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タグ:大友宗麟

ペンブックス6 千利休の功罪。 (Pen BOOKS)

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雷鳴轟く京の町で・・・1591年2月28日、一人の茶人が切腹して果てます。
茶聖と称えられた千利休です。
その首は橋のたもとに置かれ、無残にも木造の足で踏みつけられるようにさらし者にされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉です。
しかし、もともと利休を寵愛したのは秀吉でした。

1522年、千利休は堺の魚屋の長男として生まれます。
幼名は与四郎といい、父・与兵衛は海産物の取引をする傍ら、倉庫を貸し付けることで財を成した堺屈指の豪商でした。
しかし、もともと千家は武家で、祖父は室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行で、利休の心理眼はこの祖父を受け継いだものかもしれません。
利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で繁栄・・・戦国大名の力に頼らず、町衆という商人たちが自ら治める独自の統治体制を形成していました。
その町衆の中で流行していたのが茶の湯でした。
社交や商談の際に必要な素養の一つだったのです。
そこで、交易で巨万の富を築いた商人たちは、「名物」と呼ばれた中国の高価な茶道具を買いあさるようになります。
商人の子・利休も、幼いころから茶の湯を嗜み、19歳の時には当代随一の茶人・武野紹鴎の弟子となり茶の世界に没頭。
更には、茶の心に通じるとして南禅寺で禅を学び、宗易という名をもらいます。
1540年父が死去・・・家督と家業を継いだ利休は、商人としても生きることとなるのです。
利休は、堺の豪商たちと頻繁に茶会をし、交流を深めます。
それによって、地位を固め、政治経済、文化を問わず、人脈を広げていきます。

そんな利休に大きな転機が訪れたのは・・・1568年47歳の時でした。
天下布武を掲げた織田信長が、美濃から上洛!!15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目をつけたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫・・・今のお金にして500億とも1000億ともいわれる金額を献金するように命じます。
堺には、冨だけでなく他にも魅力がありました。
鉄砲の産地だったのです。
町衆の自治が盛んなので、自治的な部分を押さえたかったのもあります。
この堺とのパイプを強固なものにするために、茶の湯を・・・!!
商人でもあり、茶人でも名を馳せていた今井宗久・津田宗及・・・三番手として千利休を「茶頭」に起用しました。
信長は利休を茶頭として3000石で抱えます。
それだけ茶人がキーマンだったのです。

しかし、1582年、利休が61歳の時、運命を大きく変える事件が起きます。
本能寺の変です。
天下取り目前で、織田信長が命を落としてしまいました。
信長の死から10日余り・・・山崎の合戦にて、豊臣秀吉が謀反人・明智光秀を討ち取ります。
これによって、天下取りの第一歩となった秀吉が、直後に近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き、政務を行っていた秀吉は、そこに茶室を作って利休に茶会を催すことを命じます。
利休はその時の心のうちを、茶人仲間に宛てた手紙に書いています。

「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している。」

こうして、信長の三番手だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのです。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??

①信長の継承
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の銘品を、堺の町衆から強制的に買い上げ、武功をあげた家臣たちの恩賞にすることで、人心を掌握し、強い主従関係を築くことに役立てていました。
土地をもらうのが一番の恩賞でしたが、あげ続けることはできません。
土地の代わりに茶道具うを与えたのです。
そして、手柄を立てたものに茶会を開く権利を与えるという茶道御政道を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、いつしか茶室は政治の場となっていきました。
そのやり方を秀吉は継承したのです。
そして、秀吉は、利休を筆頭茶頭に格上げしてまで取り組みたい理由がありました。

②情報力
3人の茶頭は、堺の商人です。
堺には情報が集まってきました。
家業が貸倉庫業だったので、利休のもとには、全国の情報が集まってきていたのです。

1584年3月、秀吉は敵対する勢力織田信雄・徳川家康軍と戦います。
小牧長久手の戦いです。
この時、利休は、京や堺から頻繁に戦場の秀吉と書状を交換し、秀吉の支持を周囲に伝える役目をしています。
また、秀吉が大坂城に戻ってからは、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り、秀吉に戦況を伝えます。
右近と織部とは、茶の湯を通じて交流があり、利休は師と仰がれていました。
利休はこうした茶人ネットワークを使って、戦が終わるまで情報集めに奔走。
秀吉の天下取りに貢献することで信頼を勝ち取っていくのです。
どうしてそこまで一生懸命になったのか・・・??
茶頭は、権力者の後ろ盾が必要だったからです。
二人は運命共同体だったのです。

1585年、秀吉が関白に就任。
姓を豊臣と改め、本格的に自らの政権をスタート支えます。
すると、秀吉は、弟・秀長と同じく利休を側近とします。
利休64歳の時でした。

1586年4月、秀吉のもとへ一人の武将が訪れます。
豊後の大友宗麟です。
九州で勢力を伸ばす島津義久の侵略に脅かされていると助けを求めて大坂城へとやってきたのです。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々のことは宗易に、公儀のことは宰相がすでに存じておるため悪いことはないはず・・・」by秀長
豊臣政権では、外交は秀長が、内政は利休がすべて任されていました。

