日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大坂の陣

「日本一の兵(つわもの)」・・・と敵からも称賛された戦国武将・・・
天下人、徳川家康の首まであと一歩と迫った男、真田信繁・・・真田幸村です。
信繁が名を上げたのは、大坂冬の陣!!
最大の激戦地で、彼の作った出城があの”真田丸”でした。

長野県上田市にある眞田神社・・・
真田家代々の武将が祀られています。
ここは、戦国時代、真田家が守り抜いた場所です。
真田は、億差上手で知られる徳川軍の攻撃を二度も退けています。
一体どうやったのか??

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1571年、真田信繁は真田家の次男として生まれます。
父は真田昌幸・・・兄は信之です。
当時、真田家は、武田信玄の配下で、わずかな領地を治めていました。
ところが・・・
1582年、武田家が滅亡。
すると、周辺国の北条、上杉、徳川が、旧武田の領地に勢力を拡大。
昌幸は家を守るためにその時々の有力な大名に忠誠を誓うことで生き残りを図ります。
その為次男の信繁は、上杉景勝をはじめとする有力武将に何回も人質として送り出されました。

信繁の初陣について、後世の軍記物にこう書かれています。

当時真田家が仕えていたのは徳川家康でした。
その徳川は、敵対する北条と和睦、すると、家康は昌幸にこう言いました。

「沼田を北条へ渡せ」by家康

「沼田は、家康より与えられた領地ではない
 アクマで真田が自力で獲得したものだ
 到底、承知できるものではない」by昌幸

家康は、命に背いた真田を討つべく、上田城に攻めてきました。(1585年第1次上田合戦)
立てこもる眞田の兵は2000!!
徳川の兵は7000!

はじめは家康が優勢でした。
徳川の兵は、手柄を立てようと城内になだれ込みます。
それが真田の狙いとも知らずに・・・!!
狭い通りに入ると、隠れていた真田兵が一斉射撃!!
慌てて撤退しようとする徳川軍に対し、別の城に潜んでいた兄・信之が挟み撃ちにしました。
真田は3倍の兵をもろともせずに、徳川軍に勝利し、家康を蹴散らします。

1587年真田家は新しく有力武将を探し、その配下となりました。
豊臣秀吉です。
信繁は、またしても人質となり、秀吉のもとに送られます。
しかし・・・これが幸運をもたらします。
秀吉に気に入られた信繁は、馬廻りに抜擢されます。
24歳の時には、宮中の官位を授かり、大名に取り立てられます。
さらに、豊臣の姓を名乗ることを許されました。
そして、秀吉の重臣・大谷吉継の娘と結婚。
豊臣家の家臣としての地位をゆるぎないものとしました。

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ところが・・・1598年、秀吉が死去。
やがて、秀吉の部下・石田三成と天下を狙う徳川家康が対立。
関ケ原の戦いへと発展します。
石田三成の西軍につくか、それとも徳川家康の東軍につくか・・・判断を間違えれば一族滅亡の危機でした。

1600年7月、栃木県佐野市にある犬伏で、真田家の3人が話し合いをしました。

「我は石田方につこうと思う」by昌幸

信繁もこれに同意・・・
しかし、兄・信之はこれに反対します。
信之は、家康の重臣・本多忠勝の娘と結婚していました。

「今更、逆心を企てるのも不義というものではないでしょうか」by信之

互いに譲らず、激論の末・・・

「親子離れ離れとなる
 それが家のために良いことであろう」by昌幸

真田親子は、西軍と東軍に分かれる道を選びました。
後に、犬伏の分かれと言われた話し合いです。
一方、徳川の軍は岐阜に兵を進めようとしていました。
信濃には上田城がある・・・
無視すれば、後ろから西軍と挟み撃ちにされる恐れがありました。
家康は軍を分け、秀忠に東山道を西へ向かわせます。
真田を討ち、その後合流して西軍との決戦に参加する予定でした。
その数3万8000!!
対する昌幸と信繁の兵はわずか5000!!

1600年第2次上田合戦・・・
数で劣勢の真田軍は、城に敵を引き入れると、集中砲火!!
退却する秀忠軍に、信繁が追い打ちをかけると敵は総崩れ・・・
またも、真田は徳川を退けたのです。

予想外の足止めを受け、秀忠軍は関ケ原の戦いに間に合わなかったと言われています。
勝利に意気上がる信繁のもとに、思わぬ知らせが・・・
関ケ原の戦いで、石田三成率いる西軍が敗北!!
わずか1日のことでした。
昌幸、信繁親子は、西軍として奮闘しましたが、最後は孤立無援となって降伏します。

真田に二度も苦杯を飲まされた家康は、死罪を命じます。
しかし、徳川方についた兄・信之の必死の嘆願で、なんとか命だけは取られずに済みました。
真田親子は流罪と決まりました。
この時、信繁30歳でした。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した家康は、江戸幕府を開きます。
それから11年・・・戦国時代最大の戦い・・・大坂の陣が始まります。
この時信繁は、大坂城の南に出城を築きます。
真田丸です。

