手に入れた利休でした。

農民出身と言われる秀吉は、天皇の威光を利用しようと朝廷に接近します。
そして、1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭の利休に取り仕切らせるつもりでした。
しかし、問題が・・・利休は一介の町人で、官位がなかったため、禁中に入ることができなかったのです。
そこで、利休は僧侶になることを考えます。
僧侶ならば、身分に関係なく禁中に入ることができました。
そして、利休居士となるのです。
この時64歳、千利休の誕生です。

北野天満宮・・・
1587年10月1日、ここで、北野大茶湯が行われることとなりました。
茶会開催に先立ち、京、奈良、堺などに高札が立てられます。

”10月1日から10日間の日程で、北野杜で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り、拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問”

この時、秀吉が身分の隔てなく平等に参加を許した理由は・・・
平和の世になった・・・武士、公家などの支配者階級だけでなく、一般庶民まで平和になったことを広く知らしめようとしたのです。
秀吉が天下人であるということを知らしめる重要なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す手紙を書くなど、茶会成功に尽力します。
利休の取り仕切った北野大茶湯とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂城から運び込まれます。
800の茶席が設けられ、訪れた客は1000人を超えたと言われています。

世紀の大茶会から4年・・・秀吉と利休の蜜月は終わりを告げます。
1591年2月13日、利休は秀吉から突如言い渡されます。
「京を出て堺で謹慎せよ!!」と。
すると、秀吉の正室・北政所らが利休のもとに密使を遣わし、真意を伝えます。
関白様に謝罪をするように・・・しかし、利休は頑なに謝罪することなく淀川を下って堺に帰ってしまいました。
これにたいして怒りが頂点に達した秀吉は、2月26日、京に戻るように利休に命じ、3000もの上杉の軍勢で屋敷を取り囲み、利休を逃げないようにし・・・
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉側の言い分は二つ。
その一つは、たった一体の木像でした。

①利休の木像 
京都大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺でもあります。北野大茶湯の後、利休は大徳寺に自費を投じて山門を寄進しました。
その壮麗な佇まいから、利休の当時の財力が伺えます。
山門は金毛閣と名付けられました。
この山門の寄進に感謝した大徳寺は、山門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし、その木造が問題となったのです。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れた・・・??
「山門の下を通るたびに、利休の足の下を潜れというのか・・・??」
しかし、これは調べればすぐにわかることで、口実に利用されただけです。

本当の理由は・・・??

②利休の着服
利休は当時、自ら製作した茶道具を売るなどして莫大な財を築いていましたが、これを秀吉側は不正行為としたのです。
無価値なものを高値で売買したり、名物の唐物と交換することは、茶道具の相場をくるませる恐れがある・・・と。
実際、利休を売僧の頂上と悪徳僧だと罵倒する者もいました。
しかし、天下人の茶頭の地位を利用して高値で売り付けていたわけではなく、その利休の茶道具の素晴らしさが人々に認められて高値になっていたのです。

どちらも表向きの理由・・・??

では、切腹させた要因は何だったのでしょうか?

利休切腹の要因①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは大陸進出です。
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり前から予定されていて・・・利休がそれに反対したために、秀吉の怒りに触れたのでは??というのです。
利休が反対していた資料は残っていないものの、堺商人である利休にとって博多の商人が潤うことは争いとなるからです。

利休切腹の要因②石田三成の陰謀
1591年1月・・・利休切腹2か月前のこと・・・利休の絶大な支持者だった秀長が死去・・・。
これによって秀長と利休の政権システムが崩壊・・・。
反利休派の勢力が台頭します。
その反利休派が石田三成を筆頭とする五奉行でした。
太閤検地を担当し、外様大名たちに影響力を持っていた三成が、利休に代わって政権を担うようになったのです。
三成にとって、諸大名と通じている利休は厄介な存在でした。
しかし・・・追い落としたという証拠はありません。
秀長が死んでいなければ、利休は切腹させられていなかったのでは・・・??

利休切腹の要因③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となってから、茶の湯の革新に取り組んでいます。
それまで大名たちが有難がっていた高価な唐物の茶器ではなく、身近な雑器を見出していったのです。
さらに、自らの理想を追求する為に、職人に命じて茶器を作成。
「利休好み」という茶道具を生み出すなど、侘茶を大成させていきます。
これに対し、黄金の茶室など秀吉は派手好み・・・
二人は合わなくなり、利休は切腹させられた・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計です。僅か三畳のその中には、利休の侘びの精神が詰まっていたといいます。