利休は、どうしてこれほどまでに権力を持っていたのでしょうか?
そのカギは秀吉の弟・秀長にありました。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を所有していました。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取り仕切っていました。
その秀長に利休は近づきます。
一説には、大和にあった秀長の郡山城には、相当な金銭が蓄えられたと・・・それは、利休が相当な経済援助をしたからだ・・・とも言われています。
秀長と親密な関係を結び、政権の中枢に入り込んだ利休・・・。
温厚で人望の厚い秀長は、利休の良き理解者で、秀吉との緩衝材にもなりました。
そのため、利休は、関白・秀吉にまで意見のできる力を持つことができたのです。
さらに、利休には秀長に取り入ったもう一つの理由がありました。

秀吉は、この当時まだ子供がおらず、甥の秀次を後継者としていました。
利休の秀長への接近は、秀吉死後の自らの地位を確立するためだったのです。
政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を手に入れた利休でした。

農民出身と言われる秀吉は、天皇の威光を利用しようと朝廷に接近します。
そして、1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭の利休に取り仕切らせるつもりでした。
しかし、問題が・・・利休は一介の町人で、官位がなかったため、禁中に入ることができなかったのです。
そこで、利休は僧侶になることを考えます。
僧侶ならば、身分に関係なく禁中に入ることができました。
そして、利休居士となるのです。
この時64歳、千利休の誕生です。

北野天満宮・・・
1587年10月1日、ここで、北野大茶湯が行われることとなりました。
茶会開催に先立ち、京、奈良、堺などに高札が立てられます。

”10月1日から10日間の日程で、北野杜で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り、拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問”

この時、秀吉が身分の隔てなく平等に参加を許した理由は・・・
平和の世になった・・・武士、公家などの支配者階級だけでなく、一般庶民まで平和になったことを広く知らしめようとしたのです。
秀吉が天下人であるということを知らしめる重要なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す手紙を書くなど、茶会成功に尽力します。
利休の取り仕切った北野大茶湯とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂城から運び込まれます。
800の茶席が設けられ、訪れた客は1000人を超えたと言われています。

世紀の大茶会から4年・・・秀吉と利休の蜜月は終わりを告げます。
1591年2月13日、利休は秀吉から突如言い渡されます。
「京を出て堺で謹慎せよ!!」と。
すると、秀吉の正室・北政所らが利休のもとに密使を遣わし、真意を伝えます。
関白様に謝罪をするように・・・しかし、利休は頑なに謝罪することなく淀川を下って堺に帰ってしまいました。
これにたいして怒りが頂点に達した秀吉は、2月26日、京に戻るように利休に命じ、3000もの上杉の軍勢で屋敷を取り囲み、利休を逃げないようにし・・・
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉側の言い分は二つ。
その一つは、たった一体の木像でした。

①利休の木像 
京都大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺でもあります。北野大茶湯の後、利休は大徳寺に自費を投じて山門を寄進しました。
その壮麗な佇まいから、利休の当時の財力が伺えます。
山門は金毛閣と名付けられました。
この山門の寄進に感謝した大徳寺は、山門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし、その木造が問題となったのです。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れた・・・??
「山門の下を通るたびに、利休の足の下を潜れというのか・・・??」
しかし、これは調べればすぐにわかることで、口実に利用されただけです。

本当の理由は・・・??

②利休の着服
利休は当時、自ら製作した茶道具を売るなどして莫大な財を築いていましたが、これを秀吉側は不正行為としたのです。
無価値なものを高値で売買したり、名物の唐物と交換することは、茶道具の相場をくるませる恐れがある・・・と。
実際、利休を売僧の頂上と悪徳僧だと罵倒する者もいました。
しかし、天下人の茶頭の地位を利用して高値で売り付けていたわけではなく、その利休の茶道具の素晴らしさが人々に認められて高値になっていたのです。

どちらも表向きの理由・・・??

では、切腹させた要因は何だったのでしょうか?

利休切腹の要因①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは大陸進出です。
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり前から予定されていて・・・利休がそれに反対したために、秀吉の怒りに触れたのでは??というのです。
利休が反対していた資料は残っていないものの、堺商人である利休にとって博多の商人が潤うことは争いとなるからです。

利休切腹の要因②石田三成の陰謀
1591年1月・・・利休切腹2か月前のこと・・・利休の絶大な支持者だった秀長が死去・・・。
これによって秀長と利休の政権システムが崩壊・・・。
反利休派の勢力が台頭します。
その反利休派が石田三成を筆頭とする五奉行でした。
太閤検地を担当し、外様大名たちに影響力を持っていた三成が、利休に代わって政権を担うようになったのです。
三成にとって、諸大名と通じている利休は厄介な存在でした。
しかし・・・追い落としたという証拠はありません。
秀長が死んでいなければ、利休は切腹させられていなかったのでは・・・??