1600年、30歳・・・
和歌山県九度山町・・・関ケ原の後、信繁と父・昌幸は、ここに幽閉されていました。
高野山の人里離れた寺・・・ここで信繁は、7人の子供を授かります。
さらに、16人の家臣を養わなけれBならず、生活は苦しかったのです。
救いの手を差し伸べたのが、兄・信之でした。

故郷・上田で、十万石ほどの大名となった信之は、昌幸と信繁に仕送りを続けていました。
領地が与えられているわけではなかったので、お金については本当に苦労していたようです。
高野山周辺には行くことができました。
畑を耕したり、村人といろんな活動をしたり・・・それなりの自由はあったようです。
そんな中、信繁の楽しみは・・・酒でした。

生きてはいても、先が見えない幽閉生活・・・

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1611年・・・九度山に来てから11年目・・・信繁は41歳になっていました。
父・昌幸が64歳でこの世を去ります。
故郷・上田に帰ることは、叶わぬままでした。

41歳の信繁は、故郷・上田の親族に向けて・・・

”私も去年から、急に年もとり、ことのほか病気がちになりました
 歯も抜け、髭なども黒いところはあまりありません”

1614年・・・幽閉生活14年・・・秀吉の息子・秀頼の使者が来ました。
背景には、豊臣と徳川の深刻な対立がありました。
江戸幕府の開設後も、大坂城にいる秀頼が、大きな影響力を持っていたからです。
発火点は、寺の鐘でした。
方広寺・・・寺の鐘に”国家安康”とあります。
家康を、安の字で分断すると、徳川が糾弾する騒動となったのです。
これをきっかけに、開戦の機運が高まっていきます。
秀頼のもとには、職を失った武士、牢人が続々と集まっていました。
信繁は、秀頼の要請に応えようと、長男と共に九度山を脱出!!
大坂城に向かいました。
日頃から信繁と親しくしていた地元の人々は、誰一人、徳川に密告しませんでした。

信繁が大坂城についた頃、集まった牢人は10万に膨れ上がっていました。
城で開かれた軍議には、豊臣家の重臣・大野治長をはじめ豊臣恩顧の大名・長曾我部守親、毛利勝永、そして信繁は参加しました。
信繁は、城の外に打って出るべきだと主張します。
しかし、賛同する者は現れませんでした。
大野治長たちが選んだのは、籠城策です。
秀吉の築いた大坂城の守りの固さは、絶大だったのです。
意見が受け入れられなかった信繁・・・しかし、切り替えて、籠城策の中では最善と思う手を打ちます。
大坂城の南側・・・後に、真田丸と呼ばれる出城です。
真田丸は、大坂城から独立した出城と考えられています。
ここで、徳川の大軍を迎え撃つ・・・いよいよ、大坂の陣が始まろうとしていました。
この時・・・信繁44歳!!

1614年11月、大坂冬の陣が始まりました。
豊臣10万に対し、徳川は20万!!倍の兵力差です。
しかし、信繁は、真田丸で徳川の大軍をことごとく迎え討ち、一躍有名を馳せます。
予想外の苦戦を強いられた家康は、和睦を選ばざるを得ませんでした。
実戦経験が豊富なわけでもない・・・なのに、どうして家康を苦しめることができたのでしょうか?

全国の大名を動員した20万の徳川勢に、大坂城は完全に包囲されました。
最前線の真田丸には、信繁率いる6000の兵が立てこもります。
彼等の姿は、敵からもひときわ目を引きました。
寄せ集めの牢人たちを集め、士気を高めるために信繁が用意したのは赤備え・・・!!
徳川勢にとっては、格好の標的でした。
真田丸に向けて兵を進めます。

「攻め潰してやろうと襲い掛かってくる敵に、そう簡単にはやられはしない」

家康の命令により、徳川の兵は真田丸に不要に近づかずにいました。
信繁は部下に命じて、敵をあざけり挑発させました。
これに我慢できず、一部の兵が突撃を開始!!
すると・・・他の部隊も遅れまいと、雪崩をうって真田丸に押し寄せます。
徳川勢は、大きな空堀にどんどん落ちていきます。
そこで・・・当時のイエズス会の文献には

”あらしのように銃撃したため、大虐殺が繰り広げられた”

と記されています。

家康は、不甲斐ない味方の姿を見て、こうこぼしたといいます。

「戦い慣れない者が多すぎる
 足手まといになっただけだ」

関ケ原などの大きな戦いが終わった後は、合戦がない時代が続きました。
なので、実戦経験の乏しい人が増えてきていました。
大名も代替わりした家が多く、部隊を統制しきれず、前線の武士たちが動くことを止められませんでした。

