日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大坂の陣

真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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あけましておめでとうございます。
って、もう、冬休みも終わってますが、長い間お休みしてまして失礼しました。
藪入りもそこそこに、今年もいろいろお勉強していきたいと思います!!

今週から、大河ドラマ「真田丸」が始まりますね。
個人的に、堺雅人さんは今一つなんですが・・・
でも、「花燃ゆ」の仕上がりを思うと、期待せずにはいられませんね。
ということで、真田幸村こと、真田信繁です。

群雄割拠の戦国時代を終わらせた大坂の陣・・・大阪上洛上のその日、無念の死を遂げたのは真田幸村こと真田信繁でした。
20万もの徳川軍と対等に戦ったとその後「日の本一の兵」と呼ばれその強さの秘密とは・・・??

1614年、江戸幕府初代将軍となった家康は、豊臣を滅ぼすため最後の戦いを始めました。
大坂の陣です。
冬の陣で真田幸村こと真田信繁は、秀頼率いる豊臣方につき、大阪城の南に築いた砦・真田丸で寄せ集めの浪人たち5000人で徳川軍を撃破!!
さらに翌年の夏の陣では、圧倒的不利の中、果敢に攻め込みます。
信繁は正面から三度攻撃し、徳川軍本陣まで近づき家康に死を覚悟させたといいます。
その獅子奮迅の活躍は、戦国時代最後の英雄として後世まで語り継がれているのです。

真田幸村という名前は、江戸時代の物語や講談の中から生まれたもので、本当の名前は真田信繁でした。
幸村の”幸”は、真田家が好んでつけていた字で、名刀”村正”を持っていたということで、”幸村”となったと言われています。
しかし、真田信繁の前半生は、謎に包まれていて、生まれた年すらわかりません。
さらに信繁は、武将として城主となったわけでもありません。
その人生は・・・??

真田信繁出生の謎・・・。
長野県上田市真田町・・・真田一族発祥の地と言われています。
真田家の菩提寺・長谷寺には、代々の墓が今も残されています。

一豪族に過ぎなかった真田家は、武田家家臣になるや否や、武田家勢力拡大に貢献し、武田二十六将に四人も入るほどの信玄の側近として重用されました。
その二十六勝の一人・真田昌幸の子が信幸・信繁兄弟です。
通説では、1567年生まれとされていますが、はっきりとはしません。
これは、49歳で亡くなったということから、家系図から逆算したものです。
1615年に49歳で死去した=1567年生まれということで、信繁の確かな資料はありません。

信繁は、1585年上杉景勝のもとへ人質として送られています。
この時、幼名・弁丸を名乗っていたといいます。
1567年生まれなら19歳・・・とっくに元服し、幼名を名乗っているのはおかしいのです。
受け入れた上杉の資料にも、「御幼若之方」とあります。
若い・・・そうなると、1567年生まれはおかしいのでは・・・??そうなると生まれ年も変わってくるのです。

実際の生まれ年は・・・??
信繁が人質となった年に家臣に送った手紙には・・・
信繁の幼名・弁丸の弁の文字と花押が押されています。
元服はまだと考えられますが・・・花押は15歳からなので・・・元服ぎりぎりの15歳ぐらいではないか??
つまり、1571年ごろに生まれ、1615年に45歳ぐらいで亡くなったのでは・・・??
と思われます。

信繁は9人兄弟で、長兄・信幸とは母親が正室・山の手殿と・・・一緒だったとこはわかっています。
しかし、信繁は残されている資料がほとんどありません。
兄は信繁のことを・・・「物事柔和忍辱にして強しからず、言葉少なにして怒り腹立つ事なかりし」と言っています。
家康を追いつめたのどの猛将??普段は違っていたようです。

大坂の陣以前の信繁の主な戦歴は・・・
1590年小田原征伐
1600年第二次上田合戦 ぐらいです。

1582年武田家が滅亡し、主君を失った真田家は、上杉・・・北条と巧みに主君を乗り換えていきます。
その後、北条との確執が深まり、徳川に従属するものの・・・
秀吉との対立を深めた家康は、背後の心配をなくすために北条と和睦・・・。
その条件に、真田家が所有していた領地を北条に明け渡すこととなりました。
しかし、昌幸は断固拒否!!
家康は、真田家に別の領地を与える約束をしていました。
それは・・・一向に実現されず・・・家康を信用できないとなっていく信幸・・・。

真田と徳川の確執要因となって・・・徳川から上杉へと造反!!
信繁は人質となり上杉の領地・海津城へ!!