利休切腹の要因③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となってから、茶の湯の革新に取り組んでいます。
それまで大名たちが有難がっていた高価な唐物の茶器ではなく、身近な雑器を見出していったのです。
さらに、自らの理想を追求する為に、職人に命じて茶器を作成。
「利休好み」という茶道具を生み出すなど、侘茶を大成させていきます。
これに対し、黄金の茶室など秀吉は派手好み・・・
二人は合わなくなり、利休は切腹させられた・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計です。僅か三畳のその中には、利休の侘びの精神が詰まっていたといいます。

真の理由とは・・・躙り口??
躙り口は、誰もが身を屈んで頭を下げて入らなけれbなりません。
武士は刀も邪魔になるので、外に置いていかなければなりません。
これは、茶室は誰もが平等を表しているのですが・・・。
僅か2畳のまで膝を突き合わせるほどの狭い空間こそが、侘びの精神の舞台だと考えました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
その間に大きな溝ができたのは、1590年小田原討伐が終わった頃からでした。
秀吉の考えが変わったのです。
この頃から秀吉は身分制度の確立を考えるようになってきていました。
下剋上を凍結させようという目的があったのです。
そこに、平等を唱える利休は邪魔な存在となっていました。
そしてこの頃から、堺の商人も没落し、堺の役目も終わっていっていました。
秀吉が新しい社会秩序を建てるのに、最も目障りだったのが利休だったのです。

ついにその日が訪れました。
2月28日・・・
利休は、京の自宅で切腹を見届けるために来た武士と人生最後の茶の湯を催し、介錯人を頼んだ弟子にこう告げます。
「すぐには介錯するな。
 手を挙げたときに首を討て!!」
表では雷鳴が轟いていました。
秀吉の怒りか・・・利休の悔しさか・・・!!
そして、利休は腹を十文字に切ると腸を引き出し、そこでようやく首を討たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔・・・しかし、北政所がとりなして切腹となったのです。
秀吉は持ち込まれた首を見ることもなく、京の一条戻橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると山門の木像の足で踏みつけるようにしてさらし者にしたといいます。
あまりにもひどい仕打ちでした。

しかし、秀吉はこの後、大政所に手紙を書いています。
「昨日利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
4年後に、利休の子孫に千家再興を許可しています。
利休の死を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、そして政治家でもあった千利休・・・
波乱に満ちた70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた”侘びの美”・・・その日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。

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雷鳴とどろく京の町・・・1591年2月28日、ひとりの茶人が切腹して果てます。
茶聖と謳われた千利休です。
その首は、橋のたもとに置かれ、無残にも木像の足で踏みつけられるようにして晒しものにされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉!!

しかし、もともと利休を寵愛していたのは秀吉でした。
どうして秀吉は利休に近づいたのでしょうか??

1522年、堺の魚問屋の長男として生まれた千利休。
幼名は与四郎。。。父・与兵衛は、海産物の取引をする傍ら、所有していた倉庫を貸し付けることで財を成した堺きっての豪商でした。
しかし、千家は武家で・・・祖父・千阿弥は、室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行でした。そんな祖父のセンスを引き継いだのかもしれません。


利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で反映し、戦国大名の武力に頼らず「町衆」という有力商人たちが自ら治めていました。
そんな町衆の間で流行っていたのが茶の湯。。。
社交や商談の際には欠かせませんでした。
そして・・・そこで、豪商たちは名物と呼ばれた中国の高価な茶道具を手に入れるようになります。
商人の子・利休もまた、茶の湯に親しみ、19歳の時に当代第一の茶人・武野紹鴎に弟子入りします。
さらに、茶の心に通じるとして南宗寺で禅宗を学び、宗易という名をもらいました。

1540年父が亡くなり、家督と商売を継いだ利休・・・
商人として生きることとなります。
堺の豪商たちと、茶会で交流を深めます。
茶人として、商人としての地位を確立し、政治・経済・文化を問わずして人脈を広めていきました。

1568年47歳の時・・・天下布武をかかげた織田信長が大軍を率いて美濃から上洛!!
15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目を付けたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫(1000憶)を献金するように命じました。
堺には富だけでなく、他にも魅力がありました。
鉄砲の産地を抑えること・・・
民衆たちの自治的なものを抑えること・・・
そこで信長は、当時堺で流行していた文化・・・茶の湯に目をつけます。
町人でもあり、茶人でもある今井宗久、津田宗及・・・そして千利休。。。
信長の三番手の茶頭となった利休・・・3000石という破格で抱えられました。

しかし、利休61歳の時、本能寺の変!!
信長の死から10日余り、謀反人・明智光秀を討つことで・・・天下取りの第一歩を踏み出した秀吉が近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き政務を行っていた秀吉は、そこで茶室を作り、茶会を開こうとします。
利休はその時の気持ちを・・・
「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している」としています。
信長の三番手の茶頭だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのでした。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の名品を堺の商人から買い上げて、武功を揚げた家臣に与えて人心を掌握し、強い主従関係を築いていたのです。
土地には限りがあるのであげ続けることはできない・・・その代わりに茶道具を・・・!!と、信長は思っていたのです。
手柄を立てたものに、茶会を開く権利を与える・・・「茶湯御政道」を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、茶室が政治の場となっていきました。