豊臣勢が夜襲に備えて堀に提灯をつるしていましたが・・・
徳川軍は、弾除けとして竹を束ねた盾を作り、塹壕を掘り進めていました。
しかし、真田丸に向かう兵は、塹壕を掘っていません・・・孤立した出城に過ぎないと、真田丸を見くびっていたのです。
激戦となったのは、たったの1日でした。
それでも文献にはこう記されています。

”徳川方の死者、その数を知らず”

一説では、大坂冬の陣で討死した徳川勢の8割は、真田丸のこの一戦の犠牲者だといわれています。

徳川勢は、真田丸を攻略できず、戦いは膠着状態に・・・
正面突破が難しいと見た家康は、裏から手をまわ層としました。
信繁の叔父を密かに派遣し、味方になれば10万石を与えるという条件を示します。
しかし、信繁は・・・

「高野山で、困窮していたところを秀頼様に召し出され、一つの曲輪を預けられたことは幸運であり、その恩があるので徳川につけと言われても困る」

すると家康は、条件をさらに上げ、味方になった暁には信濃一国を与える・・・と伝えます。
しかし、これに信繁は激怒!!
家康は諦めるしかありませんでした。
信繁の奮戦で、戦いは1か月以上!!
その為、徳川勢の20万は野営を強いられます。
士気が低下し、寝返るものを恐れた家康は、水面下で和睦交渉を進めます。
それと並行して、大坂城に昼夜を問わず大砲で揺さぶりをかけます。
すると、その中の1発が、淀殿が居住する御殿を直撃!!
侍女が死亡するという事態となりました。
動揺した秀頼や淀殿は、家康との和睦に応じることにしました。
信繁は、戦いを続けるべきだと主張したと言われています。
ある資料には・・・信繁は、これで徳川方が油断するとふみ、家康の襲撃を企てたといいます。
しかし、家康は、豊臣の牢人たちが和睦に不満を募らせていると警戒していました。
その為、信繁は奇襲を断念したといわれています。

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12月19日、大坂冬の陣集結。
豊臣と徳川に和睦が成立!!
大坂冬の陣は終わりました。
家康は、秀頼の身の安全と、領地の安堵を保障する見返りとして、大坂城の堀を埋め立てるという条件を出します。
その結果、真田丸も取り壊されました。
戦いが終わって1か月後、信繁は故郷・上田の姉にあてて手紙を送っています。

”まずまず無事に済み、私も死なずに済みました
 明日になればどうなるか、わからぬ状況ですが・・・”

この時、信繁45歳でした。

大坂冬の陣が終わり、つかの間の平和が訪れました。
講和によって、堀はすべて埋められました。
しかし、集まった牢人たちは居座り続けていました。

「諸大名は、家康を恐れて我らを召し抱えてくれない
 再び戦をして報奨金をもらうしかない!!」

それが彼らの言い分でした。
大坂城の重臣たちは、和平派と再戦派の真っ二つに分かれ、秀頼も考えを決めかねていました。

1615年3月、信繁は、義理の兄に手紙を送っています。

”秀頼様のご寵愛は、程よいものではありますが、何かと気遣いが多いです

 定めなき世の中ですから、一日先のことは全くわかりません
 私などのことは、この世に生きている者とはお思いにならぬようお願い申し上げます”

大坂に、再び戦の気配が漂ってきました。

4月4日、徳川家康、大坂へ!!
豊臣方の牢人が、大坂城で戦の準備をしているとの知らせを受けたからです。
信繁は考えます。
堀が無ければ、籠城は不可能だ!!
野戦で決着をつけるしかない!!
信繁は、作戦を進言します。
秀頼が陣頭指揮を執り、畿内を押さえて徳川を迎え撃つと!!
しかし、豊臣の重臣たちは、京への秀頼の出陣に同意しません。
結局、大坂城の南で決戦に・・・!!

「敵が来たならば戦い、討ち死にするつもりだ」by秀頼

1615年4月27日、大坂夏の陣!!
徳川勢15万、信繁たち豊臣勢5万!!
しかし・・・戦力の差は歴然!!
豊臣方は、大坂城の南10キロの地点から大坂城に後退していくしかありませんでした。
5月7日、追い込まれた豊臣側は、一大決戦に出ます。
この時、豊臣の重臣が味方の全軍に向けて指令を出します。

「真田、毛利とよく相談するように
 迂闊な戦いをしてはならない」

最後の最後になって、信繁はようやく自分の考え通りに全軍を動かすことができたのです。
信繁こそが頼りになる武将だ!!
信繁が考えた起死回生の策は・・・??
信繁たちが総力をかけて闘い、徳川勢の主力をひきつけます。
その間に、奇襲部隊が迂回し、手薄となった家康本陣を一気に襲撃する!!
目指すは、家康の首!!
ところが、ことは作戦通りに運びませんでした。
奇襲部隊が配置につく前に、戦が始まってしまいました。
信繁は、それでも秀頼が出陣すれば、士気が上がると考えます。
信繁は、一緒に出陣した息子・大助を呼び寄せ、大坂城に戻って秀頼の出陣を乞うように命じます。
大助は、共に戦って最期を迎えることを願いますが、信繁は許しませんでした。

「お前が私と一緒に死んだら、誰が私に二心がないことを明らかにするのか
 行って、秀頼公を生死を共にせよ」

その間、戦いは信繁の考え以上に早く進み、激しい乱戦となります。
もはや、奇襲部隊が家康に迫ることは不可能でした。
万事休す・・・??
その時、信繁が目にしたのは、徳川勢に起きた異変でした。
味方に裏切者が出た!!という噂が流れると、気弱な兵が、我先にと逃げ出したのです。
天が与えた最後の好機!!