真の理由とは・・・躙り口??
躙り口は、誰もが身を屈んで頭を下げて入らなけれbなりません。
武士は刀も邪魔になるので、外に置いていかなければなりません。
これは、茶室は誰もが平等を表しているのですが・・・。
僅か2畳のまで膝を突き合わせるほどの狭い空間こそが、侘びの精神の舞台だと考えました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
その間に大きな溝ができたのは、1590年小田原討伐が終わった頃からでした。
秀吉の考えが変わったのです。
この頃から秀吉は身分制度の確立を考えるようになってきていました。
下剋上を凍結させようという目的があったのです。
そこに、平等を唱える利休は邪魔な存在となっていました。
そしてこの頃から、堺の商人も没落し、堺の役目も終わっていっていました。
秀吉が新しい社会秩序を建てるのに、最も目障りだったのが利休だったのです。

ついにその日が訪れました。
2月28日・・・
利休は、京の自宅で切腹を見届けるために来た武士と人生最後の茶の湯を催し、介錯人を頼んだ弟子にこう告げます。
「すぐには介錯するな。
 手を挙げたときに首を討て!!」
表では雷鳴が轟いていました。
秀吉の怒りか・・・利休の悔しさか・・・!!
そして、利休は腹を十文字に切ると腸を引き出し、そこでようやく首を討たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔・・・しかし、北政所がとりなして切腹となったのです。
秀吉は持ち込まれた首を見ることもなく、京の一条戻橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると山門の木像の足で踏みつけるようにしてさらし者にしたといいます。
あまりにもひどい仕打ちでした。

しかし、秀吉はこの後、大政所に手紙を書いています。
「昨日利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
4年後に、利休の子孫に千家再興を許可しています。
利休の死を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、そして政治家でもあった千利休・・・
波乱に満ちた70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた”侘びの美”・・・その日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。

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雷鳴とどろく京の町・・・1591年2月28日、ひとりの茶人が切腹して果てます。
茶聖と謳われた千利休です。
その首は、橋のたもとに置かれ、無残にも木像の足で踏みつけられるようにして晒しものにされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉!!

しかし、もともと利休を寵愛していたのは秀吉でした。
どうして秀吉は利休に近づいたのでしょうか??

1522年、堺の魚問屋の長男として生まれた千利休。
幼名は与四郎。。。父・与兵衛は、海産物の取引をする傍ら、所有していた倉庫を貸し付けることで財を成した堺きっての豪商でした。
しかし、千家は武家で・・・祖父・千阿弥は、室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行でした。そんな祖父のセンスを引き継いだのかもしれません。


利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で反映し、戦国大名の武力に頼らず「町衆」という有力商人たちが自ら治めていました。
そんな町衆の間で流行っていたのが茶の湯。。。
社交や商談の際には欠かせませんでした。
そして・・・そこで、豪商たちは名物と呼ばれた中国の高価な茶道具を手に入れるようになります。
商人の子・利休もまた、茶の湯に親しみ、19歳の時に当代第一の茶人・武野紹鴎に弟子入りします。
さらに、茶の心に通じるとして南宗寺で禅宗を学び、宗易という名をもらいました。

1540年父が亡くなり、家督と商売を継いだ利休・・・
商人として生きることとなります。
堺の豪商たちと、茶会で交流を深めます。
茶人として、商人としての地位を確立し、政治・経済・文化を問わずして人脈を広めていきました。

1568年47歳の時・・・天下布武をかかげた織田信長が大軍を率いて美濃から上洛!!
15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目を付けたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫(1000憶)を献金するように命じました。
堺には富だけでなく、他にも魅力がありました。
鉄砲の産地を抑えること・・・
民衆たちの自治的なものを抑えること・・・
そこで信長は、当時堺で流行していた文化・・・茶の湯に目をつけます。
町人でもあり、茶人でもある今井宗久、津田宗及・・・そして千利休。。。
信長の三番手の茶頭となった利休・・・3000石という破格で抱えられました。

しかし、利休61歳の時、本能寺の変!!
信長の死から10日余り、謀反人・明智光秀を討つことで・・・天下取りの第一歩を踏み出した秀吉が近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き政務を行っていた秀吉は、そこで茶室を作り、茶会を開こうとします。
利休はその時の気持ちを・・・
「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している」としています。
信長の三番手の茶頭だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのでした。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の名品を堺の商人から買い上げて、武功を揚げた家臣に与えて人心を掌握し、強い主従関係を築いていたのです。
土地には限りがあるのであげ続けることはできない・・・その代わりに茶道具を・・・!!と、信長は思っていたのです。
手柄を立てたものに、茶会を開く権利を与える・・・「茶湯御政道」を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、茶室が政治の場となっていきました。