そのやり方を、秀吉は継承したのです。

さらに、秀吉は利休の情報力を必要としていました。
堺の商人には情報が詰まっていました。
貸し倉庫業の利休の下には、全国のたくさんの情報が入ってきたといいます。

利休、半年後の手紙には・・・
「秀吉公が只今山崎から大坂にうつられたため、細々とお見舞いを申し上げなければならないので、堺には申し訳ないが、われながらおかしいくらい浮き浮きした気持ちでいる」と、書いています。
そして、その秀吉の天下取りに大いに貢献していくのです。

1584年3月・・・秀吉は、敵対する織田信雄と徳川家康との同盟軍との戦に臨みます。
小牧長久手の戦いです。
この時利休は、京や堺から戦場の秀吉と書状を交換し、周りに支持を出しています。
また、秀吉が大坂城に戻ってから、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り合い、秀吉に戦況を伝えました。
右近と織部とは、茶を通じて師と仰がれていました。

利休は、茶人ネットワークを駆使し、情報集めに奔走します。
秀吉の信頼を勝ち取っていきます。
利休は、茶頭は権力者の後ろ盾が必要だと思っていたのです。
そして、地位の向上も・・・!!
まさに、運命共同体となっていきました。

1585年、秀吉が関白に就任!!
姓を豊臣と改め、本格的な政権をスタートさせます。
すると秀吉は、利休を弟・秀長と同じく側近に!!
利休64歳の時でした。

1586年4月・・・秀吉のもとに一人の武将が・・・豊後・大友宗麟です。
九州で勢力を強めてきた島津義久の侵攻に脅かされていると、秀吉に助けを求めて大坂城にやってきました。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々の事は宗易(利休)に、公儀の事は宰相(秀長)が存じておるため悪いことはないはずだ」
豊臣政権では、外交が秀長、内政は利休となっていました。
実際に大坂城で利休とあった宗麟は、その格別の権限に驚いたといいます。

利休は、どうしてそれほどまでに力を持ったのでしょうか?
そのカギを握っていたのは秀長。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を超える所領を持つ大名でした。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取仕切っていました。
そこに近づいてきた利休・・・郡山城に相当な金銭が蓄えられており、そのお金は利休の援助だったともいわれています。
秀長と親密な関係をもって、豊臣政権の中枢に食い込んでいった利休・・・
温厚で人望のある秀長は、利休のよき理解者で、秀吉との間の緩衝材となり、利休は自分の意見を主張することが出来たのです。
もう一つ、秀長に取り入った理由は・・・??
当時、秀吉には子がおらず、跡継ぎは秀次?でしたが、まだ秀長にも可能性は残っていました。
秀長に接近したには、秀吉死後の自らの地位を確保するためだったのです。

政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を身に着けた利休・・・。
農民出身といわれる秀吉は、権威づけのために官位を利用しようと朝廷に近づきます。
1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭である利休に茶を点てさせようとしました。
しかし。。。問題が・・・利休は、一介の町人だったので、禁中に入ることが出来なかったのです。
そこで利休は考えます。
「僧侶になろう!!」
そしてこの時、天皇から授かった号が、利休居士でした。
この時、64歳!!千利休の誕生でした。
宮中に招かれた天下人・秀吉の茶頭・・・絶大な影響力を持つようになり・・・
茶器の値段は、利休がつけるとまで言われました。
茶の判断が、利休の判断となっていきます。
茶席で利休のお眼鏡にかなうかどうか・・・それが、武将たちの出世にも影響したといいます。

おまけに、茶会=今の料亭のような場所になっていきます。
利休は常に政治の裏工作を知っていた・・・ということになっていきます。
利休の力、恐るべし!!

京都にある北野天満宮・・・1587年10月1日、ここで秀吉主宰の「北野大茶湯」がされることとなります。
茶会開催に先立ち、京都・奈良・堺などでは・・・
「10月1日から10日間の日程で、北野社で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問」
この時、身分の隔てなく平等に参加を許したのは・・・6月に九州平定が行われたので、武士や公家だけの支配者階級だけではなく、一般庶民まで秀吉によって平和になったことを広く知らしめるためでした。

秀吉が天下人であることを示す大事なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す書状を書き・・・茶会成功に力を注ぎます。
利休の取仕切った北野大茶会の全貌とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂から運ばれます。
さらに、800ともいわれる茶席がたち、1000人を超える人が訪れたといいます。