信繁は、一直線に家康の本陣へと突き進みます。
信繁の突進のすさまじさに、徳川勢は押される一方!!

”重臣たちは逃げ出し、家康の周りに残ったのはひとりだけだった”

家康は、徳川家の馬印が倒れるのも構わず、逃げだします。
家康は、二度、切腹を覚悟したといいます。

戦場を稲妻のような速さで家康に迫る信繁・・・
その姿を見た兵は、こう呼びます。

「真田 日本一の兵」

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しかし・・・ようやく徳川勢の援軍が駆けつけると・・・信繁はあと一歩及びませんでした。

大坂城の4キロ南にある安居神社・・・ここで信繁は討ち死にします。
45歳の生涯でした。

信繁を討ち取った武将によると・・・

”馬で高き所に乗り上げたときに、よき敵と遭遇
 言葉をかけ、互いに馬から降りて槍で組みあい討ち取った”

その夜、大坂城は落城し、大坂の陣は終わりを告げます。
信繁の武勇は、徳川勢にも鳴り響いていました。
信繁にあやかりたいと、その首から紙を抜いて持ち去る者が絶えなかったといいます。

信繁の息子・大助は、秀頼とともに自害。
しかし、真田家は、兄・信之によって受け継がれ、信濃国・松代藩として江戸時代を生き抜いていきます。
真田家の宝物を保管した「吉光御腰物箱」・・・
中にある文書には、西軍・石田三成から眞田家に送られた書状もあります。
兄・信之が入れたものだと考えられています。
幕府から謀反の嫌疑を受ける危険を冒してでも、昌幸と信繁が生きた証は真田の家宝として守られました。

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あけましておめでとうございます。
って、もう、冬休みも終わってますが、長い間お休みしてまして失礼しました。
藪入りもそこそこに、今年もいろいろお勉強していきたいと思います!!

今週から、大河ドラマ「真田丸」が始まりますね。
個人的に、堺雅人さんは今一つなんですが・・・
でも、「花燃ゆ」の仕上がりを思うと、期待せずにはいられませんね。
ということで、真田幸村こと、真田信繁です。

群雄割拠の戦国時代を終わらせた大坂の陣・・・大阪上洛上のその日、無念の死を遂げたのは真田幸村こと真田信繁でした。
20万もの徳川軍と対等に戦ったとその後「日の本一の兵」と呼ばれその強さの秘密とは・・・??

1614年、江戸幕府初代将軍となった家康は、豊臣を滅ぼすため最後の戦いを始めました。
大坂の陣です。
冬の陣で真田幸村こと真田信繁は、秀頼率いる豊臣方につき、大阪城の南に築いた砦・真田丸で寄せ集めの浪人たち5000人で徳川軍を撃破!!
さらに翌年の夏の陣では、圧倒的不利の中、果敢に攻め込みます。
信繁は正面から三度攻撃し、徳川軍本陣まで近づき家康に死を覚悟させたといいます。
その獅子奮迅の活躍は、戦国時代最後の英雄として後世まで語り継がれているのです。

真田幸村という名前は、江戸時代の物語や講談の中から生まれたもので、本当の名前は真田信繁でした。
幸村の”幸”は、真田家が好んでつけていた字で、名刀”村正”を持っていたということで、”幸村”となったと言われています。
しかし、真田信繁の前半生は、謎に包まれていて、生まれた年すらわかりません。
さらに信繁は、武将として城主となったわけでもありません。
その人生は・・・??

真田信繁出生の謎・・・。
長野県上田市真田町・・・真田一族発祥の地と言われています。
真田家の菩提寺・長谷寺には、代々の墓が今も残されています。

一豪族に過ぎなかった真田家は、武田家家臣になるや否や、武田家勢力拡大に貢献し、武田二十六将に四人も入るほどの信玄の側近として重用されました。
その二十六勝の一人・真田昌幸の子が信幸・信繁兄弟です。
通説では、1567年生まれとされていますが、はっきりとはしません。
これは、49歳で亡くなったということから、家系図から逆算したものです。
1615年に49歳で死去した=1567年生まれということで、信繁の確かな資料はありません。