1585年8月、真田家の造反を知った家康は、討伐のために7000を上田に送ります。
これが第1次上田合戦です。
この時上田城の兵力は徳川軍の1/3の2000!!
父・昌幸は上田城に・・・兄・信幸は砥石城に布陣して徳川軍を待ち受けます!!
通説では信繁は、上杉家の人質であったため戦には参加していないとされていますが・・・
「真武内伝」などに信繁の出陣の記録が残っています。
信繁は出陣したのでしょうか??
上田合戦の翌年・・・海津城に山の手殿が人質としている・・・という記録があります。
人質は二人要らない・・・??
信繁が帰ってくる代わりに山の手殿が人質として海津城に向かったとも思われます。
信繁は第1次上田合戦に参加したこと・・・それを上杉景勝が許したとも思われ・・・
これが、信繁の初陣だった可能性が出てきます。

第1次上田合戦の真相とは・・・??
舞台は上田市にある上田城・・・
城の南には千曲川・・・北側・西側には大きな入り組んだ水路があり、攻撃は東側のみ!!の守りやすい城でしたが・・・敵は7000!!
2000の手勢でどう守るのか・・・??
城下に千鳥掛の柵を作ります。
八の字に柵を作り・・・侵入する際はたやすく後退しにくい仕掛けとなっています。
さらに・・・東に位置する神川を上流でせき止め、いつでも洪水を起こせるようにしました。
あとはどうやって徳川軍を城におびき寄せるか・・・??

昌幸は信幸・信繁兄弟に、小競り合いをして退却させ・・・小競り合いをして退却させ。。。
二の丸におびき寄せて少ない兵力で戦います。
袋のネズミとなった徳川軍!!
一斉に攻撃する昌幸!!東に敗走する徳川軍!!
横郭から信幸・信繁兄弟が攻撃し・・・そして、退路を阻んだのは千鳥掛の柵でした。
逃げ遅れた兵を討ち取っていく真田軍!!
神川まで逃げられた徳川の兵もいましたが、真田によって増水した川におぼれ・・・
徳川軍の死者は、1300人に及んだともいわれています。
兵力差をものともせずに徳川軍を撃退した昌幸!!
この経験が、大坂の陣で発揮されることとなります。


この戦で活躍したのは・・・忍の集団です。
真田十勇士・・・??
しかし、海野六郎や根津甚八などにはモデルがいたようですが、ほとんどは架空の人物です。
大正以降に創作されたものなのですが・・・
真田一族が忍びを使っていたのは事実のようです。
”甲州透破”や”大かまり”と呼ばれていた忍びは、敵陣深く出の情報収集やゲリラ戦で重要な任務を果たしていました。
ルーツと言われるのが”山伏”・・・
厳しい修業を備えて、超人的な力や呪術を身に着けていた山伏・・・
真田の郷の近くには、四阿山といわれる修験道の聖地があり、ここで修業した山伏を忍びとして使っていたようです。
もう一つは”歩き巫女”です。
旅をしながら禊や払いを行い、霊を憑依させて口寄せを行っていました。
真田の郷に近い祢津には、この歩き巫女の同情があり、呪術や口寄せだけではなく護身術まで教えていて・・・これが”くのいち”のモデルとなったともいわれています。
山伏や巫女は、自由に国境を超えることが許されていたので、情報収集にはうってつけでした。
彼らの情報を上手く戦に利用したのです。


真田信繁の出世・・・
徳川軍を鮮やかに撃退した真田家は、さらに優位に立とうと羽柴秀吉との連携を画策します。
家康と交戦状態にあった秀吉はこれを快諾し・・・
真田家は、秀吉が徳川征伐の兵を挙げた際に協力することとなりますが・・・
秀吉は強硬策から融和策へと方針を変えます。
その理由は・・・中部地方を襲った大地震・・・1585年の天正大地震でした。
この巨大地震で若狭湾から三河湾に甚大な被害が・・・!!
家康の領土はあまり影響はありませんでしたが、秀吉やその主力大名との領国被害は甚大で、近江長浜城・大垣城・・・多くの城が全壊したともいわれています。
戦どころではなくなった秀吉は融和策となったのです。

戦を逃れた家康は、宿敵・真田を倒すことに力を注ぎます。
父・真田昌幸も打倒・家康を掲げて上田城から佐久郡へ・・・!!
しかし、それを知った秀吉は停戦命令となる”矢止め”を真田家に言い渡します。
家康と和睦した以上・・・秀吉側がそれを破ることはできなかったのです。