大成功を収めた大茶湯・・・豊臣政権の安定を印象付けます。
その立役者・利休を株をあげます。

寵愛された利休・・・どうして秀吉の逆鱗に触れたのでしょうか?
1591年2月13日・・・利休は秀吉から、突然京を出て、堺で謹慎せよと命じられます。
北政所が利休に密使を遣わします。
「関白様によく謝罪をするように!!」
しかし、利休は拒みます。
そして・・・淀川を渡り堺に帰ってしまいました。
どうして頭を下げに来ないのか・・・??秀吉は怒り狂います。
2月26日・・・京へ戻るよう利休に命じます。
3000もの上杉の軍勢に利休の屋敷を囲ませ逃げないようにさせます。
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉の言い分は二つ・・・

一つは一体の木像でした。
京都・大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺です。
北野大茶湯ののち・・・利休は自費で山門を寄進します。
その壮麗なたたずまいから、当時の利休の財力が伺えます。
この利休の寄進に感謝した大徳寺はお礼に、門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし・・・その木像が問題となります。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れます。
「門をくぐるたびに、利休の足の下をくぐれというのか!!」
これは調べれば、利休がやったことではないとすぐにわかるので、切腹の口実に過ぎないと思われます。

もう一つは、利休の着服。
利休は、当時、自らが制作した茶器を売って、莫大な利益を得ていました。
秀吉側はこれを不正行為としたのです。
無価値なものを高値で取引し、唐物の茶器と交換するなど・・・相場が崩れてしまいます。
しかし、利休が天下人の茶頭を利用して高値で売っていたのではなく、利休の茶道具の素晴らしさが人に認められた結果でした。

どちらも表向きの理由と考えられます。
その真相・・・本当の要因は・・・??

①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは、大陸進出!!
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり以前から考えられていたようです。
その朝鮮出兵に反対したために秀吉の怒りを買ったのでは??
史料は残っていません。が、堺商人の利休としては、博多の商人が潤うのは・・・許しがたかったのかも・・・??

②秀長の死
1591年1月・・・利休の絶大な支持者だった秀長がこの世を去ります。
これによって秀長と利休による政権システムが崩壊し、反利休勢力が・・・!!
石田三成を筆頭とする五奉行です。
太閤検地をし、外様大名たちにも大きな影響力をもっていた三成が、政権を担うようになっていきます。
三成としては、利休は煙たかったかもしれませんが・・・バックには秀吉がついていたでしょう。
もし、秀長が死んでいなければ、利休の切腹はなかったかもしれません。

③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となった60歳を過ぎた頃から、茶の湯の革新に取り組みます。
それまで大名たちがありがたがっていた高価な唐物ではなく、近くにある雑器に美を見出していきます。
”利休好み”の茶器を生んで、”侘び茶”を大成させていきます。
これに対し、秀吉は”派手好み”という趣味の違い・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計で、僅か三畳には利休の詫びの精神が盛り込まれていたといいます。
問題だったのは趣味の違いでなく・・・躙り口にありました。
誰もが身をかがめ、頭を下げて入らなければなりません。
もちろん、武士は刀が邪魔になるので、外に置いておかなければなりません。
利休は小さな脇差でも外に置いておかせたといいます。
”茶室の中では誰もが平等”僅か二畳の中でひざを突き合わせ侘茶の精神を作る舞台装置だと考えていました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
二人の間に大きな溝が出来たのは、1590年の小田原討伐が終わったころからでした。
秀吉の考えが変わったのです。
身分制度を確立しようとしていたようです。
4年前の北野大茶会では、身分を問わずと言っていたのに・・・!!

利休の茶席での平等は、秀吉にはなかったという事でしょうか??
下剋上を凍結させるために、士農工商を確立させようとした・・・つまり、平等を謳う利休が邪魔になってきたのでした。

堺の商人上がりの茶人たちも没落していきます。
これは、堺の商人たちの必要性が無くなってきたことを示していました。
利休も同じ運命・・・??
秀吉の新しい社会秩序に最も目障りだったのが、利休だったのです。

遂にその日が訪れます。
2月28日・・・切腹を見届けに来た武士たちと最後の茶の湯を楽しみ、介錯人を願った弟子に・・・
「すぐには解釈するな、手を挙げたときに首を打て!!」
表では雷鳴がとどろいていました。

利休は腹を十文字に切ると、裂いた腹からはらわたを引き出し、そこでようやく首を打たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔が常識だった・・・しかし、大政所、北政所がとりなして、切腹となりました。
秀吉は持ち込まれた利休の首を見ることもせず・・・
京の橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると、あの山門の木像の足で踏ませるようにして晒しものにしたといいます。

あまりにもひどい仕打ち・・・そこまでしなければならなかったのか・・・??
しかし、この後秀吉は大政所に手紙を書いています。
「昨日、利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
さらに4年後には、利休の子孫に千家の再興を許可しています。
利休の処罰を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、政治家でもあった利休・・・70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた侘びの美は、日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。



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未だ・・・殿下に従わぬは九州・薩摩の島津!!