信繁は、1585年上杉景勝のもとへ人質として送られています。
この時、幼名・弁丸を名乗っていたといいます。
1567年生まれなら19歳・・・とっくに元服し、幼名を名乗っているのはおかしいのです。
受け入れた上杉の資料にも、「御幼若之方」とあります。
若い・・・そうなると、1567年生まれはおかしいのでは・・・??そうなると生まれ年も変わってくるのです。

実際の生まれ年は・・・??
信繁が人質となった年に家臣に送った手紙には・・・
信繁の幼名・弁丸の弁の文字と花押が押されています。
元服はまだと考えられますが・・・花押は15歳からなので・・・元服ぎりぎりの15歳ぐらいではないか??
つまり、1571年ごろに生まれ、1615年に45歳ぐらいで亡くなったのでは・・・??
と思われます。

信繁は9人兄弟で、長兄・信幸とは母親が正室・山の手殿と・・・一緒だったとこはわかっています。
しかし、信繁は残されている資料がほとんどありません。
兄は信繁のことを・・・「物事柔和忍辱にして強しからず、言葉少なにして怒り腹立つ事なかりし」と言っています。
家康を追いつめたのどの猛将??普段は違っていたようです。

大坂の陣以前の信繁の主な戦歴は・・・
1590年小田原征伐
1600年第二次上田合戦 ぐらいです。

1582年武田家が滅亡し、主君を失った真田家は、上杉・・・北条と巧みに主君を乗り換えていきます。
その後、北条との確執が深まり、徳川に従属するものの・・・
秀吉との対立を深めた家康は、背後の心配をなくすために北条と和睦・・・。
その条件に、真田家が所有していた領地を北条に明け渡すこととなりました。
しかし、昌幸は断固拒否!!
家康は、真田家に別の領地を与える約束をしていました。
それは・・・一向に実現されず・・・家康を信用できないとなっていく信幸・・・。

真田と徳川の確執要因となって・・・徳川から上杉へと造反!!
信繁は人質となり上杉の領地・海津城へ!!

1585年8月、真田家の造反を知った家康は、討伐のために7000を上田に送ります。
これが第1次上田合戦です。
この時上田城の兵力は徳川軍の1/3の2000!!
父・昌幸は上田城に・・・兄・信幸は砥石城に布陣して徳川軍を待ち受けます!!
通説では信繁は、上杉家の人質であったため戦には参加していないとされていますが・・・
「真武内伝」などに信繁の出陣の記録が残っています。
信繁は出陣したのでしょうか??
上田合戦の翌年・・・海津城に山の手殿が人質としている・・・という記録があります。
人質は二人要らない・・・??
信繁が帰ってくる代わりに山の手殿が人質として海津城に向かったとも思われます。
信繁は第1次上田合戦に参加したこと・・・それを上杉景勝が許したとも思われ・・・
これが、信繁の初陣だった可能性が出てきます。

第1次上田合戦の真相とは・・・??
舞台は上田市にある上田城・・・
城の南には千曲川・・・北側・西側には大きな入り組んだ水路があり、攻撃は東側のみ!!の守りやすい城でしたが・・・敵は7000!!
2000の手勢でどう守るのか・・・??
城下に千鳥掛の柵を作ります。
八の字に柵を作り・・・侵入する際はたやすく後退しにくい仕掛けとなっています。
さらに・・・東に位置する神川を上流でせき止め、いつでも洪水を起こせるようにしました。
あとはどうやって徳川軍を城におびき寄せるか・・・??

昌幸は信幸・信繁兄弟に、小競り合いをして退却させ・・・小競り合いをして退却させ。。。
二の丸におびき寄せて少ない兵力で戦います。
袋のネズミとなった徳川軍!!
一斉に攻撃する昌幸!!東に敗走する徳川軍!!
横郭から信幸・信繁兄弟が攻撃し・・・そして、退路を阻んだのは千鳥掛の柵でした。
逃げ遅れた兵を討ち取っていく真田軍!!
神川まで逃げられた徳川の兵もいましたが、真田によって増水した川におぼれ・・・
徳川軍の死者は、1300人に及んだともいわれています。
兵力差をものともせずに徳川軍を撃退した昌幸!!
この経験が、大坂の陣で発揮されることとなります。


この戦で活躍したのは・・・忍の集団です。
真田十勇士・・・??
しかし、海野六郎や根津甚八などにはモデルがいたようですが、ほとんどは架空の人物です。
大正以降に創作されたものなのですが・・・
真田一族が忍びを使っていたのは事実のようです。
”甲州透破”や”大かまり”と呼ばれていた忍びは、敵陣深く出の情報収集やゲリラ戦で重要な任務を果たしていました。
ルーツと言われるのが”山伏”・・・
厳しい修業を備えて、超人的な力や呪術を身に着けていた山伏・・・
真田の郷の近くには、四阿山といわれる修験道の聖地があり、ここで修業した山伏を忍びとして使っていたようです。
もう一つは”歩き巫女”です。
旅をしながら禊や払いを行い、霊を憑依させて口寄せを行っていました。
真田の郷に近い祢津には、この歩き巫女の同情があり、呪術や口寄せだけではなく護身術まで教えていて・・・これが”くのいち”のモデルとなったともいわれています。
山伏や巫女は、自由に国境を超えることが許されていたので、情報収集にはうってつけでした。
彼らの情報を上手く戦に利用したのです。