1587年真田家は秀吉から呼び出され、徳川家の与力大名を言い渡されました。
与力大名とは、合戦の時に加勢をする大名のことで、豊臣に居ながらにして徳川の指揮下に置かれる・・・二重の主従関係となりました。
17歳となっていた信繁は、人質として秀吉のもとへ・・・家臣として仕えることとなりました。
そんな中・・・秀吉は北条征伐に取り掛かります。
真田家は、前田・上杉とともに北国衆に転生され上野の国を制圧!!
戦功をあげた信繁は1万9000石を賜わり馬廻衆・・・と秀吉の側近となったのでした。
信繁は地元にいたことよりも大坂にいたことが多く、必然的に秀吉・三成・・・豊臣政権と交わりを持ち・・・土地もよく知っていて・・・これが信繁を左右していくこととなります。

1598年豊臣秀吉が亡くなり、政局は一気に不安定に・・・!!
天下分け目の関ケ原!!
天下を狙う家康と、豊臣政権を守ろうとする三成との戦いで・・・信繁は、実の兄と決別することになります。
関ケ原の戦いの数か月前・・・下野国・犬伏で、昌幸・信幸・信繁で密談中・・・
その内容は、上杉征伐についた家康に加勢するか?打倒家康をかかげ出兵した石田三成に加勢するか?というものでした。
この時真田は、徳川の与力大名で、本来ならば東軍につくのが筋でしたが・・・父・昌幸は三成側につくというのです。
嫡男・信幸は反対しますが・・・父・昌幸と、弟・信繁は西軍につくことにします。
兄・信幸は東軍につくことになります。
というのも、兄・信幸は妻が小松姫(本田忠勝の娘)で、信繁の妻は竹林院(大谷吉継の娘)でした。
兄弟の正室が、徳川方と豊臣方に別れていたからです。

しかし・・・昌幸は最後まで三成に、信幸が徳川方についたことをしらぜずにいました。
昌幸は、西軍が勝った際には信濃・甲州を与えられることになっていました。
好待遇を引き出すことに成功していたのです。
真田昌幸の見通しとして、会津に出兵している豊臣恩顧の大名が家康に従うはずはないと思っていました。
秀吉の恩の方が重いと見通していたのです。

関ケ原の戦いを前に、袂を分かった兄弟・・・その行く末とは・・・??
犬伏から上田へと戻った父・昌幸・信繁親子は、徳川と戦う準備を始めます。
一方、真田家の裏切りを知った家康は、息子・秀忠に討伐を命じました。
秀忠率いる軍勢には、榊原康政、大久保忠勝、本田正信の徳川譜代に加え、兄・真田信幸が含まれていました。
9月2日、3万8000の徳川秀忠軍が小諸に到着!!これに対する上田城に籠城する真田軍は約5000・・・!!
信繁は上田城の北東に位置する砥石城を守っていました。
砥石城は、作戦上、真田家の命運を握っていた城でした。
上田城を一望できる染屋原に秀忠は本陣を置き、砥石城に攻め入ってきました。
秀忠がこれを命令したのは・・・兄・信幸にでした。
秀忠も、信幸が父や弟のように寝返ることを危惧していたからです。

しかし、父・昌幸はそれを予想しており、戦を前に信繁に言いました。
「信幸が砥石城に攻めてきたら退却せよ!!」
砥石城を攻めてきた兄の姿を確認した信繁は、全員退却の命を出します。
戦わずに上田城に戻ってきました。
兄・信幸は、一人も失うことなく砥石城を手に入れて手柄を上げ、砥石城を守ることとなり、上田の戦いに参加することなく済みました。

勝利を確信し、油断していた秀忠・・・これも、昌幸の思惑通り・・・
気の緩んだ秀忠軍の背後から伏兵に襲わせます。
急襲された秀忠軍は大混乱!!命からがら小諸に引き返します。
またもや徳川軍を追い返した真田軍、しかし、関ケ原での西軍の敗軍の知らせが・・・
討ち死に覚悟で戦うつもりでしたが・・・関ケ原の勝利でで勢いに乗った東軍に・・・昌幸・信繁親子は降伏することになるのです。