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ほら・・・島津は実はとっても古いお家。。。
源頼朝の頃からある家で・・・幕末までしたたかに生き残るんだから、無理ですよ・・・殿下・・・。

豊後のキリシタン大名・大友宗麟に圧力をかけ始めました。
堪えられなくなった宗麟は、秀吉にすがったのです。

いきなり出てきた大友宗麟ですが・・・前回キリシタン大名となった官兵衛がサポートすることになりました。
キリシタン・・・結構キリシタン大名って多いですよね。
殺し合いをしているのにキリシタンって・・・
キリシタンにおすがりする・・・というのもあるかもしれませんが、当時の大名にとっては南蛮人の持ってくるモノ・情報・・・なんでも欲しいものばかり・・・
あちらは布教のために来ているのだし・・・
お互いの需要と供給があってのキリシタン大名といえます。

あ~、でもこれで当時の状況が分るんだろうか・・・とっても不安。
おまけに、この段になっても前田利家出てません。。。
秀吉の親友なのに~~~
いきなり五大老で出てくるんだろうか。。。


kan6










官兵衛は中国の毛利勢と合流し、九州入りすることになりました。
関白殿下の名代として。。。
そして・・・蜂須賀小六は四国攻めに行く予定。。。
長政は今回の戦いには連れて行ってもらえないようです。

そんな中・・・小六が倒れてしまいました。

kan1


戦の事は忘れて、養生することになりました。



長政に糸のことを頼んで・・・



天正14年(1586年)5月22日この世を去るのでした。


殿下は悲しみのあまり、小六の亡骸に馬乗りになって叩いてます。
そうね・・・小六は秀吉にとって古くからの戦友。。。
だからとっても哀しかったのね。。。

そして・・・古株は・・・
秀長と官兵衛になってしまいました。

ってことは、秀吉には本当にいい家臣がいなかったってことなのね。。。
本当に苦労したと思います。

小六の死によって、四国攻めは・・・一から練り直しとなりました。

家康は石川数正のごたごたで、秀吉まで手が回らない・・・
そこで、度量の大きいところをみせようと、なんと44歳・・・って私と同じじゃないの???
妹・朝日姫を嫁がせようとします。
文献では、佐治日向守⇒副田吉成に嫁いでいた・・・とか言われる朝日姫。
朝日姫は、旦那さんととっても仲が良かったのよね。
なのに、離縁をさせてまでの今回の嫁入りでした。
よ~く考えると、秀長以外の秀吉の親族は、あんまり幸せになっていないと思うのは私だけ??

そんな44の姫をもらうことになった家康。。。
しかし、家康は上洛しません。


でもって九州攻めは・・・??
毛利は全軍(毛利・吉川・小早川)参加が条件でした。
まあ、ここは新参者&中国で最前線の毛利が先頭であるのが常套ですよね。
毛利が降伏した時、領地を殿下にとられてしまっていました。
なので、領地の欲しかった毛利・・・この戦いでいい働きをしたら、伊予を賜りたいと申し出ていました。
やっぱり領地が欲しいのがこの頃の大名!!
頑張って戦おうとしていました。

が・・・吉川元春は??
豊臣から疑われている元春。。。
理由は、高松城攻めのときの抵抗と、賤ヶ岳の戦いのときに柴田勝家と秘密裡に画策していたこと・・・
が・・・毛利としては・・・
高松城のときも、賤ヶ岳の戦いのときも、二つに分かれて家を残す・・・という考えもできるので、一概に毛嫌いしての秀吉に反発ではないような気もしますが・・・
おまけに隠居してしまったとは・・・
秀吉にとっては気にくわないですよね。。。
それって、隠居だけでは許してくれなかったことかなあ。。。


ところで大坂城にやって来た光と糸。
豪華絢爛な大坂城・・・そこには美しい着物が飾ってありました。

「欲しければ持っていくがよい。。。」by茶々
「無礼な・・・!!物もらいではない!!」by糸

って、糸はこんなパターンなのね。。。

おねにおいとまの挨拶をして、国許へ帰っていくのでした。

8月・・・安芸の吉田郡山城では・・・
恵瓊と隆景と軍議中

しかし、支度のできていない毛利軍。。。いろいろ事情があるようで。。。
吉川元春が参加を渋っているみたい。。。
説き伏せるように命じられる隆景。。。

黙り込む恵瓊と隆景。
九郎右衛門が探りを入れると元春はやはり動かない模様。。。
しかし、ただ動かないだけではない??

豊後の大友氏の居城では・・・
官兵衛たち援軍が来るのを首を長くして待っていました。
もう・・・持たない・・・??

官兵衛は、軍を下関にすすめます。
吉川元春はどうして出陣しない??
気概がなく、病に臥せっている???