真田信繁の出世・・・
徳川軍を鮮やかに撃退した真田家は、さらに優位に立とうと羽柴秀吉との連携を画策します。
家康と交戦状態にあった秀吉はこれを快諾し・・・
真田家は、秀吉が徳川征伐の兵を挙げた際に協力することとなりますが・・・
秀吉は強硬策から融和策へと方針を変えます。
その理由は・・・中部地方を襲った大地震・・・1585年の天正大地震でした。
この巨大地震で若狭湾から三河湾に甚大な被害が・・・!!
家康の領土はあまり影響はありませんでしたが、秀吉やその主力大名との領国被害は甚大で、近江長浜城・大垣城・・・多くの城が全壊したともいわれています。
戦どころではなくなった秀吉は融和策となったのです。

戦を逃れた家康は、宿敵・真田を倒すことに力を注ぎます。
父・真田昌幸も打倒・家康を掲げて上田城から佐久郡へ・・・!!
しかし、それを知った秀吉は停戦命令となる”矢止め”を真田家に言い渡します。
家康と和睦した以上・・・秀吉側がそれを破ることはできなかったのです。

1587年真田家は秀吉から呼び出され、徳川家の与力大名を言い渡されました。
与力大名とは、合戦の時に加勢をする大名のことで、豊臣に居ながらにして徳川の指揮下に置かれる・・・二重の主従関係となりました。
17歳となっていた信繁は、人質として秀吉のもとへ・・・家臣として仕えることとなりました。
そんな中・・・秀吉は北条征伐に取り掛かります。
真田家は、前田・上杉とともに北国衆に転生され上野の国を制圧!!
戦功をあげた信繁は1万9000石を賜わり馬廻衆・・・と秀吉の側近となったのでした。
信繁は地元にいたことよりも大坂にいたことが多く、必然的に秀吉・三成・・・豊臣政権と交わりを持ち・・・土地もよく知っていて・・・これが信繁を左右していくこととなります。

1598年豊臣秀吉が亡くなり、政局は一気に不安定に・・・!!
天下分け目の関ケ原!!
天下を狙う家康と、豊臣政権を守ろうとする三成との戦いで・・・信繁は、実の兄と決別することになります。
関ケ原の戦いの数か月前・・・下野国・犬伏で、昌幸・信幸・信繁で密談中・・・
その内容は、上杉征伐についた家康に加勢するか?打倒家康をかかげ出兵した石田三成に加勢するか?というものでした。
この時真田は、徳川の与力大名で、本来ならば東軍につくのが筋でしたが・・・父・昌幸は三成側につくというのです。
嫡男・信幸は反対しますが・・・父・昌幸と、弟・信繁は西軍につくことにします。
兄・信幸は東軍につくことになります。
というのも、兄・信幸は妻が小松姫(本田忠勝の娘)で、信繁の妻は竹林院(大谷吉継の娘)でした。
兄弟の正室が、徳川方と豊臣方に別れていたからです。

しかし・・・昌幸は最後まで三成に、信幸が徳川方についたことをしらぜずにいました。
昌幸は、西軍が勝った際には信濃・甲州を与えられることになっていました。
好待遇を引き出すことに成功していたのです。
真田昌幸の見通しとして、会津に出兵している豊臣恩顧の大名が家康に従うはずはないと思っていました。
秀吉の恩の方が重いと見通していたのです。

関ケ原の戦いを前に、袂を分かった兄弟・・・その行く末とは・・・??
犬伏から上田へと戻った父・昌幸・信繁親子は、徳川と戦う準備を始めます。
一方、真田家の裏切りを知った家康は、息子・秀忠に討伐を命じました。
秀忠率いる軍勢には、榊原康政、大久保忠勝、本田正信の徳川譜代に加え、兄・真田信幸が含まれていました。
9月2日、3万8000の徳川秀忠軍が小諸に到着!!これに対する上田城に籠城する真田軍は約5000・・・!!
信繁は上田城の北東に位置する砥石城を守っていました。
砥石城は、作戦上、真田家の命運を握っていた城でした。
上田城を一望できる染屋原に秀忠は本陣を置き、砥石城に攻め入ってきました。
秀忠がこれを命令したのは・・・兄・信幸にでした。
秀忠も、信幸が父や弟のように寝返ることを危惧していたからです。

しかし、父・昌幸はそれを予想しており、戦を前に信繁に言いました。
「信幸が砥石城に攻めてきたら退却せよ!!」
砥石城を攻めてきた兄の姿を確認した信繁は、全員退却の命を出します。
戦わずに上田城に戻ってきました。
兄・信幸は、一人も失うことなく砥石城を手に入れて手柄を上げ、砥石城を守ることとなり、上田の戦いに参加することなく済みました。