そのやり方を、秀吉は継承したのです。

さらに、秀吉は利休の情報力を必要としていました。
堺の商人には情報が詰まっていました。
貸し倉庫業の利休の下には、全国のたくさんの情報が入ってきたといいます。

利休、半年後の手紙には・・・
「秀吉公が只今山崎から大坂にうつられたため、細々とお見舞いを申し上げなければならないので、堺には申し訳ないが、われながらおかしいくらい浮き浮きした気持ちでいる」と、書いています。
そして、その秀吉の天下取りに大いに貢献していくのです。

1584年3月・・・秀吉は、敵対する織田信雄と徳川家康との同盟軍との戦に臨みます。
小牧長久手の戦いです。
この時利休は、京や堺から戦場の秀吉と書状を交換し、周りに支持を出しています。
また、秀吉が大坂城に戻ってから、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り合い、秀吉に戦況を伝えました。
右近と織部とは、茶を通じて師と仰がれていました。

利休は、茶人ネットワークを駆使し、情報集めに奔走します。
秀吉の信頼を勝ち取っていきます。
利休は、茶頭は権力者の後ろ盾が必要だと思っていたのです。
そして、地位の向上も・・・!!
まさに、運命共同体となっていきました。

1585年、秀吉が関白に就任!!
姓を豊臣と改め、本格的な政権をスタートさせます。
すると秀吉は、利休を弟・秀長と同じく側近に!!
利休64歳の時でした。

1586年4月・・・秀吉のもとに一人の武将が・・・豊後・大友宗麟です。
九州で勢力を強めてきた島津義久の侵攻に脅かされていると、秀吉に助けを求めて大坂城にやってきました。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々の事は宗易(利休)に、公儀の事は宰相(秀長)が存じておるため悪いことはないはずだ」
豊臣政権では、外交が秀長、内政は利休となっていました。
実際に大坂城で利休とあった宗麟は、その格別の権限に驚いたといいます。

利休は、どうしてそれほどまでに力を持ったのでしょうか?
そのカギを握っていたのは秀長。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を超える所領を持つ大名でした。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取仕切っていました。
そこに近づいてきた利休・・・郡山城に相当な金銭が蓄えられており、そのお金は利休の援助だったともいわれています。
秀長と親密な関係をもって、豊臣政権の中枢に食い込んでいった利休・・・
温厚で人望のある秀長は、利休のよき理解者で、秀吉との間の緩衝材となり、利休は自分の意見を主張することが出来たのです。
もう一つ、秀長に取り入った理由は・・・??
当時、秀吉には子がおらず、跡継ぎは秀次?でしたが、まだ秀長にも可能性は残っていました。
秀長に接近したには、秀吉死後の自らの地位を確保するためだったのです。

政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を身に着けた利休・・・。
農民出身といわれる秀吉は、権威づけのために官位を利用しようと朝廷に近づきます。
1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭である利休に茶を点てさせようとしました。
しかし。。。問題が・・・利休は、一介の町人だったので、禁中に入ることが出来なかったのです。
そこで利休は考えます。
「僧侶になろう!!」
そしてこの時、天皇から授かった号が、利休居士でした。
この時、64歳!!千利休の誕生でした。
宮中に招かれた天下人・秀吉の茶頭・・・絶大な影響力を持つようになり・・・
茶器の値段は、利休がつけるとまで言われました。
茶の判断が、利休の判断となっていきます。
茶席で利休のお眼鏡にかなうかどうか・・・それが、武将たちの出世にも影響したといいます。

おまけに、茶会=今の料亭のような場所になっていきます。
利休は常に政治の裏工作を知っていた・・・ということになっていきます。
利休の力、恐るべし!!

京都にある北野天満宮・・・1587年10月1日、ここで秀吉主宰の「北野大茶湯」がされることとなります。
茶会開催に先立ち、京都・奈良・堺などでは・・・
「10月1日から10日間の日程で、北野社で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問」
この時、身分の隔てなく平等に参加を許したのは・・・6月に九州平定が行われたので、武士や公家だけの支配者階級だけではなく、一般庶民まで秀吉によって平和になったことを広く知らしめるためでした。

秀吉が天下人であることを示す大事なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す書状を書き・・・茶会成功に力を注ぎます。
利休の取仕切った北野大茶会の全貌とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂から運ばれます。
さらに、800ともいわれる茶席がたち、1000人を超える人が訪れたといいます。