秀忠軍を撃退させながらも敗者となった真田軍・・・二度の敗北を味わった家康の憎しみは大きく、死罪を命じます。
が・・・それを救ったのは、徳川についていた兄・信幸でした。
信幸の必死に除名嘆願に折れた家康は、昌幸・信繁親子に高野山への追放を命じたのです。
その時、父・昌幸は・・・
「さてもさても口惜しき事かな
 内府(家康)をこそ かくしよふと思ひしに」と、悔しがったといいます。
この積年の恨みは、息子・信繁に受け継がれていくことになります。
和歌山県高野町にある蓮華定院に幽閉されることとなった真田親子・・・
徳川への恨みを胸に暮らします。
父・昌幸54歳、信繁は30歳・・・家臣はわずか16人でした。
高野山の麓の九度山に移送されたのちも暮らしは苦しく頼りは兄・信幸の仕送りだけでした。
しかし、江戸時代の歴史書によると・・・
信繁はこの頃、父から兵法を学び、戦のことは忘れることはありませんでした。
武将としての意地と誇りは捨てていなかった信繁・・・
しかし、兄には・・・
「長年の蟄居生活でくたびれ者になってしまった」
幽閉されてから10年あまり・・・赦免の嘆願もかなわないまま1611年6月4日に父・昌幸が亡くなります。
家臣も二人となり・・・信繁も意気消沈・・・
この九度山での生活は14年にも及ぶこととなります。
長くつらい時間・・・すでに40歳を過ぎていました。
そんな信繁に待ち焦がれていた豊臣の使者が・・・!!

「参戦せよ!!戦うは家康!!」

それが命を落とすこととなる大坂の陣でした。


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日本の文化に革命を起こしたのは古田織部。
”へうげもの”と呼ばれ、一世を風靡しました。
天下を目指す信長、秀吉、家康に仕えます。

織部が人生最大の選択をしたのは・・・大坂の陣の直前でした。

古田織部は、岐阜県美濃国山口城主の子として生まれました。
濃尾平野の広がる・・・戦国時代には、天下をめざし武将たちが闘っていた場所で、代々織田家に仕えていました。
織部は、桶狭間の戦いで勢いに乗る信長の直属の家臣団に加えられました。
信長が天下統一をめざし、中国を攻略しようとしていた頃・・・腹心・荒木村重が謀反を起こします。
ここで信長は、荒木の右腕・中川清秀のもとに織部を送り込みます。
調略のために・・・!!
織部は見事、中川を説得・・・信長の危機を救います。

武将としての能力としては、刀で手柄を立てるような記録はなく、説得工作・・・調略、事前の裏工作に長けていたようです。
そんな彼を表舞台に・・・!!
数寄と呼ばれた茶の湯です。
死と隣り合わせの生活をしている武将たちには、現実を忘れることのできる唯一の世界でした。
その流行と共に、中国伝来の貴重な茶道具は、一国に匹敵るる価値を持って行きます。
それにいち早く注目したのは信長。。。
名物狩りと呼ばれ、高価な唐物を買い集め、褒章として家臣たちに与えていきます。
家臣たちを統制し、士気を鼓舞するために、茶の湯を利用し始めたのです。=茶の湯御政道。

この茶道として頭角を現していたのが千利休。
織部の数寄の師匠となって、多大な影響を与えました。
利休は信長亡き後、秀吉のブレーンとなり、一大イベントを仕掛けていきます。
黄金の茶室を作って後押しする傍ら・・・もう一つの美・・・侘びの世界を追求し始めます。

利休に傾倒していた織部は、ここで数寄の才能を発揮していきます。
侘びとは全く違うもの・・・

yaburebukuro
織部愛用の茶道具・・・「水差し・破袋」
ここに、強く反映されています。
”大きなひび割れも、一種の趣・・・”
傷のない茶碗も、一旦割ってつなぎ合わせる・・・「十文字」。。。
ゆがんだ茶碗・・・
ひょうきんな織部の美意識は、新しい流行となっていきます。
完全な茶碗は物足りないと嫌い、新しい美を追求していきます。

1591年・・・天下人となった秀吉が、独自の美を追求する利休と対立し・・・利休切腹。
命乞いをすることもなく死への旅路に向かう利休・・・

織部は、細川忠行と共に利休を見送りました。
織部は利休の死後、秀吉に取り立てられていきます。
秀吉のお伽衆に抜擢、”数寄の和尚”に任命され、才能を発揮していきます。

織部焼き・・・今までとはまったっく違う斬新なデザインと絵付け・・・
日常的な食器まで流行っていたようです。
傾奇者が出てきていたこの時代、今までの概念をぶち破ろうよいう意識が高まってきていました。
織部の数寄はその時代に合っていたようです。
慶長時代に生きた織部は、慶長の息吹がエネルギーの原点となっていたようです。
常に面白くなければ・・・!!これまでにない画期的なものを・・・!!