勝利を確信し、油断していた秀忠・・・これも、昌幸の思惑通り・・・
気の緩んだ秀忠軍の背後から伏兵に襲わせます。
急襲された秀忠軍は大混乱!!命からがら小諸に引き返します。
またもや徳川軍を追い返した真田軍、しかし、関ケ原での西軍の敗軍の知らせが・・・
討ち死に覚悟で戦うつもりでしたが・・・関ケ原の勝利でで勢いに乗った東軍に・・・昌幸・信繁親子は降伏することになるのです。

秀忠軍を撃退させながらも敗者となった真田軍・・・二度の敗北を味わった家康の憎しみは大きく、死罪を命じます。
が・・・それを救ったのは、徳川についていた兄・信幸でした。
信幸の必死に除名嘆願に折れた家康は、昌幸・信繁親子に高野山への追放を命じたのです。
その時、父・昌幸は・・・
「さてもさても口惜しき事かな
 内府(家康)をこそ かくしよふと思ひしに」と、悔しがったといいます。
この積年の恨みは、息子・信繁に受け継がれていくことになります。
和歌山県高野町にある蓮華定院に幽閉されることとなった真田親子・・・
徳川への恨みを胸に暮らします。
父・昌幸54歳、信繁は30歳・・・家臣はわずか16人でした。
高野山の麓の九度山に移送されたのちも暮らしは苦しく頼りは兄・信幸の仕送りだけでした。
しかし、江戸時代の歴史書によると・・・
信繁はこの頃、父から兵法を学び、戦のことは忘れることはありませんでした。
武将としての意地と誇りは捨てていなかった信繁・・・
しかし、兄には・・・
「長年の蟄居生活でくたびれ者になってしまった」
幽閉されてから10年あまり・・・赦免の嘆願もかなわないまま1611年6月4日に父・昌幸が亡くなります。
家臣も二人となり・・・信繁も意気消沈・・・
この九度山での生活は14年にも及ぶこととなります。
長くつらい時間・・・すでに40歳を過ぎていました。
そんな信繁に待ち焦がれていた豊臣の使者が・・・!!

「参戦せよ!!戦うは家康!!」

それが命を落とすこととなる大坂の陣でした。


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へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将

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日本の文化に革命を起こしたのは古田織部。
”へうげもの”と呼ばれ、一世を風靡しました。
天下を目指す信長、秀吉、家康に仕えます。

織部が人生最大の選択をしたのは・・・大坂の陣の直前でした。

古田織部は、岐阜県美濃国山口城主の子として生まれました。
濃尾平野の広がる・・・戦国時代には、天下をめざし武将たちが闘っていた場所で、代々織田家に仕えていました。
織部は、桶狭間の戦いで勢いに乗る信長の直属の家臣団に加えられました。
信長が天下統一をめざし、中国を攻略しようとしていた頃・・・腹心・荒木村重が謀反を起こします。
ここで信長は、荒木の右腕・中川清秀のもとに織部を送り込みます。
調略のために・・・!!
織部は見事、中川を説得・・・信長の危機を救います。

武将としての能力としては、刀で手柄を立てるような記録はなく、説得工作・・・調略、事前の裏工作に長けていたようです。
そんな彼を表舞台に・・・!!
数寄と呼ばれた茶の湯です。
死と隣り合わせの生活をしている武将たちには、現実を忘れることのできる唯一の世界でした。
その流行と共に、中国伝来の貴重な茶道具は、一国に匹敵るる価値を持って行きます。
それにいち早く注目したのは信長。。。
名物狩りと呼ばれ、高価な唐物を買い集め、褒章として家臣たちに与えていきます。
家臣たちを統制し、士気を鼓舞するために、茶の湯を利用し始めたのです。=茶の湯御政道。

この茶道として頭角を現していたのが千利休。
織部の数寄の師匠となって、多大な影響を与えました。
利休は信長亡き後、秀吉のブレーンとなり、一大イベントを仕掛けていきます。
黄金の茶室を作って後押しする傍ら・・・もう一つの美・・・侘びの世界を追求し始めます。

利休に傾倒していた織部は、ここで数寄の才能を発揮していきます。
侘びとは全く違うもの・・・

yaburebukuro
織部愛用の茶道具・・・「水差し・破袋」
ここに、強く反映されています。
”大きなひび割れも、一種の趣・・・”
傷のない茶碗も、一旦割ってつなぎ合わせる・・・「十文字」。。。
ゆがんだ茶碗・・・
ひょうきんな織部の美意識は、新しい流行となっていきます。
完全な茶碗は物足りないと嫌い、新しい美を追求していきます。

1591年・・・天下人となった秀吉が、独自の美を追求する利休と対立し・・・利休切腹。
命乞いをすることもなく死への旅路に向かう利休・・・

織部は、細川忠行と共に利休を見送りました。
織部は利休の死後、秀吉に取り立てられていきます。
秀吉のお伽衆に抜擢、”数寄の和尚”に任命され、才能を発揮していきます。

織部焼き・・・今までとはまったっく違う斬新なデザインと絵付け・・・
日常的な食器まで流行っていたようです。
傾奇者が出てきていたこの時代、今までの概念をぶち破ろうよいう意識が高まってきていました。
織部の数寄はその時代に合っていたようです。
慶長時代に生きた織部は、慶長の息吹がエネルギーの原点となっていたようです。
常に面白くなければ・・・!!これまでにない画期的なものを・・・!!