なので喝を入れるために元春の元へやって来た官兵衛。
元春が来る・・・と偽っての官兵衛参上!!
元春と直接交渉に臨みます。

「命には使い道がござります。
 ここぞという時に使わねばなりませぬ。
 清水宗治殿は己の命の使い時をご存じだった。。。
 
 あのお方は、己の命と引き換えに、幾万の将兵の命をお救いになった!!
 天下のために、命をお使いいただきたい・・・!!」

「今が、このわしの命の使い道だと申すか・・・!?」

「吉川さまの祖のお命・・・この官兵衛に下され!!」

ビシビシと、官兵衛VS元春です

「自分の命の使い方は自分で決める!!」by元春


その頃、大坂城の秀吉・・・。
上洛しない家康に、涙を呑んで、大事な母上・・・大政所を人質として差し出すことを決めるのでした。


九州に出発当日・・・やって来た吉川元春!!

kan3












「そうやすやすとは死ねぬようじゃ・・・
 官兵衛、この命、お主にくれてやる!!」

おお~、この大河では珍しく、少年漫画してます。
10月・・・島津勢と激突!!

カッコいい!!元春!!
さすが武の吉川!!

実の母親を人質に差し出すと言ってきた秀吉に・・・

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「そこまでやるか・・・」by家康
ということで、大坂城へ伺いにやって来た家康。
やっと来た!!って感じのタヌキおやじです。
家康・・・信長・秀吉家康の3人の中で実は一番気が短かったと言われていますが、こんな所がタヌキおやじなんでしょうね。。。

で・・・家康の案内役は長政・・・
kan4












後の舅殿との出会いですね。
ここでまた一つのフラグが立ちました

その頃・・・戦地・豊前小倉城にて・・・吉川元春が死の床についていました。

「わしの命・・・役に立ったか・・・?
 隆景・・・毛利を頼んだぞ・・・。」by元春

あ~、良かったですね。
前回の高松城攻めのときもそうでしたが、毛利の事は結構いい感じに深く書いてくれますね。
ただ・・・やっぱり戦いのシーンなし・・・。

「官兵衛紀行」で小倉城を攻めたこと。
宇留津城が攻めにくく、犬が浅瀬を渡るのを見て、官兵衛が攻め口を発見し落城させたこと・・・
って、これ、ドラマで必要ではないの???

官兵衛の手柄に秀吉は心地よきしだいと伝えています・・・なんて、褒められたんなら、やってくれよ~!!

光&糸&おねのシーンなんて必要だった??
そこ割愛して!!
って、割愛レベルでもないと思うんだけど・・・。
戦って・・・!!

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 山中鹿之助・・・今大河でやっている”軍師官兵衛”では、別所哲也さんがやっていました。
もっとカッコよく、話を膨らませて欲しかったなあ・・・なんて、物足りなさを感じながら。。。

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尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月祈った逸話は有名です。

その山中鹿之助・・・
「尼子十勇士」を集めた智将・山中鹿之介幸盛。
山陰、山陽で「11州の太守」と言われていた尼子氏が、毛利元就に滅ぼされ・・・
再興をかけて十勇士と共に、何度も毛利氏を攻め立てた男です。

尼子氏が滅ぼされたのは、鹿之介が21歳の時。。。
降伏した尼子義久に、元就は切腹を許さず・・・兄弟共々、安芸に幽閉してしまいました。

山伏姿となり、各地を歩き、十勇士を集めた鹿之介・・・
しかし、再興のためには旗印・・・尼子の血を引いた殿が必要だと考えるようになります。
そこで以前、内紛の時に京都に預けられていて僧侶となっていた・・・全盛期の当主・尼子経久の次男の孫を説き伏せ、当時17歳だった彼に尼子孫四郎勝久を名乗らせるのでした。

勝久を当主とし、200の兵を率いて但馬に渡った鹿之介・・・
この地で海賊・奈佐(なこ)日本之介などの見方を得、出雲に上陸しましたが、この時の兵力は6000人を超えていました。

その時・・・尼子のかつての居城月山富田城には300の兵しかいなかったので、毛利方は降伏を願い出ます。

遂にお家再興が・・・!!

と思ったものの・・・謀略長けた毛利の家臣が鹿之介に斬りかかります。
鹿之介は、命からがら逃げのびて、奪還計画は失敗に終わったのです。


でも・・・へこたれません。
次は、毛利と戦っている九州の大友宗麟と結んで挟み撃ちにする作戦に出ます。
この時も、わずか6000の尼子軍は1万5000の毛利軍に敗れてしまいました。
吉川元春に捕えられた鹿之介は、赤痢にかかったと言って何度も厠へ・・・その隙をついて逃げ出したのでした。
その2年後にも挙兵しましたが、やはり失敗してしまいます。

これまで鹿之介を援助してきたのは、毛利と敵対していた織田信長。
毛利を羽柴秀吉に攻めさせたとき、上月城に尼子軍を2300の兵と共に戦わせました。
毛利3万の大軍が上月城に!!