ひょうげを武器に新しい価値観をもたらした織部は、数寄の天下人となっていきます。
織部による美の革新・・・
東北の雄・伊達政宗、豊臣家重臣・浅野長政、信長の実弟・織田有楽、豊臣秀頼、毛利秀元、黒田如水・・・茶会を通じて、全国の武将たちとのネットワークが広がっていきます。

そのネットワークに目をつけたのが天下を狙う徳川家康です。
関ヶ原の戦いを前に、根回しをしていたのでした。

常陸の佐竹義宣は、石田三成と親しくその動向に注意を払う必要がありました。
織部を佐竹のもとに送り込み・・・茶の湯で織部と師弟関係にあった佐竹は、師の説得を受け入れて家康に人質を差し出すのです。
こうして家康は、織部を使って説得に成功し・・・関ヶ原に勝利していきます。
家康自身が数寄にのめり込むことはありませんでしたが、その力を十分に知っていたのです。

豊臣から徳川へ・・・時代が大きく動きます。
江戸幕府をひらいた家康は、その基礎を盤石なものにしていくために、織部を利用していきます。
織部は、秀忠の茶の湯の指南役となり、秀忠と諸大名との茶会を仕切って。。。
徳川政権の内部へと入り込んでいく織部・・・確固たる地位を築き上げていきます。
数寄の道に生きたい・・・しかし、あまりに忙しく・・・それもできなくなってきました。

1611年、家康は秀忠を江戸に置いたまま、京都・二条城を拠点に豊臣家弱体に進んでいきます。
二条城に諸大名を集め・・・誓詞を書かせたのです。
”反逆の企てあるべからず”と、幕府の命令に背かないように・・・!!
豊臣家と徳川家の衝突は、もう避けられなくなっていました。

織部はこの頃、息子・九郎八を豊臣秀頼の小姓として仕えさせていました。
身の安定のために徳川につくか?豊臣に尽くすのか?
織部は70歳となっていました。

①徳川方につくか??
生き残れるものの、自分のやりたい数寄は出来ない・・・!!

②豊臣方につくか??
もともと抜擢してくれたのは秀吉。。。
おまけに秀頼の小姓は息子。。。
大恩に報いる道ではないのか・・・??

aooribe織部の屋敷から発掘された「青織部角皿」。
これには、豊臣への思い・・・丁寧な筆使いで桐の文様が書かれていました。

織部はこの皿に、豊臣家の繁栄を願っていたのでしょうか??

③和平交渉策
当時大坂城には、織田有楽、片桐且元ら数寄を通じて交流を深める重臣たちがいました。

そして、秀頼の妻は秀忠の娘。。。
人間関係を生かすという策です。

両家による天下・・・新しい世界を作る・・・??


1612年8月、織部は江戸城に赴きます。
二代将軍・秀忠との接見に臨みます。
そこに伴ったのは、数寄の盟友・片桐且元でした。

片桐は、秀頼の守役のひとりで、豊臣家の重臣。徳川とのパイプ役を担っていました。
第三の道・和平交渉をしようとしていたようです。
7か月に及び江戸に滞在し、秀忠や幕閣達と茶会を行います。
推測されるのは、和平のための根回し。。。
しかし、織部の和平交渉は挫折。
秀吉が建立した方広寺の鐘に刻まれた文字が問題・・・「国家安康」に、家康がケチをつけたのです。
方広寺鐘銘事件・・・鐘銘を起草した清韓禅師は蟄居謹慎を命じられました。

言いがかりとも取れる家康の行動に・・・
なんと、織部は、清韓禅師を茶会に招いてもてなしたのです。
茶の湯に権威や権力は関係ない・・・家康の怒りを恐れることなく、茶人としての信念を貫いたのだろうか・・・??

豊臣家は大坂城内に浪人を集め・・・徳川と対決の姿勢を見せていました。
方広寺鐘銘事件から4か月後・・・大坂の陣が勃発!!
1615年、大坂城落城!!豊臣家は滅亡します。


時を同じくして、織部は幽閉されていました。
処罰の内容は、大坂方との内通です。
大坂城落城からひと月後・・・織部は息子と共に切腹を命じられます。
事件の真相は明らかではありませんが、一切の弁明をしなかったと伝えられています。
破調の美を世に刻みつけた古田織部。
6月11日・・・その生涯を閉じたのです。


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