ひょうげを武器に新しい価値観をもたらした織部は、数寄の天下人となっていきます。
織部による美の革新・・・
東北の雄・伊達政宗、豊臣家重臣・浅野長政、信長の実弟・織田有楽、豊臣秀頼、毛利秀元、黒田如水・・・茶会を通じて、全国の武将たちとのネットワークが広がっていきます。

そのネットワークに目をつけたのが天下を狙う徳川家康です。
関ヶ原の戦いを前に、根回しをしていたのでした。

常陸の佐竹義宣は、石田三成と親しくその動向に注意を払う必要がありました。
織部を佐竹のもとに送り込み・・・茶の湯で織部と師弟関係にあった佐竹は、師の説得を受け入れて家康に人質を差し出すのです。
こうして家康は、織部を使って説得に成功し・・・関ヶ原に勝利していきます。
家康自身が数寄にのめり込むことはありませんでしたが、その力を十分に知っていたのです。

豊臣から徳川へ・・・時代が大きく動きます。
江戸幕府をひらいた家康は、その基礎を盤石なものにしていくために、織部を利用していきます。
織部は、秀忠の茶の湯の指南役となり、秀忠と諸大名との茶会を仕切って。。。
徳川政権の内部へと入り込んでいく織部・・・確固たる地位を築き上げていきます。
数寄の道に生きたい・・・しかし、あまりに忙しく・・・それもできなくなってきました。

1611年、家康は秀忠を江戸に置いたまま、京都・二条城を拠点に豊臣家弱体に進んでいきます。
二条城に諸大名を集め・・・誓詞を書かせたのです。
”反逆の企てあるべからず”と、幕府の命令に背かないように・・・!!
豊臣家と徳川家の衝突は、もう避けられなくなっていました。

織部はこの頃、息子・九郎八を豊臣秀頼の小姓として仕えさせていました。
身の安定のために徳川につくか?豊臣に尽くすのか?
織部は70歳となっていました。

①徳川方につくか??
生き残れるものの、自分のやりたい数寄は出来ない・・・!!

②豊臣方につくか??
もともと抜擢してくれたのは秀吉。。。
おまけに秀頼の小姓は息子。。。
大恩に報いる道ではないのか・・・??

aooribe織部の屋敷から発掘された「青織部角皿」。
これには、豊臣への思い・・・丁寧な筆使いで桐の文様が書かれていました。

織部はこの皿に、豊臣家の繁栄を願っていたのでしょうか??

③和平交渉策
当時大坂城には、織田有楽、片桐且元ら数寄を通じて交流を深める重臣たちがいました。

そして、秀頼の妻は秀忠の娘。。。
人間関係を生かすという策です。

両家による天下・・・新しい世界を作る・・・??


1612年8月、織部は江戸城に赴きます。
二代将軍・秀忠との接見に臨みます。
そこに伴ったのは、数寄の盟友・片桐且元でした。

片桐は、秀頼の守役のひとりで、豊臣家の重臣。徳川とのパイプ役を担っていました。
第三の道・和平交渉をしようとしていたようです。
7か月に及び江戸に滞在し、秀忠や幕閣達と茶会を行います。
推測されるのは、和平のための根回し。。。
しかし、織部の和平交渉は挫折。
秀吉が建立した方広寺の鐘に刻まれた文字が問題・・・「国家安康」に、家康がケチをつけたのです。
方広寺鐘銘事件・・・鐘銘を起草した清韓禅師は蟄居謹慎を命じられました。

言いがかりとも取れる家康の行動に・・・
なんと、織部は、清韓禅師を茶会に招いてもてなしたのです。
茶の湯に権威や権力は関係ない・・・家康の怒りを恐れることなく、茶人としての信念を貫いたのだろうか・・・??

豊臣家は大坂城内に浪人を集め・・・徳川と対決の姿勢を見せていました。
方広寺鐘銘事件から4か月後・・・大坂の陣が勃発!!
1615年、大坂城落城!!豊臣家は滅亡します。


時を同じくして、織部は幽閉されていました。
処罰の内容は、大坂方との内通です。
大坂城落城からひと月後・・・織部は息子と共に切腹を命じられます。
事件の真相は明らかではありませんが、一切の弁明をしなかったと伝えられています。
破調の美を世に刻みつけた古田織部。
6月11日・・・その生涯を閉じたのです。


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