このままでは攻め落とされる!!と、信長に訴える秀吉。。。
しかし、共倒れになることを怖れた信長は、上月城を見放したのです。

鹿之介はまたもや破れてしまいました。

毛利は、勝久が切腹すれば、ほかの者は助けると言うので、26歳の勝久は自害。。。
敵の吉川元春に一太刀浴びせてから後を追う!!と、約束した鹿之助も、安芸に護送される途中で斬りつけられ・・・思いを遂げぬまま34歳でこの世を去りました。

この鹿之介。長男は新六幸元。
1570年生まれの幸元は、山中氏の一族、黒田幸隆の養子でした。
秀吉の攻撃で黒田城が陥落すると摂津国伊丹近くの鴻池村に移り、武士を捨て・・・
商人になることを決意します。
名も鴻池新右衛門直文と改めました。

鴻池では濁酒造りが盛んで。。。
しかし、苦労の末、芳醇な清酒造りに成功します。

この清酒造りに関しては、新右衛門を恨んでいた下男が、腹いせに酒に灰を投げ込んで出来た・・・という伝説まであります。

この清酒を江戸に運んで・・・評判となります。
その後、酒造りを辞め、運送業が主となります。
さらに両替商となった鴻池は、大坂一の豪商となり、やがて銀行業を始めます。
それが三和銀行・・・現在の三菱東京UFJ銀行なのです。

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柳川城は・・・難攻不落の要塞でした。
網の目のように張り巡らされた有明海に続く堀を決壊させ・・・
町中全てを水浸しにし、敵が城下町に入る事すらできないという・・・鉄壁の城でした。

では・・・柳川城は誰のお城???

三柱神社には・・・
柳川にゆかりのある3人の人物が祀られています。
その中にいるのは柳川に君臨した女武将。
戦乱の世にあって女性の殿様がいたのです。

ここに祀られているのは・・・
立花家初代は負けなしの立花道雪。
立花家初代柳川藩主は秀吉に九州一の名勝と謳われた立花宗茂。
最後は道雪の娘でああり宗茂の妻・誾千代。
この誾千代が薙刀使いの名手で女殿さまと呼ばれていたのです。

お家に嫡男が生まれない場合、養子をもらいお家存続が当たり前の時代・・・
道雪は、7歳の娘・誾千代に家督を譲ったのです。
道雪は北九州の覇者・大友宗麟の筆頭家臣でした。
大友家から養子をとるように再三催促があったにもかかわらず・・・
しかし、大友家はお家騒動や内紛があり巻き込まれないためにも・・・養子を受け入れずに娘に家督を譲ったのです。
まさに前代未聞のことでした。

ところが6年後・・・
女城主として大友家に仕えてきた誾千代に天気が訪れます。
大友家のライバル島津家が大友家に攻め込みます。
立花家のピンチ!!
そこを救ったのが立花宗茂です。
戦の達人と呼ばれることとなる15歳の宗茂は、誾千代の婿養子となり家督を譲り受けます。

宗茂が家督を継いでいたとはいえ・・・立花家のことには口出しせず・・・
気は優しくて戦上手の宗茂と女ボス・誾千代の戦国最強の戦う夫婦が誕生しました。
1586年立花城の戦い。。。
遂に九州制覇を目論む島津に包囲されてしまいました。
しかし、一歩も引かず籠城による徹底抗戦!!
女軍を組織し、夫の後方で戦いました。
戦国最強夫婦によって島津は撤退を余儀なくされます。
これによって宗茂は秀吉に、九州一の名将と呼ばれ。。。
大友家の一家臣から柳川城主となり、13万石を拝領することとなるのです。
夫婦で勝ち取った城でした。

歴代の柳河藩主が使用したのが”御花”と呼ばれる別邸で、代々住居としてきました。
現在でも人々に親しまれています。
”金甲”が飾ってあり・・・
それは、戦において無敗を誇った立花宗茂・・・築後の金甲軍団の印でした。

九州随一の強さを誇った立花家。。。
名勝・松濤園があります。
250本もの見事な松が見ものです。

柳川では男の子よりも女の子の誕生を喜ぶ風習が残っており、節句も華やかなのだそうです。
どうして女性がちやほやされるのでしょう???

柳川名物は・・・柳川鍋・・・ドジョウ。
柳川では開いたドジョウを使うそうです。

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日吉神社は・・・
1290年創建、誾千代宗茂夫妻の頃より代々立花家によって祀られてきました。
初節句には”さげもん”でお祝いをします。
これは柳河藩女中が始めたと言われています。
柳河藩11万石・・・城勤めとはいえ、つつましかった女中たち。。。

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お雛様を買うのは入用で・・・しかし、華やかにお祝いしたい母心から古い着物や帯などを使って毬や小物などを作ったと言われています。
今も街を挙げて盛大に柳川雛祭り「さげもんめぐり」が行われます。

他にも柳川名物は・・・?
日本一干潮と満潮の差が激しい有明海。その差は7m。深さ20m浅く、国内最大の干潟を誇っています。
この有明海のおかげでここでしか取れない珍しい魚介類がいます。

女性が元気な城下町、福岡県柳川・・・誾千代から始まったこの町は、逞しく生き生きとした女性のいる素敵な町でした。

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