大成功を収めた大茶湯・・・豊臣政権の安定を印象付けます。
その立役者・利休を株をあげます。

寵愛された利休・・・どうして秀吉の逆鱗に触れたのでしょうか?
1591年2月13日・・・利休は秀吉から、突然京を出て、堺で謹慎せよと命じられます。
北政所が利休に密使を遣わします。
「関白様によく謝罪をするように!!」
しかし、利休は拒みます。
そして・・・淀川を渡り堺に帰ってしまいました。
どうして頭を下げに来ないのか・・・??秀吉は怒り狂います。
2月26日・・・京へ戻るよう利休に命じます。
3000もの上杉の軍勢に利休の屋敷を囲ませ逃げないようにさせます。
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉の言い分は二つ・・・

一つは一体の木像でした。
京都・大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺です。
北野大茶湯ののち・・・利休は自費で山門を寄進します。
その壮麗なたたずまいから、当時の利休の財力が伺えます。
この利休の寄進に感謝した大徳寺はお礼に、門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし・・・その木像が問題となります。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れます。
「門をくぐるたびに、利休の足の下をくぐれというのか!!」
これは調べれば、利休がやったことではないとすぐにわかるので、切腹の口実に過ぎないと思われます。

もう一つは、利休の着服。
利休は、当時、自らが制作した茶器を売って、莫大な利益を得ていました。
秀吉側はこれを不正行為としたのです。
無価値なものを高値で取引し、唐物の茶器と交換するなど・・・相場が崩れてしまいます。
しかし、利休が天下人の茶頭を利用して高値で売っていたのではなく、利休の茶道具の素晴らしさが人に認められた結果でした。

どちらも表向きの理由と考えられます。
その真相・・・本当の要因は・・・??

①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは、大陸進出!!
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり以前から考えられていたようです。
その朝鮮出兵に反対したために秀吉の怒りを買ったのでは??
史料は残っていません。が、堺商人の利休としては、博多の商人が潤うのは・・・許しがたかったのかも・・・??

②秀長の死
1591年1月・・・利休の絶大な支持者だった秀長がこの世を去ります。
これによって秀長と利休による政権システムが崩壊し、反利休勢力が・・・!!
石田三成を筆頭とする五奉行です。
太閤検地をし、外様大名たちにも大きな影響力をもっていた三成が、政権を担うようになっていきます。
三成としては、利休は煙たかったかもしれませんが・・・バックには秀吉がついていたでしょう。
もし、秀長が死んでいなければ、利休の切腹はなかったかもしれません。

③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となった60歳を過ぎた頃から、茶の湯の革新に取り組みます。
それまで大名たちがありがたがっていた高価な唐物ではなく、近くにある雑器に美を見出していきます。
”利休好み”の茶器を生んで、”侘び茶”を大成させていきます。
これに対し、秀吉は”派手好み”という趣味の違い・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計で、僅か三畳には利休の詫びの精神が盛り込まれていたといいます。
問題だったのは趣味の違いでなく・・・躙り口にありました。
誰もが身をかがめ、頭を下げて入らなければなりません。
もちろん、武士は刀が邪魔になるので、外に置いておかなければなりません。
利休は小さな脇差でも外に置いておかせたといいます。
”茶室の中では誰もが平等”僅か二畳の中でひざを突き合わせ侘茶の精神を作る舞台装置だと考えていました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
二人の間に大きな溝が出来たのは、1590年の小田原討伐が終わったころからでした。
秀吉の考えが変わったのです。
身分制度を確立しようとしていたようです。
4年前の北野大茶会では、身分を問わずと言っていたのに・・・!!

利休の茶席での平等は、秀吉にはなかったという事でしょうか??
下剋上を凍結させるために、士農工商を確立させようとした・・・つまり、平等を謳う利休が邪魔になってきたのでした。

堺の商人上がりの茶人たちも没落していきます。
これは、堺の商人たちの必要性が無くなってきたことを示していました。
利休も同じ運命・・・??
秀吉の新しい社会秩序に最も目障りだったのが、利休だったのです。

遂にその日が訪れます。
2月28日・・・切腹を見届けに来た武士たちと最後の茶の湯を楽しみ、介錯人を願った弟子に・・・
「すぐには解釈するな、手を挙げたときに首を打て!!」
表では雷鳴がとどろいていました。

利休は腹を十文字に切ると、裂いた腹からはらわたを引き出し、そこでようやく首を打たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔が常識だった・・・しかし、大政所、北政所がとりなして、切腹となりました。
秀吉は持ち込まれた利休の首を見ることもせず・・・
京の橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると、あの山門の木像の足で踏ませるようにして晒しものにしたといいます。

あまりにもひどい仕打ち・・・そこまでしなければならなかったのか・・・??
しかし、この後秀吉は大政所に手紙を書いています。
「昨日、利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
さらに4年後には、利休の子孫に千家の再興を許可しています。
利休の処罰を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、政治家でもあった利休・・・70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた侘びの美は、日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。



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